現在の國語研究状態では、國語史は書くことが出來ないといふより外はなからう。
履中天皇の四年に、始めて諸國に國史を置き、言事を記して中央に通達せしめられたとあるが、その記録は今日に傳はつてゐない。雄略天皇の御代頃からは、記録があつたと考へられる事實はあるが、それも傳はつてはゐない。推古天皇の御代から奈良時代になると相當文獻も傳はつてゐて、始めて國語の史料を目にすることが出來るのであるが、遺憾ながら、まだ研究が十分でない。特に所謂特殊假名遣が紹介されるに至つて、問題は一層複雜に至つたのである。
特殊假名遣とは、本居宣長の創見から出發して、その門人石塚龍麿が研究し假名遣奧山路にその結果を發表したのを、橋本進吉氏が再檢討して修正されたもので、奈良時代に於てエキケコソトノヒヘミメコロの十三音を表はす假名が各二種あつた。即ち
甲類 | 衣伎祁古蘇斗努比幣美賣用漏 |
---|---|
乙類 | 延紀氣許曾登奴斐閉微米餘呂 |
右の如き識別があり、またキケコソトヒへの七種には濁音にも二類の識別があつて、それが決して混同してゐないといふ事實が證明されたのであつた。而して橋本氏はこの識別を發音の相違によるものと解して、奈良時代には、國語に八十七種の音が在つたと考へてゐられる。なほ古事記には、右の外にモの二類識別の事實のあることを指摘して、奈良時代前には、八十八種の音が在つたと考へてかゐられるのである。
橋本氏はこの見解を動詞の活用に及ぼして
ア行 | ア | イ | ウ | エ | オ |
---|---|---|---|---|---|
カ行 | カ | キ(甲)キ(乙) | ク | ケ(甲)ケ(乙) | コ(甲)コ(乙) |
サ行 | サ | シ | ス | セ | ソ(甲)ソ(乙) |
タ行 | タ | チ | ツ | テ | ト(甲)ト(乙) |
ナ行 | ナ | ニ | ヌ | ネ | ノ(甲)ノ(乙) |
ハ行 | ハ | ヒ(甲)ヒ(乙) | フ | ヘ(甲)ヘ(乙) | ホ |
マ行 | マ | ミ(甲)ミ(乙) | ム | メ(甲)メ(乙) | モ |
ヤ行 | ヤ | ユ | エ | ヨ(甲)ヨ(乙) | |
ラ行 | ラ | リ | ル | レ | ロ(甲)ロ(乙) |
ワ行 | ワ | ヰ | ヱ | ヲ |
右の細く排列して、活用を八段にしなければならないと述べてゐられる。なほ濁音のある行は、それぞれその清音の活用に準じ、古事記ではモに甲乙二種あるからマ行が八段なる旨を附言してゐられる。
奈良時代並に古事記に右の如き二類識別のあるのは事實である。この事實を説明するのに、橋本氏は音聲の相違を以てしてゐられる。注意深い橋本氏であるから、いろ〳〵の場合を考慮した結果、音聲の相違を以て説明するのを妥當と考へられたものであらう。私もこの解釋を最も穩當だと信ずる。
但しこの説には一應附説を要すると思ふ。例へば、動詞活用に於て、八段に別れるとしたら、その八段活用形に伴ふ八種の「法」(便宜上、假に、この名稱を用ひる)が無ければならぬやうに思ふ。それが有れば、有る事實を示す必要があるし、それが無ければ、無い理由を説明しなければならぬ。が、私はまだその説明を聞いてゐない。或は既に何かに發表されてゐるのかも知らぬが、私の最近橋本氏から贈られた「古代國語の音韻に就いて」〈神祇院に於ける同氏講演筆記〉には見えてゐないやうに思ふ。
橋本氏は甲乙二類の音の相違を母音にあると見てゐられる。即ち
右の甲と乙との違ひが同じ行での段の違ひであるとしたなら、その發音はどうかと云ひますと、最初に來る子音即ち k, t, n, m, r, y などの違ひでなく、その次に來る音の違ひであるといふ事になります。最初の子音の次に來る音といへば、普通は母音ですから、例へばキの甲と乙との遥ひは、一方が ki であるとすれば、一方は i とちがつた東北地方にあるやうな「イ」でも「ウ」でもない中間の母音 ï で、即ち kï であるとか、或は ui のやうな二重母音で即ち kui 或はこれに近い kwi であるとか、或は ii のやうな二重母音で、即ち kii 又は之に近い kyi であるとか、又は kïi のやうな二重母音で、 kïi であるとかが考へられるのであります。
と説き、かやうなことは支那語と比べて見ても言へるといつて、行屆いた説明を試みてゐられるのである。行屆いた説明ではあるが、まだそれだけで私の所謂附説が完了してゐるとは思はれない。
甲乙兩類の相違が綴音の母音にあるとしたならば、なぜその母音列がア行〈前に掲げた活用表に從つていふ〉の上に現はれてゐないだらうかといふ問題に對する説明が必要である。或は「古くはア行の假名にもその識別があり、當然發音にも相違があつたものであるが、單母音には夙く消滅し、奈良時代には、たゞキケコソトノヒヘミメヨロの十二綴音の上に殘存したものだ」といふ見解かとおもふ。如何にも或行に限り、或音が殘るといふことはあるのであつて、例へば、現在のハ行五音の中にフ音のみが古の發音を傳へ、ワ行五音の中にワ音のみが古の發音を傳へて、他の四音は皆變つてしまつてゐるといふ事實があるのである。と同時に同行の中に新音が發達する場合もある。即ちタ行にチ chi ツ tsu 二音を見るやうな例である。
尤もフ・ワ・チ・ツはいづれも、頭子音が殘つてゐるか、或は新生したかの例であるから、同行といふ言葉は使つてならないかも知れないが、ともかくこの種の例は子音に關するもののみであつて、母音の例は、今見ることは出來ないやうである。
一體我が國語では、文獻あつて以來、母音〈或は標準母音といふか〉が變化増減した事實は見られないやうに思ふ。私は親しく音聲の調査をしたことが無いので、大膽な言葉は使はれないが、どうも母音の増減は無いやうに思ふ。村上天皇時代前に衣と延との混同したのも子音の問題であるし、一條天皇時代前に伊と韋、衣と惠、於と遠との混同及び連續音中の波と和〈波と和とは上古に於いて混同した例を見るが、それは或語に限られてゐたやうである〉保と乎、部と惠などの混同の起つたのも、やはり子音の問題であつた。ヒ(火)がホとなりメ(目)がマとなるといつたやうなのは、こゝの問題外であつて、今いつてゐる母音の變化とか母音の増減とかには交捗を持たない事實であることは申すまでもない。
文獻以後は子音部の變化ばかりであるが、文獻以前は、母音部の變化があつたものかも知れない。けれども、文獻以後の事實は目に見る實證であるし、文獻以前のは目に見ぬ推定であるから、文献以後の事實によつて、國語變化律は規定したくなる。即ち國語の母音〈或は標準母音というか〉は文獻以前も、五音であつて、その他の母音は無かつたと推定したくなるのである。勿論こゝに五音といつてゐるのは、話語中に一時的に現はれる中間母音などを勘定に入れないでの數である。
甲乙二類の假名の識別を發音の相違特に母音部の相違によつて解決しようとしてゐられる橋本氏の見解は、最も穩當なものと信ずるのであるが、右述べたやうな點を説明しつくした上でなければ、その見解も完全なものとは考へられない。從つて八十七音説乃至は八十八音説も成立したものとは認められないのである。
現今右甲乙二類に用ひられた萬葉假名の漢字音研究が東西で進められつゝあるやうであるから、闡明される時も遠くはあるまいが、その研究は子音部と母音部と兩面からまたアクセント――漢字四聲法を寫して、古事記に上、下等の文字によつてアクセントを示してあるのを初として、ヲコト點の上にも踏襲し、平安院政時代の點本や類聚名義抄古今集點本などに點發してある事實に徴しても、我が祖先がこの音感に深く留意してゐたことが認められる――の方面から稽へられたものでなければなるまいと信ずるのである。
が、今日のところ、字音の研究からも確かな結果が出てゐるわけでもなく、また少いながらも、字訓假名にも識別的用法の行はれてゐる事實があるやうであるから、また別途の見地から、所謂特殊假名遣の解決を考へて見るのも無駄ではあるまいと思ふ。
字訓假名にも識別的用法が行はれてゐるやうだといつたのは
「訓をとれるにも借字を用ふるにも定めあり、辭のそには衣を用ひて十を用ひず。すそのそまそ鏡のそには十を用ひて衣を用ひず。衣は曾の借字、十は蘇の借字なるがゆゑなり〈但し此樣に違へる處もひたぶるになきにはあらねどそはいとまれなり〉
「字訓假名の用法を全卷に亙つて調査して見ると、此種の假名は(甲)ある品詞にのみ用ゐられてゐるもの、及びある限られた品詞に最も多く用ゐられてゐるもの(乙)各種の品詞に差別なく自由に用ゐられてゐるものの二種に大別出來るやうである」と述べ更に表示細別してゐられる。その(甲)
右の類で、言葉により品詞によるなどの識別假名遣は、字音假名に限られてゐない事實があるとすると、それが必ずしも發音の相違によるものと、一概に極めてしまはれないやうに思はれる。そこで、私は一案として一種の當字用法といふ見方を、數年來説いてゐる――字音假名の場合と字訓假名の場合とは各別の理由で説明さるべきものであるかも知れない――これはたゞ、何とかして所謂特殊假名遣の説明がつくまいかと思ふあまりの思附に過ぎないのであつて、深い根據があつての假定説では無いのである。當字とは一種の萬葉假名であつて、兎角、沙汰のやうに、或假名が或言葉に、定まつて用ひられる時に呼ぶ名稱である。この當字の中にも、茶目、出鱈目といふやうな戯訓も少くない。
衣延の別以外の十二種乃至は十三種の特殊假名遣が當字として説明出來るか否かの問題は、その字音的研究の結果をまつて後に考へらるべき順位のものであるが、ともかく當字式用法は、既に上代に於て、相當發達もし、またその道程にあると思はれるものも見えてゐることは、本居宣長の古事記傳中にも窺はれる事實である。當字は、或事情から一語に一字を要求する意向の現はれであつて、それが一方には、新井君美の所謂國字即ち榊、椿、鎹等の發生を促し、一方には、當字用法の發達を促したもので、畢竟一字一義の漢字用法に導かれた一つの傾向だと考へる。
以上簡單ながら説いて來たやうなわけで、上代音數の八十七乃至八十八説は、直に認めることも出來ない、といつて否定することも出來ないといふのが今日の實情である。
その他上代音に就ては、パ行音の問題、濁音の問題、音便の問題等多くの問題があつて、それが必ずしも決定されたとは云はれないのである。さうした個々の問題はともかくもとして、上代音を總括的に考へる問題として、一般假名遣〈前述特殊假名遣と混同しないやうに一般假名遣の名稱を用ひる。つまり我々が普通にカナヅカヒといひならはしてゐるそれである〉を考へなければならぬ。假名遣とは國語の音聲を文字に寫す時の法則であつて、話語の音聲が統一されてゐるとゐないとに拘はらず、文字に於て一定せしむる人爲的約束である。從つて、その文字は必ずしも音聲をあるがまゝに寫すと極まつたものではないことを考へなければならず、また從つてその文字は正確に發音を果してゐるものと見ることは出來ないのである。
上代に於て、一般假名遣が實行されてゐたと考へられる旨を、文字によつて發表したのは昭和七年十月、岩波日本文學講座中に「國風暗黒時代に於ける女子をめぐる國語上の諸問題」の中で説いたのを最初とする。而して今日もさう信じてゐるのである。
上代は發音が正しかつた、だから上代の假名の用法は正しかつた、こんな風なのが學者間に於ても通説のやうであつて、上代一般假名遣は、まるで自然の現象ででもあるやうに扱はれてゐる。けれども、如何に發音が正しくても、統一されてゐても、假名の用法は、放任しておいたのでは、一致するものでは無いのである。例へば、倭名類聚抄を見ると、馬をムマと書いてゐながら、馬ーと馬を熟語に用ひた時にはウマー、ムマーと兩用になつてゐる。發音に相違は無かつたであらうが、その音を寫した文字は違つてゐるのである。この點、本草和名も同樣であるが、奈良時代はウマに統一されてゐる。一體馬は、これを羅馬字で寫すならば、mma とすべき發音であつたであらうと思はれる。その頭音 m は、ma と發音する際の準備音であつて、梅のウメの場合も同樣であらう。つまり一種の撥音であつたのである。平安時代書寫阿彌切古今和歌集には「りんたうの花」
とあり、元永書寫古今和歌集の詞書には「理うた有のはな」
とあつて、歌には「わか宿の花ふみちらすとり有た無野はなけれはやこゝにしもすむ」
と書かれてある。龍膽は今日ではリンドウといつてゐるが、平安時代にはリンタンと、尾音を撥ねて呼んでゐたものであらう。さればこそ、詞書には「た有」と書き、歌には「たむ」と書き、「有」「む」兩樣になつたものであつて、馬をウマともムマとも書いたのと、用字事情は同一であつたと思はれる。なほ平安時代には、撥音を寫すに、「む」や「う」を用ひた外に、
𧨸 允 (天暦三年加點漢書楊雄傳所用)
のやうに、まるで撥音を表はさないのや「い」で表はしたのがある。この「い」の場合や「う」の場合は長音を表はすに用ひたのと同じ假名が用ひられてゐる例であるが、また「む」は、平安畔代から鎌倉時代に亙つて促音を表はすにも用ひられてゐた。
かういふやうに、平安時代には、撥音――今日では「ん」か「ン」で表はしてゐる音であつて m n 兩音區別なく用ひられてゐる。本來「ん」は「无」 mu であり、「ン」は漢字音の n 語尾を表はす文字であつたが、共にいつとなく國語の m, n 兩撥音を區別なく衷はすやうになつた――を文字に表はす場合に、人によつていろ〳〵樣式を用ひたものであつて、統一されてはゐないが、物語文中の「あ(ン)めり、ざ(ン)なり、て(ン)り〈「てけり」は「あめり」「ざめり」などとは撥音發生事情は違つてゐる〉のやうに、めり、なり、けり等の助動詞に接續する際の撥音は𧨸の樣式即ち撥音を文字に表はさない樣式に一定されてゐたやうである。――その他平安時代には、部分的には一般假名遣の統一があつた――やはり一種の當字用法になつてゐたわけである。
平安時代の促音記載樣式は撥音よりも多樣であるが、この事は拙著『國語國文の研究』中の「教行信證の訓點は坂東語か」の中に説いておいたから省略するが、これらの事實は、いづれも音聲が同一であつても、放任しておいたのでは、その記載樣式は一定するものでないといふことを證明するものである。なほ源氏物語の用字法から少しく拾つて見ると、
○ | ヤウコトナキ(湖月抄本) | |
---|---|---|
ヤンゴトナキ(徳川本) | ||
封 | フウ(湖月抄本) | (橋姫卷) |
フム(徳川本) | ||
疊紙 | タヽムカミ(湖月抄本) | (賢木卷) |
タヽウカミ(徳川本) | ||
喧噪 | ケウサウ(湖月抄本) | (少女卷) |
ケサウ(徳川本) | ||
御莊 | ミシヤウ(湖月抄本) | (須磨卷) |
ミサウ(定家本) | ||
靈 | ラウ(湖月抄本) | (若菜卷下) |
リヤウ(湖月抄本、徳川本) | ||
屈 | ク(湖月抄本 徳川本) | (須磨卷) |
屈 | クツ(湖月抄本) | (若菜卷下) |
クン(徳川本) |
といふやうな例が見つかるのであつて、假名遣統制のなかつた時代の姿が窺はれるのである。
かくて、私は、奈良時代に於ける假名遣の統一は、自然放任の結果ではなくして、國語の音聲を文字に寫し取る上の人爲的約束が成立してゐて、それが實行された結果だと信するのである。この假名遣問題については、日本文學岩波講座の「國風暗黒時代に於ける女子をめぐる國語上の諸問題」や日本諸學振興委員會昭和十六年度國語國文學會筆記の「古人を尊重せよ」を參照して貰ひたい。
かうした假名遣が成立し實行されてゐたとすると、また現に漢字喉内音 ng を表すにウ又はイを用ひるといふ約束が成立してゐた事實を見ると、「可牟加良」(神柄)「可牟佐夫流」(神左振)「可無奈我良」(神隨)等の牟、無も mu と讀なければならぬ必然性は無くなるやうに思ふ。特に平安時代に撥音を寫すに用ひられてゐる文字は、漢字傍註點から新に發達したン(n)を除いては、「む」と「う」とであり、その「う」が喉内音 ng を寫す文字であつて見れば、「む」を辱内音 m を寫すに用ひられたと見るのは無理でないやうに思はれるし、また平安時代に撥音を寫すに「う」と「む」を用ひたのも、奈良時代の用法が繼承されたものと見るのも無理でないやうに思はれるのである。かう考へてくると、可牟加良、可牟佐夫流、可無奈我良などの牟、無は mu でなくして撥音を表はしたものではないかと推想されるのである。なほ假名遣を認める建前から、萬葉集の假名の用法を檢討したならば、相當考直さなければならぬ音聲上の問題が發見されるのでは無いかと思ふ。
雅語俗語といふ名稱で、當代の國語が識別されてゐたことを、はつきり云ふことの出來るのは源順の倭名類聚鈔からである。常陸風土記、續日本紀などにも「俗」といふ言葉は國語の上に用ひられてゐるが、その「俗」は國語の意味であり、その「俗」に對する「雅」は文語の意味であり、その文語は漢語の意味であるから、國語が雅俗の二種に識別されてゐた事實として見ることは出來ない。但し萬葉集卷六に、
十一年〈天/平〉己卯天皇遊獵高圓府之時、小獸泄去堵里之中、於是適値勇士、生面見獲、即以此獸獻上御在所、副歌一首〈獸名俗曰/牟射佐妣〉
とあつて、倭名鈔には、鼪鼠〈毛美 俗云/无佐佐比〉
とある。これで見ると、萬葉集の俗も國語中の雅語に對する呼稱のやうに思はれるが、奈良時代の他の用例から推すと、やはり漢語に對しての國語の意に釋くべきもののやうに思ふ。
けれども、その名稱はともかく、奈良時代に於ては、國語中に雅俗語の識別があり、またその雅語の外に歌語を認めてゐた事實が存在する。歌語の成分は
の五種に分けられるやうである。この外に、歌には語法の破格、語序の破格が認められてゐた。第二から第五までは、主として和歌の音律制約に應じて特に許容されたもので、和歌用語の主體をなすものは雅語であつた。第二古語は説明を要せざるべく第三造語は小別すれば、いろ〳〵あるが、櫻の花を「さくらばな」といひ、藤の花を「ふぢなみ」といひ、香山を青香山といひ、萩を萩原といひ、大和を大和島根といふ類で、時に應じて新造された人工語である。第四俗語は都方言中の卑しい言葉や地方方言を一括したものであるが、今日に於ては、そのはつきりした識別はつきかねる。越方言の「あゆの風」はたま〳〵家持が用ひたばかりで、一般に使用された跡は見えず、都方言の卑語としてはイク(行)を指摘しうるのみである。第五約語及び略語は、都方言の卑語として、第四の中に加へて然るべき言葉であるが、數も多いし、便宜上一類に立てて見た。「若鮎」をワカユ、「言に出づ」をコトニヅのやうに、同母音にひかれて縮約されたのを約言といひ、さうでない「此の山の上」をコノヤノヘといひ、「我れ思ふ」をアレモフといふ類を略言といつた。かうした類にエ列の例は見えない。またユリをユといひ、ヨリをヨといふ類もこの中の例である。かうした省約言は何時の世でも卑語として扱はれてゐる。第一雅語は上流社界に話されてゐた言葉で、倭名鈔の選擇標準から推して、傳統ある言葉が先づ採られたものと考へられる。中には傳統の明瞭でないのも相當數に達したであらうことも、倭名鈔から察せられるが、さういふのは、話されてゐる階級や語感などで定められたものであらう。倭名鈔は平安時代のものであるが、選語選訓方針は奈良時代の辨色立成や楊氏漢語抄に準據したものであらうと考へられる――當時の傳統を重んじる學風から推して――から、こゝに倭名鈔を參考したわけである。
奈良時代唯一の國語散文――音調が考慮されてはあるが、和歌のやうな音律の拘束は受けなかつた――であつた宣命を拜すると、右の第二第三第四第五の語彙は固より語法語序の破格も見られない。宣命は雅語即ち標準語で書かれたものであつたのである。かくて、奈良時代人は、標準語を有し、また別に歌語を有し、標準語によつて文を草し、歌語によつて歌を詠じたのであつた。
奈良時代の標準語は平安時代の標準語に移つた。平安時代の標準語とは、物語文學の用語を、私はさう名ざしてゐるのである。枕册子に
わろきものは言葉の文字あやしく使ひたるこそあれ。唯文字一つに、あやしくも、あてにもいやしくもなるは、いかなるにかあらむ(中略)まして文を書きてはいふべきにもあらず。物語こそあしく書きなどすれば、いひがひなく、作り人さへいとはしけれ
とあつて、物語の用語は最も洗錬されたものでなければならなかつたことを思はせ、また無名册子を見ると、物語評は先づその用語に始まつてゐて、その用語が如何に重用なものであつたかを偲ばせ、またそれが新鮮なるものでなければならなかつたことを明かにしてゐる。即ち、物語の用語は、刺戟の新しい精選された話語であつた筈であつて、それが平安時代の標準語であり選語方針であつたのである。
奈良平安兩標準語を比較して見ると、その感觸を初として、用語用語法の上に、相違が甚しいことに氣が附くであらう。その相違に、時間的なるものを當然考へなければならないけれども、奈良京と平安京との方所的なるものは、平安遷都當時の事情から、餘り多くを考へることが出來ないやうに思ふ。寧ろ男女用語の相違といふことに重點を求めたいと思ふのである。
萬葉集の和歌が古今集の和歌に變つたのは、平安時代の初期にあらはれた國風暗黒時代を境堺線としてゐる。この境堺線の奧は男子中心時代であり、その外は女子中心時代である。この境堺線の彼方で、男子は國語による文學を棄てた。爾來國語は女子の手ではぐゝまれ、さて平安文學は展開したのであつたから、物語文學の用語は女子の用語を中心としたものであつたであらうことは、多くの言葉を費すまでも無いやうに考へる。枕册子に、「こと〳〵なるもの」
と題して、「法師のことば、男女のことば、げすのことばには必ず文字餘りしたり」
と書いてある、その男の言葉と識別されてある女の言葉を中心としたものが、平安時代の物語言葉であり、標準語であつたと、私は信ずるのである。さて、この言葉を寫す文字が、女子專用を意味する女手であつたことを、こゝに參考されたい。
そこで先づ問題にしたいのは、咏嘆助詞の「かな」である。國風暗黒時代前即ち萬葉集以來男子を中心とした國文學には、同義の「かも」ばかりであつて「かな」は全く姿を見せなかつた。が、國文學が女子を中心とする國風暗黒時代後になると、突如として、「かな」はその姿を現はして、「かも」に代つた。その後、「かも」は纔かに音感の相違を生命として、歌語に餘喘を保ち得たに過ぎなかつた。
この「かも」「かな」交替事情を何と解くべきものであらうか。勿論國風暗黒時代後に、突如として「かな」が發生したものとは信ぜられない。「かも」は漸く刺戟力を失ひつゝあつたかも知れぬが、女子中心時代になつて、急に「かも」に代つたのは、「かな」はかねてより女子の手に握られてゐたものであつて、その持主が勢ひを得たにひかれて、文學の上に、新しい刺戟を伴つて現はれたものであると想像したい。
「かな」が文献に見えてゐるのは、常陸風土記に、「能停水哉〈俗曰與久多麻/禮留彌津可奈〉」
とあるのを初とする。常陸風土記は和銅年中に撰まれたものである。この時代には萬葉集その他何書にもカナは見えてゐない。で、カナは常陸方言か東國方言では無かつたかと一應は疑はれるのであるが、イク(行)を引合に出して、兩語もろもちで解決をはかつて見たい。
イク(行)は萬葉集中七首に用ひられてゐる。その中、大伴家持の歌二言、遣新羅國使人の歌一首その他の四首は東國人の歌である。その中單用のが四首ある中に、三首は東國人の歌、双用のは三首ある中に、家持のが二首、東國人のが一首。双用とは「手にまきて見つゝユカむを置きてイカば惜し」
といふやうに同一短歌の中に同語が二度用ひられる場合で、この時には、當時同語病を避ける爲に形を變へて用ひるのが通則になつてゐたもので、アレとワレ(我)ユリとヨリ(從)、ユク(行)とイクといふ類である。かうしてイクは東國人の歌に多いので、東國方言かといふ疑ひもおきるのであるが、イクが平安時代盛時の女子の物語文中に通用されてゐるのを見ると、それが東國方言の影響であらうとは考へられないから、やはり都方言中のものであつたと考へなければならないやうである。おもふに、奈良時代に於ては、ユクを標準語としイクを俗語としてゐたものであらう。されば双用の時には、形の變つたイクを用ひもしたが、單用の時は、過つて用ひた外は、普通イクを用ひることは無かつたのであらう。歌語として俗語の用ひられるのは、それ〴〵事情の存する場合に限られてゐたのであつた。さて東國人の如き地方人には、標準語と俗語との識別が十分でなかつたので、イクが東に非常に大きな律で現はれてゐるといふ結果になつたものであらう。
カナの場合は、萬葉集中には一度も姿を見せないのみならず、常陸土俗の言葉として引かれてあるのだから、常陸方言と見るのが穩當のやうではあるけれども、これも、さういふ東國方言が平安女子の用語に影響したとは考へられない。――トテモといふ山地方言が都會語に影響したでは無いかといふ人があるかも知れぬが、それは時勢を辨へない疑である――から、私は、イクの例に準じて「奈良時代にも都方言として一般話語中或は女子の話語中に發達してゐたのではあつたが、奈良男子の好尚に適しなかつた爲に、男子中心の歌語中には加へられなかつたもの」と考へたいのである。なほイクは平安時代には、散文用語としては、標準語として認められても來たやうであつて、源氏物語のやうにユク、イク併用のもあるが、和泉式部日記のやうに、散文は全部イクで統一されてゐるのもあるといふ事實である。但し平安時代には、イクは全く歌語たる資格を失つたのであつた。
軍紀物に多く慣用されてゐる「馬を射させて」といふやうな使役的な言ひ方は、鎌倉時代の言葉として、武士の負けじ魂から使ひ始められたもののやうに、多くは考へられてゐるやうである。けれども、枕册子、「なぞ〳〵合せ」の條に「つぎ〳〵のも此の人に論じ勝たせける。いみじう」
といふ文がある。「此の人に」
は三卷本に「此の人なんみな」
となつてゐるが、十三行活字本、春曙抄本は共に本文の通りであるから、これも「此の人になむ」の意に釋くべきものであらう。即ち「論じ勝たれける」といふべき所に本文の如き表現を用ひたものであつて、宮中の女房達も勝負事のやうな競ひ立つた言葉の中には使ひなれてゐたものであらう。なほ後撰集紀友則の歌に「聲たてて鳴きぞしぬべき秋霜に友まどはせる鹿にはあらねど」
また源氏物語須磨卷に「友まどはしてば、いかに侍らまし」
などあるマドハスには、別に競ひ立つ響は感じられないけれども、この表現樣式に相違は無からうと思はれる。
さうなると、かうした言ひ方は、鎌倉武士が、特に流行させたかも知れぬが、必ずしも鎌倉武士が言ひ始めたものとはいはれないであらう。なほ源氏物語若菜卷下柏木右衞門督の詞の中に「六條院の姫宮の御方に侍る猫こそいと見えぬやうなる顏して、をかしうはべしが、はつかになむ見給へし」
と見え、また「‥‥と催し申さるる事のはべりしかば、重き病をあひ助けてなむ參りてはべし」
と見えてゐる。ハベシはハベツシであつて、夕顏卷の惟光の詞の中にも用ひてある。その他にあつたかも知らぬが今は記憶にない。かういふ特殊な形は、標本的にちらりとのぞかせるのが紫式部の筆法であるから、これも柏木の口癖を寫す爲の用法であつて、その使用者から推すに、氣のきいた新流行語では無かつたかとさへ思はれる。ともかくも、かうした促音語も已に公卿が使つてゐたものであつて、これを鎌倉時代の武士言葉の特徴のやうに見る見方は、餘程注意を要することと思ふのである。前にも述べたやうに、奈良時代の文學は男子中心であつたから、當然その用語は男子系のものであつた。平安時代の文學は女子中心であつたから、當然その用語は女子系のものであつた。鎌倉時代の用語は、また男子系のものであつた筈であつて、その變遷をたゞ時間的方所的に見ようとするのは愼まなければならぬ。例へば、女子系の言葉は發達してゐても、文學が男子中心であるから現はれない、それが女子中心になると突如として現はれるといふやうなことがありうると思はれるから、言語の歴史は、たゞ文學の上に、現はれてゐるとゐないとによつて、直に時間的に判じ去ることは出來ないのである。
またタルをタといひナルをナといふ類の近世的語法も平安時代末期から鎌倉時代初期の文學にかけて現れはじめてゐる。
- 時來ぬとふるさとさしてかへる雁こぞきた道へまた向ふなり 藤原爲忠朝臣集
- 品玉もをかしな舞もまてしばし 藤原隆信朝臣集
- ふたつ文字牛の角文字すぐな文字ゆがみ文字とそ君はおぼゆる 延政門院御歌
かうして見ると、この近世的な語形も、已に平安時代に於て京都方言の中に發生したものであつて、鎌倉時代を竢つて、關東方言の中に發達したものでは無かつたと考へなければなるまいと信ずるのである。
また動詞の二段活用形の一段化も、タ、ナの形と前後して現はれてゐる。類聚名義抄に
- 闋 トヂル (上二段――上一段)
- 渝 カヘル (下二段――下一段)
伊呂波字類抄に
- 媚 コビル (上二段――上一段)
- 經 ヘル (下二段――下一段)
また
- 伊勢島や月の光のさびる浦は明石には似ぬ影ぞすみける 西行法師
- ぬるるかとたちやすらへば松かげや風のきかせる雨にそありける 伏見天皇御製
隕 ㆓于深淵㆒ 春秋左氏傳集解〈文治建久から弘安前後までの寫本〉- 暴虎馮河而無㆑
悔 者吾不㆑與也 論語〈寛元元年寫本〉
など多くの例が見られる。
カナといひ、イクといひ、また右の如き近世的語形といひ、その發生を、東國方言乃至はその影響といふことで解かうとするのは、無理なやうに思はれる。平安時代は極端な中央集權主義で、地方といふものは一向認められなかつた。特に平安中期以後は、關東方言は嘲笑の種であつて、拾遺集物名の部には「あづまにて養はれたる人の子は舌だみてこそ物はいひけれ」
と詠まれ、源氏物語には「あやしき東聲したる者どもばかりのみ出で入り」
(東屋)とか、「若うよりさる東の方の遙かなる世界に埋もれて、年經にければにや、聲などほと〳〵うちゆがみぬべくものうちいふ」
(東屋)とか見え、今昔物語には、源頼光の郎等が乘りなれぬ女房車に乘つて惱む樣を
「横ナバリタル音共ニテ、痛クナ早メソ〳〵と云行ケバ、同ジク道次ケテ行ク車共モ、後ナル歩チ雜色共モ、此ヲ聞テ恠ビテ此ノ女房車ノ何ナル人ノ乘タルニカ有ラム、東烏の鳴合ヒタル樣ニテ舌ダミタルハ心モ得ヌ事カナ、東人ノ娘共ノ物見ルニヤ有ラムト思へドモ、音氣ハヒ大キニテ男音ナリ、惣テ心得ズゾ思ケル」
と嘲つてある。かういふやうに、とりわけ嘲笑の種として取上げてゐたほどの東方言を、平安京の上流人が學ばうとは考へられない。言語の變化は都市に先づ起るもので、邊陬には、寧ろ古形が殘るのが一般傾向である。それやこれやから、カナ、イタ、タ、ナ、一段活用化等の言語現象は、先づ都方言として發生し、それが東國に學ばれたものと考へるのが自然であらうと思ふ。
方丈記に福原遷都のことを記して
「道の邊を見れば、車に乘るべきは馬に乘り、衣冠布衣なるべきは直垂を着たり。都のてぶり忽ちに改まりて、たゞひなびたる武士に異ならず」
とあるけれども、大體吉野朝までは、一般に舊文化の餘勢を失はなかつたが、吉野朝時代を經て、
朝廷の政、武家の計に任て有しかば、三家の台輔も奉行頭人の前に媚を成し、五門の曲阜も執事侍所の邊に賄ふ。されば納言宰相なんどの言を聞ても、心得がたの疉家やと欺き、廷尉北面路次に行合たるを見ても、あはや例の長袖垂たる魚板烏帽子よといひ、聲を學び指を差て驕慢しける間、公家の人々いつしか云も習はぬ坂東聲をつかひ、着もなれぬ折烏帽子に額を顯して、武家の人に紛れんとしけれ共、立振諒る體さすがになまめいて、額附の跡以外にさがつたれば、公家にも不㆑附、武家にも不㆑似、唯都鄙に歩を失し人の如し
(太平記、天下時勢粧の事)
とある室町時代となつて、始めて東國方言の影響を考へて見なければなるまいと思ふのである。
かういふやうに、國語史の上には、言語そのものの變遷を考へる前に、史料の取扱ひ方に就て、先づ考へなければならぬ問題を持つてゐるのであつて、實は、國語史をものすることの出來るまでに、國語は研究されてはゐないのである。
ともかく延喜天暦の間にア行の衣 e とヤ行の延 ye との混同が起つて、標準音は五十音圖上の四十七音と、カ、サ、タ、ハ四行の濁音サ音クワ行の清濁合せて十音、計七十七音となつた。それに撥音促音も、この頃は在つたとおもふ〈促音はともかく、撥音は奈良時代にあつたであらうことは前に説いた〉から、總計七十九音となるわけである。それが長保比になるとア行のイ i 衣 e オ o とワ行のヰ wi ヱ we ヲ wo との混同が起つて、更に三音減じ、七十六音になつたわけである。尤もこれは單音として發音される場合についてのみ云つてゐるのであつて、連續音として發音する場合は便宜上省略しての陳述である。
キヤ行シヤ行音チヤ行音リヤ行音即ちヤ行拗音の發生が何時であるか、私には分らない。平安時代には、トイフを約めてテフといふ。これを何時から cho と讀むやうになつたか、平安時代は te-fu といつてゐたものであらうことは、假名遣がいつもテフになつてゐるし、その活用にテヘのあることから、大凡に想像されるのである。また草花の龍膽は、平安時代にはリンタン rin-tan と發音してゐたもので、リユウタン riu-tan と發音してゐたものではあるまいといふことは、今日リンドウ rin-do といつてゐるのから、大凡に推定されるのである。從つて、これらをチヤ行リヤ行の例に考へることは出來ない。特に發音と假名遣とは必ずしも一致しないといふ建前にある私には、ヤ行拗音の起原並に平安時代に於ける存否に就てたしかむべき資料を持たないのである。但し前掲源氏物語の假名用法で見ると、平安時代には在つたと見ていいやうである。遲くとも鎌倉時代には確に存在したものである。けれども、漢語系の言葉以外には、その資料を見當らぬ。室町時代末になつて、例へば、受ク爲ルの未來形ウケウ、セウなどがウキヨウ、シヨウなどと發音されるやうになつて、始めて固有國語にキヤ行シヤ行音などのヤ行拗音が用ひられるやうになつたのではあるまいか。なほ私は、室町中期まではウケウ、セウの類は文字通りウ・ケ・ウ、セ・ウと發音してゐたものと信ずるものである。
ワ行拗音即もクヮ ク井 ロ クヱ クヲも漢語系の言葉に限つて用ひられた音聲であつたやうであるが、その中クヰとクェとは遲くとも吉野時代を境として亡んだものでは無からうかと想像する。クヮとクヲとは、今日も地方によつて殘つてゐるが、京都でも維新前までは、大體殘つてゐたもののやうである。
ガ ga 行音の鼻音化 nga 行音が、奈良京平安京にあつたものか、無かつたものか、何時發生したものか、謠曲の中には用ひられてゐるが、その他の事は判然しない。
ジとヂ、ズとヅとの混用が何時起つたか分らない。行阿假名遣にはジヂズヅの假名遣が問題になつてゐないから、當時は假名遣に誤ることは無かつたのであらう。慶長二年に寫された玉塵に、渦がウヅともウズとも書かれてゐるから、この比には、ジヂズヅの混同が起つてゐたものであらう。これも室町時代になつて、始まつたものでは無からうか。
ha 行音の發生が何時からであるかも判然しない。ハ行音は、京阪地方では、慶長前後までは勿論僧契沖時代までも、f 音に發音されてゐたらしくおもはれるが、谷川士清の和訓栞を見ると、出雲人のハ行音の發音がふわ、ふゐ、ふゑ、ふをと聞えると注意してゐるのだから、この時代には、京方言は、ハ行音を h 音に發音してゐたものではないかとおもはれるのである。
ハ行音は平安時代から江戸時代の半に至るまでは、f 音に發音されてゐたものと考へられるが、奈良時代以前には p 音に發音されてゐたといふ説がある。「走」は書紀の歌にワシルとあつて、萬葉集の歌にはハシルとある。また「僅」は奈良時代にはワツカとあり、平安時代にはハツカとある。また地名のイサハが平安時代にはイサワと變化してゐる。それらを見ると、ハとワとは近い音であつたことを想はしめる。而して、長保年間に加點した石山寺法華義疏の文に華をクハ、所以をユヘと註してある。これはクヮ、ユヱであるべきものであり、且つ當時ハ行音は音に發音されてゐた筈であつて、その音が彼此近かつたから、クヮをクハ、ユヱをユヘとまちがへたものと察せられる。これを傍證として、前掲のハワの混同も fa と wa との混同と考へたくなるのであつて、我が文獻あつてこの方はハ行音は、少くとも標準音に於ては、p 音に發せられたことは無かつたのではあるまいかと思はれるのである。併し擬聲音には、p 音も用ひられたのではないかの疑がある。例へば、平安時代の例ではあるが、
笠をほうほうと打てば (落窪物語) 大きなる松の木などの二三尺はかりにてまろなるを、五つ六つほうほうと海に投げ入れなどするこそいみじけれ (枕册子)
などの「ほうほう」は今もいふやうに、ポンポンと云つたのでは無からうか。さうしてそんな場合には、上代といへども同じことで無かつたではなからうかと思はれる。
以上音聲に關する記事は、國語を組織するもののみに就てであることは、申すまでもない。
近世語的傾向は平安時代末期から見え始める。動詞の上下二段活用の一段化、助動詞タルのタ化の起原に就ては前に述べた。助動詞ムのウ化は康治元年に書かれた極樂願往生和歌に「ウシヤウシイトヘヤイトヘカリソメノカリノヤトリヲイツカワカレウ」
とあるのが初見である。この極樂願往生和歌はイロハ歌を沓冠に置いて詠んだもので、平安時代は撥音をムともウとも書いたのであるから、この歌も冠のウに合せて沓をウと書いてはあるが、撥音に讀ませたものかも知れない。けれども、平安末期は國語に近代的傾向が見え始めた時代ではあるし、平家物語には、助動詞のムがウ化しつゝあるのだから、右のウも文字通りに u と發音したものと解してよからう。但しこれを拗音にワカリヨウと發音したものでは無からうと信ずる。このウが一段活用や變格活用に連續する時に、例へばミ(見)ウをミ・ヨ・ラ、セ(爲)ウをシ・ヨ・ウといふやうに、ヨウと變化したのは江戸時代からのやうである。
室町時代に謙讓助動詞にマヰラスル(參)及びその頽形のマラスルが現はれた。今日使用してゐる謙讓助動詞のマスはこのマラスルとマスとの混成したものでないかと、私は考へてゐる。マスはマウス(申)の頽形である。
日本語も漢語、アイヌ語、朝鮮語、梵語、葡萄牙語、和蘭語、英吉利語、佛蘭西語、獨逸語等の影響を受けた點が無いではないが、それは木でいへば枝葉に過ぎないのであつて、根幹は更に動搖してゐないことに注意しなければならぬ。即ち國語の特質は、古來一度も動搖したことは無かつたのである。國語の本質を形成する特質の一は、国語の音節は必ず母音で終ることである。撥音が現はれて、母音で終らない例を生じたが、やはりその撥音が一音節として扱はれる點は、母音で終るものと同じことである。從つて外國語を取入れるにも、子音で終るものには、そこに必ず母音を加へて、國語の法則にかなはせるのである。漢字の入聲音などの國語としての發音がその例である。その他の外國語でもインキ、ナイフ等皆同じである。その二は、國語は、助詞助動詞の類が、實語に附着していろいろにはたらく附着語だといふことである。その三は、特別の事情の無い限り、主語が述語の前にあり、修飾語が被飾語の前にあるといふことである。その四は、敬讓語の發達である。その五は主語の省略の多いことである。こまかく見れば、まだ數へられもしようが、この五點は見のがしえぬ國語の特徴である。外來文化がおしよせて、外來語の波が高く襲來しても、この特質が國語を守つてゐる。表面の姿は時代と共に移つても、この特質は移らない。そこに國語の根強さがあることを思はなければならぬ。而して我等は、この國語によつて、物を考へ物を見て、知らずの間に、日本精神を養ひ、祖先と團欒してゐるのである。