資料の蒐集 : 明治文化研究者として

古本の話をしろとの注文であるが、古本にもいろ〳〵ある。古本蒐集家といへば稀覯の珍籍を聯想しがちだが、かういふ見地からすれば、私などには到底その仲間に伍する資格はない。しかし私は多年古本を買ひ集めて居り又現に一生懸命集めても居る。中には稀覯の珍籍といひたいものもないではないが、一般古書鑑賞家の折紙をつけた類の珍籍はほとんど一册もない。何となれば私の蒐集するものは主として明治時代――多くの古蒐集家の顧みざる――に限られて居るから。

私の蒐集の目的は、明治時代の政治の實相を語り、併せてまたその間の政治思想の發達を語る根本資料を取そろへて置かうといふ點にある。明治時代を正しく理解するためには西洋文化の影響を閑却することは出來ない、この點から我國における洋學の發達といふ事は又特に力をいれて研究するの必要がある。この限りにおいて私の蒐集は自ら維新前數十百年にも遡らざるを得ない。かく洋學の發達を考へる段になると興味は勢ひ東西の交通の問題にうつり、遂に明治時代とは直接の交渉はないのだが遠く織豐時代の吉利支丹關係にも心をひかれる。かくして私の蒐集は東西交通の問題に關する限り三四百年の昔に飛ぶ。前にも述べた樣に洋學の事に關してはまた二百餘年前にも遡るのだが、しかし主として力を注ぐ所は矢張り明治時代――中にも維新前後から日清戰爭頃までなのである。


私は大正二年歸朝して教壇につき引續き政治史の講座を擔任したが、最初は專らヨーロッパの事を講義してゐた。早晩日本の事を講義せねばならぬと覺悟して、多少の用意はしたが、從てちよい〳〵資料なども集めては居たが、今から考へるとお話にならぬ程貧弱なものであつた。急に馬力をかけて集めだしたのは大正十年の六月からである。これはある事に感じた結果である(この事はまた別の機會に讓りたい)が、六月の某日神田南明クラブの古書展覽會へ行つて一擧に數百册を買つたのが病みつきの始まりといはばいへる。

昨今は古本屋仲間も分裂を重ね中心點が幾つも出來て古書展覽會は毎月の樣にあちこちで開かれるが地震前は大體二つに分れ、主としてクラシカルな和漢書を取扱ふ方は毎年二三囘南明クラブで展覽會を催し、新古取り交ぜの雜本を取扱ふ連中は同じく毎年二三囘西神田クラブを會場としてゐた。その都度端書の案内状がくるが、私は永い間往つて見よう見ようと思つては行かなかつた。それが急に思ひ立つて六月某日南明クラブに往つて見てまづその盛況に驚き、兼ねてまた展覽の書によつて私の專門に屬する根本資料の意外に豐富なるに驚いたのである。

こんなに澤山面白い本があるなら一刻も早く探し求めて買ひ揃へたいものだ。これは南明クラブから歸つての第一の感想であつた。間もなく西神田クラブの案内がくる、朝早く出かける、こゝでも澤山の買物をしたことはいふまでもない。早く次の展覽會がくればいいがと念ずるが、遂にこれが待ち切れず、毎日差食後には大學附近の古本屋を、又毎日曜には東京中の古本屋をあさりまはることにした。それ丈でも滿足出來ず、自分の集めたものゝ外に一體どんな本があるかを知りたい點から、その道の先輩を訪問して話も聞き藏書も見せてもらうことにした。段々心安くなつたある古書肆につき、該方面の蒐集家の氏名と住所とを聞き片ツ端から訪問した。今記憶に殘つてゐるだけを擧げると岡崎桂一郎博士 林若樹氏、内田魯庵氏、尾佐竹猛君、小野秀雄君、宮武外骨翁、渡邊修二郎翁等である。

東京始め大阪・京都・名古屋等の古書肆の年一二囘發行する目録も、大に私の蒐集を助けた。私の蒐集着手は至て新しいのだけれども、買ひ込む分量の多いためか直ぐ書肆の注目をひき、以來目録をドシ〳〵送つてくる。これによつて私のコレクションは段々と整つて來た。

私共に取て意外の幸運は十二年の大地震であつた。地震で土藏が毀れ今更金をかけて修繕してまで保存して置く必要もあるまいとて、數々の舊大名やら公卿華族やらの藏書の拂下が澤山あつた。その中の半分は明治初年の新聞その他の刊行物で、了度私の目指して居るものであつた。地震後約一ヶ年の間に、如何に多くの珍品が私の手にはいつたか分らない。そればかりではない同じ理由で舊公卿やら大名華族から學校等に向けて藏書の寄附がある。私共帝大に關係あるものはこの方面からも大いに知見を廣めた。最後にもう一つ。地震で圖書館が燒けたといふので、一時東京方面には書物の跡が絶つた樣なうわさが立つた。利に敏い東京の本屋は田舍へ買出しに行く、田舍の本屋は舊家を見込んで土藏の扉を聞かせる。値段がいゝので本がどし〳〵東京にいり込んだ。この中からも私共は澤山の珍品を發見したのであつた。

そんなわけで大正十三年は古本蒐集家に取つてもつとも忙しい年であつた。どんな珍品が現れるか分らないので、展覽會などは一度だつて缺かすことは出來ない。この年二月私は大學を辭して朝日新聞社にいり各地に講演旅行をやつて居つたが、東京に展覽會ある場合はプログラムを遣繰つてもらひ、甲地の講演を終つて夜行で歸京し、展覽會で半日募らした上又夜行で次の講演地へ行くといふ風に努めたのであつた。

この三四年前頃から展覽會へ行つて見ても目録をもらつても(昨今は目録をだす本屋が非常に殖へた)段々私の注目をひくやうなものは少くなつた。それだけ私は一通りは集めつくしたのかも知れない。明治時代といつてもさう無盡藏に本をだしたのでないから、十年も馬力をかけて集めた者には大抵見落しはないといつていゝ。


右の樣な次第で始めは豫備知識も何もなく無我夢中で集めたのであつたが、數年の後には形勢が獨り手に分つてくる、かういふ問題についてはどんな本があるとか、この本はよくある本だとか又滅多に出て來ぬ本だとか、從つて値段がどの位が相當かといふやうな事も明瞭に分つてくる。本當のいはゆる古書になると世に定評ありで相場も略決まつて居るが、明治ものになると研究者の鑑識によつて始めて價値が定められ、書肆としては從來扱ひ慣れたものでないだけ相場は皆目分らぬが多いやうだ。だから甲の店で五十錢で賣つてる物が乙の本屋では五十圓の正札をつけ堂々とシヨウ・ウヰンドウに飾つてあつたといふ滑稽事もある。一方で一圓といふが他方で十圓と出てゐるといふ樣なことはザラにある。

最後にことわつて置くが、私が一通り集めつくしたと威張つてもそは僅に法政經濟の一面に過ぎない。文藝や科學の方面でもついでに集めたものはあるが、それの完璧は固よりその方の專門家に讓つておく。私共の仲間の中で宮武外骨、石井研堂、尾佐竹猛、藤井甚太郎、齋藤昌三、柳田泉等の諸君の所藏を一緒にすれば、あるひは完備した明治文化研究資料が出來るかと思ふ。外にも同樣の骨折をやつて居られる方は澤山あると思ふが、特に經濟の方面では高橋龜吉君、明治堂若主人三橋猛雄君のコレクシヨンに敬意を表しておきたい。


初出
昭和6年6月24日「東京朝日新聞」
底本
閑談の閑談(書物展望社、1933年、pp.388—393.)