古事記上卷、伊邪那岐命が黄泉國に到りまして醜女又雷神及び黄泉軍等に追はれて逃げかヘりましゝ時の事を記せるうちに、黄泉比良坂の坂本なる桃子を取りて、それを以て待ち撃ちたまひしかば、悉く逃げ返りし由見え、さてその後伊邪那美命がその桃子の功をめでて稱號を賜ひし記事として、古事記傳、又古訓古事記には次の如くに書けるあり。
爾伊邪那岐命告㆓桃子㆒汝如㆑助㆑吾於㆓葦原中國㆒所有宇都志伎〈此四字/以㆑音〉青人草之落㆓苦瀬㆒而患時可㆑助告、賜名號意富加牟豆美命〈自㆑意至/美以㆑音〉
この文をば古事記傳には次の如くによめり。
ココニ、イザナギノミコトモモニノリタマハク、イマシアヲタスケシガゴト、アシハラノナカツクニニアラユルウツシキアヲヒトクサノウキセニオチテ、クルシマムトキニ、タスケテヨトノリタマヒテ、オホカムヅミノミコトトイフナヲクマヒキ
かくてこの文字と讀み方とにつきては、爾來異議を唱へたるもの極めて稀に、大多數はこれを無條件に踏襲したるさまなり。余はこの一章のうちに於いて、「苦瀬」を「ウキセ」とよむことにつきても疑惑を挿むものなれど、今はそれを論ぜず。たゞ「患」とある「」の字と、それらのよみ方につきての疑問を論ぜむと欲す。
さて、ここの一章につきて多くの人々が、殆ど盲從し無批判に踏襲せる間に立ちて、唯一人、田中頼庸は校訂古事記に於いて、別の見地の存することを示せり。田中頼庸は彼の「患時」とあるを「患時」として、
クルシキセニオチテウレヒクルシマムトキニタスクベシ(前後の同じき所は略す)
とよめり。かくして、校訂古事記はその頭注に
諸本作㆑。寛本神谷本古訓本作。勢本勢一本作㆑。今按集韻作弄反。倥也。亦作㆑。俗字、見㆓干祿字書㆒。廣韻懊也。懊新撰字鏡也。久留志牟。應㆑用㆓此義㆒。勢本勢一本爲㆑是。
と記せり。今、余はこの一字につきていづれによるべきかを論ぜむとす。これにつきては先づ古事記傳の説を顧みるべき必要あり。曰はく、
患のをともとも
作 るはみな非 なり。一本又舊事紀に外に从 るぞよき。火遠理 命の段に惚苦とあるも同じ。彼 も此 も久留志牟 と訓べし。天智 童 謠に愛倶流之衞 云々。阿例播倶流之衛 とよめり。(はの俗字とあり。字書に-恫 不㆑得㆑志 也とも不㆑得㆑意貌とも、又控不㆑得㆑志也とも注し、又倥偬とも通はし書て窮困也、迫促也、苦也とも又 恫 痛也呻吟也ともあり。
といへり。
ここに我等の論議の基となる處は古事記の本文に元來如何なる文字を用ゐてあるかといふことなり。こゝには古來未だ曾て古事記の文字として用ゐざるものは論議すべき必要なきものといふべきなり。今、吾人の坐右にある諸本につきて見るに、
の如くにして、井上頼圀の古事記考の攷異によれば、
諸本作㆑惣、秘本作、伊本伊一本尾本作㆑惱、延本作㆑
と見ゆ。而して、田中頼庸の見たる本の文字は上に引けるが如し。今以上の諸本を綜合して考ふるに、
の六樣の文字用ゐられてありといふこととなる。然るに、校訂古事記が、
寛永本、神谷本、古訓本作㆑
といへるは直ちに信ずベらからざる點あり。何となれば、寛永版本には明かに「」とあるを田中氏は「作㆑」といへればりなり。かくて、神谷本が、寛永本におなじとせば、「」の字は本居の本のみなりといふべきこととなるなり。かくて、この六樣につきて見れば、その字形上
の五字は系統同じと見られ、或る一字が正しくて他の四字がそれの訛なるべきか、若くは別に正しき字一ありて、この五字共にそれの轉訛なるべきかの一を出づべからず。今、これを本居の訂正したるをよしとして採用せば、ここの文はその「」を正しとし、又「」は「惱」の俗字なれば、
の二者のいづれかを正しとして決定せざるべからぜる關係に立てるものなり。
今、この點を論ぜむとするに、なほ顧みるべき點あり。そはこの上卷の末にある、火遠理命の御兄を苦しめらるる段の記事に用ゐたる文字なり。今、その文を古事記傳によりて、抄出せむに、
若恨㆓怨其爲㆑然之事㆒而攻戰者、出㆓鹽盈珠㆒而溺、若愁請者出㆓鹽乾珠㆒而活、如㆑此而令㆓苦㆒而授㆓鹽盈珠鹽乾珠并兩箇㆒
又
如此令苦之時
とある、この二所の「苦」の文字まさに上の「患」と參照して考ふべく、その「」は全然同じ文字なるべく思はるるなり。これを他の諸本が如何に書けるかといふに、
と見え、古事記考の攷異には初の分は
諸本作㆑惣 伊一本蠧蝕、諸本作㆑
とあり。されどここに所謂伊一本即ち道祥本にはここに何等の蠧蝕もなきは古典保存會の複製本を見れば知らるゝなり。而して、上には「諸本作㆑惣」といひ、下に又「諸本作㆑」とあるは何の義なるか、了解しかぬるものなり。次のは
眞本前本曼本祕本作㆑惣、中本作㆑物、寛前本、風本、延本作㆑、吉本作㆑、
とあり。次に校訂古事記は如何と見るに、いつれも「苦」と書きてその頭注は
苦二字勢一本、中臣本,古訓本、爲㆑是。諸本作㆑惣、苦作㆑若。惣字之義見㆓上文㆒。
といひて、多くをいはず。しかもこの言甚だ粗略にして首肯しかねたり。勢一本即ち春瑜本は「」の字にあらずして「惚」を用ゐ、古訓本は「」を用ゐたるを皆「」を用ゐたるものと云へるは、實際に合せぬ言なり。されど、こゝには
の四形のみあらはれて「惱」の形をあらはさざるなり。さて、この所に於いては古事記傳は次の如くいへり。曰はく
令苦は
多斯那米賜幣 と訓べし。書紀に厄 字又辛苦、困厄、劬勢などを然訓り。(注略)字上に出たり。
今、ここにこれが是非の論を保留しつつ、次の卷を見るに、卷中、景行天皇の段にもこの字を用ゐたるあり。それを古事記傳より抄出ずれば、
於是天皇知㆓其他女㆒恒令㆑經㆓長眼㆒亦勿㆑婚而也。
とあるなり。これを、他の本につきて見れば、
とあり。かくて古事記傳の説はここにも同じことなり。
以上、一切を通じて見るに、
の八字、二系統と見ゆるなり。而して寛永版本には火遠理命の段のには「スへ」と旁訓を施したれば、それを「惣」の字と見たること著し。鼈頭古事記は黄泉國の段のに「ウレヘクルシム」と旁訓を施して、頭注に
五車韻
瑞 云 倥苦也。 一 曰 困貌。或 作㆑
と記せり。本居説はこれに基づけりと思はれたり。ここに本居の説を顧みるに、その字書といへるは何をさすか明かならねど、その「恫不得志也」といへるは玉篇若くは廣韻に基づくものならむ。玉篇には
七弄切恫不得志也
と見え廣韻には
恫
とありて、又別に
恫 洞不得志
とあるなり。さて又「惣」は今は「すべて」といふが普通なれど、集韻には
惣 倥
ともあれば、この「」と同義の場合もありと見えたり。がくて「」は「惣」の轉訛といはばいふべく、字書には例を見ざる字なり。次に「」は「」の省文なりといはれ、類聚名義抄には「」に「恨」と注し「」に「ウラム」「オコタル」と注すれば、これはここにあたる文字にあらずして、他の文字の轉訛なること著し。次に「」は支那の字書には見えねど、類聚名義抄には見えて、「クタク」「ウツ」の訓あり。されど、この訓にてはここに適せざれば、これも他の字の轉訛なること著し。次には「」と「惚」となるが、この「」は本居の採用せしものなり。「惚」は普通には「怳惚」「恍惚」といふ熟字をなす文字にして、普通の訓は「ココロホル」「オロカ」など訓するものなり。かくして、本居のいふ所の「」は「」の俗字にして、その「」又は「」に對してのわが國の字書の普通の訓は「ココロホル」「サマヨフ」といふものにして、歸する所「惚」の訓と同樣なる姿にして、「惣」も亦「」と同じく「倥也」なりといへば、結局すべて一に歸するが如し。然れども、これらすべてにわたりて普通のわが字書の訓として一も「クルシム」とよみたるものなきを如何にすべきか。本居は如何なる所に根據を得て「クルシム」といふ訓を加へたりしか頗るおぼつかなきことといふべし。加之、「」といふ文字を用ゐたる古本果して存したりしか。神谷克楨本に用ゐたりといふ、その本未だ知らねば如何ともいふべきにあらねど、頗る疑はしき事なり。
さてここに所謂伊勢本、伊勢一本の二者は元來同一本の寫傳して二者に分れしものなるが用字法全く一致するは不審なけれど、これが、先には「」とかき後には「惚」とかきたるは何故なるか。今干祿字書を見れば
(上略)老、惚〈竝上俗下正〉
とあり。これによりて見れば「惚」は「」と同じ字にして、それの俗體たりと知られたり。更に又龍龕手鑑を見れば
惚〈俗〉〈通〉〈令(今)〉惱〈正〉
と見えたり。ここに於いて、この「惚」が「惱」の俗字として汎く用ゐられてあるを見る。又類聚名義抄には
〈奴道反 ナヤ
ム ウレフ ウルサシ 和ナウ〉 〈正〉 〈或〉 (畧) 惚憹〈俗〉
の如く見えたり。即ちわが國に於いても、「惚」を「惱」の別體として用ゐたるを見るべし。かくして考ふれば、伊勢本、伊勢一本の或は「」と書き或は「惚」と書けるは別の字を用ゐたるにあらずして、同じ字を二の體に書き分けたりと見るべきものなりとす。
今、この見地に立ちて考ふれば「惚」と「」とは源を別にするものといふべく、古事記に用ゐたる「惚」は「怳惚」「恍惚」の「惚」にあらすして「惱」の別體たる文字と見るべく思はれ、かくして「惚」と「」とはここにては系統の別なる文字と見るべきものにして、本居の「」を採用せしは神谷本を見たりといふ證なき限りは臆斷といふの外なかるべきものなり。かくて吾人の問題は本來が「」なりしか、又「惱」若くは「惚」なりしかといふことに中心を限らるゝに至れり。ここに惟ふに「倥」又は「恫」といふ語が、かりに本居のいふ如く、迂餘屈折の結果「クルシム」といふ語に達せりといふとも頗る遠きものにして、これは元來はじめより「ナヤム」の義ある「惱」の字なりしものと思はるるなり。なほ又新撰字鏡を見るに、
懊 〈同於槀反、上、忼也、愛也、悔也、貪也、惚也、久留志牟〉
とあり。「懊」は廣韻に「懊惱也」と注せるが、その「惱」をここに「惚」の形にて記せること著しく、かくて「惚」を「クルシム」とよみても不可なきなり。
余がこの論は校訂古事記の主張する所と結果に於いて一致するものなれど、校訂古事記の頭注も亦微底せざるものなり。それはこの頭注には
今案集韻作弄反、倥也亦作
とある、これはよしとせむ。しかも「倥也」といふ以上は「惱」と同じ字といふべからず。而して、
俗字見㆓干祿字書㆒
といひ、
懊新撰字鏡也久留志牟
といひたれど、それらはいつれも「惚」にして「」にあらざればなり。即ち、田中頼庸は「惚」と「」とを同字と見たるものなるが如し。これもとより不見識の事といふべきなれど、吾人はこれにより、神谷本の「作」とあるも或は「惚」なるを誤れるにあらずやの疑を發すると共に、本居も亦「惚」と「」との區別を深く留意せざりしものたらむと思はるるなり。かくて、余はこれらの文字はすべて正しくは「惱」の字を用ゐるべき所にしてその俗字
を用ゐたる爲に、後世その事を知らざる人々により
などさま〳〵の字形に轉訛せしめられたるものなるべしと思ふなり。而して、かくの如き誤認の生じたる原因は、それらの學者が支那近世の字書につきてのみその根據を求め、干祿字書及びその以前の字體の變遷につきての智識の缺けたりしによるものなるべし。されば、今日に於いてわが古典を論ぜむとするものは、現今の普通教育の程度の漢字の智識に止まりて足れりとすべきにあらざることを反省すべきなり。かくて、この「患惚時」のよみ方の如きも、この「惚」即ち「惱」字と「患」字との各のよみ方を精査して後、それらに基づきて考案をめぐらさるべき筈のものなりと思ふものなり。