現今「日和」といふ熟字が一般に用ゐられ、之を「ひより」とよませてゐるが、それには如何なる根拠があるのか、即ち「日和」といふ熟字は何の意味をあらはすのか、又「日和」といふ熟字がどういふ理由で「ひより」といふ語に該当するのか、自分は多年之に疑をもつてゐるが、今ここに之に就いての考察の一端を記して大方の教を請ふ。「日和」といふ字面を「ひより」といふ語に充てゝゐることは現代では誰でも知つてゐることであるから、現今用ゐてゐることの証拠は挙げるまでも無い。少し古いものに就いていへば、文化六年出版の農家調宝記に「日和」の字に「ひより」と仮名を附けてあり、寛延の頃高田政度の著した廣益字典節用集といふものに「ひ」の部の時候門にも同様に載せてある。然るに、槇島昭武の合類節用集の時候門には「ヒ」の部には
日和 出㆑仁
とあり、「ニ」の部には
日和 出㆑比
とある。之によると、「日和」は國語の「ひより」といふ語に充てると共に、その字音に基づいて「ニチワ」とよまれるのを略して「ニワ」ともよむべきものであると思はれる。即ちこの「ニワ」といふのは「ニチワ」の略せられた語と見るべきやうであるが、果してさやうな漢語の音読に基づいたものであるか。疑は更に深まるのである。
それより溯り、元祿頃の著なる橘成員の倭字通例全書を見ると、
にわ 日和(注)古語拾遺ニ又言塵集ニ云海面ノ事也ト、又ヒヨリトヨム唯風波ノ靜ナル也
とある。ここに日和の字面が「にわ」とも「ひより」ともよむべきことが示され、それが古書に典拠のあることを説いてゐる。然れども、古語拾遺にはそんな字面も「ひより」といふ語も「にわ」といふ語も無い。成員がどうしてか樣な無実な事を述べたのか疑ふべきことである。言塵集には
にわとは海面也。にわよくあらしなど詠。
とあつて「ひより」といふ説明は無い。而して倭字通例全書も言塵集も「にわ」は海面であるといふが、その海面を日和の字面で示す意味はどこにあるのか、これ亦頗る疑はしい事である。
さて、かうなつてくると問題は更に複雜になる。日和の字面が海面をあらはすといふのはどういふ理由によるか。或は日和といふ字面があつて之をニワとよみ、それをヒヨリともよんだのであるか。或はニワといふ語があつてそれに日和といふ字面を充てたのであるか。或は「ヒヨリ」といふ語と「ニワ」といふ語とが同じ意であつて、それに日和といふ字が該当してゐるのか。或は「日和」は「ニワ」といふ語に充てたもので、その意味が「ヒヨリ」と同じことであつたのか、さま〴〵な疑問が湧き出してくる。
先づ「日和」といふ字面を「ひより」といふ語に充てて用ゐた例を見ると、その著しいのは「日和山」と書いて「ひよりやま」といふ地名である。日和山といふ地名は少く無い。大日本地名辞書に掲げてあるのは、志摩國鳥羽港にあるもの、陸前國石卷港にあるもの、羽前國酒田港にあるものの三である。先づ日和山といふものゝ説明の例として同書の鳥羽の日和山の條を次に引く。
日和 山 鳥羽の北西に屹立せる一丘なり。高七八十間に過ぎざるも眼界極めて廣く、島嶼縱横に列して参河、尾張の海山をも併せ收め風光奧州松島に比すべし。然も秋晴の日、遠く冨士峯及び甲信の峻嶺を望むに至りては奇観中の奇といふ。○東海轉漕の舟は熊野浦より此に至り、更に七十里の長灘を経て豆州下田港に入る。其間繋泊の便利を欠く故に鳥羽に次る時善く陰晴險易を卜定して後解纜す。故に舟人多く此丘に上り、天象を察し開洋の遅速を議すと云ふ。
とある。
一般に日和山といふは海港の眺望よく眼略の廣い地点に当る丘陵や山の頂を主とした名目で、必ずしも固有の名称では無いやうに思はれる。即ち日和山といふ所はいづれも眼界の廣く眺望のよい海岸の高い点をいふのではあるが、それは眺望を目的として名づけたものでは無くて、日和を見定める要所であるといふ意味であらう。鳥羽の日和山の頂には方位盤が据ゑ付けてあるが、それは上述の目的からであらう。この日和山に就いては司馬江漢の西遊日記に
鳥羽浦 ヒヨリ山。爰は諸國の船
港留 て天氣風を見合て船を出ス処ナリ。
といひ、越谷五山の翌檜には
日和山 鳥羽はいせに隣る湊なり。船人此山に登り、日和を見定て出船す。
とあり、神都名勝志にも
鳥羽の此位に突起せる山なり。舟人常に北山に登りて天氣の陰晴を見定むる故に此稱あり。
といひ、志陽略記に
日和見山在㆓鳥羽以北㆒坂路至㆓絶頂㆒三町餘、直立算㆑之則其高三十二間也。土俗常躋㆓山巓㆒、仰察㆓天象㆒、俯視㆓海潮㆒、校㆓量風雨㆒、卜㆓定晴陰㆒、以説㆓客船㆒。處々湊津必有㆘稱㆓日和見山㆒者㆖、倭俗麗日和風是謂㆓日和㆒也。
と云つてゐる。ここに「日和」の字面を「麗日和風」の意の熟字であるかの如く云つてゐるのは如何はしいけれども、日和山は日和見山の意であることはこの書の説く通りであらう。石卷の日和山に就いての奧羽観蹟聞老志の説も亦参考するに足るが之は好日出と題してある。その説に曰はく
好日山 山頭有㆓愛宕神祠㆒東南即大洋、洲渚興㆑天接、×西北川群山村落倚㆑地㆓連、皆入㆓于登臨之目中㆒。舟子棹郎欲㆑出㆓商船㆒則先登㆓峯頭㆒卜㆓潮勢㆒而計㆓晴雨之候㆒、察㆓水色㆒而試㆓風波之變㆒仍土俗曰㆓日和山㆒訓㆓之比與利㆒。俗間天外風靜海上波穩之日而曰㆓之日和㆒乃好日之義也。
理窟をいへば日和山は略祢で、日和見山といふべきものであらうが、分り易くしたものであらう。鳥羽石卷酒田の日和山は自分は実地を踐んでゐる。越後國新潟の港口にも日和山がある。之も自分は遊んだことがある。いづれも港の要所にあつて海に臨み展望の廣い地点ではあるが、低い丘陵や特に山といはねばならぬ程の所では無い。三重縣北牟婁郡須賀利村の日和山は陸地測量部の地図に標高三〇一米と記してあり、その半島中最も高い峯である。昭和二十三年三月末に須賀利村に赴き、その附近まで登つたことがあつた。この峯はその尾鷲湾の咽喉を扼する要地として湾内及び外洋を一眸の下に俯瞰するに十分で大規模の日和山と称すべきである。以上の外尾張國知多半島の南端師崎の臨海の丘陵にも日和山があり、紀伊國新宮の熊野川の河口の丘陵にも日和山がある。以上いづれも海港に在つて日和を見るに便なる丘陵を日和山と名づけたものであることが著しいのである。
日和の二字を「ひより」と読む例を詩歌文章の中に求むれば、鬼貫の句に
日和より牛は野に寢て山櫻
蕪村の句に
初冬や日和になりし京はつれ
などがあり。又新可笑記三に
大湊に着きて日和待の景色を見しに
といふ文がある。西鶴の文では一目玉鉾に熱田社の次船番所の記事に
七つかきりに船留、日
和 次第に佐屋の里へまはる也
とあり、四日市の記事に
此所より桑名に
乘 行舟あり。しけたる日和にはのるまじき海也。
とある。又好色一代男三に
夢も結ばずありしに日和見におこされ、帆をまく音酒うる声。云々
又この書の終の文として
伊豆の國より
日和 見すまし天和二年神無月の末に行方しれず成にけり。
とある。又西鶴置土産卷四の目録に
三日の
日和 見たし。
ともある。俚言集覽には「ひより」として
日和を観 俗語誹諧抔には天氣清朗の事を常にいへと連或は稀也
明日は日和といへる船人
とあるが、又
には 底○又日よりの好をニハと云。
ともある。
かやうに日和といふ字をひよりとよむ例を見るけれど、日和といふ支那の熟字があつてそれが國語の「ひより」に当つてゐるといふ証拠は無い。日和といふ漢語の例を求めると佩文韻府に唯一つ出てゐる。それは唐の欧陽詹・の香岑李宴僚府序に
風恬ニ日和ニ、川晴レ野媚リ、
とあるのであるが、之はその日の穏和なことを述べたもので、「ひより」といふ一の語を表したものでは無い。駢字類篇などを見ても日和といふ熟字は見えぬ。それ故に日和の二字をひよりとよむことは漢語の熟字に源を有するものとは思はれぬ。
ここに方向をかへて「ひより」といふ語がいつ頃から見えるかといふに倭訓栞に
ひより、霽をいふ。日依の義、日方といふが如し。
と見え、物類称呼、言語の部に
雨降らんとして日和になりたるを畿内近國にても日なをるといふ。東國にて俄ひよりと云。日和の定らぬを尾張にて一雨日和と云、筑紫にて一石日和と云。今按に尾州にて鈍々したる日和と云を金子の貳歩々々にとりなして一雨の天氣と云。又一こく日和といふは雨ふらんやふるまいやと云を筑紫にて降うごとふるまいごとゝ云。
と云つてゐる。又常山紀談九に
同時(小田原役)……秀吉城をかこまれし間五十余日風靜に波穏かなり。是よりして小田原海辺風なき日を上椽日和といひならはしたり。
とある。
溯り鎌倉時代の例に見ると、新撰和歌六帖三に
山のはにほてりせる夜はむろの浦にあすはひよりと出る船人。
辨内侍日記に
檝をとるその舟人にあらぬ身のあすのひよりいかゝいのらむ。
夫木抄廿五泊に権僧正公朝の歌として
はりまちやそらは日よりになりぬともしはしはいてしむろのとまりを。
月詣和歌集釈教部に智俊の歌として
ひよりまつうき世の岸のわたしもりいまそみのりの舟よそひする。
拾遺愚草上に
まち得たる日よりを道のたのみにてはるかにいつる浪の上かな。
などの例があつて、それが一般に用ゐられた語と思はれる。平安朝時代に入ればその中期以後の歌として曾丹集に
はる〳〵と浦々けふり立わたるあまのひよりにもしほやくかも。
やす川の早瀬にさせるのほりやなけふの日よりに(はり)いくらつもれる。
とあり、下つて為忠百首に
風もなみひよりよくとも郭公なくとまりをは出てしとそ思ふ。
とある。古今集には見えず万葉集にも見えぬ。或は平安朝中期より用ゐられたものかも知れぬ。
今、平安鎌倉の頃の用例を見ると「ひより」は主として舟人の語に基づいて天氣のよいことをいふのであつたと思ふ。江戸時代に至ると、汎く天氣といふ語のかはりのやうな意義になつて、大分かはつて未たやうである。それにしても日和といふ字が「ひより」といふ語にあてられたのはどうした理由によるのか。今この方面に目を轉じて見よう。
既に示したやうに合類節用集には日和の二字をヒヨリともニワともよむべく示してゐるし、倭字通例全書には「にわ」と標出して「日和」の字を充て、又その二字を「ヒヨリ」とよむ旨を記してゐる。ここに日和の二字とヒヨリといふ語とが結び付けられてゐる。それは正しい事であらうか。
契沖は和字正濫鈔に於いて「には」といふ語に就いての説明に於いて日和の字面に論及してゐる。曰はく
○眞字未考 には 万葉第三に海上にて日よりのよきを爾波ならしとよめり。又第七に底きよみとよめるも同じ。庭は仮字なり。もしは海上に浪もなくて平坦なる庭のことくなればたとへてやがて正字に用る歟。万葉十九に水のうへはつちゆくことく舟のうへはとこにをるごととある孝謙天皇の御製思ひ合すへし。日和とかくは仮字たがひたる俗字用るに足らず。
と云つてゐるが、これは万葉集にいふニハに日和の字面を充てることを否認したのである。更に契沖は和字正濫通妨抄に於いて上にあげた倭字通例全書を駁して
にわ 日和 古語拾遺ニ今云字を日和とかき、仮名をにわとかく事俗語なる上に斎部廣成にとがをかぶせて古語拾遺にといふ事僞れる事なり。日和をにわとよめる事またく古語拾遺になし。わつかなる一卷にて印本にある物なればうたかはしき人あらば、みつから披き見て有無を知へし。万葉第三人丸の歌にけひの海の
庭 好あらしとも舶爾波ならしともあり。又別人の長歌に爾波もしつけし、又第十一に庭淨 おきへこき出るあまふね、又第十五にも爾波とかけり。以上五首に仮名はたしかに知られたれども字はいまた見及ばず。もし海上浪もなくて平坦なること庭のことくなるにより名付たらば庭とかけるが仮字ならぬ事も侍るべし。同し十九に孝謙天皇遣唐使をいはひてよまひ給へる御歌に水の上はつちゆくごと舟の上は床にをるごとゝあるにても庭の義かといふ事似つかぬ事とは思ふべからず。
と論じてゐるが、之は通例全書の説を駁しつゝ正濫鈔の説を敷衍し且つ多少改善したものである。更に正濫要略を見ると、それらを要約して
には 海上の
言 なり、万葉第三に庭好あらしとも舶爾波ならしとも爾波もしつけしともよめり。同十一に庭淨奧 方榜出海舟 第十五にも爾波とかけり。庭は仮字なり。もしは海上に浪もなくて平坦を心事庭のごとくなればたとへてやがて正字に用る歟。(中略)万葉より外には古き物に歌にも其外の調にも見たる所なし。世に日和とかくは俗のしわざ又音にて仮名たがへり。
と断じてゐる。
まことに万葉集にある爾波又庭といふ語に基づくものとすれば「日和」と書くのは契沖の云ふ如く根拠も無く、又仮名も違つてゐる。そこで再び目を轉じて万葉集のニハといふ語を檢することにする。
契沖が云ふ所の歌は万葉集卷三の柿本人麿の覊旅歌八首の中の
飼飯海乃庭好有之苅薦乃亂出所見海人釣船。
と書いた歌である。この飼飯海は淡路島の西の海岸にある飼飯野(今、慶野と書く)の海上である。之が注解を下したものは今日では仙覚を古しとする。その万葉集注釈に曰はく
にはよくあらしとは海上の風波しつまりてなきたるをはにはと云なり。にといふはやはらくことなれば日のやはらきたるをにはと云なるべし。
とある。ここに「日の和ぎたるをにはと云なるべし」と云つてゐるのを漢字で書けば「日和」の二字を生じてくるが之は日の和ぐといふ意を示すと同時に「ニワ」といふ語を示す字面とも受けとられ、かくて日和即ちニハの宛字の樣にもなるべき素地をなして甚だ紛らはしいのである。しかしながら仙覚の著書には日和といふ熟字は用ゐてゐない。佐々木博士の仙覚全集本の頭注には
日和トハ或説云、西ヘサス塩ヲニワト云、東ヘサス塩ヲウシホト云々、此義如何。
とある。之は誰の加へたものか知れず、又「ひより」といふ語に日和といふ字を充てたものとは見られないが、仙覚の説に基づいて日和といふ熟字をつくり出したことは考へられるのである。
仙覚以後の万葉集の注ではどうしてゐるかと見るに、由阿の詞林采葉抄卷九に
には 海の面しつかに平かなるなり。
といひ、同人の拾遺采葉抄には
庭トハ海ノ上ノナキタル也。注文選曰庭ハ正也ト。海ノ面ノ平々ト有也。正ハ能心也。
とあるが、正の意のあるといふは如何かと思ふ。宗祇の万葉抄第三には
にはよくあらしとはなきたる時を云也。
とあり、万葉集之歌百首聞書には
けひのうみは越前國つるかの海上のよくなきたるをにわのよきといへり。
とある。(越前の氣比としてゐるのは誤であるが、今は主題とする点が別であるから論ぜぬこととする。)又万葉見安には
爾波母 海ノヘイ〳〵トアル也。
といひ、下河辺長流の万葉集管見には
にはよくあらし 海上日よりよきをいふなり。
とある。いづれも大体仙覚の注によつてゐるけれども、日和の字面は用ゐてゐない。
海北若沖の万葉集類林を見ると、
には 第三十六飼飯海の庭好有之。同四十アヘテ榜出牟爾波母之頭氣師、第十一卅七庭淨奧方榜出。第十五八武庫能宇美能爾波余久安良之、△海上天氣よきを
日和 がよきと今もいふなり。
とあるが、これには注意すべき点が二三ある。一は「日和」の字面を確定的に用ゐたことである。二は仙覚がいふ所は海面のことを主としたのであつたが、ここには天氣を主としたことになつて来た。三には「ニワがよきと今もいふ」と云つてゐる点であるが、この点は自分は未だ確めないが、果してこの語の通りであるならば、大に参考になることがらである。北村季吟の万葉拾穗抄を見ると、この歌の頭注に
けいの海のにはよくあらし(中略)仙曰けひの海は越前也。にはよくあらしとは海上の風波しつまりたるを
日和 と書也。
と記し、ここに仙覚が日和の字面を用ゐたやうに述べてゐるが、事実はさうで無いことは上に示した通りである。さてその次の歌の頭注には
むこのうみのふなにはならし 武庫は津國也。ふなには舟の日和也
とあつて日和をにはにあててゐる。池永榛良の万葉集見安補正を見ると、
庭好㆔ 庭上をには云は
平均 なるを云より海上の風波なく平らかなるをばにはよしと云。日和 よしと書けんより晴天を日和と云ならはせし也。
とある。ここに至り、日和といふ字面とニワといふ語が固定したものの如くに述べられることになつた。かくして万葉集三の「けひのうみのにはよくあらし」といふ歌の「には」といふ語が幾人かの注釈を経ていつしか「日和」といふ熟字を生じそれがニハにあらぬニワといふ語を生ずるに至つた経路を略示してゐる。しかしながら我々は普通の文章にこの「日和」(ニワ)といふ語を用ゐた例を殆ど見ないのである。たゞ辛うじて見出したのは馬琴の著した小説、椿説弓張月にある一例である。それは後編卷二に
遠つ灘、海鰌の吼るうき島も世は暖になるまゝに
日和 うちつゞきて浪風なほ靜なれば島人が徒然がちなるも不便なるべしとて云々。
とある文である。こゝに「日和うちつゞきて云々」とある、その「日和」は「ひより」と訳するときに、文章の意は通るのであるが、馬琴は之に「には」といふ仮名をつけてゐる。これ即ち彼の博識を示した点でもあらうが、之を万葉集の「にはよくあらし」の「には」とするときに意味は通じない。「にはよくあらし」といふ語は反面のにはの惡しきこともあるを示す語である。それ故に「にはうちつゞき」とは何が打ち続くのか訳の分らぬ語となるのである。加之、「日和」に「には」と仮名附けしたのも「和」を「ハ」にあてたので学問上不條理である。即ち之は当時又古来から通用した語では無くて学者の机上の空論を作者が更に架空の語として強ひてひねり出したものであつて正しい学問から見れば、学者の一顧にも値せぬ空文字である。
以上、あげた所は頗る錯雜してゐるが、日和といふ字面は仙覚が「にはよくあらし」といふ歌の解に「日のやはらきたるをにはと云なるべし」と説いた所に源を発し、その説に基づいて「日和」といふ字面を生じ、それが「ニワ」とよみも書きもして「庭」又「爾波」といふ万葉集の語に充てられて来たが、その「日和」といふ字面が上の注解の意味からいつしか「ひより」といふ國語に充て用ゐられることになり、後にはその「ひより」といふ語には專ら「日和」といふ字面が用ゐられて、それが「ニハ」といふ語の解釈から生じたことや、「ニワ」といふ語の為に生じた宛字だといふことなども忘れられてしまつたものらしい。
ここに於いて又その「日和」といふ字面の用ゐられた古さとそれを「ニワ」とよみ来つた時代の如何を更に顧みる必要がある。日和といふ字面を用ゐたものゝ古い所を見ると、上にあげた倭字通例全書あたりかと思はれる。若し、仙覚全集本の仙覚の注釈の頭注が佐々木博士の推定の如く玄覺などのしわざとすれば、この人は弘安頃の人だから、それが頗る古いといふことにならう。しかしながらそれは確かにさやうだとはいはれぬ。
惟ふに万葉集卷三の彼の「飼飯海の庭好有之」の歌の解釈によつて「にはとは日の和らぎたるをいふ」と心得て「日和」の字面を按出し、その日和をば「ニワ」といふ語に充つることとなつたものであり、而して万葉集の「にはよく」とは上の解釈に基づいて「日よりのよきことなり」と解してから、その日和の字面をば「ひより」といふ語と結び付けたものであらうが、その結び付を明かに示したものは上に述べた倭字通例全書であらうと思ふ。
日和の字面は漢語では無く、又古い國語に「ニワ」といふ語も無く、又それは本来「ひより」といふ語に関係の無いのだが、万葉集の解釈の或る説から導かれて、上に述べ来た所の樣のことが生じたものと思はれるが、今日我々の用ゐてゐる語にかやうな経過を以て生じたものが或は他にもあるかも知れない。今それらのことは次の問題として、先づこの「には」といふ語の本義を明かにしておくことがこの際必要なことゝ思ふ。
仙覚の説は「ニハ」といふのは結局「日のやはらきたるをにはと云ふ」に落ちつくのであり、而して又仙覚は暗に日和の写音によつて解決せうとしてゐたやうにも思はれる。当時は「には」の「は」を「わ」と発音してゐたらしいから、或は既に「日和」の字面を考へてゐたのかも知れないが、それらは果して当を得たものであるか。契沖は万葉集代匠記では初稿に
にはゝ海上にて日よりのよきをいへり。
と云ひ、清撰本には
にはよしとは風波なくなきたる日を舟人の詞にいへり。
と云つてゐて、仙覚の説より何程も進んでゐないが、倭字正濫鈔以下になると既にあげたやうに大分進歩してゐる。正濫鈔では「眞字未詳」として
庭は仮字なり。もしは海上に浪も無くて平坦なる庭のことくなればたとへてやがて正字に用る歟。
といひ、通妨抄では
もし海上浪もなくて平坦なる事庭のことくなるによりて名付たらば庭とかけるが仮字ならぬ事も侍るべし。
といひ、正濫要略では
庭は假字なり。もしは海上に浪もなくて平坦なる事庭のことくなればたとへてやがて正字に用る歟。
と云つてゐるが、庭を正字と認めようとしてゐることは注目すべき点である。荷田東麿の万葉集童子問を見ると先づ仙覚の説をあげて「此説しかるべきや」といふ問に答へて
日の和らぎたるをにはと云説用ゐがたし。俗に日和と書故に此説有歟。しかれども、爾波とかなもあり。又庭と云字を書たれば、和の字はかな違ひ也。
と断じてゐる。その説の正しいことに異論は無いが、その「日和」の字面が実は万葉集の注釋から生じたものだといふことには未だ氣附かなかつたのであらう。次に同じ人の童蒙抄には
庭好 海上のことをにはと云也。にはとは波穗をいふ義ならんか。この意は海上靜にて波風もなくよくあるらしといへる也。
といひ、次の歌の頭注には
舟爾波 海上の事をふなにはともいふと見えたり。
と云つてゐる。ニハの語源説は隨ひがたいが、「海上のことをにはと云也」とあるのは契沖よりも一歩進んだ正解であらう。加藤千蔭の万葉集略解は
にはよくは海の上の平らかなるを言ふ。ふなにはとは舟を出すによきのとかなる時をいふなりと宣長言へり。
と云つてさほどの進歩も見えぬ。岸本由豆流の万葉集攷証も略同樣であるが庭といふ「言の意はいまだ思ひ得ず」と云つてゐる。之より後は大抵これらの説に拠つてゐる。しかしながらその「ニハ」といふ語の本義は何であるか、未だ之を明かにしたものが無い。今、それに就いて一往考へて見ようと思ふ。
童蒙抄が「海上のことをにはと云也」と云つたのは契沖が
庭は假字なり。もしは海上に浪もなくて平坦なる事庭のことくなれはたとへてやがて正字に用る歟。
と云つたのに比ぶれば、一歩を進めたらのではあるが「波穗の義」といふことは承けられぬ。何となれば、「ニハ」といふのが、海上の靜かなことをいふ古語であるたらば、「ナミホ」を語源とするものとは思はれぬ。「ナミ」といふ語は古事記の神の名に「沫那藝神、次ニ沫那美神」又「
さて契沖は正濫要略に「万葉より外には古き物に歌にも其外の詞にも見えたる所なし」と述べてゐるが、果してさうであらうか。釋日本紀卷十二述義第八雄略天皇紀の浦島子の注に引く所の丹後風土記の文は「與謝郡日置里、此里有㆓筒川村㆒云々」と書きはじめて浦島子の事を記した文である。それには
是舊宰伊預部馬養連所㆑記無㆓相乖㆒故略陳㆓所由之旨㆒。長谷朝倉宮御宇天皇御世嶼于獨乘㆓小船㆒汎㆓出海中㆒為㆑釣經㆓三日三夜㆒不㆑得㆓一魚㆒、乃得㆓五色龜㆒心思㆓奇異㆒置㆓于船中㆒即寐。忽爲㆓婦人㆒其容美麗更不㆑可㆑比。嶼子問曰人宅遙遠、海庭人乏。詎人忽來。云々。
とある、その「人宅遙遠、海庭人乏」といふ文の「海庭」は「人宅」と相対した語で「宅」に対して「庭」と云つたのでその「海庭」は誤写では無くて海上若くは海面の意味であることは明かである。この「海庭」といふ熟字は漢文傳来のものであらうか。或は本邦で新に造つたものであらうか。或学者は之を誤だとしてゐるが、それは漢文に用例が見えぬといふことが論拠であるやうだ。庭といふ語を用ゐた漢語の例は主として陸上に於いてのものの上に就いて言ふので海庭と云ふのは見当らぬ。しかしながら、上に云つたやうにこれは「人宅」に対して「海庭」と云つたもので宅に対しての庭は動かすべくも無いのみならず、ここの文では万葉集の「けひのうみにはよくあらし」の「うみのには」に該当することは疑ふべくも無い。恐らくは万葉集にいふ所の「うみ」の「には」といふ語を漢文として海庭としたものであらう。或は又吾人の鑿索が足らずして之が漢文にもとより有つたものを用ゐたとしても海庭即ちここにいふニハに該当することは認めねばならぬ。それ故に万葉集以外に一切例が無いとも言はれまい。
ここに思ふことはかやうに海面の平靜なのを「には」といふことになると、それは普通にいふニハといふ語と共通した語であるやうに思はれる。さうすると、その「には」といふ語の本義は如何といふことに問題が移つて行く。
そこで先づ調べなければならぬのは庭といふ字である。之をニハとよむことは明白だが、この外にも同じくニハとよむべき字がある。それらの字は一往は顧みねばなるまい。新韻集にはニハと訓する字として「庭、䲧、墀、堦、壇、場」等があり、色葉字類抄には「庭、墀、場、除、填、壇」等があり、類聚名義抄には「庭、埴、坦、場、塲、墀、壇」等がある。そのうち、二三の著しいものをいへば先づ庭の字は説文に「宮中也」とあるが、それはここに適切で無い。玉篇に「堂階前也」と見えるのがニハに該当する、場の字は説文に「祭神道也」とあるのはここに適切で無く、「一日田不㆑耕、一日治㆑穀田也」とあるのが、寧ろ近いかと思はれる。その「治㆑穀田」といふのは下にいふやうに本邦の「ニハ」の本義に近いやうだ。一般に國語のニハに充てる漢字は庭と場とを普通とするが、庭の字は朝廷の廷の字の上に「广」を加へてあるが「广」は屋根の意がある。これは專ら人の住む建物の前の廣場をさすものと思はれるが、それを「ニハ」とよむことになつたのは日本のニハといふものがちやうどそれに当るからだと思はれる。
古来、日本に於ける一般の民家は主として農家であつたと思はれるが、農家ではその庭がその收穫物を処理する場所として必要なものである。そこで、さやうなところからニハバといふ語が生じてゐる。その語の意義を明かにする為に、元祿頃の著、百姓傳記を見ると、その卷十五の初に
土民の家には四季共に五穀万物をこきこなし、實にすることなり。夫を庭場仕事と云なり。其品々を拵るに色々の道具あり。
とあり、その庭といふのは特別の用意を以て築くのであることはその卷四に
土座はへな土ねば土を以てこねつけぬるべし。五穀のこきこなしを土座にてせねばはかゆかず、庭やわらかにしては穀物にごみあくた土の落入らぬやうにすべし。
とある。なほその庭場については日本農民史語彙に
庭場道具とは農家が收穫物を調理するに要する道具をいふ。收穫物を調製する所を庭場と称し、寒國に於ては屋内の土間にて行ひ、暖國にても雨雲の時は家内にて為すを普通とす。然も暖國にて、雨雪の時屋内の土間にて行ふ地方に在りては此屋内の土間を内庭と云ひ、外のものを外庭と稱す。庭場にて用ゆる道具には臼杵篩箕等數種あり。
とある。大体、日本の農家ではニハといふのは收穫物を処理する作業場の意味で、大抵の農家は家の前のニハ即ち庭場と家の入口から右の方半分許を土座として築き固めた所の「ニハ」とがあるが、之は古今に通じたものと思はれる。かやうに考へて来ると「ニハ」といふのは農事の作業場といふ意味があるやうに見え、ニハバといふ語は庭仕事をする場所といふやうにも考へられる。さてその場所といふ場合には今は專ら「場」の字を用ゐる。その場の字の用例を見れば、古くより
などいひ、今も職場、賣場、仕事場、工場、釜場風呂場、手水場、踊場、運動場、火事場などともいひ、更に進んで場所とか場合とか「場をとる」などともいふことがあつて、いづれも「バ」とよむことになつてゐる。しかしながらこの場の字は類聚名義抄や色葉字類抄にある通り、元来「ニハ」といふ語にあたる字である。而して新撰字鏡を見ると、この字には
直良反。平。治穀處也。稻庭。
と注してある。ここに「治穀處」とあるのは玉篇に拠つたものであらうが、そのもとは説文に「治穀田」とあるに基づくものであらう。これは「田不耕」と説文に注してある通り、收穫物を治むる為の作業場として耕さずにおく田をさしたのがもとであらう。而してその源は詩経の豳風に「九月築㆓場圃㆒」とあるに注して「收㆑禾圃曰㆑場」とあるものであらう。而して新撰字鏡が「稻庭」と注してゐるのは漢語では無くして國語に「イナニハ」と云つたことを注記したものであると思はれる。この稻庭の字こそは今の農家にいふ所のニハバといふ語にあてはまる語であらう。庭の字は既に述べた通り人の住居に伴ふものである。それ故に箋注倭名類聚鈔の著者は
按皇國古籍所㆑謂邇波皆屋前平坦之地、以㆓庭字㆒當㆑之為㆑允。後世謂㆓園地㆒為㆑庭非㆑是。
と云つてゐる。庭の字も場の字も皆ニハとはよむが、庭の字は家屋の前なるニハを專らさし、場の字は稻庭といふ如く必ずしも家屋の前に限らず、平坦にして庭場仕事をするに足る地に於いて作業するとき、その場所を示すものである。而してこの二字の使ひ分は今日もさうなつてゐる。これは文字の本義に適うた用法と認められる。
さて場の字は本来「ニハ」とよむべきものであるが、古くより「ウマバ」(馬場)「ユバ」(弓場)などと云つて来たのはいづれも古くは正しく「ウマニハ」「ユミニハ」と云つたのを後世音便の為にかやうに轉訛したものであらうが、かやうな例が多く生じ、その為に「場」の字が專らバといはれるやうになつたことと思ふ。
さてニハバといふ語を考へると、之は理窟づめにすれば「ニハニハ」といふ語の轉じたものといふやうに見えるけれども、実際はさうではなくて、上のニハは古来の形と意義とをそのまゝ傳承しつつ少しく変化して庭仕事の意義をあらはし、下のバはニハといふ語が既に変形してバとなり、その意義も亦場所の意に変じた、その「バ」といふ形と意義とを以て上の「には」を受けて、庭仕事の場所といふ意味でつくられた語であらう。
ここに至つて、ニハといふ語の本義を考へうる端緒を得たと思ふ。今の農家にいふ庭場仕事の場合のニハはまさしく新撰字鏡の「治穀處」又稻庭といふものに一致し、庭の字の本義も朝廷の政と行ふ場所の意を暗示してゐるものと思ふ。それ故にニハは平坦な地面に相違無いが、その平坦なといふことが主眼では無くして或る事を行ふべき地面をいふのが本義であり、而してその操作として平坦な地面が要求せられるのであらう。それ故に平坦な地即ちニハでは無く、平坦な地がニハとして用ゐられると考ふべきものであらう。
ここに至つて顧みて万葉集でニハといふ語が何を表してゐるかを考へて見る。先づ「家之庭」(四、五七八)といふ例がある。次に「庭爾出立」(八、一六二九)「爾波爾多知」(一四、三五三五)「庭立」(一六、三七九一)「安佐爾波爾伊泥多知奈良之暮庭爾敷美多比良氣受」(一七、三九五七)又「待君常庭耳居者」(二、三〇四四)といふのがある。これらは皆居宅の前の廣庭に出で立ち居ることを示してゐる。又「橘之花散庭」(十、一九六八)「吾園之李花可庭爾落」(一九、四一四○)はその庭の近くに果樹が植ゑてあつたことを示し、卷二十の四四五二、四四五三の歌は秋風に花が庭に散ることを云つてゐる。而して「遊内乃多努之吉庭」(一七、三九〇五)「多知波奈能之多泥流爾波爾等能多弖天」(一八、四〇五八)などはその庭は廣い場所を占めてゐたことを示す。又庭に草の生ひたの、それに蟋蟀の鳴くのを詠んだ例もある。(一二、一六〇、一一、二八二四、八、一五五二)又月の照してゐるを詠んだ例もある。(八、一五五二、七、一〇七四)又雪の降り積もつたのを詠んだ例もある。(八、一六六三、一、一八三四、十、二三一八、十七、三九六〇)以上はすべて居宅の前などにある廣い庭を詠んだのであらう。
さてここに「庭立」と書いた歌が二首ある。その一は卷四の
庭立麻(乎)手刈布慕東女乎忘賜名(五二一)
であるが、それは卷十四の「爾波爾多都安佐提古夫須麻」(三四五四)と或る点が似てゐる。今一は卷十六の乞食者詠の
足引力此片山乃毛武爾礼乎五百枝波伎垂天光須日乃異爾干佐比豆留夜辛碓爾舂庭立碓子爾舂云々 (三八八六)
である。これらは「立」をたつとよむかたちとよむか確かで無く、その解釋にも異論がある。そこで先づ卷十四の例を考へて見る。契沖は代匠記の初稿に
庭にたつ麻とつゝくることは第四に庭にたつあさてかりほしといふ歌に釋せり。第九に小垣内のあさを引ほしとよめるを思ふべし
とある。(清撰は簡略にしてある)そこで卷四に就いて見ると、「ニハニタツ」とよみ、初稿に
第十四東歌にもにはにたつあさてこふすまとよめり。庭にたつとはいやしき家にはよき人ならば庭として草木をうへてみるべき所までもそのにしてあさなどうふるなり。よつて庭にたつ麻といへり。
といひ、清撰も略同樣である。しかしながら、この説は後世の事を以て推して云つたもので隨ふ事が出来ぬ。万葉集の頃は我々が今日、庭園とか、せんすゐとかいふ観賞用の庭園はシマと云つてニハとはいはなかつた。この事は平安朝時代に入つてもさうなので伊勢物語に山科の禪師の皇子がみごとな泉水を造らせておはしましたのを右大將常行が申した詞に「島このみ給ふ君なり」といふことがある。この物語には別に前栽といふ語もあつて後世の庭園の前駈をなしてゐるが、しかし、またニハをいふ語を観賞用の築山泉水をさす語とはしなかつた。万葉集にはもとよりシマだけであつた。
さて万葉集には別にソノ又はソノフといふ語が屡見えるが、そこには梅(卷五、十、一九)橘(卷一七)桃(卷一九)李(卷一九)桑(卷七)(以上はソノといふ場合に見え)梅(卷一七)辛藍(卷十、一一)(以上は「ミソノフ」の場合)等を植ゑてあつたことが見える。而して卷十九の李は「吾園之李花可庭爾落」とあるから園と庭とは明かに別であつたことを見るのである。倭名鈔には園圃にソノ、ソノフの訓をあて、苑囿に「和名上同」と注し、本文には園圃は
四聲字苑云園圃所㆑以種㆓蔬菜㆒也、
と注し、苑囿は
周礼注云囿今之苑所㆔以城㆓養禽獸㆒也。
と注する。ソノの義に就いては箋注は曰はく
新井氏曰曾能蓋背野也。谷川氏曰即後園之義與㆘有㆓前面㆒者云㆗前栽㆖對。按曾乃園圃苑囿之総稱。曾能布蓋苑生之義與㆘栗田訓㆓阿波布㆒豆田訓㆗末女布㆖同。謂㆘可㆑種㆓菜蔬㆒者㆖是。曾乃布在㆓曾乃之中㆒。然則可㆘謂㆓曾乃布㆒為㆗曾乃㆖、不㆑得㆘謂㆓曾乃㆒為㆗曾乃布㆖也。從来多混㆑之無㆑別。
とあるが、随ふべき説である。之によつて思ひ起すことはセドといふ語である。之は
吾妹兒之家乃垣内乃佐由理花 (八、一五〇三)
和我勢故我布流伎可吉都能佐具良波奈 (一八、四〇七七)
鶯能鳴之可伎都爾爾保敝理之梅 (一九、四二八七)
などは或は今日いふ庭に当ると見れば、見られるけれども、卷十九の
和我勢故我垣都能谿爾安氣左禮婆榛之狹枝爾暮左禮婆藤之繁美爾遙遙爾鳴霍公鳥 (四二〇七)
とあるは頗る廣い区域であつたやうで、新考に
カキツノ谿は邸内ノ谷なり。二上山の麓なれば廣く占めたる邸内には丘陵も谿もあるべきなり。
と云つてゐるやうに、垣内は邸内といふ如き意で、屋敷として占めた区域をいふので前庭に限つたものでは無いであらう。又卷十三に
神南備乃清三田屋乃垣津田乃池之堤之 (三二二三)
とある垣津田に就いては諸説あるけれども古義に
垣津田は其御田屋の垣内の田を云なるべし。
と云ふのが穏かなやうである。随つて垣内には田もあつたのであるから畠も勿論あつたであらう。そこで小垣内之麻といふものは万葉時代にいふ所の庭に植ゑたのだと断言することは不合理で、その時代にいふ所のソノフやカキツに設けた麻田もありえた訳であらう。
しかし、今仮りに一歩を讓つて「庭に立つ麻」といふことを今の語の庭園に生ひ立つてゐる麻と釋する時には卷四の「刈干」は意味が通るやうだけれども卷十四の「安佐提古夫須麻」には通じない。麻布小衾は織物を仕立てたものであるから「庭に立つ」が浮いてしまふ。そこで略解の如く之を枕詞だといふ説が生じたのである。古義は之を
爾都爾海都は庭に
殖 なり。庭ノ面に殖生シてある麻と係るなり。(小衾といふまでにはかゝらず。)麻は專ら家庭に殖生するものなれば、かくいふなり。(庭とはいへど堅庭に麻を作るべきにあらざれば垣内の畠に作りたるをやがて庭に殖ツと云たるなるべしと宮地ノ仲枝翁云り)多都は古事記神武天皇ノ御歌に多知曾婆能微能とある多知に同じ。さて多都といふ言の表は麻の自ラ殖りてある意なり。(人の殖たるといふにはあらず)
と云つてゐる。一往道理あるやうだが、ニハとソノとの区別がついてゐない。なほその上に古義は卷四の歌について
庭立はニハニタチと訓べし。娘子が自ラ庭に立てなり。(庭に殖ツといふには非ず)麻乎刈干は娘子が自らなす業を云て、麻は布ニ並て干スものなればやがて布慕の序とせり。
と云つて別の意にとつてゐる。庭ニタツ と麻とが直ちにつゞく場合の二が全然別の意味にならぬともいへないが、しかし、二者相通ふ点があらうと考へるのが常識的であらう。随つて、若し、卷十四のが枕詞であるとすればここのも枕詞と見る方が穏当では無いか。略解は卷四では
さて庭にたちは麻の事にはあらず、おのれ庭におり立て麻を刈をいふ。刈れる麻がらを敷並べて干すをもてしきしのぶといひ下したり。
と云つてゐる。この釋ではその庭は麻の殖立つてゐる所であり、又刈つた麻を干す場所であり、さうした仕事をする娘子の手業をいふとして頗る錯雜したことがこの釋によつて示される。而して略解は卷十四のは枕詞だといふ。「庭に立つ」か「庭にたち」かの差はあるとしても下に麻をいふことは同じであるのに一は実地のしわざとし、一は枕詞だとしてゐる。之は矛盾では無からうか。新考は卷四の歌では
宇合常陸國守たりしなり。初二はシキの序なり。庭ニタツ麻ヲカリホシシクとかゝれり。シキシヌブは頻りに思ふなり。初二は賤女のしわざを以て序としたり。(中略)庭立はニハニタツとよむべし。卷十四にニハニタ都アサテコブスマとあり。ニハニタツは庭に生フルにてそのニハは
垣内 なり。
といひ、卷十四の歌では
ニハニタツは庭ニ生フルといふことにて麻の一言にかゝれる枕辞なり。卷四にも庭ニタツ麻ヲカリホシとあり。さにその麻は園又は堅庭にはあらで垣内の事ならむ。卷九には小垣内ノ麻ヲヒキホシとあり。
と云つてゐるが、ここにも矛盾に見える点がある。次に卷十六の歌は契沖は「サヒツルヤカラウスニツヤニハニタチカラウスニツキ」とよみ辛碓と碓子とに就いての説はあるが「庭立」の釋は下してゐない。略解はニハニタツとよみ、之も説明は無い。古義も略同樣である。新考も「ニハニタツ」とよんでゐるが、たゞ「庭ニタツも准枕辞なり」とあるだけで説明は無い。
以上を通じて見るに、同じくニハニタツとよみうるのに、卷四卷十四の歌には説明があつて、卷十六のには無いのはどういふ理由であらうか。凡そ普通に分つてをるものは往々解釋を略することは自然の勢である。「庭ニタツ碓子ニ舂キ」の方が「庭ニタツ麻」よりも分り易いとはいはれぬ。ニハを今日の庭園と考へた時に碓子は頗る線の遠いものとなる。麻には力をこめて説く諸家が碓子をば、略してしまつたのは腑に落ちぬ事である。
ここに思ふことはこの三の「ニハニタツ」は或は殆ど同じ意義のものであるかも知れぬといふことである。それに就いては先づ卷十六の歌の場合が正しく解釋せられねばならぬ。百姓傳記卷十五は
庭場道具、所帶道具、麻機道具名揃卷十五
と題し、その細目として「立ウスノ事」「カラウスノ事」等庭場道具の記事が先づある。之を以て見ると、その庭場仕事としてカラウスの作業をすることは古来常例としたものであらう。さうすればこの卷十六の歌の蟹と楡とを舂き交ぜることを庭場仕事として作業したものであらうと考へられる。若し、さうで無ければ、「庭ニ立ツ碓子ニ舂キ」といふことは意味が無いことになる。さて又百姓傳紀は上に引いた庭場仕事の記述につゞいて
夫ヲ庭場仕事ト云ナリ、其品々ヲ拵ルニ色々ノ道具アリ。諸國共ニ男ハ野山ノ業ニ隙ナク稼ギ、ミナ以テ女子共庭場ノ事業ヲ務ル遣モノヽ樣々コトニ損徳アル事ヲ辨へズ費多シ。
と述べてゐる。即ち庭場の仕事は主として婦女の担当であつたことを知る。そこで卷四の歌を見ると麻を処理するのは婦女であつたことが知られる。自分は幼時越後で老婆どもが水に浸した麻をいろ〳〵に処理してゐたことを見て今も記憶してゐるが、それも庭場仕事であつたのであらう。江戸時代の女大学宝箱といふ書にある庭場仕事の図を見ると婦女十五人に男二人で、その作業は殆んど全く婦女のわざである。平安時代のことは枕草子に賀茂の奧の田舍に赴いた際の記事ののちに
ところにつけてはかゝる事をなむ見るべき」とていねといふもの多くとりいでてわかき女どものきたなげならぬ、そのわたりの家のむすめをんななどひきゐて来て五六人してこかせ、見もしらぬくるべきもの二人してひかせて歌うたはせなどするを珍しく笑ふに、
とあるのは稻を扱く作業と脱穀の作業とを云つたので、この時代にも庭場仕事が婦女のわざであつたことと語つてゐる。又小説ではあるが、字都保物語吹上卷上に
間一に臼四つたてたり。臼一つに女ども八人たてり、米しらげたり。
とある。延喜式大炊寮式を見ると「舂采女丁八云々」とあるのでそれからの作業が婦女のわざであつたことを知り、又靈異記の狐為妻令生子記には「稻舂女等に間食を宛てむとす」といふことがある。又大嘗祭に於いても米を舂くのは古来女子のわざであつたことはその儀式の書によつて知られる。古事記上卷天若日子の葬事の記事に「雀を碓女と為す」とあるのは諸注にいふやうに「死者に供ふる米を碓にて舂く女」のことであらう。万葉集卷十四、相聞の歌に「稻舂けばかがるあが手を」(三四五九)とあるのは稻舂をする娘の嘆を詠じたものである。これらは皆万葉時代にも庭場仕事を婦女が行つたことを示すものである。
以上彼是を照し合せて考へるに、卷四のは娘子の詠であるし卷十四のも婦女の詠であらう。即ち婦女の作業として庭場仕事に從事することをニハニタツと云つたものと考へられる。卷十六のは婦女とは明かにいはれぬけれども、以上三首に通じてニハニタツといふことの意味を考へてみると、これらは皆今の語でいへば「庭場に出で立つ」といふ意味であらう。「立つ」は本来直立するといふ動作をいふのは勿論だが、ここは「役に立つ」「田に立つ」などのたつの意であらう。そららの例は
宮材引泉之追馬喚犬二立民乃 (一一、二六四五)
春日尚田立羸公哀 (七、一二八五)
などがある。さて卷四のは「庭に立ち」とよむことも出来るが、その時は庭場仕事として刈つてあつた麻を庭一面に布くといふことになる。卷十四のは「タツ」とよむことはきまつてゐるが、麻は庭に栽培するものでないから栽培の意味で枕詞にすることは容されぬ。而して麻布小衾であるからもとより栽培の意は無く、庭場仕事として処理した麻と見るより外にはとられぬ。卷十六のは碓の作業だから之も庭場仕事である。かやうに考へて来ると、麻の刈干と麻布と碓との三者に共通する庭といふものは農家の庭場より外にはあるまい。そこで自分は庭場仕事としての作業と行ふといふことを庭ニ立ツと云つたものだと考へるやうになつた。
万葉集には上の外になほ庭中のあすはの神といふことが卷二十にある。即ち
爾波奈加能阿須波乃可美爾古志波佐之阿例波伊波波牟加倍理久麻低爾 (四三五〇)
といふ歌である。古義は之に注して
爾波奈加能は
庭中之 にて庭の中央之 と云が如し。(庭内と云には非ず)
といひ、一首の意を釈して
其方の還り来むまでは此家の庭中に鎭庭す阿須波ノ神に木柴さし御室を造り、慇懃に幣帛奉りて旅行の恙なく平安ならむことを吾は祈祷りて斎ひ
拜 き待居むぞとなり。
と云つてゐる。これは稍十分な説明である。新考は古事記傳卷十六に
此歌にニハナカノとよめるを以て當民家の庭に
竈 神などと共にこの阿須波ノ神をも祭りしこと知べし。
とあるを引き、又古史傳卷十六に
銕胤云、己れこの頃上総國
武射 郡に行きたるに里人の門内にわたり一尺四五寸許なる小き家形を作りて屋根は藁に葺たるが所々見ゆあり。奇しく思ひて其郷人大高秀明に問けるに、此は誰にまれ、家なき人の伊勢参宮したる跡にては必かくして朝毎に飯茶など供ふるなり。いかなる神を祭るといふことは知ざれど、此あたり皆然する習ひなりといへり。これきはめて阿須波神を祭る意なるべし。かくて近き國々これ彼れ問試みたるに、同じ樣にする處もありといへり。彌古への遺風なるべし。但し伊勢参りに限りて然すと云ふは神祭りの旅行なれば恙なくと殊に重みしての事ならむかし。
とあるを引きて
これにて事切れたり。アスハノ神は旅行を守る神なりけり。
と云つてある。ここに思ふに、この庭はもとより農家の庭であらうが、その庭場をば臨時に阿須波神を斎ひ奉る所としたのであらう。昭和十六年正月元日に自分が皇太神宮に詣らうとして月読宮のまします中村を通つたが、そこの農家で見たのは庭の中央に小柴を二本立て注連縄を引きわたし、紙の埀をたれて神を祭つてある状に見えたが、それは一軒に限らなかつた。その後にそこを度々通つて見たけれども無くなつてゐた。之は恐らくは正月に特に設けたものであらう。
庭は大体上の如き意義のものと見えるが、この語はなほ汎い意義があるやうに思はれる。古事記中卷應神天皇卷に天皇が近江國に幸し給ふ際、山城の宇治野の上に御立ちあり、葛野を眺望し給うた時の御歌に
知婆能加豆怒袁美禮婆毛毛知陀流夜邇波母美由久爾能富母美由。
とある。そのヤニハといふに就いて古事記傳は
多くの民の
家居 の見ゆる由なり。さしも廣き葛野の平原 の内々に村々多かるべし。
といひ、稜威言別は
家庭とは家を敷ク地を云。船を漕海を船庭と云が如し。
と云つて、ここに吾人が問題とした「ニハ」に還つて来た。海にいふニハ大体かやうのことであらう。契沖は厚顏抄に之を
矢場モ見ユ歟。然ルヘキ者ノ住ム家多クテ垜ナト構へテ弓射ル事ヲ習フ弓場を見テ兵士多カラムコトヲ悦ヒ思召歟。
と云つたが古事記傳は「いみじきひがことなり」と云つて否認した。之はここの解釈としてはもとより不当であるけれども「矢場」(ヤニハ)といふ語はつとより在る。平家物語卷一の願立は
是によつて日吉の社司延暦寺の寺官都合三十餘人、申文を捧げて陣頭へ参したるを後二條関白殿大和源氏中務権少輔頼春に仰て是をふせがせらるるに頼春の郎等矢を放。やにはに射殺さるるもの八人、疵を蒙るもの十四人云々
とあり、この外保元物語、太平記等にこの語が屡出で一々あぐるに堪へぬ。之は古、合戰の手初として両軍相対して矢合をする。その両陣の相対する中間の場所をいふので矢合の場といふ義であらう。この外「いくさのには」「戰のには」「合戰の場」などといふのも之に準じて知られる。
又ユニハといふ語がある。日本書紀卷二天孫降臨の條に天照大神の勅として
又勅曰以㆓吾高天原所㆑御齋庭之穗㆒亦當㆑御㆓吾兒㆒。
とある「齋庭」を自注に「此云㆓踰貳波㆒」とあるにより、そのよみ方は明かである。この語は中臣壽詞に
天津御膳遠長御膳乃巡御膳止千秋乃五百秋仁瑞穗巡平介久安介久由庭仁所知食止事依志奉氐
とある「由庭」と同じ語で、平田篤胤は
斎庭は舊訓に由邇波と訓るが如し。此は大御神の大嘗きこし
食 すと齋 ひ淨 めたる庭 と云こと下に引く中臣壽詞の文の齋場 に準 へて知べし。
と云つてゐる。後世の大嘗祭の高場殿といふものも即ちここにいふ「ユニハ」である。その「ユ」といふのは釋日本紀に
齋庭大問以㆑斎訓㆑湯如何。先師申云、湯者潔齋之義也。大嘗祭由貴
とある「由」でこれは万葉集に「湯種」(卷七、卷一五)とある「ユ」も同じであるが、之は忌み清まはることをいふ語で、「ユヽシ」又は「ユメ」「ユマハリ」などいふ場合の語幹をなす「ユ」といふ語をニハ又タネに冠したものである。即ちユニハは潔齋し清めた庭といふ意であつて、神を祭る場所としたのである。さて又かやうに神を祭る場所を「マツリノニハ」ともいふ。日本書紀神武天皇記の「靈畤」をかく読むのであるが、日本書紀通釋に曰はく
通證に齋地也とあり。場は堅庭齋場の爾波に同じ。
とある。又日本書紀雄略天皇九年胸方神に関する記事に「壇所」とあるのを古来「カムニハ」とよみ来たが、これは「神庭」の義で、説文に「壇祭場也」、とあるによつて正しいよみだといふことが知られる。又「ウラニハ」といふ語がある。延喜式時祭式上に「卜御体」の條に
卜庭神祭二座
又同式齋官祈年祭祭神のうちに
卜庭神二座
とあり、之は龜卜を行ふ時に降臨を請ふ神であつて、卜庭とはその卜事を行ふ場所をウラニハと云つたのである。日本書紀卷一に天照大祖の武裝せられた記事に堅庭といふ語がある。古事記にそれと同じ事を
堅庭者於向股踏那豆美
とある、その堅庭を古事記傳に「たゞ堅き地をいふ」とあるけれども、たゞの地面をニハとは云ふべくもない。而して特に堅庭といふ以上特に築き堅めた庭をさしたのは疑ふ余地も無い。後世の農家の庭端は特別に築き堅めたものとしては堅庭と云ふべきであらう。
又ここに「サニハ」といふ語がある。それは古事記にも日本書紀にも仲哀天皇の記事にあるのであるが、古事記には
建内宿禰居㆓於沙庭㆒請㆓神之命㆒。
とあるが古事記傳は之に注して
沙庭は神と
降 し請 せ奉りて其ノ命 を請 ふ場 にて齋清 めたる由にて清場 の切 りたる名なり。(佐夜 は佐 と切 まる)書紀(神功ノ卷)に為㆓審神者 ㆒とある清庭 に候ふ人を云るなり、(されば此ノ審神者はサニハビトと訓べきなれども、其意にて其人をたゞに佐爾波 と云むも違はず。釋に公望私記ニ曰云々今ノ代號㆓撫㆑琴人㆒爲㆓沙庭㆒と云るはそのころも此ノ稱の遺 れりしなるべし)
と云つてゐる。日本書紀の文は
喚㆓中臣烏賊津使主㆒爲㆓審神者㆒
とあり、日本書紀通釋は
審神者 政事要略年中行事賀茂臨時祭引㆓此紀㆒曰審神分注或云審神者言審㆓神明託宣㆒之語也、在㆓私記㆒釋紀に兼方案之審㆑神者也。分明ニ請㆓知所㆑案之神㆒之人也とあり。先には建内宿禰大臣沙庭に居玉へりし事記に見えたり。
と釋して古事記傳の文をも引いてある。釋日本紀卷十一の審神者の述義に
師説沙者唱進之義也。言出㆓居神樂㆒稱㆓沙佐之庭㆓今代號㆓撫㆑琴人㆒爲㆓沙庭㆒者少有㆑意依㆑相㆓兼號㆒耳。
とあつて文永頃にもサニハといふ者が在つたらしい。之が後は訛つてサンバとなつたと思はれ、近世の能や芝居のはじめに必ず演ずる三番叟といふものもこのサニハから起つたものでサニハノオキナといふのをサンバ叟(叟はオキナ)といふことになつたと思ふ。しかし、ここには当面の問題の外であるから、之に止めておくが、「サニハ」の「ニハ」も上に述べ来つた「ニハ」と同じ意のものであるに相違無い。随つて古くは申樂を興行するにも庭と云つたことは世阿彌の風姿口傳の別紙口傳に
凡そ三日三庭の申樂あらん時はさしよりの一日なんとは手をたはいてあいしらひて云々
と云つてゐるなどで知られる。以上の外「いもひのには」「おほには」「にはの座」「にはのり」「にはかまど」「にはこぶ」など「には」といふ語の用例は少く無いが、いづれにしても皆何かのしわざをする一定の場所をいふので單に平面だといふだけのものでは無い。
ここに至つてはじめに問題とした
飼飯海乃庭好有之苅薦之乱出所見海人釣船 (三、二五六)
武庫乃海舶爾波有之伊射黒為流海部乃釣船浪上從所見 (同上、一本)
率兒等安倍而榜出牟爾波丹之頭氣師(三、三八八)
庭淨奧方榜出海舟乃執梶間無戀毛爲鴨 (一一、三七四六)
武庫能宇美能爾波余久安良之伊射里須流安麻能都里船奈美能宇倍由見由 (一五、三六〇九)
の歌どもの「ニハ」はいづれも海面の平穏なる場合をさしてゐることには相違無いが三八八のは「庭好く」にて海面の平靜なことを示し、三七四六のは海面に出航を妨ぐる事情の無いことを示し、二五六、三六〇九のは海面が出航に適するをいひ、二五六の一本のは出航に適する海面といふ意味であらう。即ちこれらのニハといふ語はいづれも海面に就いて述べてゐるのではあるが、單に海面といふ意味で無いことは「舶爾波」といふ一語だけでも考へられる。而して二五六、同一本、三七四八、三六〇九の四の例は漁場を云つたことは明かであり、三八八の例は航海の路上を云つたものである。それ故にここの「ニハ」も亦平穏な海面といふだけで無く、人が作業する特定の場所の意味を以て云つたものであらう。かくして顧みると彼の丹後風土記に「人宅遙遠、海庭人乏」とある海庭も浦島子の漁場での言であるから、その海庭即ちここのニハの意に同じいものであらう。
要するに「ニハ」といふ語は地形的に平坦な廣い面をさすけれども、それには同時にその用途がつきまとふ。即ち或るしわざを行ふに適する場所としての平坦な廣い地面又は水面をさすといふべきであらう。而してこれが古来種々の場合をさす語となり、いろ〳〵変化して「バ」といふ語を生じ、遂に「ニハバ」などといふ語も生じたものと思はれる。
然るにたま〳〵万葉集の歌詞としての「ニハ」がその意味を十分に認められずして海面をいふ場合に於いて特に不十分な見当のちがつた解釈が行はれた為に「日の和げる」といふ言に誤られ、且つ、その誤りはじめられた時代が「ハ」と「ワ」との発音の錯雜した時代でもあつた為に日和といふ字面が按出せられて大たる誤解を導き、その「には」の好きことが事実上日よりのよき事であつた為に「ひより」といふ語と日和といふ字面とがいつしか合体して日和の二字が「ひより」とよむべく固定した形になつたものと思はれる。
自分は万葉集をその時代の人の常識としてもつてゐた樣に再認識することが万葉集研究の第一義だと信じて多少の著述もした。しかしながら又中世の人が万葉集を読み誤つたことが基となつてその頃から後に生じた語も少からず有ることを知り、國語の学問としてはこの方面の研究も亦重要な点の有ることを思ひ、多少人にも勧めて見たが、その精神が徹らなかつたのか、別に之といふ研究も未だ世に公にせられてゐないやうである。然しながらこの方面のことは室町時代の頃から江戸時代、古学の復興する頃までの文藝即ち連歌俳諧、謠曲、淨瑠璃、御伽草子、草雙紙等の研究に於いて特に重要な点が存すると思ふ。而して、これらのうちには正しい國語学の正面の研究だけではかへつて分りかねるものが少く無いのである。ここに論じて来た日和をひよりとよむが如きはその著しい例である。自分はこの方面の研究の必要なことと提唱する為、一の例としてこの拙稿を草したのである。