因明より出でたる通用語(上)

今日の日本語の中には佛教から出た語が甚だ多い。それらは一面から見れば過去に行はれた佛教の名殘であり、それらの語を基にして如何なる經論等が過去に行はれたかをも示すものとも見らるゝであらう。今それらの大概を見ると、奈良朝では護國的の佛經殊に金光明最勝王經が最も勢力を有し、平安朝には法華經が最も勢力を有してゐた。それは天台宗の勢力によるものであるが、天台宗は法華經を第一とすると共に念佛三昧を修した爲に所謂淨土三部經も尊重せられ、それらの教に用ゐられた語が盛んに俗用にも供せられた。鎌倉時代の新興佛教たる淨土宗及び眞宗は念佛專修であり、日蓮宗が法華經第一主義であり、二者共に大體からいふと天台宗から展開したものだから、經文の方から見て特に新しいものが加はつたとは見られない。たゞ新しいものは禪宗である。禪宗も延暦寺で用ゐた四宗の一であるから平安朝からあつたのではあるが、鎌倉時代の禪宗は新たに支那から移入したものであるから、舊來のものと面目を異にしてゐるのみならず、それら宋元の禪宗の用語と共に、宋元の禪僧の生活に伴ふ俗語が一緒に傳へられ、それら禪宗の用語と禪僧の間の通用語とが俗間におのづから流通したものは少く無い。今こゝに説かうとする所は因明に基づく語が俗間流通の用語に化してゐることを述べようとするのであるが、それらは寧ろ特殊の現象であるから、先づ佛教から起つた一般の俗語の傾向を説いて主題に入るべき素地とすべきであらうが、以前に著した「國語の中に於ける漢語の研究」といふ書にいろ〳〵説いた點もあるから、今それらについては説かぬことにする。

鎌倉時代の禪宗の持ち來つた俗語は普通の漢語と音も違ひ、語の姿も頗る異なつたもので語の意味も又特殊なのが少く無い。

禪宗の語の影響は上の如き語よりも種々の物品に著しくあらはれてゐる。

以上の外まだいろ〳〵あると思ふが、それらは主題では無いから、こゝに止めておくが、佛教の語の通俗の語に化してゐるものは意外に多いのである。

因明は佛教のうちに論理學に似た性質の學問として傳はつたもので、俗人には直ちに用ゐられたものでない。それ故に、他の經論の類とは大分趣が違つてゐるのである。それでも現代盛んに用ゐてゐる「りつぱ」「むたい」などいふ語は因明から出たもので、因明に基づかなくては俗語としての眞正の意味も味ひ得ないものである。今行はれてゐる辭書の多くの説明は殆ど全く無稽の言であつて、信ずべきものは見當らぬ。私はこれらの語の由來と本義と、それらに基づいて生じてゐる俗語の意味をこゝに説かうとするのであるが、その準備として、先づ一往因明の事を略説しようと思ふ。

因明インミヤウは印度の五ミヤウの一つである。五明とは内明、因明、聲明シヤウミヤウ、醫方明、工巧明クキヤミヤウの總稱である。明といふのは智の意味で學問をさす。即ちその學問によつて智を得るによりて明といふのであるが、古代の印度では上にいふ五明は學者の必ず學習すべきものとしたのである。大乘莊嚴論第五には、「菩薩習㆓五明㆒總爲㆑求㆓種智㆒。解伏信治攝爲㆑五。五別求。」といひ、又「不㆑勤㆓習五明㆒、不㆑種㆓一切種智㆒。」とある。種智といふのは一切種智といふことをさしたので、一切種々の法を知ることをいふので、佛智そのものをさすのである。即ちこの五明を體得すれば、佛智を身に得たことになる譯である。佛が一切種智を得て世間出世間の一切諸法を知つてゐるのは、五明を學び得たことによるのだといふのである。而して解・伏・信・治・攝の五をあげたのは五明の效果を説明したのである。内明によつて諸法の正理を解明することが出來る故に解といふ。因明によつて諸法の正理を開き示して他の敵者をして正理に屈伏せしむる故に伏といふ。聲明によつて聞く人をして信仰を生ぜしむる故に信といふ。醫方明によつて諸病を治する故に治といふ。工巧明によつて多くの人を攝受する故に攝といふのであるといふ。これによつて見ると、因明は諸法の正理を解明するのが目的では無く、内明によつて解明せられた正理を他の敵者に開示して、反對すること能はざらしむるものであるといふことになる。内明と因明との關係は西洋の哲學と論理學との關係に稍々似てゐるけれども、因明は論理の學では無く、敵者を豫想したものである。之を東洋の論理學だといふ人もあるやうだけれども、論理の學といふことは躊躇せらるゝのである。これは古代印度人の構成した論辯の法といふべきものであらう。而してそれが支那に傳はり、轉じて我國にも入り、佛者の間にその基礎の學科の重要なものとして久しく行はれて來たのである。

因明の支那に傳はつたのは唐の時代だといふ。玄弉三藏が印度に赴いて之を受け傳へて來たのである。その頃印度では既に古因明新因明の別があつて、玄弉の傳へたのは主として新因明であつたといふことである。印度の古傳によると、釋迦以前に足目といふ學者があつて之を創めたといふのであるけれども、その學の詳細は傳はつてゐないさうである。しかしながら、古因明にいふ、

といふことはわかつてゐる。さうしてその間、諸の學派宗派が、その古因明を用ゐて來たといふことである。釋迦の時もやはり古因明の時代であつて、釋迦滅後九百年に世親論師が出て因明の規則を大成して「論軌」「論式」「論心」といふ三部の書を著して、大いに因明を更新したといふ。この三部は玄弉が印度で之を見たとはいふが、之を傳へてゐないから後世之を知る由も無い。世親の因明關係の書の今に傳はるものは如實論だけだといふ。之は外道からの難問を反駁しただけのものであつて、因明の應用の實例は見らるるけれども、因明の法則を説明したものでは無い。玄弉が傳へた因明は、世親に後るゝこと二百年の陳那の著した「因明正理門論」と、陳那の門人商羯羅の著した「因明入正理論」とであつて、玄弉は唐に歸つて之を譯出した。この二書は今日の因明の根本的古典である。

陳那は古因明を改革して新因明を起した人だといはるゝ。古因明は五分作法といはるゝ論式をとつた。之は「宗」「因」「喩」「合」「結」といふ五つの部分よりなる論式をとることをさしたのである。陳那は之を改めて三支作法といふものにした。之は「宗」「因」「喩」の三段で論旨は十分に盡さるゝものとして、合結の二段を特に立てないものである。これは論理學の演繹法の所謂三段論法と似てゐるやうであるが、その論理の進行のしかたは逆になつてゐる。即ち宗は斷案に當り、因は小前提に似、喩は大前提に似てゐて、その論法の順序は

の如く全く逆の進行方式をとつてゐるのである。五分作法は上の三支の外に合結の二つがあつたのであるが、「合」といふは「喩にあげた事件と今論斷しようとする事件とを合同すること」であり、「結」といふのは既に「兩方の事件を合同し終れば彼の如く此も然うであると結び斷すること」である。それ故にこの合結は因喩の外には無く、たゞそれを反覆し丁寧に念を押しただけのものであるとして、陳那はこの合結の二を不要としたのである。陳那以後に用ゐる所の因明は專らこの三支作法のものなのである。

こゝに因明といふ名稱の意義及び因明そのものゝ性質を一言しておくことにする。新因明の三支作法でも、古因明の五分作法でも、すべて「宗」「因」「喩」の三を有してゐる。「宗」といふのはその本旨として主張するものゝ意であり、既に云ふ如く演繹三段論法の斷案に該當するものである。「因」といふのは宗を成立せしむる理由といふやうな意味であつて、三段論法の小前提に該當する。「喩」といふのは「因」がその「宗」を能く成立せしむるに堪へたものであることど證明する比喩實例といふやうな意味であつて、大前提に該當する。それ故に、この三支は論理上いづれも必要缺くべからざるもので、相依り相待つて論理がはじめて貫徹すべきものである。陳那が合結を除いても、三支はそのまゝ存したのは必然のことであつたからである。かく三支共に必要不可缺のものであるのに、之を「因明」と名づくるのは何故であるがといふに、三支いづれも必須なものであるが、そのうちにも「因」が最も肝要であるからである。權田雷斧の性相義學必須に曰はく、

因明とは因は即ち理由、明は即ち説明にして彼の反對の主義を執る者即ち敵者に相對して立者己が信ずる所の宗義を主張し、敵者をして信服せしめんと欲して眞正なる理由を陳べ、譬喩を擧げて敵者をして省覺する所あらしめ、所立の宗義をして好結果を得しむるの法明なり。

とある。即ち「宗」は「喩」によつて立證せられて、はじめて、その論が完全になるのであるが、その「喩」が「宗」を立證し得、「宗」が「喩」によりて立證せらるゝのは「因」によるものであり、「因」が無くてはその大本たる「宗」は成立し得るものでは無い。それ故に三支の中で、「因」が最も肝要なものである。そこで、「因明」といふ語が、この論式の學問の名目となつたのである。

さて、この論式が斷案たる宗を第一におき、大前提たる喩を最後にして、演繹の三段論法と逆の構成法をとつてゐるのは何故であるかといふに、この因明といふものは大乘莊嚴論に「伏」を目的と説いた如くに、又因明論大疏に「求㆓因明㆒者爲㆘破㆓邪論㆒安㆗立正道㆖。」とあるが如くに、佛者が外道の邪論を説破して正しい道を安立する目的を達せんが爲に學んだもので、主として論難抗争の具に供したものである。それが爲に宗を先づ第一に掲げ示す形式が常に用ゐられ、次第にそれらの形式が固定したものであらう。

因明の根本的古典は既にあげた「因明正理門論」(一卷)である。これは玄弉の譯の外に義淨の譯もある。之に次いでは「因明入正理論」(一卷)である。之も玄弉の譯が傳はつてゐる。之は正理門論の解し難きを思ひ因明の大綱を簡明に説いてその階梯としたのである。

玄弉は以上の譯を施した外に、因明を高弟の窺基(慈恩大師)に授けた。慈恩は入正理論に就いて注解を施し、且つ玄弉の口授に基づいて因明に關する全般の事を記録して一書を著し、之を「因明入正論疏」(三卷)と名づけた。之は因明の全般を包含したもので因明の學の大成の書といはれてゐる。苟も因明の學に携はるものすべてこの書を中心とせぬものは無く、後世この學徒の間では陳那の論を大論といひ、慈恩の疏を大疏と云つて重んじてゐる。慈恩の後には慧沼が出て「義斷」(三卷)、「纂要」(三卷)を著して慈恩の注解と他の師の解釋との間の正不正を判斷することを行つたが、これらも亦斷纂と合稱して重んぜられた。

以上の諸書はいづれも本邦に傳はつてそれ〴〵祖述者を生じたのである。

因明を本邦に傳へたのは法相宗であつた。而して法相宗はその宗旨から見ても因明を重要なものとした。もとより因明は佛教の論辯の上に極めて重大な價値を有してゐるものであるから他の宗でも用ゐたのであるが、しかしやはり法相宗が最も之を重んじて傳へ來つたのであるから、本邦の因明の歴史は法相宗の歴史に據つて見らるゝのである。

法相宗は齊明天皇の朝に入唐した道昭の傳へた所にはじまる。道昭は玄弉に學び、大疏を造つた慈恩と頡頑することを得たといふ。歸朝して元興寺に居た。次に同じ朝に智通が入唐して同じく玄弉に學び、歸朝して大和の觀音寺に居たといふ。之が法相宗の第二傳である。次に文武天皇の大寳三年に智鳳智雄等が入唐して慧沼の後の智周に學びて、歸朝して興福寺に居た。之を法相宗の第三傳とする。次に元正天皇の養老三年に玄昉が入唐し、同じく智周に學び天平十六年に歸朝し、興福寺に住した。之を法相宗の第四傳とする。

以上の如く、わが國の法相宗は元興寺の傳即ち南寺の傳と、興福寺の傳即ち北寺の傳との二流があつた。南寺傳は道昭智達から行基に傳はり、それから勝虞に傳はつた。北寺の傳は智鳳から義淵に傳はり、義淵から行基、玄昉、良辨、宣教、良敏、行達、隆尊の所謂七上足に傳はつた。行基は上に述べた通り、南寺の傳をも受けたのであり、玄昉は入唐して更に支那からの法相宗をも傳へたのである。平安朝初期には南寺傳の勝虞、北寺傳の善珠の二人が法相宗の勝れた學匠であつた。而して因明は法相宗では必須のものであるから、この宗によつて命脈をつないで現代に及んでゐるが、元興寺は廢退して興福寺ひとり存してゐる。しかしながら因明は他の法相宗本山たる法隆寺にも藥師寺にも傳はり、毎年十一月に因明講といふことを三の本山がかはる〴〵行ひつゝあるといふ。

因明は元來法相宗だけのもので無いことはいふまでもない。しかし法相宗は唯識宗ともいはるゝが如く、思惟を主とするものであるから、おのづから因明に重きをおいたのである。けれども五明の一であり、ことに内明と最も深い關係にある因明は、教學を主とする宗には必ず重んぜらるべきことであり、特に論義を行ふ場合に於いて因明の重んぜられたことは想像に餘あることである。それ故に、比叡山延暦寺の學徒も因明を學んだことであつたと思ふ。

扶桑略記延久四年十二月廿五日の記事は天台宗と因明との關係を見るに重要な記事である。その大略をいはむに、

十月廿五日庚予行㆓幸圓宗寺㆒始修㆓二會八講㆒被㆑置㆓天台已講㆒。講師阿闍梨頼増〈三井/寺〉一問、法印大僧都頼眞〈興福/寺〉有㆓因明論義㆒。講師云、非㆓自宗㆒故不㆑答。問者云立㆓破眞僞㆒無㆑過㆓因明㆒。依㆑之叡岳六月法花會副㆓因明義㆒、圓宗學者多所㆓習學㆒也。況准㆓三會大堂㆒被㆑置㆓二季昌筵㆒之日既當㆓朝撰㆒爲㆓二會講師㆒如何不㆑可㆑答㆓因明門義㆒耶。云々

とあつて、この時天台宗の法會に因明の論義を行ふべきか否かの論爭が講師と問者の間に生じ、終に天台座主勝範等が「山家學者全不㆑可㆑答㆓申因明議論㆒者」と奏し、勅によつて「因明論義暫宜㆓停止㆒者」と裁斷せられたのであつた。しかし、その記者の注記に

私云後日追勘、天台最勝初三會講師登第一座義眞和尚也、於㆓維摩堂㆒遂㆓其大業㆒之日、既有㆓因明論義一云々

とあれば、叡山でも因明を學んだことは知るべきである。慧澄(天台宗東叡山)の因明犬三支に

昔延喜帝ハ因明ヲ好ミ玉ヘバ、南都北嶺ノ學徒各因明ニ通達シテ、公請ノ論筵ニ互ニ因明ノ式ニテ論議ヲスレバ、慈慧大師ノ時分ニハ因明ガ大ニ時行ハヤリテ、慧心僧都ハ倶舍因明ハ此土ニ究ムト仰セラレシ程ニテ、自他宗ニ名高キ因明者ナリ。

と云つてゐる。即ち延喜の頃から因明が頗る盛んになり、慧心僧都の時には支那よりも日本が盛んであつたといふことになつてゐる。こゝに天台宗のうちから因明の大家が生じたことを見るのである。

平安朝時代に入つては法相宗の外にも因明が行はれ、終に天台宗からその道の大家を生じた程になつたのであるが、この時代には因明に關する著書も少からず著れた。その著しいものを次に少しく説く。

善珠は奈良朝の末、平安初期の人である。玄昉の門に入り法相宗を學び、因明にも通じてゐたが、その著「明燈鈔」(六卷(十二巻に分つ))は本邦因明書中の白眉と稱せらるゝものである。明詮も元興寺の僧で法相宗の碩學であり、清和天皇の御宇に歿した人である。この人も因明に關する著書が少く無い。中にも有名な「三十三過本作法」(一卷)は、この人の著であると因明章疏目録に云つてゐる。この書は興福寺喜多院の林懷の作ともいはれてゐる。林懷は伊勢の人で、仲筧の門人であるといはれてゐるが、後一條天皇の萬壽二年に興福寺の別當となつた人で名高い人である。三十三過本作法纂解の著者慧晃は、林懷の著といふ明證を見ずと云つてゐる。大和國子島寺の眞興は興福寺の仲筧の門人で、因明に精しいので名高い人である。その著「四種相違私記」(二卷)は今に傳はつてゐる。慧心院僧都源信は上に述べた通り因明の大家である。その著に「因明四相違注釋」「義斷注」「纂要注」といふものがある。平安朝時代の末頃に於いて最も著しい因明學者は藏俊であらう。藏悦は眞興の學統に屬する人であつて、「因明大疏鈔」(四十一卷)「因明本作法鈔唯量抄」等の著がある。この人は保元亂の大立者であつた左大臣頼長の因明の師であり、法然上人の法相の師でもある。その頼長が學んだ所の因明大疏の原本が今日に傳はつてゐる。それは久壽二年に頼長の加へた奧書があり、寛文十一年に出版した本の底本であり、その源は明詮自筆の導本にあることが傳へられてある。今日我々が學び得る大疏は皆この本によるものである。頼長には又、「左府抄」と題する因明に關する著書がある。鎌倉時代に入れば、奈良の花林院の永縁僧正、笠置寺の貞慶上人、東大寺の宗往僧正等が因明にすぐれた學匠であり、室町時代にも因明は絶えたのでは無いが、すぐれた學匠は聞かぬ。

江戸時代に入り、一般に學問の復興するにつれて因明も亦僧徒の間に復興せられ、その道の古典の出版せられ、新著の公にせられたものも少く無い。明治時代に入つても亦二三の學者が出で、多少の著書もある。しかしながら因明の學理の進歩を促したといふべき書は未だ見ない。要するに因明の學は本邦では平安朝を盛時として、その以後はたゞ古を存するに止まつたやうである。

かくの如く因明は本邦に入つて特別に學理上の進歩を示した迹を認むることが出來ないもので、その本邦に盛んになつたのはその應用であつたことは、多くの著書が之を告ぐるのである。而して本邦に於いての因明の上での特別の著書として認むべきものは、三十三過本作法である。これは喜多院の林懷の著だといふけれど、纂解の著者は證據が無いと云つてゐる。上にも云ふ通り因明章疏目録には「明詮著」としてあるが、之は藏俊疏鈔の中に明詮の著としてあるのに據つたもので、恐らくは眞實を傳へたのであらう。三十三過とは、宗(九)因(十四)喩(十)に起る過失のことを論じ、不正の論は三十三過の一乃至多を犯すによるといふ事を明かにしたものである。之は論議の上には常に顧みるべきものとして、佛者の間にもてはやされたものであらう。江戸時代に至つても、これを注解した著書が少からず生じた。即ちこれは深遠な學理上の論究では無く、論議の正邪を判別する捷徑として珍重せられたものであらうが、これらを以ても、本邦に於ける因明の趨向を察することが出來るであらう。

因明では「立破」又は「破立」といふことを頻りにいふ。因明犬三支のはじめに

因明ハ他ト討論スルニ、立破ノ義理ヲ濫セズ、是非ノ筋目ノ明ラカニ顯ルヽ樣ニスル仕方ヲ立テシモノナリ。

といひ、三十三過本作法纂解の清慶の序に

因明立破之玄旨者、諸宗該用之輨轄、捨㆑邪歸㆑正之準的也。

といひ、通印瑞玄が刻四種相違略私記序に

嗟夫後昆由㆑是學㆓此教㆒焉、則立破之綱格、昭若㆓大陽之麗㆒㆑天而已。

とある。更に溯れば因明論大疏に

要義者立㆓破正邪㆒紀㆓綱道理㆒。

といひ、又

故使㆔賓主對揚猶疑㆓立破之則㆒

といひ、又

立破幽致稱爲㆓正理㆒、智解〈ノ〉融貫名㆑之爲㆑入、由㆓立論者〈ノ〉立因等言㆒敵證智起解㆓立破義㆒。

といひ、又

論者量也、議也。量㆓定眞似㆒。議㆓詳立破㆒。決㆓擇性相㆒教㆓誡學徒㆒、名㆑之爲㆑論。

と述べてゐる。立破と云つた例はあらゆる因明の書に述べぬものも無いが、例は以上に止めおく。かくの如く因明には立破といふ語を盛んに用ゐるのは偶然のことでは無い。立破は反破立ともいふ。その例は犬三支に

陳那菩薩重テ詳正シテ三支ノ軌式ヲ立テ、眞似ノ破立ヲ分明ニセシヨリ、因明ノ作法ハ定マリシナリ。

とか

當時ノ論ヲ因明ノ立量ニテ破立スレバ、イジノワルキ論議ニナリテ惡ルシ。

とか

因明ヲ意得ネバ立敵ノ言ガ濫シテ破立ノ筋日不㆑〈レハ〉分、難答トモ前後ノ道理ノ相違スルニモ氣ツカズ、言ヒ樣ニテノツクコトヲ知〈ラ〉ネバ辭ノ仕方モ自墮落ニナリテ、只言テサヘ居レハ、論議ト意得ル樣ニナルナリ。

とも云つてゐるが、又

三支ノ破立ハ人人言詮ノスジヲ考〈ヘ〉テ眞似ヲ諍バ、於〈テハ〉㆑彼〈ニ〉眞ノ立破トナスモ、於〈テハ〉㆑此〈ニ〉似能立似能破トナレバ、論疏ニ所〈ロ〉㆑言一往例ヲ示〈ス〉ー心ノミニシテ、深ク考ヘテ義理ヲ廻ラサバ、一向過失ナシト不㆑可㆑〈カラ〉言。

ともいふ。これらで、立破と破立とが同義の語であることを知るべきである。

かやうに立破とか破立とかいふのは、因明そのものゝ本來の性質によるのである。村上專精の因明學全書に

東洋ノ因明學ハ思想ノ點ヨリハ寧ロ言語ノ點ヲ穿鑿スルガ主眼トナレリ。換言スレバ一個人ガ祕密的ニ眞理ヲ考察スル方法ヨリモ寧ロ主客立敵相對シテ眞理非眞理ヲ討論スル問答往復ノ言語ヲ穿鑿シ法則ヲ訂正スルガ主意要點トナレリ。

といひ、權田雷斧は

因明とは因は即ち理由、明は即ち説明にして、彼の反對の主義を執る者即ち敵者に相對して立者己が信ずる所の宗義を主張し敵者をして信服せしめんと欲して、眞正なる理由を陳べ譬喩を擧げて敵者をして省覺する所あらしめ、所立の宗義をして好結果を得せしむるの法則なり。故に立敵相對して、正に議論を爲す時の言陳上の方軌、論理的の律法なり。

と云つてゐるが、更に溯れば因明大疏に地持經を引いて、

求㆓因明㆒者爲㆑破㆓邪論㆒安㆘立正道㆖。

と云つてゐる。犬三支には之に基づいて

地持經ニ因明ヲ第五地ノ菩薩學處ト説シハ外道ヲ對破スル等ニ入用ナレハ學ナリ。

と云つてゐる如く、主として論議の爲に因明を學んだものであつて、その論者の主張する所を「立」といひ、因つて以て敵者の論を破ることを「破」と云つたのである。それ故に因明入正理論の冒頭に「能立與能破及似唯悟他。」と云つたのである。即ち立と破とは他をしてその論の正邪を悟らしめむとするを目的とする語なのである。それ故に因明は論理學の思辯の學たると本來の性質を異にするもので、自己の説の「立」と敵者の説の「破」とが目的となるものである。さてかやうに議論の爲のものであるから、その論議の不成立を導く過失を吟味することが頗る精密なのである。この故に四種相違とか、三十三過などといふことが重大視せらるゝのである。

今の俗語に「りつぱ」といふ語が頻繁に用ゐらるゝが、それはこの因明にいふ立破に基づくものであらう。從來の説明多くは之に立派の字面をあてゝ一派を立つる意なりと云つたが、それらは何等の根據を示さないのみならず、その字面では意味もわからぬ。天野信景の鹽尻には「立羽」といふ字だらうと云つてゐるけれども、「立」の音と、「羽」の訓とを混雜して生じた語だといふことは「立派」といふ字だとする説よりも一層無稽の説であらう。

この語の江戸時代の用例をみるに、漢字で書いたのは立破の字面では大體「立派」の字面を用ゐてゐるが、近松の院本には主として假名を用ゐる。それらを近頃の飜刻者が勝手に「立派」といふ漢字になほしてゐるから、それによつて論を立つるのは早計であらう。しかし、今日すべて原本を見得ないから、爾下の例は漢字のもある。先づこの語例は淨瑠璃に屡々見る所である。先づ近松の作では

(以上の如く近松はすべて假名で書いてゐるのである。)等まだ〳〵多くある。竹田出雲の作では

その他の作者のものとして

(なほ本朝廿四孝、近江源氏先陣館、太平記忠臣講釋、伽羅先代荻、戀娘昔八丈、彦山權現誓助劔等にも多い。)以上の如く淨瑠璃には頻繁に多いが、俳諧には殆ど例を見ぬ。散文にも多く見ない。しかし全く無いのでは無い。大江丸舊國の「あがたの三月四月」に

以上の如く多少の例はあるけれども、俗文にのみ見えて、雅馴を旨とする文には用ゐた例を見ないのである。

以上江戸時代の用例を通じて見るに、いづれも今日用ゐてゐる所と大差無い意味のものと見ゆる。

溯つて江戸時代より前のものを見る。先づ甲陽軍鑑卷十八、信州更級出家公事の事の條に

其上琳切が遠國へ參るも遊山にてはなし。一宗の立派をも少は存て出家道をたて此寺になをらんと思ふは人間まよひの塵埃なり。

といふのがある。こゝにも「立派」といふ字が用ゐてある。この字面によれば一派を立つることのやうであるが、實際は其の宗の學問をしての意味であらう。これは律宗の寺の跡目の論の公事で、琳切といふ弟子が、奈良に其宗の修行に出 てゐたのをさすのである。それ故にその律宗の主義主張といふやうな意味であると考へらるゝ。俚言集覽に

立派 又律發を用う。俗には壯麗なるやうの事を云。本緇徒の一派を立たるより言なるべし。

と云つてゐる。その説明は當つてゐるとはいはれないが佛教者の用語だらうと見てゐる點は當つてゐるといはねばなるまい。

余は因明の研究とそれの用語の用例の研究との兩方面から、俗語の「りつぱ」は因明の立破の俗化したものであることを信ずるに至つたが、俚言集覽の増補に梅園日記稿を引いて示す所があつて、それは余が研究の結果と殆ど一致してゐる。それ故に先づその説を次にあぐる。

立破 今の世に物を飾る事をりつぱにすと云ふは立破の字音也。本は己を立て人を破る義なるが、一轉して今の如く用ゐるなるべし。扶桑略記云延久四年十月廿五日行㆓幸圓宗寺㆒始修㆓二會八講㆒、有㆓因明論義㆒。問者立㆓破眞僞㆒無㆑過㆓因明㆒。云々。法然上人繪詞四十六云栂尾の明惠上人摧邪輪三卷を記して選擇集を破す云々。仁和寺の昇蓮房かの摧邪論を持て明遍僧都に見せ奉るに僧都申されけるは凡立破の道は先づ所破の義をよく〳〵心得てこそ破するならひなるに、選擇集の趣をつや〳〵心得ずして破せられたるゆゑに其破さらにあたらざるなり。僧空海祕藏寶鑰云今造㆓諸論疏㆒者皆破㆑他立㆑自。野守鏡云他宗を破する時は教文をもちゐず自宗を立る時は心外無別法ともいひ云々などあるにて知るべし。然るを倭訓栞にりつぱ、立羽の義鳥の羽をのすに比したる詞なりと云へり。されど立派の音なるべし。一派を立るといふと同じ意なりと云へるは如何。諾ひがたし。

と云つてゐる。この説は大體首肯すべきものである。しかしながら、未だ説いて足らぬ所がある。

上の梅園日記に引いた法然上人繪詞は所謂四十八卷傳と稱へて、知恩院に傳ふるものであるが、その立破といふ語の用例は第四十卷にあるものよりも、第四十三卷にあるものゝ方が俗語の用例に近いのである。それは

播磨國朝日山の信寂房は上人面授の弟子なり。明惠上人摧邪輪といふ文を作て選擇集を破せられたるを、この人破文をつくりて難者の非をあらはせり。一々の義立破分明なる中に、瑜伽莊嚴等の論を引て難じ、香象清涼等の釋をあげて破せられたるところの答にいはく、云々

と。第四十卷の例は「立破の道」といふことにて、論辯の法といふに似たるが、「立破分明」といふことはその論辯のしかたの鮮明たることをほめたのである。又平家物語の中院本の卷第十、宗論の文には

成佛きそくのりつぱにはたうをう道昌舌を卷き、發心しきさうの難答には源仁義眞口を閉づ

と見えてゐるが、これは寫本平家宗論に

成佛遲速の立破には道雄道昌も口を閉ぢ、法身色性の難答には源仁圓澄も舌を卷く。

とあるに照して、その意を了知し得べきである。以上の同じ事をば延慶本平家物語第五末には

成佛遲速之立波〈ニハ〉道雄道昌閉㆑口・法身色聲之難答〈ニハ〉源仁圓澄卷㆑舌

と記し、長門本平家物語卷第十七には

成佛きそくの流派には源仁圓澄も舌を卷き、發心色相のなんたうには道應常住も口をとぢ、云々

と誤つてゐる。即ち上の二本は「りふは」といふ語の發音のみを傳へて、その眞意をさとらざりしものなること著しく見ゆるのである。

さきにもいふ如く、「立破」といふのは因明の用語である。「立」は自家の主張する所を示すことであり、「破」は他の主張を論破することである。「立」と[破」とはかやうに自他の差違があるけれど、總じて「立破」といふ語をなすときは即ち立論擧證のすべてをあはせていひ、又單に理路といふに同じい意をも示してゐる。現代の論説にも或は立言といひ、立論といひ、立證といひ、又論を立つる、證據を立つるといひ、或は又それはそれと立てゝおきなど云つてゐるのは皆この立の意によつたものである。又論破説破などいふのも皆破の意によつたものである。この事は誰人も因明によつたものだとは自覺してゐない樣だけれども、日本人の論議の法式はいつの間にか自然に因明に依ることになつたものであることは疑ふべくも無い。

私は因明で「立破」といふ語が盛んに用ゐらるゝことを既に説いたが、それは因明の漢譯の文に起つたものであることはいふをまたぬ。梅園日記稿には立破の文字を主張し、因明論義の事を示してゐるに拘らず、この熟語が因明に基づくことを明言せず、又その本義をも明かに示さなかつた。これは蓋したゞ朧げに認めたに過ぎなかつたからであらう。その文に引いた扶桑略記の文の中に「又立㆓破眞僞㆒無㆑過㆓因明㆒」と云つてゐるのでも明らかに認めらるゝやうに、これはまさしく因明の語であるのである。法然上人行状畫圖の語も因明の研究では無いけれども、因明の法を基としての言であることはいふまでも無い。寶藏祕鑰や野守鏡などはたゞ立す、破すと云つただけで、これらは立破といふ熟語の直接の證據とはならない。

法然上人行状畫圖には「立破」の語を用ゐた所は他にもある。たとへば卷第四に

あるとき天台智者の本意をさぐり、圓頓一實の戒體を談じ給ふに、慈眼房は心をもて戒體とすといひ、上人は性無作の假色をもて戒體とすとたてたまふ。立破再三におよび、問答多時をうつすとき慈眼房腹立して、木枕をもてうたれければ、上人師の前をたたれにけり。

又卷第三十一に

これを異域にとぶらへば、月氏にはすなはち護法清辨空有の諍論、震旦には又慈恩妙樂權實の立破、是を我國に尋れば弘仁の聖代に戒律大小のあらそひありき。

とある。さて、この行状畫圖は世に九卷傳と稱する法然上人傳記を基としたものといはるゝが、その卷三十一の文は九卷傳の第五上、月輪殿御消息被遣座主事の條に

これを異域にとぶらへば、月氏には即護法清辨の空有の論談、震旦には亦慈恩、妙樂の權實の立破也。是を我國に尋るに、云々

とある文によつたことは疑ふべきものでは無いやうである。さてこれらは皆一樣に「立」と「破」との本義に基づいたもので、未だ今の俗語の「りつぱ」の意味を導くやうになつてゐる例とはいひ難いものどもである。然るに、かの卷四十三の「一々の義立破分明なる中に云々」とあるのは今日の「りつぱ」といふ語の意に多少近づき來つたことを示してゐる。俗語は恐らくは「立破分明なり」といふやうな語がもとで、その意味を含めて、たゞ「りつぱ」といふことになつたものであらう。即ち「立破分明」といふやうな語が慣用の久しきにつれて、その意味をばその上半たる「立破」で領會しうるやうになつたのであらう。その發展の經過は、今の俗語の「結構」「果報」「因果」などいふ語にその類例を見るのである。「結構」は其の結構のうるはしきことをいふのであるが、結構といふ字面には「うるはしい」といふ意味は少しも無いのである。即ちその「うるはしい」といふ意味を含めて「結構」と云ふことは、恰も「立破」の「分明である」といふ意味に「立破」といふ語を用ゐると同じ過程に立つてゐるのである。「果報」「因果」は稍々ちがふけれども、その語に伴はつて屡々用ゐらるゝ具體的の意味を含め、その具體的の意味を主としていふことは似てゐるのである。淨瑠璃の出世景清や狂言箕被ミカツギに「果報は寢て待て」といふ諺が出てゐる。この果報は幸運の意味に用ゐてある。しかしながら之はいふまでもなく佛教の語で、因果應報即ち因縁に相應した果報があるといふことで、業因の善惡により、その應報がそれ〴〵善惡の結果として來るといふのである。その正常の用例は、たとへば淨瑠璃の吉野忠信に「果報つたなの義經や」とあるが如きである。然るに、上の諺の如くに幸運の意味に用ゐてあるのが、後には普通語になつてしまつた。それ故に「果報じん」(日本吾妻鏡)「果報者」(曾我會稽山)などいふ語をある。之は近來のことで無く、頗る古くから行はれたやうである。太平記卷十九「光嚴院殿重祚御事」の條に

あはれ此持明院殿ほど大果報の人はおはせざりけり。軍一度をもし給はずして將軍より、王位を給はらせ給たりと申沙汰しけることをかしけれ

といふことがある。これは涅槃經に「護㆓正法㆒得㆓大果報㆒」とあるなどから來てゐるのであらうが、「將軍から王位を給たり」などいふやうな無學文盲の徒の俗語俗意が既に生じてゐたことを見るのである。之に反してその源は同じなのに「因果者」(義經千本櫻)「因果なもの」(假名手本忠臣藏)「因果の有樣」(狂言拔殻)などいふ場合には薄運なることをさすのである。これも亦因の善惡によつて果報の善惡が來るのであるが、俗にはその惡い方の意味だけにしてしまつたのである。かくの如き例は「破損」を修繕の意味にしてしまつたのにもあり、他にも多いのである。

さてかくの如くにして「りつぱ」といふ俗語が生じたのであるが、その意味は俚言集覽に「壯麗なるやうの事を云」といひ、大言海に「おごそかに麗しきこと、いかめしくみごとなること、氣高く美しきこと、嚴美」とあるなどいろ〳〵説いてゐるけれども適切であるとは思はれない。物集高見の日本大辭林に、「きはやかにしてうつくしきをいふ」とあるのは、簡略であるけれど寧ろ適切であるといはねばならぬ。元來、これは立論論破の判別きはやかに、あざやかであるといふことに基づく語で、物の道理のはつきりすることが根本であらう。それで、敵討襤褸錦の助太郎といふ白痴が、たま〳〵道理ある語を吐いた時に、その母が、「アレ〳〵誰も聞いてか立派なことを云うたわいの」といひて人々に之を知らしめ、さて又愚劣なことを云ふのを恐れて「もう物いふな、とりみだすな。」と云ふてゐる。これこそ「りつぱ」といふ俗語の意味を適切に示してゐる「りつぱ」な場合といふべきであらう。

さて、上にあげた平家物語で見ると、立波、流派と書いたりしてゐるから、鎌倉時代の末頃からはやくも俗間に因明の原義が忘れられてしまつてゐたであらう。さうすれば甲陽軍鑑なども亦原義を忘れてゐたであらう。かくして室町時代には、恐らくは俗語の「りつぱ」は既に生じてゐたであらう。


初出
藝林 3(1): 2—20. (1952)