「むなくるま」考

東寺本三寳繪詞卷中の大安寺榮好事の文の中に

七大寺古ハ室ニ釜橧カマコシキヲオカス、政所ニ飯ヲカシキテ露車ニツミテ朝コトニ僧坊ノ前ヨリヤリテ一人ノ僧コトニ小飯四升ヲウク。

とあり、その文に當る所を前田本には

政所所炊飯積車朝自僧坊前遣令受飯四升。

とありて、露車とは書いてない。こゝにこの露車とは何とよむべきものか、又露車とは如何なるものかわからぬといふ問題が生じた。そこで、その文に該當する文を東大寺切にどうあるかと調べて見たら、幸にそれが關戸氏藏の部分にある。それは

七大寺は古は室に釜橧をおかす、まところにいひをかしきむなくるまにつみてあしたことにそうはうの前よりやりて一人のそうことにいひ四升をうけしむ。

といふ文である。ここにこの露車といふものはこの「むなくるま」といふものに該當するものであらうといふ推定が生じた。そこで先づ、その「むなくるま」といふものが如何なるものであるかを考へて見る。

「むなくるま」といふ以上、一種の車か、若くは車のある状態かであらう。倭名類聚鈔の車類にも車具にも、この語は見えぬ。古今六帖や夫木和歌抄にも見えぬ。されども、この語は宇都保物語や頼政集に見ゆる。宇都保物語には藤原君卷(三十二)に

むな車にいをしほつみてもて來たり。

と見え、頼政集には返迎車戀と題して

のせてやる我心さへとゝろきてねたくもかへすむなくるまかな

といふ歌があり、この歌は續千載集卷七俳諧歌にものせてある。

これらの「むなくるま」について古い辭書にどう説明してゐるかと見るに、今のところ一番古いものでは今川了俊の言塵集(卷五)に

むな車とは人ののらぬ車也。

とあり、それから連歌師紹巴の匠材集には

むな車 のらぬ車也、迎なとに人のこぬ心也。

と説いてゐる。降つて石川雅望の雅言集覽には

むなくるま 人ののらぬ空車

と説いて種々の文例を引いてゐるが、その釋はその例のすべてには通用せぬ。谷川士清の和訓栞には

拾遺集枕草紙なとにみゆ。空車の義、人ののらぬをいふ也。

と説いてゐる。倭訓栞に近藤圭造が頭注を加へて増補語林倭訓栞と題した本がある。その「むなくるま」の頭注には

棧車 空車 頼政集(上にある歌を出す)宇つぼ〈藤原君〉(上にあげた文を出す)かげろふ日記 むな車引つゝけてあやしき木こりおろしていとをくらき中より來る、宇治拾遺〈十三〉女にいふやう、此石とりすてんよといひけれはよき事にて侍りといひけれは其邊にしりたる下人してむな車かりにやりて、つみ出んと。〈林葉〉

とある。この増補語林といふのは件信友の語林を頭注にして加へたといふのであるが、それには信友の言の外に諸書をもとり加へてあるのであるが、こゝに林葉とあるのは全體の例を見渡すと清水濱臣の語林類葉のぬき書であることが知られる。しかし私の架中にある語林類葉の「む」の部には五言の部が脱してゐるからはつきりとそれを證明することは出來ないけれど、他の部分の「林葉」と注したのは皆それであるから疑を容るべきではない。さてその頭注はその次に

○信云拾遺集、月のいとあかきにやかたなき車にあひたる云云、これを異本に月のあかきにむなし車なといふものにのりありくとあるをもてこれかれにおもひ合するにやかたをとりはらひたる車を云にや。

とある。これは件信友の言である。

「むなぐるま」といふ語の構成を見るに、「むなし」といふ形容詞の語根か語幹かの「むな」を「くるま」に直ちに接せしめて生じた熟語であるから「むなしいくるま」といふ意味が根本をなしてゐることが明白である。「むなし」といふ語は所謂「しくしき活用」の語であるから、その語幹は「むなし」である。それ故にその語幹から「くるま」に直ちに接して「むなしくるま」といふのが普通の語構成法である。即ち「むなしけぶり」(古今集)とやうにいふべきのが普通で、それは「あだし野」(山城地名千載集等)「あだしこころ」(古今集)「あだしたまくら」(萬葉集)「あだしちぎり」(續千載集)「あだし人」(他人允恭紀訓)「あだし世」(千載集)等と同じ構造法によつたものである。ここの「むなくるま」はその「むなし」の「し」を除いた語幹(或は語根とも見られ易いが一層古い時代の語幹であつたと思ふ)「むな」から「くるま」につゞけたものであつて、それは「むなこと」(萬葉集)「むな手」(山家集)「むなゐ」(六百番歌合)といふと同じ構造であつて、「あだこゝろ」(竹取)「あだひと」(古今集、源氏物語)「あだこと」(宇都保/源氏)「あだ名」(六帖、後撰集)等も亦似た構成法によつたものである。これは「むな」「あだ」が古い語でその語幹のままで用ゐられたことのあつたことの名残であつて今でも「あだ」といふのが、單語として用ゐられ、「むな」の一轉した「むだ」といふ語も今盛んに用ゐられてゐるのでも考へらるる。こゝに「むなくるま」といふ語の構成が一往解決したこととしておいて、それの意味を考へてみるに、それは車のことであつて、何かが空しい車といふ意味であるといふことになる。そこで問題は何が空しいのであるかといふことにうつる。

頼政集の歌は車を遣つて人を迎へようとしたがその人は來ないで、その迎へにやつた車を空のまま返したといふことをよんだ戀の歌であるから人の乘るべき車に乘り人のゐない車をさしたのであることは著しい。この意味での例は古今著聞集卷三、政道忠臣第三に

寛元二年賀茂臨時祭の時、二條前關白、一條前殿左大臣にてまいりあひ給ひたりしに、暮て事はてにしかば御同車にて二條室町にたてられて御見物有けり。其後法政寺の御八講に參らせ給ひけり。左府の御車のむなぐるまにて法成寺へやらせられけり。道の程關白の御隨身は御車のさき、左府の御隨身は御車の後にぞ打たりける。前駈はあひまじはりたりけり。興有事にぞ世の人申侍し。

とあり、十訓抄第一に

小松内府賀茂祭見んとて車四五輛ばかりにて一條の大路に出でたまへりけり。物見車たちならびてすきまもなかりけるに、いかなる車かのけちれんずらんと、人々目をすましたる所に、ある便宜の所なる車どもをひき出だしけるを見れば、みな人も乘らぬ車なりけり。かねて見所をとりて人を煩はさじのためにむな車を五輛たておかれたりけるなり。そのころの内府のきらにてはいかなる車なりともあらそひがたくこそありけめども、六條の御見所のふるき例をよしなくおぼえ給ひけん。さやうの心ばせ情ふかし。

とある。この二つの例は明白に人の乘るべき車の乘人の無いものを云つたものである。

然るに、上にあげた宇都保物語藤原君卷の例は「むな車」に魚や鹽やを積んで持つて來たといふのである。これは三春といふ吝嗇なる大臣の致仕して彼の七條殿の生活のさまを描寫した記事即ち貴い身で商をさせてゐるさまを述べた文の間の畫に書きこんだ詞である。その文

これはたなに女居りつゝ物賣る。此所は出居、女とも布織るイホこれは侍の人ども畑作る。大殿おとどくゝりあげて榑の足袋はきてさひつゑ(鋤杖)つきて布の直垂着て立ち給へり。むな車に魚鹽積みて持て來たり。預どもよみ取りて店に据ゑて賣る。(「うまくるま」と書いた本もある)

とあるのであるが、さやうに吝嗇な人が乘用にする車に店で賣る魚や鹽を積んで運ばせる筈も無いから、どうも今日の荷車のやうなものと見ねばならぬやうである。さうすると、ここの「むなくるま」は頼政の歌や、古今著聞集や十訓抄に見ゆるものと全く別のものであるやうに思はれる。即ち「むなくるま」といふ語は同じでも實際は二種別の意味のものがあつたやうに考へねばなるまい。そこで他にこのやうな「むなくるま」の例があると見ると、宇治拾遺物語卷十三の一、上緌アゲヲの主金を得る事の條にあるもので、上の語林類葉にも引いてあるが、文意が明になるやうに、その事實を概略にいふと、これは上緌の主といはれた兵衞佐だつた人が昔の長者の屋敷あとにあつた石を黄金の塊だといふことを知つたので、その屋敷跡に住んでゐた貧しい女をたばかつて、その石は邪魔だらうから、私が持つて歸つてやらうと云つて承諾を得て、その石と見ゆる金塊を運び去らうとするところである。その文は

西の八條と京極との畠の中にあやしの小家あり。そのまへを行ほどに夕だちのしたれば、この家に馬よりおりていりぬ。みれば女ひとりあり。馬を引入て夕立をすごすとてひらなる小辛櫃のやうなる石のあるに尻をうちかけてゐたり。小石をもちてこの石を手まさぐりにたゝきゐたれば、うたれてくぼみたるところをみれば金色になりぬ。希有のことかなとおもひて、はげたるところに土をぬりかくして女にとふやう。「この石はなぞの石ぞ。」女のいふやう。「何の石にか侍らん。むかしよりかくて侍るなり。昔長者の家なむ侍りける。この家は倉どものあとにて侯なり」と。誠に見れば大なる石ずへの石どもあり。「さてその尻かけさせ給へる石はその倉のあとをはたけにつくるとてうねほる間に土のしたより掘出されて侍なり。それがかくやのうちに侍ればかきのけんと思侍れど女はちからよはし。かきのくべきやうもなければ、にくむ〳〵かくてをきて侍るなり。」といひければ「われこのいしとりてん、ノチに目ぐせあるものもぞみつくる」とおもひて女にいふやう「この石我とりてんよ。」といひければ「よき事に侍り。」といひければそのへんにしりたる下人のむな車をかりにやりて、つみていでんとするほどに、綿絹をぬぎて、たゞにとらんがつみえがましければこの女にとらせつ。(下略)

とある。即ちその重い石塊と見ゆる金塊を運んで行かうといふ車であるから、よほど丈夫な車でなくてはならず、又京とはいへ場末の下人の持物であるから、はじめから、さやうな重い石塊といふやうな物を積み運ぶに適したものであつたらう。さうすれば、この「むなぐるま」といふものも今の荷車のやうなものであつたことは疑ふべくもあるまい。以上、二つの例をばたゞ「空車」だと多くの注釋家は説いてゐるが、それらは不親切な解釋といはねばならぬ。

又増補語林倭訓栞の頭注の語林類葉にかげろふ日記の文を引いてあるが、これは蜻蛉日記中三にある辛崎に祓しにゆく所の文である。その文は

寅の時ばかりに出でたつに月いと明し。我が同じやうなる人又供に一人ばかりぞあれば、唯三人のりて馬(に?)のりたるをのこども七八人ばかりぞある。加茂川のほどにてほのぼのと明く。うち過ぎて山路になりて京に違ひたるさまを見るにも、この頃の心ちなればにやあらむ、いとあはれなり。いはむや(せ?)きに至りでしばし車とどめてうしかへなどするに、むなくるま引つゝけて、あやしき木こりおろしていとを暗き中より來るも心ち引きかへたるやうにおぼえていとをかし。

とあるのである。この「むなくるま」を解環には人の乘るべき車の空なのをさすと説いてゐるけれども、その文を熟視するに、さ樣では無いと思はるる。人の乘るべき車の空なのを幾つも〳〵引きつゞけ逢坂の關の邊を未明の別に通るといふことはあつたとは思はれず、その文は

むなくるま引つゞけて…………いとをくらき中より來る

のであり、その來る車についての説明が

あやしき木こりおろして

である。この「あやしき」は木があやしいのでは無くて、都人にはあやしく見ゆるといふ意味で、その實體は「木こりおろして」である。即ち「木の幹を樵り、枝をおろして」であらうから、まだ生々しい材木か柴を積んだ荷車のやうなものが何輛も引き続いて來たのを見て珍らしく思つたのであらうと思はるる。かやうな材木を積んだ車、巨石を運ぶ車の有樣は石山寺縁起の畫などで想像しうるであらう。

さて又宇都保物語藤原君卷(二十五)に上野宮が佛の徳を祈りあらはさむとて河原で祓をせしむることを描いた畫詞の末の方に

此處は河原から(宮)一つ車にて出で給へり。むなくるまに齋串を(かくしの)つみて陰陽師先馬さきうまにいでたり。一をきて(イナシ)のと申。

とある。これは河原の祓の所に奉るべき齋串イグシを積んで運ぶのであるから、石や魚や鹽やを積むやうな汚れたものではあるまいが、しかし又人の乘るべき車に清淨を主とする齋串をのせて運ぶといふこともあるまいと思はれる。さうするとやはり荷車のやうなものであらうけれども清潔な用に供したものであつたらう。さうすると、「むなくるま」といふものは大體荷車のやうなものであつたらうが、それには齋串をのせる清淨なもの、飯を運ぶ清潔なもの、又魚、鹽などを運ぶやうなよごれたもの、石や材木を運ぶ強勢なものなど、用ゐ方や、形の大小やさま〴〵あつたものと考へらるる。

さて信友はかの語林の頭注に見る通り拾遺集にもあると云つてその例をあげてゐるが、信友の述べてゐるやうな文はいくたび拾遺弟を調べても見えぬ。拾遺抄にも無い。それでその前の後撰集か、後の後拾遺集かと考へてそれらをも精査したけれども更にそのやうな文は見當らぬ。それ故に信友が何を以てかやうなことを説いたのかここではどうしてもわからぬ。しかし、拾遺集には物名の題に「むなくるま」といふのがある。倭訓栞に拾遺集に見ゆると云つたのはこの題のことであらう。その歌は

鷹飼のまたもこなくに繋犬のはなれていかむくるままつ程

といふのである。これには「むなくるま」といふ語はかくし題になつてゐるけれども、その車がどういふものであつたかといふことは一切わからぬ。この歌の作者は「すけみ」とある。この人は名高い藤六輔相といふ歌人である。その集は今傳はらない。拾遺集には三十七首入つてゐるが、物名の歌が得意であつたと見えてすべて物名ばかりである。その題は「とち、ところ、たちばな」「くちはいろのをしき」「あしがなへ」と共に四首つゞいてゐるうちの一つである。その他は植物では「いはやなぎ」「さるとりの花」「ひともとぎく」「すはうごけ」「きさの木」、動物では「雉のをとり」「やまがらめ」「かやくき」「つはくらめ」、食品では「もも」「ねりがき」「をはりごめ」「まつたけ」「くゝたち」「こにやく」、地名等では「やまと」「いなみの」「くるすの」「あらふねのみやしろ」、器物等では「きさのきのはこ」「ながむしろ」「へうのかは」「かのかはのむかばき」、時日については「かのえさる」「四十九日」などである。又「このしまあまのまうでたりけるを見て」(これはこのしまあまをよみこんである。)「鼠の琴の腹に子をうみたるを」(これは琴の腹子をうむとをよみこんである。)といふこみ入つたものもある。さてこの人の物名の題はかやうにいろ〳〵あるが、大體は通俗的のもので、又或る定まつた名目をとつてゐるのであるから、ここの「むなくるま」も大かた荷車のやうな性質のものをさしたのであらうと思はるる。

倭訓栞は「拾遺集枕草紙などに見ゆ」と云つてゐるが、その枕草紙にあるといふのは春曙抄でいへば二十八段「にげなきもの」のうちの「細殿に人あまたゐて云々」の條の末に、「とのもりづかさこそなほをかしきものはあれ」の前に

月夜にむなくるまありきたる、清げなる男のにくげなるもちたる、髯黒なる人の年老いたるが物語りする人のちごもてあそびたる、

とあるのをさすのであらう。この一節は有る本もあり無い本もある。この二十八段「にげなきもの」の條にははじめの方に

げすの家に雪のふりたる、又月のさし入りたるもいとくちをし。月のいとあかきにやかたなき車にあひたる、又さる車にあめ牛かけたる、

とあるが、これと上の文とを照しあはせると殆んど同じことを説いてゐるやうに思はるる。それで、これは元來同じ意味のもので、異本の文章であつたのを、春曙抄の基にした本なぞがこれをとり入れた爲に重複したのだらうと考ヘられて來てゐる。こゝに至つて考へらるゝことは上にわからぬと述べた信友の言である。信友は拾遺集にかやうなことがあると云つたけれどもそれは誤であつて枕草子の文によつて説いたものであらうといふことは著しい。しかし、信友は

異本に月のあかさにむなし車などいふものにのりありくとあるをもて云々

と云つてゐるが、それは春曙抄のあぐる文とは同じで無い。これは恐らくは枕草子異本と群書類從にある本をさしたのであらう。その文は

にげなき物(云々)げすの家のあやしきに雪の降りたる。また月の差入たるも似げなしかし。衞府のふとりたる。月の赤きにむなし車などいふ物の歩く。云々

とあるのに似てゐる。しかしそれには

むなし車などいふものにのりありく

といふ文が無い。これは同じ文であるとはいはれないけれども、それは一々とがめだてをする程の事でもない。要するにその相違は「むな車」か「むなしくるま」かといふことであるが、それらが「屋形無き車」に相當する語であるといふこととなる。さて之によつて信友は

これかれにおもひ合するに、やかたをとりはらひたる車を云にや。

と云つてゐるから、普通にいふ牛車の屋形を取り放つた車に乘りありくから「にげなきもの」だと考へたもののやうである。若しさうだとすれば「月のいとあかきに」又は「月夜に」といふことが何の詮も無いことになるであらう。若し牛車のやうな上品な車の屋形をとり離したものならば或は月見によい趣向だといはれたかも知れ無いし、又そんな車には白晝に乘つてあるいた方がつまらぬことと思はれるかも知れぬ。しかし、當時さういふ車があつたとは思はれぬ。これは月夜をばうるはしく心清げにおぼゆるものとして賞翫してゐるのであるから

げすの家に雪の降たる、又月のさし入たるもいと口をし。

とも説いてゐるのである。それらの似つかはしく無いことは

などと同じ趣であることを述べてゐるのである。松平靜氏の枕草紙詳解にこの所を釋して

月の明かなる夜には月見がてらに車にのりて出でたるに、向ふよりくる車もまた月見る人ならば、おもしろく時につけて似つかはしけれども、荷車などにあひてはいと興さむるわざとなり。

と述べてゐるのを見ても、その趣を察すべきであらう。而してそのやかたなき車が荷車のやうなものであつたらうといふことは上の文の續きに、

又さる車にあめ牛かけたる、

とあるのを以ても察せらるる。あめ牛は飴色の牛といふことであつて、漢語の黄牛に相當するものであることは倭名類聚鈔に示す所で明かである。このあか牛は古來珍重せられ、主として、乘用の車を牽かせたものであることは史乘に明かである。松平靜氏の詳解には

荷車に飴牛かけたるはいと似つかはしからぬとなり。飴牛は人の乘る車にかくべきものを。

とある。三代實録卷三十、陽成天皇の幼時東宮にうつらるゝ記事に

童女四人云々二人牽㆓黄牛二頭㆒在㆓御輿前㆒。

と見ゆるをはじめ、類聚雜要抄などにも乘用の車を牽くに珍重せられたことを示してゐる。即ちさやうに荷車のやうなものに乘用車を引くに用ゐらるべき黄牛をかけてゐるのが「にげなきもの」と見られたものであらう。

金子元臣氏の枕草子評釋は近來の好著といはるゝ本である。それには兩方の文を春曙抄と同じく並べてあげてゐるが、この異本の文のところで

この一章は前後のにくきものの文の竄入なること疑なし。古本には全くなきものなれど假にもとのままにさし置きつ。

と説いてゐるが、この説明はわからぬ。この文はどうしても「にくきもの」にあるべきものとは解せられぬ。月夜に荷車があつたとてもにくきものとは思はれぬ。これは「にくげなるもの」を書きあやまつたものと思ふ。而して金子氏はなほこの上にも誤つてゐる。即ちこの文の解釋として

むな車 空車にて二義あり。一は人の乘らぬ車、一は荷車なり。ここのは荷車なるべし。荷車を空車といへる例は空穗物語、蜻蛉日記、宇治拾遺などに見ゆ。伴信友いはく「むな車は棧車なり、屋形を収拂ひたる車をいふにや」と。上文「屋形なき車」とあるもこれなり。

と説いてゐる。この解釋には異論も無いけれども、その「伴信友いはく」とある所に誤がある。これは蓋し増補語林倭訓栞の頭注の文によつたのであらうが、その「棧車空車云々」は語林類葉の文であるので、「やかたとりはらひたる車を云にや」だけが信友の語なのである。

さて枕草子の上に述べた二の文が重複した文章であるやうに見ゆると同時に、古本には彼の「むなくるま云々」とある文が無いから、二者をつき合せて見ると「屋形なき車」とあるのに他の文の「むなくるま」に相當することになるといふは既に述べた所である。そこで考へて見るとこれは信友が「拾遺集云々」と云つたことに相當するのでその拾遺集は枕草子の誤であつたことが考へらるる。しかし之によつて屋形なき車とむなくるまとが同じものをさしたのであらうといふ考に導いてくれたことは認めなければなるまい。松平靜氏の詳解に

やかたなき車にあひたる、やかたとは車蓋なり。今の大八車の如く荷をつみたる車なり。人の乘る車には必ず車蓋あるなり。と黒川翁の説なり。

といひ、又

むなくるまは師翁いふ。荷ぐるまの車なり。前にもありし屋形なき車といふにおなじ。空穗物語藤原君にむくくるまに魚鹽いをしほつみて持て來たりとあり。これをから車と思ふはわろし。

とある。之はその師黒川眞頼博士の説を傳へたもので信憑すべきものである。

以上で「むなくるま」といふ語の例と解釋とは一往かたづいたといふべきであるが、三寳繪詞に用ゐてゐる露車といふ字面が果して國語の「むなくるま」に合致するかどうかといふことをここに顧みねばならぬ。露車といふ熟字は三國志の魏志の董卓傳の裴註に

張璠漢紀曰、帝(靈帝)以㆓八月庚午㆒爲㆓諸黄門所㆒㆑劫、歩出㆓穀門㆒走至㆓河上㆒。時帝年十四、陳留王年九歳、兄弟獨夜歩行欲㆑還㆑宮。闇瞑逐㆓螢火㆒而行數里。得㆓民家㆒以㆓露車㆒載送。

とある。之と同じ文を資治通鑑の後漢靈帝中平六年に引いてあるが、その注に

露車、上無㆓巾蓋㆒四旁無㆓帷裳㆒。蓋民家以載㆑物者耳。

とあるのでその意義が略わかる。即ち通鑑の注にいふ如く、上には車蓋が無く、左右前後に帳帷が無く、隨つて、車臺の上に柱なども立てては無くてその車に載せた物が露はに見ゆるといふ意味であらう。而して、それは荷車の樣に思はれるが、魏志の注では民家に用ゐたもので人が二人も乘れるものであつたことが知られる。又晋書の王尼傳に

止有㆓一子㆒無㆓居宅㆒惟畜㆓露車㆒有㆓牛一頭㆒毎㆑行輙使㆑御之、暮則共宿㆓車上㆒。

と見ゆるから、これは牛に牽かせたもので、僅かではあらうが家財をも親子をも載せて、夜はその上に宿ることも出來たものであつたらしい。佩文韻府にも南史北史から各一例とつてあるが、やはり人の乘つたことを示してゐる。しかしながらでそれらはわざと乘つた、又しかたなしに乘つたのだと見ゆるから、やはり荷車の如き用をなすのが本來なのであらう。かやうに、事實は略似たやうだから、語の本來の意は多少くひちがふけれども、漢語の露車を國語の「むなくるま」といふ語にあてたものであらう。

次には棧車といふ語がある。これは倭訓栞に

にぐるま 棧車をいふ。輜重も同じ。荷車の義也。

とあるから「にぐるま」の意味で、注したものであらうが、漢語としての棧車は如何といふに、それは詩經の何草不黄に

有㆓棧之車㆒行㆓彼周道㆒。

とあるのに基づくといはるる。即ち毛傳に

棧車役車也。

とある。又別に周禮には

士乘㆓棧車㆒

ともあるが、それは乘用の車らしいから、ここにはあはないが、車の構造がどこか共通した點もあつたのであらうか。これは竹木之車と辭源に説いてゐるが、要するに竹木で構成して雜役につかふ車であるといふことである。さうすると、大体今いふ荷車の如きものであらう。和漢三才圖會に「𨍯音菊」と標示して、之に「役車、棧車」と注し、又「俗云㆓大八車㆒」とある。

「むなくるま」といふ語は要するに車にして、しかも或るものが空しいといふことであるが、それには乘る人の空しい車といふ意味と、車の構造上、或るものが空しいものとの二つの意味があり、而してこの二つの意味は同時に車の構造上の差違をも示してゐる。その乘用車に乘る人の居ない場合のことは世の學者が古來之を説いてゐるのでここには今更説く必要も無いが、構造上からいふ方は何が無いのであるか今一往考へてみることにする。

枕草子の上にあげた二の文を対照すると、「むなくるま」は屋形の無い車であるといふことが考へらるる。この屋形といふのは倭名類聚鈔の車具に

車蓋 大戴禮云車蓋 俗車屋形夜賀太

と見ゆるものである。即ち車の牀の上に柱を立て屋を蓋うた部分をいふのである。その屋形の無いといふことが空しいといはるゝのであらう。其の車の牀をまばらに竹木で構成したのが棧車であらうが、露車には牀を精巧にしたものもあつたかも知れぬ。それはとにかく、屋形無き車は漢語の露車といふことには一致する點がある。

露車の字面によつてすぐに我々に想起せしむる語は建築の上の露臺と茶人のいふ露地とである。これらもやはり露車の露の意味と相通ずる點があるやうに思はるる。

露臺は露臺の亂舞などと云つて中古の文藝に親しむものには耳に熟した語である。これは昔の大内裏の禁中の建築の名で紫宸殿の北に仁壽殿があつたが、その仁壽殿附屬の建築で屋根の無いものであつた。之について類聚名物考は次の如く説明してゐる。

露臺 ろだい つゆのうてな
すべて露といふは屋架イヘのおほひなくして雨露にさらす意にていふなり。露臺も覆蘆のなき臺をいふ。露井も覆なき井をもいひ、または今俗云ふ中庭の事をもいへり。露殼は庭につみて覆せぬを云の類ひ也。

と云つてゐる。その露の字は覆なくしてあらはなるといふ意であらうといふことは既に説いた通りである。元來露臺といふものは史記によれば前漢の孝文帝が營んだのがはじめで支那傳來の建築であるから、その名義も支那傳來の解釋によるべきものであらう。かくの如く屋形の覆の無い場合に露と云ったのは

の如く下を動詞にした熟語もある。これらは皆支那の文獻に出たものを示したのであるが、我々が今、日常用ゐてゐる「露天」「露店」なといふものも亦この類のものであらう。

さて類聚名物考に「今俗云ふ中庭の事をもいへり」とあるのは茶人のいふ露地のことであらう。この露地については茶家者流はいろ〳〵むつかしい理窟を云つてゐるけれど、それらの大部分は後からの古事つけで、本來の意味はやはり露車の露と相通ずる所があると思はるる。榮花物語花山の卷に花山院の出家せさせ給ひしことを叙した文の中に

さても花山院は三界の火宅を出でさせたまひて四衢道のなかの露地におはしまし、あゆませ給ひつらん云々

とある。これは法華經譬喩品に

是時長者見㆘諸子等安穏得㆑出皆於㆓四衢道中露地㆒而坐无㆓礙障㆒其心泰然歓喜踊躍㆖。

とある文によつたものであることはいふまでも無い。織田得能は之を釋して、上の法華經の文を引いて

今此文に依り三界の火宅を出でさせ玉ひてといひしなり。四衢道とは四方に通ずる大道にて露地とは宅内に對したる語なり。露は顯の義、上に被覆する者なく、所謂青天井の土地をいふ。

といひ、更に注して

茶家に露地といふ語は此に本く。

と述べてゐる。

茶道者のいふむつかしい理窟はさておいて、ここにその露地とは如何なるものかと見るに工學博士中村達太郎氏の日本建築辭彙には「ろち(露地)」について

腰掛雪隱等の如き茶室附屬物の設置しある地域。茶道録には「露路」の字を用ひ、羅山文集には「鹵路」、茶室記には「露地」となせり。中潜より内を「内露地」、其外を「外露地」といひ、露地門より腰掛迄を露地底と云ふ。

とある。ここに「露路」「鹵路」の二の字面が見ゆるけれども、正しい字面とは見えぬ。若し露、鹵が正しい字ならば「ち」の語に訓の路の字を用ゐる筈は無いであらう。又若し路の字が正しい用ゐ方ならば「ろ」を字音で用ゐる譯は無いであらう。いづれにしてもこの二の熟字は信用し得べくも無いのでやはり「露地」といふ字面が正しいであらう。茶人の書いたものには理窟は別として、南方録、茶道獨言、茶傳集、茶湯古事談、茶詣指月集等多くの書は「露地」と書いてゐる。之を別に「路地」「路次」等と書いてゐる書もあり、それらの字面に基づいて説明してゐる辭書もあるけれども、正しい説明とは見られぬ。

今茶道で露地といふのはたゞ道路だけをさしたので無いことは上にあげた建築辭彙の説明に見ても知らるる筈である。即ちその茶室を構へてある一廓の地が露地であり、それには露路地、外露地、内露地の三の區域をわけて考ふることもあるのである。而してその露地には樹木、飾石、石燈籠その他種々の設備があり、その入口を露地門といひ、その内部は即ち茶庭と俗稱にいふ所の庭園をなしてゐる。自分の郷里富山では茶庭でも何でも無くても植込のある所をば一般に「ろうぢ」と云つてゐたことは今も記憶に新であるが、今日ではすたれてしまつたかも知れない。荻生徂徠の奈留別志に

露地といふは屋ねふかぬ地をいふを誤て庭の事にしたるなり。

とある。これは誤つたのでは無くて、その露地を庭に造つたのであるが、かくなるについてはそれだけの因縁が無くてはならない。ここにその點を少しく考へて見よう。

さて何が故にその茶庭を露地と稱へたかといふに、その源がやはり佛教にあるのであらう。茶道が禪から生じたといふ一般の事實から考へてこれも可能の事柄と見らるるであらう。

佛教では經文以外にも露地の語を屡用ゐる。碧眼録に

露地白牛眼卓朔耳卓朔

といふことがある。これはまだ法華經の語の句が殘つてゐる。正法眼藏の行持の卷には

古往の聖人おほく樹下露地に經行す。古來の勝躅なり。

とある。これは佛徒の十二頭陀行に露地坐とあるなどに關係あるであらう。露地坐は今の語でいへば露天の下で坐禪すると、いふことであらう。以上の用例は徂徠のいふ「屋根ふかぬ地」の義に止まる。それが限られた地に用ゐられるやうになつたのも佛教に源があらう。それは何かといふと布薩の場合の露地偈のことである。布薩といふことは俗人には關係の無いことであるが僧侶の間では重大事であつた。それは半月毎に衆僧を集めて戒經を説き、その半月間に犯した罪があつた場合に懺悔せしむる式である。今淨土宗聖典に掲げてあるその式の要點だけをとり出していふと、その道場を莊嚴してから、先づ衆僧が一定の所に集會してゐる。その集會所から衆僧が列を引いて佛殿に入るのである。(その状が茶會に招かれた衆客が先づ外待合に集會し、その後合圖によつて列をなして、内待合に入ひて待ち合せ、更に又合圖によつて茶室に列をなして進むに似てゐる。)その集會所から佛殿に向ふ時に露地偈といふちのを衆僧が合掌して同音に唱へ、それが終つてから極めて緩やかに歩みつゝ堂に入るのであるが、その堂に入るとやがて入堂偈といふものを又衆僧が同音に唱ふるのである。即ちこれは堂に入る前に青天井の地を行く時の偈といふ意であることは明かである。ことに露地といふものと僧侶の集會所と佛堂と三者の關係が、茶人の茶室と露地と待合との關係に殆ど全く同じいといふ程に似てゐることが見らるゝのである。即ちこれらの場合には露地は一般の露天の地といふ汎い意味で無く、佛者の方でいへば山門の内の建物の無い地域の意であり、茶人の方でいへば、露地門内の茶室以外の地域の意味であることが明かである。それが庭園の意になつたのは茶人がその露地に風流をこらした結果に外ならないのである。即ちここにいふ露地の本義が建物の無いことに基づくのであつて、露車の露が車の上に屋形の無いことを意味する點に就いては一致してゐると見るべきであらう。かくして露臺、露地、共に露車の「むなくるま」といふ語の意に通ずる所を有することを知り得たのである。以上は稍岐路にふみこんだやうであるけれども、露車の「むなくるま」たることを旁證する一助としたのである。

「むなくるま」といふ語には上の如く、人の乘るべき車の空車である場合の意味と屋形を備へ付けぬ構成で、主として物を運ぶに用ゐるものをさすのと二樣が有つたと思はるる。而して三寳繪詞の露車即ち「むなくるま」は構造上、その屋形の無いものであることを語の上で示し、用法は今の荷車の如くであるものをさしたのであきう。そこでなほ考へて見るに、その空車の意味での「むなくるま」の用例は頼政の歌より古いものを未だ見ない。而してその例は古今著聞集十訓抄等鎌倉時代の文献に見えてゐるが室町時代には見えぬ。これらの僅かの例で直ちに斷定するのは穏かでは無いが、しかし、大勢は院政鎌倉時代の語と判定しうるであらう。言塵集にあるのは古語に就いて説いただけのものであらう。而して他の荷車のやうな「むなくるま」は空車の意味のものよりは早く、平安朝の中期には既に用ゐられて鎌倉時代に及んだものと思はるる。かくして考へて見ると「むなくるま」といふのは露車の意味の方が古くて空車の意味の方が後に生じたやうである。若しさうだとすると、その空車を第一の意味とし、露車の義をその轉義だとする、從來の辭書の説明は妥當なものでは無いといはねばならぬ。

さて、上にのべた「むなくるま」といふ語は空車の意味の場合でも、露車の意味の場合でもいづれも室町時代からは見られないから、その頃には既に用ゐられなくなつたものと思はるる。

以上で、私の説くべき要旨は一往濟んだのであるが、餘説として次の數言を加へておく。

人の乘つてゐないといふ意味の「むなくるま」は今日は空車といふ漢語がその代りとして用ゐられてゐる。しかし、空車といふ語は乘用車に限つて用ゐられてゐるので無く、荷車の順に何も載せてゐない場合にも用ゐるから、「むなくるま」即ち今の「空車」と同義であるといはれないからこの「むなくるま」といふ語に.全く一致する語は今日には存在しないといはねばならぬ。又露車の意味の「むなくるま」といふのは荷車のやうなものであつたらうと述べておいたが、「にぐるま」といふ語は「むなくるま」と同時に用ゐられてゐた。類聚名義抄に「輲」の字に「ニクルマ」といふ訓がある。これはその字義が「載柩車」とあるから、或は漢語の直譯かも知れず、當時適用の語か否か疑を容るゝ餘地がある。しかしながら木工權頭爲忠朝臣家百首(爲忠は大鏡の作者といはるゝ爲業の父)に

     車中雪
はつかしやその荷車のうしよはみ雪つみぬれはひきそわつらふ

といふ歌があるから、院政時代に「むなくるま」といふ語と並び用ゐられてゐたことはたしかである。この「にくるま」といふ語はいつからあるのか、これより古い例は未だ見ない。恐らくは露車の意味の「むなくるま」といふ語に並んで空車の意味の「むなくるま」が生じて、その方が世俗にわかりよくなつて露車の意味の「むなくるま」といふ語の影が次第にうすれ行くにつれて荷車といふ俗人にわかりよい語が生じ、それから暫くの間古い「むなくるま」(露車)新しい「むなくるま」(空車)のせり合ひの時代となり、又荷を運ぶ意味の「むなくるま」と「にぐるき」といふ語が競爭し、室町時代に入りて乘用の車といふものが殆ど用ゐられなくなり、その場合の「むなくるま」といふ語が、乘用車と共に廢れ・それと共に露車の意の「むなくるま」といふ語も俗耳に入り易い「にくるま」に壓倒せられて、ここに「むなくるま」といふ語が二義共にすたれたのであらう。

なほ又平安朝以前には「むなくるま」といふ語は文獻の少い爲か見當らぬ。又荷車といふ語も見えないが、「力車」といふ語は萬葉集卷四の廣江女王の歌に見ゆる。之は重いものを載せて運ぶ意味がはつきりしてゐるから「むなくるま」よりも印象が明かである。この力車といふ語は平安朝にも盛に用ゐられ、鎌倉時代の和歌にも屡用ゐられてゐる。なかにも著しいのは榮花物語疑の卷の用例である。

又大路の方を見れば力車にえもいはぬ大木ともに綱をつけて叫びのゝしり引きもてのぼるあり。

これは法成寺造營に用ゐる木材を運ぶに力車を用ゐたことを示してゐるのである。これはその構造をいふよりも重きを運ぶといふ方の意味が主をなしてゐる。又同じ書の鳥の舞の卷には

わたらせ給ふほどは力車といふものを二つならべて一佛をおはしまさせ給ふ。

これはその法成寺の藥師堂に丈六の七佛藥師の像を納めんとて運ぶに甚しく重き故に、力車を二輛ならべて載せたのである。又同じく玉の飾の卷にも丈六佛を力車で運ぶことを記してゐる。これらを以て見ると特に強力な構造をした車であらう。而してこの語が萬葉集の時から用ゐられてすたれなかつたのであるから、「むなくるま」といふ語と並んで用ゐられてゐたことであらう。さうして「むなくるま」といふ語は之を並行してゐて共に行はれたとすれば、力車はその特別の強力な構成をしたものであつたのであらう。若し奈良朝時代に「むなくるま」といふ語が無くて、その後に生じたとすれば或は露車の飜譯語から發足したのかも知れぬ。


初出
藝林 1(4): 2—21. (1950)