高杉晋作のこと
―私の欽仰する近世人・その二―

幕末の勤皇攘夷の志士、その多くは殆んど皆われ〳〵の手本としていゝ人と思ふが、それらのうち、私は特に吉田松陰、高杉晋作に傾倒してゐる。吉田松陰先生のことは今しばらく措いて、主として高杉晋作に關して述べてみたい。

私の敬慕してゐる人の一人に高杉晋作がある。高杉晋作はどなたも御存じの如く、幕末の勤皇攘夷の志士の中の第一人者である。

私が高杉晋作に傾倒してゐるのは、あの人が勤皇攘夷の志士であるといふだけの理由ではない。無論、あゝいふ立派な勤皇攘夷の志士でなければ、われ〳〵が敬慕するわけはないが、勤皇攘夷の志士はいづれも我々の敬慕する人々である。その多くの志士の中に於いて特に高杉晋作を敬慕するのは單に勤皇攘夷の志士だからといふだけの理由で、自分の手本にすべき人物と思つてゐるわけではない。

又、高杉晋作といふ人は、明治維新の三傑と匹敵する人だとか、或ひは又、三傑以上の人物だとか、人に依つていろ〳〵言はれてゐる。それは確かにさういはねばならぬと思ふ。しかし、それほど偉い人物だといふことで私が傾倒してゐるわけでもない。況んや、自分自身、高杉晋作のやうなことをやれる人間でもなし、又やつてみたいなどと思つたことも、實は一度もない。

しかし、あの人の至誠、識見、それからあの人のやつた行ひの跡をみると、人物として確かにわれ〳〵の手本だと思ふことがあるからである。

高杉晋作の傳記については、こゝに改めて言ふ必要もないが、話の順序として、ごく簡單にその二三を述べて置きたい。

晋作は天保十年、長州の萩に生れ、安政四年、齢十九のとき、吉田松陰の松下村塾に入つた。翌五年には東都遊學を命ぜられて、昌平黌に入學した。吉田松陰が刑を受けたのは、その翌年安政六年のことである。晋作は萬延元年、齢廿一のとき軍艦教授所に入學、次いで藩の學校明倫館の舍長となつた。これは學生として最高の地位である。間もなく都講となつた。これは家柄を持たない者の教授になるときの名前である。文久元年十二月、廿三歳の時、藩から支那視察を命ぜられ、翌二年四月、長崎出帆、五月五日上海に着き、七月に歸朝した。その年閏八月江戸藩邸を亡命して笠間に赴き、加藤櫻老に會つて或る事柄を謀つてゐる。この或る事柄といふのは、結局幕府を倒滅することに關係したことだらうと思はれる。十二月には有名な御殿山の燒打事件が起つた。これは當時御殿山に新築中の英國公使館を燒打したもので、高杉晋作などがその主唱者であつた。

その翌年正月、十五歳のとき、久坂玄瑞、伊藤博文等と、自分の師匠松陰先生の遺骸を世田谷に改葬した。三月には、修業の爲十年の暇を賜つて、初めて自由の身となつた。その四月、これは非常に重要な事であるが、愈々五月十日を以て攘夷の期限と決められたのである。そこで五月十日になると、長州藩が馬關の海峽で、其處を通る外國の軍艦に對して攘夷の戰を始め、こゝに長州は非常な大事件に遭遇した。そして六月には急に高杉を召出して馬關を防禦する大任を委すことになつた。そのとき高杉は、政務座役といふものに任ぜられた。これは今でいへば内閣員のやうなものだらうと思ふ。次いで奇兵隊の總監となる。この年の八月十七日には有名な天誅組の義擧があり、十九日は三條公以下の七卿が長州侯を頼つて西へ走つた。

元治元年の正月、齡十六のとき、晋作は急に藩を脱して京都へ奔つた。三月には山口へ歸つたが、默つて藩を去つて行つたといふので、野山獄に投ぜられた。八十日間獄に居つたが、六月には許されて自邸の座敷牢に入ることになつた。

この年の七月、京都に蛤門の變があり、これが因になつて、八月に長州征伐の命令が下つた。一方に於いては英佛米蘭の四國が軍艦を率ゐて馬關を襲撃する。かういふわけで、この元治元年八月は、長州藩は内外から迫られて、まことに多事多端であつた。この時高杉は再び召出されて政務座役になり、英佛米蘭の聯合軍に對する媾和談判が開かれるや、高杉は全權委員となつて媾和條約を結んだ。この媾和條約の結果についても、われ〳〵は高杉に感謝しなければならぬ事がある。それは馬關の先にある彦島――今度關門海底トンネルを掘つた彦島を、媾和條約の一條件として英國が租借せんとして申出たとき、高杉が斷乎として之を却けたことである。

然るに、十月になると、時勢がまた一變して、高杉は再び萩に隱居させられた。これは所謂俗論黨が勢力を握つて正義派を壓迫したのである。そこで晋作はまた萩を出奔して博多に赴く。その頃長州藩は幕府の征討を受けて、非常な苦境に陷り、遂に十一月には、家老三人に切腹させ、參謀四人を殺して、幕府に恭順の意を表するに至り、征長總督徳川慶勝は三條公以下五卿を九州に遷さしめるといふやうな結果が生じて來た。これではならぬといふので、高杉は急遽博多から歸り、十二月十五日長府に義兵を擧げた。しかしそれは長州内部の話であつて、前述のやうに既に十一月、長州藩は幕府に對して恭順の意を表したので、十二月十六日、征長總督は兵を引返した。ところが間もなく、高杉が義兵を擧げたことと、同時に長州藩の態度が強硬になつたことが判つたので、翌慶應元年四月、幕府は長州再征を命じた。時に晋作廿七歳。

これまで高杉は、攘夷を非常にやかましく言つてゐたのであるが、戰爭をしてみて、この儘ではとてもいかぬことを知り、開港論を主張し始めた。そこで長府の藩士が非常に激昂して、ことなかなか面倒となつた。それで高杉は長藩を脱して、大坂、讃岐に赴き、五月長府に歸つた。九月には、海軍興隆用掛を命ぜられ、十月になると、坂本龍馬や木戸孝允と會つて、薩長の同盟を畫策した。

その翌年、慶應二年正月高杉が廿八歳のとき、薩長の同盟が遂に出來上つた。これは明治維新の原動力として非常に力強いものであつた。幕府は當時これを知らなかつたやうである。六月には高杉が長州の海軍總督となり、七月には陸海軍の參謀となつた。晋作は實際上このとき長州の陸海軍全部の司令權を握つてゐたやうに思はれる。

この頃長州は四境から幕府の征長軍の總攻撃を受けたが、この度は征長軍は到る處で大敗を喫し、遂に有耶無耶に終つてしまつた。その後の天下の情勢については今こゝに申す必要はない。高杉は十月になると、病氣のため職を免ぜられた。その翌年、慶應三年の正月に明治天皇の御踐祚があつたが、四月十四日、高杉は遂に歿したのである。時に晋作、齡僅かに廿九。

これが高杉晋作の一生の生活の概略である。

若しも高杉晋作といふ人を、個人的にだけ物を考へて成功したかしなかつたかを言ふならば、必ずしも成功した人ではなかつたと思ふ。勤皇攘夷の回天の大事業半ばで、明治維新の大業の出來上るのを見ずに、廿九歳の若さで死んでゐるのである。その點から見れば、成功とは言へないと思ふ。しかし私は、さうした個人的成功とか失敗とかいふことで、その人を批評することを好まない。さういふやうな意昧で、高杉晋作のことを言はうとは考へてゐない。

それから高杉晋作は、その私行を論ずれば、所謂君子人といふ點に於いては缺けた所も相當あつたらうと思ふ。高杉は非常に奇拔なことをした人だとか、相當亂暴なことをした人だとか、負け嫌ひだつたとか言はれてをり、又それは事蹟の上にも見られる。だから、高杉といふ人は、一面からいふと、奇行に富んだ人と言はれてゐる。又あちこちに美人を妾に置いたり、或ひは馴染の女を伴れて脱走したり、到る處で酒を濫りに飮んだといふやうなことが傳へられてゐる。

しかし、かういふ事柄は、明治維新頃の志士には往々あつたことであり、又さうでなければならない事情もあつたのだらうと思ふ。又さういふことをしなければ、あれだけの非常に難かしい時勢を潜り拔けて東奔西走することは出來なかつたのであらうとも思はれる。しかし、私はさういふことを以て高杉が偉いとも、又さういふことが良いとか言ふつもりはない。もとよりそんなことはわれ〳〵の學ぶべきことではない。

高杉晋作といふ人は、一面からみると、非常に痛快な日本男兒として私の目に映ずる。廿五歳にして奇兵隊を創立して、その總督となり、攘夷の實戰に從事した。また元治元年十二月、晋作廿六歳のとき、長州藩が俗論黨に左右せられて、その勢威殆んど地に墜ちんとするや、自分の味方と稱する者は一人もなかつたのに、果斷を以て義兵を擧げた。この事柄は、今日から見れば何でもないことのやうであるが、この高杉の擧兵こそ長州藩の勤皇といふものを確立したのである。そしてそれが實は我が大日本國の維新の大勢を決定したのである。高杉の擧兵は、幕府の長州再征の原因であつた。

今日から見れば、この長州再征が幕府の政策の一大失態であることが明瞭であるが、幕府をして拭ふべからざる失策をなさしめたものは、高杉晋作であつた。又この擧兵以後、高杉は一度も戰爭に敗けてゐないのである。四境から敵に迫られても遂に敗れなかつた。即ち幕府大敗の原因である。さういふ意昧で私は、高杉が義兵を擧げたことが、明治維新の大勢を決定したものだと思ふのである。これだけでも大變なことであるが、間もなく、廿八歳で實際上防長二箇國の陸海軍の總督として四境の大敵に當つた。さういふ事業だけを見ても、非常な英傑であつたことが判るのである。しかし私はその事業だけを見て、高杉に傾倒してゐるわけではない。

高杉晋作の一生はいはゞ失敗のしつゞけだとも見える。それは高杉が自己の主張に終始して行動したのと、時と場合とが、晋作と一致しないのであつて、高杉が自己の主義の行はれるときにはいつでも出て大活動をなしたが、さうで無い時には他から却けられるか、自ら脱却したからである。これは俗人から見れば失敗の繰り返しと見えるであらうが、當人から見れば、當然の事を行つた當然の事實である。この邊の事も私には一つの手本となる。

私は凡そ人物といふものを考へるのには、その人の識見と事業とを合せ見るべきものであると思ふ。これを少しく抽象的に申すならば、理論と實際、或ひは、事實と理法、この二者は抽象的には分けることが出來る。しかし、これを二つだと考へるのは、私は日本人の考へ方ではないと平素から思つて居る。學者であらうと、何であらうと、凡そ人間である以上、現に生きてゐるといふ事實がある。これは理論でなくて事實である。而して空な理論ではどうにもならぬ事實である。だからこの事實に對して當然の處置が出來ないやうな者は、生きてゐるといふ意味をなさない、生き甲斐がないと言ふべきである。隨つて私は、事實だけを見て人を論じてみたり、或ひはその人の説くところの理論だけを以てその人を見たりする、さういふ一方だけの判斷は不完全なものだと思つてゐる。幕末の志士の中には、私の今申した、さういふ考への人が非常に多かつた。だからこそ、あれだけの立派な見識をもち、同時にあれだけの大事業を行ひ得たのであらう。これは甚だ俗な歌であるが、「議論より實を行へ怠け武士國の大事を餘所に見る馬鹿」、といふ歌がある。これは高杉の親友の河上彌市の辭世ともいひ、また來島又兵衞の作ともいふが、とにかく、かういふ國家の大事の場合に於いては、私はどうしてもこの二つを合せて見なければならぬのではないかと思ふ。その點でも私は高杉晋作といふ人に感心してゐるのである。

高杉晋作について、その師吉田松陰は、天下第一流の人物なりと言つたさうである。この松陰の抱負といふものは非常に大きなものであつて、松下村塾記には「村塾ハ西陬ニ僻在スト錐モ天下ヲ奮發シ四夷ノ震動スルモ亦量ル可ラズ」と云つてゐるが、この松下村塾の教育の效果を最も明確に事實に現はしたのが、私は高杉晋作だと思ふ。とにかく僅か廿九歳にして歿した人が、明治維新の大原動力になつたといふことは、實に驚くべきことのやうに思はれる。しかし私はそれだからといつて、單にそれだけを以て晋作に傾倒してゐるわけではない。

前述の如く、晋作は奇行に富んだ人だと言はれるが、それは、よく言へば、天眞爛漫、眞情流露と言ふべきであらう。とにかく小細工を弄する人でなかつた。それ故時に人の意表に出るやうな行ひもあつたのではないかと思はれる。

しかし晋作の一生を見ると、非常に禮儀の正しい人であり、人情に篤い人であつた。師の吉田松陰が死んだ後、最も亡師に盡したのも晋作であつた。殊に、さういふ奇行に富んだ人でありながら、君と親とに對しては極めて謹直であつた。さういふ事蹟がたくさん傳つてゐる。

さう考へて來ると、晋作は忠孝兩全の人であつたと言つてよいと思ふ。忠孝兩全といふことを信條として、それを以て一生を貫いた人だと私には思はれる。この忠孝兩全がうまくいかないやうな大難關に當る度に、晋作は、我が親も亦忠を憶ふ、故に忠は併せて孝をも含むものだ、かう考へたやうである。さういふ考へがあればこそ、たつた一人の息子である高杉晋作が、兩親の許を離れてあのやうな大活動をして、勤皇攘夷の大義に徹し、あれだけの事を成し遂げ得たものであらうと思ふ。

しかし、忠孝兩至の人は、他に幾らもある。その上に高杉晋作は、その識見に於いて一世を覆うてゐた。その卓拔な識見については一々言ふを要しないのであるが、とにかく、その倒幕攘夷は決して固陋なる攘夷ではなかつた。敵を知つての上での攘夷論であつた。當時、誰も滅多に外國へ行く者のなかつた時に、單身上海に渡り、既に歐米人の巣窟となつてゐた上海の眞相を見、長髮賊の亂の砲聲を聞き、慨然として東洋の獨立扶植の大責任を考へたのである。今日のこの大東亞戰爭を見せたならば、感慨無量なことにこの人は思ふことであらう。この上海行は決して單なる見物旅行ではなかつた。

高杉晋作は氣魄が非常に剛強であつた。それは殆んど絶倫とも言ふべきものであつたやうである。それは一に誠意から出るものである。要するに高杉は、自分の肺腑を以て人に迫る人であり、誠意を披瀝して、技巧をなさない人であつた。天眞爛漫、眞情流露といふことが起る。それが普通人には奇行と見えるわけであらう。

とにかく晋作の氣魄は、至誠に基くものであつた。しかし眞の至誠は口で言ひ得るものではないのである。晋作は眞の至誠の人であつた。それでは、その氣魄の源は何處にあつたか。彼の一生涯のことを讀んで私の考へ得た點は、晋作が何時でも生命を抛つ覺悟を有して居たことである。これこそ志士の本懷であらうと思ふ。これから晋作の剛張なる氣魄が迸り出るのである。

しかし、何時でも生命を抛つといふことが、必ずしも偉いと言ふのではない。眞の士人は漫りに死ぬといふことを言ふものではない。晋作が野山の牢獄に居つたとき、先師松陰の訓を思ひ出して、非常に讀書勉強に努めてゐた。すると同囚の者が皆笑つて、君が先生の言葉を守つて勉強するのは結講だけれども、君が若し死罪に處ぜられゝば、今日勉強したのは昨日の夢となつてしまふのぢやないか、だから、そんなことをしないでブラ〳〵やつてゐる方がいゝぢやないか、と言つた。それに對して晋作は、「生者何ソ死ヲ言ハム」と答へたといふことである。

死を常に覺悟して居りながら、しかも漫りに死を言はず、また死といふものを考へてゐない、こゝに本當の晋作の面目があると思ふ。「生者何ソ死ヲ言ハム」。これこそ眞に日本人の思想に大悟した者の言である。

高杉晋作の一生涯を注意して考へてみると、彼はどんな場合にも困つたことがないといふ人物であつたやうに思はれる。これは晋作の父丹治の教訓に基くものといはれる。それはわれ〳〵に非常に有難い言葉である、「武士は困るといふことを言ふべきものでない。困る時は即ち死ぬる時なり。是れ我が家訓也」。かういふ父の教訓が傳つて居る。しかし、これは言ふに易くして、行ふことは非常な困難である。實際われ〳〵の生活の上に於いて、困るといふことがないなどとは決して言へない。ずゐぶん困ることがある。

さういふ時に晋作はどういふ態度を執つたか。彼は投獄記の終りに、「藩ハ求メテ得ヘカラス。禍ハ恐レテ避クヘカラス。我ガ子孫タル者奇禍ヲ恐レス時好ニ連レス唯タ忠孝ノ道ヲ昂ムヘキコトヲ望ム」と書いた。これは即ち忠孝兩全の道を標準として進退しろ、かういふ意味だらうと思ふ。忠孝兩全の道を標準として進退して居れば、所謂困るといふことは一回も出て來ない筈である。だから晋作は一生涯を通じて、どんな場合も困つたといふことを言ひもせず、また實際困つて居らない。これが、いかなる場合に於いても、必ずそれに處する途を執つて、前途を打開して行つたといふ根柢の思想ではないかと思ふ。

かういふやうに理窟づけてゆくといろ〳〵なことがあるが、私は高杉晋作の人物の眞髓といふものを、實は非常に簡單なことに依つて考へてゐる。そしてそれを私が、或る意昧からいふと、自分の一番大事な手本としてゐるのである。私が晋作に傾倒してゐる眼目は、彼は何事をなす時にも、必ず味方の爲に一條の活路を開いて用意して置いた。一例を擧げるならば、御殿山の燒打の時、他の者はたゞ燒打のことばかり考へてゐた中に、高杉は味方が退却する時の爲に、豫め柵の一部を切り開いて、其處から逃げ出せるやうに用意した。これは人の爲であるが、自分自らもやはりさうなのであつて、萬死を冒して何事かをなすといふ場合にも、常に高杉は必ず活きる路一つだけは用意してゐたやうである。

だから愈〻といふ場合には、その路を通つてスーッと方向轉換をした。これがまだ彼が一生涯いかなる場合にも困らなかつた原因であつた。

これは自分の行動の上であるが、更に晋作はこれを敵にも及ぼしたのである。いかに猛烈に敵を攻撃する時でも、彼は必ず敵の爲に一條の逃げ路を與へた、これが高杉の敵に對する遣口であつた。

隨つて敵は、窮鼠却つて猫を噛むの逆襲に出でることなく、その與へられたる血路に依つて退いたのである。だから高杉は戰には一度も敗けたことがない。このことは理窟は簡單であるが、實際の場合には、とても尋常一樣の人間に出來ることではない。即ち窮鼠を追詰めないといふ態度である。どういふことをする場合にも、人を死地に陷れない。だから人も高杉の爲には死地に陷らない。これは前述の父親の教訓を自分の上のみならず、敵味方に應用したわけである。

これが高杉晋作の一生の事業を通じて見られる精神であり、また彼が到る處に於いて首領に仰がれた根本原因であらう。これは結局、支那流にいへば、仁者の道である。徹底的に戰ひながら、やはり敵を生かして行く。これは日本精神の非常に優れた一大特色である。その日本精神の一大特色を具體化せしめたのが、高杉一生涯の事業ではなかつたか。かう考へて私は高杉晋作に傾倒するわけである。

これは一面から見ると、大處高處から物の本質を見極め得た時の態度である。高杉は如何に危急の場合にも綽々として餘裕をもつてゐる。これは眼を大處高處につけてゐる人にして、はじめて出來ることである。高杉の大事業は、みなこの眼を大處高處に着けてゐたといふ一大要點から生じてゐる。これ亦大いに學ぶべき點である。


初出
文藝春秋 21(2): 60—66. (1943)