狩野芳崖のこと
―私の欽仰する近世人・その一―

君の手本にしてをる人間は誰か、とよく訊かれることがある。そのとき私は、狩野芳崖だと答ヘる。少くとも私の手本にしてをる人物の一人は芳崖である。芳崖は言ふまでもなく名高い畫家であつて、さういふ畫家を私が手本にして居ると言ふと、妙な感じを懷かれる方もあるだらうと思ふ。勿論私は繪を稽古したわけでもなし、また畫家にならうと考へたこともない。併し人間として芳崖その人の一生涯の事蹟を聞いて非常に敬服し、かういふ人こそ自分の手本とすべき人だ、かう考へたわけである。これは私が芳崖といふ人を詳しく知つて居るわけでもなし、また私が美術眼があるわけでもない。

たゞ自分の兄が美術學校に學んだことがあるので、その兄の話を聞いていろいろ考へ、また芳崖の一生涯の畫績を通じて觀、またその傳記などを讀み、いろいろ綜合して芳崖といふ一つの人格を考へてみると、實に立派な人だ、われわれもかういふ人を手本にすべきだと考へ、今日に至つてもその考へをもつて居るわけである。

芳崖の傳記については私が改めて述べるまでもないが、長門の豐浦藩の繪師の出であつて、二十歳前後の時江戸に出て、狩野勝川院の門人となり熱心に繪を學び、橋本雅邦と名を等しくしてゐたといふことである。

芳崖は唯昔からの型を墨守するだけではいけないといふので、その弊風を打破して、繪の道を革新しようとしたのであるが、當時の人は、狂人であると言ひ、或ひは畫道の謀叛人であるとなして、相當に排斥せられたやうである。併し橋本雅邦と提携して、大いに繪の道に盡したのである。この雅邦との交際は骨肉もなほ及ばぬ間柄であつた。また勝川の門にある頃、佐久間象山と交つて激勵せられ、益するところ尠くなかつたさうである。その後アメリカの船が日本へ來るやうになり、天下が非常に騷しくなつて繪などは顧みる人もなくなつた。さうかうしてをる中に明治維新となり、維新後になると、世の中の有樣は更に一變して、美術など顧みる人は殆んどなかつた。それで芳崖の如きも、繪を描いてをつたのでは誰も顧みる者がないので、ずゐぶん生活に困り、日給三十錢くらゐで瀬戸物屋の傭人になつたり、或ひは小さな荒物屋を開いて、辛うじて命を繋いでゐたといふやうな慘めな生活をしてをつたらしい。

併しさういふ場合にも、芳崖は自分の志を少しも挫かず、どこまでも研究を續けて行つた。明治十五六年頃から、美術界にも段段革新の風が起り、アメリカ人のフエノロサが來て、日本の美術を研究してから、非常な大美術家だといふ事がフエノロサによつて認められ、茲に芳崖といふ人が、謂はゞ復活したわけである。

それより後芳崖は、非凡なる畫家であることが認められ、遂には明治時代の美術革新の先覺者として、また畫の方からいへば、雪村以來の大家であるとまで言はれて、世の崇敬の的となつたのである。

只今の美術學校はその當時出來たものであつて、これはわれわれの聞いてをる範圍でいへば、芳崖一個人の骨折りによつて出來たもので、若し芳崖がなかつたならば、あゝいふものが出來たかどうか判らないと言はれてをる程である。

東京美術學校は、謂はゞ芳崖を記念すべき大なるものの一つだらうと思ふ。併し芳崖はその美術學校を見ないのであつて、その開校に先だつ一箇月前、明治二十二年十一月に、病を得てこの世を去つてしまつた。

私が芳崖を手本とするといふのはどういふ點にあるかといふと、私の聞いてをる所では、芳崖はいつも、自分は畫家となつた以上、一生涯の中に會心の觀音菩薩の像を一枚描くことが出來れば滿足だ、かう言つてをつたさうである。

さういふ話を聞いて、いま美術學校にある悲母觀音の像を見ると、これが芳崖が一生涯の目的とした、その觀音の像ではなからうかと思ふわけである。その悲母觀音の像がどういふ像かといふやうなことは、今私が説明する迄もないが、容貌端麗な觀音が、右手に水瓶を持ち、これより流れ出る水が下に灌いで波となり、波の上に無邪氣な小兒があつて、慈母が嬰兒を育てる樣を觀音に寓したものである。そして又それがどれ程立派なものだとか、或ひはどういふ材料をどういふふうに使つたかといふやうなことを説明するだけの力を、私は持つてはゐないが、たゞ雅邦の、この繪畫の眞面目は、材料を神化せしめた點であり、美術の神品であるとの評言で十分であらう。

併し、さういふ話を聞いてゐて、そしてあの悲母觀音の實物を拜見した時に、なんとも説明のできない深い感じにうたれたことを未だに忘れえない。いつか美術學校で芳崖の追悼展覧會があつた折、幸ひに私も見せて貰つたのである。その時、芳崖の一生涯の作品をずつと年代順に陳列してあつたが、最後にあつたのがこの悲母觀音の像である。そこでまた芳崖の一生涯の話、また芳崖が一生涯に觀音の像を一枚描いて死にたいと言つてゐたといふ話を思ひ浮べて、感慨無量なるものがあつた。そこでその觀音の像の前に立つて、初めから觀て來た澤山の繪をずつと顧みてみると、芳崖が遣した畫績のすべてが、即ちこの一枚の觀音像の準備もしくは試みであつた。或ひはその圖の一部分として、いろいろに研究をし試みをした、それであつたやうな感じを起したのである。さういふふうに氣を附けて見ると、この一つの線は明治十五六年の繪のどの邊にあつたやうだとかいふやうに考へられる點も尠くない。當時見た芳崖最後の觀音像であるこの悲母觀音のほかに、似たやうな二、三枚の觀音像があつたやうに思ふ。それらを見ても、段々に進み、段々に圓熟して來て居るやうに思はれる。さう考へてみると芳崖一代の苦心は、結局この悲母觀音一枚に盡きて居るといふふうに考へられる。即ち、彼の六十年の生涯は、一枚の觀音の像に費されたと言つても過言ではあるまいと想ふやうになつた。

そしてこの悲母觀音の像には落款が入つてゐない。傳へる所によると、これは芳崖が亡くなる三日前に出來上つたといふことであるが、それに落款がないところを見ると、芳崖はこの繪で滿足したものであるとは考へられない。つまり、これによつて芳崖が自分の初一念が達せられたものと考へたとは思はれないのであつて、若しも彼にあと幾年かの命が與へられたならば、芳崖はまたあの上に幾度か描き直したであらう。

そこで私が芳崖に感心して居ることは、世間がどう變化しても、即ち世間の人が芳崖を少しも顧みないでも、やはり初一念を貫く爲に繪の研究をやめず、逆に世間が芳崖を偉いものだと言つて讃美し謳歌しても、やはり芳崖はその初一念を枉げない。何處までも一枚の観音像を仕上げようといふ念願を捨てなかつた。つまり一枚の繪の爲に一生涯を打ち込んでしまつた。私はそのことに感心して居るのであつて、別に芳崖の繪に感心したとかいふやうな單純な話ではない。

もとより繪としてみても、私は芳崖の繪は非常に立派な偉いものだと思つて居るし、また芳崖の繪の偉さは、われわれのやうな素人が見てでもなほ、他の繪かきの及ぶ所では無いのであると考へてゐるし、またその繪の技倆の勝れてゐることに就いてはいろいろの逸話もある。

併し今、そのやうな枝葉の點を言ふのではない。われわれが手本とすべき所は、世の中の變遷に伴つて、自分が浮いたり沈んだりしないで、何處までも一本槍に最後の目的を貫かうとするその態度を改めなかつたといふことにある。

世間が彼を見下して居る時でも、少しも志を改めない。のみならず、いはゆる自暴自棄といふやうなこともしない。また世間が彼を見上げるやうになつても、相變らず一枚の觀音像を立派に仕上げようといふ、その點に志を專らにして、世間が囃すからといつて、それに浮かれたり有頂天になるといふやうな事なく、あくまで一枚の觀音像といふ初一念の貫徹に全生涯を打込んだ。そこに私の敬服する點がある。

私の書齋には、この悲母觀音像の寫眞が掲げてある。そして、或ひは自分の志が挫けさうになり、或ひはわれわれも俗物だからなにか自慢がましいやうな心が生じることもあり、或ひは又自分の志が緩んで懶るとか、仕事が思ふやうに出來ないとか、さういふ場合になると、いつもその繪を仰いでは芳崖を思ひ出すのである。芳崖の悲母觀音を忘れるな、芳崖が一生涯どうしたかといふことを貴樣忘れたのかと、いつも自らを鞭つて居るわけである。それは今日に於いても、少しも變る所がない。私の平素の心構へは、いつも芳崖によつて指南せられて居るのである。

私はかういふ毀譽褒貶を外にして自分に安心して生き拔いた人達のことを屡〻見聞して來たので、私の人生觀は世の常の人と或ひは少しく變つてをるかも知れないし、芳崖に特に感心させられるのかも知れない。

話は戻るが、私はもと〳〵美術家でもなんでもないので、この悲母觀音の繪についてあれこれ言ふのは變な話であるが、あの繪の中には前に述べたやうに觀音樣も居れば、子供も居り、山もある。この山は何だとか、この觀音樣のこの邊はいつ頃の繪から出て居るとか、さういふことで自ら感じて居ることもあるが、併しさういふことは私から言ふと、副産物であるし、なにも美術家の眞似をする必要はない。

唯一つかういふことがある。

始終あの繪を見てをつて、一番疑問に思つたのは、その左下の方にある奇怪な形をした山であつた。どうも普通の山とは違ふ。あれは何だらう、かういつも思つてをつた。ところが芳崖の歌に

うつくしくあやにたへなりかしこくも
    神のつくれるわがおほみやま

といふ一首がある。これは妙義山を詠んだ歌で、芳崖は妙義山を非常に好んだ爲か、よく妙義山を見に行つたか、研究したものらしい。それであの奇怪な山は、妙義山を象つて描いたものであらうと信ずるやうになつた。

或る時、畫家にそのことを話したら、成程さうかもしれぬといふことであつたが、今日に於いても私はさうであると確信して疑はない。

それからこの歌もなか〳〵佳い歌で、なんだか知らぬが、何處かに萬葉調があると思ひ、その旨を或る歌人に話したところ、同感の意を表されたことがある。

さういふ所を以てみても、一つの道に優れた人は、やはり他の道にも優れたものだといふことも考へられるし、單に一個の畫家として片附けてしまふわけにはいかないと思ふのである。私は常に、一藝一能に優れた人は、みんなそれ〴〵の道に於いて達人なのだから、さういふ者は必ずわれわれの手本となすべき點を有つて居るものだ、唯われわれがそれを手本とする場合に、人にはそれぞれ長所もあり、短所もあるので、短所を學ぶ必要はない。その長所を學ぶべきものだらうと思ふ。私が芳崖に敬服して居るのも、ほかのことを全部研究して、あらゆる點に於いて偉いのだといふふうな、さういふ研究の結果であるといふわけではなく、前に述べたやうに、時勢の變遷、毀譽褒貶に左右されず、あくまでその初一念を捨てず、その貫徹の爲の精進を怠らなかった點に存するのである。單にその志を變へなかつたといふのみでは仕樣がないのであるが、實質的に、雪村以來といはれる程の畫家、つまり四五百年に於いて初めて出たといふやうな大畫家となつたのである。

そして又、それだけの大畫家になり得たといふのも、さういふやうに、初一念を變へなかつたといふ所にあるのではないかと思ふ。日本の言葉でいへば、操を守つたのである。その生きた實例を私は芳崖に於いて見るのである。

世間には、操を守るといふことを、非常に部分的のことのやうに輕々しく言ふ向きもあるけれども、私は、芳崖のやうな態度で貫いてゆくのが、本當に操を守ることであると思ふし、又さういふことこそ本當の日本人の姿であると思ふ。


初出
文藝春秋 21(1): 114—118. (1943)