所謂形容動詞に就いて

これは嘗て專門家の前で研究的講演に用ひた材料である。今度筆を執るに當り、材料も探し考へも練りなほしたいと思つたが、その暇の得られなかつたことを遺憾に思ふ。

形容動詞の名の初めて見えてゐるのは大槻文彦氏の廣日本文典別記である。が、それは今日用ひてゐるのとは全く意味が違つてゐる。即ち

英語ノAdjectiveハ大抵、名詞ニ冠ラセテ、其形状性質等ヲイフ。我ガ形容詞モ、名詞ノ形状性質等ヲイフハ、相同ジケレドモ、語ノ成立ニ至リテハ、甚ダ相異ナリテ、語尾ニ、變化アリ、法アルコト、動詞ノ如クニシテ、且ノ名詞ノ後ニ居テ、文ノ末ヲモ結ベリ、(羅甸、佛、獨、等ノ形容詞ニハ、變化アリ、且、或ハ、名詞ノ後ニ用ヰルモアリ、然レドモ、共ニ、文ノ末ヲ結ブコトハ無キガ如シ、)サレズ我ガ形容詞ハAtributive Verbトイフベク、直ニ「形容動詞」ト命名セバAdjectiveノ譯語ノ形容詞ト混ゼズシテ可ナラム、トモ考フルナリ。

とある。

今日の意味で形容動詞の名を用ひた最初の人は芳賀矢一先生であらう。先生の中等教科明治文典、卷一第八章に「形容詞の活用附形容動詞」として形容詞中に附説してあつて、

すべて形容詞は第一段の「く」の活用形より動詞のありに連りて

(善) よから よかり よかる よかれ
(惡) あしから あしかり あしかる あしかれ

と活用す。かく活用せる形容詞を形容動詞といふ

「詳に」「明に」「立派に」「慨然と」「滔々と」などは、とよりありに連りて「詳なり」「明なり」「立派なり」「慨然たり」「滔々たり」の如く形容動詞をなす。

(注意)
  • (一)形容動詞の活用は良行變格に同じ。
  • (二)體言の上又は下につくこと普通の形容詞に同じ。
  • (三)「富士山なり」「我志なり」などの如く名詞よりなりに續く場合と混同すべからず。

と説きまた

形容詞(形容動詞を含む)動詞を總稱して用言といふ。

と説きまた卷二第三章に於て

形容動詞はいづれも良行變格と同じく活用するを以て、其役目の分擔も全く良行變格の活用に同じ。これには命令形もあり。

と説いてゐられる。右は明治卅八年三月發行の三版本によつたのであるが、この説は同書の卅七年十二月初版以來のものとおもふ。その後改版の時に多少變つたかは知らぬが、大差なかつた筈と考へる。

芳賀先生が形容動詞を説かれてから、これに學ぶ人が多く、今日では相當廣く行はれてゐるやうである。

この所謂形容動詞を形容詞に攝めて説くことは鈴木朖翁〈明和元年三月三日生/天保八年六月六日死〉の言語四種論からではあるまいか。同書に

用ノ詞、ハタラク詞、活語ナンド古來一ツニ言來レルヲバ今形状アリカタ作用シワザト分チテ二クサノ詞トセルハ終リニ附キテハタラクテニヲハノ本語ニテキレワリタルモジノ第二ノノ韻ナゲト第三ノノ韻ナルトノ差別ナリ、第二ノ韻ナルハノ二ツナリ、ハキラ〳〵・スガ〳〵ナンドノニテ其意シラル、即俗ニ何々シイト云シイノコヽロニテ、其有樣ヲ形容カタドリイヘル詞ナリ、ケシ〈シヅケシ/ハルケシ〉タシ〈ウレタシ/メデタシ〉メカシ〈フルメカシ/オボメカシ〉ナンドノ其類ニテ、高ヒキ・美・惡・悲・樂タグヒノ皆同意ナリ、ハ有リ也、ハアリ〳〵・アデヤカ・アラハル・アキラカノニテ物ニツヾク時ハハブカレ消ユル也、ヲリハヰアリ也、聞ケリ・見タリハキヽアリ・見テアリ也、往ケリ・還レリハユキアリ・カヘリアリ也、カクモジヲ終リニツクル時ハ、本作用シワザノ詞ナルモ、皆其形状アリカタニナル也、サレバノ二モジニテトマル詞ハスベテ皆物事ノ形状ナリ。

といひ、

形状ノ詞ノ終リトハ同韻ナガラ、一ツニハ云ガタカラン歟ト問フニ、答ヘケラク、アリナシトハ反對ノ詞也 又美シ惡シト云モ善カリ・惡シカリト云モ異ナル意ナシ、又漢籍訓カラフミヨミニ何々然タリト云事ハ何々然トアリニテ、即何々ト云ニ同ジ、是等ニテ、二モジノ意ハ異也ナガラ、同ジ趣キナル事ヲ知ルベシ。

といつてある。言語四種論は用言を終止形の韻によつて二分したもので、有り・居り・侍りの如きイ韻で終止する語は、總て形容詞の中に攝めてある。

右の所説で見ると、「何々然たり」も形容詞の中に算へられてゐるやうに思はれるが、このたりはテニヲハと見られてゐたと解すべきものゝやうである。以下この點に就いて少しく勘へて見よう。

言語四種論ではテニヲハを

の五種に別ち、その第五種について

話語ニツケルテニヲハ形状ノ詞ニ二ツ〈シ/リ〉作用ノ詞ニ十二〈ク、グ、ス、ツ、ヅ、ヌ/フ、ブ、ム、ス、ル、ウ〉上ニスデニ云フ○詞ノ跡ヲ承テキレモシ又働キテ下ニツヾキモスル事話語ノ終リノテニヲハノ如クナルアリ、其スワル韻ノ必第二ト第三トニカギル事話語ニ同ジク、其コヽロノ形状ト作用トニワカルヽ事モ大方ハ同ジ。其テニヲハハゴトシベシマシタリナリ セリケリメリサテハラムケムセムテムナムコレ等ナリ、先ゴトシハ活用格ノ第二十七會ノ格ニテ、物事ノ形状ヲ譬フル詞ナリ。次ニベシハコレモ同ジ格ニテ、事ノ状ヲ推ハカリ定ムル詞ナリ。ヨリ下ノ六ハ皆アリ也。タリテアリトアリナリニアリセリシアリナリ。ケリメリハシラネドモ、働ク格上ニ同ジク、其ウヘ事ノサマヲ定メハカル詞ナレバ、ソノハ疑ヒモナク有ナリ(後略)

とあつて、用言の語尾もテニヲハと呼んではゐるが、働くテニヲハとは區別してあるやうである。

さて右テニヲハ第五類に擧げてあるタリナリは完了助動詞指定助動詞であつて、前に何々然タリと擧げてあつた言葉の語尾とは別なものと見てゐたもの、即も何々然タリは形状言と見てゐたものであらうと思はれもするのであるが、同じ鈴木朖の著である活語斷續キレツヾキ譜を見ると形状ノ詞として示してある圖は

截斷言 連體言 連用言 已然言 使令言 將然言

カリ


ケレ
カル
クアリ
ケレ
カレ
カレ カラ

カリ


ケレ
シキ シカル シク
シカリ
シケレ シカレ
シク
シカラ
シク




以上三種であつて、カリはあるが、ナリタリは見えてゐない、これで見ると、鈴木朖は働くテニヲハ(助動詞)としてのナリタリを認めて、形状言の語尾としてのナリタリは認めてゐなかつたもの即ち今日所謂形容動詞のカリ活は認めてゐたが、ナリタリ活は認めてゐなかつたものと考へなければならぬやうに思ふ。

佐藤誠實氏の語學指南〈明治九年十月版權免許/同十二年七月出板〉は全く言語四種論に據つてあるやうで、形状言をク・シ・キ活 シク・シ・シキ活・羅行四段一格第三活の三種に別け、

羅行四段一格第三ノ活トハ二種形状言ヨリ羅行四段一格ニ轉ジテ、カラカリカリカルカレ、 シカラシカリシカリシカルシカルシカレト活クヲ云フ

と説いてある。この羅行四段一格第三ノ活が、所謂形容動詞のカリ活である。而してタリナリはすべて活用助詞と見てゐる點も、言語四種論に學んだものであらう。

堀秀成氏の〈日/本〉語學楷梯〈明治十年六月十九日版權免許〉は志支久ノ活詞(形状言又ハ形容詞ナド云是ナリ)を説き、その轉用圖として

志支久ノ活
ク \
   ㋐ ㋕ラリルレ
シク/

假令バ善クアリト云詞ノト約リテトナリテ、ヨカリトナルガ如シ

と見えてゐるが、それ以上説明はない。ナリタリ動辭ウゴキテニヲハと考へてゐたやうで、畢竟本書も言語四種論をそのまゝ繼承したものに外ならない。

大矢透氏の語格指南〈明治十年一月十七日版權免許/同年八月出板〉に至つて初めてナリタリ活は形状言に加へて説かれてゐる。即ち

形状言ノ活用ニ二種ノ別アリ第一は深く深し深き深けれ空しく空し空しき空しけれト活ラクモノニシテ、所謂くしきしくししきノ活用是ナリ・第二ハ深く深からん深かり深かる深けれ盛に盛ならん盛なり盛なる盛なれト活ラクモノ是ナリ

と説いて活用圖が示されてある。それを見ると、第一種はくしきしくししきの外にけくけしけきがあり、第二種にはカリ活ナリ活タリ活がある。

なほ本書に注意したいとおもふのはカリ活ナリ活タリ活の連用形としてを擧げてゐる點である。けれどもそれに就いての説明は見えてゐない。

三矢重松氏の高等日本文法〈大正十五年十一月刊行/(再版本)〉は形容詞を二類に別ち、その第一類にくしきしくししきの活用をおき(けく・けし・けきの活用は無い)、その第二類にカリナリタリの活用をおいてあることは全く語格指南と同じであるのみならず、カリ活の中止形を缺いてゐる外はナリ活の中止形 タリ活の中止形を認めてゐる點も語格指南と一致してゐる。しかし語格指南と高等日本文法との間に關係があるかどうかは明かでない。

大槻文彦氏の廣日本文典・同別記〈明治卅年/一月刊行〉は次の如く説いてゐる。カリ活に就いては

善かり惡しかりノ用法を形容詞中の一種の活用ノモノトシテ説キタル文典多シ。其説ケル所ありノ活用ヲ複説スルニ過ギズ。贅ナリトイフベシ。ありハ動詞ナレバ命令法・過去・未來等ヲ形作ル。形容詞ニハアラザルナリ

と見え、ナリ活に就いては

又靜なり・明なり・詳なりナドイフなりアリ。コレモ靜に・明に・詳にナドイフ副詞ノ末ナルニ動詞ノありノ約まりてなりトナレルモノナレド、此ノ條ノなりト少シ異ナリ。副詞ノ方ナルハ尋常ノありト同ジク、靜ならしむナド使役ノ助動詞ニモ連ヌベク、又いつよりも今宵の月はさやかなれ秋の夕もたどるばかりに(仲文集)ナド命令法ニモ用ヰラルヽニ、指定ノなりハ然ルコト能ハズ。因ニ云、比况ノ助動詞ノごとしニモごとくなりト連ネテ用ヰルコトアリ。是レモごとくにありノ約ナリ

とあつて、動詞と明言してはないけれども、カリを動詞の語尾と認めたと同じ理由で、このなりも動詞語尾と認めてゐられたとして可いやうに思はれる。

タリ活に就いては助動詞の條に

語源ハとありノ約ニテ、意義ハ亦にてありト指定スル語ナリ。此ノ語ハ名詞ノ下ニノミ付キテ、動詞ニハ付カズ。例ヘバあくれば五日のあかつきに兄人たる人外より來て(蜻蛉日記下ノ下)、住みとげむ庵たるべくも見えなくに(六帖物名)其他父たり・子たる・君たり・臣たるナド常に用ヰル(漢字ニテハ爲父、爲子ナド)。又峨々たり・寂莫たるナドイフモとありノ約ニテコレニ同ジ

とある。峨々寂莫を名詞と見、それに付くたりを指定の助動詞と見てゐられたもので、かりなりのやうに動詞の活用語尾としてのたりは認めてゐられなかつたものゝやうである。

岡澤鉦次郎氏の初等日本文典〈明治卅三年/十一月刊行〉は形状言を二種に別ち、第一種はくしき活用のものを説き、第二種は

形状言ノ連用活ニありソヒテ、熟合シテ一語トナレルモノ「善くあり」の「善かり」トナレルガ如キ

と説き、なりたりはすべて動辭即ち助動詞としてゐられる。言語四種論と同じ見方である。

草野清民氏の日本文法〈明治卅四年/八月刊行〉カリ活に就いて

形容詞ノ活用ニ似テ然ラザルモノアリ

と説き、また良行別格有り居りなどの一類の活用を説きたる條に

形容詞轉活良行別格 此ハ上ニ述ベタル良行別格トハ稍其趣ヲ異ニスル者ニシテ多かり・善かり・惡しかりナドノ詞ノ活用法ヲイフ例ヘバ

多かり からず かりき かる事 れども
善かり

ト活用シ、語尾ノノら・る・れト變ズル次第ハ總テ普通ノ良行別格ト一樣ナレドモ、どもノ上ニ連ナルトキ、かれトモけれトモナルヲ殊ナル點トス。

コノかれけれノ二ツハ精シクイヘバ活用ニアラズ。かれノ音便ニテけれトナレルナリ。然レドモ亦活用ト名ヅケ置クナリ

と説き、また別に不完全動詞の目を設け、カリ活ナリ活タリ活に就いて委しく説いてゐられる。少しく長くはあるけれども、左に引用する。

不完全動詞

ソノ詞ノミニヲハハ決シテ單獨ニ用ヰラルヽコトナク、他ノ詞ノ下ニ直ニ連リテ、其ノ連合ノ上ニテ、一個ノ完全ナル意義ヲ有スル複合動詞トナルモノナリ。コノ詞ハなり・たり・かりノ三ツナリ(助動詞ニモ同形ノなり、たりアレド全ク差ヘレバ混ズベカラズ)

(一)なり・たり コレラノ上ニ名詞ヲ添ヘテ複合動詞ヲ作ル。例ヘバ

コノ種ノなりたりハ良行別格ニ活用ス。なりにありたりとありノ略合シタルナリ。コノ詞ヲ複合詞ト見做ス理由ハ、盛なりノ如ク、上ノ名詞ヲ音便ニ呼ビテ複合詞タル性格ヲ有スル故ナリ。

(二)動詞活用表第二階ノ名詞ト同樣ニ見做サルヽ詞ノ下ニ添ハル。例ヘバ

(一)(二)ノ場合ニハ複合動詞トイヒテヨキコトヽ、名詞或ハ擬名詞ト不完全動詞ト單ニ連レルマデノコトヽ見做シテ然ルベキコトヽアリ。例ヘバ

ノ文章中、美麗なるノ方ハ一個ノ複合動詞ト見ル方ヨケレド、花なりノ方ハ、トイフ名詞トなりトイフ助詞ナリ

(三)形容詞ノ語身及ビ物事ノ有樣ヲ呼ブニ用ヰル一種ノ不完全ナル詞ニテ、其下ニやからかナル音ヲ有スル不完全形容詞ノ下ニ添ヘテ、複合動詞ヲ作ル例、

コノ細トイフ詞ハ、俗ニイフく・し・きノ活用ヲナス詞故ニ、形容詞ノ語身ト見做シタルナリ。但シ其下方ニアレバ、ヲ有スル不完全形容詞ノ中ニ入ルベキカトモ思ハル、モシ此類ノ形容詞身ニ、なりヲ添フルモノ愈ナシトナラバ、コレハ形容詞身ト見ナサヌ方然ルベキカ。殊ニ形容詞身ハ名詞的ノ詞トナルガ多ケレバ、稍疑ハシキトコロモアルナリ

コノなりモ良行別格ニ活用ス

コレラノ詞ヲ複合詞トスル理由ハ、大いなりノ如キハ、ヲ音便ニテトイヒ、全ク複合詞ノ資格ヲ有スルノミナラズ、豊か詳らか等ノ語ハ、一ノ完全ナル語ヲナサヌヲ以テ、合併ノ上ニテ一ノ詞ト見ナス方、至當ナルベシ。

(四)形容詞ノ語身又ハ形容詞ノ終ニ連ナル。例ヘバ

コレハ甚ダ大切ナル複合詞ナレバ、能ク詳説スベシ。此類ノ詞ハ形容詞ヲ變ジテ動詞トスルタメニ、カリニ連ナルモノニテ、形容詞ハ事物ノ有樣ヲイフヲ主トシ、種々ノ助詞ニ連絡スルコト、動詞ノゴトク便利ナラズ。故ニ其關係ヲ輕便ニセンタメニ、形容詞ノ語身又ハ形容詞ノ下ニかりヲ添フ。コレハ形容詞ノ語尾ニ、ヲ有スル形アレバ、其下ニありナル良行別格言ヲ添ヘ、コノくありヲ音便ニテかりトシタルナリ。カクテ形容詞ヨリ轉ジタル動詞ノ出來タル以上ハ……かりトイフ複動詞ハ良行別格ノ活用ヲナスナリ。即チ

多かり。
晩かり。
空しかり。
らず りき るべし る事 れども

ト活用ス。之ヲ活用表ニ編入スレバ、其形ハ

第一階 第二階 第三階 第四階 第五階
多かり。

コノ第三階ハ普通ノ文章ノ結語トナルコトアリ。コノ時ハ下ニ助詞ヲ要スルイヒ方ニ非ルガ故ニ、動詞ノ形ニテモヨク、本來ノ形容詞ノ形ニテモ差支ナシ。故ニ文章ノ終ニ來ル時ハ多し、トイフ形容詞ヲ用ヰルヲヨシトス。古言ニハ此階ヲ以テ文ヲ終リタル例ハアレドモ、

かくてこの間に事多かり。(土佐日記/正月七日) かゝる事多くありぬ(同上/正月十四日)

今日ノ文章ニハ、カク事々シキ語法ヲ用ヰズシテ、多しニテ文ヲ切ルコド穩當ナリ。第四階ハ名詞ノ上ニ來ルコトヲ得ルナリ。古言ニハコレモ例多キコトニテ、

女郎花多かる野邊に宿りせばあやなくあだの名をや立ちなん(古今集四)

ナドモイヘド、コレモ今言ニハ多き野邊トイフコトノアルニ從フベシ。此ハ形容詞ノ下ニ名詞ノ來ル格ニナラヘルナリ。形容詞ヨリ直ニ名詞ニ連ナル方法ヲ取ルハ近路ニテ輕便ナレドモ、コレヲ一度動詞トナシ、更ニ名詞ニ連ヌルハ迂遠ナリ。故ニ此法ハ今日用ヰザルヲヨシトス。

第五階ハども等ニ連ナルコト他ノ動詞ニ同ジク、

そのうたふ歌云々これならず多かれど書かず(土佐日記/正月十日)

ナドアレド、コノかれハ音便ニテけれトイフコト多ク、近來トナリテハかれノ方次第ニ廢絶セントスル傾アリ。

サレバ此第五階ハけれトスル方穩當ナルベク、其表ヲ示サバ

第一階 第二階 第三階 第四階 第五階
多かり けれ

トナルナリ。猶形容詞ノ條ヲ見テ、考ヘ合スベシ。

久しかれあだにちるなと櫻花かめにさせれど移ろひにけり(後撰集三)

かくて複合動詞ニ六種ノ別アレドモ、其活用ハ悉ク最後ノ動詞ノ活用ニ從フ。例ヘバ

眞似す。 せず しき すべし する事 すれども
平身低頭す。
釣す。
善くす。
先んず。 ぜず じき ずべし ずる事 ずれども
腹立つ。 べし つる つれ ども
薙ぎ倒す。
大なり。

岡田正美氏の〈解説/批評〉日本文典〈明治卅五年/二月刊行〉は特殊なる立場から動詞を單動詞・合動詞・複動詞の三種に分けて説き、合動詞の第六に

副詞と助動詞とより成れるものにては

と例示し、また形容詞を單形容詞・合形容詞の二種に分けて説き、

外來語となるとより成れるものにては

と例示し、その第十に

外來語とたるとより成れるものにては

と例示してゐられる。これで見ると同一語でも述語の如く用ひられた場合は合動詞となり、形容詞的修飾語の如く用ひられた場合は合形容詞と名づけようとせられたものゝやうである。但しそれに就いての説明も見當らず、且つカリ活用に就いての所見も無いやうである。

和田萬吉氏の日本文典講義〈明治卅八年/十二月刊行〉にはラ行變格の動詞の條に

此中有りは四段活用の動詞の下に來り、之と熟して特別の語を作ることあり。此かゝる場合には、上なる動詞(四段活用)は諸行の第二段の音より下なる有りに接續すること、行きあり入りありの如くなるが、此く接する際に音韻の變轉(所謂約韻)を來して行きあり行けりとなり、入りあり入れりとなる。而して其活用は一に普通のラ行變格に同じ。此類を後者より區別する爲に、ラ行變格の第一別格と稱す。

又有りは形容詞の下に來り、之と熟して特別の語を作ることあり。此場合には上なる形容詞は淺く樂しくの如く、必ずの語尾より下なる有りに接續すること、淺くあり樂しくありの如くなるが、此際にも亦音韻の變轉(所謂省韻)を來して淺くあり淺かりとなり、樂しくあり樂しかりとなる。而して其活用は全く普通のラ行變格に同じ。此類を後者より區別する爲にラ行變格の第二別格といふ。

といつてゐられる。即ちカリ活は動詞の活用と見て居られるのである。而してナリ活タリ活のナリタリは指定助動詞として説いてゐられる。

山田孝雄氏の日本文法論〈明治四十一/年九月刊行〉は形式用言と稱する品詞の一類を設け、これを

一、形式形容詞 ごとし
二、形式動詞 す  おはす
三、純粹形式用言 あり あり
かり
なり
たり

の三種に分ち、その第三種中のかりは形容詞連用形ありとの、なりは助詞ありとの、たりは助詞ありとの熟合したものと説いてゐられる。

このかりはカリ活に相當するものであるが、なりたりとはそれ〴〵ナリ活と指定助動詞のナリと、またタリ活と指定助動詞タリとを含めて説いてゐられるものゝやうで、畢竟氏の新設せられた形式用言の立場から來た見解であらう。

吉岡郷甫氏の〈文語/口語〉對照語法〈明治四十五年/七月刊行〉は全然芳賀先生の説に從つてゐられるやうである。

保科孝一先生の大正日本文法は動詞を正格活用動詞・變格活用動詞・形容動詞の三種に別ち、形容動詞の條にナリ活・タリ活を擧げて

形容動詞は良行變格活用の動詞とほゞ同樣に活用する

と説き形容詞中止形の條にカリ活を擧げて

これは形容動詞の一種である

と説いてゐられる。但しこの説は第二修正版に據つたもので、その後變更せられた點があるかも知らぬが、今手許にあるまゝに第二修正版の説を紹介したまでゝ、別に他意のあるわけではない。

以上擧げたところで、從來説かれてゐる形容動詞に關する説が盡きたといふのではないが、その主なものはほゞこれを聽くことを得たとおもふ。中には餘りくだ〳〵しいと思はれるまでに本文を引用したのもあるが、それは一々これらの原書にあたることの出來ない事情の下にある讀者もあらうかと思つたからである。

なほ引用した講説に就いて細評を試みるのが順序かとは思ふが、文法上の諸説は網の目の如く、所説の全般に交渉を持つてゐるものであるので、その一部だけを批評して濟むわけのものでもないから、今はすべてこれを省略して直に卑見に急がうと思ふ。


前賢の諸説を見渡したところ、問題は次の三種に要約せられるやうである。少くとも形容動詞説を檢討ずるのにはこの三問題を解決すれば足りるやうに思ふ。

以上

一 ナリ活タリ活のナリタリは助動詞か活用語尾か。

この問題の解決には先づ吉岡氏の〈文語/口語〉對照語法の説を引用しなければならぬ。曰く

第二種形容動詞例へば靜かなり賑かだ(=です)の如きものを名詞に指定の附いたもの 例へば人なり毛物だ(=です)の如きものと相混じないやうにしなければなりません。靜か賑かの如きものはなりです等の語があつて始めて語を成すべきもので、隨つて等の助詞を附けることが出來ませぬけれども、毛物の如きものは、始めから名詞でありますから、自由にこれを附けることが出來ます。又人なり毛物だ(=です)等は雄々しき人なり熱帶の毛物だ(=です)の如く體言を限定するものを附けることが出來ますけれども、靜かなり賑かだ(=です)は甚だ靜かなり大層賑かだ(=です)の如く、副詞を附けることが出來ますけれども、人なり毛物だ(=です)等はこれを附けることは出來ませぬ。此等で以ても其の區別を辨へることが出來るのであります。

吉岡氏のこの説は正しいとおもふ。人なりはまだ一語になつてゐないから、即ちなりと連續してゐるだけで結合してゐないから、だけにかゝる形容詞的修飾語を加へることが出來るのである。若しなりとが結合して一語となつてゐれば、春めく大人らし學者ぶるなどと同じく用言化してゐるわけだから、若し修飾語が加へられるならば、副詞的なものでなければならぬ筈である。

中には次のやうな問を發する人があるかも知れぬ。「靜か賑かは副詞である。だから等の助詞を附けることの出來ないのに不思議はない。また靜か賑かが副詞だから、副詞に附く修飾語は當然副詞的である筈である。それ故靜かなり賑かだが一語となつてゐなくても――人なり毛物だに於てなり毛物とが連續してゐるだけで一語に結合してゐないやうに、靜かなり賑かとが一語に結合してゐなくても――副詞的修飾語が加はるべきであつて、何もさうした事實が一語になつてゐるといふことを證據だてるものではないでないか」と。これに對する答は草野氏日本文法に

豊か詳らか等ノ語ハ、一ノ完全ナル語ヲナサヌテ以テ、合併ノ上ニテ一ノ詞ト見ナス方至當ナルベシ。

とあるのや、吉岡氏が

靜か賑かの如きものはなりです等の語があつて、始めて語をなすべきもので

といつてゐられるのを借りればよいのであるが、なほ左に少しく敷衍して見よう。

右の問に答へるには、自然靜かに賑かにが副詞か、靜か賑かが副詞かの問題が解決せられなければなるまい。靜か賑かを副詞と見る人は、を助詞或は接尾語と見るのである。が、此の問題に答ヘるのは極めて簡單である――靜か賑かといふ語はそれ自體で獨立に使はれることがあるだらうか。いつでも靜かに賑かにといふ形即ちに導かれた形で用ひられてゐるではないか。尤もこの語の類には遙かへだゝつて」とか「つく〴〵見てゐる」のやうに、に導かれることなくして使はれる場合のあるものも無いではないが、それらも歴史的に考へて、後世が落脱した第二次的な略體であつて、やはり遙かにつく〴〵とを本體と認めなければならない。靜かに賑かになどにはまだその略體は發達してゐないから、必ず等他の語に結合した形、即ち靜かに靜かさ靜かだ等の形でなければ使はれないのである。さうした形でなければ用ひられないとすれば、その結合した形を一單語として認めなければならないではないか。ひとつ・ふたつは數詞である。が、語尾のは明かに接尾語であり、ひとふたは語幹であり、は語根である。けれども、なしにそれらの語が用ひられることはないから、吾人はひとつふたつを一語として、それらを數詞と呼んでゐるのである。靜かに 賑かにの成立を解剖すれば語根は乃至はしづにぎであり、語幹はしづかにぎやかであり、それにが結びついたものではあるが、その形でなければ使はれない以上、それらを二語なり三語なりに分解することは、文法では認められる筈のものでない。若しそれが別けられなければならないならば、あらゆるあらゆるとに別けらるべきであるし、おそらくおそらとに別けられなければなるまい。あらゆるおそらくといふ形でなければ用ひられないから、あらゆるが接頭語であるし、おそらくが副詞であるやうに、靜かに賑かにが一語でなければならない。即ち靜か賑かは語幹であつて一語ではなく、またもこの場合語尾であつて、一語ではないのである。で、靜か副詞助副とか賑か副詞助詞とか解剖せらるべきものではなく、靜かに副詞賑かに副詞と解剖せらるべきものである。文法は語の成立に就いて講究する學問ではなく、成語について講究する學問であるからである。

かうしたわけで靜かなり賑かだは完全な一語であり、このなりは當然助動詞でなくて、語尾である。

二 靜かなり・平然たり等が一語であるならば、これら所謂形容動詞は、形容詞と見るベきか、動詞と見るべきか

この問題につきては前に引用した廣日本文典別記の説をもう一度借用してその答に代へたいと思ふ。

善かり惡しかりノ用法ヲ、形容詞中ノ一種ノ活用ノモノトシテ説キタル文典多シ。其説ケル所ありノ活用ヲ複説スルニ過ギズ。贅ナリトイフベシ。ありハ動詞ナレバ、命令法過去未來等ヲ形作ル。形容詞ニハアラザルナリ。

この説に傾聽すべきである。問題はこれで完全に解決されてゐる。文法は形態の學問である。言語形態とその意義との交渉が不完全だから、餘儀なく品詞の分類に職能や意味を參酌するのではあるけれども、形態上の約束が完全に動詞である上は、無論動詞でなければならぬ。

右の例文に於ける富む貧しとは語彙的意義ば相反してゐるけれども、文法的に見れば、共に一種の状態を表はしてゐるのであつて、全く同範疇に屬すべきものであり、また文法的職能も全然同じことである

右の有り無しとに就いても同樣なことが云へよう。而して富む有りとが動詞で、貧し無しとが形容詞であるのは、その形態的約束が、一は動詞的であり、一は形容詞的であるからである。

形容動詞を立てゝゐる諸先輩が「形容動詞の活容はラ變に同じ」というてゐられる。この立言は形容動詞がラ變の動詞であることを認定する所以であつて、しかく説かるゝ以上は、形容動詞が形容詞中に置かれる理由は無いのである。

かくて所謂形容動詞は明かに動詞である。

三 所謂形容動詞は一品詞として動詞・形容詞より獨立せしむべきか

所謂形容動詞が動詞であり、ラ變に活用するものであつて見れば、それは明かにラ變の動詞であつて形容動詞として一品詞に立てる理由は無くなると思ふ。その活用圖を見ると

未然 連用
終止
連體 已然
命令
よから よかり よかる よかれ
詳なら 詳なり 詳なる 詳なれ

とある。然らばその活用する部分は、最後のラ・リ・ル・レの音ばかりである。即ちその活用ラ變に同じと説かれてゐる所以であらうが、それならばカリ活・ナリ活・タリ活ではなくして一樣にラ變活用といふべきである。活用變化する部分がそれ〴〵カリナリタリの二音ではないからである。

かやうに完全なラ變の動詞であつて見れば、それをたゞ意義の上から特にこの一類のみ形容動詞として一品詞に説くべぎ理由はない。若しその理由があるならば、動詞を總べて意義の上から再分類して、動作動詞・状態動詞・存在動詞・形容動詞などいふ品目の下にそれ〴〵品詞に立てられなければならない筈ではあるまいか。さうした分類が文法上何の必要があらう。

されば從來説かれてあるやうに、その活用がラ變に同じことであるならば形容動詞といふ品詞を新に設けなければならぬ理由を發見しかねるのである。しかも形容動詞が可なり廣く行はれつゝあるには、何か事情があるのではあるまいか。再びその活用に關する調査を試みる。

廣日本文典に

其語尾ノ活用ハ粗々「あり」ニ同ジ

とあり、大正日本文法に

形容動詞は良行變格活用の動詞とほゞ同樣に活用する。

とある。「ほゞ」とあるのは全然同一ではないことを認めでゐらるゝからであらう。その同一ならざる點の性質によつては、形容動詞をラ變の動詞から引放して、別に一品詞に立てなければならないやうになるかも知れぬ。然しその點は餘り重大視されてゐなかつたものゝやうで、從來一言もそれに就いての所見は見當らない。それ故今試にその相違について調査して見ると、次のやうな事實が發見される。

第一、三矢氏高等日本文法に

ナリタリカリ活はすべて動詞に凖すべきも、第一變化には受身可能のつかず。同活第二變化には助動詞完了の稀に添ふことあり。降りつゝありつゝつゝたりたしの助動詞も附くことなし。ナリ活の・タリ活のを除く外三活ともに助辭してにつゞかず。第三變化には禁止の添ふことなきなど、動詞との差を見るべし

とあるとほり、助辭類の連續上にラ變動詞との相違が見られる。

第二、所謂形容動詞には中止形が無いが、ラ變の動詞には他のすべての動詞・形容詞と同じく中止形を有つてゐる。

かうして見ると、「形容動詞の活用はラ鍵に同じ」とは云はれないやうであり、「ほゞ」の意義が相當重大性を有つてゐるやうであるから、形容動詞はラ變動詞から獨立させて一品詞に立てなければならないやうに思はれるので右二條に就いて聊か調査を進めて見よう。

「第一」の事實に就いて

言語の使用上には細かく調べて見ると、いろ〳〵特種な慣例もあるやうである。

過去の助動詞シカがカ變サ變の動詞に承接するのには特殊の慣例があつて、他の動詞に於けるとは違つてゐる。

完了の助動詞のとはそれ〴〵承接上に慣例があつて一般的に規則立てることが出來ない。

咏嘆の助動詞ナリはラ變の動詞には承接しない。

ナリタリは共に指定の助動詞であるが、ナリは使役の助動詞に承接することが出來ないが、タリはそれが出來る。

明に斷然とは共に副詞として説かれてゐる言葉であるが、明にはそれが中止に用ひられるとき明にてとも明にしてとも云はれるのであるが、斷然と斷然としてとは云はれるが、斷然とてとは云はれない

かうして同種の言葉でありながら助辭承接上に慣例があつて必ずしも同一ではないのである。

また次のやうな事實もある。

佐行變格の(爲)と良行變格のあり(有)とは他の動詞の連用法を承けず。即ち他の動詞と複合して一熟語をなすことなきなり。故に狩りす・隔てあり等の場合の狩り隔ては連用法にあらずして名詞法なり〈金澤庄三郎氏/日本文法論〉

右のとほり有りが他の動詞の連用法を承けないのみならず、ラ變動詞の侍りにもその能力は無いやうで侍りが他の動詞の連用形を承けて行ひ侍り仕へ侍りなどいふ時には、その侍りはもはや動詞ではなくして、敬相の助動詞と變化してゐるのである。けれども同じラ變動詞でありながら、居りにはその能力があつて、隔て居り眠り居りの如く他の動詞の連用法を承接して、熟語を構成するのである。

また活用語の例ではないが、第一格を示す格助詞の用法にも慣例があつて、自由にならぬ事實がある。

總ては體言より承け、は用言より承るなり。そは譬ば「花の咲ぬる」「月の隈なき」〈花月ともに/體言なり〉などはいへ、「花が咲ぬる」「月が隈なき」などはいはれず〈しかいひては俗/語になるなり〉また「花を見るがたのしさ」「月の照るがさやけさ」〈「見る」「照る」と/もに用言なり〉などはいへど「見るのたのしさ」「照るのさやけさ」とはいはれぬにて知るべし〈八木立禮著/歌文樞要〉

かうして言語の實際について、その用法を檢したならば、程度に多少こそあれ、言葉によつていろ〳〵の特殊慣例を見出すことであらう。それを一々數へて、一品詞に立てるといふことは煩に堪へぬことでもあり、理由の無い事でもあらう。現に時を表はす名詞の今日明年等には副詞的用法があつて、他の名詞と異なる慣例を有つてゐるが、やはり名詞の中に收めてゐるではないか。また代名詞のなどはその用途が限定せられて、他の代名詞の如く自由でないにもかゝはらず、やはり代名詞として説いてゐるではないか。また量をあらはす副詞には數詞的性質が不完全ながらも認められるけれども、やはりその他の副詞と共に同品詞中に加へてゐるではないか。

かういふわけで、この第一の事實があるからといつて、直にラ變の動詞中から引放して、別に一の品詞に据ゑなければならぬといふ理由には數へられないやうである。

「第二」の事實に就いて

この中止形を有たぬといふことは、可なり大きな問題だと思ふ。動詞といはず形容詞といはず、用言は皆一樣に中止形を有つてゐて、それによつて文の接續せられることは國語の一つの特色であり、山田孝雄氏はそれを接續詞否定の一理由にも數へてゐられるほどの言語現象である。それ故若し所謂形容動詞が中止形を有たないとしたならば、單にラ變動詞から別けられなければならないのみならず、用言全體から別けられなければならぬものかも知れぬ。ともかく大に檢討して見なければならぬ問題だとおもふ。

ところが、この所謂形容動詞に中止形を設けてゐる書物がある。遠くは大矢透氏の語格指南であり、近くは三矢重松氏の高等日本文典がそれである。

語格指南の活用圖を見ると、

連用言 將然言 截斷言 連體言 已然言 希求言
第一種



して
する
から



まし
かり けり
けん


つる
かる べき
らん

かれ

ども
かれ
第二種



クワン
美麗
して
する
なら





まし
なり けり


つる
なる らん

なれ

ども
なれ
第三種 肅然
確乎
昭々
して
する
たら





まし
たり けり
けん

たる べき
らん

たれ

ども
たれ

右活用表の連用言とあるのが、中止形である。大矢氏は前にも述べたやうに、これらを形状言の中で説いてゐられるのであつて、もとより形容動詞の名を用ひてゐられるのではない。

高等日本文典の活用圖を見ると左圖の如くであつて、カリ活に中止形のが除いてあるが、例文を見ると、があつてタリ活のが見えない。何かの誤であらう。云ふまでも無く三矢氏はこれらを形容詞として説いてゐられる。

第一變化 第二變化 第三變化 第四變化 第五變化 第六變化
ナリ活 なら


マシ
シム

なり

ケリ



シテ
(ヤ




ナム
コソ
ノミ
バカリ)
なり とも

カシ
なる
メリ
ラン
ベシ
ラシ
マジ

カナ



なれ

ドモ
なれ

カシ
タリ活 たら
たり
たり たる たれ たれ
カリ活 から かり かり かる かれ かれ

なほ同氏は形容詞の法を説いてゐられる中で、中止法に就いて次の如く述べてゐられる。

連用法は第二變化を用う。中止法副詞法あり。

中止法には常にしてを添へても言へど、副詞なるは少し異なり。

善くは中止法にして「善く」・「善くして」といふを得べく、

の「明に」も中止法にして「明に」「明にして」といふを得べし。

「明に」は知るを形容して副詞法なり。又

の「よく」も副詞法なれども、共に「明に」「よくして」と「て」「して」を添へず。

「斷然として」も副調法なれども、「斷然とて」とはいはず。即タリ活の「と」には「て」を添へざるなり。

右の如く、タリ活はその副詞法を擧げてあるだけで、中止法が擧げられてゐないから、今私にその一例を左に補つておく

以上二氏の所見のやうにカリ活・ナリ活・タリ活にそれ〴〵の活用形を認めるならば、中止法が認められるばかりでなく、副詞法が認められることになるのだから、形態にも職能にも特色ある用言が出現するわけで、形容詞でもなく、動詞でもない特殊の一品詞を立て得るものと思ふ。こゝに於て、このが果して活用形であるか、從來説かれてゐるが如く、副詞の語尾であるかの問題が解決せられなければならぬ場合に立至つたのである。

吉岡氏の〈文語/口語〉對照語法には

此の種の形容動詞を作る副詞の語尾のは「風靜かに浪穩かなり」の如く中止形に用ゐることがあります。此の形は「風靜かにて」又は「風靜かにして」の如くにてにしてといふこともあります。

と説いてある。ともかくも、で中止することは上例にも見えてゐるとほりの事實である。かうした事實がある上は、この形を活用形と見なければ吉岡氏のやうに説かなければなるまい。けれどもこの用言に限つて、他品詞を借りて來て中止法に充當するといふ解釋のしかたは果して合理的なものであらうか。用言でありながら、中止形を持たないから、餘儀なくかうした方法が發達したのだと見るのかも知れぬが、何やらそこにこの解釋の弱點が潜んでゐるやうに思はれる。

ナリ活・タリ活の場合には副詞によつて、その中止法が代用せられるものと見るとして、カリ活の場合は如何であらうか。この場合には上例に示されてゐる通り、の語尾を有つてゐるのであるから、形容詞の中止形を借りて、それによつて中止法を補ふものと見なければならぬものゝやうである。若しこの代用を認めなければ、ク形の中止はいつの場合にも形容詞の中止法であつて、カリ活の中止法はその代用語すらも無いものだと見なければならないのである。前にも述べたやうに三矢氏にもこの迷があつたのではないかと思はれる點もあり、また吉岡氏もこの代用法は説いてゐられないところを見ると、右述べた後説を認めてゐられたものでは無からうかと思ふ。が、何れにしてもカリ活とナリ活・タリ活とは別樣に説かなければならぬことになつて、ます〳〵この解釋に對する不安を深からしめるやうである。

そこで他に合理的な解釋の道が無いかを考へて見たい。先づカリ活に就いて調べて見よう。

第一例の能くは本來は惡しくに對する善くから發達したものであらうが、右の如く用ひられた能く惡しに對する善しの活用ではない。その意義も轉じ、品詞の所屬も轉じて、副詞に成つてしまつてゐる。また少しくも本來シクシキシケレと活用した形容詞であつたであらうが、今ではその活用を失つて、全く副詞に轉じてしまつてゐる。かうして副詞に轉成した能く少しくは、もはやありと複合してカリ活に活用することは出來ないのである。即ち同じの語尾を有つてゐても、それが副詞の語尾である場合にはカリ活に活用することはない。といふ事實が右の例から想定されろやうである。

次にタリ活に就いて調べて見よう。

右の第三の例は何れもタリ活に活用し得るのであるが、第四の例はタリ活に活用することが出來ないのである。これで見ると、といふ語尾を有つてゐる副詞の中にも、タリ活に、活用するものと、然らざるものとあることを認めなければならない。ところで前記カリ活の場合から類推すると、このタリ活に活用しないものが、本當の副詞であり、それと違つて、然か活用し得る言語の語尾であるは副詞の語尾ではなくして、或る用言の活用語尾では無からうかといふ疑念が生じる。

最後にナリ活に就いて調べて見よう。

右の第五の諸語は何れもナリ活に活用することが出來るのであるが、第六の例はナリ活に活用することが出來ないのである。この第五・第六も從來共に副詞として説いてゐるけれども、實は第五と第六とは品詞を異にするのであつて、同じくといふ語尾であつても、第六のは副詞の語尾であり、第五のは或る用言の活用語尾であること、恰もタリ活の語尾に於けると同じいのでは無いかといふやうに類推されるのである。

かうした假定を殘しておいて、實例に就いてその用法を調べて見よう。源氏物語夕顏卷に

かたちなどよからねどかたはに見ぐるしからぬわかうどなり

といふ文がある。これは夕顏君の侍女の右近を評した言葉である。この文は「容色などは佳くはないけれど、かたはでなく見ぐるしくない若人だ」と釋かなければならぬと思ふ。これは「かたはであつて見苦しくない若人」といふやうには見られまいと考へる。さうだとすると「見ぐるしからぬ」のかたはににも係るものと見なければなるまし。それでなければかたはを打消すことが出來ない道理である。今假にさうだとして、且つかたはにを名詞に助詞の連續したものと説いたならば、助詞に打消の助動詞が連續することになり、助動詞が名詞を打消すことにならなければならぬ、さういふことが認容せられるであらうか。

但し右のかたはには名詞の場合であつて、こゝには適切でないから、更に別の例を尋ねて見よう。同じ源氏物語帚木卷に

父の年老いものむつかしげにふとりすぎ、せうとの顏にくげに、おもひやりことなる事なきねやの内に、いといたく思ひあがり、はかなくしいでたる事わざも故なからず見えたらん、かたかどにてもいかゞ思ひのほかにをかしからざらむ

といふ文がある。右の中こゝの問題は「いかゞ思ひの外にをかしからざらん」の一句である。

以上二文は共に常に用ひられてゐる言ひ方で、一は案外おもしろいを修飾し、一は案外がおもしろくないを修飾してゐる。但し「どうして案外おもしろくないことがなからう」といふ言ひ方は有るまいと思ふ。それ故こゝは「思ひの外ならざらん、をかしくあらざらん」の意に解すべきものであらうと考へる。假にさうだとして、「思ひの外に」を從來のまゝに副詞だとすると、打消の助動詞が副詞に連續し、副詞を打消すといふことになるわけである。さういふことが認容されるであらうか。

この場合に於て、「かたはに」のを助詞と見、また「思ひの外に」のを副詞の語尾と見るよりも、「かたはに」のは指定助動詞なりの中止形であり、「思ひの外に」のは或る用言の中止形であると見る方が、合理的では無からうか。國語には動詞が重用せられる場合に、前者をその中止形で止め、後者にのみ打消の助動詞を連續せしめて、それによつて前者をも否定せしめるといふ方法が行はれてゐる。例へば

松もひき若菜もつまずなりぬるをいつしか櫻はやも咲かなむ(後撰和歌集)

の如きがそれである。これはいふまでもなく、「松も曳かず若菜も摘まずなりぬるを」の意である。かうした用例があるのであるから、前二例の如きも、助動詞によつて打消されるものは活用語の中止形と見るべきものゝやうに思ふのである。「かたはに」の例は、今こゝに直接の問題でないから暫く措く。「思ひの外に」はナリ活に活用し得る言葉でもあるので、この語尾のはナリ活用言の活用語尾即ちその中止形と認めたいのである。

かくて以上の考による活用圖を示すと次のやうになる。

第一活用 接辭 第二活用 接辭 第三活用 接辭 第四活用 接辭 第五活用 接辭 第六活用 接辭 第七活用 接辭
カリ から


マシ
シム
かり
ケリ

かり
トモ


カシ
かる メリ
ラム
ベシ
ラシ
マジ
かれ

ドモ
けれ

カシ

シテ
ナリ なら なり なり なる なれ なれ
タリ たら たり たり たる たれ たれ

右の活用圖は三矢氏の活用圖に準據して作つたものであるが、氏の第二變化を第二活用と第七活用とに別けた點に、相違があり、新義があるのである。第七活用は中止法と副詞法とを司るものである。

この所謂形容動詞は、一方、助動詞に連續する點に於て動詞的性質を有し、一方副詞法を有する點に於て形容詞的性質を持つてゐる。即ち動詞的性質はありながら動詞でもなく、形容詞的性質はありながら形容詞でも無い一種の用言である。是に於てか、所謂形容動詞は、動詞並に形容詞から獨立して、一品詞に立てられなければならぬ理由があるわけである。而して活用形は動詞的でありながら、形容詞的性質を有つてゐるから、形容動詞の名稱はこの新品詞に最もふさはしいものと考へる。

以上、今考へてゐる形容動詞は、その名は從來のと全く同一であるが、その實は全く異なつた新品詞である。


初出
國語・國文 2(1): 1—37 (1932)