近衞篤麿のこと
―私の欽仰する近世人・その四―

近衞篤麿公に私が傾倒して居るのは、學問とか教育とかいふ方面からではなく、日本臣民としての立場からである。このことは私ばかりではない、恐らく私と同じ時代に生活してきた人は、皆同じやうに考へたと思ふ。當時の國民の期待する要點が近衞公に依つて實現せられて行つて居る、その時代のすべての國民がかう思つて居た時代があつたのである。その時の私の近衞公に對する信頼の念、それほ筆紙に盡し得ない程の大きなものであつた。それは今日に於いても少しも變つて居ないし、又近衞篤麿公が居られなかつたならば、恐らく日露戰爭なども果してあゝいふ風な樣に起つたかどうか分らなかつたと思ふ。さういふ點について非常に自分は欽仰して居る譯である。その點を言ふのが眼目であるけれども、一應參考の爲めに近衞公の略歴を、既に世間に公けになつて居る書物から拔いて述べて置かう。

近衛家は申す迄もなく、藤原家からつゞいてゐる藤原の嫡流である。併し近衞公爵から十代前の信尋公は、後陽成天皇の皇子でおいでになつて、三藐院さんみやくゐん關白で通つてゐる近衞信勢公の養子になつて居られる。さういふわけで、近衛家は藤原氏とは申すけれども、元來血統は皇統から出て居る家柄である。それがやはり近衞家歴代の特に皇室に對して忠勤を勵まれる特別の事情になつて居るのではないかと思ふ。篤麿公の祖父忠凞公は、御存じの通り、孝明天皇樣の御代に於いて尊皇攘夷黨の一方の中心のやうに仰がれて居た方である。孝明天皇樣も非常に深く御信頼であつたやうに思ふ。この忠凞公は明治天皇の御代に於いてもずつと榮えておいでになり、慥か明治三十一年に九十一歳で薨ぜられたと憶えて居る。忠凞公の御子さんが忠房公で、その御子さんが篤麿公である。文久三年にお生れになつたが、どういふ御事情か、久しく忠凞公の第九子といふ取扱ひになつて居られた。明治三十一年に至つて初めて忠房公の長子と戸籍を改められたとある。明治六年、十一歳の時に忠房公がお亡くなりになつたので九月に家督相續をして近衞家の當主となり、明治十年十五歳の時、東京に移り侍從職に勤務せられた。その間の細かいことは略して、明治十二年、十七歳の時大學豫備門に入られたが、翌年病氣の爲め退學せられ、保養の爲めに近畿地方を歩かれたやうに聞いて居る。さういふ風でこの方は學校へは餘り行かれず、身分のさういふ人であるからでもあらうが、專ら家に在つて學問を勵まれたやうである。その間に色々自ら研究せられたらしく、その頃出版になつて居る「螢雪餘聞」は、それまで、見聞した記録とか書籍などに在ることを書き拔いて置かれたものを整理せられたもののやうである。明治十八年、二十三歳の時、外國へ留學せられることになつた。これはその前年九月に、明治天皇の御思召に依つて墺國留學を命ぜられたのに基づくのである。それは初め勅許のあつた五箇年といふことであつた。後で御願ひになつて更にドイツに移つて留學して居られる。ドイツでは、ボン大學に入つて政治法律の學を修められ、明治二十一年にはライプチッヒ大學に轉じ、これを卒業して、九月に歸朝せられた。

歸朝後、帝國議會の開設と同時に、身分の上から貴族院議員の任に就かれ、これから公の貴族院議員としての活動が始まるわけである。當時、同志の議員と共に三曜會を組織せられ、隱然としてその會の盟主の地位に居られたやうである。次いで懇話會の客員となる。明治二十四年、貴族院議長の伊藤博文は事故の爲め議長の職を執られず、副議長の東久世伯爵また病氣の爲め事務が執れなくなり、假議長選擧の必要が起つた。この時近衞公が假議長に當選した。當時二十九歳である。この年五月、當時日本へ來遊せられて居つた露國の皇太子が大津で不慮の難に遭はれた。所謂大津事件である。この時日本の司法權が行政府の爲めに脅かされる事實が起りかけた。それで近衞公が、これは公御一人といふわけではないが、閣臣の責任を問ふ運動を起し、また貴族院議員總代として京都に赴かれる。當時明治天皇樣は露國皇太子御慰問の爲め京都に御出であそばされたので、公は京都にて天機を奉伺し、また露國皇太子を慰問して居られる。

その他政治に關したことは色々あるが、北海道に關したことを少し述べて置きたい。公は明治二十五年八月に北海道を巡遊し、翌年北海道調査完成に關する建議案を貴族院に提出、これは可決となつた。三月には同志と共に北海道協會を組織し、その會頭となる。その他、北海道に鐵道を敷設するとか、要するに北海道開發に非常に盡力されたのである。

明治二十六年頃より東洋の風雲頗る急を告げ、國民齊しくその事に心を勞して居つた。その當時のことである。これは餘り世間に知られて居ないことであるが、明治天皇樣が特に内命を篤麿公に御示しになり、隨時侍從長を經て國事に關する意見を陛下に奏問申上げるやうにとの御許しを御下しになつた。この事實は、當時私共細かいことは分らなかつたけれども、薄々世間に洩れ聞えて居た。併しそれは九重の雲深い邊りのことで、われわれ草莽の微臣が、彼是れといふことは申上げることが出來ない。唯後に伺つた所に依ると、戰爭が始まると間もなく、三箇條の奏問をして居られる。そのことは奏議三條として近衞篤麿公の傳記の中に要領を掲げてある。明治二十八年、この時公爵は三十三歳であるが、日英條約の改正に對し、新條約が我が國の國利と相容れないことを論難して居られるが、これなども普通人の一寸氣の附かぬことであつて、餘程鋭い考へを有つて居られたことが分るのである。

明治二十八年三月、學習院長に任命せられた。公が官に就かれたのは、これが喰一であり、薨去までその任に在られたので最初にして最後までつゞくのである。この年四月十七日に日清戰爭の結末をつけた和親條約の調印があり、五月六日、露佛獨三國の勸告に依つて遼東還附を政府が承諾してしまつた。そのことについては又後に述べたい。翌年九月、松方内閣成立。篤麿公は入閣の勸誘を受けたけれども、これを謝絶、同年十月三日には貴族院議長に任命せられた。明治三十年八月、古文書調査の爲め京都に赴かれる。その結果かと思はれるが十月に、忠凞公が孝明天皇樣より拜戴せられた御宸翰を集めて、これを聖上の御覽に供し、勅命に依つてその一部分を獻上して居られる。明治三十一年、篤麿公三十六歳。この頃から日清同盟論を提唱せられる。これは非常に注目すべき事柄なのである。六月、やはりこれに因んだ事業として、同文會を組織。三十一年六月、大隈内閣成立。この時大隈伯自ら公を訪うて入閣を勸説したが、遂に受けられない。そこで大隈は、篤麿公に入閣を命じて戴きたいといふことを明治天皇に内奏申上げる。併し、陛下はこれを御許しにならず、篤麿公に對して海外に差遣するといふ勅命が下つた。どれは、もう少し海外の實際の政治や外交のことを見聞研究させようとの御思召であつたかも知れないが、とにかく、海外へ遣はすといふ叡旨を御下しになつた。明治天皇樣の御思召が公爵に直接下つたのは、八月六日である。この日、藤波言忠子爵が陛下の命を受けて、海外へ差遣するとの陛下の御内命を傳へて居る。公は、九日これに奉答せられた。それから九月一日、勅命を受けて參内、種々勅問を賜り、奉答。十一月二日、同志と共に東亞同文會を組織して、支那保全及び朝鮮扶植の論を提唱する。その年十一月、山縣内閣成立。また入閣の交渉を受け、これを謝絶せられた。入閣の勸誘はこれが三度目である。明治三十二年四月一日、愈々勅命に依つての海外視察に出發せられた。今その旅程を簡單に述べてみれば、ハワイからサンフランシスコ、ワシントン、ニューヨークを通つてロンドンに渡り、それからパリー、ブラッセル、ヘーグ、アムステルダム、ベルリン、セントピータースブルグ、フインランド、それからモスコーに戻つて、ルーマニア、コンスタンチノープル、アデン、ローマ、ウインナ、マルセーユからシンガポール、香港、廣東を親て上海着、南京、蘇州、武昌に遊び、十一月に歸朝せられたのである。明治三十三年五月一日、南京同文書院の授業が開始になる。七月四日、同憂の志士と共に時局對策を議し、その後盛んに時局の患難を救解するに努力せられた。八月十五日には東亞同文會の臨時大會を開いて、益々支那保全の必要なる事を決議。九月九日、大學教授等を集めて滿洲問題を討議し、その後それらの大學教授と提携して、時局に對して色々の意見を發表して居られる。その中特に重大なのは、三十三年九月二十四日のことである。この日、同志の人々と共に國民同盟會を組織、擧國一致の態勢を以て滿洲問題の解決を圖らうといふことを始められた。その頃から健康を害せられ、十一月二十九日には咽喉部の患部切開手術を受けられた。それに拘らず國民同盟會の活動は十二月頃から次第に盛んとなつたが、それはこゝに略するとする。明治三十四年春、滿洲問題に關して内閣諸公、元老に忠告して、ます〳〵ロシヤの勢力掃蕩に全力を注がれた。一月十五日、國民同盟會は露清特約反對を議決、その反對意見を實行することとなる。さういふわけで、國民同盟會は別に政治運動ではなかつたのであるが、當時の内閣の政策に對して根本的な反對を唱へたやうな状態であつて、政府は非常にこれを厭がつた。それで遂に一月二十二日、國民同盟會を政事結社と認定し、これで相當壓迫を加へる積りであつたやうである。二月六日には、今はなくなつたが、有名な愛國婦人會を近衞公爵が中心となつて組織して居られる。當時ロシヤは露清特約を結び、これに依つて勝手なことをしようと謀つて居つたのであるが、これに關して、二月に列國は支那に對して警告を與へ、ロシヤに對しては忠告を與へた。その結果、四月、清國は遂に露清特約の調印を拒絶、隨つて同時に露國はその特約を抛棄したわけであるが、併しそれは表面だけの事で實際は依然として滿洲を占領して居るので、國民同盟會は更に露國の滿洲占領を解除する運動を起し、滿洲の解放統治策を提唱する。その年即ち明治三十四年六月二日、桂内閣成立。時に公三十九歳。同月七日、篤麿公は桂總理大臣を訪問して、新内閣の對外意見を聽き、同時に、國民同盟會の對清對韓要務覺書を示して居られる。七月になると、支那及び朝鮮の現状を視察するの必要ありと考へられ、十二日出發、天津、北京、營口、芝罘、旅順、仁川、京城と各地を巡り、九月歸京。その間ロシヤは、露清特約が一度廢棄せられたに拘らず、第二次特約を支那に對して締結した。それに對して國民同盟會は、十月二十六日反對を議決した。翌明治三十五年一月、國民同盟會は時局に關する痛切なる意見を、小村外務大臣に呈出して居る。二月十五目、日英同盟發表。四月八日には、この日英同盟の結果であるが、露清滿洲還附條約の調印が成立した。この約束は、四月から六箇月毎に三回、漸次滿洲より撤兵、十八箇月以内に完全に露國は滿洲より撤兵するといふのである。そこで四月二十七日、近衞公爵は國民同盟會の解散を行ふ。何故解散したかといふと、日英同盟は一面から言ふと、國民同盟會の主張を實現する精神で結ばれたものであり、桂内閣が出來た時、國民同盟會の覺書を手交したが、その國民同盟會の主義主張は桂内閣の方針に依つて實現する、それ故に、國民同盟會はその目的を達したから、この際解散する、かういふ極めて旗幟鮮明なる聲明を發して解散して居る。この事柄は國民同盟會始末といふ一册の本になつて傳つて居る。同年七月十日には、同志と共に六國史校訂の議を宮内省に建議して居られる。

明治三十六年一月、公は肺炎に罹られたが、幸ひ四月には快癒せられた。ところがこの頃、ロシヤは更に滿洲還附條約を履行するの模樣なく、我が政府も默視し得ず、ロシヤに對して質問を發し、清朝に對して警告を發して居る。斯樣な状態であつたから、三十六年四月篤麿公は舊國民同盟會員及び大學教授等と共に、非常に始末のつかなくなつて居る滿洲問題解決の運動を起されたが、六月初旬に至り、咽喉部に病氣を得、病勢日に募り、醫師より當分靜養すべきことを求められた。併し近衞公爵は、自らの病氣を顧みず、八月九日には同憂の志士相集り近衞公の下に對露同志會を組織した。これは國民同盟會の生れ代りのやうなものである。この對露同志會は絶對主戰論であつて、その活動甚だ著しきものがあつた。八月十二日に至り、この對露同志會の活動鞭撻が因を成したのであらうか、日本政府が遂にロシヤに對し交渉を開始することとなつた。これより前、六月二十三日、御前會議が開かれて、そこで對外方針が決められ、和戰兩樣の準備が出來たといふことである。八月となると風雲極めて急を告げ、國内に於いては、當時われわれでも血が沸き立つやうな状態であつた。九月に入つて公爵の病益々篤く、十二月六日、到底癒る見込なしといふことであつたのか、大學病院を退かれて邸に歸られる。十二月二十八日危篤に陷り、その頃總理大臣や元老に對して國事を遣囑せられた。それはどうしても主戰論で、戰ふ以外途なきことを遺言せられたのである。斯くて翌明治三十七年一月二日遂に薨去。 これは發表せられたのは二日であるが、實際は一日ださうである。私共が公爵の薨去のことを聞いたのは三日頃であつた。この時、公は年四十二歳であつた。

私が近衞公爵に傾倒したのはその原因が對外問題にある。殊にロシヤ問題である。ロシヤが日本に對して昔からどういふ交渉をなして來たか今茲に一々委しく述べる餘裕を持たないが、ロシヤ問題を説かなければ近衞公爵についての話の中心に觸れることが出來ないので一應述べてみたい。

ロシヤが日本に對して影響を及ぼし始めたのは後櫻町天皇樣の明和二年、將軍家治の時である。その後、千島が次第にロシヤ人の蠶食するところとなり、林子平が海國兵談を著はして海防の急務を説いたのも丁度その頃である。その後二十年、光格天皇樣の御代、天明五年、幕府は役人を蝦夷地に遣はして巡視させて居る。その時に千島群島がロシヤ人の蠶食を被つて居る旨を復命して居る。その後八年、寛政五年將軍家治の時に、ロシヤ人のアダム・ラツクスマンといふ者が、有名な伊勢の幸太夫、磯吉といふ漂民を送つて、根室に來て通商を請うたが、幕府はそれを諭して歸らせた。その頃から幕府も海防の急務であることを悟り、老中松平定信も自ら沿海地方を巡視したり、蝦夷の御用掛を設けたりなどして居る。寛政十一年、近藤重藏は幕府の命を受けて擇捉へ行き、ロシヤ人の建てた十字架の標柱を拔き捨てゝ、大きな木標をカムイ、ワツカナイに建てた。そして木標には一面に「大日本擇捉」と書き一面には「天壤無窮大日本國」と書いた。この木標は今北海道帝國大學の標本室に持つて來てあるさうである。この後五年文化元年にはロシヤの使節レザノフといふ者が長崎に來て、日本の漂流民を送り還して通商を請うた。併し幕府はやはりそれを諭して歸らせた。かういふわけでロシヤ人が頻りに北の方を窺うて來るので、幕府は松前藩だけでは收まりがつかないと思ひ、新たに松前奉行といふものを置いて蝦夷地を經營して居る。それから文化八年には、ロシヤの海軍士官ゴローニンが來て千島近海を測量する。そこでそれを捕へて松前の牢屋に入れる。するとその仇討にロシヤは有名な高田屋嘉兵衞を擒にした。これは後に捕虜交換をして落着いたのであるが、この文化八年頃は、日本は海防の爲めに非常に國内の騷がしかつた時代である。私共の家の記録を見ても考へられるのであるが、この頃日本國は、恐らくは全部動員の準備をして居つたのではないかと思はれる。人は何人出せるか、馬は何頭出せるかといふことを、銘々の士の家から屆けさせて居る程である。非常な時代だつたらうと思ふ。以上はロシヤだけの話であるが、嘉永五年にペルリが來、翌年にはロシヤの軍艦四艘が長崎に來て、海軍の將官プーチヤチンがロシヤの國書を呈して修交を求めた。この嘉永五年のプーチヤチンの交渉がその後私共をして非常に遺憾を感じさせる數多くの事件の因になるのである。それは、樺太はどつちのものだか判らぬ樣になつて居るから、この樺太の境界を定めようといふことを申出たわけぞある。幕府はその時にはやはり使を遣つて諭して歸らしめた。ところが安政元年にペルリの申出に依る日米條約が成立した爲めに、ロシヤも默つては居らず、遂にそれと同じやうな條約が成立する。その條約の第二條、それが私共の大いに問題にするところである。その要點は、日本の北方の境界を定めるについて、千島は擇捉から南を日本領とし得撫から北をロシヤ領とする。樺太は兩國の共有とする、かういふのである。初めは樺太の境界を定めようと言つて來たのに、何時の間にかロシヤの例の遣口で、共有といふ事にしてしまつた。その前後の遣口を見ると、ロシヤが樺太を占領しようといふ下心のある事は誰にも明白である。幕府も流石にその下心を看破したものと見え、ロシヤに對して再三樺太の境界を議定しようといふ相談を持ち掛けたけれども、遂に應じない。殊に安政六年、東シベリヤ總督ムラビエフの如きは日本へ來た時、樺太は當然ロシヤ領であると公言して憚らなかつた。さういふ次第でその後ロシヤは益々樺太を蠶食して來る。隨つて日本も樺太の境界を確定する事の必要を痛感し、文久元年、幕府は外國奉行の竹内下野守保徳及び松平石見守康直を、英、佛、蘭、ポルトガル、ロシヤ、アメリカの六箇國に遺はして、條約は締結したが尊皇攘夷黨の活躍が激しいものであるから直ちに實施出來ない、そこで五箇年間の廷期を請ひ、慶應三年十二月を以て港を開く時期と決めたわけである。この竹内下野守、松平石見守はロシヤへ行つて樺太の境界談判をやつたわけであるが、その談判はどういふ状態であつたかといふと、一行は文久二年にロシヤの都に到着して、それから先づ開港廷期の同意を得、次に樺太の境界の談判に移つた。その時ロシヤの全權委員イグナチエフは、樺太は既にロシヤ領である、だから今更談判の必要なし、かういふ暴言を吐いた。この時の經緯は非常に芝居じみた話もあるがそれは略するとして、松平康直はイグナチエフが持つて來て説明した地圖が僞作であることを看破し、證據を擧げて詰問する。そこで傲慢無禮なイグナチエフもこれに對しては一言もなく、それでは境界談判をやらうといふ事になつたのである。そこで日本側は、北緯五十度を以て日本とロシヤの境にしようと主張した。ところが向ふは四十八度にしようと主張したが、とにかく初めは全部自分のものだと言つて居つたのだから非常に讓歩した形である。これに對して副使格の松平康直はそれを承知しようとしたが、竹内保徳はあくまで反對した。それでは改めて兩方から使節を出して樺太の實地について境界を決めようといふことで別れたのである。こゝまでは成功と言つてよからう。そこでその翌年ロシヤから境界を決める使を寄越した。ところが、幕府は忙しいからといつてそれに應じなかつた。ロシヤの使は空しく歸つたのであるが、これは非常に不都合なことであつて、これがその後、非常な禍ひを招いたのである。その後慶應二年になつて幕府から小出大和守秀實を使としてロシヤに遣り、こちらに少し弱味が出來たといふわけで、前の北緯五十度説を讓歩してイグナチエフの四十八度説を容れそれを基として談判したいと申し込んだのであるが、時既に遲く、ロシヤは日本の約束不履行を楯にとつて相手にしない。そこで小出大和守は空しく歸國した。これは幕府の怠慢といふ外なく、我が國の不面目を世界にさらしたものである。

文久元年、當時英國とロシヤはクリミヤ戰役の後で中央アジアで衝突し東亞でも衝突してをつた時代である。そこで英國が我が國の對馬を占領するといふ風説があつたものだから、露國の軍艦が勝手に對馬の芋崎、今の竹敷要港の附近に上陸して、材木を伐り出し棧橋を架け船を修繕し、人を殺し財寶を奪ひあらゆる亂暴を働いた。幕府はその知らせを受けて、外國奉行の小栗豐後守を對馬に遣はし撒退を迫つたのであるがなかなかいふことを聞かない。その時米國の東洋艦隊司令長官ホープが軍艦を持つて來てロシヤに迫つたので漸く退去したといふ事實がある。ロシヤといふ國は昔からさういふ状態で横暴を極めて居たわけである。さて再び樺太の話に戻るが、明治維新の後我が明治政府は、明治元年岡本監輔といふ者をして樺太の経營に當らしめた。明治三年には黒田清隆を樺太の開拓使として樺太のことを管理せしめたのである。この時外務卿の副島種臣が樺太買收の政策を立て、樺太を二萬圓で買はうといふことをロシヤに申込んでその相談が殆んど出來上つて居た。然るに當該長官である黒田清隆が、樺太などを買收して何等の利益も無いから止めにしたがよいと反對して爲めに沙汰やみとなつてしまつた。これも洵に拙い話であるが、それから間もなく明治七年もう一層拙いことが起つた。それは何かといふと、榎本武揚を特命全權公使としてロシヤに遣はし、樺太と千島とを交換するといふ交渉をやらせたのである。翌年五月榎本とロシヤの外務大臣ゴルチヤコフの間に、千島と樺太とを交換するといふ相談が纏り、次いで條約が締結せられた。この時日本は、得撫から北占守まで十八島を得たのみで、樺太を全部ロシヤに讓つてしまつたのである。

この事は私共若い時分から非常に憤慨したことである。大體千島は元來日本のものである。それをロシヤが勝手に奪つた。また樺太は、兎に角半分は日本のものである。その樺太を全部向ふにやつて、元々日本のものである千島を貰ふ。さうして千島と樺太とを交換したといふのである。こんな馬鹿な話といふものはあるものでない。明治政府はかういふことをやつてゐる。われわれは今でもさうであるが、對外硬の意見はこんな事を見たり聞いたりしてゐるから生れつきみたやうのものである。それがわれわれが近衞公爵に傾倒する原因になつて來るわけである。

それから明治二十七、八年戰役の結果、どういふことが起つたかといふと、明治二十八年四月十七日馬關條約が成り、五月八日に陛下の御批准が終つて、日本と支那との間に、平和が回復したわけである。そこに突如として所謂三國干渉が起つて來た。その原因はロシヤにある。ロシヤは豫〻東洋へ出て來て大いに活動しようと考へて居つたから、日本が遼東半島を持つてゐることは自分の東洋政策の爲めに非常に工合が惡い。そこでドイツ及びフランスを誘つて四月二十三日、日本駐箚のロシヤ公使ヒトロボー、ドイツ公使のクードシユミツト、及びフランス公使のアルマンが相前後して日本の外務省に來り、日本が遼東半島を永久に占領することは東洋の平和に害がある、仍て直ちにこれを還附せよ、若し聽かなければわれわれは兵力を以て解決する、と威嚇した。そこで、廣島の行在所に於いて御前會議を御開きになり、ロシヤに對して再考を求められる。それと同時に帝國政府は英國、米國、イタリヤ三國に援助を請うたのである。ところがその時、イタリヤだけは日本の依頼に應じようとしたが、英米二ヶ國は知らぬ顏をして居つた。それで結局その儘沙汰やみになつてしまつた。遂に五月十日、遼東半島を支那へ還附するといふ詔勅が發せられた。その結果十一月八日に遼東還附の條約が出來た。

その間の細かいことを一々述べることは省くが、われわれ實際當時に生きて居つた者にとつて、明治二十八年の五月十日は永久に忘れることの出來ない日である。われわれその時のことを今思つて見ても涙が出る。軍人が勝つて、勝つて、勝ち捲つた所を只取られてしまつた。實際私共がその事を知つたのは五月十三日である。あとで見れば日附は五月十日になつてゐるが、天下に公けにせられたのは五月十三日であつた。この日陸海軍々人に特別の勅語が下された。兎に角軍人が命を捨て、戰つてやうやく取つたものを只の一言で取返されたのであるから、我々が泣いても泣いても泣き足らぬのはそれは當然のことである。

當時私は東京に文部省の試驗を受けに來て居つて郷里に歸る途中にこの事に出逢つたのである。當時、平和條約が出來たといふので、あちらこちらでお祝ひの國旗が立つてゐた。ところが二三日すると、お祝ひどころの騷ぎではない。その時はほんたうに奈落の底に抛り込まれたやうな感じがした。當時、東京文科大學の機關雜誌みたいなもので、「帝國文學」といふものが出て居つた。これはこの年創刊せられたものであるが、慥かその七月號だと思ふが、當時の文科大學長の外山正一氏が「忘るゝな此の日を」といふ文章を書いて居られる。この文章をわれわれ當時全部暗誦してゐたものである。その一部を拔き出して見よう。

これほほんの一部であるが、當時の日本人の心をよく表はしてゐる。その時の心持は私共今日に於いても少しも變らない。この遼東還附は支那人、朝鮮人に非常に影響した。日本は日清戰爭に勝つたとはいひながら、實際は何も出來なかつたではないかといふわけで、その後日露戰爭まで支那人でも朝鮮人でも我が國を侮つて、我をして手も足も出ない状態に陷らしめて居る。その名殘りは今の支那にもあり、又これが大東亞戰爭勃發の遠因にもなつてゐると思ふ。私共のその頃の心持を言へば、ペルリが日本へ來てから後の日本の外交は、一言にして言へば軟弱外交であり、外國の鼻息をのみ窺つて來た。何事も外國の指圖を仰がなければ出來なかつた。大體治外法權なるものは安政の條約から始つたのであるが、この治外法權を設けられてゐる國はエジプト、トルコ、支那、日本といふ彼等のいふ劣等半開の國で、どこに國家の主權があるか、頗る疑はしいといふべきである。その上、外交のみならず明治十五六年頃までの日本の内政を考へて見ると、例へば日本で或る規則を制定し、或ひは從前の法規を改めて之を實施する前には、必ずその草案を各國の公使に示して、これでよろしうございますか、と内諾を求めたものである。そんなことをするといふ條約は何もないのであるが、何時しかさういふ習慣が出來上つて、それをやらぬと收まりがつかないやうな慣例になつてしまつてゐた。これは徳川幕府時代の外國奉行からの因習なのである。それをこの儘にして置いてはいけないといふので、井上馨が外務大臣になつた時、外國人に日本も歐米と同じ國だと思はせようとして、所謂鹿鳴館流の極端な歐化政策を執つたのである。兎に角外國の指圖を受けなければ内政も出來ないくらゐになつて居た時であるから、井上のやつたことも、その志に於いては惡くはない。しかしそのやり方は國權を害するといふので、それに對する非常な反抗が起つた。

次に大隈が又それを引受けてやつた。それも志は諒とすべきであるが、やはり國威を損し國權を害するから反對が起つたのである。そんなことがくりかへしくりかへし行はれて我々幼時が見聞するところのものは殆ど齒がゆい事ばかりであつた。それ故にとにかく日本の獨立性を本當に發揮するのには、どうあつても軟弱外交を打破しなければならぬと、われわれ當時まだ子供であつたけれども、新聞を見、雜誌を見て、頭に沁みこんで居つた。これで一體日本は獨立国なのかどうかと、腹が立つことばかりであつた。殊にひどいのは、明治二十五年十一月に起つた千島艦事件である。日本の千島といふ水雷砲艦が英國の商船と瀬戸内海で衡突して沈沒、その責任は英國の船にあつたのである。その時に日本政府が訴訟を起して居る。日本國内における街突事件だから日本の國法に從ふのが國際法の原則である。然るに當時の政府は英國の商船を相手取つて横濱の領事裁判に訴へた。而もそれが却下せられた。それで大騷ぎになり、上海の英國上等裁判所に控訴する。それでも埓があかずして英本國の樞密院に上訴するといふ事にまでなつた。さうしてこの際畏多くも明治天皇樣の御名前を以て英國の領事裁判を受けたのである。それであるから英本國の樞密院も我が天皇樣の御名前を以て判決してゐる。かういふのが明治の政府である。このまゝではとても仕樣がない。さういふ空氣の中にわれわれは生活して來たのである。今思ひ出しても腸がちぎれるやうに思ふ。隨つて多少とも志ある者は皆外交談判をもう少ししつかりやつてくれといふ考へを持つて居た。當時の政治家の頭は非常に外國人といふものに恐れをなし、條約を條約の通りに勵行しようといふ、今日では當り前の事だが、さういふ事を主張するだけでも非常に強硬なはうであつた。その頃の外國人は條約の規定を全然無視した行動を平氣で執つた。たとへば、居留地を中心にして外人の遊歩區域といふのが決つて居る。私は當時越後に居つたから、開港場である新潟の居留地のことを覺えて居るが一定の區域にはちやんと標札が建つてここまでが外人の遊歩區域だと記して立てゝあつた。ところが外人はそんなことを問題にしない。どこでも自由自在に行く。もし何か言ふと、頭から日本人を輕蔑してゐるのだから、勝手次第なことをやる。さういふわけで、明治二十五年十二月、貴族院で條約勵行の建議案といふものを出したが、それが爲めに議會が解散になるといふ始末であつた。尤もこの時は政府にとつて、痛手になつた同種類の案が三つあつたが、その條約勵行の建議案の爲めに二回の停曾が行はれ、終に解散になつたのである。これを以てみてもいかに當時の政府が外國を恐れて居たかが分る。この時、近衞篤麿公を始め三十七名の者が連署して、當時の總理大臣伊藤に忠告書を送つて居る。兎に角明治六年頃から二十七年頃まで約二十年間はさういふ状態で、因循姑息、卑屈を極めた外交策を續けて來たわけである。特に前述の千島艦事件の如きは、苟も日本の國體を考へて居る者にとつて憤概の極であつた。明治天皇樣の御名前で英國の領事の裁判を受けたのである。外務大臣の名前ならまだ話は分る。總理大臣の名前でもまだ宜しい。然るに明治天皇樣の御名前を出すとは何事であるか。隨つて心ある國民を憤慨せしめ、所謂對外硬の論が國内に沸騰したのである。しかし、さういふわけで段〻國内の情勢が強くなつて來たから、政府も強くなり、遂に日清戰爭なども起つたわけであらうが、續いて起つたのが前述の三國干渉である。三國干渉については今更批評しても仕方がないけれども、結局は日本の力が足りなかつたといふことになるかも知れない。兎に角戰で勝つて外交で負けてしまつた。まことに遺憾極まる話であつて、ロシヤに對してなんとかしてこれを取返さなければならないといふことは當時の心ある日本人悉く決心したところである。

その後、明治二十九年になると、ロシヤは支那に對して滿洲鐡道の敷設權を得、更に旅順港と大連灘の二十五箇年間の租借權を得る。一方、ドイツは膠州灣の九十九箇年の租借權を得、英國は威海衞を二十五年間租借する。日本が遼東半島を取れば東洋平和に害があるけれども、彼等が取れば東洋平和に益があると言ふのか。何を言つて居るのかわけが分らない程勝手氣儘に振舞つたのである。併し日清戰爭はそれだけでは終らなかつた。この戰爭に依つて支那の實力が暴露し、列國は爭つて支那を自分の食ひ物にする。そこで支那人もその事實を見て坐視する能はず、明治三十年義和團といふものを組織し、三十三年には義和團事件が起つて、外國人を片つ端から殺すに至つた。遂に三十三年六月、英、米、日、露、伊、墺、獨、佛の八箇國の陸戰隊二千が出兵した。この時には私の友人なども皆出征したものである。さうして義和團によつて北京に居た日本公使館員はじめ、外國人は全く包圍に陷つて居つたのを救濟したわけである。三十四年八月に講和條約が出來たが、ロシヤはこの北清事變に乘じて、所謂聯合軍に兵を出すと同時に、滿洲に兵を送つてこれを占領してしまつた。それが又騷ぎの基になつて前に近衞公爵の略歴のところで述べたやうに、明治三十五年四月滿洲還附條約なるものが出來て、六箇月毎に三度に亙つて漸吹撤兵し、十八箇月を以て全部撤兵を濟ませ、主權を清朝に還すことになつたのであるが、露國は口前はよいが、一向、その事を實行せず、依然その樣子は永久占領の状態であつた。そこに日英同盟が成立した。當時世界に於いてロシヤと英國がその覇を競ひ、兩雄竝び立たずといふ状態にあつた。これは日本でも昔からうす〳〵氣の附いてゐた識者はあつた。文化頃ロシヤが日本へ寇をなして來た時分から、親露主義と討露主義の二つがあつたのであつて、その歴史は既に百年も續いて來てをつたわけである。有名な蘭學者の杉田玄白は「野叟獨語」に今の日本に武力が足りないからロシヤと和交すべきであると書いて居る。それから明治時代の大政治家の中でも谷干城とか伊藤博文は、どこまでもロシヤと親しくして行かうといふ説であつた。さういふ二つの流れがある。當時の世界は英と露の角逐であつたから、露に楯つかうといふ人はどうしても英の側になり、英國もまたそれを援けるわけであり、英國に楯つく者は露國の味方になる。英か露かといふ時代であつた。隨つて日英同盟が出來たことは英國にとつても非常な利益であつたわけである。兎に角この日英同盟の目的は、清韓二國の保全、東洋平和の維持にあつた。この時露、佛の二國は、日英同盟の成立せること固より喜ぶ所なれども、若し清國に事變起りたる時は自國利益保護の爲め相當の手段を取るべし、といふことを聲明して居る。

それから朝鮮の關係は、日清戰爭の時ぼ朝鮮が日本に靡いて居つたのである。ところが遼東半島還附後急にその態度を改めて日本の今までの苦心を全部覆さうとした。そこで當時の日本公使三浦梧樓が一擧に改革をしようとして却つて失敗をみた。その後當時朝鮮に居つたロシヤ公使のウユーベルは、その機會に乘じて、二十九年二月、朝鮮國王をロシヤ公使館に連れて行き、日本黨と目せられた政府の要路者を死刑に處してしまつた。結局ロシヤの公使館が朝鮮政府のやうな状態になつてしまつた。次いでロシヤ人は咸鏡道一帶の木材を伐採する權利を獲得した。これではならぬといふので日本がロシヤと相談を始める。明治二十九年六月山縣有朋がロシヤ皇帝の戴冠式に露國へ行つた時、露國の外相ロバノフと相談したのが第一回日露協商である。併しこれは例の露國であるから口先だけではなか〳〵うまく行かず、次に三十一年四月第二回の日露協商をやつた。これは日本に駐在して居つたロシヤ公使のローゼンと日本の西外務大臣との協商である。その頃ロシヤは多少穩かであつたが、明治三十二年に韓國駐在になつた公使のパヴロフといふ者が非常に勝手次第なことをやり出して、咸鏡道、江原道の沿岸を鯨を獲る爲めと稱して租借をし更に馬山浦を租借してロシヤの東亞艦隊の根據地としようとした。これは日本の抗議の爲めに成功しなかつたが、其の後何度もさういふ事を繰り返して居る。兎に角ロシヤは、日清戰爭後勝手に滿洲を占領し、口では頻りに約束を守る守ると言ひながら、事實は益〻占領地を擴大し、我儘勝手に振舞ひ、また朝鮮の主權を著しく侵して來た。そこで遂に明治三十七年二月五日、日露交渉は斷絶、二月八日には日露戰爭の實際の開戰があり、十日に宣戰の詔勅を賜つたわけである。

それで私が近衞公爵に對して非常の尊敬をして居る理由は、前述の如く明治初期の日本政府は、外國の鼻息を窺ふことに汲々として、殆ど獨立自主の政治を執つたとは言へないのである。近衞公爵が留學して歸られてから、われわれは勿論、その初めのことは細かくは知らないけれども、國民同盟會を組織せられて、政府を鞭撻し、また國民の輿論に愬へ、大活動をして居られた當時、殆ど日本人のすべては、少くとも日本人の本心を有つてゐた日本人は、皆近衞公一人を頼りにし、それを中心にして動いて居たのである。而も當時われわれは十分には知らなかつたのであるが、病躯を顧みず奮鬪せられたのである。さうして日英同盟が出來た時、自分等の考へて居る對外政策、殊にロシヤの勢力を東洋から撃攘するといふ意見が、桂内閣の施政方針に依つて採用せられて居る。それ故に國民同盟會の本旨は貫徹したといふ極めて公明なる態度で、國民同盟會を解散せられた。これを見て私共、これは非常に公明な人だと思つた。その後、ロシヤが相變らず横暴を逞しうするに及び、今度は對露同志會を組織して徹底的に主戰論を主張し、遂に日本政府をしてロシヤ討つべしの覺悟を決めさせるに至つた。その主動者は私はやはり近衞公爵であつたと思ふ。私共明治二十八年五月十三日といふ日から、一日として忘れ得なかつた溜飲が、三十七年二月になつてやつと下つたのである。このことは永久に忘れられない。而してさういふ風に導いて呉れたのは、實は公爵一人の力であつた。當時の内閣總理大臣伊藤は、手を替へ品を替へて公爵を壓迫した。或ひは學習院長を止めさせようとした事もあり、國民同盟會を政事結社としで壓迫したり、或ひは又反對されてはいかぬからと、なんとか公爵を内閣に入れようと畫策したけれども、公は、立法府に在る者は行政府に入るべきものではない、と徹底的にこれを挑ねつけた。結局學習院長以外には絶對官に就かなかつた人である。當時私は土佐の田舎の中學の教師をして居て、寫眞で見る位の程度であつたが、これは非常に心の純な人であると、心の底に近衞公爵の一擧一動がすべて映つて居た。それは、烏滸がましい話であるが、私の今に忘れられないかういふ事實があるのである。公爵の亡くなられたのは一月の二日であるが、私がそれを聞いたのは三日であつた。そのことを聞いて私は公爵を夢に三晩續けて見た。それは公爵を病院に御見舞に行つて居る夢で、咽喉の病氣といふことは前から新聞で知つて居つたが、夢の中の公爵もやはり咽喉に繃帶をして居られた。私共はそれほど公爵を信頼して居たのである。公の薨去を聞いて本當に、これは大變だと思つた。當時私も氣狂ひとまぞ言はれるほど對外硬論を吐いて居つた。それだけに公の薨去は非常な大事件であつた。私の篤麿公爵をどうしても忘れることの出來ない理由はそこにあるのである。

更に私は、近衞公爵について、かういふことを考へて居るのである。前述のやうに、公は日本では、大學豫備門までは行かれたが、大學へは行つて居られない。大學豫備門といへば、今の高等學校である。それも一年しかやつて居らない。さうして專ら外國で勉學せられたのである。つまり外國で教育を受けて來た人でも、これ位の立派なことが出來るのである。これは後に考へたことであるが、われわれと違つた、敬服すべき根本的に違つた偉大なところがあるのだらうと思ふ。

それからもう一つ、これは近衞公爵の御生前に實地に聞いた話である。明治三十年八月、公爵は古文書調査の爲め京都においでになつた。その時のことであらうと思ふ。明治三十二年に落合直文といふ先生が、私を訪ねて田舍へ來られたことがある。その折に聞いた話である。なんでも夏暑い時、公爵から、二條城の御倉に自分の家の色々の書物が御預けしてある、それを調べに來て呉れといふので、小中村義象といふ先生と二人で行つたことがある。そのとき公爵は、非常に磊落な風で、鼻唄まじりで書物を出したり入れたりして居られる。それで落合さんが、閣下はなんでも御存じですねと言つたら、いや、儂は場合に依つては君等よりももつと簡單な生活をして居たかも知れない、お父さんが亡くなられたから公爵の當主になつて居るけれども――といふことを申して居られたさうである。更に、自分は今までいろんな目に遭つて居る、寺に居たこともある、ところがその坊主といふのが因業なやつで、なんでもかでも自分にやらせたから、儂はなんでも知つて居る、かう言はれたさうである。なか〳〵下情に通じて居られたやうである。併し私はそのことに感心するのではない。あれだけの意思を以て、あれだけのことを正々堂々とやられるのには、やはりそれだけの修養があるのだらう。その修養は、決してお坊ちやま式の育ちでなく、實際さういふ苦しみをして來られた所にあるのではなからうか。

だから貴族の教育もお坊ちやま育ちにせずに、篤麿公の苦しまれたやうな苦しみをさせなくては、如何に素質が良くても、大人物にはなり得ないのではなからうか。これが私が近衞公爵について平素考へて居ることの要點である。

そのほか細かいことを言へば、三度も入閣を勸誘せられて遂に受けなかつたこと、或ひは、明治天皇樣の御内命に依つて内奏申上げられたりしたこと、北海道開發に盡力せられたこと、愛國婦人會を組織せられたこと等枚擧に遑ないけれども、その最も重きものは、兎に角日本國民が遼東還附に依つて得たるあの屈辱、これを日露戰爭に依つて初めて雪いだわけである。あの十年間、軟弱の政府を鞭撻して日露戰爭へまで持つて行つたのは、全く近衞篤麿公の力であつたと思ふ。殊に私共國家そのものの運命をずつと考へて來た者として、現在の日本を救ふ者は近衞篤麿公以外になしと確信し、公を夢にまで見、氣狂ひと言はれたものであつた。私が公に傾倒して居ると言ふのはその意味である。


初出
文藝春秋 21(4): 74—88. (1943)