古人を尊重せよ

學術講演の題目らしくないやうですが、今晩は主として、上代人の國語上の業績を、この題目の建前に於いて、申述べて見たいと存じます。

私は、古い時代の文獻を、或は文學的に、或は文化史的に研究するのには、先づその文獻を完全に解釋しなければならぬ。それが完全に出來てゐれば、文學上又文化史上の總べての問題はおのづからに解決するといふ建前にあるものであります。ところで、この解釋の上に先づ障碍になるのは、古人の業績を時間的に見て輕蔑しようとする傾向であります。「千二百年も昔のことだ」といふ先入主――文化程度の低かつた時代のことだといふ先入主が、知らず〳〵の間に解釋を誤らしめるといふことは、常に見られる事實でありまして、そんな點に警告を與へて、幾分でも若い學徒の研究態度の上に參考になつたらと存じまして、かうして講壇に罷出た次第であります。

一體明治以來歐米の學風が――當時の歐米の學風の實際がどういふものであつたかは存じませぬが、ともかくも輸入された學風は、解釋學を殆ど忘れてしまつたものでありました。解釋學は學問的價値も認められず、從つて學位詮衡の問題にも取上げられないといつた有樣で、大學の學生などでも、「大學でもまだ講釋をやるのか」と云ひもし思ひもするほどに、輕蔑されてしまひました。從つて解釋力の低下は見るもあはれな現状であります。それでも纒め上手になつてをりますので、論文だけ見てゐますと、誠に立派な外觀を具へてをりますけれども、資料の檢討に立入つて見ますと、手も着けられないのが多いのであります。つまり解釋學の蔑視、解釋力の低下が將來した結果でありまして、國文學上の諸論ばかりでなく、苟も古文獻を材料とした文化史上の諸論も多くは檢討を致さなければならぬのではないかと、傾かれるといふやうな心細さを感ずるのであります。一口に申せば、日本學は全部出直さなければならないのではないかといふ感じが致します。古文獻の正確な解釋が出來なければ、古代日本の本當の姿の分らう筈はなく、古代日本の本當の姿が分らないで、現代日本の本當の姿が分らう筈もありませぬ。國民精神文化研究所でも特にこの點に御注意が願ひたいと存じます。――こんなことは私が今更申すまでもなく、疾くに御實行になつてゐることと存じますが、これが國民精神文化を徹底的に理解する途であり、日本學の基礎を確立する途であると信じますので、更めて御願ひ致す次第であります。

只今島津博士が源氏物語の文學的優雅についておもしろく御話になりましたが、現代解釋力の低下が、この國寶的文學についても、根本的に誤らしめてゐるのでありまして――先日或る要事と要事との時間つなぎに映畫をのぞきました。「劍光櫻吹雪」といふのでありまして、田沼意次の奸謀を松平定信が觀破して、これを未前に防止しようとするといふ筋のものでありました。その中の一場に、意次が將軍家を淫蕩懦弱に導く手段として源氏物語を講ぜしめつゝあつたのを、定信が部下をして阻止するといふのがありました。その日恰も夕顏巻を講じようとするところであつたと記憶します。ところで定信は、その夕顏巻の歌を本歌として、「心あてに見し夕顏の花散りて尋なぞねぶる黄昏の宿」といふ歌をよんで、「黄昏の少將」といふ仇名を取つた人であります。定信が左近衞權少將に任ぜられたのは寛政五年でございますかじ、この歌を詠んだのは、四十歳前後の分別盛りであつた筈であります。のみならず、定信は自ら源氏物語を寫すこと数部に及んだといふ源氏物語の大念者でありますから、この映畫に於ける源氏物語の取扱ひ方は、實に變てこなものであります。尤も作者は國文學者でも國史學者でもありますまいから、致方がないとしましても、定信を取扱ふならは、日本人名辭書位は一度見ておいてもらひたかつたのです。が、こうした國寶的な古典を扱ふときには、監督官廳に於いて然るべく注意して頂きたいと思ふのであります。これでは、源氏物語を本當に誨淫書ででもあるやうに、一般國民に認めさせる宣傳になりはせぬかと懸念されるからであります。併しかうした取扱ひを映畫作者がするまでに源氏物語を追込んだに就いては、國文學者の貧弱な解釋力に責任があるのであります。源氏物語が如何なる書であるかは、先年文藝春秋その他にも書いてありますから、こゝには省略しますが、樂翁ほどの人があれほどまでに源氏物語を愛好せられたのは、源氏物語が婦人問題を中心として、純日本文化精神の上から人生を批判した唯一の古文獻であつたからだと信じてをります。けれども、今夕は源氏物語を例にとつて申上げようと致してゐるのではありませぬから、これ以上時を取ることは避けたいと存じます。

萬葉集といふと、「何をいつても千二百年前の物だ」といつた先入主觀が、萬葉集の和歌を「上古の歌はわざと姿をかざり詞をみがかざれども、代もあがり人の心もすなほにして、たゞ詞にまかせていひ出せれども、心も深く姿も高く聞ゆるなるべし」といつた見方で鑑賞せしめがちであります。これは藤原俊成が古來風體抄に説いてゐるところでありますが、今日でも大體こんな見方が、萬葉集の歌に對する一般の見方では無いでせうか。こゝ數年來萬葉集の見方も大部變つて來たとはおもひますが、とかく「上れる代」といふことに引附けられがちなやうに思はれます。但し和歌の用語法で私が氣附いただけでも、平安時代の修辭法は、本歌取りや縁語に至るまでも全部用ひられてゐるのみならず、平安時代には見られない修辭上の努力も發見されるのであります。それほど用語上に深い廣い注意が拂はれてゐた時代でありまして、話語の外に、文語の外に歌語を持つてゐた時代であります。當時の歌語は、和歌の性質に基づいて、當代話語中の雅語を選んで基本とし、新造語、古語、時には俗語・略語なども交へて組織されたもので、また語法に於いても、文語には容されないやうな破格までも認めて表現聲調に資するといつた態度に於いて選定されたものでありました。この事に就いては、古く教壇で話したことやら、雜誌に書いたものやらを纒めて發表したものがありますので、それに讓つて省略致します。

奈良時代に出來た見事な佛像を見ても、簡單に信仰の力といふことで片附けてしまはうとする。信仰力は技術に一段の生氣を與へたではあらうが、如何に當時信仰力が強かつたにしても、技術なしに、あゝした傑作が生れるものではありますまい。多くの例を引くまでもなく、東大寺の大佛の鑄造術を考へただけでも、當時の優れた技術の程は窺はれようと存じます。已に歴史以前に於いて、我等の祖先が殘していつた銅器を見ても、日本獨特の合金術が發達してをりまして、それが鑄造を容易ならしめる爲の發明であるといふのでありますから、奈良時代の鑄金術も必ずしも唐土の模倣そのまゝであつたと斷定することは出來なからうと思はれます。

恐れ多い例ではありますが、先年正倉院御物の錦繍類が奈良博物館で展觀されたことがありまして、私も拜觀に參りました。その展觀品の多くは、聖武天皇御葬儀用の御品であつたと記憶致してをります。かうした御品は、固より前以て用意される性質のものではなし、さればと云つて御變かあつたからとて急に唐土から取寄せられた時代ではなし、また注文を發したとても、難破の恐れも多分にあつた船便を當てにして待つてゐられるものでもなし、結局これらの御品は日本に於いて謹んで織られた清淨な御品々で無ければならない筈であります。されば、當時已にあれだけ立派な錦繍が、日本で織れたといふことになるのであります。それも多くの人々は、さしたる感激もなしに、舶載乃至は模倣の一言で片附けようとするのでありました。模倣ならば模倣でいゝが、模倣にしてもそれだけの技倆が要るわけであります。即ち奈良人がさうした高級な腕を持つてゐたことは否定出來まいと存じます。のみならず、それだけの技倆を持つてゐた祖先が、單なる模倣で甘んじてゐたとは信じられませぬ。日本人の特性として、必ず或る程度の日本的創意を加へる事なしに、即ち日本的なものにしないで滿足してゐる筈はないと信ずるのであります。

また昨年上野の帝室博物館で拜觀を容されました御品々も、唐土からの舶載品と、無雜作に片附けて疑はなかつた人も多かつたやうに存じます。或はさうかも知れませぬが、あの位佛教が行はれ、佛像佛刹が盛に作られたのだから、その壯嚴に必要な錦繍や調度品の需要も相當多かつた筈であります。それを一々唐土から取寄せるといふことは、到底當時の海運力の堪へるところでは無かつたのであらうと想像されます。即ち展觀の御品の中には日本製の作品もあるのではなからうかと思はれます。試みに、卓の類を數へて見まして、その樣式の豐富なこと、技術の巧妙なこと、現代も及ばぬもののあることを感じました。源氏物語雨夜の品定の中に、樣定まらぬ木工品をいろ〳〵新案する記事のあるのを思ひうかべて、眺め耽つたことでありました。

以上略述した物質文化に就いて見ても、奈良時代を了解することは出來ようと思ひますが、また大寶令の制定に見ましても、それは唐六典に據るところのあつたことは申すまでもありませぬが、能く日本の國情を知悉してゐて、神祇官を第一に立てゝ太政官を之に竝立せしめたのを初めとして、全部我が國情に適するやうに、根本から改組整理したものでありまして、決して彼の法制を鵜呑みにしたものでも、模倣したものでもなかつたのであります。

また當時の思想上の惱みは、老子の虚無思想でありました。この虚無思想は我が國情に害あるものとして、當時の我が政府はその侵入を防ぐに努力したのでありました。李氏の祖先は老子であるといふので唐の政府は、あらゆる手段を講じて、この説の宣傳に盡しました。交際してゐた諸外國の中には、唐におもねつて、その道士を乞ひ迎へたのも少くなかつたのでありますが、我が政府は斷乎として誘惑を拒絶しました。我が祖先は能く國情を理解して、外來思想を批判し取捨するだけの識見を持つてゐたのでありまして、精神文化に於いても、奈良時代は、相當な水準に達してゐたものと信ずるのであります。併し今日、赤の思想の潜入が防ぎきれないやうに、當時も老壯思想の潜入を防遏することが出來ず、識者を惱ましたものらしいのであります。その事情は山上憶良の令反感情歌によつて窺はれるのであります。

佛教思想問題は大體一段落着いた時でありましたが、新舊思想の相剋は日に〳〵盛になつていつたやうであります。やゝ下つた平安初期の著述ではありますが、古語拾遺の齋部廣成の序文がそれを物語つてゐるのであります。尤も奈良時代は新舊思想が相剋しながらも均衡を失ふまでには至らなかつた時代であります。即ち一方に新思想が輸入されれば、一方に國粹思想が擡頭するといふ有樣で、兩々對峙するといつた時勢相でありました。音樂におきましても、一方に海外の儛樂が盛に輸入された時代でありますが、またこれに對立して我が國の古典が興隆したことは、萬葉集に天平八年十二月十二日歌儛所之諸王臣子等集葛井連廣成家宴歌二首の序があつて「比來古儛盛興、古歳漸晩云々」と見えてゐるのでも察せられます。

また一方に詩集が出來れば、一方に歌集が出來るといつた有樣で――現存最古の詩集は天平勝寶三年に出來た懷風藻であり、現存最古の歌集は萬葉集であるが、詩集には懷風藻以前に藤原宇合集石上乙麻呂銜悲集等がありましたし、歌集にも萬葉集以前に古歌集・柿本人麻呂集・山上憶良類聚歌林等がありまして、兩々妍を競ふといつた觀があるが、結局詩集よりも歌集の方が前に出來たと推定されてゐるのであります。

こんなわけで、奈良時代は新舊事象が對峙してゐた時代でありまして、歴史家は往々にして、奈良時代を支那文化心醉時代のやうに申しますが、さうした時代が平安時代の初めにはあつたやうでありますけれども、奈良時代を心醉といふ言葉を以て呼ぶのは不穩當だと信じます。この事實は萬葉歌人の詠歌態度からも斷言出來るのであります。

支那を目標として日本を對立せしめるといふ事實は、畢竟上代に於ける時代精神を反映するものでありまして、聖徳太子が推古天皇十五年七月小野妹子を隋に遣はされた時の國書は「日出處天子致書日沒處天子無恙」でありました。同十六年九月再び小野妹子を隋に遣はされた時の國書は「東天皇敬白西皇帝」でありました。聖徳太子がこの二度の國書によつて御示しになつた御態度は、實に上代人が繼承し奉つた對外文化態度であつたのであります。彼に青史あれば我にも青史なかるべからずといふ態度が、推古天皇の御代以來國史編纂事業を繰り反さしめた所以でありませう。この國史編纂事業は懷古思想を刺戟し、一層國粋觀念を増強せしめたでありませう。さて詩文に對して和歌の勃興となり、萬葉集の編纂ともなつたでありませう。詩集に對して歌集、詩語に對して歌語――奈良時代には特に歌語を持つてゐたことは前に申しました。彼に辭書あれば、我にも辭書が編纂されたのでありました。養老に楊氏漢語抄がありその以前に辨色立成が出來てゐました。共に傳はつてゐませぬから、委曲を知ることは出來ませぬが、倭名類聚鈔の序文によると、何れも漢和辭書であつたやうであります。當然日本人の手で出來た著作と考へられます。

漢字の用法に對する假名の用法――即ち假名遣も當時已に出來てゐました。當時假名遣が發達してゐたと申したら、意外に思ふ人も少くはありますまい。所謂特殊假名遣を知つてゐる人でも、一般假名遣までは思ひ及ばない人が少くは無からうと思ふのでありまして、私は岩波の日本文學講座中の「國風暗黒時代に於ける女子をめぐる國語上の諸問題」(昭和七年十月)に於いて、説いておいたのでありますが、その後今日までこれを口にした人は無かつたやうであります。併し特殊假名遣が認められたら、上代人が假名の用法に注意したといふ事實は認められなければなるまい。けれども、この事實は音聲の相違を示すだけのことで、假名用法の存在を證據だてるものではないといふ人もありませう。が、今日のところ、あゝいふ特殊假名遣なるものが如何にして存在したかに就いては、まだ明らかにされてゐない。たゞ音聲殊に母音素の上に相違があつたからであらうと想像されてゐるに過ぎないのでありまして、その當てられた漢字音の性質さへも證明されてゐないのであります。よしや漢字音の性質が明らかにされたところで、漢音から國音轉寫への漢字の應用といふ事實が認められる上は、それだけで、國語の發音に相違がたつたといふ證明にはならないのであります。それはともかくも、それほどにむつかしい微妙な漢字音の使ひわけが、國語の音を寫す上に振り當てられてゐて、しかも誤らなかつたといふ事實だけでも、當時國語の音を文字に寫す場合に、即ち假名の用法に、如何に細かい注意が拂はれてゐたかを認めることが出來ようと存じます。

が、それもこれも、漢字音が判然してからの論でありますが、(特殊假名遣の現解釋に對する疑義に就いては、現に發行されつゝある朝日新聞社の國語講座中の「國語史に就て」の中に多少委しく説いて置きましたから、參照して頂きたい)私はこの所謂特殊假名遣を一種の當字アテジ式用法と――暫定的ではありますが――假定して見たいのであります。當字とは、萬葉假名の一種でありますが、或る語にのみ專用されたものをいふのであります。兎角・無沙汰等でありますが、これにも出鱈目・無茶苦茶等の戲訓もあります。また故事に關係を持つてゐるのでは無いかとおもはれる馬鹿といふやうなのもあります。

私の假定した右當字式用法は、所謂特殊假名のやうな字音假名に限られてゐるのでは無くして、字訓假名の中にも見られるのであります。石塚龍麿の假名遣奧山路の例言中に、

萬葉にも假字をひろく用ひたれども、定りに違へるはいともまれなり。又訓をとれるにも借字を用ふるにも定めあり。辭のにはを用ひてを用ひず。すその、まそ鏡のにはを用ひてを用ひず。の借字、は蘇の借字なるがゆゑなり〈但し此格に違へる處もひたふるになきにはあらねど、そはいとまれなり〉

と見え、また森本健吉氏は「萬葉集の字訓假名に就いて」の中で、

字訓假名の用法を全卷に亙つて調査して見ると、此種の假名は(甲)ある品詞にのみ用ゐられてゐるもの、及びある限られた品詞に最も多く用ゐられてゐるもの(乙)各種の品詞に差別なく自由に用ゐられてゐるものの二種に大別出來るやうである

と述べ、更に表示細別してゐられますが、その(甲)に屬するものとあるのは、私の所謂一種の當字式用法に當る訓假名でありまして、當時、或る語にはいつも或る假名が當て用ひられたのであります。

かういふわけで、この種の用法は字音假名には限られないのでありまして、私は所謂特殊假名遣なるものも、この範疇に入るべき當字式用法であつて、國語の發音を書き別けてゐるのでは無いのではなからうかと假定するのであります。

この問題とは別でありますが、上代に、當字式用法が行はれてゐたことは事實でありまして、古事記傳の「假名の事」の條を一見しても明らかなことで、讚岐・丹波・博多・相樂の如き國名地名を初めとして(中には吉備と書いたり岐備と書いたり、筑紫と書いたり竺紫と書いたりといふやうな動搖してゐて固定に至らなかつたものもある)キの假名に伎・貴・幾・吉などがある中で、貴は神名阿遲志貴のみに、幾は河内の池名志幾のみに用ひられてゐるやうな或る語には或る字のみを用ひるといふのは、當字式用法に屬するのでありまして、上代に於いて、當字式用法が行はれたといふことは、珍らしいわけではないのであります。

少しく餘談に亙るやうですが、この序に申添へたいと思ひますのは、我が國語上の漢字の用法は、總べて一種の假名當字式のものであるといふことであります。人の名でさへ、人丸と書いたり、人麿と書いたり、遍照と書いたり、遍昭と書いたり、また漢字で書いたり、假名で書いたり、平安時代に書かれた勅撰集を見ると、この點、實に自由自在であります。時代が降つて、實盛と書いたり眞盛と書いたり、また本人在世中から、世阿彌と書いたり是阿彌と書いたり、善竹と書いたり禪竹と書いたりするといつた状態でありました。つまり文字は漢字といへども、國語を寫すに用ひるときには、ただ言語の音聲を寫す假名としての扱ひ以外の何物でも無かつたのであります。普通の假名のやうに自由であつては、彼此混同する虞があるので、當字風に、なるべく一定してゐた、或は一定に近い用ひ方をしてゐたといふまででありました。またミルといふ言葉に見字を書き、キクといふ言葉に聞字を書くといふことは、一見漢字を漢字として正しく書いたもののやうに思はれてゐるけれども、ミルと訓むべき漢字は數々あり、キクと訓むべき漢字は幾字もあつて、漢字としては、それ〴〵意味に相違がある。從つて、これを漢字として正しく用ひようとしたならば、それ〳〵の意味によつて、それ〴〵の漢字を書きかへなけれはならない筈であります。然るに、どんな意味の場合でも、ミルにはいつも見字を書くといふことは、つまり、その訓み方を借りて、漢字としての當該意味を棄てたことになるわけで、即ち、一種の訓假名として用ひてゐるに外ならないのであります。キク・イフ等皆それ〳〵同斷で、吾人は、その訓を借りたといふだけで、正義は之を棄て、訓假名の一種として用ひてゐるのであります。これを漢字の意味によつてやかましくいふやうになつたのは、近來のことでありまして、古來我が祖先の國語を寫す爲に借りた漢字使用方法は、總べて假名式當字式であつたのであります。この祖先の漢字使用精神を以て臨んだならば、今日の漢字整理問題も容易に解決されることと信じます。私は、漢字使用の精神に於いても、祖先の精神に還れと申したいのであります。祖先の精神に還りさへしたならば、國語を寫すに用ひる漢字は、一種の萬葉假名といふことになりますから、むつかしい問題は無くなるわけであります。現代論議されてゐる國字問題も國語問題も、功利主義や便利主義や理窟押しや、そんな見方ばかりで、重大な傳統に立脚しなければならないことも、歴史に稽へなければならないことも、忘れられてゐるのであります。我が國が如何にして今日まで發展したか、その發展の跡を忘れてゐるのであります。祖先を輕蔑してゐるのであります。祖先がどういふわけで、さうした道をたどつたかを見ようとしないのであります。而して傳統的精神が日本文化の上には、特に重大であることを忘れてゐるのであります。傳統を無視した精神が、日本に育たう筈はないといふ事さへ理解されたならば、國字國語の問題の如きは簡單に處理されようと思ふのであります。

さて奈良時代に於ける一般假名遣について申述べたいと存じます。「奈良時代は發音が正しかつたから、自然に假名遣に間違ひが起らなかつたのだ」といふのが、一般の持つてゐる通念であります。併し發音が正しければ假名遣が誤らないといふ考へ方は餘りにも安易な考へ方であります。發音通りにさへ書いたら、假名遣はおのづからに一定するといふやうなことを言つてはならないのであります。「馬」といふ語を例にとつて見る。馬は奈良時代にはウマで統一されてゐます。それが平安時代になると、倭名類聚鈔はムマと書かれてゐます。尤も馬何と熟語となつた時は、倭名抄も本草和名もウマ・ムマ兩用になつてゐます。次に梅といふ語を例にとつて見る。奈良時代にはウメで統一されてゐます。それが平安時代になると、本草和名はムメ、倭名抄はウメ〈但し一本にムメ〉と書かれてゐます。馬や梅を羅馬字によつて表はせば mma, mme であつて、この發音は奈良時代も平安時代も現代も同一であつたであらうと考へます。その準備的頭音の m が奈良時代にはウで統一されてゐたものが、平安時代にはム・ウの二字に分れたものであらうと信じます。それはともかくも、奈良時代も平安時代もそれ〴〵の時代音はそれ〴〵の時代に於いて同一であつたであらうが、奈良時代は統一せられ、平安時代は二樣になつてゐるのは、奈良時代は假名遣の統制が行はれ、平安時代は使用する人の任意に書かれた結果と考へなければなるまい。即ち發音が一つならば、おのづからに假名遣は一致するといふ考へ方の誤つてゐることは認められなけれはなるまいと思ふのであります。

なほ平安時代の假名用例によつて、同音が必ずしも同假名で表されなかつたといふことをお目にかけませう。「欲」をとり上げる。

ホス  ホンス  ホツス  キラフテ(この嫌はまたキラテとも書かれてある)

つまり促音が○・ン・ツ・フの四種の方法で表はされてゐるのでありまして、同一の音であつても、人によつて假名用法を異にする事實を物語つてゐるのであります。また源氏物語を湖月抄本と徳川本とによつて見ると、

屈(須磨) 湖ク (若菜下) 湖クツ
徳ク 徳クン
靈(若菜下) 湖ラウ・リヤウ
徳リヤウ
喧噪(少女) 湖ケウサウ
徳ケサウ
讒(柏木) 湖ザウ
徳ザウ
封(橋姫) 湖フウ
徳フム
疊紙(賢木) 湖タヽム
徳タヽム

以上の如き事實がある。これはほんの一部の例に過ぎないのでありますが、同一音でも、假名に寫されると、どんなに變つた姿になるかの一端を知ることは出來ようと思ふのであります。これで見ても、音聲が一つであれば、假名の用法が一致するといふ考へ方が、如何に間違つてゐるかが明らかであると同時に、如何なる場合に於いても、假名遣の統制がなければ、假名遣の統一は見られるものでないといふことも明らかであらうと存じます。結局、奈良時代は假名遣の統制があつたが、平安時代はその統制が無かつたといふことになるのであります。

奈良時代に假名遣が統一されてゐたといふ事實は、自然の齎したものでは無くして、當時の識者によつて假名の用法が研究せられ制定せられ、それを時人が眞面目に受入れて、服從し實行した結果と考へざるを得ないのであります。かうした國語假名遣統制問題には――漢字を假名に使用する上に就いての考究――漢字の音聲は必ず國語の音聲とは同一でなかつたから、或る場合には類似音を適當に應用するに就いては、相當の苦心乃至は審議檢討も行はれたであらう――また漢音を假名に寫取るに就いての考究――例へば喉内初め舌内唇内の三内音を寫すに如何なる假名を以てするか、 P 音を寫すに如何なる假名を以てするか、入聲を假名に寫すに如何なる方法を以てするか等の諸問題の如き――などには多くの識者が注意深い討議を重ねた上で、今日見るやうな一致點に到着實施したものでなければならないのであります。始めて漢字漢音を取扱ふ必要に直面した祖先の御苦勞は察するに餘あるものがあつた筈であります。かうした苦心は、やがて國語假名遣の統制實行といふ點に振向けられないでは止まなかつたものであらうと、私は、かういふ順序で國語假名遣の制定事情を解釋してゐるのでございます。

學者達も、奈良時代の假名の用法の統一は發音が統一されてゐたからだと申してをりますが、假名用法の統一はさておいて、發音が統一されてゐたといふことそれ自體が、さうやす〳〵と云つてのけられるものでは無からうと存じます。なるほど奈良時代に於いては、文字を用ひることの出來る人も階級も、即ち假名遣に交渉を持つ人々は、今日のやうに複雜多樣では無かつたわけでありますから、さういふ範圍内の發音統一といふことは、今日のやうに困難なことでは無かつたであらうと思はれます。が、それでも、職業の相違もあり、身分の高下もあり、男女老幼の別もありましたから、それを完全に統一するといふことは、容易では無かつたでありませう。だから、その發音を、いざ文字に寫さうといふ場合、その文字を統一しようとするのには、或る約束即ち人爲によつて定められた假名用法の法則に依據しなければならなかつた筈と存じます。

けれども、教育ある文字使用階級の人々の發音は、通則的に申せば、標準音と申すべき音聲によつて統一されてゐたと存じます。なほ一歩進んで申せば、標準語といふべきものを奈良人は持つてゐたと考へていい事實があるのでございます。標準語といふ名は、當時の用法に適切でないかも知れませぬ。當時の申しやうからは、雅語といふべきであらうかと存じますが。(當時雅語といふ名稱は文語としての漢文語を呼ぶものであつて、國語の中で、雅俗といひわけてゐたと信じられる證左は無い。だからこゝに「雅語と稱すべきだ」と申したのも標準語といふ名を用ひるよりは、雅語といふ方が適切だといふ意味に解して頂きたい)例へば「行」といふ言葉は、今日でもユクといふ形と、イクといふ形とありまして、ユクは主として書言葉に、イタは主として話言葉に用ひられてゐますが、奈良時代にも平安時代にも、大體さういふ使ひ分けに於いて存在した言葉でございます。即ち奈良時代に於いては、ユクを雅語として標準語として用ひてゐたのでありまして、イクといふ形は詠歌の法則上、餘儀なく、和歌の上にのみ姿を現すといつた程度のものでありました。かういふ鄙俗語で、和歌にのみ用ひられてゐる言話に、略語があります。例へば、モフ(思)へ(上)ヨ(より)ユ(ゆり)の類であります。但しチフ(と云ふ)ワギモ(我が妹)の如き約合語は別でありますから混同しないやうに願ひます。かういふ略語は鄙俗語として、當時標準語中に加へられてゐなかつたことは、宣命文の如き嚴肅な文章の中には決して用ひられなかつたといふ事實に徴しても明らかなところと信じます。たゞ和歌は音律の制約その他詠歌法則がありまして、いろ〳〵數多くの語彙を抱いてゐる必要がありましたので、これらの俗語も、特に歌語としては容されてゐたわけであります。

何れも貧弱な例ではございますが、ともかくも奈良時代に於いて雅俗語の識別があり、その用途に規準があつた事實は窺はれようと存じます。

上代に於いて、かうした國語上の諸問題――通念からいへば、不思議に思はれるほどの諸問題が取上げられたのは、前に國語仮名遣に關聯して一寸觸れたやうに、漢語問題――學問上實用上に生活として當時に必要であつた――に刺戟され啓發されたのでは無からうかと考へます。學問としての問題はさて措き、隋唐との交通は、漢語の正しい發音やら、正しい書法やら、正しい用法やら、即ち正しい官話が學ばれなければならなかつた筈であります。持統紀を見ますと、音博士の名も書博士の名も見えてゐます。日本外交の體面上、官話を、恥しからず發音すること、恥しからず書くことが必要であつたから、その指導官が置かれてゐたわけでありませう。袁晋卿が歸化して音博士に任ぜられて後は、音博士の名は見えないやうでありますが、御代御代に唐人を傭聘して、これが指導に當らしめられたものと信じます。而して入唐した祖先は、彼の國にいろ〳〵の方言鄙語のあることも親しく見聞し、その方言鄙語の中に、正しい官話があつて、それが識者官人の間の通用語として取上げられてゐた事實も親しく見て來たのであります。勿論官話と方言との待遇、關係といふやうな事も見て來た筈であります。かうして、正しい漢語を持つといふ必要は――前にも申したやうに、對立的に國粹に着眼した時代でありましたから――おのづから正しい國語を持つといふ必要に着眼せしめなければならない筈と信ずるのでございます。

かくて標準語ともいふべき正雅な國語が考へられ、その正雅な發音が考へられ、その正雅な表現法――假名遣、文法等――が考へられなければならなかつたでありませう。論より證據、さうした事實の儼存することは、文法上の問題を除いては、不完全ながら上述した通りであります。私はたゞその事實に説明を附けようと致してゐるまででございます。繰返し申しました通り、支那文化事象と對立的に國粹文化事象が擡頭した上代でありますから、國語學の展開も漢學に對立して起つた現象の一つと解釋することは、無理では無からうと存じます。

文法上の問題を解決する第一の鍵は、宣命書きであります。この文體は文武天皇御即位の宣命に初めて見えてゐますが、これを以て最初とすべきか、またこの文體が我が祖先の獨創であるか、海外に學んだものであるか、判然しないのであります。若し外國からの影響であつたとすれば、第一に朝鮮が考へられますが、明らかでない。朝鮮には、李朝になつて、先習童蒙にこの書式が傳へられてゐるけれども、それは朝鮮の訓點本の樣式でありまして、この書式はやがて諺文交り文として通用文體に踏襲されて來たのではありますが、また我が宣命文體も訓點本の書下し體と見たい書式ではありますが、さういふ諺文交り文の如き書式が、古く朝鮮にあつたらしい形跡も見たないのであります。それ故私は、宣命體を以て日本の獨創體と考へてゐるのでございます。が、かういふ問題は必ずしも當面の緊急事では無いのでありますから暫くさしおいて、この宣命體は、上代に於ける文法的知識の存在を物語るものであります。即ち宜命體には、活用語の語尾、助詞の類などが識別されてゐるのであります。今日の文法學から見れば、不完全なものではありますが、ともかくも、此の識別が無かつたならば、宣命體は書かれたかつたのであります。

上代人の用言活用の認知は、ただに用言活用の認知といふに止まらないで、その活用の種類までも識別してゐたのであります。橋本博士の特殊假名遣研究から考へますと、動詞活用中にも四段・上下二段・上一段・カ變ナ變が識別されてゐた事實を認めることが出來るのであります。

助詞もただ識別されてゐたばかりでなく、或る整理が行はれてゐたことは、萬葉集の大伴家持の歌に

霍公鳥今來喧曾無菖蒲可都良久麻泥爾加流流日安良米也〈毛能波三/箇辭闕之〉

我門從喧過度霍公鳥伊夜奈都可之久雖聞飽不足〈毛能波氐爾乎/六箇辭闕之〉

とありまして、モ・ノ・ハの順序が二言共に同一であるといふことから察せられるのであります。なほこの推察を助ける材料にヲコト點があります,ヲコト點中の古點を見ますと、皆モ・ノ・ハ・テ・ニ・ヲの六辭が、ヲコト點の原始點形である星點で表はされてゐるのでありまして、彼此參照しますと、助辭類が或る方法で整理されてゐたことを思はないわけには參りませぬ。

以上述べ來つた上代に於ける國語諸問題の研究は雅語即ち標準語の設立といふ事實によつて統括せらるべきものであります。かうした國語學は、國語が女子の手に移つた平安時代になつて忘れられたのでありますが、ともかく江戸時代本居學が建設されるまでは、我が國語學の權威として、千二百年の生命を持續したものであります。

上代人の國語上の功績は、ただ文學として萬葉集を殘したばかりでなく、國語學の建設者として、またその實行者として、十分の尊敬を拂はなければならないのであります。この尊敬すべき業績を認めないやうでは、上代文化の分らう筈はありませぬ。また萬葉集の解釋にしましても極めて皮相的な膚淺なものになつてしまふのであります。從來果してそれだけの用意が拂はれてゐたでございませうか。

日本諸學振興委員會が設けられまして、日本學を奬勵なさるやうになり、それが年と共に生育していくといふことは、誠に結構な事でございます。が、それはせめてもの喜びでありまして、日本學は、これを一般的に申せば、前にも申しましたやうに實は基礎工事すらも出來上つてはゐませぬ。打見たところ、絢爛たる美しさはありましても、多くは根無草の花であるに過ぎないのであります。支那學には東亞文化研究所といふ立派な純學問的研究室があります。奈良時代の精神にかへつて、この支那學の研究室に對立して、日本學の純學問的研究室が建設されるやうに御努力下さいますやう、此の上とも當局諸賢に御願ひして止まないものでございます。

初出
日本諸學研究報告 第12篇(國語國文学): 310-327. (1942)