なお、杓子定規的官僚政治のも一つの弊は、上からの政策として、厳格な形式で縛ろうとする時、その息苦しさに堪えかねて、抜け道を考え出そうとするものが必ず出て来、その結果、形式そのものが骨抜きになってしまう、そこでまた更に厳格な形式が考え出される、と云う悪循環がくり返されることであろう。その実例は、私どもの日常生活において、例えば、経済政策、交通政策などで、常に経験するところであるが、国字政策の場合も決して例外ではあり得ない。その点でも、特に日本人は、抜け道を見出す天才であるらしい。旧軍隊における要領主義、員数精神もやはり、厳格すぎる形式主義によるものであったこと云うまでもない。例えば、「思ふ」と書くことが許されないので、その代りに「思考する」と書く、と或る老国語学者が、抜け道を見出したことを得々として話されたのを記憶するが、耳なれたオモウを捨てて、より晦渋なシコオスルを採ると云う、語の選択は、「思ふ」として、仮名遣の「形式」を破ったことよりも、はるかに重大な、新しい「国語」政策の精神の踏みにじりであることに思いを致さない、そこにもやはり、明らかな形式主義の臭いがする。比喩が許されるならば、大通りのきびしい交通取締りの結果、大型自動車が小通りをつっ走り、その結果、人命の危険が却って増大する様なものであろう。
歴史文化ライブラリー229;吉川弘文館;1,700円(借覧);四六判;縦組;並製;7+219頁;;ISBN978-4-642-05629-8;
;筑摩書房;(借覧);四六判;縦組;上製;285頁;;ISBN978-4-480-85786-6;
「UP」(9月号)もらふ。
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