「印刷文化」について

「印刷文化」について

活字ないし印刷の歴史を主題にした小説「光をかかぐる人々」を書いたについて、感想を書けといふ本誌からの註文であるが、その歴史的詮索や科学的判断についていへば、私はこれといつて誇るべきものをもつてをらぬし、専門家ぞろひの本誌で何か喋べるほどの度胸も自信もありはしない。しかしまた小説書きといふものは、それ自身がつねに専門家とはべつなもの、素人的、大衆的、普辺的なものに根拠をおくことによつて成たつといふ特徴から、おのづからの印刷文化なり、印刷歴史なりへの感情や見解をもつてゐるかも知れぬ。

こんど印刷方面の歴史をはじめ、いろんな方面の専門家を訪ねあるいて感じたことの一つは、当然のことではあらうけれどなかなかたいへんだといふことだつな技術方面にしろ、歴史方面にしろある分野を開拓し、そこに城廓をかまへ主となるには、時間的にもたいていが相当の年輩にならねばならぬ。一方では不断に論敵をもち一方では酬はれざる現実とたたかはねばならぬし、人それぞれに生涯がうちこんである。もちろん政治家、軍人、事業家等々、凡ゆる職域の人々も生涯をうちこんでゐることは云ふまでもないが、後者の場合はまだしも世間の動きによつてむかふから近づいてくるものと、または己れの才能によつて直接にはたらきかけられる機会が多いが、歴史家などの場合になると、才能はもちろん必要ながら、それだけでうごかし得るチャンスは至つて少ないやうだ。たとへばある偶然から一つの史実が発見さるるまでは、どんな才能ある史家も何年何十年の功の少ない努力をつづけるより仕方なく、しかも偶然の発見を、発見としてとらへるためには功の少ない努力が何十年もつづけられなくては不可能である。こういふ苦労もまた史家方面のみではないか知れぬが、では偶然の発見がいよいよかねての推論や主張を裏書きして、歴史部門に一段階を劃するやうな功労が樹てられたとしても、この史家に酬はるる現実的なものが一たいどれくらいのものだらうか? とにかくそういふ現世的な報酬をめあてでは歴史の学問はやれないといふだけでも、なかなかたいへんだと私は考へた。

ことに印刷方面の史家とかいふことになると、その人の才能と努力の如何にかかはらず一層の困難がつきまとふ。たとへばこれを出版された日本の印刷歴史ないし技術書といつた書物の方面からみても、従来一般の出版書店から発行されたものを殆んど見たことがない。たとへば「世界印刷通史」は印刷会社の記念事業であり、「印刷文明史」は毎日新聞社長の後援であり「古活字板の研究」は安田文庫が版元である。稀れに新村出氏の「南蛮広記」や西村貞氏の「日本銅版画史」などといつたものがあるけれど、これは題字の示すとほりのものであつて、出版者なり読者なりのネラひは、その科学技術史とはむしろちがつたものにあるだらう。要するに日本の印刷歴史、技術歴史といつたものは、まだ日本のジヤアナリズムの世界には充分にあらはれてはゐないと云つてよい。このことは他の一般歴史家に比べても、印刷といふ特定の史家の困難な条件の一つであり、これから推してゆけばその他の製糸業とか、機械工業とかいふ科学技術方面の史家も同様であらう。

しかし、歴史とさへいへば一般に、その国の政治的変遷、あるひは著名な人物の伝記ぐらひであるかに読者大衆は考へてゐても、そう思ひこませてゐる間は、罪は読者の側にあるのではなく、そうさせてゐる側にあるのだらう。ではそうさせてゐる側とは何であらう。たとへばすぐれた日本の印刷歴史書であるにも拘らず、その出版を全体的に避けてゐた営利的な一般の出版書店か? あるひはその著者が生涯をかけた大著述であるにも拘らずこれをごく少部数の限定本として読者大衆の眼からは至つて遠いところにおいた著者自身の、あるいひは後援者の趣味のせいか? (たとへば「印刷文明史」は数千頁の本文と千数百葉の装画がいれられた五巻の大書物であるが二百部でしかなく、「古活字板の研究」も五百部でしかない。この部数の限定の仕方は売行や採算の問題も超へたものと私は思ふ)

さらにいま一つは「業界」的な枠のせいか? 一方からいへば業界の心ある人々によつて印刷史家たちの得た便宜や援助は前例しただけでもわかることであるが、また一方からいへばそのことが却つて業界の枠内だけでものをいふ、もつと極端にいへば特定の事業の歴史と特定の著者とが馴れなづむ、つまり一般読者の世界にをどりだす以前に、無意識にではあるが足をさらはれるやうな陥せいが、多少にかかはらずあつたと思ふ。

このへんは個々の場合を推していつても批判はしにくい事柄であり、善悪功罪の判断はむしろ当時の世間状態にもとめてゆかなければなるまいが、いづれにしろこれらも結果的には印刷史家たちの困難な条件の一つとなつてゐることは疑ひない。また以上にあげたほか、歴史家一般として共通する印刷史家の困難条件も幾つかあるだらうと思ふけれど、しかし以上に限つていふなら、多少は印刷史家自身によつて解決可能な問題ではあらう。つまり不遜をかへりみずにいふならば、読者大衆をしてさうさせてゐる側の直接の責任者は、出版書店でもなく、業界でもなく、つまりは著者自身にもあると思ふからである。何故といつて、概していへば日本の印刷歴史書の多くがあまりに非大衆的だからである。あまりに綜合的でなくて、分派的だからである。つまり印刷業ないし印刷術に縁故のない読者にとつては面白くないからである。

今日、日本印刷文化協会が出来て、国家的見地から従来の無統制な営利本位な業界に君臨するようになつたことは、とにかく劃時代的な出来事であつて、従つて協会はその国家的立場から自からなる性格と主張をもつに至るであらう。そして私の察するところでは、協会はその事業として単に放恣な営利性を取締るのみでなく、国民一般に印刷産業がもつ社会的機能ないし文化的役割、ひいては日本の印刷科学の発展歴史や、現在及び将来にわたつて果すべき印刷事業の重要性を納得させる任務をも持つとすれば、従来以上に史家ないし専門家の役割は大きいにちがひない。国家が今日遂行してゐる戦争に「大東亜」と名づけらるるがごとく、アジアの全域にわたつて勝利が強化されてゆけばゆくほど、印刷機と活字とが果すべき任務の重要さは測り知れぬほど大きいことを思へば、またわれわれ国民も印刷文化ないし印刷技術なるものについて多少に拘らず概念をもつてゐるべきだからである。これは敵国の例ではあるが、アジアにおいて最初期に鉛の漢字活字をつくつてヨーロッパ文化を東洋に導きいれる大きな機会を与へた英国人ダイヤーは印刷術については全く素人だつたにも拘らず、当時のロンドンにおける印刷文化の昂揚と、相当に普及された印刷技術知識によつてのみ成し遂げられた顛末が「支那叢報」にくわしくでてゐる。

しかしさて印刷科学について国民一般に関心をもたせ概念を与へると云つても、生活的には印刷業と直接関係ない人間にとつては、単に技術上の課程を叙述しただけでは、何の感情もおこさせることが出来ない。もともと「技術」なるものはその人間が直接必要に当面した場合にのみ獲得さるるものであつて、今日のやうに個人的には名刺、葬祭用の端書印刷から、一般的には新聞、書籍に至るまで、他人の技術によつて容易に必要が満たされる分業化の時代にあつては尚さらさうであらう。ここにわが国の歴史が示すが如く、機械化された印刷術が明治維新前後のわづかな期間に、自動車の如く、電車の如くある程度既成品として流れこんだ傾向をもつてゐる場合本木昌造とか、木村嘉平とかその他多数の日本活字創成のために辛苦した日本人があつたとしても、なほ近代印刷術に対する身に泌みた歴史的認識といふか、関心といふか、そんなものは比較的少いにちがひない。

近代印刷術の日本における歴史は特殊事情だけれどもそういふ事情をべつにしても、高度化された専門技術を生活的には畑ちがひの人間にいきなり押しつけても興味がおこらぬは当然である。科学一般となればまだしものこと、科学の一分野は、特定の人間を除けば、人間生活にとつて枝のまた枝であるからだ。科学はそれ自身無感情であり、活字も、印刷機もそれ自体ではただの物質でしかないのである。

従つて、印刷術ないし印刷文化が国民一般、読者大衆の関心を喚び起すには、国民一般の生活と結びつかなければならぬ。印刷機が、活字がそれ自身感情をもつ生物となつて読者大衆のまへにあらはれなければならぬ。印刷術なり、印刷事業なりには何の縁故をもたぬ、新聞は毎日読んでゐても、この印刷が、紙がいかにして作られたかと考へたこともない人々の生活感情へも縁故あるものとして立ちあらはれなければならないだらう。そのためには印刷術なるものが、科学の一分野から飛躍して、学問として、芸術として存在しなければならぬだらう。さらに学問として、芸術としての在り様が、今日よりもつと、政治的にも、経済的にも広汎に理解されねばならぬだらう。つまり人間生活の一個が、あらゆる面を内包してゐると同様の、その境地以上にまで達しねばならないだらう。

たとへば一個の鉛活字の工程および技術はかくのごとくであると叙述するよりも、昔はこうやつて作つたが、現在はかくのごとく作られると叙述されればより歴史的である点で読者の一般感情にふれやすい。さらにこの活字はどういふ人間によつて発明され、その人間はこのやうな辛苦を経て成し遂げたと叙述されれば、その発明者の行動から教訓的なもの、哲学的なものさへ附加へて読者の生活感情により広く迫るだらう。さらにまたこの活字は世界のどの国からどの国へ伝はり、どの国との戦争の結果、そこの国語まで変化させるに至つたといふ叙述になれば、もはや一つの文化史、交通史ともなり、さらにまた、たとへばドイツ人ケーニツヒのシリンダー式印刷機の発明が、何故彼の生国でも、ヨーロツパ本土でも産ぶ声をあげることが出来ず、ロンドンで最初の試運転を行はなければならなかつたか。またはヨーロツパで誕生した鉛活字が、同じ成分の鉛活字にちがひないながら、何故アメリカで、第一期とはその性質のちがつたものとして、つまり第二期の花を開かなければならなかつただらうかといふやうなところまで叙述されれば、政治、経済の領域にまで入つてきて、もはや読者大衆の生活感情の全領域にはいつてゆくだろう。この場合活字は単なる金属の化合物であるだけではなくて、人間生活のあらゆる面が沁みこんでゐるからである。

「科学へ対する関心の昂揚」といつても、生活的に畑ちがひである人間にとつては、その専門技術に対して自然に感興を湧きおこさせることは無理である。専門的、技術的叙述がいかに克明に、或ひはわかりやすくされたところで、真つすぐにはつながらない。生活事情を異にする一般読者に対して、科学部門が文学を通じて与へうるものはやはり精神的感情的な範囲でしかないのである。たとへば一二年前まで日本の読者の最大多数を得た小泉丹氏の「野口英世伝」とか、エーヴ・キュリーの「キュリー夫人伝」とかは、その作者たちの学問的博大さないし芸術的感情の高さによつて、その主人公たちが成し遂げた科学的業績や技術を伝へ得たものであるが、この場合、何十万あるひは百万以上にも達しただらうこれらの読者は、これらの著述から野口英世の科学的技術やキユリー夫妻の発見したラヂウムの性能について、数学的技術的な意味で理解したものは殆んどないだらう。読者たちが理解し感動し、或ひは英世のごとく、キユリー夫人の如く、科学の世界へ自分も身を捧げたいといふやうな気持をおこさせたものは、その著者たちの芸術的、学問的感情を通じて再現された、その主人公たちの人間感情を土台とする「科学的精神」とでもいふべきものであつて、決してその分析上の数字や、技術上の工程叙述ではなかつたと私は思ふ。つまり技術そのもの、科学そのものは、実際的にはべつとして、文学や言葉をとはしての方法では、一般的に他人の感情をよびおこすことは出来ないのであつて、それが芸術や学問として、読者大衆の生活感情のどつかへ結びついたときにのみ、そして技術的、数字的な意味での科学ではなしに、精神的な意味での科学として理解され、一般化されうるのではなからうか。

前述したやうに「光をかかぐる人々」を書くについて印刷方面の歴史家、専門家その他の過去の業蹟から蒙つた利益は甚だ多い。誇張していふならこれらの利益なしには、私は一歩もあるき出すことさへ出来なかつただらう。概していへば世間的には至つて酬はれることのうすいこの特定部門のなかで、私が知り得た範囲でもあれだけの仕事がされてあるといふことは驚くべきことであるし、後輩にとつて感謝に堪へないことである。しかしそれはそれとして若干の不満について率直にいふことが出来るならば、たとへば次のやうな点である。

以上三つに区分したけれど、詮じつめればこれは一つかもしれないが、とにかくこんどの仕事で私が感じたことの一つは、一本の活字の誕生や変遷も、その時代のあらゆるもの、宗教、哲学、政治、経済、科学その他と切り離してしまつては、不具になるか、死んでしまふといふことであつた。「一字板」のいはれも、家康の銅活字新鋳も、秀吉の覇図なしには考へられなかつたやうに、切支丹版の日本渡来も強大スペインやポルトガルのアジア侵冦といふ政治的背景なしには、ただいたづらに珍奇好みに陥つてしまふ。

長崎に渡来した近代印刷機が、あたら家光の方針によつて逐放されたことも、それだけとしてみれば単純に鎖国のせいとなるけれど、当時の対外事情を考へれば、もつと複雑であつて、波のむかふに遁亡しなければならなかつた近代印刷術の運命が、より生き生きと理解できる。もちろん釈迦に説法で、専門の印刷史家たちは、このへん百も承知ではあらうけれど、おしていふならば、専門家たちはあまりに狭い一分野に閉ぢこもり過ぎて、他の歴史部門の専門家たちとはつながりがうすいやうだ。専門である以上専門領域に専心するのは尤もであるが、極端にいふなら新聞の歴史を専攻してゐる人は、その貴重な蒐集品の古印刷物が、何時、何人によつて編輯発行され、どういふ事柄が書かれてあるとは熟く知つてゐてもその古印刷物がどんな活字で、どこの工場なり、または人々によつて印刷されたかはまるで気をつけないといつた風である。

例をあげるわけにはゆかないけれど、一つの印刷機が何時何人によつて何地点に渡来したといふ事柄は克明に教はることが出来ても、その何人は何故にその印刷機をはこんで来ただらうか? たとへばその何人は宣教師であつたから布教のためといふ点まで教へられても、その宣教師たちに経済的その他の便宜を与へてゐるのは何者か? 何者の目的は何であるか? といふやうな点になれば、また他の専門家を探しもとめて歩かなければならない。

またすこしちがつた例であるけれど、近代印刷術が再渡来した幕末から明治にかけての時期の活字の歴史は、長崎からこつち側は明瞭のやうであるけれど、長崎からむかふ、波を越えては比較的に云つても明瞭のやうではない。私の知り得た範囲はわづかだから口はばつたいことは云へないけれど、上海から渡来した漢字の鉛活字は上海で創成されたものではなかつた。それは支那大陸の広東から、マレー半島の昭南島へ溯ぼり、さらにペナン島へも起原してゐるやうであるが、そういふボディは同じ鉛ながらアルハベツトから漢字へ変化した、つまり活字を通じて西洋と東洋が媒介された起原については、過去に出版された日本の印刷史書では殆んど見当らぬ。もちろん私の知識の範囲がせまいからかも知れぬが、少くとも比較にならぬほどわづかだらうといふことは云へると思ふし、その点ではやや鎖国的ではないかとさへ考へる。

さらにあつかましくいふなら、同じ科学技術史の領域内においてさへ、そういふ傾向があるやうに思ふ。印刷術と写真術はどういふ関係があつたか? 印刷術と銅版術とはどんな関係があつたか? 金属史の発展と印刷術、電気の発見と印刷術、工作機械史の発展と印刷術その他いろいろあると思ふが、そして印刷史家たちは百も承知だらうと思ふが、何故かそれとの関係において印刷術の発展を説かうとする態度に吝さかのやうである。

つまり私の云ひたいのは、あまりに綜合的で無さ過ぎるといふことである。これは印刷に限らず、他の科学技術部門の史家たちにも通ずる例か知れぬけれど、私ら後輩の切なる希望、切なる不満はそこにある。そしてこれは同時に、一般読者のもとめるところだとも思ふのである。前に(一)の終りのところで、「非大衆的」だと述べたが、勿論「非通俗的」だといふのはなくて、もつと綜合的、つまり一本の活字も、一個の印刷機も、その当時の世間の状態に左右されつつ生長してきた関係をも教へて欲しいのである そしてそこにこそ、数ヶ年にわたる印刷技術の歴史をリードし、生育せしめてきた日本人の、ないしは世界人類の科学精神があり、またそこにこそ読者大衆をして印刷文化なり、印刷技術なりに関心を抱かせる媒体があるのだと思ふのである。(次号完結)

「印刷文化」について(承前)

――「印刷文化」への空想――と題して本誌昭和十八年十月号には面白い巻頭言が載せてある。「――言葉があつて、その実体の掴めないものは幽霊だけではない。「印刷文化」といふものがそうだ。――印刷文化とは一体何だ。誰もこれを即座に的確に説明出来る者がない。印刷業者自身には勿論分らないし、世の文化研究家に於いても、おそらくうやむやな返事しか求められまい。」――と書き出して、「印刷文化協会には、始めに文化委員といふものが出来る筈であつた。ところがそれは結局出来ずじまい」に終つたが、理由は文化委員のやる仕事を突きつめてゆくと、結局印協のやる仕事ではなくなる。「例へば書物の造本技術の方面」は「むしろ美術家、図案家、文化研究家、出版者の仕事になつて、印刷者は殆んど発言権を失ふといふのだ」といふやうな実例もあげて、つまり「印刷文化」なるものの実体の掴みにくさを語りながら、しかし、巻頭言の筆者は「それなら、印刷文化は正体のない幽霊なのか――筆者は、この幽霊案外足をもつものといふ気がする。」と云ひ、「結論から云ふと、印刷文化は創意と技術――頭と手との協和が、しつくりと成立つときにその姿を、われわれの目前に現はして来るだらう。」と云ひ「技術(手)の側から意志や制約を頭へと働かし、頭――需要家――はこれに調和した意志と創意を手に伝へる。」と云ひ、つまり印刷者と出版者、印刷技術者と著作者の協力一体を空想し、印刷者(手)の出版者(頭)への参加ないし働きかけの意慾を強調し、「印刷文化」の正体をそのへんに見出さうとしてゐる。

私もこの巻頭言を興味ふかく読んだ一人である。「文化」といふ言葉が、それ自体歴史をもち定義がなかなか厄介であるけれど、つまるところ「人間の精神的物質的所産」といふのが一ばん完全にちかいであらう。ここには「文明」といふものもふくまれるわけで、たとへば「印刷文化」といふ場合、活字によつて表現された内容、精神も文化であり、同時にその活字も印刷機も、また人間の所産である。したがつて「印刷文化」といふ場合は、印刷者も出版者も、同じ範囲にはいるので、「出版文化」と「印刷文化」とが仮に対立的に存在するとすれば。それ自体が滑稽であらう。

ちかごろは何事にもすぐ「文化」といふ名前がつく傾向があり、赤い屋根、青い屋根にも「文化」がつくかとおもへば、人間にさへ「文化」人などと名前がつく。しかし「文化」なる言葉は至つて広範囲な、総括的な、抽象的な意味であつて、これがある固定したものや、固型したものにつけられてはをかしい。「文化委員」などといふことになると、まつたく抽象的で、いつたい何といふ委員なのか、言葉の限りでは判断のしやうさへないやうなものである。

しかし近頃の習慣ぶりで、巻頭言のうちにある「文化委員」はあらまし見当はつく。つまり印刷技術のうちでも、より(頭)的なもの、創意的なもの、精神的なものを分担しやうとする部署のことであらうと思ふが、それが例へば造本技術に触れやうとすれば美術家や出版者の部署と重復してしまつて、する仕事がなくなる――のではないか、と巻頭言筆者は云つてゐる。つまりここでは同じ文化の領域ながら、古い伝統と世間的事情によつて距てられた溝が露呈されてゐる。端的にいへば、たとへば千年前の「伴大納言絵詞」の印刷者と出版者、ないし著作者はすべて一体であつた。同一人であつた。しかし今日の一冊の書物は、印刷者と、著作者を出版者の側にふくめても二つにわかれてしまつてゐる。もつと極端にいふならば、本を書く人と、本を作る人との世間的あり様の背離であらう。

今日、本を書く人のうちで著名な人も、自分の書物がどんな活字や印刷機で作られたか、またどんな立派な印刷機が発明されたか、まづ知らないと云つてよい。同様に日本の何万だが何十万だかの印刷工場経営者で、それぞれの書物の内容の分野のうちで、大凡そどんな著作者とどんな著作内容がもつとも注目されてゐるか、まづ知つてゐる人は稀れであると云つてよい。多くの新式印刷機の完成も、新型活字創造も、大体において、それらによつて表現される精神的なものとは別箇になされる。つまり同じ印刷文化なり、出版文化なりのなかで、物質的なものと精神的なものが別になつてゐるのだ。

文化、などといつても、あまりに漠然としてゐるけれど、前記巻頭言の筆者が、全体としてその意志を表現してゐるものは、この精神的なものと物質的なものとの融合であり、一体化であらう。これはまことに大切なことであり、従来の旧体制時代にも心ある印刷業者なりその関係者の望んでゐたことと思ふが、印刷をする人が、自身で作つてゐる書物の中味の精神を、書いた人、ないし出版した人と同様に支持してゐるときにこそ、印刷者自身の全き印刷精神があるにちがひない。そこにこそ印刷文化の発展段階をきづいてゆく、中味があるにちがひない。

私は幼少から印刷工であつたが、ありてい自分が分撰して、或は植字して、その書物の物質的完成には参加したが、その書物なり新聞なりが表現する精神的なものには、まつたく無縁であつたことをおもひだす。もちろん印刷工が一々原稿を読んで、批評してゐるやうでは仕事にならぬけれど、全体としてあまりに、無縁だつたことを、まるで砂でも噛むやうな気持でおもひだされる。しかしわづかな例ではあるがこういふことがあつた。いまから二三十年も以前、大正八九年頃、郷里の政党新聞の文撰工だつたとき、その支部が九州のある地方に新聞を創刊したとき、小型ながら新式の輪転機と、七ポイント半のルビ付新鋳活字とともに、そこへやられたが、私はいまだに忘れられぬほど、仕事甲斐とでもいふか愉快な思ひ出をもつことが出来た。一口にいへば未開なその地方では輪転機も、活宇もわづかしかなかつたし、日刊新聞といふものがめづらしかつた。職工の私たちまで意気揚々としてゐたが、それは必ずしもハイカラな印刷道具にのみあるのではなかつたのだ。じつはそれらを通じて表現される新聞の内容にこそあつたのだ。編輯部は社長兼主筆をいれて五人しかゐなかつたが、この記者たちの筆によつて、この未開の地方のあらゆることが明るみにだされた。この地方に特殊な封建的などいふ人種の存在と、それらが及ばす弊害や、ある銀行頭取の私的な悪業や、その他くらい面のてき出。一方では地方の産業状態の日日の報告から、かくれた善事の称揚といふやうなことが、その地方の人々をして、まるで暗夜に灯台を得たやうな感を与へさせたことからくる、私らへの反射であつた。

じつをいへば二十歳未満の私などに、その政党の全体的主張が何であるかさへよくはわからなかつたが、とにかく社長兼主筆の主張と態度によつて作り出されるその新聞の内容は、他の記者たちはじめ私ら印刷部の職工たちまで支持したい性質のものであつた。私たちはよく、その地方の重要な会議に出かけてなかなか戻つてこない主筆の原稿を持ちわびながらも、工場の片隅で、会議はどうなつたらう? 主筆はどんな文章に書くだらう? といふ模索と期待と同時にその主張の表現に自分たちも参加してゐるのだといふ感情をもつたことがあるし、あるときは記事によつて非業をあばかれた侠客の一味が夜ふけにドスなどもつて「社長をたせ」と社に闖入してきたときなぞ、私ら職工は一団となつて彼らを拒いだやうな出来事を、今も誇りをもつて回顧することが出来る。

以上は至つて卑近な例にちがひないが、印刷技術は概していへば、文字なり絵なりを通じて表現されるある精神の、つまり中味の、その形式である。そして凡べて形式といふものは、その内容と融合したときにのみ生命あるものといふ講式が間違ひないとすれば、出版者と印刷者との関係はおのづから明らかであらう。機械化し、分業化した今日「伴大納言絵詞」的な、単純な合一はあり得ないが、おのづから両者をたかいところでつらぬき、それがその精神や感情のもとに合一されることは当然にちがひない。

「文化委員」といふものが成立してよかつたか悪かつたか、私などに判断できぬが、前記巻頭言筆者の云ふ意味での「文化委員」は、印刷事業にたづさわる凡ての人々が、それであるべきであらう。私らはかつて、日本近代印刷術の先輩たち、本木昌造が、大鳥圭介が、どういふ動機から日本活字を創造しやうと努力したかまたは明治初期の佐久間貞一が、大橋佐平がどんな精神と動機から印刷工場を経営しはじめたか、それを思ひ出してみるだけでも、おのづから、「印協」出来以前までの、日本の印刷業界が陥つてゐた偏向におのづから気づきうることと私は考へる。


初出
印刷雑誌 27(1)—27(2). (1944)
底本
『印刷雑誌』とその時代 : 実況・印刷の近現代史(印刷学会出版部、2007年12月、pp.423—432.)