栗田寛のこと
―私の欽仰する近世人・その三―

栗田先生は明治三十一年に亡くなられた方である。私どもが若し水戸にでも生れてをれば、直接教へを受けることが出來たかも知れないし、又、東京にでもをれば、何かの機會でお目にかかることが出來たかも知れない。しかし、自分はさういふ境遇にをらなかつたから、その機會に惠まれなかつたが、明治以後、本當の國學者と言はれる人を温ねてみると、さう餘計見當らぬやうに思ふ。先生はその稀なる人の中の、最も優れた方であつた。のみならず、私は、後に申述べようと思ふが、先生について、尋常一樣の言葉で言ひえない感動を受けた事實があるので、特別に深い關心を以て尊赦してゐるわけである。

先生は、天保六年に水戸の商家に生れられた。八歳の時、父の雅文といふ方から、神代の古事、三種の神器のことを聞かされ、古事記、日本書紀を讀まなければならぬと言はれ、それを深く心に刻み込まれたさうであろ。弘化四年、齡十三の時、江戸へ上られた兄の土産として古事記を貰つたが、これを先生は一生涯座右において讀まれたといふ。嘉永二年、十五の時、初めて藤田東湖に謁して、論語の爲政篇の一章を講じ、翌年には、會澤正志齋に就いて、論語、書經の講義を聞かれた。十七歳になられた時、大いに古典を研究して、國史の闕逸を補ふといふことに志を立てられたといふことである。翌嘉永五年正月元日元服、この年、豐田天功の言葉に依つて、舊事紀の國造本紀、天孫本紀の類が、往々古書と符合することを聞かれ、それから舊事紀や姓氏録の研究を始められた。二十四歳の時、初めて水戸の彰考館に奉仕することとなり、これから愈々先生の大日本史に關する生活が始まつたわけである。その翌年、大日本史神祇志を編修しようといふ志を起され、國史以下雜史を檢討し、その神祇に關するものを悉く鈔録した。これが渉史漫録十二卷である。その後明治元年までに、先生みづから謄寫せられた典籍は殆ど七百卷に及ぶといはれる。その多くは今も栗田家に傳はつてゐることと思ふ。

明治二年三月、水戸藩の命に依つて、封建と郡縣の利害を論じた書を獻じられ、水戸藩はそれを藩の意見として朝廷に奉つた。この場合にも先生は相當の見識を持つて論じてゐられるものと思はれるが、六月、朝廷は各藩をして、その藩籍を奉還せしめ府藩縣三治一到の制を立てられたのである。八月、先生は書を藩の權大參事藤田健に呈して、大日本史の志類を版にすることを勸め、更に又志類を阪にして大道を世に明かにせんことを藩公に請願せられ、九月には水戸家の家扶を命ぜられて、大日本史の編輯と出版とに專心せられることとなつた。

明治四年二月、大日本史刑法志二卷の上木が成つた。六月には神祇志料十七卷が脱稿した。この神祇志料は、後に述べるやうに、日本の神祇のことを研究する上に非常に貴重な文獻となつてゐる。同年六月藩を改めて縣とせられた。八月に大日本史紀傳を悉く國文に譯し、活版にして天下に廣く行ひたいといふことを舊藩主に請願してをられる。

明治五年、このとき先生三十八歳であるが、義公と烈公の爲に神社を創建して、官祭をして戴きたいといふ意見書を作り、之を當路の有志に謀り、そのこと遂に行はれた。これが今日水戸にある別格官幣社常盤神社である。その顛末について先生が語られたのを筆記したのが一册の書として傳はつてゐる。それは常盤物語といふ書である。翌年六月、社殿の造營成つて御遷宮が行はれた。その年、先生は朝廷より御召を蒙つて上京、教部省に出仕せられ、專ら神社についての考證に當られた。

その多くの神社についての考證の中に於いて、特に申しておきたいのは、特撰神名牒の編纂である。これは、明治七年十月にその編纂掛を命ぜられ、翌八年十二月に脱稿したもので全部二十卷ある。これが明治以後の神社の研究の基礎的のものであつて、今日でも先づ之を基本にして申すのである。

明治十年に教部省が廢せられて官を解かれたので郷里に歸らうとせられたが、更に命が下つて太政官修史館に出仕せられる樣になつた。この年、後の文學博士川田剛等と、前田家の類聚三代格を校訂した。これが世に謂ふ享祿本の類聚三代格である。翌十一年九月に實兄が歿し、十月に母が病死せられ、本家にも種々困つたことが出來して先生はその處理の爲に職を辭して水戸へ歸られた。十二年一月には古史二卷を脱稿せられた。これは私どもの方から申すと、非常に重要な意義を持つものである。そのことは又後に述べたい。この年に舊藩主徳川侯より、大日本史志表を完成すべき命を受け、それからは專らその方に力を注がれるわけである。十四年四月、東京大學から講師になるやう頼まれたけれども、遂に之を受けなかつた。十五年初春より神紙志二十三卷の編纂に着手し、九月に脱稿。十七年九月には再び朝命に依り上京して元老院の御用掛を命ぜられたが、特に政府から、日々出勤するに及ばず、公務の傍、大日本史の志表を編修することは差支へなしといふことであつたさうである。初めの約束は三年といふことであつたが、元老院に在ること四年半、志表編修の功を奏せざるを恐れて、二十二年三月その職を辭した。四月に水戸へ歸られて、再び彰考館に勤務、專ら大日本史國郡志の編纂に從事。この時に、制度の學を興さなければならぬといふ論を著してゐる。二十三年二月になると、侍講の元田永孚先生から、我が固有の大道について意見を問はれ、先生は神聖寶訓廣義一卷を著して呈された。これは私だけの想像であるが、これがやはり教育勅語御起草の一つの參考になつたのではないかと思ふ。そして十月三十日、教育勅語が下ざれるや、先生は直ちに筆を執つて勅語述義を著してをられる。二十五年、先生五十八歳のとき、大日本史國郡志脱稿。十月二十八日、文科大學教授に任ぜられ、是から大學教授としての栗田先生が現はれて來るわけである。

二十九年九月、今までの大日本史に三韓、琉球、蝦夷を外國傳として隋、唐、宋、元、明の下に列記したのは義公の精神にもあらず、又その體を得ざるものであるから外國傳の名を諸蕃傳と改め、尚、記事の前後の順序、序文等を訂正し、更に舊版を改刻せられた。しかし、このことは實は二十九年に起つたのではなく、二十六年十二月、舊藩主にこのことを建議せられ、二十七年二月に徳川侯爵から宮内大臣に申請して勅許を受けられたのである。何故にさういふ手續をとられたかといふと、大日本史が出來たとき、當時まだ幕府の盛んなる頃であつたが、これを朝廷に奉つて勅命によつて大日本史といふ御名前を戴いたものであつて、いはば勅撰のやうな書である。それ故勅許を得ずして改めることは出來ないからである。なほその後にも多くの著述があるが、それは省くことにする。明治三十二年正月二日、先生が御子息のいそし君をして、舊藩主徳川侯に、大日本史志表の校訂と上木のことに關して御願ひさせられる點があつた。それは、その前年十一月に先生は病氣に罹られ、もう自分は壽命も長くはないと考へられた爲であらう。九日にはその願ひの筋が悉く徳川侯から許され、それで大日本史の殘つてゐる事業はすべてその方針に依つて行はれたわけである。同月二十五日、先生は六十五歳を以て歿せられた。

先生の著書は、私が名前を聞いてゐるものだけでも八十五部ある。これは例へば栗田先生雜著十五册を一部として數へるのであるから、册數にして凡そ四百五十册に及び洵に尨大なものである。その先生の多くの著書の中、特に著しいものを拔き出して述べてみよう。

先づ、古史六册、これは版になつてゐない。標注古風土記五册 纂訂古風土記逸文二册、風土記逸文考證八册、これらは版になつてゐる。和名鈔郡郷考證十八册、これは和名鈔の注として非常に立派なものであると同時に、大日本史の國郡志の研究の爲に調べられたものと思はれる。版にはなつてゐないと思ふ。それから國造本紀考六册、神祇志料十七册、神祇志料附考十六册、神器考證一册、新撰姓氏録考證二十二册、氏族考三册、天朝本學二册、稜威男健四册(これは古語拾遺の講義である)特撰神名牒十六册。以上はいづれも版になつてゐる。これらが特別著しい書物であると思ふ。

以上は、私が栗田先生について感心してゐることを申す爲の豫備として述べたのであるが、これから先生の功績のうち著しい點を三四述べてみようと思ふ。

その第一は、常盤神社の創建のことである。明治維新の後、もと山の寺といふ通稱になつてゐる寺、即ち太田村久昌寺といふ寺に保存してあつた義公(光圀)の像が、その寺が廢寺となつた後、何時の頃からか、新宿村の蓮華寺に移され、そこの坊主が賽錢を取つて汎く誰にでも拜ませてゐた。偶々先生の妻繁子といふ方が、太田村の實家へ歸られたときその話を聞かれ、それを先生に話をせられたとのことである。先生は非常に驚いて、早速政府に建議する、藩でも尤もだといふので、水戸へ移して、假に彰考館の中に置いてあつた。そこで、この義公の像を安置するに、祠堂を建てるか、神社にするか、何れがよいかといふ議論が起つてゐたらしい。その矢先に、明治四年、茨城縣で偕樂園を公園にしてしまはうといふ内議があるといふ聲が聞えて來た。さうなつては大變だといふので、義公と烈公の二人をこの地に神社としてお祭りしたらよからうといふ意見を先生が發表された。それが議㆑建㆓義烈二公神社㆒状といふ文章になつて今に傳はつてゐる。その意見が次第に人々の目に觸れ、見る人毎に、それは尤もだといふことになつて、そこで當時の區長、戸長等が一同連署して縣廳に、義公烈公の神社を建てて貰ひたいといふ願書を出すに至つた。縣令もそれに賛成した。尚先生はその他に神號復古の意見を主張せられた。

茲でちよつと神號のことを申しておきたいが、大體徳川時代に、神號として吉田家あたりから出した號は、多く何々靈社といふやうな漢語で言つたのであるが、これはどうも昔の正しい神號の法ではたいといふのである。それでは若し義烈二公に對して神號を下さるといふことになれば、どういふ號をつけて戴けばよいかといふやうなことがあるかも知れないから、さういふ場合には、義公に對しては高讓味道根命たかゆづるうましみちねのみこと、烈公には押武男國御楯命おしたけをくにのみたてのみこと、若し御宣下あらせられるならば、さういふふうにして戴きたいといふ意見を述べてゐる。後に結局その通りの神號を賜ることとなつた。唯、烈公の方が、押建國之御楯命と少し變つただけである。

先生はこの神號復古のことを、やはり當時の學者である友人原田明善をして、參議西郷隆盛に取次がしめた。それには義公烈公の修史と勤皇との勳績を論述してあつたといふことである。西郷もそれに賛成であつたが、當時西郷は鹿兒島へ歸る願ひを差出してあつたので、その旨を土方大内記に申含めておいたから、このことが行はれるだらうといふことを言つて來たさうであるが、遂にその通りになつて、明治六年三月常盤神社創建の許可があり、四月に神社が起り、縣社に列せられ、七年五月十二日に遷座式が行はれた。明治十五年十二月十五日には別格官幣社に列せられたのである。さういふわけで、世人は常盤神社など偶然に出來たやうに思ふかも知れないけれども、實は全く栗田寛先生の御努力に依つてあそこまで行つたものであつて、私は常盤神社に參拜する度に、先生の人格、熱誠をそこに見るやうな氣持がするのである。これが私が先生に感服する點の一つである。

次は、大日本史のことである。大日本史は全部で三百九十七卷といふ大部の本であつて、明暦三年に編修を始めて、明治三十九年に完成したものである。完成後これを明治天皇に獻上されてゐる。その間實に二百五十年、水戸の藩主についていふと十二代繼續しての大事業であつた。父子孫々十二代二百五十年繼續して一の書を著したといふ、かういふことは全く世界に唯一つの例ではないかと思ふのであつて、日本人の如何に根強い國民であるかを示すものと言へやう。しかし、この大日本史の編修は二百五十年の間ずつと同じやうに續いて來たわけではないのであつて、その間にはおのづから隆替があつた。周知の如く、大日本史は、本紀、列傳、志、表の四つに大別せられる組織になつてゐる。本紀列傳は全部で二百四十三卷であるが、義公のまだ生きてゐられた元祿十二年には本紀全部と、列傳のうち皇妃皇子皇女の三傳が出來てゐた。義公の薨後寶永六年には本紀列傳が完備した。しかしそれから後絶えず本紀や列傳にも訂正を加へてゐる。文化六年には刻本が二十六卷出來上つたので、十二月に光格天皇の叡覽に備へ奉つた。嘉永五年に本紀と列傳との出版が完成した。志類はその前から編纂に從事して、六志は大體出來てゐたが、版にならずして明治に至つたのである。

志類は十類百二十六卷。表類は五類二十八卷である。志類の名を茲にあげてみると、神祇志二十三卷、氏族志十三卷、職官志五卷、國郡志三十三卷、食貨志十六卷、禮樂志十六卷、兵志六卷、刑法志二卷、陰陽志六卷、佛事志六卷である。この志の十類、表の五類の出版は、全部明治以後であるが、その校訂なり編纂なりは殆ど栗田先生一人の力で行はれたと言つてよいのである。

そこで、栗田先生の志類に力をこめられた、その實際を申すと、神祇志二十三卷、國郡志三十三卷、これは以前に多少草稿のやうなものはあつたかも知れないが、全く先生一個人の骨折りで編纂せられたものである。少くともその以前には現在の神祇志、國郡志といふものはなかつた。而してこの二つは十類の中の二類に過ぎないとはいへ、分量からいへば約半ばに達するのである。尚今まで出來てゐた志類の中で、栗田先生が非常に力を加へて補ひ直されたものは、氏族志の十三卷、食貨志の十六卷、禮樂志の十六卷で、中にも禮樂志の樂志ば先生の起稿になるのである。その他の陰陽志の六卷、職官志の五卷、兵志の六卷、刑法志の二卷、佛事志の六卷いづれも先生の校補を加へてはじめて版になつたものである。表類も亦皆先生の手を經てゐるのである。

大日木史を完成するについて一番力を多く加へてゐる人は、紀傳では安積澹泊、志表では栗田寛先生、この二人と言つてよいと思ふ。しかし、志表は栗田先生一人の力ではなく、古いほうでいへば、栗田先生の先生である豐田天功、それから栗田先生との二人。しかし、その天功の時の六卷も皆栗田先生の校補によつて完成したのである。かういふわけで、栗田先生が若し出られなかつたならば、大日本史の志類及び表類は、今日の如く完備したかどうか、はつきり言ひえない状態であると思ふ。かやうな立派な著述が、明治以後即ち明治二年から三十二年まで約三十年で揃つたわけである。これは非常に感謝すべきことである。大日本史全部の完成して出版せられたのは先生の歿後七年を要したのであるが、しかしながら、それは先生の拵へておかれたのを大體出版するだけのことで、その間校訂も必要であるが、それらは先生の子息勤といふ人が先生の遺志に基いて主として當られたやうに聞いてゐる。この點に於いても非常なる偉人であると言つてよからう。

殊に先生の大日本史の志類の編纂については、われわれ非常に感謝すべき點がある。申すまでもなく、大日本史は神武天皇から始めてをつて、神代のことは書いてゐないのである。神代のことを日本の歴史の初めに書かずして、神武天皇から書いたことについては、われわれは大日本史に對して多少の遺憾を感じてゐる。しかし、それは神祇志の編纂に依つて、實質的には償はれてゐると見てよい。神祇志を志類の最初において、栗田先生がそれを非常に力を籠めて書いてをられる。隨つて、その内容は非常に優れたものであつて、われわれ之に對して大いに感謝しなければならぬ。それにしても、神祇のことを志にして本紀に立てなかつたことの遺憾は消しえない。それから、前述の如く、大日本史の傳の一番終ひの外國傳を諸蕃傳と改められたこと。今日の大日本史はみな諸蕃傳としてあるが、昔は外國傳としてあつたのだ。この外國を諸蕃として取扱つたといふ見識は、明治初期の所謂歐化主義の人々から、どうも栗田といふ男は頑冥だと考へられたらうと思ふのであるが、今日の時勢になつてみると、その見識に對して大いに敬意を表さなければならぬと思ふのである。なほ加へていふことがある。大日本史には、長慶天皇の御即位あらせられたことを認めて御歴代にかぞへてある。それを彼是と議論する輩があつたから、栗田先生は明治八年に左大臣島津久光の委囑によつて、その御即位の事を考證せられたのである。

尚、水戸の學問が我國の學問の最も正しい學問だといふことを論證する爲に、栗田先生は本朝正學といふ本を書いてをられる。これも先生の見識といふものを見るのに、非常に立派なものだと思ふ。大體、水戸の學者は、神道を重んじるといふことや申してゐるのであるが、しかしその神道を見る眼が、どうも儒者の眼で見る風が多かつた。それが栗田先生に至ると、非常に變つてゐる。その點に於いて先生は、普通の水戸學者と異る。神道の上に於いても非常に優れた功績を遺してをられると思ふ。われわれが今日、神祇のことを歴史的に研究し、又神社そのものを考證的に研究しようといふ場合に於いてまづ第一に頼りにすべきものは、栗田先生の著された神祇志、それから神祇志料、神祇志料附考、及び特撰神名牒である。その他、いろいろの神社及び祭神に對する考證が、先生の教部省奉職時代にたくさんなされてゐる。これらはみな今日の神道學の上に、基礎的の研究として尊重すべきものとなつてゐる。

次に、われわれが栗田先生に敬服し、又感謝すべき點は、栗田先生が平田篤胤の、學問上これを研究しなければならないと言つて、而もその研究をなしえなかつた、その跡を繼いで研究して下さつたことである。大體平田篤胤の學問を繼承した人々の事は、私が古史徴開題記の序文に書いたのであるが、平田の學問の根柢即ち古典の根本的研究について、實は平田派の方から十分な後繼者を出してゐないのである。然るに、水戸の學者である栗田先生が、大日本史の完成者として尊重せられるだけでなく、平田の學問の後繼者として見てすぐれた業績を遣してをられるのである。

平田篤胤先生の古史徴開題記を讀んでみると、これこれのものは是非研究しなければいかぬ、若しくは誰か後の人が研究しなければいかぬと指示せられてゐるものが尠からずある。その例をあげると、平田篤胤が、古事記、日本書紀と並べて必要だと力説してゐるものに、新撰姓氏録がある。しかし平田先生はそれを詳しく調べることが出來ずして、世を去つてしまはれた。その精神を體して、新撰姓氏録の考證をせられたのが、栗田先生の新撰姓氏録二十二卷の大著述である。これは洵に空前絶後の大著であつて、平田先生の志が茲に果されたと言つてよいと思ふ。しかも栗田先生のこの新撰姓氏録には著者の序論がない。しかし序論は附いてゐる。その序論といふべきは、平田先生の古史徴開題記の中に書いてある新撰姓氏録の論である。多少節略した點はあるが、百中九十九までその儘である。それを以て見ても、栗田先生の新撰姓氏録考證は平田の學を繼承したものと言つてよいと思ふ。

それから、平田篤胤は、古風土記を非常に重い古典であると言つて、その逸文を編纂したやうであるが、それが完成したかどうか判らない。それを栗田先生は、標注古風土記を校訂し、古風土記の逸文を考證し、なほ風土記逸文考證を著された。これも平田篤胤の志を成したものと言つてよいと思ふ。

それから平田先生は、舊事紀の論に於いて、舊事紀は僞書であるといふことは、一般の國學者と同じやうに言うてをられる。けれども、その中の天孫本紀と國造本紀とは古いものの傳はつたものだといふふうに考へると言つてをられるが、栗田先生はやはりそれらについて詳しい研究をしてをられる。それは物部氏纂紀三卷と尾張氏纂紀一卷であるが、これは舊事紀の天孫本紀に據つてゐるのである。それから國造本紀考といふ、國造本紀の研究もある。それから古史徴開題記の末に古語拾遺を載せて、平田先生は、古語拾遣を讀んで涙を流さない者は日本人ではないと極言してをられるのであるが、その古語拾遣の注を書いたのが栗田先生の稜威男健である。

しかし、これらは新撰姓氏録、風土記、舊事紀、或ひは古語拾遺の研究であるから、必ずしも平田先生の學問の繼承者とは言へぬかも知れないが、茲に先刻申した古史六卷がある。これは明かに平田先生の後繼者であることを物語つてゐる。その古史について、栗田先生の著書目録の初めに、前述の勤といふ方が説明してをられる文句がある。それを讀んでみると、「この書は平田氏の古史成文に倣ひて神武天皇より推古天皇までの事をしるせり。記紀に載る所は云ふまでもなく務めて件の史に洩れたる事實を風土記また古記中より探集せるものなり」とある。

これはどういふことかといふと、平田篤胤の古史成文――これは元來古史といふものが本名である。成文といふのは本文といふ意味で、この古史に對して平田篤胤先生が詳しく説明したのを古史傳といふので、この傳に對して本文を古史成文といつたわけである。それで、平田先生の目録によると、古史成文は全部で十五卷、神代から推古天皇の御代までのことをも古典の文を集成して綴るのが本旨であつたが、その刻成せられたのは神代の部だけであつて、その他は世に傳はらないのである。恐らく、平田先生もそれを書かれずに終られたのではないかと思ふ。ところが、その神武天皇以後の古史を書き繼いだ人が栗田先生である。さういふ意味に於いて、栗田寛といふ人は、學問の系統は違ふけれども、平田の學問を繼承した人だと考へるのである。この點に於いて、平田篤胤に傾到してゐる人々は、また栗田先生に感謝もしなければならず、傾到もしなければならない。私が栗田先生に感謝してゐる點の著しい一としてそのことを申すのである。學問的に申すことは先づこのやうな事柄である。

前に述べた常盤神社のことは、學問といふよりも、栗田先生の誠心と見識をわれわれは見るわけである。それから大日本史の志表の完成は、非常に大きなことで、これには先生の見識もあり、努力もあり、學問もあるわけである。水戸の學者はとかく偏狹といはれ勝ちであるが、先生に至つては、平田の學問の繼承者の如き姿を呈してをられる程、度量の廣い、立派な學者であつたことが考へられると共に、私ども栗田先生の古史を拜見したいといふ念に始終驅られてゐるので、最近文部省で、先生に縁故のある方に會つた折も、なんとかそれを世間に見せて戴くやうに願はれないかと申してをつたやうなことである。

こゝまでは一般的の話であるが、私が栗田先生にこれだけまでの關心を持つやうになつたについては、實は一つの因縁があるのである。

だいぶ古い話であるが、明治三十年、私は丹波篠山の私立學校で國語の教師をしてゐたことがある。今は縣立の中學になつてゐるが、當時は鳳鳴義塾といつてゐた。その四月のことである。國語の讀本の一番初めが、栗田先生の書かれた「父子」といふ文章である。別になんといふこともなく、國語の教師として講義をした。それは慥か二年生であつたと思ふが、その中に、高野の奧の富貴といふ處から來てゐた生徒で、森下與一郎といふのがゐた。當時私は舍監をしてゐた。森下は寄宿舍にゐたのではないが、最初の一日だけ來て、あと學枚に出て來ない。初めの間は病氣にでもなつたかと思つたが、幾日經つても出ないので、その兄を呼んで訊いてみた。ところがその返事に、どうもあれは困つた奴です、この間學校から歸つて來てから、家へ歸りたい〳〵と言つて泣いてばかりゐる、瞞しても叱つても、言うて聞かしても泣いてばかりをつてどうずることも出來ません、どうにも仕方ないから、勝手にせいと言つて歸してやりました、かういふわけである。それで私も、變な話だな、どうしたのかと思つて、家から來るときはどんなふうだつた、と聞くと、いや、家から來るときは、そんなめそ〳〵した奴ぢやなかつたのですが、此處に來てから、俄かに泣いて歸つて、家へ歸りたい、おつ母さんの顏が見たいと言ひだした。どういふ譯だか、ちつとも譯がわからぬ、かういふ話である。すると、それから一週間も經つて、ひよつこりと森下が學校に出て來た。それから私が、何故お前國へ歸つたか、どうして又來るやうになつたのかと訊ねた。ところが、意外にも、それは栗田先生の文章の影響だつたのである。森下の言ふのに、あの講義を聴いてから、急に家へ歸りたくなつて、矢も楯もたまらない、こんなことではいかぬと考へてみても、どうにもかうにもならない、到頭家へ歸りました。ところが、お父さんやお母さんにひどく叱られたので、又歸つて來ました。かう言ふ。そこで私は非常に驚いた。國語の講義が子供の心にこんなにまで影響するものか。もと〳〵この中には萬葉の歌も入つてゐたが、こんなにまで文章といふものは人に影響を與へるものか。それは栗田先生のこの「父子」といふ文章が所謂名文とかなんとかいふことでなく、本當の先生の心といふものが籠つてゐる文章だと思ふ。眞の文章はこれ程の感化力を持つものであるかと、非常な感銘を覺えた。その森下與一郎といふ人物は後に海軍に入り大尉にまでなつたが、大正十年の頃丹後の海で驅逐艦が坐礁して沈沒した時に航海長たる責任を負うて陛下に申し譯なしと云つて、獨り自分は艦と共に海に沒した人物であつて、私の最も愛した生徒であつた。それはそれとして、私は栗田先生といふ人は非常に偉い人だと思ひ、先生について深い關心を抱くやうになつたわけである。これが私の栗田先生に非常に傾到するやうになつた、きはめて著しい一つの事實であり、私にとつて終生忘れることの出來ない栗田先生との因縁なのである。

その後、栗田先生と同じ學問の道に從ふやうになり、いろいろと先生の事蹟を訪ね、先生の偉大さを知るにつけて、益々欽仰の念を深くしてゐる次第である。


初出
文藝春秋 21(3): 50—58. (1943)