日清戰爭前後

日清戰爭前後の事を囘想すると、現代とは大部樣子が違ひ、子供心にも外國の侮りを受けたと聞かされて憤慨したり、國威を海外に輝かしたとの話に昂奮したことなどを憶ひ出す。福島中佐の西伯利單騎横斷(明治二十六年)はあの頃西洋でどんな風に見られて居たか知れぬが、我國では破天荒の冒険に西洋人のどぎもをぬいた痛快事として吹聽され、私共子供の眼には中佐は一個世界的英雄として映じ、その一擧一動の報道には毎に熱血をわかしたものである。新聞の斷片的報道を丹念に集め、地圖によつて覺束なき旅行談でもするとなると、學友會などは滿場立錐の餘地なき盛況であつた。その頃これにも増して我々の胸をおどらせたものは郡司大尉千島遠征の壯擧である(明治二十六年春)。千島の孤島に移住して北門警備の任に當らんと、豫備海軍大尉郡司成忠が同志の退職下士百餘人を率ゐ端艇五隻に分乘して北行するといふのである。大尉が幸田露伴の長兄だなどいふことは知らなかつたが、新聞が書き立て世間が騷ぐので私もじつとして居られない氣分になり、學友の間を奔走して若干の寄附金を集めなどしたのであつた。仙臺(當時私は同地中學の二年生であつた)を去る二里程の小漁港に立寄ると聞いたときは學友の多勢と歡迎に出掛けたものだ。短艇の航行なのでか豫定の如く來ない、二三度待ちぼうけを喰つた。一度は夜遲く着くときいて暗い道を夜露にぬれて出掛けたこともある。袴に草鞋、握飯を持つて行く。金を使ふことを知らないから緩くり温い茶をのむでなし、今日は來ないと聞けばその儘二里の道を仙臺に引き返すのである。大尉一行は豫定より二日おくれての晝過に着いた。小學校の庭に集つて一場の訓話を聽いた。内容は憶えてゐないが、非常の感激を覺えたことだけは今に記憶に殘つてゐる。

こんな氣持でゐるところへ日清戰爭の勃發だ。昂奮せざるを得なかつたわけだ。仙臺の第二師團も出征した。多くは眞夜中に出發する。私共は學業そつち退けにして毎囘停車場に見送りに出た。期せずして驛前に集る幾千人とゝもに幾囘か萬歳を繰りかへしたのであつた。

その頃仙臺に沼澤與三郎といふ奇行の士がゐた。年配は五十位でもあつたらうか、裕福な士族で平常は極めて温厚篤實の紳士だ。たゞ徹頭徹尾復古的愛國主義者たるところに特色がある。毎年五月の伊達政宗を祀る青葉神社の祭禮には、陣羽織陣笠といふ封建時代の武裝その儘で御輿の行列の先頭に立つ。招魂祭とかいふやうな場合にも必ずこの服裝を見せぬことはない。明治時代となつてはたしかに異形の身拵へだが、本人は一向平氣である。餘りに當然と心得て居ると見へ、傍人に説明しようともせぬ。この點が變つてゐるので奇行の士と云はれたが、その外には平凡な好々爺であつた。さて日清戰爭となると、この翁は赤色の陣羽織に身をかためて停車場に詰め切りである。始めは又かと多少心に輕侮もしたが、後にはその至誠に感じて、我々も甘んじてこの翁のリードに服することゝなつた。今でも私はこの翁を憶ひ出して一種の懷しみを感ずる。翁の歿後その奇行の一部をまねた第二世が出たとか聞いたが、氣障で生意氣で鼻持ちがならぬといふ評判であつたとやら。

戰に勝つと今度は祝捷の提灯行列だ。これも幾度やつたか覺えてゐぬ。當時私達は洋服は着なかつた。學校には制服制帽の定めはある、制帽は冠つたが制服は持たぬ人の方が多かつたらう、その爲めか持つてゐてもふだん和服で登校するといふ風であつた。從つて靴も持たない。そこで提灯行列などいふと、すぐ袴を裾短かに穿いて草鞋をはく。はじめて野球といふものが這入つて來たとき、矢張り草鞋をはき袴のもゝ立を取り襷がけでフヰールドに立つた人もある位だから、當年の學生に如何に草鞋の縁が深かつたかを想見すべきである。

出征するときの帥團長は中將佐久間左馬太、旅團長は少將山口素臣であつた。凱旋のとき師團長は乃木希典に代つてゐた。どう云ふ理由であつたか乃木師團長は凱旋來着する前から新聞などで大變評判がよかつた。凱旋の日私達は停車場に迎へに出たが、師團長は馬上から前後左右に馬首を廻しつゝ一々群衆に丁寧な答禮を換されたのに、非常な好感をもつたことを憶えてゐる。


當時、仙臺の中學校長は大槻文彦先生であつた。明治二十五年創立と同時に迎へられたのである。昔、中學校といふのがあつたがそれが廢校になつてからは其時まで宮城縣に官立の中學はなかつたのである。尤もその代りをつとめるものはあつた。不完全な私塾は別として、第一に第二高等學校附屬の補充科があり、第二に組合教會の東華學校、日本基督教會の東北學院がある。東華學校長に市原盛宏あり東北學院長の押川方義と相並んで東北の天地に活躍したことは特筆に値する。その東華學校は二十五年春に廢止された。廢止されたので縣立中學が建つたのか、縣立中學が建つといふので東華學校がやめたのか、その邊の消息を詳にしないが、兎に角東華學校の跡に宮城縣尋常中學校といふのが設立されたのである。

初代の校長に大槻先生を迎へたのは其人を得てゐる。當時先生は『言海』刊行(明治二十四年)の業を了へ名聲學界に嘖々たるものがあつた。俗情から云へば東京に幾らもいゝ地位があつた筈といへるし、又先生好學の志望から云つても帝都を離れることは不便であつたらうと察せられる。果して先生の來任は頗る先生の迷惑とするところであつたそうだ。併し仙臺の故老は縣立中學の新設を以て舊藩學「養賢堂」の再興位に心得て居る。養賢堂は大槻家代々の主宰するところであつた。乃ち今度の中學にも大槻家が來つて創設の功に竭すのが當然の義務だといふのである。この理窟にもならぬ理窟に抗すべくもなく、多分苦笑して文彦先生は東下りを諾されたものだらうと思ふ。

先生は恐らく謂ふところの教育家ではない。併し最もよく教育の骨を心得て居られた人であつた。不慣れな事務にも熱心鞅掌して三年あまりを仙臺で過ごされた。先生の聲望のお蔭と思ふが、今考へて見ても中學の教師には良過ぎるやうな立派な先生を澤山東京から連れて來られた。それでも人手が足りず、一時の間に合せに仙臺で雇入れられた先生のうちに多少のインチキもあつたことは致方がない。アルファベットをアー、ベー、セー、ドーと發音する數學の先生を、私共は一學期で逐ひ出したことがある。併し概して先生方はみな熱心であつた。その中でも數名の方には私は今に感謝の情を寄せてゐる。

大槻先生は毎週一時間倫理を受持つて居られた。教室が狹くて事實上合併講義を許さなかつたから、先生としては教場に出られる時間は毎週八九時間に上つたらうと思ふ。よく支那の古諺などを題にして實地修養の工夫を教へられたが、或る年全學年を通じて林子平の傳記を講ぜられたのが今に耳底に殘つて居る。先生は何か寓意するところありて講ぜられたのか否かを知らぬが、私共はたしかにこれによつて偏狹な島國根性の蒙をひらかれたと思ふ。教壇の先生はまじめで而も親しみ易く、如何にも頼もしい慈父のやうであつた。全校の生徒擧つて先生に心服して居つたのは、たゞに學界の盛名になどかされた爲ばかりではなかつた。

創立の當時は三年級まであつた。その三年級から今日の海軍大將山梨勝之進君が出て居る。私は創立當時の一年生だ。眞山青果、千葉龜雄の兩君は間もなく飛び出して東京へ往つてしまつたのだが、兎に角私の同級生であつた。外にも當時の學友で文學方面に名を成した人は多い。

大槻先生は年に一度位各組全體の生徒を連れて遠足を試みられた。一年級は人數が多いので幾組かに分れ一組に四十名位づゝ居る。その一組を別々に誘はれたのである。生徒は殆んど全部よろこんで招ぎに應じた。例に依つて和服に草鞋だ。大槻先生も同じ裝ひで生徒と一緒に一二里の道を默々として徒歩された。目的地につくと宿屋で簡單な食事が出る。一トくさり先生得意の其地方の郷土史話が説き聞かされる。思ひ〳〵に遊び廻つて夕方また一緒に徒歩で歸るのだ。たゞそれ丈けの事で、その時は格別何とも思はなかつたが、今にして想ふと先生としては能くもつとめられたものと敬服の外はない。


縣立中學が明治二十五年まで無くて濟んだと聞いて不思議に思ふ人もあらうが、それは不思議でも何でもない。當時上級の學校に入らうといふ者は至つて少なかつたのである。現に縣立中學創立の際にも、三年級入學志願者は十數名、二年級は三十名足らず、一年級ほ二百二三十名に過ぎなかつた。志望者の多數は官公吏並に舊士族の子弟を主として、農工商の生産階級からは案外に少ない。蓋しこの階級は當時なほ出來るだけ早く學校を退がるを誇つて居つたのである。私自身の經驗を云へば、小學校で尋常科から高等科へ進むと女生徒は殆んど一人も居なくなつた。四年級を通じたつた一人ゐたが、それは郡長のお孃さんであつた。やがて一二年すると男性でも相當富有の良家の子弟はどん〳〵學校をやめる。宛かも學校をやらなくとも飯が食へると、誇るものなるかに見へた。私が高等四年を卒業するときの同窓は八人であつたが、中二人は隣村の農家の子で師範學校入學志望者、二人は他所から來た官吏の子、二人は他所から流れ込んで落魄し子供を上級の學校へでも入れなければ身の立たぬ家庭の出、更に他の一人は土着の人ではあるが早く生業をすて前者と同樣の境遇にあるものだつた。さうすると純粹の土着の人で代々の家業をつぎ不足なく暮して行ける家庭の兒としては私一人だけなのである。小學校時代を過した私の郷里は國道筋に沿うて仙臺の北十里ばかりのところに在る人口壹萬足らず可なり殷盛な市場であるが、それだけ小學校な半途でやめるといふのが少くとも家運繁昌のための淳風美俗とされてゐたものと見へる。私がひとり學校にふみ留まることについて父はこの町には醫者がないから、幸ひ分家させる身分でもあるし旁々醫者に仕立てゝ町のために盡させるつもりだなどと辯解して、辛うじて周圍の誹謗を防いでゐたやうだ。尤も時勢が時勢で私のあとからは續いて上級の學校へ行かうと云ふ子弟も澤山出たが、私の前は皆中途退學者ばかりで私はこの點では自然町の先覺者になつたわけである。

仙臺には高等學校がある、高等學校を見做つて中學生々活もだん〳〵愉快なものになるべき筈だのに、設備の整頓に手が屆かぬためか當時の中學は全然田舍ものであつた。第一スポーツがない。たすき掛け草鞋ばきの野球の眞似は一兩年にしてはじまり、やがてこれだけは間もなく普通の形にまで發達したけれど、テニスは私が卒業するまでなかつた。柔道も劒道もない。銃槍といふのを一年ばかりやつたことがある。兵式體操と機械體操とだけでは若い體は承知せぬ。自ら陰氣にならざるを得ぬ所以、文學熱の比較的盛んなりしは一つにはこのためであらう。會費五錢で蒸菓子屋の樓上で談話會を開いたり、年に一囘位大枚二十五錢を出し合つて鰻屋に醉歌亂舞する位が關の山だつた。割合に弊害はなかつたやうだが、當時の學生々活は今日程快活なものではなかつたと思ふ。


初出
昭和8年1月「經濟往來」
底本
閑談の閑談(書物展望社、1933年、pp.320—328.)