the view from nowhere : 2008-07-30 (Wed)

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平成二十年七月三十日
「何う」は「どう」であつて「だう」ではないのだけれども、正かな派にすら「だうも」なんて書いてゐる人がゐたりする。何なのだらう。

なぜ、だう、と書いてゐるのか、過去にかいたものを以下にまとめて引いておく。

岡島昭浩「旧仮名遣変換について」(http://kuzan.f-edu.fukui-u.ac.jp/zatu/qkana.txt)に教へられて、柳田征司「『ドウ』(如何)の成立」(「国語と国文学」第55巻第5号〔通巻651号〕、昭和53年5月特集号「日本語の語彙」、pp.79-96.)を読む。

  1. 「カク」(斯)がウ音便を起して「カウ」となり、更にそれがオ段開長音化した。
  2. そのオ段開長音形に引かれて、「サ」(然)がオ段開長音化した。
  3. こうして出来上がったオ段開長音「カウ」「サウ」に対して、体系の空白をうめる形で不定称が産み出されて、『ドウ』が成立した。

といふことで、開長音なら仮名遣は「ダウ」になる訳だけど、ドレ・ドコ・ドチ・ドノ→ドウという横からの力が働いて合長音形で成立した可能性もあるみたい。開合のこととか、キリシタン資料のこととか勉強する必要があるなあ。

旧仮名遣変換については、現在は、http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/zatu/qkana.txthttp://www.ne.jp/asahi/nihongo/okajima/zatu/qkana.txtにある。

永田論文は、歴史的仮名遣なのだけど、最う/何うを、まう/だうと書いてゐるなあ。まうについては、濱田敦が「ま」(「いま」の「ま」)の長呼で、まう、ではないかとどこかで書いてゐたやうに記憶するほか、工藤力男も山田俊雄、日本のことばと古辞書への書評で、名語記をひいて、まう、ではなかいかと書いてゐた。――古代の和語の語中末には音便によらない母音音節が存しないという原則に従うと、「もう」は中世以後に忽然と出現した語ということにならないだろうか。半世紀近い昔、著者も編纂に加わった『新潮国語辞典現代語・古代語』の「もう」の項には、歴史的仮名遣を「まう」とする説がある、としている。その「まう」は、「いま」から語頭音が落ちた「ま」を長呼した語かと思われる。右の辞典にも、「ま」は「いま」の約か、とあった。ならば、『日葡辞書』の"Mŏfaya"、『名語記』巻二の「イマハトイフヘキイイヒケチハカリイヘル也」(43オ)を傍証に、歴史的仮名遣で書くなら「まう」がふさわしいのではないか。現代語に残る「もはや」は「いまは早」の崩れたもので、世上によく見る「最早」は論外の当て字だ、わたしはそう考える。(p.172)――だうについては、山田忠雄、北原保雄、加藤正信、柳田征司が、だうではないかとしてゐることは、室山敏昭、国語学会研究発表会発表要旨 鳥取県地方方言の情態副詞「ダーニー」の由来に簡潔にまとまつてゐる(最うも開合の区別を存する方言のはうから解明できないのかなあ)。

日本語と韓国語の、331 名前:娜々志娑无 ◆NcNEDmUA 投稿日:2001/10/02(火) 14:10 ID:.Qu4jOhQの投稿をみると、『講座方言学』の『中国四国地方の方言』にも、同様のことがかかれてゐるみたい。

九大のIRで語文研究誌がいくつか見られるのに気がついた。迫野虔徳、指示詞におけるコソアド体系の整備を見て、最近不定詞「ドー」の仮名遣を「だう」にしてゐたのだけれど、「どう」のはうがいいのかなあ、と思ひもしたのだけれど、結局のところはよくわからない。

以前、歴史的仮名遣をフランケンシュタインの怪物みたいとかいたことについて、鳩笛雑記帳で疑義を呈されたことがあつたのだけれど、こんなに種種の資料をよせあつめても、文献主義的には仮名遣が決定しづらいのをそんな風に感じたのでした。

けふの買物

東京少年
小林信彦・新潮文庫

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