因明より出でたる通用語(下)

次に「むたい」といふ語にうつる。この語は大言海には「無代」「無體」と書いて「ナイシロ(蔑)を音讀したる語ならむ、多く當字に無體など書す」と説明してないかしろの意とし、次に何等の読明も無く「侮り強ふること、暴爲」と説いて例も無い。こゝに「暴爲」といふ字面があるけれども、私にはその意味もわからず、又そんな熟語の存するか否かを知らない。我々の今用ゐてゐる「むたい」はパジェスの和佛辭書に

とあるが如き意味のものである。

ここに江戸時代の用例を見る。卜養狂歌集に「盃のさすて引くてに歌よめと是そまことのむたい三寳」とある。その最も多くあらはれてゐるのはやはり淨瑠璃である。近松の作では

その他にも甚だ多いが、これ位に止めておく、その他の淨瑠璃には、

などあり、その外文耕堂、長谷川千四の鬼一法眼三略卷、壇浦兜軍記、文耕堂、三好松洛の敵討襤褸錦、並木宗輔等の苅萱桑門筑紫𨏍等に頻繁にその例を見る。

散文にも、俗文には屡見る。例へば

とある。

以上は多くの例には「むりむたい」「無法むたい」といふ例もあり、又平家女護島には「無理千萬」「むたい千萬」と重ねていうてゐる。而して假名書で無いもめは皆無體の文字を用ゐてゐる。この語の用法は「無體に」「無體の」「無體な」「無體なる」などどあるからその性質は副詞であるが、又これを體言の資格に準じて「無體をいふ」「無體はさせぬ」などといふ。そこで壽の門松(上)に「忝もくはんむ天王無體むたいのこういん攝州津の國服部の住人葉屋の彦介」などいふ駄酒落も出て來るのである。

以上の多くの例はいづれも無理無體とか、無法無體とかつづく通り、無理無法の意味には近いが、「ないがしろ」といふやうな意味はあるとも考へられぬ。

さて淨璃などより溯ると、甲陽軍鑑(九下)に信州戸石城合戰之事の條に「一入いれて二の手よりがくかんじさいはいを取てむたいにかゝる。」とあり、三河物語(上)に「城をむたい責にしても負ける」とある。更に溯れば太平記や源平盛衰記の卷頭に添へて傳へてゐる劔卷には、太平記古寫本のものによると平假名書で

出雲の國にてすさのをのみことにがいせられたりしやまたのおろちあまくだり、むたいにいのちをうしなはれ、つるぎをうばゝれしいきとをりさんぜず、いまやまとたけのみことのたいして東ごくにおもむきたまふをせきとゞめてうばひかへさんそのためにどやじやとなりてふはのせきのおほちをふしふさきたり。

とある。これを水戸彰考館の長祿四年の古寫本にも普通の版本にも「無體ニ」と書いてある。この場合には「無いがしろ」の意味では通じない。屋代本平家物語に附せられた劔卷には「無道ニ命ヲ失ハレ劔を奪取レシ事」と書いてある。即ちこれは無理とか無法とのいふ方の意味であらうから、他の本が「無道」とも云つたのであることは爭はれない。

以上の用例はいづれも「ないがしろ」などと考へらるゝ餘地の無いものである。然るに多くの大なる辭書がいづれも「ないがしろ」の意が基だと説いてゐるのはどうしたことなのであらう。

さて以上の例から更に溯つて太平記に至ると「無代」と書いた字面が少からず見ゆる。その卷十五の建武二年正月十六日合戰事の條に

其上赤松筑前守僅の勢にて下松に引へて有つるを無代に討せたらんも可㆓口惜㆒。

卷二十九の阿保秋山河原軍事の條に

忠實も情ある者也ければ、今は秋山を討んともせず。剩御方より射矢を制して矢面にこそ塞りけれ。かゝる名人を無代に射殺さんする事を惜みて制しけるこそやさしけれ。

同じ卷の師直以下被誅事の條に

縱運命盡なば始終こそ不叶共、心を同して戰はばなどか分々の敵に合て死せざるべきに、一人も敵に太刀を打著たる者なくして切では被落、押へては首を被掻、無代に皆討れつる事天の責とは知なからうたてかりける不覺哉。

とある。これらの「無代」の語をば前述の劔卷と共になつてゐる古爲本には

むたいにうたせたらんもくちおしかるべし。(卷十五)(清濁原本のまゝ爾下同じ。)

かゝるめいじんをむたいに射ころさんずる事をおしみてせいしけるこそやさしけれ。(卷二十九)

むた口にみなうたれつる事(同上)

とある。即ちこれは「むたい」といふ語であり、それを「無代」と書いたもので「代」の字の本義を以て書いたものかどうかは疑はしい。而してそれらは皆「むたいにうたせたらん」「むたいに射ころさんする事」「むたいにみなうたれつる事」とあつて死といふことに關して云つてゐる。これらは無法といふのとは稍意味が違ふ感じはするが、「ないがしろ」といふ語にあたるとしては文章の意味が通らない。即ちやはりこれは音で「むたい」とよむべき語であつたであらうし、それが、上にあげた「無體」の字で示された語と同じ意味であつたらうと思はるゝのである。

しかしながら「無代」といふ字面は「ないがしろ」とよみうるものであり、同時にまたさう讀んだ證據もある。室町時代の辭書たる温故知新書十の複用門に「無代ナイカシロ」とある。即ち「無代」は「ないがしろ」にあてた字だといふことが明らかだけれど、太平記の諸例は「ないがしろ」の意味ではあてはまらない。

「無代」を「ないがしろ」の語にあてた例は源平盛衰記に頻繁に見ゆる。即ち

とあるが、これらは明かに「無いが代」といふ意味で記述したのであり、又「ないがしろ」といふ語を語の意のまゝに漢字をあてたる時に「無代」となるのは寧ろ自然の事である。然るに流布本にいづれも「ムタイ」といふよみ方を旁に加へてある。これが恐らくはむたいといふ語が「無いがしろ」の字のあて字の音讀だらうといふ説の生じた基であらう。こゝにこの流布本の旁訓旁注の正しいか否かを吟味する必要がある。

流布本の盛衰記の旁訓旁注は頗る誤りの多いもので、この流布本は俗書として排斥すべきもので、初學者を惑はしむることが極めて多い。その例の一二をいはう。卷四十二、那須與一扇的を射る事の條に平家の女房達がかたづを呑みて之を注目してゐる事を敍して、

國母建禮門院北政所方々の女房達御船其數漕並、屋形々々の前後には御簾も几帳もさゞめけり。袴温卷の坐までも楊梅桃李とかざられたり。

とある「温卷」に「あげまき」とわざ〳〵假名をつけてある。この旁訓は何によつてつけたのかその理由は分らず、何故に「温卷」と書くのか、「あげまき」とよむ理由如何、又「あげまき」といふものは如何なる物であるかを頗る長い間かゝつて謂べて見たが如何にしても、一切がわからぬのであつた。それで果してこの訓が正しいか否かを顧みると、古い盛衰記にかやうの訓はなく、版本でも慶長元和頃の活字本には訓が無いのを知つた。然るに、内閣文庫の活字本を見ると、ところ〳〵に墨書して訓をつけてあり、その「温卷」に「アケマキ」と訓してあるのを見てその由來を一往はさとつたが、さりとてその温卷の字面と「あげまき」との連絡、又「あげまき」といふものゝわからぬことは上に述べた通りである。そこで熟考して見たが、「温」を「あげ」といふこと如何にしても縁の無いものなるを考へた。元來この「温」は温湯の義で、類聚名義抄に温室に「ユヤ」の訓があり、色葉字類抄も同じく「ユヤ」としてある。太平記十三、北山殿謀叛事の條には、西園寺公宗の後醍醐天皇を弑せむとたくんだ浴室を「温殿」と書いてあるのを「ユドノ」と振かなしてあるのは誤では無いと思はるゝ。さやうに「温」即ちであると認むる時に「温卷」は「ゆまき」に相違無いと思はるゝ。同じく扇的の事の平家物語の文には「南無八幡大菩薩、別しては我國の神明日光權現、宇都宮、那須湯泉大明神云々」とある。この湯泉大明神は今湯本の湯前明神といふ神で、延喜式に載する温泉神社である。これを「ユゼン」とよみ馴して來たから「温泉」「湯前」「湯泉」といろ〳〵に書いたのであらうが、こゝに「温」の字を「」にあてたことが當時行はれたことを知り、それにつれて「温卷」即ち「ゆまき」とよむべきことを悟り得たのである。この「ゆまき」は普通に湯卷と書いた。平家物語卷十、千手前の條に「齡二十許なる女房の色白う清けにて誠に優に美しきが、目結の帷に染附の湯卷して湯殿の戸を推開て參たり」とあるのが著しい例である。この湯卷はもと湯殿に奉仕するものゝ下體を包む爲に裳の如くにつけたものであるが、鎌倉時代から袴の如き女子の公の服装の一となつたのである。法然上人行状畫圖の繪に見る如くに袴を着けたものと同時に居る場合には、その袴をつけた女房よりは一段下つた身分の女のつけたものであることを見るのである。こゝに於いて「袴温卷の坐」とあることの意味がわかる。又盛衰記卷三、資盛乘會狼籍事の條に「居飼御厩舍人等車より下へき由責けるに、」又「居飼御厩舍人等平大納言重盛の許へ召渡されけり」とある居飼を二所共ウシカヒと旁訓してある。しかしこれは、「ウシカヒ」といふのではなく、「ゐかひ」といふ職で、院などの別當の下に屬して牛などを預り飼ふ職であることを知らぬものゝ妄りなるわざである。その他、その旁訓の妄りなることは卷四の鹿谷酒宴靜憲上御幸事の條に「面々咲壺の會也」とある「咲壺」は「ゑつぼ」のあて字なるを知らずして「ゑみつぼ」と假名をつけたるなど、かやうな僻事が頗る多いのである。それ故に盛衰記の流布本のよみ方は必ずしも信用すべきものとは思はれぬ。

そこで盛衰記にある「無代」の二字は、温故知新書が示してゐる通りに「ナイガシロ」とよむべきは明確にして動くべくもなくなつた。この語は倭訓琹に

ないかしろ、蔑をよめり。無が代の義、如無の意也。俗にないがしろとといへり。秦誓に脅㆑權相滅ナイカシとあるも滅蔑と同じ。源氏枕草紙などに衣のしどけなき體にいへり。

とある如く、國語の意にまさしく當つてゐるのであるから、漢語では無いけれども正しい字面であるといはねばならぬ。これを「ムタイ」と音讀したのは流布本の盛衰記を刊行したものゝ杜撰にしてとるに足らぬものである。

かやうにして盛衰記には今いふ「むたい」といふ語の例は無いのであり、「ないがしろ」にあてた「無代」の字の音讀に基づくといふ説はとるに足らぬことが明かになつた。太平記の「無代」は「ないがしろ」といふ意は無いから後の「むたい」に近いものと思はるゝが、「無代」の字面はその意を得ないのであるが、近世の文獻には往々「無體」といふ字面を用ゐてゐる。この字面は如何なる意味を示すものであらうか。次にそれについて考へてみる。

「無體」といふ字面は漢籍にある。禮記に、

子夏曰、敢問、何謂㆒三無㆒。孔子曰、無聲之樂、無體之禮、無服之喪、此之謂㆓三無㆒。

とあるのが最も著しい例であるが、それは形體の無いといふ意味でこゝにはあてはまらない。漢籍にいふ無體の語は略このやうなものであるから、無理とか無法とかいふ意味での無體とは別の意味である。次に佛典に用ゐる「無體」といふ語がある。これは二樣の用法がある。一は法相唯識にいふ所のもので、他は因明にいふ所のものである。權田雷斧は曰はく、

因明の法は許す所の法を有體と云ひ、所不許の法を無體と云ふ。性相の有體無體と混ずること勿れ。

といふ。こゝにいふ性相とは性相學又は法相學の意味で、諸法の自體と其の相貌義理を説く學即ち倶舍成實等の小乘瑜伽唯識等の大乘の諸論をさすのである。即ちこれらに於いては實體あるものを有體とし、有部宗には七十五法を立て、成實宗にては八十四法を立て、法相宗にては百法を立てゝ有體の法とし、このうちには「有形の物質」「無形の心識」「因縁生の有爲法」「非因縁の無爲法」を含むとし、眞如即ち涅槃をその有體にあらざるもの、無體といふ。即ち實體無しといふことにして、佛者は之を無實の體性といふ。體とは物の實質をさし、その體の改まること無きを性といふ。即ち體性の實の無きを無體といふのである。俚言集覽に無體を釋して「愚案(首楞嚴經疏)龜毛菟角畢竟無體」の例をあげてゐるが、これは所謂性相の無體であつて、通俗にいふ實體の無いといふのとかはらぬのであるから、今、我々の問題にしてゐる「むたい」の意味にはあはない。

因明にいふ所の無體の意味は三十三過本作法に

我云法ニシテ㆓言詮㆒因云㆓有體㆒

我不㆑言法無㆓言詮㆒ テ云㆓無體㆒

とある。こゝに有體無體といふはその因についての區別である。即ち言詮ある因が有體であり、言詮の無い因が無體であるといふ。言詮とは「言語は義理をアラはすものである」といふのである。即ちその言が義理を詮はすか否かによりて、無體の因有體の因の區別をするといふのである。なほこの本作法の語に對しては因明犬三支には

立敵倶ニ有リト意得ル名目ヲ因ニ用ルヲ有體ト云フナリ。立敵倶ニ許サズ有リモセヌ名目ヲ因ニ用ルヲ無禮ト云ナリ。

と説いてをり、池原雅壽は、

敵者ノ許ス言詮ヲ因ニ用ユルヲ有體ト云ヒ、然ラサルヲ無體ト云フ。

と釋してゐる。これらの説明により權田雷斧の「許す所の法を有體と云ひ、所不許の法を無體といふ」と読いた意昧を知ることが出來るであらう。

なほその有體無體の意味を仔細に見るに、三十三過本作法にはその過失に無體闕と有體闕とありといふ。その宗因喩の三支に於いて或は宗を陳べて因を擧げざる等三支互に缺けた所ありて不具足なるを無體闕といふのである。又宗の過のうちに三の不極成(能別不極成、所別不極放、倶不極成)といふことがあるが、これはいつれも「唯無體」即ち立敵不共許の言陳の上に生する過失をいふのである。因の過のうちに四の不成といふことがあり、そのうちに無體の不成と有體の不成とがあるのである。それは本作法に

因十四者、 ハ兩倶不成〈有體無體/全分一分〉

とあるが、因明大疏に

有體全分兩倶不成  無體全分兩倶不成
有體一分兩倶不成  無體一分兩倶不成

とあるのを總括して云つたのであるが、上來委しく説いた有體無體の説明はこの因の過の不成の場合の解説として用ゐた言を私がとり出して示したのである。かくの如くにして因明には因を吟味するにも宗を吟味するにも有體無體の差別を十分に心得てあらねばならず、而して無體は如何なる場合にも過失を生する源となるものであることはこれ以上もはや言詮を要せぬであらう。

さて、かく考へて來て、上にあげた三河物語、甲陽軍鑑、以下江戸時代の文藝作品にある「むたい」といふ語は皆因明にいふ「無體」即ち言詮即ち主張すべき道理も理由も無くして行動することを説くに用ゐたものと考へらるゝ。更に溯りて平家劔卷にいふ所も同じ意であることが明かである。太平記にいふ所の例は今我々のいふ所の無理無體といふのとは稍趣が違ふやうであるが、しかも「強ひて」とか「無意味に」とかいふ意味であるからしてやはり言詮なきことの義に相違無い。即ち「無體」といふ語が「無意味に」といふことゝ「無理に」といふことゝの二面に展開しその「無理に」の意味のものが、今日にも用ゐられてゐるのであらう。かくして我々は因明の外に、この語の源を求めても得られないことを知るのであるが、それと共に「無體」といふ字面があて字では無くて正しい熟字であることの一點の疑も無いことを覺るであらう。

我々は又屡「隨一」といふ語に出あふことがある。これは音讀の語であるから漢語であらうことに疑が無い。しかしながら、普通の漢文にも漢詩にも用ゐないやうである、因明にはこの語が頻繁に用ゐらるゝ。これは必ずしも因明特有の語では無く、性相學の上には汎く用ゐられたものである。たとへば、瑜伽論第二に「人中隨一有情」又順正理論第五十に「六境中隨一攝故」とあるが如きその例である。しかしながら因明に至つては因明入正理論に「不成有㆑四、一兩倶、不成、二隨一不成、三猶豫不成、四所依不成」といひ、「所作性故對㆓聲顯論㆒隨一不成」といふ。この隨一不成に就いて因明家のいふ所を見るに犬三支に

隨一不成トハ能立ノ因カ立敵ノ中カ何レカ一方許サヌ義分ナレバ不隨一成トナルナリ。例セハ自受用智ノ有爲無爲ヲ講師ガ自受用 シ㆓無 ナル㆒、理智冥合スルガ故ニト云ヘハ難答共許ノ義ナルヲ無作ナルガ故ニト云ヘバ講師ノ方ハ全修而性ナリト意得レバ無作ト云フコトヲ許セトモ難家ノ方ハ自受用ハ修證ノ功用アリト意得テ無作ナリト云フコトヲ許サザレバ隨一不成トナルナリ。

と云つてゐるが、これは佛者專門の語で述べてゐるからわかり易くない。三十三過本作法に曰はく、

 ク勝論師對㆓聲顯論師㆒立㆓聲無 ナルヘシ所作性故㆒時、聲顯論 ハ聲不㆑云㆓所作㆒。對㆓不㆑云㆑爾人㆒用㆓此因㆒故不㆑許㆓其因體㆒故云㆓隨一不成㆒也

といひ更に

問、何故聲顯論師不㆑云㆓所作㆒耶。答、聲顯論師云㆓聲隨㆑縁顯不㆓生物㆒而所作者是生義也。聲顯論師不㆑許㆓此所作㆒。故立敵兩中一成、一不㆑成隨故云㆓隨一不㆒㆑成也。

と云つてゐる。即ち、立敵兩者の中の一を隨一といふのである。村上專精に曰はく、

隨一不成トハ立敵二者ニ於テ孰レカ一方ニアリテハ宗ヲ成立スルコト能ハサル僞因ニ名ケタモノ也。

と。權田雷斧曰はく

隨一とは他の敵者にまれ、又自の立者にまれ隨ひて其の一りを隨一といふ。

と説いてゐる。

以上の如く隨一とは幾つかを一括していへるうちの一つをいふのである。その用例の適切なものを見るに黒川道祐の日次記事に、

なほ延寶三年著の蘆分觸を見ると、「逢坂の清水、此清水は天王寺の三水の隨一なりと申傳へり」といひ、天王寺の記事には「當寺には三水四石とて七不思議とせり」といひ、又「龜井の水(中略)是又三水の隨一と也」とある。これも隨一といふのは三水のその一といふ意を示してゐる。又天野信景の隨筆鹽尻をみると卷六十に「嗚呼法印(前田玄以)は豐臣家の三奉行の隨一として當時威勢を天下に振へり。」とあり、卷六十七に「頭護山如意寺を尋はへる(云々)尾張六地藏の隨一にてまします。」ともある。これらも三奉行六地藏のそのうちの一つであるといふのである。

かくの如く「多くのうちのその一」といふ意が隨一といふ語の本義であつて古來かやうに用ゐて來たのである。法然上人行状書圖卷十四に顯眞法印の事を敍せる文に

又十二人の衆を定めをきて文治三年正月十五日より勝林院に不斷念佛をはじめをこなはれしに法印は十二人の隨一にて戌剋をぞつとめ給ける。

太平記卷三十九諸大名讒高經入道道朝條に

次に將軍三條坊門萬里小路に御所を立られける時、一殿一閣を大名一人宛に課て造らせらる。赤松律師則祐も共人數たりけるが作事遲くして期日纔に過ければ法を犯す咎ありとて新恩の地大庄一所沒收せらる。是又赤松か恨を含む隨一也。

とある。これらいづれも、多くある、そのうちの一つの意であることは明白である。又尾崎雅嘉の蘿月菴國書漫抄卷二に魔佛一如の圖と標して繪は經隆、書は慶雲といへる繪卷の文を引いてゐる。そのうちに

金剛界にては伊舍那天これ魔界の上衆として、みな大日の勅をうけて外部の天衆となり、胎藏界にては第四重の曼荼羅、釋迦眷屬の聖衆なり。魔界の能因の業は憍慢我執の心也。然るに慢心これ慢清淨菩提とあらはれて、十七尊の隨一也。

とある。これもまた「その一」の意である。

隨一の本義は以上の例でも明かである。それ故に佛教大辭典には

多數ある中の一を云ふ義なり。俗に隨一を以て第一の事と解するは不可なり。

とあるのである。

明治以後の普通の國語の辭書でその本義を心得てゐるものは稀で、山田美妙齋の日本大辭書に「ずゐいち(隨一)(一)ソノ一(二)第一―サケガケ(善惡共二)」とあり、藤井乙男草野清民の帝國大辭典に「ずゐいち(隨一)(一)その一をいふ、(二)第一番にさきがけするといふ」とあるは稍正しい方である。(たゞ帝國大辭典の「隨一」の文字は誤でありその轉義の方をわざ〳〵さきがけと云つてゐるのは行き過きである)又大和田建樹の日本大辭典には「ずゐいち、隨一、其中の第一」としてゐる。これは「其中の」と云つたのは誤ではないが、「一」を第一とした所に原意を知らぬことを示してゐる。その他は、高橋五郎のいろは辭典に「ずゐいち、隨一、第一、このうへもなき」と云つてゐるやうに原義を全く顧みないものであるが、大言海が「粹一の轉か」と云つてゐるのなどは最も劣つた見解であらう。

隨一を第一の意に用ゐるとしたのは明治時代からの辭書につきまとうてゐるが、この樣な用例はいつ頃からあるであらうか。西鶴の男色大鑑卷六「姿は連理の小櫻」のはじめに

天竺の荷葉、大唐の牡丹、和朝の小櫻、是を花の隨一と定め、詩歌遊興の基なり。

とある。これは「第一」の意と見る。この書は貞享四年の序があり、同年の出版であるから、その頃既にかやうな用例が生じてゐたのである。又仙臺大矢數(延寶七年)に西鶴の贈つた獨吟の發句には

ひろまるや三千世俗隨一花

とある。西鶴が第一の意に用ゐたことは明かである。近松の淨瑠璃では平安城(一)に「もろこしの伏義神農はかほはせ鬼畜のことくなれとも三皇五帝の隨一たり。」とある。これには不審がある。三皇には諸説があり、ここにいふ所は伏羲神農黄帝をさすことは明かであるけれども、伏羲と神農とは二人であるから隨一の語義に合致しない。若しこれを二人だと考へたとすれば、それ〴〵が各「隨一たり」といふことで原義によつたものとすべきであらう。若し、これを一人の名と誤つたとすれば第一の意に用ゐたともいひうるであらう。他の近松の著を見ると、關八州繋馬(三)に

しらばりの障子をさつと血に染めて朝敵將軍太郎一昧の隨一ずいいち出羽冠者源の頼平を江文宰相爲成一の太刀を討たりと高らかによばゝつたる。

とある。これは上文に「其時某將軍太郎良門が副將軍出羽の冠者頼平と名乘て云々」とあるから、第一の意であることは明かである。之を以て推すに、伏羲神農を一人の名として第一の意に用ゐたものと思はるゝ。他の淨瑠璃では、ひらかな盛衰記に「木曾殿御内に四天皇の隨一と呼ばれし樋口の次郎兼光討死との沙汰も無し。」とある。木曾の四天王とは今井兼平、樋口兼光、楯親忠、根井幸親であるが、こゝの文だけでは其一か第一か明白で無い。然るに下(三)に「忠義に凝つたる樋口が風情ふぜい、兼平巴が頭をふまへ木曾に仕へし四天王其隨一の武士もののふと世に名を取りしもことわりなり。」とあるので、第一の意として用ゐたことは明かであらう。又信濃源氏木曾物語に

頼朝御らんじいかに小彌太、なんぢは木曾が郎等の中四天王の隨一とあさなをよばるゝさふらひが人一番にさまをくゞりおちうせたる臆病さよとの給へば。

とあり、その他の淨瑠璃では

とあるなど皆第一の意に用ゐてゐる。

散文では立川焉馬の歌舞伎年代記に例が多い。卷二享保十四酉年、「此春門之助絡る」の下に

頭取日(中略)當曾我に團三郎のお役、此世の見納め、扨も〳〵残念のいたり、又あるまじき若葉の隨市川の門は娑婆の門出。

とあるのは市川にかけたのであるが、「隨一」を第一の意にしたと思はるゝ。又卷三、寛保元酉年市川海老藏忰團十郎大坂へ登る條に

大坂にて江戸役者の隨一、さぞかし花やかなる乘込と思ひの外履齶の旅姿もめん合羽着て、佐渡島長五郎のもとへ行ける。聞人その花麗ならさることをほめけるとかや

又卷五、明和八卯年森田座「葺換月吉原」の説明のうちに

大詰に四役くりから不動の靈像まで當顏見世隨一の大當と評判あり。

とあるのも同樣である。

以上、「隨一」を第一義としたのは轉義のものであるといはねばならぬ。どうして第一の義に轉じたのかはなほ研究すべき點として殘つてゐるが、かやうに轉じたのは貞享の頃に既に例はあるが、それよりも古い時代にあつたかどうかこれも一の問題である。しかも、貞享の頃からその轉義のものだけで原義のものは行はれなかつたかといふに、田次記事は貞享二年の版行であつて、その以後のものでは未だ見ない。即ち貞享の頃が、原羲と轉義との交代の時であつたかも知れない。

以上の如くであるから「隨一」を俗に第一に用ゐてゐるといふ説明は必ずしも咎むべきでは無いが、それは必ず原義をあげて次に轉義に及ふべきあらう。然るに、その原義をあげすして轉義の方をだけ説くのは、辭典として不親切なものであるのみならず、學問的には人を惑はすものである。ことに大言海が「粹一の轉かと云ふ、第一、さきかけ 魁」と云つてゐるのは最も不可であるといはねばならぬ。言泉に「多くの物事のうちの第一、さきがけ」と云つてゐるのは「隨一」の原義を少しく存してゐるけれども、それでも、日本大辭典の「其中の第一」と云つてゐるのには劣つてゐる。「隨一」の「隨」は既に知られたる中のうちに於いての事を示す意を失はない。その轉義した點は一個の意であつた「一」を第一の意にしたことにあるのである。

以上、私は「りつぱ」「むたい」「ずゐいち」の三の語について、それらが因明の語から轉じて日常通用の語になつたものであらうといふことを説いたのである。以上の外に、「相違」なども因明の力で一般にひろまつた語と思はるゝ。もとより相違の熟字は漢書などにも見ゆることであり、十訓抄第九の「可停懇望事」にも

たとひ理運の事の相違もいでき約束の旨の變改あるにても云々

などの用例もあるが、因明では現量相違、比量相違、自教相違、世間相違、自語相違など、宗の過九つのうちに五つまでも相違の過といふことを論じてゐる。それが爲に四種相違を特に詳論した書までもあるのである。しかしながら、これは因明特用の語ともいはれぬから、今は論じない。

私は今、上にあげた語どもは因明から出て通用語となつたといふことを説いたのである。これを以て日本人が因明を知つてゐたとか何とかいふことを論ずるつもりでは無い。即ち、これらの語を用ゐて論理的言説の用をなすに用ゐてゐるといふのでは無い。この事は博奕から出た語「ピンからキリまで」とか「切札」とか「一點張り」とかいふ語を日常に用ゐてゐても博打をしてゐるので無いと同じである。しかしながら、その語が如何に日用語に化して、俗用に供せられても、その原義が根柢にのこり、その語の雰圍氣としてつきまとふものである。即ち「立破」はその立と破との相對してその黒白の著しく明かなる意味を背景として存するものであり、「無體」はその理由なく意味無きこゝろを背景としてゐるものであり「隨一」は先きにあげたる多くの物の一についていふ意味を背景としてゐるものである。これはその語の有する潜在意識ともいふべきものであつて、この雰圍氣この背景この潜在意識を了得しなければその語を眞に了得したとはいはれないと思ふが、今日の國語の了得はこれらの點に於いて果して滿足する程度にあるかどうか。私がこの小篇を草した趣旨は主としてこれらの點に些細ながら貢獻したく思ふ故である。


初出
藝林 3(2): 12—28. (1952)