漢文訓讀と國文法 ―漢文の訓讀の國語の文法に及ぼせる影響―

一 はしがき

私はこの題目を以てここに僅少の紙數で、私のこの問題について研究したものの大要だけを説かうと欲する。私はこの問題に注目して研究に着手してから三十年以上になる。さうしてこの事の一端を公に約束したのは、大正十四年の日本文法講義第四版の序文であつた。その當時、その研究の一端を東北帝國大學の特殊講義として、「現代語法の中、漢籍の讀方によつて傳へられたる要素の考察」といふ題目で、一ケ年間講義したことがあり、その後又別に「國語の中に於ける漢語」といふ、これも東北帝國大學の講義の中で、これに言及したこともあつた。ここに私はそれらのうちから、上に掲げた題目に該當すべき事項についての答案の要點をあげることとする。

今この題目についていへば、事項は多端であるべきであるが、しかし、問題はおのづから局限せられてゐるのである。即ち一は縱斷的に考察することであり、一は横斷的に考察することである。縱斷的に考察するといふのは、時間的歴史的に考察することであるが、この考察の態度は自然に現代の語法ことに文語法に及ぼしてゐる漢文の訓讀の影響といふことを標的とするに至るであらう。何となれば、歴史といふものは時間の上に變遷する事象を觀察するのであるが、それを變遷するものとして考察するとすれば、その考察は無限に進展して停止すべからぬものであるといはねばならぬが、さやうに停止することの出來ない歴史的事象もどこかで、一往の句切をつけなければ、止めどのないものであり、又その止めどがなければ考察も正確に行かない。それはたとへば電波は殆ど無限に波及するものであらうが、アンテナによりて捕捉しなければ吾人の認識界には入らぬものであり、又活動寫眞は、これに光線を投げかけても、之を受ける銀幕が無ければ、吾人の認識として捕へることが出來ないものであるが如くである。歴史的事實を捕へて認識するには必ずある一時代を以てアンテナとし、銀幕とし、それに影を投じ、姿をあらはしたものを以て研究の基礎とせねばならぬものである。漢文の訓讀が國語に及ぼした影響を觀察する場合に吾人が止まりうべき最後の銀幕は現代の文語の法則であるであらう。ここに私はこの方面よりしての必要上、まづ、現代語法に及ぼした影響を見るであらう。次には横斷的に考察するといふのは、國語の語法が、如何に漢文の訓讀の方法によつて影響せられたかといふことであるが、語を換へていへば、國語の語法が漢文訓讀の方法の影響によつて如何に歪められたか、若くは如何に新たな境地を拓いたか等の問題である。私はその縱斷的の方面の觀察を終へて後、これらを概括しつゝ、その横斷的の方面の考察にうつることとするであらうが、それに先だつて、漢文の訓讀法の沿革を概觀しなければならぬ。

二 漢文の訓讀法の史的概觀

漢籍が本邦に公式に入つたのは應紳天皇の御世であることを正史には傳へてゐる。又その時代より前に既に漢籍が傳へられたといふ説もあるが、今それらのことは措いて論ぜぬことにする。さて、苟も之を本邦に傳へた以上、本邦人が之を傳習して理解すべくつとめたであらう。そのはじめは如何樣によんだものであらうか。或は字音のままに棒よみにしたかも知れないとも思はれるが、棒よみにしたままでは吾々が今日よむやうな訓讀法が生する理由がないのである。今日の訓讀法を基にして考へられることは、當初からか、若くは中頃から、かやうな訓み方が案出せられたものであると考へねばならぬ。そこで今日に傳はつてゐるよみ方を基礎として考へてみても、その語法の中にはよほど古い時代の語法が交つてゐるといふことがわかる。又現に傳はつてゐる古代の文獻によつて考へてみても、この誦讀法は頗る古いものであると考へらるる。もとよりそのよみ方が、何年前からといふやうな明確な事はいはれない事であるが、餘程古くて奈良朝以前に既に、かやうなよみ方が行はれてゐたらうと思はるるのである。

さて、その漢籍渡來以後その誦讀法に幾何の變遷が在つたかといふ委しい事はこれ亦今日に於いて盡く明かにしうべき事でないが、この漢文訓讀の方法は爲し得る限り國語の語法に準據せうとしたことが古來の漢文訓讀の根本方針であつたらしい。そこでこれを國語でよむとするとなつてみると、その漢字の配列のままでは國語の語脈に一致せぬから、今日も行はるる如く漢字をそのまゝにしておいて、よむ時にその訓むべき字の順序を漢文の方からいへば、顛倒してよみ、又は、一字を二度よみなどしてよんで、そのよんだ結果が本邦の語のやうに聞ゆるやうにしたものであらう。我々の見聞した所によれば、蘭文をよむのは主として、この漢文をよむやうな方法でよんだものであり、英語などもかやうな方式によむことは明治の中頃までは存してゐた。それが、西洋語のよみ方は今月の所謂正則といふことがやかましく主張せられて、かやうな方法は行はれなくなつたのである。

さて、最初に漢文を日本語のさまに讀ませた時に何を以てそのよみやうを示したかといふ、その方法を考へてみるに、當初にはもとより假名といふものが無かつたから、今日の假名をつけるといふ方法は未だ行はれなかつたことはいふまでも無い。ここに起りうべき方法は漢字をそのまゝ假名とし、即ち所謂萬葉假名を用ゐてこれを注記するといふ方法も考へ出されうるものである。しかし、文字を顛倒してよむことは、符號をその目的に用ゐるより外に方法はあるまい。それ故に、最初に行はれたものは、約束的の符號であつたらうと思はるる。その符號も最古のものは如何樣であつたか、今日知ることを得ないが、よみ方の符號として捨假名以前のものと考へらるるのは所謂訓點である。これは、その名目の示す如く訓讀の符號として施した點發のことである。それは漢字の四隅若くはその中央などに一定の位置に一定のよみ方を約束して點を加へたもので、よむ者はその位置を按じその點の位置とよみ方との約束によつて讀んだものであらう。この點はもと漢字の四聲を示す爲にその字の四隅に施した點即ち所謂聲點から考へついたものであらうが、それのさし方にはそれ〳〵家々に家傳があつて秘密にして、門外漢には容易に傳へなかつたものの如くである。しかし、その最も汎く行はれたものは

の如き方式のものであつて、その點の位置によつて「見テ」とか「花ヲ」とかのやうに、その漢字に助詞複語尾などを加へてよんだものである。これが「テニヲハ」といふ語の起源であるが、今でも漢文をよむべく假名や返り點などをつける事を訓點をつけるといふのも實際かやうに訓の點をつけたことから生じた語であるのである。しかし、假名の發明が起つてからは、振假名捨假名等をつけるといふ方法が起り、その捨假名と訓點とが同時に混用せられた時代もあつたが、後には點は返點の如きものだけになり、他はすべて假名で訓點の代りをすることになつたのである。それらの事の實際は古い漢籍佛經などの實物につけば今日でも之を見ることが出來るのである。

さて、かやうに種々の漢籍や佛經に訓讀の加へらるるに至つたことはもとよりいふまでも無い所であるが、一の書に新たに訓點を加へることは學界の難事業とせられたものである。これは、訓點を加へると一口にはいふものの、大體、今いふ飜譯と同じ性質のものであつたと云ふべきである。ただ、飜譯は、原文の言語文字は一切これを存しないで、全くわが國の言語文字で書きあらはしたものであるが、この訓點は漢文の原文はそのままにしておいて、その文字のままこれを直譯でなく、日本語によみなほさうといふのであるから、ただの飜譯よりは一層の困難な事業であつたと思はるる。それが爲に往々國語の法格を破り、又は國語としては生硬な語も生じなかつたとはいはれないであらう。しかし、又その原文がそのままに存するから原文の意をとりちがへたりしたものは直ちに讀者に看破せらるるであらうから、今の飜譯の、誤譯が在つても原文を見ないものには何とも考へやうがないといふやうなものとは性質が違ふのである。それ故にこの難事業は一朝一夕に出來ることでないので、往々その訓點を施した學者の苦心談が傳説として傳へらるるのである。而してそれも支那傳來の漢文のみで無く、本邦人のつくつた文章でも、これを日本訓に正しくよむことが、なか〳〵大事業であつたと見えるのである。たとへば菅公の作である所の

東行西行雲眇々、二月三月日遲々。

といふ句を正しくよみうる人が無かつたが、或る人が北野天滿宮に參詣して、その御前で、菅公の靈から

トサマニユキ、カウサマニ行キ、雲ハル〳〵、キサラギヤヨヒ日ウラ〳〵。

とよむべき事を授けられたといふ事が、江談抄に見えてゐる。これは俗話で信すべきもので無いといふ學者もあるけれども、漢文についてかやうに考へたといふことは否定することは出來ぬ。又陶淵明の歸去來の辭のはじめの

歸去來兮

の四字を「カヘンナンイザ」とよむことは菅公のよみはじめられたものだと世に傳へてゐるなど、漢籍の訓讀にはそれぞれの歴史があるものと考へられるものである。もとより今日にはその傳が亡びてしまひ、某の句は某の訓みはじめたものであるといふやうに明かにこれを知ることは困難であるけれども、先人の努力の結果、今日の如く容易に讀みうるやうになつたことは忘るることの出來ない事である。

かやうにして某の書は某の訓點によつたものといふ事は必ずある筈である。世に傳ふる所によれば、元稹集の和訓は一條天皇の勅を奉じて紀齊名が施したのであるといふ。又大江匡衡の江吏部集を閲すれば、匡衡も亦同じく一條天皇の勅を奉じて、白氏文集七十卷に訓點を施した事が見える。さやうにして漢籍に訓點を新に施して世に行ふといふ事は近世までも行はれたことである。たとへば晋書は奈良朝の頃に既に行はれたが、それに訓點を施して世に行うたものは無かつたが、志村楨幹・荻生徂徠の二人が、これに訓點を施して郡山藩で出版したことがある。かやうなものは、その時代に行はれたよみ方によること、勿論であらう。

かやうな譯であるから、家々に傳ふる訓讀の方式があつて、これをその家の號によつて或は菅家の點とか江家の點とかいひ、又その點を加へた家は、その書によつて區別して史記家とか漢書家とか云つたものである。或は又その點を加へた人の名をとりて、名づけることもあつた。たとへば藤原明衡が後漢書に點を施したのを明衡の點といふやうな類である。

さて以上の如くにして漢籍の訓讀は創始し傳へられたものであるが、室町時代の末、戰國時代に至つては、岐陽和尚の四書新注の和訓といふものが起り、これに基いて、桂菴和尚の點、文之和尚の點といふものが起り、舊來の訓點の法式を改めて、新に法式を定めた所が少くない。この桂菴の點法は「桂菴和尚家法倭點」といふ書にその要領を著してある。

この桂菴流の訓點は、文之から藤原惺窩を經て林道春に傳はつた。道春はこの新注を大成したもので、その施した訓點を道春點と云つて、徳川氏三百年間の漢詩文のよみ方の基礎となつたものであるが、この道春點は古來の訓讀法によつた所が多く、舊に依つて漢字を音訓兩讀にしたことが少くない。それは例へば詩經のはじめの關雎をよむに、

關々トヤワラキナケル雎鳩ノミサコハ河ノ洲ニアリ。窈窕トシツカニタヽシキ淑女ノヲトメハ君子ウマヒトノ好逑ノヨキタクヒナリ。

のやうによむものであるが、これらの和漢兩讀の方法は極めて古風なものである。然るに、道春の點が、なほこの方式を保存することの多いのを見れば、新點といひながら、今日の眼からみれば、古風なものであつたといはねばならぬ。しかし、道春點の以前に古來の博士家に傳へられたよみ方が在つて、それは堂上點タウシヤウと唱へて、別になほ世に傳へられてゐる。今日に於いてこの堂上點を手近に見ようとするならば、出來ぬこともない。たとへば、春秋經傳集解・文選六臣注・古文尚書標注などの古い版本などの訓が、堂上點の面影を今に傳へてゐるものの一例である。

道春點は、その點者の社會上の位置からして徳川時代文教の基礎をなしたと云つてもよい程世に行はれたものであるけれど、上の如く和漢兩讀の方法をとつたりした爲に多少迂遠だといふやうに後々に到つて考へらるるやうになつたものと見えて、その後いろ〳〵の漢學者が出て思ひ〳〵の訓點を施して次々に多くの點本が出た。その著しいものをいふと、

これらのうち、道春點に次いで大いに行はれたものは闇齋點である。その闇齋點で、關雎の首章をよんだのはどういふ風になつてゐるかといふに、

關々タル雎鳩ハ河ノ洲ニ在リ、窈窕タル淑女ハ君子ノ好逑。

といふやうになつてゐる。これを道春點に比較して見れば大きな變遷があるといはねばならぬ。闇齋點の後に行はれたのは後藤點であるが、その後は一齋點が大いに行はれて幕府末造の頃の漢文訓讀の大勢を支配した有樣であつた。

この訓點について專ら之を論じた書がまたあらはれた。上にも述べた桂菴和尚家法倭點といふものは、室町時代にあらはれて、所謂新注の經書の訓讀法の指針となつたものであるが、元祿の頃貝原益軒は點例といふ書を著して、之を説いたが、それはなるべく穩健なよみ方を奬める趣旨であつた。その後荻生徂徠の學が天下を動すに至つて、漢文に忠實に國語を無祖する方針が漢學者間の輿論のやうになり、ここに太宰春臺の倭讀要領といふ書が著されて、訓讀の方法に一大變革を起す機運を促し、三平點の如き奇矯なものをはじめ續々、新な訓讀を試みるものが起つたが、後に至るほど、國語を無視する度が著しくなり、一齋點に到つてはその弊殆ど極まれりといふべき有樣を呈するやうなことになつた。元來漢學者は國語の法格には不案内であつて、なるべく漢文の文意に忠實に漢文の文脈をも傳へようとした爲に、漸次に破格のよみ方をするやうになつた譯であらうが、その爲に、漢文の字面のままによんで、それが國語の法格に合ふか否かは問題にせず、その字面に無い語はなるべく加へないでよむことを主義とし、又國語ではよむ譯に行かない助辭などを音で讀んでそれに加へたりなどして、國語の法格を破るものが少くないのであつた。ここに於いて、天保の頃、日尾荊山が訓點復古を著して、主として、それらの點を駁して、國語の法格に從つた訓點を施すべきことを主張したのである。しかし、大勢は改まらずして、そのまゝ明治維新の時代に及んだ。明治時代の中頃からその弊を矯めようといふ事が考へられだした。それらの機運に寄與したものは、權田直助の漢文和讀例の著である。かやうにして、明治以後稍穩かな風になつて、甚しい弊は矯められたやうに見ゆるが、しかし、まだ〳〵要するに倭讀要領の範籬を脱し得ないのである。

以上は、漢文の訓點法の極めて概略な歴史である。それらの歴史に關與した人々の、訓讀に用ゐたよみ方はもとより、その訓點改革案出者の考案によつて新にせられた點があつた譯であるが、しかし、その語法の骨子は殆どかはるところの無いものであつて、今まで述べたやうに著しく古格が失はれたと考へられる漢文の訓讀の上にも古語の格が保存せられてある所が少くないのであつて、一般にいへば、古代の語法であるといはねばならぬ樣な語が、今人の口からして吾人の耳に觸るるやうになつてゐるものが少くないのであつて、これを歴史的の見地から觀察してゐると、隨分神祕的の感を懷かせるものがある。しかも多くの現代人はかやうな神祕的な感を起さなければならぬ程の事を何とも思はないで看過してゐるやうである。

さてもかやうに漢文の訓點によつて最も多く影響をうけて、それらに傳はつた古代の語法の最も著しく保存せられてゐるのは現代の文語である。

三 現代の文語法の特質

私は、上に漢文の訓讀法の沿革の大觀を述べて、さやうな沿革があつたに拘らず、その語法の大綱は、かはらなかつたといふことを述べた。しかし、それには未だ證據をあげては居ない。これからその實證的な方面に入らうとするのであるが、それについては、上に約束しておいたことによつて、先づ現代の文語の法格として行はれてゐるものの中で、漢籍の讀方によつて傳へられた諸の要素を説かねばならぬと思ふのであるが、それに先だつて、現代の文語法といふものの正體をつきとめておく必要がある。それは何故かといふに、この現代の文語法といふものについては從來多くはまちがつた考へが行はれてゐるからである。

現代に行はるる普通文の語法は通常、中古即ち平安朝時代の語法に據つたものと稱せられてゐる。この事は大體論としてはもとより不當であるとはいはれない。しかしながら、これを嚴密に考察すると、決して平安朝の語法そのままのものでは無いのである。たとへば、

の如き、音便的のいひ方、又

の如き、又

の如き、「む」を受けた「ず」の形、又

の如き統覺をあらはす「あり」の用法、又「べし」の連用形「べく」を「べう」といひ、連體形「べき」を「べい」といふ音便の如き

の如きこと、又「べし」の語幹「べ」より導かれた所の

の如き「べみ」「べら」といふ形の如き、その他複語尾の數個をつづけた例の

の如き例は今日の文語でもすべて用ゐないものである。かやうの事は一々あげてくると、頗る多くの箇條となるのである。

以上述ぶる所の如くであるから、現代の文語の法格は平安朝時代の語法のままではなくて頗る變化した點のあることは明かであつて、その平安朝の語法であつて現代文の語法に存しないものがまた頗る多いことは明かである。この故に平安朝の語法をそのまま踏襲したとはいふことが出來ないものである。そこで、現行の文法について、

標準を中古言に置き、其中より規則を抽象し來るが故に、勢、中古言そのものの完全なる記述文典なる能はざるはもとより其所なり。(言語學雜誌第一號雜報)

といふやうな論も出るのであらう。これは最もの議論のやうであるが、事の實際を顧みれば、必ずしも直に首肯することの出來ない點がないでもない。

先づ、第一に、中古言から規則を抽象して來たもののやうに論じてあるが、別に、誰も中古語法のうちから、これを採用する、これを採用しないと言つて擇んだ筈もないのである。よし、又無意識に擇んだといふ説として見ても、この説は實際にあはないものである。その理由は多々あるが、次に一二をいはう。

先づ、所謂中古、即ち平安朝の文法に無くして、現代の文語に存する現象がある。たとへば、

などいふ場合の「しむ」は平安朝の語に全く無いといふことは出來ないが、その頃の「しむ」の用法は頗る局限せられてゐたのである。然るに現代の文語に於いては平安朝時代から見れば、寧ろ自由な用法をなしてゐる。又「べし」といふ複語尾が「あり」と結合した「べかり」といふ複語尾が平安朝に盛んに用ゐられたことは事實であるが、今日では

といふ如く、「ざるべからす」「ざるべからざる」といふ形で盛んに用ゐらるるが、その他の形は殆んど用ゐられない。これは、所謂、中古言の中から抽象して來たもののやうに見ゆるであらうが、この「ざるべからざる」といふ如き形は平安朝の物語類には殆ど見ることの出來ぬ語法である。然るに今現に盛んに使用してゐるのは、中古言から抽象したものとはどうしてもいはれぬものである。これらを以て考ふれば、現代の普通文の語法は平安朝の文法から抽象して來たものであるといふやうなことは決していはれぬものである。何となれば、平安朝の文法に存在して現代文にない語法があるといふ點だけはこれを抽象したといふことが出來るであらうが、 その平安朝時代に無いものが、現代文に存する以上、それから抽象したといふことを言ひ得ないのは明白の事柄であるといはねばならぬからである。

以上説く所は甚だ簡單だけれど、現代の普通文が、平安朝の物語等の文章の直系を受けたものでないことは想像しうるであらう。この現代の普通文の源流如何といふ事はおのづから特殊の研究を要するものであるが、少くとも、現代の普通文は別に或る系統があつて、これを形づくるに至らしめた要素の存するであらうといふことは考へられねばならぬ筈である。

この平安朝の物語文等に存しない語法の今日の文語の法格に傳はつてゐるものは、平安朝以後に發達したものであるかどうかといふに、概括的に考へて見て、これらは決して平安朝以後の發達になつたものでなくて、平安朝以前より存在し、平安朝時代にも物語文に並行して存した別箇の流れに屬したものであつた。これも精細に研究すれば、種種の要素に分析することをうるであらうけれど、一括していへば、漢籍の訓讀によつて今日に傳はつた一種の語法の系統に属するといふことが出來るであらう。

抑も平安朝時代に在つては公に用ゐられた文は即ち漢文であつて、朝廷の政務に與るものはすべて、その漢文を用ゐたのであるが、その私用に供するものに至つては漢字だけを用ゐることは漢文に同じいけれども、その文字の使用法は必ずしも正確な漢文の法則を守ることが無く、變則破格の一種の文體をなしたものも少からすある。これ即ち當時の公卿などの日記記録等にあらはるる文であつて、これを稱して記録體とも云ふのであるが、この記録體の文が流れ流れて別に消息の一體をなしたのである。さて又その消息文の一體が、更に流れて今日の候文の一體を生するに至つたものであるが、それら記録體の文、又候文は直ちに今日の普通文の源をなすものでは無いのである。

さて、かの平安朝時代の公用文又硬派の文藝に用ゐた漢文の正系が鎌倉時代に至つて、平安朝時代の軟派の文藝に用ゐた物語日記等の文と相融合して和漢混清の一體を釀し成したものであるが、その見本は保元物語・平治物語・平家物語・太平記等の如き軍記類及び方丈記・徒然草・神皇正統記の如きものである。而して、これら鎌倉時代頃の和漢混淆文を以て、現代の普通文に比較するに、これにも一致する點の少いといふことを見るであらう。即ち、たとへば、現代の普通文に頻繁に用ゐる、

の如き語法はそれら鎌倉時代頃の和漢混淆文には殆ど見ることの無いものであつて、假りにさやうな語法が有るとしても、それは多くは牒状などいふ漢文體の文にあらはるるものを見るであらう。かやうな次第であるから、それらの語法を有する現代の普通文はそれら鎌倉時代の和漢混淆文の直系ではないといふことを考へねばならぬ。

惟ふに、上にいつた

の如き形はこれは恐らくは漢文の

の文字と一致するものであつて、その讀み方が普通文の中にあらはれたものであることを見るべきであらう。なほその他、單なる語についていへば、「イハユル」といふは「所謂」の語であり、「ユヱン」といふは「所以」の語であり、「クダン」といふは「件」といふ語であつて、いづれも、それらの語の漢文の中にあるものをよむ慣例の語である。又「イヘドモ」は「雖」のよみ方であり、「可」を「ベケンヤ」といふものは漢文のよみ方に存する語法であつて、その他には今日これを求めても得られないものである。

以上略説するが如く、現代の普通文には、漢文の讀み方の影響が頗る多いものであると考へらるるであらう。而して、これは鎌倉時代以後の和漢混淆文の直接の影響でも無いといふことは既に述べた所であるが、そのかやうになつた原因は恐らくは江戸時代に漢文が盛んに行はれた爲に、その讀み方を基として假名交りの體にかき下した文體、たとへば、駿臺雜話とか、梧窓漫筆とかいふやうな漢學者の書いた假名交り文の影響によるものであらうと思はるる。而して現代の普通文は一面から見れば、この漢學者流の假名交り文を基礎にして、それの語法の正しくない點を正したものであるといふやうにいひうるものであるが、その委しい事は文體の歴史に屬することであるし、且つは又この限られた紙數では説く譯には行かぬから、それらの説明は省略に從ふことにするが、要するにこれは根據の動かし難い點もあり、その上に明治政府の要路を占めたものは、主として漢文で鍛へ上げられた人々であつたといふことが、この普通文が公用のものとなつてゐる主な原因であると見らるるものである。而してそれが公用文の本體となつた爲に、私用の普通文もこれを準據としたもので、ここに漢文直譯體の假名交り文の全盛時代を明治の上半期に見たものである。しかしながら、明治初年の和漢混淆體の假名交り文には國語の法格を無視したやうなものが少くなかつたからして、明治二十三四年頃から、國文學の研究が漸く行はるるやうになり、國文學者が輩出して、それらの見地からして普通文といふべきものを布き施し、國語學者も亦頻りに語格を正さねばならぬといふことを論じて普通文の破格な部分を指摘してから、段々正しくなり、漢學者流の假名交り文と國文學者流の通俗文とがいつしか相融合して一の體を成したのが現代の普通文であらう。

ここに於いて現代の普通文にあらはるる文法といふものは、中古文法の抽象の結果ではなくして、上に述べた二の潮流の抱合し釀成したことによつて生じた特殊の文法であることを知るであらう。若し、これを中古の文法であるとするならば、試みに今の文語の法則で、中古文を解してみれば、すべて解しうべきであらねばならず、又中古文を構成しうべきであらねばならぬものであるに、さやうな目的が、この文語法のままでは達し得られさうにもない。されば、現代文法はおのづから現代文法であつて、中古文法の單なる抽象でも拔萃でもないといふことを知るであらう。しかしながら、現代文法に於いて用言の種類及び活用に於いては殆ど全く中古の文法によつたといふことが出來るから、この點だけについていへば、中古文法の抽象といはれぬこともない。用言の種類及び活用の法則が日本文法の重要な部分であることは勿論であるが、これを以て文法の全體と目することは出來ないことはいふまでもない。しかのみならず、その用言の活用の種々の變化の相の上に於いては、中古の文法に見ることの出來ない特殊の現象が存し、又、中古の文法に見る所の現象のここに見えないものもあるから、これとても、直ちに中古文法の踏襲といふことが出來ない。

さて、用言の種類及び活用の外の特殊なる部分を考察するに、その大部分は漢文の讀み方によつて傳へられた語法を普通文の上に應用したものだといふことが出來るのである。勿論、この漢文の讀み方によつて傳はつた語法には平安朝の文法と一致したものが多々存するけれども、又平安朝時代の所謂國文、又鎌倉時代の和漢混淆文などには稀であつて、かへつて普通文に多いこと、たとへば「しむ」といふ複語尾の如きものが少からず用ゐられてゐるのは、これ恐らくはやはり漢文の訓み方の應用によつたものであらう。

以上略説する所によつて、現代の普通文の文法は一方に於いて平安朝時代の用言の法則を骨子とし、一方に於いて漢文の訓み方によつて傳はつた語法を應用した點が多く、この二が大本となつて生じたもので、その他はそれらに附帶する枝葉の點であるやうに思はるるのである。

四 漢文の訓讀に傳はつてゐる語法の概觀

漢籍の訓點はその書籍によつて多少讀み方を異にするものがある。たとへば、經書をよむ點、紀傳をよむ點などの差がそれである。これはそれをよみはじめ、又それを傳へた家々の差にもよるものである。それで又家々の名によつて差別を立て、堂上點と概括していふうちにも菅家の點、江家の點などのちがひがある如く種々の系統のあるものであるが、それらの訓點の間にはそれをよみ初めた時代の語法がその訓法のうちに化石のやうに保存せられて今日に傳はつてゐるものが少くない。今それらの事を少しくあげてみよう。

日本紀繼體天皇の巻に

阿符美能野アフミノヤ愷那能倭倶吾ケナノワクゴ輔曳府枳能朋樓フエフギノボル

といふ歌がある。これを漢字交りにかけば

近野のや毛野の若子笛吹き上る

となるべきものである。この場合の「い」は主格を示す格助詞である。この「い」は萬葉集の歌にも多いし、宣命にも例が少く無い。この主格を示す助詞は今日には用ゐないし、又平安朝時代の文藝的の諸の著作にも用ゐないから、奈良朝までで、一般民衆の用語としては亡びたと云つてよいものである。然るにこの「イ」といふ主格のいひ方は、因明唯識等の法相宗所依の論には必ず用ゐられてゐて、それらの木版本には今も明白に傳へられてゐる。而して上にも述べたやうに專らこれを訓點に用ゐた時代にもあつたことは、古い點圖を見ればわかる。それらの點圖には漢字の中央の點が「イ」となつてゐるが、平安朝時代からはその「イ」の位置に當る點は「ノ」に用ゐられてゐる。そこで、この中央の「イ」の點の用ゐられたのはどこの點であるかといふに、興福寺法相宗喜多院の點と順曉點とである。尤も、比叡山寳幢院の點にも中央より稍右上にうつた所に「イ」點をつけたものがある。今法相宗の訓點に必ずこの「イ」が用ゐられてゐるといふことは訓點の歴史から見て、意味の深いものである。法相宗のわが國に傳はつたのは四傳であるが、最初は孝徳天皇朝の道昭が傳へたのであり、最後のは天平の頃に玄昉が傳へたものである。それ故に法相宗の經論のよみ方は主として奈良朝以前から奈良朝の中期までに出來上つたものであらう。さうしてみると、上の萬葉集や、宣命に「イ」が用ゐられてゐると同じ時代になるし、又古くは日本紀の歌とも系統が連絡する譯である。所で、この「イ」の助詞は法相宗では今でも、その經論の講讀に實地に用ゐてゐて、すたれては居ないのである。さて又この「イ」は法相宗のみならず、聖徳太子の講ぜられた勝鬘經にはその經の訓讀に今以て用ゐて居るもので、明治以後活字版にした勝鬘經にもこれを用ゐてよんでゐるし、その聖徳太子の義疏を徳川時代に出版したものには疏の文のよみ方にも之を用ゐいでゐる。かやうに、平安朝以後所謂世俗には用ゐなくなつた古い語格が、この訓讀によつて今日まで實地に傳へられてゐるのは、まことに驚くべきことと云つてよからう。

しかし、上にいつた「イ」は世俗には用ゐないものである。ここに私は今普通に用ゐられてある語であつて、しかも古い語格のまま傳へられてあるものの一例をあげよう。それは「如し」といふ形容詞である。この語は今の文章に盛んに用ゐられてある語であるが、足利時代頃からの口語には用ゐることは先づ無いものであつて、我々の日常の話語には全く用ゐないと云つてよからう。然し、われ〳〵が演説などするには用ゐるが、この演説や今日世人が口語體の文章だと云つてゐるものは實は純粹の口語では決してないもので、文章の語と口語との交つた一種衣體の知れぬものである。即ちそれらに「如し」の用ゐらるるのは、やはり文章語の應用にすぎない。さてこの「如し」といふ語の活用は、

未然形連用形終止形連體形
如く如く如し如き

のやうに活用するものであつて、「如けれ」といふ活用が無く從つて已然形が無いものである。それ故に「けれ」といふ活用が在つて已然形を存してゐる一般の形容詞に比ぶれば、不完全のもののやうに思はるるであらう。然るに、この「如し」は平安朝から鎌倉時代にかけて用ゐられてゐたやうに文獻には散見するが、それにもやはり、「けれ」の活用を有してゐた證據を見ないのである。即ちこれは古今を通じて「ゴトケレ」といふ形が用ゐられたことの無い語であるといはねばならぬ。然るに形容詞に「ケレ」といふ活用形が無いのは奈良朝時代の一般の現象であつて、これが奈良朝までの形容詞の活用であつて、古い姿を傳へたもので、不完全であるが故ではないのである。それ故に、この「ゴトシ」といふ語は奈良朝時代の形のまま今日に用ゐられてゐるといはぬばならぬ。しかも、それが平安朝時代には一般の形容詞に「ケレ」といふ已然形が生じたにかゝはらず、而してこの「ゴトシ」が、當時用ゐられたにかゝはらず、やはり「ケレ」の已然形が用ゐられなかつたといふことは如何なる理由によるのであるか、私は今日にこの「ゴトシ」が盛んに用ゐらるるのは漢文訓讀の調子が普通文に盛んに帰ゐらるるに至つた結果と思ふが、平安朝時代から既にかやうな事情になつてゐたらうと思ふ。そこでこれが漢文の訓讀の上に如何に用ゐられてゐるかを見るに、最も普通なのは

のやうな場合の「如」の字を「ゴトシ」とよむ場合であるが、その外に、

の「若」「猶」「而」「似」「由」等の諸字をばいづれも「ゴトシ」とよむ例がある。もとより多くの場合の「ゴトシ」のうちには平安朝によみはじめた漢籍のよみ方にも無かつたとはいはれぬであらうが、しかし、それも奈良朝時代若くはその以前の語法のままこれを踏襲したものであつたといはねばならぬのである。

又上にも一寸云つた歸去來辭の中の

胡不歸

を古來「ナンスレゾカヘラザル」とよむのであるが、これを今日の語法で説明せうとしても、説明はつきかねるのである。これは奈良朝時代に行はれた句法の一現象に基づくものである。それはこの時代には二の句を接續して合文をなす場合に、後世ならば、用言の已然形に接續助詞「ば」を添へて二句を接續する所をば、接續助詞「ば」を加へることなくして、已然形だけのままで次の句に接續させるのである。その例は、

の如きものである。これは後世の人は「ば」を省いたものだと説くけれど、省いたものでは無くて本から無いので、後世になつて「ば」を加へるやうになつたものと思はるる。さて又それら已然形のままで接續したものをば、その已然形の下に係助詞「ぞ」「こそ」「や」「か」を加へて、上下の句の接續に力を添へることがある。たとへば、

の如きものがその例であるが、この語法は平安朝以後には行はれなくなつたものである。さて上に述べた「胡不歸」の「ナンスレゾ」といふは「ニ」を「ン」と云つた音便があるけれど、その語法はまさしく上の萬葉集卷二十の例の

ナニスレゾ母トフ花ノ咲キテ來ズケム

と云つたものに同じい語法である。それ故にこのよみ方は奈良朝以後のものではないといはねばならぬ。即ちこれをはじめてかやうによんだ時代の語法をここに傳へてゐるといはねばならぬが、その時代は奈良朝か若くはその以前の時代であつたであらう。それがこの漢籍の訓み方として化石的に保存せられて今日に至つたものであらう。しかし、これを「ナスレゾ」とよまないで「ナスレゾ」とよむ所を見ると、平安朝時代に起つた音便の影響を受けてゐることがわかる。なほこのよみ方には、

といふその形に於いて「ゾ」の係を連體形の「ザル」で受けてゐる所の係結が儼然として示されてゐるのである。

以上の例はその訓點が奈良朝若くはその以前に加へられたものに基づく語であるといふことの爭ふべからざるものをあげたのである。

しかし、又上の「なにすれぞ」を「ナスレゾ」と今日云つてゐる點は、それが、平安朝以後に起つた音便の影響を受けたことを語つてゐるものである。かやうな音便のあらはれてゐるものとしては上の歸去來の辭の「歸去來兮」を、

とよむ所の音便、又「於是」を

とよむが如きもの、又「垂」等を

とよむが如き、「微」を

とよむが如きものは、その音便のあらはれてある點を以て見れば、少くとも、平安朝時代頃の語法の影響により多少の變形を生じたものと見ねばならぬものである。

以上の如く、吾人は、その語格を見て、それを歴史的に或る時代の語格であらうと指摘しうるものも少くないが、又

の如く、古いことは古いに相違無いが、文獻的には、漢籍の訓點以外にその古さを指摘しがたいものも少くは無い。この「すべからく」といふ語は、一般に「須」といふ字で示された漢文の助動詞をよむ爲に用ゐらるる語であるが、その「須」の語にあてる爲に、按出した譯語であるらしいのである。而して、これがたとへば大鏡に、

一條院の御なやみのをりおほせられけるはすべからくは次第のまゝに一のみこをなん春宮とすべけれど、うしろみすべき人なきにより思ひかけず。

とあるが如く、下を必ず、「べし」といふ語格でうけなければならなくなつてゐるのは、これは、決してただの語ではなくて、やはり漢語の「須」を二度よんで、「べし」で納めなければならなかつた爲に、かやうに言つてあるので、これも漢籍の訓讀の影響であらうと思ふのである。

この「すべからく」について私は二の注意すべき點の存するを見る。その一はこの「すべからく」のやうに漢語を直譯して云つたらしいと思はれる語である。たとへば、

を「至つて貴し」とよむ場合の「至つて」又

を「極めて貧し」とよむ場合の「極めて」の如きものである。かやうな場合のものは、その語そのものはもとより本來の日本語であつてそのいひ方も日本語としては不都合であるとはいはれないが、そのあらはす觀念は本邦固有のものでなくて、「至」「極」といふ漢語の副詞的用法に立つたものの意をあらはしたものであるから、純粹の國語的用法のものでは無いのである。かやうな風にして、漢籍訓讀の爲に生じた特殊の語遣が、まだ他にもあるのである。他の一の點は「すべからく」と副詞的にいへば、下は必ず「べし」といふ語で納めなければならぬやうなものである。かやうなものは、たとへば「宜しく……すべし」とか「マサに……すべし」とかいふやうなものであるが、これらは「宜」「當」といふ漢語が副詞と助動詞とをかねたやうな性質の語であるが、本邦では一の語であてて、その意を完く示すことが出來ぬ爲に、副詞と複語尾とに二囘よむのであるが、かやうなことが、漢文の訓讀に少くないと共に、それらが、普通文に用ゐらるる場合にも必ず、それと同樣にしなければ、我々に安んぜざる感を與へるやうになつてゐるのである。

更にこの二度よみの語が一定の慣例のやうになつて、國語の法格を多少矯めてしまつたやうなものが往々ある。たとへば「未だ」といふ語が上にあるときには「云々せず」といふやうに打消の語で納めなければならぬやうな感じを我々に懷かせるものであり、又普通文では恐らくはさうしなければ破格のやうにいはるるであらう。しかしながら、我々の日常の話には「まだ澤山残つてゐる」といふやうに「未だ」を肯定で受けて納めることが少くない。それ故に「未だ」を打消で受けて納めなければならぬといふことは、純粹の國語に於いてはいひ得ないことは古今を通じていひうる現象である。然るに、普通文ではさやうにはいひがたい感じを與へるのであるが、それは漢文で「未」を「イマダ……セズ」と二度よむといふ事に定まつてゐる所から來るのであらう。なほ二度讀みの字でなくても、かやうに純粹國語の意をば漢字の意の爲に歪めてしまつたものがある。それはたとへば「既」の字を「すでに」とよむ場合の如きものである。國語の「すでに」といふ語は本來過去をいふ語ではなかつたことは萬葉集に明かにその證例があるし、今日の口語でもさやうなものでは無いのである。然るに普通文では「既に」といへば必ず過去であるかの如くにいはるるのは、漢字の「既」の字の意に捕はれてゐるものである。

以上の外、句を接續する場合に大抵の場合に「イヘドモ」と云つて、假設の條件をも既定の條件をも示すやうになつてしまつたのも漢籍訓讀の影響であらう。即ち「雖」の字をばいつでも「イヘドモ」と讀んだ爲、その口氣が普通文を支配したためであらう。

なほこの外「ゆゑん」といふ語だとか、「云々する」といふ語だとか、「云々せんと欲す」といふ語だとかいふ樣な語遣もやはり、漢文の訓讀から導かれたものであるに相違ない。

以上略説したやうに漢文の訓讀がわが國の現代の語遣の上に影響してゐる點は少からぬものである。ここに私は更に項を改めて、説いてみようと思ふ。

五 漢文の訓讀に保存せられた古代の語及び語法

奈良朝時代若くはその以前の語法が、漢文の訓讀によつて今日に傳はつてゐるものの例としては既にのべた

の三を著しいものとする。その他の場合のものとしては、「いはゆる」といふ語がある。これは普通に「所謂」といふ文字を用ゐるが、その文字の通りにこれは「所謂」といふ熟字を國語でよむ爲に用ゐる語である。なほ「所云」「所爲」をも「イハユル」とよむこともあるが、それは稀で普通は「所謂」である。これの漢文での用例は今更あげるまでもない程周知の事柄である。所で、この「いはゆる」といふ語は今の語にすれば、「いはるる」といふべきものであるが、その「るる」を「ゆる」と云つたので、これは奈良朝若くはその以前にこの「所謂」を「いはゆる」とよんだ、そのよみ方の殘り傳へられたものである。何となれば、「る」「らる」の複語尾を「ゆ」「らゆ」と云つたのは奈良朝時代の語法である。その一例をいはゞ、

の如きものである。しかも、奈良朝時代でも「る」「らる」の形もあつたのであるから、この「イハユル」といふ語遣は、奈良朝でも初期か、若くはその以前の語格であつたらうと思はるるからして、その點から見れば、頗る古い時代の語格であると思はるる。

次に「可」の宇を「べけむ」といふことがある。たとへば

といふやうな場合のものである。この「べけむ」といふ語は宇都保物語にも見ゆるから、平安朝の初期にも用ゐたのであらう。しかし、一般的に見て、このやうな場合の「けむ」は「よからむ」を「よけむ」といひ、「安からむ」を「安けむ」といふ如く、形容詞の連用形の語尾の「く」と「あらむ」との複合して生じた「からむ」の約せられた形でありて、奈良朝時代の特色と見らるる語遣である。ここもそれと同樣の語遣であるにより、恐らくは奈良朝によみはじめた語の名殘りであらう。若し奈良朝でなて、下つたとしてもそれは平安朝の初期を下るものでは無いのである。

論語に孔子の語として、

微㆓管仲㆒吾其被髮左袵矣

といふ文が在つて、その「微」の字を「ナカツセバ」とよむ慣例になつてゐる。これは普通文に頻繁に用ゐらゐるといふ譯では無いが、全く用ゐぬとはいはれぬ。これはこの「微」の字の用言的の用法である場合のよみ方であるが、この國語は本來「なかりせば」といふのを音便でかやうな形にしたものである。そこでこの「なかりせば」といふ語遣はその用例から見れば、奈良朝時代に榮えたもので、古今集の頃にも歌には用ゐられたものである。今日はこの語は甚だ耳遠くて、國語といふよりは何か漢語ででもあるやうに今の人の耳にはひびくかも知れないが、これも亦漢文の訓讀によつて、古い語遣が今日に傳はつたものの一である。

漢籍には又「垂」の字を「ナンナントス」とよむことが少くない。たとへば、後漢書に

自㆑在㆓漢川㆒垂㆓三十年㆒

をある「垂」の如きをさやうによむのである。これは所謂「將及」の意に用ゐたものであるが、これは「垂」の字にかぎらぬ。たとへば朗詠集に、

桐葉風凉㆑秋天

とあるを「秋ニナンナントスル天」とよむやうに「欲」の字をも「ナンナントス」とよみ、又朗詠集に、

㆑曉簾頭生㆓白露㆒

とある「向曉」を「アカツキニナンナントシテ」とよむやうに「向」の字をもよませてある。この「ナンナントス」といふのは「なりなんとす」といふ古語が、化石的になり、その中間に音便を起して「ナンナントス」となつたものであつて、これも元來純粹の國語であるが、この形は恐らくは平安朝の中期以後の發生であらう。而して、これも亦往々普通文に用ゐられ、又口頭語として演説などにも往々用ゐちるることがある。然るにこの事を心得ずして往々「なんなんたり」など云つて得意顏してゐるものもあるやうであるが、これでは何の事か意味をなさぬのである。

漢語には「曰」といふ語が多く用ゐられてゐる。これをよむに、論語などに「子曰」とあるのをは「のたまはく」とよむのが、古例であつたが、一齋點などでは「曰」はすべて「いはく」といふことに定めてしまつたやうだ。これが、又普通文にも盛んに用ゐられ、一轉して「いはくがある」などといふ俗語まで生じた姿である。この「いはく」の類に「いへらく」「おもへらく」といふのが在つて、これらも漢文の訓讀に用ゐられ、從つて普通文にも屡用ゐらるる。これらは從來延言と稱へられたもので、「いふ」「いへり」「おもへり」といふやうな語に基づくもので、その下にわる「く」は外より添はつたもので、その際に上にある用言はアの韻即ち未然形をとり、さうして「く」につづくのが例になつてゐる。而してこれが意義は或はこれを體言とし、或は之を修飾格とするのであるが、漢文の間に用ゐらるるものは、いづれも修飾格に立つてゐるものである。しかし、「いはくがある」などの場合はそれを體言の取扱にしたものである。さてかやうな語法は何時代のものかといふに、これらはいづれも奈良朝若くはその以前に行はれたものであつて、平安朝以後では、歌にも文にもこれが活動的に行はれたことを見ない。しかるに、現今の普通文にこれが往々行なれてあるのは、これらも亦漢籍の訓讀によつて、奈良朝時代若くはその以前の語遣が、現今に傳へられたものといはねばならぬ。

この「いはく」「いへらく」「おもへらく」に似たものに「ねがはくは」「こひねがはくは」といふ語遣がある。これも亦漢文の訓讀に用ゐらるるものである。即ち「ねがはくは」といふのは「願」の字をよむのであり、「こひねがはくは」といふのは「庶幾」「冀」「希」「尚」などの語をよむときに用ゐる語であるが、これも往々普通文に用ゐらるるのであるが、それ亦これら漢文の訓讀から導かれたものであることは爭ふことが出來ぬ。この類は前に述べた「いはく」の類と似たものであるけれども、「は」といふ係助詞が添はつてゐる點が違ふのである。しかし、その意義と用法とは殆どかはりが無いので、その修飾格たる意甚だ顯著なものである。

又、この類に「おそらくは」といふのがある。これは漢文では「恐」の字の修飾格に立つた場合のものをよむのであるが、それは「おそる」といふ語にかの「く」が添はつて出來たものであつて、その語遣としての意義と用法とは「ねがはくは」「こひねがはくは」と大差のないものであるが、これも漢文の訓讀に慣用してから普通文にまで利用せらるるやうになつたものであらうが、この方は普通文よりも一層外に、發展して口語の上にも一の熟語として用ゐられてゐるのである。

なほ又別に「うらむらくは」「こふらくは」「をしむらくは」などいふ語遣があつて、「恨」「請」「惜」などの語が漢文の中に在つて修飾格に立つたものをよむことになつてゐて、それがやはり、普通文にも往々用ゐられてゐるが、これに漢文の訓讀によつたものであることは明かである。而して、これらが、「云々らくは」とあるのは「ねがはくは」の類に似てゐるやうであるけれど、大いに違つた點が在つて尋常の道理では明かにし難い點がある。そは如何といふに、「うらむらくは」といふのは「うらむ」といふ動詞を源としたものであるから、他の例でいへば、「うらまくは」といふべきもののやうである。然るにさうはいはすして「うらむらくは」といふのは異例である。そこでこれを考へ直してみると、これは或は連體形から「く」に行く精神のものであるが、音の上で何か必要があつて、「く」の上を「ア」韻にしたものかも知れぬ。さういふ風に考へてみると「うらむる」といふのに「く」がついて「うらむらくは」となつたのであらうかといはれぬ譯ではない。然るにかやうな理窟をこねまはしてみても「こふらくは」「をしむらくは」の二は説明のしやうが無い。「こふ」には「こふる」といふ連體形が無く、「をしむ」にも「をしむる」といふ連體形が無い。それ故にこの二に至つては「こふ」「をしむ」といふ語に「らくは」が附いたといふより外に考へ樣が無い。それ故に尋常の道理では説明の出來ない事である。この「らくは」といふものはもと良行四段の語か、良行變格の語かを「く」でうけた場合に「らく」又は「らくは」といふ形をとつたものを、その形を一の獨立遊離した語形として、これを他の語にも及ぼしたものであつて、恐らくは漢文の訓讀の上に野生的に發達した一種の語法であらう。さうしてそれがいつしか普通文の上にも行はるるやうになつたものと思はるる。

以上は漢文の訓讀が、古代の語遣をそのまま今日に傳へたと思はるるものの一斑である。

古代の語が漢文の訓讀によつて今日に傳はつてゐるものの例としては先づ「欲す」といふ語をあげてみよう。

普通文には「欲す」と書いて「ホツス」とよむので、この語が屡用ゐらるる。そこで、この「ホツス」といふ語が漢語か國語かと質問したら、深く物を考へてゐない人は漢語だらうといひかねない程漢文に多く用ゐらるる語である。而して、これは、平安朝時代以後の純粹な國文には殆ど全く用ゐられない程の語で、平安朝風の文章の中に「欲す」といふ語一を交へても水と油との如き感を起さしめる程のものである。しかし、これはもとより純粹な國語の、しかも古語であつて、萬葉集などにも用例のある、ラ行四段活用の「る」といふ語の連用形「ホリ」が名詞化してサ行三段活用の動詞「す」の賓格に立つたものである。即ちその本體は「ほりす」である。それが中頃、音便の流行する頃にその音便の法により、「ホツス」とよみなして流例となつたものである。それ故にこれは極めて古い語が、この漢文訓讀に用ゐられた爲に今日に傳へられ、やがて普通文にも用ゐられてゐるのである。

次には「かく」といふ副詞である。この副詞は平安朝時代にも用ゐられてゐたことは疑が無いが、今日の普通文に用ゐらるる所は自由ではなくて、「かくの如く」などいふやうに、「如し」に件うて用ゐらるる場合ばかりと云つてよい程である。さうすれば、これは「かく」といふ副詞が自由に活動してゐるのではなくして、漢文で「如此」「如是」「如斯」「如之」「若此」「若是」とかく熟字のよみ方によつて慣用せられた語を襲用したために生じたものであることは、爭はれないのである。而して、漢文では、儒教の書にも佛經の文にも、このやうに「かくの如し」といふ語は甚だ多いのである。

又「あに」といふ語が、普通文に屡用ゐられる。これは「豈それ然らんや」「豈恐れざるべけんや」といふやうに、下がいつも反語になるものである。この語はかやうに普通文には用ゐるけれど、平安朝の歌文から近世の日用文章にはかつて用ゐないものである(下總などの方言には今も用ゐるが、それは古語の名殘である)。かやうに、中古以來用ゐないものであるが、萬葉集には例の稀でないものである。その萬葉集時代の語が、今日の普通文に用ゐられてゐるのは、これも亦漢文の訓讀に用ゐてゐる所から導かれたものであらう。漢文では「豈」の字を「あに」とよむことが、一定の例となつてゐる。而してそれは

のやうに、下に反語の意を示す助辭を置くを通例とし、又さやうな助辭が下になくても同じ樣によむのが慣例となつてゐる。たとへば、

特鷄鳴狗盗之雄耳、 ン㆓以言㆒㆑得㆑士

の如きものである。ところで、この「あに」といふ語の萬葉集及びその前の用例では必すしも反語を以てせずともよかつたので、

阿珥豫區望阿羅孺アニヨクモアラズ (日本紀、八十一)

の如くにも云つたものであつた。それが現今の普通文で、必ず「む」又は「らむ」の下に「や」といふ助詞を添へたもので受けなければならなくなつたのは、いふまでもなく、漢文訓讀の例に束縛せられたものである。しかし、さやうな變形を生じたにせよ、この語が現代に活動してゐるのは漢文訓讀の餘勢であるに疑が無い。

次には「けだし」といふ語である。これも普通文には頻繁に用ゐらるるものであるが、平安朝の歌文又は近世の口語並に普通文系統の以外の文には殆ど全く見ないものである。而してこれは漢文では「蓋」といふ語をよむに用ゐるもので、その用例は一々あげ難い程多いのである。然らばこれも漢文の訓讀に用ゐるものを普通文が踏襲したものであるといはねばならぬが、その語は萬葉集時代には頻繁に用ゐられたものである。この點を以て見れば、これも古語が漢文の訓讀の間に保存せられた著しい例になるのであらう。

普通文には又「あたかも」といふ語を用ゐることが少くない。これは漢字では「宛」「恰」の文字を用ゐるものであるが、平安朝の歌文では殆ど全く用ゐないものである。それ故にこれ亦奈良朝以前の語が漢文の訓讀によつて今日に傳はり、又普通文にも及んでゐるものと見るべきものである。

次には「むしろ」といふ語がある。これは漢文の中では、主として「寧」といふ字で示さるる副詞をよむことになつてゐるが、又「無寧」「無乃」等をもよむことがある。而してこれは平安朝の國文の中にはその用例が殆どなくて、歌に一二の例を見るのである。奈良朝の文では假名書の例は生憎見ないから斷言は出來ないが、やはりその頃の語遣であらうと思はるる。この語の成立については明確な説はないが、倭訓栞に、

若の義ろは助語なるべし。

と云つた説がよいやうに思はれる。この説によるときは「ろ」の助辭を慣用した時代即ち奈良朝時代若くはその以前の語と見なければならなくなるのである

「むしろ」の如く、原義も、その時代も明確にはいはれないが、やはり古いものと思はるるものに、「ガヘンゼス」といふ語がある。これは「不肯」といふ漢語をよむに用ゐるものであるが、平安朝以後の歌文には見えす、その他にも、「不肯」といふ漢語の訓に「カヘニセズ」とよんだもの以外には見ないものである。さりながら、「不肯」の字をよまむが爲に直譯的に作つた語とも思はれないから、これも古語で、後世には漢文の訓讀の外には絶えてしまつたもののやうに思はるるのである。これも亦普通文に用ゐらるるのであるが、やはり漢文の訓讀から生じたものと見らるる。

六 漢文の訓讀の爲に特に生じたと思はるる語法

ここに漢文の訓讀の爲に特に生じたらうと思はるる語法をあげて見ようと思ふのであるが、これには種々の姿があらう。或はそれを分解して見れば、一々國語の法格にかはらないが、全體として見て、さやうにするのが漢文の訓讀によつて慣例となつたといふやうなものもあらうし、又漢文の訓讀の爲に、新に生じたといふやうな語遣もあるであらう。今、これらは一々合理的に次第を立つるやうな譯にも行かないから、便宜類を以て集めて次第に説いて行かうと思ふ。

平安朝時代に於いて漢詩文作法の規準となつた作文大體といふ書がある。その中に

と題目を立てた一項が在つて、

須 宜 盍 當 令 將 教 遣 猫 使 未 縱等也

と記してある。これはたとへば、「須」字ならば

とやうに、兩度よむべき字であることを告げるものである。今、この作文大體の文字についてそのよみを示してみると、

といふやうになる。これらはすべて、上にあげたやうに、はじめに一度よみ、終りにまたそこに立ちかへつて、よまねばならぬことになつてゐるのであつて、漢文の訓讀には必ずかやうにすべきことと定まつてゐるのである。今、上の作文大體にあげた語を類聚してみると

の類ははじめのよみ方はいろ〳〵違ふけれど、「ベシ」とよむべき點は一致してゐる。又、

の類ははじめ「ヲシテ」とよみ(遣は「ツカハシテ」とよむのが今は例となつてゐるが)終に「シム」とよむべき點は一致してゐる。その他、

は各一類をなしてゐるものである。

作文大體のは、それらの一切を網羅してあげたもので無いことは明かである。「ベシ」で納めるよみ方をしなければならぬものは、

の外に、

もある。これらの字の義はいづれも、國語の「ベシ」に相當する點が在つて、さやうに訓んだものであらうが、ただ單に「べシ」とよむ所の「可」「容」「合」といふ字よりは意義が複雜であるから、その意義を明かに示すが爲に、それぞれそれに該當すべき修飾格の語を以て豫め訓み、再び「ベシ」と返り讀んだもので、かやうに訓みこなした古人の苦心には敬意を表せねばならぬことと思ふが、そのうち、「當」「應」の場合に用ゐる「マサニ」と、いふ語は、本來の國語として行はれてゐたものを利用したことは疑がないが、「須」「宜」の二字ではさやうに思ふことが出來ない。次にこの二を説明してみよう。

「須」を「スベカラク」とよむのはどういふ所に源があるのであらうか。私の見る所では、これは本來の國語には存しなかつた語であらうと思ふのである。この「スベカラク」といふ語はもと「スベクアラク」であつたことは多少の旁證がある。即ち、これは本來

であつて、その本意は「なすべくあることは」といふ程の義をあらはしたものであらう。かやうにいふ語遣は法則的には日本語として純ないひ方に相違ないが、それは、本來用ゐられてゐたことばを、そのまゝ採用した結果とは思はれない。この「スベクアラクハ……スベシ」といふ語遣について見れば、「スベシ」といふ語が、二囘用ゐられるのであつて、結局これは「スベシ」といふ語を二囘くりかへして用ゐたといふべきものであつて、いかにも、漢文をよむ爲に、直譯的に案出したものと思はるるのである。さうしてそれが、一定の形に熟しては、「スベカラクハ」といふやうになり、更に略せられて「スベカラク」となり、今日では何の譯もなく、ただ「スベカラク」とよむ字である位でかたづけてゐるやうに見ゆる。さてこれが「須」の字についての一定のよみ方となつては、平安朝時代の宣命などにも汎く用ゐられてゐるのであるが、大鏡など男性のものした國文にも用ゐられてゐたが、その「すべからく」と云つて、「は」を省いたのは、水鏡の頃からであらう。

「宜」を「ヨロシク……スベシ」とよむのは「スベカラク」よりも一層その姿が明白に見ゆる。これは明かに、「宜」の字を先づ修飾格としてよみ、終に「ベシ」としたことは爭はれないものであるが、これも恐らくはこの「宜」の字の漢文の中に在る意義を明かにする爲に生じた一種の譯語であらう。まづかやうにして生じた「スベカラク」「ヨロシク」といふこれらの修飾格はその本來は漢語の直譯若くは義譯といふべきものであつて、純なる日本的のものでは無いといはねばならぬが、かやうにして一種の思想發表の方法がふえて行くといふ事は國語の爲に決して惡い事とはいはれぬ。もとよりかやうの事の爲に正しい語格がこはされて行くやうであれば、容認の出來ぬ事であるが、これはさやうな弊があるとはいはれぬ。

さてここにいふ所の如くに、普通文に於いても

といふやうな修飾格が上に來た時には、必す下に「ベシ」といふ語法をせねばならぬやうになつてゐて、さやうにせねば、納まらぬやうになつてしまつてゐるが、これはいふまでもなく、これら漢字の漢文の中に於いての訓讀の方式によつて固定的になつたものに外ならぬのである。

次には、

の類であるが、これらははじめには主として「シテ」とよみ、終に必ず「シム」とよむべきものであるが、この類には、まだ、

もある。そこで、これらを國語のよみ方の方面から分くれば、

の四は「ヲシテ……セシム」とよむのが、きまりになつてゐ、「遣」は「ヲツカハシテ……セシム」とよむ例になつてゐる。今日の普通文にも「シム」といふ語を用ゐるには、上に「シテ」といふ語を先づ用ゐるべき例となつてゐる。これはもとより「シム」が使役をあらはす場合に限るのであるが、さやうに使役をあらはす場合でも、國文としては「シテ」を必ずしも用ゐないでよいといふべきものであるのに、今日では何が「何ヲシテ」といふやうにせぬと不安定の感を起さしめるのである。これもやはり漢文の訓讀の餘勢であると思はるる。

次に「盍」を先づ「何ゾ」といひて「セザル」とうけるのは「盍」の字が元來「何不」の合したものを一字にしたのであるから、かやうによむのが當然であるが、これのいひ方も亦、普通文に盛んに應用せられてある。その他の「將」を「マサニ……セントス」といひ「猶」を「ナホ……ノゴトシ」といふが如きも普通文に盛んに用ゐらるるものであるが、それらも漢文の中のこれらの字の用法とよみ方により、導かれたもので、あることは疑ふべくもない。

「未」は先づ「イマダ」とよみ、終に「…セズ」といふやうに打消の語で納めるものである。この漢文中の「未」の字のよみ方が、普通文の中にも盛んに用ゐられてゐて、前にも少し説いた樣に我々の今日の文章語としては「未ダ」と前に云つた以上、これが終を肯定にしては破格であつて、必ず打消の語で納めなければならぬといふやうに感ぜしめてゐるのである。この「いまだ」といふ國語は奈良朝時代から平安朝時代にかけて盛んに用ゐられてゐるが、それらの用例を見ると、打消を件ふに限らぬ。

などのやうに下に肯定の來ることもある。この用法は今日の「まだ」といふ語でも同樣である。然るに、上にいふやうに必ず打消が來なければならぬやうに見ゆるのは、漢文の訓讀に慣れた目から生じた一の錯覺である。普通文では上のやうに打消を伴はねばならぬもののやうに思はれやすいが、それは國語の語遣をゆがめたものであるから、必ずしも隨ふを要しないものである。

普通文には又多く、

といふやうに、「べからず」「べからざる」「ざるべからず」「ざるべからざる」といふ如き語遣をすることが少くない。今この語遣の組立を見るに、

   べから―ず
   べから――ざる
ざる―べから―ず
ざる―べから――ざる

といふやうになるのであるが、これは、漢文でいへば、

不可――べがらず
    べからざる
不可不―ざるべからず
    ざるべからざる

といふ排列のものを直譯したものであることが明白である。それ故にこの語遣は、ただ、上にあげた形だけが用ゐられて、「べからぬとき」とか「べからねど」などはいはず、又「べからざれど」とか「べからざらば」とかいふやうなこともなく、上にあげた形に固定してしまつてゐるのである。かやうに固定してゐるのは、それが國語として自由に活動してゐるものでないことを告ぐるものであるが、これ亦漢文の訓讀から導かれたものであることは疑が無い。漢文に於けるこれらの用例は今ごとごとしくあぐるまでもあるまい。

「ざるべからず」は漢文の「不可不」をよんだものであるが、「不可不」は必ず「ざるべからず」とよんだ譯でもない。たとへば、大學に

有㆑國者不㆑可㆓以不㆒㆑愼

とあるをば「以て愼まずあるべからず」とよむやうなものである。かやうなよみ方は、「不」が二つ重なるときに起るものである。論語に

喪事者不㆓敢不㆒㆑勉

とあるをば「敢へて勉めずあるべからず」とよむが如きである。これらも普通文に見ゆる。又書翰文には多く「之」といふ字をつかふ。たとへば、

とかいふやうな場合である。かやうな場合の「之」は殆ど、意味が無いやうで、「これあり」といふのはたゞ「あり」と云つてよい所、「これなし」といふのもたゞ「なし」と云つてよい所である。然るにここに「これ」といふ語を加へると、何となく、安定に穩かなやうな感を與へるが、かやうな場合の「これ」は何を示してゐるのであるか。この「之」は普通文には殆ど用ゐないが、書簡文には盛んにこの種のいひ方をするのである。今その源を考へてみれば、これも亦漢文のよみ方から來たものである。その漢文での用例は老子に、

有㆑之以爲㆑利、無㆑之以爲㆑用、

とあるが如きものである。この「之」の用法は漢文の上でも多樣であつて、今、これを委しく論じてゐる遑もないが、ここに用ゐてあるやうなものは、ある文字の述語的に用ゐられたことを示す一種の助字であつて、「これ」とよむのは、「之」を「コレ」と必ずよまねばならぬといふやうに大分固くなつた語遣である。かやうな「之」はたとへば、孟子に

不㆑知㆓足之踏㆑之、手之舞㆒㆑之

とある「之」の如きもので、「踏之」で「ふむ」ことであり、「舞之」で「舞ふ」ことであつて、「之を踏む」「之を舞ふ」とよんでは意をなさぬものである。なほいはば史記に、

以㆓人魚膏㆒爲㆑燭、度㆓不㆑滅者_久㆒㆑之

とある如き「久之」を「之を久うして」と往々よむ人があるが「之を久しうして」といふやうな語は道理から言つて見て、何もわかる筈が無い。これは「久之」で「久し」とよんでよいのであつて、前後のつゞき工合で「久しうして」とも「久しからむ」ともよむべきものである。「有之」「無之」も「之」には譯語をあてなくてもよいものでたゞ「あり」「なし」と云つてよいものである。書翰文にある「有之」「無之」といふ語は畢竟この漢文の直譯の口調が、一般に用ゐられて、國語の上に奇妙な語遣をさせるやうになつたものと思ふ。

この「之」の用法から漢文より國文に移植せられた著しい一種の語遣がある。それは、たとへば帝國憲法第一條の

大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇ヲ統治ス

とある文章の如きものである。私はこの「之」を再歸法に立つ代名詞といひ、その代名詞で指示したものは文の冒頭に提示せられてゐるから之を提示語といつてゐるが、かやうな語格はわが固有の文章には無かつたと思はるる。これが國文の上にあらはるるやうになつたのは漢文の影響と思ふのである。それはどうかといふに、易の繋辭傳に、

形而上者謂㆓性㆒、形而下者謂㆓道㆒

といふが如きがそれであり、又詩經に、

 タル荇菜左右采㆑ ヲ

とあるを「左右之をとる」とよむとき、是の「之」で指示せられたものは上にある「荇菜」である。又論語に、

子曰巧言令色足恭左丘明恥㆑、丘亦耻㆑

とあるを「巧言令色足恭は左丘明を耻づ」とよむときに、「巧言令危足恭」は提示語で、「之」は再歸格である(「丘亦耻㆑㆑」の「之」ももとより同じである)。元來、これらは漢文としては「之」をよまずして、

とよむのが本であるやうである。しかし、今のやうに「之」を代名詞として取扱へば、上にあげたやうな語格が生じるのである。そこでこれは本來漢文そのものの法格ではなく、漢文を國語でよむことを工夫した際、即ち訓讀の上に生じた一種の變態であるかのやうに見ゆる。しかし、この變態は結果としては決してわるいものではなくて、ここにわれわれの祖先が、かやうな一種簡易適切にして、しかも力強い説明をなす所の語格を案出したといふべきである。これらは漢文の訓讀によつて與へられたよい影響としての著しい例である。

「欲す」といふ語が、「欲りす」といふ古語の名殘であることは既に述べたが、この「欲す」といふ語の用怯は又國語の語遣の上に變な影響を與へてゐる。この「欲」の字は、それが、用言の時には「ほりす」とよむのもよいけれど、別にこれは「將」の字と略、同じ意の助字として用ゐることがある。その例は王羲之の書帖に、

後期㆑難㆑冀

とあるが如きものである。これは「後期」は己の冀ふ所であるけれど、その冀望の實現が難いだらうといふので、冀ひ雜いことを欲するのでは無い。それで、古くはこのやうな場合のものを單に「す」とよんだものである。たとへば朗詠集の、

㆑拂㆓他騎馬客㆒、未㆔多遮㆓上㆑樓人㆒、

とある「欲拂」を「ハラハントス」とよむのが古來の例であつたが、徳川時代の板木には「ハラハント欲ス」とよませてある。この他にもかやうな風によみかへたのを見る。徳川時代になつて、漢字を主にして國語を顧みない風を生じてかやうな變態を生じたものと見えるが、これが、普通文の上にまで影響して、「欲す」といふことを必要としない、否寧ろ「欲す」と言つてはよくない所にまで「欲す」といふことが行はるるやうになつたのは、これは國語をわるくしたものといはねばならぬ。

漢語が國語の語遣の上に與へた影響の一として「いへども」といふ語が普通文に濫用せられてゐることをも指摘せねばならぬ。これは元來「雖」といふ助字をいつでも「イヘドモ」とよんだ爲に起つたことであらう。しかし、「雖」は必ず「イヘドモ」とよまねばならぬといふ文字ではないので、大典禪師の文語解に「雖」を論じて、

イヘドモト譯スルハ衍語ナリ。唯、ドモト譯シテ通ズ。レドモト云トキハ已往ノコトナリ、已成ノコトナリ。ストモト云トキハ未來ノコトナリ、未成ノコトナリ。然レトモ未來未成ノコトニハモシトヒト譯シテヨキ所アリ

といつてゐる如くである。それ故に、古くは大典の示した如くにいろ〳〵によんだのであつたが、徳川時代に訓點を一定する風を生じてから、道理に合ふも合はぬもかまはず「雖」はいつでも「イヘドモ」とよむことになつたものと思はるるが、その弊風が普通文の上に及んで、已成未成の區別なく何でも「然りといへども」とか、「云々なりといへども」とかいふことになり、上に「たとひ」といふ語があつても、「若し」といふ語が在つても、かまはなくなつたのである。これらは漢文の訓讀と云つても。徳川時代の漢學者の與へた惡結果であつて、古來の訓讀法が惡かつたのではない。しかしながら漢文の訓讀法が與へた影響であるには相違がない。

上の外、漢文の訓讀が國語の語遣の上に與へたものとしてなほいふべをものは「所」「間」といふやうな語である。これらの語は漢文では所謂關係代名詞といふべきものであるが、それをば、その文字によつて「ところ」「あひだ」と直譯したが爲に、わが國の語の上に奇妙ないひ方をせねばならぬものを生じたのである。今これらの事を詳論する遑を有しないから略することにするが、これも漢文の訓讀の與へた影響の著しいものである。

以上で、私は漢文の訓讀が國語の語遣の上に及ぼした影響の主なものを説いたが、次には漢文の訓讀の爲に、直譯的に造つたらしい語を少しくあげてみよう。

この問題について、最も著しく見ゆるものは、「及び」「ならびに」といふ語である。「及」は漢文では接續詞である。それ故にたとへば書經に、

コノイツカ ビン㆑汝トモニ ビン

とあるやうに「ト」とよむが本義にかなつたよみ方である。しかし、漢文は國文と組織が同じではないから、「と」とよむことの出來ないものが少くない。たとへば、唐律に、

承㆑誤己行決原放訖者

とあるが如きは「ト」とよむのは大分困難である。これらはただの語を接合するものでないから「と」とよむことの困難なのも無理ではない。そこでこの「及」の字の動詞としてのよみ方「およぶ」の名詞形「および」といふ語で以てその語の直譯語としたものであるらしいのである。かやうな直譯語は、漢語と國語との不一致から生するものであるから、それらの發生は或は頗る古いものもあらうと思はるるのである。今この「及」を「および」とよんだ例はいつ頃からあるかと顧みると、續日本記の宣命の中にこの「及」を接續詞的に用ゐたものがあり、それを「と」とよむのは困難なのであるから、恐らくはその頃に既に成立してゐたらしい。或はそれよりも古い時代にあつたかとも思はるるが、その古さの證據はあげられぬ。さてこれは、平安朝の國文の中にも往々見ゆるものであるから、昨今の問題ではないのである。しかし、これはどうしても漢文の訓讀の必要から按出せられて生じた語であると考へらるる。

「ならびに」といふ語は漢語の「並」をも「并」をもよむに用ゐるものである。この「並」と「并」とは稍字義が違ふものであるけれども、國語としてはいづれも「ならびに」とよむのである。これは、接續詞であるが副詞的の意もあるからして「及」と全然同じものとはいはれない。たとへば漢書に、

以㆑此有㆑徳與㆓周衰㆒竝亦必與矣

とある「竝」の字の如きは國語ではそのまま該當すべき語が無いのである。ここに於いて「竝」の字の動詞としてのよみの「ならぶ」をとつて、それの名詞形「ならび」を借りて「ならびに」といふ語をつくり、これをこの「並」の副詞的接續詞的の用法のものをよむに用ゐる語としたものであらう。この語も亦續日本紀の宣命に見えてゐるので、外によみ方もないから、やはり「ならびに」とよんだものであらう。本居翁は「ならびに」とよむのは「漢文よみなり」といつて排斥してゐらるるけれど、漢文よみが、宣命に入つてゐるのは他にも例があるから、あながちこれだけをすつるといふことも如何である。さてこれは平安朝の國文でも大鏡や榮華物語に見ゆるから、これが利用せられたのも一朝一夕の事ではない。

かやうに漢字を直譯して新たな語をつくつたと思はるるものは、副詞に例が稀でない。たとへば、「至樂」「至公」などの「至」の字を「いたりて」とよむが如きものである。さうしてこのやうな詞遣は續日本紀の宣命に既に見ゆるものである。その第六の詔に、

此禪師〈乃〉〈乎〉〈爾〉〈天〉〈久〉イタリテキヨク〈乃〉御法〈乎〉繼隆〈未武止〉念行〈末之〉〈乎毛〉導護〈末須〉

とあるが如きものがその例である。

この「いたりて」は「至」の字に相當する用言の下に複語尾「て」を添へて一種の修飾格の語としたものであるが、漢語の副詞をば、この方式で國語として讀んだものがまだ外にもある。それは

の如きものである。これらはその國語の形からいへば、それぞれ國語の用言の連用形から「て」に行つて、そこで、修飾格になつたものであるからして、法則的に見て國語であることに異議は無いのである。しかしながら、その意義と用法とはそれ〴〵それを導き出した漢語の意義と用法とによるものであつて、純粹の國語といひがたいものである。しかし、又一方から見れば、かやうな事が生じた爲に國語の用格が、擴張せられた點もあるのであるから、漢語の影響で出來、漢語の感じが濃厚だからと云ふ理由で極端にこれを毛嫌ひするにもあたるまいとも思はるるのである。

又「しきりに」といふ語もこの類である。これは漢字では「頻」字を主とし、「連」「累」「荇」などの字をよむのであるが、漢語としては副詞であるのである。それをわが國語に譯するにつれて、「頻」の字の用言としてのよみ方「しきる」といふ語の連用形「しきり」を體言化して、それに「に」を添へて用ゐたものと思はるる。これも漢文の訓讀に主として用ゐらるるものであるが、平安朝末期頃の國文からだん〳〵に多く見えはじむるから、その頃から、汎く用ゐらるるやうになつたものであらう。

さて又、このやうにその漢語にあたる漢字のよみ方を利用してそれを譯し、それの連用形を以て體言化せしめて、それに助詞「に」を添へて、その漢語にあたる國語としてそれを修飾格に用ゐたものが他にもある。それは、

の如きものである。これらも、國語としての法格にはそむいてゐないから、國語であるに相違ないが、その意味と用法とはそれに相當する漢字の本來の意味と用法とをあらはすものであるから、その點からいへば、純粹の國語では無いのである。さやうな點で著しく目立つのは「幸に」といふ語である。この「幸」の字は冀望之詞と註せられてあるもので、李陵答蘇武書に、

 ニ謝㆓故人㆒、勉事㆓明君㆒

とあるやうに「ドウゾ」といふ程の意をあらはすに用ゐる語である。若し「サイハヒ」といふ意が在ると強ひて論じようとすれば、「ドウゾサウナレハ幸ダト思フ」といふ位のことである。それ故にこれを「さいはひに」とよむのは頗る妙な事になるのであるが、直譯語だとして見て、かたづけておけばそれまでの事である。

以上、述べた、「および」以下のものは、その文字の體裁によらないで、とにかくに、よむやうに工夫したものだといふべきものであつて、これらは漢語の爲に新たにつくられた國語といふべきものであらう。

次には本來の國語であるものが、漢文の訓讀に慣用せられてゐるうちに奇妙な變形を生じ、一般にはその本體が忘れられたやうなものをあげてみる。その一としては「所以」といふ文字をよむに用ゐる「ゆゑん」といふ語である。これは現代の文章に、

などのやうにも用ゐられて、いつれも「ゆゑん」とよむのであるが、これはその「所以」の二字をば、縁故、理由などをいふ一種の名詞としたことは碓かであるが、これを「ゆゑん」とよむ時、その「ゆゑん」と末をはねてよむ事はただ奇妙だといふに止まるべきさまである。貝原益軒の點例に之を説いて、

所以ノ二字古書ニ故也ト註セル事アリ。此ユへニ古點ニヲシナヘテユへント訓セリ、ユヘントハ故ナリ。シカレトモ故トヨムヘキ處ハ甚マレニシテ故トヨムヘカラサル處多シ。シカレハイツクモユヘントヨムハ誤ナリ。處ニヨルベシ。

とあるが、この説を先づ正しいとせねばならぬ。それ故に「所以」はいつも「ゆゑん」とよむ譯でもないが、この「所以」は漢文には頻繁に用ゐらるるものである。「所以」を「ユヱン」とよむは「ユヱ」から轉じたものであることはいふまでもあるまいが、「ン」と末をはねた理由はこれだけではわからぬ。倭讀要領には、

ユヘンハユへニトイフコトナルヲニノ字ヲハネタル者ナリ。昔、倭語ノ讀ヲ始ケル人善ク思惟シテ此二字ヲユへント讀メリ。サレバ文ノ中ニテユヘント讀テ通ズル處多シ。

と云つた。その他、諸家の説が少くないけれど、今は省略するが、これは「ユヱニ」といふ「ニ」助詞のついたままのものが、轉じたものでなくして、必「ユヱナリ」といふ場合即ち、「ナリ」につゞいた場合のもののよみくせから生じたと思はるる。それは「ナ」の頭音の同化作用で「ユヱナリ」が「ユヱナリ」となつたものが、いつしか「ゆゑん」が一の名詞の如くなつて遊離したものと思はるる。これは純粹の國語が漢文の訓讀によつて、形の變化を生じた例の一である。

なほこれに似たものに「件」といふ語がある。これは古代の公文書から近世の證文などに用ゐらるる語であるが、誰人でも知つてゐるのは「如件」といふ語で、それらの文書の終におくものであるが、その「如件」を「くだんのごとし」といふによつて、俗人は多くは「件」を「くだん」といふ字だといひ、その意義を問へば、茫然として答ふる所を知らぬ有樣である。これは元來、事物の數をかぞへるに用ゐる語であつて、國語では「クダリ」といふ語をあてたのであるが、「如件」は「クダリノゴトシ」といふのが正しいのであるが、いつの頃よりか音便で「くだんのごとし」といふことになつたのを「件」を「くだん」とよむもののやうに誤解せられたものである。これらは別に漢文の訓讀の爲に生じた訛といふものではないが、專ら漢文の訓讀の際にのみ用ゐた所より生じたものであるによつて、ここにあげておいた。

なほこの外に、いふべき事も無いではないが、ここで一先づ段落をつけておく。

七 結論

以上、述べ來つた所は極めて概略であつて、一々の證據の如きは大抵省略し去つたのであるから、説く所は甚だ抽象的で、讀者諸君に何等の満足を與へ得なかつたことと思ふ。他日、これが具體的のものを諸君の許に呈したいと考へてゐる。

以上の如く種々の方面から漢文の訓讀が國語の上に影響を與へてゐると思はるるのであるが、今これを國語の語遣の上に局限して考へて見る場合に於いても、その影響は決して單純では無いと考へらるる。今それを概括して考ふるに、大體次の如く三樣に考へらるる。

一、漢文の訓讀によつたが爲に、古代の語遣の現今にも傳はつてゐるもの。その例、
ごとし    いはゆる    しむ
いはく    おもへらく
ねがはくは
あるいは(これは上に説明を略した)
二、それにあてた漢字の意義性質より感化を受けて、語は變らないけれど、意義性質の上に、國語の上にかつて無かつた語遣を生じたこと。その例、
すでに
いまだ
これあり   これなし の類
提示語再歸法の代名詞の用法
ところ    あひだ の類
かつ     かつて     以て の類(これは説明を略した)
三、それにあてた漢字の訓讀からして、國語の上にかつてなかつた語遣を生じたもの。その例
および    ならびに
しきりに   幸に の類
はたして   きはめて    こぞりて の類
ゆゑん    くだん

以上の如くにして、これが普通文の語遣に影響した點は頗る大なるものがあるから、現代の普通文の語遣はこの漢文訓讀の語遣より影響をうけて生じたものが多々あることを知らねばならぬ。この點を認めないでは現代の普通文は十分に了解することを得ないものである。隨つて、はじめにも云つたやうに、現今の普通文の文法を以て平安朝の語法によるといふが如きは全く誤であるといふことが出來ないのは勿論であるが、しかし、さやうな見解は決して正鵠を得た見解であるといふことが出來ぬ。之を以て、私は現今の普通文の文法の研究は現今の状態よりも一層深く、これらの方面に立ち入つて行かねばならぬものであることを思ふものである。

それについて、ここに現今の普通文の性質とそれに影響した漢文の訓讀の位置といふことを一往考へておく必要を感ずるものである。現今の國語學者は西洋人の口眞似をして我が國の文語といふものを先祖代々のかたきであるかの如き態度をとつてゐるのは實にけしからぬ事であると思ふ。彼等は現今の文語といふものを何と考へてゐるのであるか。彼等は恐らくは文語をば何と考へてゐるかと質問せられたならば、茫然として答へる所を知らぬのでは無いか。私は敢へてこれを宣言する。今日の文語といふものは國家の公式の文章を記載する言語である。この文語を侮蔑するものはこれ大日本帝國の公式の文章を侮蔑するものである。吾人大日本帝國の臣民として、この公式の言語を侮蔑せられてだまつてゐらるるか。實にかやうに文語を輕侮するの徒はゆるし難いことである。私が公の著書に謹んで文語を用ゐてゐるのは、公式の語として公に天下に向つて宣べることであるからである。以上の言はここに直接の目的として必要でないやうであるが、文語が公式の言語であるといふことを認めないものには、この文語に漢文の訓讀の著しい理由を認め得ないであらうからして、これを明かにする爲に豫め一言したのである。さてわが國の文章の歴史を見ると、ここに又世人が大に誤解してゐる點を見るのである。世間の文章史といふものは、主として遊戯文字文藝上の著作の文章をのみ論じて、公私日常の生活を支配してゐる文章を説かぬ。公私日常の生活を支配してゐる文章といふものの人生に及ぼす勢力といふものは、遊戯文字や文藝のやうな生やさしいものでは無い。文藝家ならばいさ知らず、國語全般にわたりて研究すべき學者が、國民の實生活に直接に關係する所の文章を顧みないのは奇怪といふより外にいひ樣の無い事である。それはさておき、朝廷の公文書は大化改新以來、明治維新の頃まで、漢文であつたのである。隨つて、朝廷の内外に於いて公文としては漢文を用ゐられた。中には漢文と目するに躊躇しなければならぬ程拙劣なものもあるが、しかし、漢文が公式の文であるといふ精神は失はれなかつた。それで江戸幕府は候文を以てその公式の文としたけれど、しかし、それは武家の内部のことであつて、國家の公式のものは漢文であつた。かやうにして漢文の調子や、語遣といふものが、それら公式の文書に存し、又はそれらに基づけて書いた文章が自然に漢文の口調になつたのは當然である。明治維新以後は漢文が公文書の本體となることは自然に消滅したが、この漢文の口調に基づいた漢字交り文が公文書の本體であるにはかはりが無いのである。かやうにして今日の普通文なるものが、國家の公式の文體となつてゐるのである。

以上の事實を考へてくれば、普通文に漢文の訓讀に用ゐられてゐる語法が著しく勢力を有してゐる理由がわかるであらう。これがわかると同時に、この漢文訓讀の語法が、普通文に保存せられてゐる理由を知ることが出來るであらう。しかも、それは漢文の訓讀が、ただ大勢力を有して普通文を支配してゐるのでなくて、朝廷の公文として漢文がたえず、國家の公式の生活の上に勢力を有してゐたから、常に觸接を保ちつゝ影響を及ぼして來たものであることを忘れてはならぬ。この事を忘れてしまふと、千年以前の語法が、卒然として漢文の影響によつて普通文にあらはれたかの如くに思はれ易いことである。今、この關係をわかり易く示すと次の如くになる。

かやうに三者が、密接にして離れ難いものであるから、上述の如きことのあるのは當然のことである。

更に飜つて考ふるに、漢文の訓讀の歴史はその背面に文化の歴史を有してゐるものである。即ち點發を加へて訓點を示す方法から、捨假名を加ふる法にうつり行かうとする、その時代の來らうとする前にあたつては、必す先づ、簡便な假名の成立するものが無くてはならぬ。さて假名の成立は捨假名の工夫を起さしむる所以であるが、それが簡にして明かであるといふ便を感ずる以上、如何に博士家等で、舊法を維持しようとしても、世の進運は必ず之を用ゐさせず、早晩その簡便な捨假名法に謳歌するに至ることは必然の勢である。これ即ち人智發展の史的事實を背景としての漢籍の訓讀法の歴史の一面である。更に又漢語を用ゐても常人には意味が直ちに通じない時代に在つては勢、訓讀をも之に添へなければならぬのである。しかし、又一旦漢語が日常の用語の中にも入り、之を用ゐることのわが國語感を害しないものであるといふ信念が一般社會に採用せらるるに及んでは、また音訓併用の煩雜な手數をかくるにも及ばないことになる。徳川幕府時代中葉以後は即ちこの感の一般に承認せられた時代である。それ故に、私はこの些々たるもののやうに見ゆる漢文の訓讀の上にも隱微な社會人心の發動が卜せらるるものであると主張するのである。

それ故に漢文の訓讀の歴史は文化史の一面として忘却することの出來ぬものあることはいふまでも無いけれど、私はここに説かうと欲する他の一面をも見る必要を感する。

漢文の訓讀の上に變遷があり、又その變遷が國民文化の發展を動力とすることは上述の如きものであるけれど、その全體を通じて古今一貫の主義があることを認むるのである。その主義といふのは漢籍をよむのは、その意義をよむといふことにあつて、その語を學ぶといふことでないといふことである。即ち漢籍を訓讀するといふことはそれを國語に譯してよむといふ意義であつて、國語を以て漢籍を讀むといふ意味である。この故に、國語感の變遷と訓讀法の變遷とは常に雁行するものである。この點について見れば、古來の漢籍の訓讀と現代の西洋語學の學習とは根本に於いて著しい相違が在るのである。漢語を廢止せよといふ聲が盛んであつても、漢籍の流行に大なる影響が生じないのはこの爲である。漢籍の訓讀法は實際に漢語が排斥せられたならば、また面目を一洗することを辭しないものであらうが、現今の状況ではそれはいふべくして行はるるものでは無い。漢籍の流行を阻止する上に大なる影響を與へ得べきものは古代支那文化の排斥にあるべきである。この事が行はれない以上、漢籍の流行はわが國では阻止せらるべきものではない。更に又考ふるに、若し、この訓讀法を改めて、現今の西洋語の學習の如くにしたならば、これ即ち國語と絶縁して純然として漢語讀誦の方便に供せらるるものとなり、ここに一般人と交渉することが少くなり、かくて漢籍は國民文學より排斥せらるるに至るであらう。しかしながら、かやうな事は今日ではもはや實施の出來ぬ勢になつてゐる。

今、顧みれば、漢語漢文のわが國に入つたことは、二千年の昔といはねばならぬ。その間に國語がその漢語漢文から受けた影響は頗る大なるものがあつたであらう。この短篇に述べた所の如きは眞にそれらの一部分に止まるのであらう。しかし、本篇に述べた點は國語の生命ともいふべき語遣の上に及ぼした點であるから、これらの點が最も重要なものであらうと思はるる。

底本
國語科學講座、明治書院、1934年