「あめのみかど」考

古今和歌集巻第十四、戀四の讀人しらずの歌に

梓弓ひき野のつゝら末つひにわが思ふ人にことのしげけむ。(七〇二)

といふ歌ありて、その左注に

この歌はある人あめのみかとのあふみのうねめに給ひけるとなむ申す。

と記してある。又巻末附載の墨滅の歌の記事に

 巻第十三
 戀しくばしたにを思へ紫の下
犬上のとこの山たるなとりいさやイ川いさと答へよ我名もらすな。
 この歌ある人あめの帝の近江の釆女にたまへると。

ともある。巻第十四のは諸本同じであるが、巻第十三の墨滅の歌は元永本には本文にありて、「君か名もわか名も」の次に

帝の近江の釆女に給ける

と題して、この歌をのせ、その左注に

或本に萬葉集の第一巻にありとあり。

と記してゐるし、清輔本にはこの歌はのせてゐないけれど、元永本の「君か名も」の歌の下に

或本云、此歌或人天智天王ノアフミノウ子メニタマヒケルトナムイヒツタヘタル、此事不審也、

とある。これによると「君か名も」の歌をさすかのやうに見ゆるけれども、この歌にはさやうな問題がありさうに思はれぬ。恐らくは「いぬかみの」の歌をさしたもので、ここにその歌のないのは手落といふべきであらうが。それはそれとして、之を天智天皇の御製とした傳説があつたことを傳へてゐるのであらう。さうしてこの本心巻第十五を見ると、「もとかた」の「ひさかたのあまつそらにもすなまくに」の歌の次に片假名で

  アメノミカトノアフミノウ子ヘニタマヒケル
イヌカミヤトコノヤマナルイサラカハイサトコタヘヨワカナモラスナ
  ウ子ヘノ御カヘシ
ヤマシナノヲトハノヤマノヲトニタニヒトノシルヘクワカコヒメヤハ。

と記入し、その頭書に

或本有㆓此歌㆒」在㆓萬葉集㆒」イサヤカハトアリ」兩言無㆓御本㆒、

と記してある。

以上の左注にある「あめのみかど」をば古今集の註釋家は天智天皇を申すと傳へて來た。即ち勅撰作者部類には

天智天皇 諱葛城、舒明帝御子(古今)戀四 一。天命左書近江の采女に給ひける御歌 追加第十三 一。右同(後撰)秋中一。天智御製(新古)雑中一。(玉葉)秋下一。(新千)戀四一。

と記してゐる。その後撰集のは小倉百人一首巻頭の歌で、それには天智天皇御製と記し、新古今集のは、日本紀の「朝倉やきの丸殿に」の歌で、同じく天智天皇御歌と記し、玉葉集のは萬葉集の「渡つ海の豊旗雲に」の歌であり、新千載集のは萬葉集の「妹があたりつぎても見むと」の歌で、いづれも天智天皇御製と記してある。そこで顧みるに、後撰集以下のは明白に御名が出てゐるから問題は無いが、古今集のは「あめのみかど」とあつて、天智天皇とは無いから、別に「あめのみかど」即ち天智天皇をさし奉るのであるといふことが立證せられない限り、直ちに隨ふことが出來ない。

「あめのみかど」といふ語は、漢字で書く時に天帝若くは天皇といふ文字を宛ててよい樣だから、その意味でいへば、いづれの天皇をもさし奉りうることになる。さうすれば實はいづれの天皇をさし奉るのであるか、わからぬことになつてしまふ。そこで、これは、ある特別の天皇をさし奉つたのだといふことが證明せられねばならぬことである。古代に或る天皇を或る普通の名稱で申し上げた例があつたかといふに、仁徳天皇を聖帝と申し上げたといふ例がある。仁徳天皇を聖帝と申し上げたことは、古事記仁徳巻の本文及び序文、並に日本書紀仁徳巻で明かである。この聖帝の語も、いづれの天皇をもさしうるので、既に日本書紀では垂仁天皇紀に田道間守が歸朝して、天皇の崩御後なるを悲しみ慨いての言に、「頼㆓聖帝之神靈㆒、僅得㆓還來㆒、」とあるのでも知らるる。然るにその聖帝が、仁徳天皇の御號の如くに當時なつてゐたことである。それ故に天智天皇を「あめのみかど」と申し上げたことが有つたら、それを信じてもよい道理である。しかし、それには明白な證據が無くてはならぬ。

天智天皇の御事は日本書紀を唯一の據とする。天皇は舒明天皇の皇子にして葛城皇子と申し、又中大兄皇子とも申し、即位あり天命開別天皇とも申し上げた。しかしながら「あめのみかど」と申し上げたといふことは一向見えぬ。降つて院政時代の末頃に著したと思はるゝ水鏡を見ると、天智天皇紀の記事があるけれども、更にその樣なことは見えぬ。なほ他の史籍を見るに、扶桑略記は天智天皇を「田原天皇と號す」と云つた程の俗書であるが、(田原天皇とは光仁天皇即位の後御父施基皇子を追尊した稱號で、施基皇子は天智天皇の皇子である)之にもさやうな事は見えぬ。かくの如く史書にはかつて見えないが、諸の注釋は皆天智天皇とし、明治時代に出來た書として重きをおかるゝ赤堀又次郎氏著の日本文學者年表にも、天智天皇の下に「アメノミカド」と注してゐる。しかしながら史籍に根據の無いことは既に述べた所である。

然らば、この「あめのみかど」を天智天皇と認めたのは何の書にあるかと思ふに、古今和歌集目録に作者の名を列擧するはじめに、帝王二人と標して、天智天皇と平城天皇とをあげ、而して天智天皇の條には

天智天皇御製二首(戀)

と標して

諱、天命開別天皇、又葛城。舒明天皇太子。母齋明天皇(下略)

とあるが、「あめのみかど」と申すといふ記事は無い。しかしながら「戀」「二首」とあるのは第十四戀四の歌と、巻第十三戀三にあつたといふ墨消の歌、即ちいづれも「あめのみかど」と左注にあるのをさしたことは著しいのである。何となれば、天智天皇と明かに記した歌は一首も古今集にはなくて、この二首だけ左注に上の如く見ゆるのであり、後世之を天智天皇の御歌と認めてゐるからである。然るに、その目録の本文を見ると、第十四戀歌四の部には彼の左注のある歌を讀人不知一首とし、その次の「かへしてよみて奉りけるとなむ」と左注を加へたる歌をば近江釆女返歌一首と記してあるから、明亮に天智天皇とさした譯では無いやうに見ゆる。しかしながら、第十三戀三の標題の下に注して「他本、歌二首、天智天皇近江釆女」とあるが、これは彼の墨滅歌をさしたので、ここには明亮に天智天皇と認めて居るといはねばならぬ。然らばこの目録は「あめのみかど」を確定的に天智天皇としてゐるかといふに、さうともいはれない。即ち平城天皇五首(春一首、戀一首、秋三首)と標して、さて曰はく、

今案、如㆓此集序㆒者、以㆓聖武天皇㆒號㆓平城㆒歟。仍勒㆓聖武之子細㆒矣。

諱天璽國押開豊櫻武天皇、又雨帝、又號㆓諾良帝㆒。(下略)

と。これによれば、聖武天皇を又雨帝とも號し奉つたといふのである。この雨帝は「あめのみかど」とよむべきことは明かである。かくの如く聖武天皇を「あめのみかど」と認めてゐながら、かの戀二首の左注の「あめのみかど」を天智天皇であるとしたのは、何か他に確實な支證の無い限り、無稽の臆斷といはねばならぬ。この目録の著者藤原仲實は綺語抄の著もあり、院政時代の有數の歌學者であつたから、何か根據があつたかも知れず、又さうで無くとも、後人をして信頼せしめるだけの權威があつたであらう。それ故に先づ、この説は仲實を起點として論を進むることにする。仲實より稍後輩である歌學者藤原清輔の袋草子に、

難者云、如㆓古今目録㆒、號㆓天帝㆒天智天皇也如何。答云、件帝、一名號㆓天命開別天皇㆒之故也。

とある。之によれば、「天命開別天皇」の御稱號が「あめのみかど」といふ稱の基だといふことを示してゐるやうである。然らば「天命」といふ語を「あめのみかど」と讀んだといふことか、「命開別天」といふ上下をとつて、中略した語だといふことかの二者のうちであらう。

顯昭の古今集注巻十四に、上の左注について、

アメノミカド、ハ仲實朝臣古今目録云天智天皇也。今案、此天皇ヲバ號㆓天命開別アメミコトヒラカスワケ天皇㆒之故也。清輔云、聖武ヲモアミノミカドトイフベシ。天璽國押開豊櫻彦アメキヨキクニオシヒラキトヨザクラノヒコ天皇ト號スル故也。私考云、源爲憲モアメノミカドノツクリ給ヘル東大寺トカケリ。但コノアメノミカドヲ聖武トサダメバ、ナラノミカドハ一定大同〈平城/年號〉、ノミカドナルベシ。一書ノ注ニ、或ハナラノミカドトカキ、或ハアミノミカドトカヘテ、カクベカラヌヲヤ。近江釆女何代人乎、〈天智御代ニ伊/賀采女ハアリ〉天智天皇近江(大)津宮御宇五年、又聖武天皇天平十五年遷㆓幸近江甲賀カウカノ宮㆒、十六年四月都㆓難波㆒。八月幸㆓奈良㆒云々。又天武天皇ヲバ天渟名原瀛眞人アメヌナハラオキノマヒト天皇ト號スレバ、是ヲモアメノミカドトマウスベキカ。是ニカギラズ、天ノ字ツキ給ヘルミカドソノカズオホシ。然而ツ子ニハ天智天皇トオモヒナラハシタリ。又或人云、アメノミカドトハ天皇ト云事ナリ云々。コレハイハレズ、何ノミカドトサスベキコト也。

と云つてゐる。

しかしながら天命の二字ある故に天智天皇をさすといふことは既に述べた通り根據の無い事であり、又「あめのみかど」といふことは天皇といふに同じであるといふことは首肯すべき説である。しかしこれは汎稱で無くて、特稱であるが故に、「何ノミカドトサスベキコト也」と顯昭が論じたのは當然である。而して顯昭の頃には「ツネニハ天智天皇とオモヒナラハレ」てゐたことは、上述の通りであるが、それは正しいか否かを今こゝに問題にしてゐるのである。

袋草子には、天智天皇の下に「號天皇」とも注してゐるが、勅撰作者部類には上にもあげた通り、「天命」と注してある。天皇は「あめのみかど」とよみうるけれど、「天命」は「あめのみこと」とはよみうるが、「みかど」といふことは出來ないものである。「命」はどこまでも「みこと」で、「みかど」では無いから、いかにも信用をおくことの出來ないものである。しかしながら、仲實のこの説から後はすべて「あめのみかど」を天智天皇をさすとした。それ故に清輔は袋草子に右の通りの説をあげ、その書寫した古今集の奥書に作者を注したるうちにも、「天智天マヽ一首」とあるのである。これより後には何の疑を挾むものもなく、すべてこの説に據つてゐる。例へば、一條兼良の古今集童蒙抄の如きも、巻十四のうちに

あめの御門あふみのうねめにたまひける
 あめの御門は天智天皇を申也。

と云つてゐる。その後の注釋家皆然りである。かやうな説が殆ど確定的になつてしまつたことは、平家物語巻十一「劍」の條に

草薙劍をば執田の社に納めらる。あめの御門の御宇七年に、新羅の沙門道行、此剣を竊で、吾國の寳とせんと思て、竊に舟に藏して行程に、波風震動して忽に海底に沈まんとす。即靈劍のたゝりなりと知て、罪を謝して先途を遂ず。

とある。この事は天智天皇の御代の出來事であつたことは日本書紀に明かである。それより降つて、近代でも近松の淨瑠璃の信濃源氏木曾物語第三に、木曾が院御所を攻めたるにより院の落ちさせ給ふ道中を叙して

いともかしこき御くらゐを、こゝにうつして十ぜんじ、あめの御かどの御べうぞを御心計ぬかづきてうちすぎ給へば、

とある。これは山城國山科郷中の四宮河原觀音堂の一時倒壊したのを復興して十禪寺と云ふその寺と、その近くにある天智天皇の山陵即ち山階陵とをさしたのであるが、その邊一帶の地をば、この山陵を基として御廟野といふのである。それで同じく近松の淨瑠璃蝉丸に

うたの中山せいがんじ、あのかみがきのとしふりしあめのみかどの御べうのよ。ゆんでのをかのべと御手をとりてをしゆれば、

ともある。即ち京都より逢坂の關の邊に行かうとすれば、山階陵は左方に當りて見ゆるのである。それ故に以上の淨瑠璃にいふ所の「あめの御門」は天智天皇をさし奉つたことは明かである。

しかしながら「あめのみかど」といふ語は「天皇」といふに同じい語であることは、平家物語巻十劍巻に、天叢雲劍の事を叙して

大蛇の尾のなかに在ける時は村雲常に掩ければ、天の村雲劍とぞ申ける。大神是をえて、天の御門の御寳とし給ふ。

とある例でも知らるる。かやうに汎く天皇を申すべき語を特に或る天皇の稱號としたのは、「聖帝」といふ語を以て仁徳天皇をさし奉つたと同じ樣に、特にその天皇にさ樣に申し上げる樣になつた因縁が無ければなるまい。或は天智天皇は、皇家中興の宗であらせられたからであらうと考へられぬものでも無い。しかしながら、それならそれで、古今集の前後にそのやうな稱號が行はれてゐたといふ證據が無くてはなるまい。

以上の如く、「あめのみかど」、即ち天智天皇であると信ぜられて來たが、契冲はさすがにそれに盲從し得ないで疑を存してゐる。即ち古今餘材抄第七に彼の左注について次の如くいふ。

此歌六帖には、弓の歌にならのみかとゝて載たり。此天のみかとを、いづれの帝をか申すといふに付て、ひとつには天智天皇を申す。御諱天命開別アメミコトヒラカスワケ尊御諡天智天皇なれは事よれり。

と云つてゐる。しかし天命を「あめのみかど」とよむことは無稽の説であることは既に説いた所である。契冲は次に

大津宮にましましけるに、後の滅歌にとこの山なるとよませ給へるも、共に近江の釆女に賜へれば其よしあり。

と云つてゐるが、これは近江の釆女を以て近江宮の釆女と考へたので、それの誤であることは下にいふ通りだから、これも取るに足らぬ。次に

ふたつには聖武天皇をも申すともいへり。ならのみかとゝいふに異議あれど、一説によらば聖武天皇を申奉るなるを、今の歌六帖にならのみかとの御歌とせり。又六帖にあめのみかと

道にあひてゑみせしからにふる雪のけなはけぬかにこふてふわきもこ。

けさの朝け雁かね寒くなきしなへ野への浅茅そ色付にける。

此二首、萬葉には聖武天皇の御歌なれば、さてはあめのみかとは聖武の御事也。清輔朝臣の袋草子、此義によられたり。是に付て愚案をめぐらすに、あまのみかとにすべていづれのみかとをも申へし。必そのみかとゝ限りて申へきにあらしと存す。其故は上に引兩首萬葉に天皇御製歌とて戴たり。是は時のみかと聖武にてまします故にかけり。天皇をは、和訓にはすへらみこととこそよめど、六帖にはこれをあめのみかとゝよみて、聖武の御名と思へり。聖武より以前のみかとをも天皇とかき、孝謙天皇をも時に當りては天皇とかきたれば、定まれる御名にあらず。委、彼集を考て知べし。しかれば六帖のみならず、此集にも彼集を見損して、聖武をあめのみかとゝ申すと心得るより、彼集になき今の歌も聖武の御歌といひ傳へたるをかくは注したる歟。次にとこの山なるとある歌は、萬葉第十一に作者未詳歌なり。當集に誤て入たる歟。されども滅歌なれば、慥ならず。三つには萬葉第廿に、

かしこみやあめのみかとをかけつれはねのみしなかゆあさよひにして。

此歌は、天平勝寳八年十一月二十三日大伴宿禰池主家にして、大原今城が傳へ誦する歌にて作者朱詳としるさる。此あめのみかと、いつれとも知かたし。歌のやう、哀傷ときこゆ。今年五月に聖武天皇かくれさせ給へば、歎き奉りてよめる歌などにや。されどそれならば、當時の事にて誰と知るべきにや。其上、此歌の上に藤原氷上夫人ヒカミノオホトシの歌あり。

あさよひにねのみしなけはやきたちのとごころもあれは思ひ兼つも。

此夫人は天武天皇白鳳十一年にうせられければそれよりさき帝をこひ奉りてよみ給へる歟。これにつゝき似たる歌なれは、天武天皇の宮女のよめるにや。しかれは、此あめのみかとはいつれの御事と定かたけれは、所詮惣名にして別名にはあらさるへし。

契冲の説は「あめのみかど」といふ語の一般論としては、まことにその通りといふべきである。されど、その見るところはたゞ「天皇」といふ語のよみ方をのみ論じて、何故に聖武天皇に限りて「あめのみかど」といへるかといふことには觸れてゐない。しかしながら問題は惣名の論では無く、契冲の所謂別名であつて、顯昭の「何ノミカドトサスべキコト也」と云つた態度の方が、今の問題に於いては必要なのである。それ故に、契冲の説はこの問題に關しては、全く採るべき點が無いのである。この後、賀茂眞淵にも説があるけれども、これも何等首肯せらるべきものが無い。

以上の如くにして、契冲などの説もあつたけれども、何等決定的の結末もつかず、依然として「あめのみかど」は天智天皇をさしたのであらうといふやうな程度のことで、今日に及んでしまつた。

さて古今集目録に、聖武天皇の條下に「雨帝」とあるのは、蓋し「天帝」と書くべきのをば、俗語にわかりよいやうに、「天」を「あめ」と讀むことを明かにする爲に、わざとかやうに書いたものであらう。この事は、文永本三寳繪詞に「天下」を「雨下」と書いてある(すべて十一例あるうち、五が假名で、他は雨下と書いてある)ので、想像に十分である。これは天を、アマともアメともよむから、アメとたしかによませる爲に書いたものであらうが、或は後世「雨帝」の文字にとらはれて、「天帝」と同じ語だといふことが分らなくなつたのかも知れないけれども、「雨帝」、「天帝、」、「天皇」、共に「あめのみかど」どよむべくして、同語の異字と認めなくてはならぬ。それ故に、古今集の左注は、仲實自身の注記により、聖武天皇をさしてゐると認むるのが、妥當であるといはねばなるまい。然るに、仲實が「あめのみかど」をば天智天皇としたのは、雨帝の文字をば、「あめのみかど」とよんでも、「雨」の文字にひかれて、「天帝」「天皇」と枕詞の語だと考へたのであらうかとも思はるゝが、契冲が考へたやうに、近江釆女に賜はつた點にも引かれたのでもあらう。近江釆女といふから近江宮の釆女をさしたといふ考は、歴史を知らないものである。仲實の頃に釆女の職名は未だあつたけれど、その古の制度は既にこはれて、二三百年も經過した後のことであるから、古の制度が分らなかつたかも知れない。今の制では、釆女は六十六人、六十人は膳司に、六人は水司に屬して、供御の飲膳に奉事したものであるが、いづれも諸國の郡領の女を徴せられたのである。それ故にそれらの釆女は、その出身の國名を以て呼び更に委しくはその郡名をもそへて呼ばれたものである。伊勢國之三重(郡)釆女(古事記)、伊賀釆女(日本書紀)、因幡國高草(郡)釆女(聖武紀)、吉備(國)津(郡、後世都宇)釆女(萬葉集)、出雲國釆女(類聚國史大同二年紀)、するがのうねべ(古今六帖娘五)など、その實例である。それ故、奈良朝及びその以前にあつて、近江釆女といへば近江國出身の釆女といふことで、近江宮の釆女といふことでは無い。その奉仕の宮城の名を以て釆女を呼んだといふは、古今に無いことである。それ故に近江釆女といふから、近江朝の釆女であり、即ちその天皇を天智天皇と推定したといふことならば、それは全く無智から生じたもので、全然根據の無いことである。

それで私は、上の古今集の歌そのものから勘ふることにする。先づその巻第十三の墨滅の歌は既に清輔本の頭注にある通り、萬葉集巻十一の寄物陳思の歌の、

狗上之鳥籠山爾有不知也河不知二五寸許寸須余名告奈。(二七一〇)

をさしたので、(多少の讀違ひは時代の爲である)讀人不知の歌としてあげてあるが、天智天皇の御製とは無い。巻十四の歌は、萬葉集に似た歌も見えないが、古今和歌六帖には第五帖「弓」に、

                                    奈良のみかど
梓弓引野のつゝら末つひに我が思ふ人に事の繁けむ。

とあつて、全く同じである。而してここは「奈良のみかど」と註してある。さうして古今集にその釆女の返し奉つたといふ、

夏引の手びきの糸をくり返しこと繁くとも絶えむと思ふな。(七〇三)

といふ歌は、六帖の第五帖「いと」の最初に載せてあるが、それには作者の名も何も無い。さうして、かの巻十三の墨滅の歌は、六帖の「名を惜む」の項に

                         あめのみかど
犬上や床の山なるいさゝ川いさと答へて我名もらすな

とある。少し語の變りはあるが、同じ歌であることは明かである。そこで、古今六帖は一を「ならのみかど」とし、一を「あめのみかど」としてゐる。今之を仲實の古今集目録の平城天皇を聖武天皇としで、さて

又雨帝、又號㆓諾良帝㆒、

とあるに照すときには、この二首ともに聖武天皇の御歌だとしたのだとも見らるゝ。以上の二首は、古今集と古今六帖とに作者の傳へがあるのであるが、古今集は表面は讀人不知としてとり、異傳として「あめのみかど」の御歌といふ説を左注にしたのである。古今六帖にいふ所は「あめのみかど」「ならのみかど」、同じ天皇といふ説であげたものやら、又その出典のまゝあげただけのものやら、臆測することは出來ぬ。

ここに今一歩進めて、古今六帖に上の作者名で示した歌がなほあるかと顧みるに、第六帖「あさぢ」の條に、

                          あめのみかど
けさの朝け秋風寒く聞しなへ野への淺茅は色つきにけり。

といふのがある。之は萬葉集巻八に

天皇御製歌二首

と題してあるうちの一首で

今朝乃且聞鴈之鳴寒聞之奈倍野邊能淺茅曾色付丹來(一五四〇)

とある歌の少しくかはつたものである。ここに天皇とあるのは、聖武天皇をさしたのであることは、明亮にして毫も疑ふべきでは無い。

又第五帖「思ひいづ」の條に、

                         あめのみかど
道に逢ひてゑみせしからに降雪の消えはけぬかにこふてふわぎもこ

いふのがある。これは萬葉集巻四に

  天皇思酒人女王御製歌一首
道相而咲之柄爾零雪乃消者消香二戀云吾妹(六二四)

といふ歌の古きよみ方であつたに相違無い。古今六帖に、「あめのみかど」の御製としてあるのは總計三首であるが、いづれも萬葉集にある歌で、二首は萬葉集が聖武天皇の御製であることを明記してゐる。他の一首は讀人不知の歌で、天智天皇の御歌だといふことは何も證せられぬ。

さて飜つて、古今六帖は「あめのみかど」を天智天皇のことだとしたのかと見るに、第二帖「かりほ」の條に

                          天智天皇
秋の田のかりほの庵の苫を粗み我衣手は露にぬれつゝ。

といふ後撰集にも「天智天皇御製」としてある歌がある。それ故に六帖は、天智天皇と「あめのみかど」とは別のお方だと信じてゐたに相違ない。そこで之を萬葉集に照すと、聖武天皇をさしてゐることは、もはや疑ひは無いことになつた。

さて古今集の「あめのみかど」の歌だといふうちの一首は、六帖では「ならのみかど」としてゐる。その「ならのみかど」は聖武天皇であるかどうかは、別に考へて見ることを要する。六帖にはなほ三首ある。第六帖秋萩に

                           ならの帝
萩の露玉に貫むと取れはけぬ、見ぬ人は猶よそながら見よ。

とある。之は古今集巻第四秋上に、讀人不知の題として

萩の露王にぬかむととればけぬ、よし見む人は枝乍ら見よ
 ある人の曰はくこの歌は奈良の帝の御歌なり。

とあるのと、少しく形の變はつたのであらう。又「らに」の條に「ならのみかど」と名を署して、

                            ならのみかど
折人の心のまゝに藤袴うべも色こく咲きて見しけり。

とある。之は大和物語に

ならの帝位にお君しける時、嵯峨の帝は坊におはしまして云々

とある際の「帝御かへし」とある

折人のところにかなふ藤袴うべ色ことに匂ひたりけり。

といふ歌をさすのであらう。これによれば、ならの帝は平城天皇をさす。又第六帖「はゝそ」に

                          奈良の帝
佐保山が柞の紅葉散ぬべき夜さへ見よと照す月影。

とあるが、これは古今集に讀人不知として、第三句を「散ぬべみ」としてある歌である。これらも讀人不知としたのが多く、古今集の左注に「奈良の帝の御歌」とあるのが一首に止まり、萬葉集には見えぬものでもあり、口ぶりも萬葉集以後らしいから、聖武天皇では無く、平城天皇の御製と傳へられたものであらう。

そこで古今集の「あめのみかど」といふ左注は、古今六帖に、一首は奈良帝の御製と傳ヘ、一首は「あめのみかど」と傳へてゐるが、その「あめのみかど」と傳へたのは、萬葉集にあつて聖武天皇の御製であることは明かである。隨つて、「あめのみかど」は聖武天皇を申したので、古今集の左注は、いづれも聖武天皇の御製と傳へた説に據つたものと考ふべきであらう。

さて、かくの如く、「あめのみかど」は特稱として聖武天皇のことであらうことが考へらるゝが、それは既に、古今集目録が示してゐるのである。しかもそれは、それよりも先に源爲憲の三寳繪詞に明かなのである。顯昭が

源爲憲モアメノミカドノツタリ給ヘル東大寺トカケリ

とあるのは、三寳繪詞をさしたことは明かである。その下巻、東大寺千花會の條の文の初に、

東大寺はあめの御門の立たまへるなり。

とあるが、顯昭のいふ所はこの文のことであらう。同巻御齋會の記事の末に

あめの御門の御女高野の姫と申御門の御代、神護景雲二年よりおこれる也。

とある。「高野の姫と申御門」は孝謙稱徳天皇で、聖武天皇の皇女であることは、事新しくいふまでも無い。又布薩の條に、唐僧鑑眞が來朝して之を傳へたことを説いてあるが、その來朝の際の事を説いて

あめの御門たふとび給て、東大寺にすゑて供養し給ふ。

とある。鑑眞の來朝したのは、本文にもいふ通り、天平勝寳四年で、聖武天皇の御世である。又法花寺花嚴會の條に「法花寺は光明皇后のたて給へる所なり」と説きはじめ、その文の中に

あめの御門の東大寺、及び國々の國分寺をたてたまへる事も、本この后のすゝめ給へる所なり。

とある。光明皇后の聖武天皇の皇后であり、東大寺及び諸國の國分寺は聖武天皇の建てしめられたことは誰人も知つてゐることである。又巻中行基菩薩の條に、

天朝ふかくたふとび給て、一向に師とし給、天平十六年冬はじめて大僧正の職をさづけ給、度者四百人を給。

とある。この事は續日本紀にある事で、天朝は聖武天皇をさしてゐることは明かである。この「天朝」に當る處を、前田本三寳繪は「天帝」と書いてあり、東寺本は天朝の訓として「アメノミカト」を旁註にしてゐる。即ち「天朝」「天帝」共に「あめのみかど」といふ語を漢字で書いたので、文字の面も語自体も、いづれの天皇をもさし奉るべきであるけれども、事實は聖武天皇をさすに限つてゐることは、三寳繪詞に五ヶ所あるものすべてそれであることが實證してゐる。ここに於いて、この三寳繪は東大寺切にも「あめのみかど」とある(巻中行基條、巻下法花寺花嚴會條。他は逸す)から、先づは源爲憲の原文に既にさうあつたものと推定せらるる。而してその前後に、古今六帖も撰せられたらしいから、平安朝中期までは「あめのみかど」は聖武天皇を專ら申し上げたことを見るのである。

かくてなほ、他の方面を顧みると、東大寺要録巻一、序文の冒頭に

原夫東大寺者、平城宮御宇勝寳感神皇帝御願、天下第一大伽藍也。

とかき、本願章第一のはじめに

天璽國押開豊櫻彦天皇者、當伽藍之本願、勝寳感神聖武皇帝、俗號天帝是也。

と記してある。天帝の字面は、前田本三寳繪にも用ゐてゐることは上に述べておいた。東大寺要録は、嘉承元年の序文があが、巻十の奥に、

長承三年八月十日 東大寺僧觀嚴集之

とあり、堀河天皇の御代から崇徳天皇の御代にかけて編集したものである。その頃の俗に聖武天皇を天帝とも申したといふことが之でわかるのである。これによつて推すに、古今集編撰の頃、古今六帖編撰の頃に「あめのみかど」と申したのに聖武天皇であつたことは、もはや少しの疑ひも無いことといはねばならぬ。

かくの如くであるに關らず、東大寺要録の編集と略時代を同じうし、寧ろそれよりも稍先になる藤原仲實が、聖武天皇を兩帝と申すといひながら、古今集の左注の「あめのみかど」を天智天皇と申したのが不審といはねばならぬ。而して、同時代に出來た東大寺要録が聖武天皇の俗稱だと云つてゐるのであるから、天智天皇であるとするのはこれより古くにはあるまいと思ふ。さうであるから、この誤は古今集目録に源を發してゐると見るべきであらう。

終りに、聖武天皇が何を以て「あめのみかど」を俗稱として專らにせられたのかと考ふるに、恐らくは東大寺建立に關するものであらう。東大寺の本尊はその金銅像の偉大壯麗なること當時三國一(即ち世界一)と信ぜられ、隨つてその功徳洪大無邊と仰がれたことは、續日本紀、天平寳字二年八月の淳仁天皇の勅に、「開闢己來、未㆑聞㆓若㆑斯盛徳㆒也」とあるのでも知られる。東大寺要録には、法花會縁起にこの天皇を大雄大聖天皇とも申してゐる。かくの如く、佛者から見れば古今無雙の聖帝と思はれたから、天皇といふべき汎稱を特稱として、道俗共に仰いだものであらう。しかし、京が山城に移り、天台眞言の新宗旨が勢を逞くするにつれて、南都の古宗の信仰も減じ、大佛の威光も漸次に薄らぎ、終に平安朝期の末に大佛殿も燒き拂はれ、大佛も頭首が燒け爛れ落つるに及んでは、もはや何程の威力も無くなつてしまつた。この樣な時代になれば、この大佛に因つて起つた「あめのみかど」の俗稱も忘れられるのは、自然の事であらうが、その權威は平安朝中期以後は既に薄らいでゐたやうだから、「あめのみかど」の俗稱、もとより俗稱だから、俗人の心の移りかはりが、その俗稱をも忘れしめたであらう。かくして仲實の誤認も生じたのであらう。

しかしながら、聖武天皇を俗に「あめのみかど」といふことが忘れられたから、「あめのみかど」即ち天智天皇であるといふことを生じたと簡單にいふことは出來ない。これには天智天皇をば特にかういふやうに申す所のやはり一の俗傳が生じて、それにかはつたと見なければならぬ。天智天皇は所謂大化改新の中心として仰がれ、奈良朝時代の宜命にも國家法制の基づく所がこの天皇にある由を屡宜せられ、又三善清行の上つた革命勘文にも「大祖神武之遺蹤」「中宗天智之基業」といひて、この天皇を中興の祖と稱へたのであること、神皇正統記にある

此天皇の祖にて御座す。國忌は時に隨ひてあらたまれとも是は長くかはらぬ事に成りにき。

といふ文でも明かである。かくの如くにして、聖武天皇を「あめのみかど」と申したことが忘れられたその空虚を滿したのであらう。而してこれは聖武天皇をさし奉つたよりも一層薄弱なもので、俗稱ともいひ難く、無稽の説といはねばなるまい。


初出
藝林 2(1): 2—18. (1951)