服部誠一翁の追憶

野崎左文氏に依て本誌前號(「新舊時代」大正十四年十月號)に傳せられた服部撫松居士は、私の中學時代の作文の先生である。其頃私は撫松居士とは何んな地位の人か丸で識らなかつたので、一風變つた而して年の割に無邪氣な先生位に思つた外、深く注意も拂はなかつた。私は格別可愛がられたので屡御宅にも出入したのだが、夫にも拘らず昔話など少しも聞いておかなかつたことは、今になつて甚だ殘念に思ふ。

野崎氏の傳記にもある通り、服部翁は明治二十九年の春宮城縣尋常中學校(今の第一中學校の前身)の作文教師として仙臺に赴任して來た。時の校長は初代大槻文彦先生の跡をうけた湯目補隆先生である。前號石井研堂氏の稿中(二三頁)、共同出版會此の著譯社員總代として織田純一郎、山田喜之助、湯目補隆、漆間眞學、服部誠一の五氏が名を列ねてあつたとあるを見ると、撫松先生の仙臺に來た縁因も略ぼ想像される。湯目先生は今も元氣で東京に居られるから一度伺つて昔話をきいて見やうと思ふ。

その時私は五年生であつた。大槻先生が居られた爲か學生間に於ける文學熱は其頃中々盛であつた。其時の生徒で今日文名を盛ならしめて居る人も尠くはない。餘談はさておき、其頃の私共に作文の上に多大の感化を與ヘたものは、今は故人になつた豪放な國學者松本胤恭、現に一高の國文主任教授たる謹嚴な今井彦三郎の二先生であつた。松本先生は盛に私共に新井白石の『藩翰譜』を讀ませ、作文の課題にも史論風のものを與へられた。今井先生は『枕草紙』、『徒然草』などを奬勵し、輕妙な短篇を好んで作らせた樣に覺える。從て私共の作文の風は概して和文體に傾向が決つて居た。所が之が服部先生の氣に入らない。何といふ題であつたか忘れたが、先生は初めての教場で私共に即席の作文を課した。私共は從來の筆法で書いて出すと、其の拙いのに吃驚されたとて詳細之を湯目校長に報告されたのであつた。

私は總代として湯目校長に呼ばれた。校長室に行て見ると、お前方の作文を見ると成程丸でなつて居ない。お前までがやつと六十點ではないか。今度來た服部先生といふのは日本でも有名な文章の大家で、一體こんな所へ來て貰へる方はないのだ。斯ういふ偉い先生に附くのがお前方の非常な幸福なのだから、之から身を入れて勉強しろと、懇々説諭された。私一己としては松本今井の諸先生より吹き込まれて作文に就ては多少の考へを有つて居た積りなので、此の説諭には甚だ不服であつたけれども、長いものには捲かれろで、間も無く服部先生の氣に入る樣な文章を作ることにしたのであつた。

只今の記憶によると、其頃の服部先生は漢文崩しでなければ文章でないといふのであつた。こそだのけれだのと書くと直ぐ朱線で消される。六かしい字を並べると九十點は間違ない。段々親しくなつてから私が何かの用事で手紙を上げたが、最初の半紙に拜啓と書き出し續いて二度目も拜啓と書いたとてひどく叱られたことがある。さう同じ字ばかり使ふものではないといふ。そんなら何と書きますかと尋ねたら、粛啓、謹啓‥‥と幾らもあるでないかといふのであつた。一體に詞藻の豐富な人と見えて、例へば先生春風駘蕩といふやうなことを外にまた何とか云ひ樣はありませんかなどゝいふと、直ぐ得意になつて黒板へ二十三十位の熟字を書き示さるゝを常とした。之には生徒一同煙に捲かれて仕舞つたものである。


作文の先生として私は餘り先生の恩澤に浴してゐるとは思はない。寧ろ文章に付ては先生と反對の考へを有つて居た。けれども私は普通の生徒としての以上に先生と親しかつた。それは私の郷里のさる人の碑文を先生に見て貰つたのに始る。之は或る田舍の自稱儒者の書いたものであつた。うまいか拙いか分らぬので誰かに見て貰ひたいといふことになり、私が引受けて服部先生の處へ持つて行つたのである。服部先生は之に無遠慮な朱筆を加へた。之をきいて右の儒者は馬鹿に怒つた。夫から面倒が起つたが、先生の洒々落々たる態度は大に私をひきつけたのであつた。加之其頃までには教場に於ける先生の態度にも頗る面白味を覺えて心ひそかに先生を好愛して居つたので、一層私は先生の廻りに附き纒ふやうになつた。先生も亦頗る私を可愛がられたやうである。

服部先生が私共にどんなことを教へたか今記憶に殘らぬ。文語粹金などに有りさうな詞を澤山黒板に書いて見せられ、詞藻の豐富なるに舌を捲いた覺は慥にあるが、其の一つだに今に記憶せぬのは心細い。只先生の風采相貌だけは今にあり〳〵と眼底に殘つて居る。いかにも脱俗超凡の天眞爛熳なとこが何とも云へない風味を漂はして居つた。あの洒落な風貌は、何としても忘れることが出來ぬ。

野崎氏の文中にもある如く、先生の容貌の決して風流才子らしからぬことは云ふまでもなく、孰れかといへば醜の方に屬するだらう。併し醜といつても愛嬌のある醜で、キヨトンと默つて立たうものなら、其れ丈で人を笑はせる樣な滑稽な容貌であつた。現に私共も始めて先生を教場に迎へたときプツと噴き出したのであつた。禿げ頭に髮を長くならべ、額が馬鹿に廣くて顏の下半分は不釣合にせまく、薄あばた、亂雜な口髭、キヨロ〳〵した眼、夫れに加ふるにボロ〳〵のモーニング、之等は當時の私共にも頗る異樣ないでたちに見えた。一旦口をひらくと談論風發の雄辯は見事なものであつたが、どうした生理的作用か口の中が白い泡で忽ち一杯になる。所謂文字通り口角泡を飛ばすのがまた馬鹿に私共に可笑しかつた。先生には文筆にかけて十分の自信があつたからでもあらう、天下の學者を無遠慮に罵倒する。斯んなことが中學教師には珍らしいので、私共は頗る痛快がつたものだ。それかと云つて先生には少しも自分を誇るといふ樣な風はなかつた。其の證據にあれ程親しくして居た私でさへ、先生の明治初期に於ける盛名などいふことは頓と聞かされずに過したのであつた。であるから、先生が時にどんな大言壮語をしても、其處には些の嫌味もなかつた。萬事が自然の發露であつた。それ丈け生徒も一般に親しみを感ずる樣になつたのだと思ふ。

先生の國訛りは固より免れないが、決してさうひどい方ではなかつた。只先生の言葉には特殊の癖がある。之がまた先生の雄辯を非常に愛嬌あるものたらしめた。先生はよく云つた、「どら程あるかといへばこら程ある」。先生のどらこらと之に伴ふ手眞似とは有名なものであつた。之を言ひ出すと生徒がどつと笑ふ。何を笑ふのかと、先生キヨトンと眞面目顏に濟ましてゐる。其顏がまた何ともいへぬ滑稽なものであつた。幾ら笑つたつて先生曾て怒つたことがない。笑はず怒らず、默つて居て愛嬌のあること、當時の教師中の第一等の異彩であつた。

先生は頗る無頗着であつた。ボロ〳〵のモーニングを夏冬通して一着しか持たれなかつた。カラーやカフスの垢つきたるは言ふまでもなく、ネクタイなどは付けない方が多かつたかも知れぬ。白墨で眞白になつた手で衣物をいぢる位はまづ無難だが、ともすると顏を斑白にさへする。生徒が笑つても平氣なものだ。そして彼れ田中館愛橘は頗る鈍い男であつた、尾崎行雄の少年時代はお前方程利口でなかつたなど、何處で教へたのか、舊門人の棚卸しをやるので、生徒は二重に喜んだ。どういふものか尾崎と田中館とはよく先生の話頭に上つた。

先生は作文專門の教師で、一年生から五年生まで全部を受持たれた。漢文をも教へられたのは私共の卒業した後である。漢文の講義はなか〳〵評判がよかつたさうである。


先生の仙臺に流れて來られたのは、多分落魄の結果であつたらう。併し私共は曾て一言の不平を先生の口から聞いたことがない。職務は極めて愉快に執られたやうだ。別に謹嚴といふ程ではなかつたが、冗談口をきいたことも聞かぬ。「江湖新報」などに政論を書いた人としてならば格別、『東京繁昌記』等の著者とはどうしても思へぬ。斯うした著書に依て想像さるゝ撫松居士と私の親灸した服部先生とは丸で別人の觀がある。

中學卒業後も初の二三年は往來したが、大學に入つてからは自然御目に掛る機會は少なくなつた。野崎氏の文に依て先生が明治四十一年八月歿せられたことを更めて知つたが、果して然らば私が親しく先生と語つた最後の邂逅は、歿せらるゝ數週前でなければならぬ。今日この當時のことを詳細に記憶せぬが、私が袁世凱の招聘に應じて支那に赴いたのが三十九年一月で、途中一寸歸つたのが四十一年七月、そして九月早々再び支那に向つた其間に、先生が突然私の駒込の僑居を訪はれたのである。用件は老後の思ひ出に支那に行きたいから周旋しろといふのであつた。俺も教師を永くしたので教育のことも大分わかつたといふ樣な話もあつた。中々熱心であつたが、どんな御返事をしたか、今覺えて居ぬ。只今日に至るまで記憶してゐるのは、先生が灰落しを出してあるに拘らず卷煙草の灰を自分の袴の上から疊の上まで落ちるまゝに放任し、其間二度も御自分の着物の膝に燒穴を拵へたこと、其歸られた跡、座布團の周囲が灰で一杯であつたことなどである。


初出
大正14年11月「新舊時代」
底本
閑談の閑談(書物展望社、1933年、pp.253—260.)