一九九七年九月二二日 第一刷発行のままだつた。10年前かあ。
解読文は省略。尊経閣本の本文は、「文中には無理な書き方の所が少なからずあ」(山田孝雄)り、文章、言語資料というよりは、「東博本(観智院本)のような漢字片仮名交り文で書かれた一本から漢字を集めた」(馬淵和夫)だけのものに過ぎず、この本文から「わかることは、極端にいへば漢字のならび方、漢字の用字範囲、漢字の総量、であって、それが、どんな文章の表記であるかは、読者の裁量によって、如何やうにもなるといふ体のもの」(山田俊雄)と見られている。従ってその本文価値も「漢文にもあらず、和文にもあらず、東寺本(観智院本)の如きものが無くては容易に読み下すべくも無い」(山田孝雄)、「訓点も何もないので、如何やうに訓ずるかは、或意味で自由である」(山田俊雄)、「漢字列としては決定してゐても、言語としては不確定であり、動揺する可能の多いものである」(同)、「ただ漢字を並べただけで、おそらく一定の読みは期待できないものであろう」(馬淵和夫)、という程度に評されている。しかし一方で、「中に多少の送り仮名や、返読点・句読点を伴う場合もあり、幾分かは動かぬ読みを決定し得るところも存する」(小泉弘)とした上で、高橋貞一(一九七一)が、観智院本を参照しつつ試みに「訓読文を示された業績は、わが国最初の労作として、後学に益するところ誠に多大なもの」と称揚し、その訓読文は、「観智院旧蔵本の文体に近いものになっている」が尊経閣本は「関戸家本(東大寺切)に近い関係が認められるので、もっと和文風な修正の加わった訓読文とすべき」(小泉弘)であると、尊経閣本のあるべき文としての読み、確定した言語資料としての形態の存在を当然のこととする見解もある。
しかしこれらの考え方には古典遺産の研究者が最初に取り組むべき諸本研究(Text‐Chronology)のスタンスが欠落している。古文書や古記録ならばその読みの決定が、そのままその時代の言語資料として定位されるが、『三宝絵』の言語資料としての重要性は、あくまで一〇世紀末葉の和文体としてのそれである。本邦で一九世紀まで行われていた書き言葉に 1 訓読文体・和漢混淆文、 2 王朝和文体、 3 文書・候文体があり、これらが現在では一〇世紀から一二世紀にかけて時代と位相を異にしつつ定位された書き言葉であったろうことは概ね推量できるようになってきている。『三宝絵』は王朝和文体の書き言葉が確立する直前頃の言語を基礎にした書き言葉であり、一二世紀前半・一三世紀前半・一三世紀後半の三様の書本が現在に残されているのである。諸本編年の手法により一一世紀に溯る、より原本に近い本文形態を復元することも不可能ではない。一旦仮名部分を失った上で「訓点」が加えられた尊経閣本の本文の読みを、「訓点による読みは動かしがたい」として決定してゆけば、そこに作り挙げられたものは一三世紀後半の古典享受層によって古典学習・漢文訓読の場で用いられていた、九世紀頃の言語を模範とする「正しい書き言葉」としての擬古文に過ぎなくなるであろう。
大方の予想に反して、諸本研究のスタンスからは、尊経閣本の「読み」は大概を決定出来るのである。もちろん残存する諸本の多いほど遡源は容易であるから、三本揃っている方が良い。ここでは中巻第十二話(大和国山村郷女)の読みを提示する。
後日、本論考が増成冨久子追悼の意をこめたものであつたことを知つた。このような「解読文」は諸本研究においては、研究して行く過程での作業仮説としてのイメージに過ぎないものであり、研究が進展すれば廃棄されるものである。初学の人に対しては諸本研究の方法論を理解してもらう上で、このイメージを具体化して示すことは教育的効果があるが、これを活字化して公刊し研究者が自己の業績にしてしまうことは、諸本研究には無知無縁の多くの人(含国語学者・国文学者)に大いなる誤解を植え付けるものであるから、厳に謹しむべきである。実際の研究作業では、このイメージを帯して、諸本の本文・字面を直接比較すれば良いので、一々それぞれの解読文を作る必要はない。現在、この作業は大抵 Excel 上の手作業で行われているが、将来かなりの部分がコンピューター処理されるようになるかもしれない。しかし、そのようになったとしても『三宝絵』の諸本研究は三宝絵研究者が個々になすべきことであって、外注・下請けを期待する殿様研究に堕さないよう注意することが肝要である。
右に示した解読文は、尊経関本が依拠したであろう漢字仮名交り文の本の読み下し文をイメージしている。異文を構成しない部分は、取り敢えず、観智院本・東大寺切いずれかの読みを充ててあるが、これは集計処理の段階で消去されるので「本文の確定」をする必要は無い。尊経閣本の独自異文は、仮の読みを与えてある。これは最後まで残されるものであるから、「確定」には慎重を期すべきである(外注・下請けにしたら最早研究の継続は危うい)。 Excel 上で作業をしていれば、三本の語句・字句を対照したデータは容易に作れるし、これが独自異文の読みを確定するのに役立つことは言うまでもない。仮の読みを与えてある、と記したが、実際は Excel 上で集積した三本対照のデータを参考にして、仮の読みを与えたものである。前世紀の末葉頃から、校本・索引の類いは、公刊自体が無為の所業となっており、むしろ研究者白身の手で自分用に作り確保することの方が容易である。この種のものが必要な研究者は、他の人に作らせたり、誰かが作って公刊するのを待ったりすること無く、自分自身で取り組むよう心掛けて欲しいものである。
源氏物語千年紀なのか。
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