高田保「ブラリひようたん」

デスク・プラン

町の漁師が一人海へ出て行方不明になつた。漁師町の大騷ぎになつて、すぐ搜索船が出た。舟だけは見つかつたのだが人はみえない。突風であおられ顛覆したらしいというのである。ゴミトリ舟という名の小舟で、乘手はいつも一人である。

その翌日、左義長まつりのためのお假屋づくりという行事の日で、漁師町全部たのしい休日だつたのだが、そんなことはいつていられない。總出で捜索を續けた。こんな場合の漁師仲間の氣持は心底から親身である、話を聞いて感動させられた。

水産協同組合というようなものが法律の強制でできたが、そんな組合よりも、昔からの仲間の結びつきの方がずつと強い。個人的な利害感情などは全く捨てきつて、誰もが夢中で骨を折るのである。

行方不明になつた漁師は、相模灣特産の金目鯛釣りだつたが、久しく休んでいてこの日に出た。出るときハイカラ釣りの道具を新しく仕入れた。ナイロンの釣糸やなにか、小一萬の仕入れをしたらしい。もつともこれは現金拂いではなかつたそうだ。漁のあつたたび支拂うというのは漁師仲間の常例である。

ハイカラ釣りというのは、幾つも桶を流してそれに糸と鉤をつけておくのだそうだが、空模樣の變つたとき、新しく仕入れた一萬圓の道具をみすみす捨てて歸る氣にはなれなかつたのだろう。それを引揚げているうちに仲間に遲れた。急いで歸つた仲間たちは無事だつたのだが、彼だけは災難に遭つたのである。

左義長まつりというのは、毎年一月十四日の夜だが、年頭の松飾りを海岸に集めて火をつける。大磯の左義長といえば以前は有名なもので、その火が對岸の房總からはつきり見られたものだそうだ。その火を圍んで素裸になつた漁師たちがいろいろのことをやる。原始的な味があつて一つのスペクタクルになつている。島崎藤村はこの左義長を見に大磯に來たのが縁で、町に住むことになつたのだそうだ。だが漁師仲間にとつてはそんなことは問題ではない。仲間の死骸がいまだに上らぬのが大間題なのである。

青年會の進歩的な連中は、もはやこんな迷信行事でもあるまいと毎年いいたてるのだが、漁師にとつては一つの信仰だから、そう簡單には片づけられない。しかし今年はその行事さえ、仲間の不幸のためにめちやめちやにしてしまつた。義理とか、仁義とか、情誼とかいうものの方が、彼等にとつてはずつと大きいのである。

左義長は笑えても、この仲間内の強い一體感は笑えるものではない。水産協同組合という近代組織と、この古風な傳統とはどうつながつているか、見たところでは全然水と油のように別物らしい。政治というやつは非情なものである。協同組合といえば民衆的と考えるのが常識だが、結果は官僚化だといえぬでもない。今は何かにつげデスク・プラン時代である。

一藝

一藝に秀づるものは百藝に通ず、というが本當かどうか。藝という一つの言葉でいわれるが、音楽と美術と文學と、それぞれ別もののようである。

ピカソといえば美術の巨人だが、彼に音樂の批評を求めても無理のようである。あるとき友人の音樂家が、何か音樂について熱心に喋り出したのだそうだ。するとピカソは手を振つて、

君、無駄だよ。僕は君の議論を理解し得るほど音樂について知つてるんじやないんだ。

もつとも音樂が好きか嫌いかは別だろう。このピカソとてもギター位は自分で彈いたものだそうである。しかしそれも若い頃のことだ、今はどうか知らない。

セザンヌも音樂に關しては、全然駄目だつたらしい。ある日彼はワグネルをしきりに賞め上げたそうだ。リヒブルト・ワグネル! なんと素晴らしい響きではないか! だがそれはワグネルというその名前についていつたので、音樂についてではなかつだのだという話が殘つている。

セザンヌとゾラとは人も知るごとくに深い因縁のある仲だつたが、夫々の違つた藝術についてお互いに理解し合わなかつたこと、これは文學と美術が別物であるからといえる。バルザックが仕事部屋の裝飾にドラクロアの畫を欲しがつたと先日書いたが、おなじ小説家でもフローベルは、そんなものよりも一枚の熊の毛皮の方を喜んでいたらしい。ギリシャの彫刻よりも、アラビヤの馬鞍を飾つて置く方が彼の趣味だつたのだそうである。ミュッセの詩は美しいが、彼が古美術や同時代の畫家たちの作品にうつゝをぬかしたという話はかつてなかつたそうである。

もちろんそんな文學者ばかりはない。詩人ボードレールがいかに美術の粹を見極める眼をもつていたか、反對の例はしばしばある。だがショパンを愛したジョルジュ・サント女史は、果してショパンの音樂の本當の理解者たつたろうか。ある人がドビュッシイに、貴下は文學書を讀むかと聞いたら、本當はあまり興味がないと微笑して答えたそうである。違つた藝術、お互いの間に親類同士の交際ぐらいはあるかもしれない。しかし近い親類よりも遠い他人の方がという言葉が、こゝでもおもい出されて來る。

こんなことをいい出したのは、宮本武藏の畫というものを、ある人が持つて來て見せてくれたからである。すぐれた武人でありながら一方で彼が一應確かな畫人であつたことは事實だ。私の前に展べられた一軸も氣魄に滿ちたある強さをもつている。しかし彼の畫を見るたびいつもおもつたことだが、どこかに粉本めいたものの在るのが感じられることだ。畫粹に對する憧憬者ではあつても彼自身の獨得な世界をもつた畫人とはいいきれない。一藝はやはり一藝にしかすぎぬ。そのようなことを感じて私はふと、人間の宿命的な孤獨について考えたのであつた。めずらしく降り吹きまくつた暴風雨の夜のことである。

餘計な發明

早春のひとときである。縁側にいて、うつらうつらする。天下奉平という文句が胸に浮ぶ。

そよりとも風は動かず、空氣はよどんだきりで動かない。動くもののない世界へ、さんさんと太陽がふりそゝぐ、滿ち足りた氣持がする。とにかく貧乏氣がどこにもない。自然は豊かである。自分が人間であることさえ忘れられたら誰も大幸福を感じるだろう。

この動くもののない靜かさのなかで、木の芽草の芽、大地一杯いたるところ一齊にそれが萠え出ようとしている動きを感じる。新世代の胎動といいたいが、しかしそれは單なる季節の循環であつて、日の下に新らしいものが出現することではない。自然の樣相には順理の變化があるだけで無理の革命があるわけではない。

水素爆彈というものを、順理の變化とみるわけにはいかない。自然は千古から繰返しを續けて來ているの、だが、人間の歴史はそうではない。いつも日の下に新らしいものを作つていくのである。今や小太陽を作ろうとしている。こういう人間を自然界の一部として考えることはできぬようだ。人間は神樣の手から離れて獨立しようとしている。

眼前の風景はいま美しい。一面の太陽光を浴びて土が光り、青草が光り、小鳥の羽根が光り、屋根瓦が光り、遠くの丘の背が光り、雲が光り、空が澄んで輝いている。美しい色彩だ。もしも私が畫家だつたら、いそいそとしてカンバスを立てたろう。が畫家ではないから懷ろ手していつまでもそれを跳めている。と『天然色映畫』のことがふと浮んだ。

天然色の映畫というものをみたとき、餘計なものが發明されたものだと私はおもつた。強い光でスクリーンの上に投射されたその色彩は甚だつよい。それは色彩というようなものではない。色光とでもいつた方がいいものである。畫家がどんなに強烈な色彩をカンバスの上に叩きつけても、あの光線そのものの直接的な強さには及ぶわけにいかぬだろう。

この投射的天然色が人間の日常生活の中に、すこしも珍らしくないものとして入つて來る。その色光が人間の色彩・感覺の常識として食い込んでしまう。その時代が來たとき、どんなカラリストをもつて任ずる畫家も、ぼやげた、みすぼらしいものとなつてしまうだろう。餘計な發明と私が嘆いたのは、この畫家諸君の當惑に同情したからである。

私もまた一人の保守反動かもしれぬ。天然色映畫はカラリスト畫家を當惑させるだけですむのだが、水素爆彈はそうではない。私はいま千古かわらぬ早春風景のおだやかさに醉いながら、恐るべき餘計なものが發明されたことに、人間のウットウしさを感じているのである。人間よ、自然に歸れ。誰かがふたたびこう呶鳴りたてたらどうだろう。青い鳥は自然の中にだけいるのかもしれぬ。こんなことをうつらうつら考えていたら、どこかでその青い鳥が『自衞權』と啼いたような氣がした。

井上正夫

新派の藝は天然記念物である。後續して新しい芽が出るとはおもわれない。井上正夫が死ねば、そこにあいた大きな穴は埋めようがないのである。

先頃、村田正雄が死んだ。新生新派から離れて、筋違いの劇團に入つて仕事をしていたとき、惜しいことだと私は思つた。先代村田正雄についての詳しいことは知らぬが、先代の七光りなどは全く不用な二代目村田正雄だつた。ワキ役の名手だつたのである。

ワキ役がいかに名手でも座頭にはなれない。座頭になれずともいいから、時にはワキ役的人物が主人公の脚本でもできて、それで氣が吐ければいいのだが、日本の劇壇はそんなシャレた芝居を出すほど上等ではない。晩年の村田正雄が、出生した新派の世界から離れてしまつたことには同情できた。無くてはならぬ人として呼び戻されぬうちに、死なせてしまつたのは、彼としても殘念だつたろうが、こつちからしても殘念なことだつた。

去年の新派祭、井上は新派大頭目の一人として喜多村緑郎と名を並べていたが、井上が新派で頭目扱いにされたのは、齒が拔けるように新派人が消えてしまい、何とも無人になつたからのことである。純粹に新派から生れた新派人でありながら、彼はいつも新派と逆らい續けていた。だから以前は新派大合同などとうたつた場合にも、彼だけは傍へ取りのけられていたのである。

彼は村田正雄のごとくワキ役だつたのではない。立派に一座を率いられる立役者だつたから、大合同の枠外へ置かれても、立派に井上正夫として仕事をしつゞけることができた。がその仕事が、ともすれば新派の枠外へ彼自ら外れ出してしまつていたのは何故であつたか。彼にも踏み迷いがあつたのである。新派と新劇の間を行くといつた『中間劇』の旗印などは、その大きなものだつたろう。

當時私は『中間劇』などといわずに、なぜ逆に堂々と『井上新派』というものを創らないかといつたことがあつた。新派から出生して新派人以外の何物でもない彼が、リアリズム演劇がどうのこうのと論じ立てる演劇青年にとりまかれて、素直に耳を傾けていたその姿は、いわゆる彼の藝術的良心であつたかもしれない。しかし彼の藝質を考えたとき、極めて賢明でないものに私にはおもわれたからだつた。

終戰後新協劇團にも加わつて、若い人々と仕事をした彼が、藝術院會員として天皇と會食し、その光榮に感激していたのを見て、この人もやはりこの人の落ちつくべき終點に來たのかと、しみじみ人間の老境というものを感じさせられたのだが、それだけに今後すくなくとも十年は、もはや迷わぬ新派人として、彼流に鍛えぬいた新派藝を見せてくれると、樂んで期待していたのである。壽命はまことに非情なものだ。

再び井上正夫

築地小劇場がゴルキーの『母』を脚色して帝劇へ出し、馬鹿當りをしたときだ。井上正夫さんから『父』というものを書いてくれぬかといつて來た。『母』をそのまゝ父に變えたものである。

そんな仕事の嫌いな私だつたが、そのときは素直に承知した。私はできるだけ新派調のアクドイものにして仕上げた。この芝居は淺草の常盤座で上演された。

これが作者として井上さんと附合つた最初である。演出も引受けたのだが、最初に彼がすこしもセリフを覺えぬのに呆れた。だが初日になると火の出るような強さでそのセリフをいうのに、今度はすつかり驚いた。

だが氣づいてみるとそのセリフは私が書いたとおりのものではない。私は『百姓は一束になつて燃え上る火なのだ』と書いたのである。當時の風潮で、これもいわゆるプロレタリヤ演劇だつたので、こんなのが『聴かせセリフ』だつたのである。ところが井上さんのやつているのを聽くと、油汗をたらして唸るように、

『百姓は火だ……燃えるのだ。一束だ。一束になつて百姓は燃え上るのだ』

とこうなるのである。しかし井上さんは私の書いたセリフに不滿足だつたのでこう訂正したのではない。セリフを覺えていなかつた。しかし何をいうべきかの意味だけはしつかり心得ていたのだ。その意味を傳えようとするから自然とこうなるのである。

さらさらとセリフを輕く暗記してしまつて一字一句間違えずにいうのだが、しかしその意味などには全然お構いなし、という役者がある。文句はおぼえていないが意味だけは正しく傳えようとして油汗を流しながら努める井上流とは大變な相違である。作者にとつてどつちがありがたいか、これは人々かもしれない。そのとき私は井上さんをありがたいとおもつた。

井上の芝居は中日までが面白い。中日を過ぎるとダレてくるといつた人がある。さすがの井上さんも十日の餘も舞臺を勤めれば、ちやんと正確にセリフをおぼえる。從つてそれまでのように油汗を流して唸ることもなくなる。結構なことのようだが、そうなるとどこか熱が消えた感じもするわけだつたのである。だから理由のない評言ではなかつた。

しかし井上さんに味方していうわけではないが、セリフを完全におぼえたために氣の拔けるような台本は、つまりロクでもないものだつたのである。しつかりした台本だつたらやはり、完全におぼえ込んだ上で底なしに打込んでいつまでも油汗をたらすことができる。井上さん自身はそのことを心得ていた。私の顏をみると、油汗をしぼつてくださいよと、力の籠つた脚本を欲しがつて云つたものだつた。

そんなのに幾つめぐり合つたろうか、と井上さんはいま、しずかに指を繰つているかもしれない。果して十本の指が折られているかどうか、眞山青果以後の作家が彼を幸福にし得なかつたことは事實である。

近代ジャーナリズム

思考などと、大きな顏でいうことではない。ぼんやりと頭を動かしている。メタン・ガスみたいなものが頭の中にあつて、おもいがけない泡が、とんでもない時に浮び出す。

ふとして浮んだ中に、これは面白いとおもうものがある。が消えるとすぐ忘れてしまう。浮んだ途端にノートでもして置けばいいのだが、不精者だからそんなことはやらない。

記憶力が強ければおぼえているのだろうが、忘失力の方が強い。われながら情ないとおもつていたら、賢人パスカルがそうだつたと傳記の中にあつた。

『自分は忘れてばかりいる』と彼は嘆いている。自分の思想を書き止めておこうとすると、いつの間にかそれが逃げてしまうことが多いのだというのだ。これでみると彼のパンセも、瞬間的な思いつきだつたらしい。たゞその思いつきに、深い思想の脉絡があつたのだろう。私のメタン・ガスの泡粒とは大分に違うらしい。

パスカルは私みたいに不精者ではなかつた。浮んで來た思いつきを、手近にある紙片へ片端から書き止めて置いたらしい。散歩の途中で何にもないと、爪の上に誌しつけさえしたものだそうだ。もつともこれは彼の晩年である。こうしなければならなかつたことを、彼は己れの『衰弱』とみたらしい。

だから、彼にとつてそれは、ほんの下書きにしかすぎぬものだつたろうが、彼は天才だつたから、それを集めた彼の『パンセ』は天才の書である。思いつき集ではあつても寶石のコレクションである。

彼の思いつきは『パンセ』ばかりではない。彼は乘合馬車まで思いついたそうだ。その頃はまだ自家用の個人馬車よりほかなかつた。彼は運輸合名會社というのをおもいついて、國王に申請した。國王は特許状を彼に與えた。大衆交通に目をつけた商賣の彼は先驅者である。サン・タソトワーヌの門からルクサンブールまでの路線、お一人前五スウ。大衆から歡迎されて派手に繁昌したといわれている。こんな思いつきをすぐさま實行したところ、彼もたゞの哲學天才ではなかつたらしい。しかも病氣になり、死ぬ一年前のことだそうである。

兼好法師は、日ぐらし硯に向つて、そこはかとなく浮んで來ることを片端から書き止めたと『徒然草』に書いている。私は暇さえあれば炬燵にもぐりこんでたわいもない妄想に耽つている。耽るきりで何一つ書き止めようとしない。『ブラリ』を書かねばならぬ時間が來て、止むなく机に向うのだが、炬燵の中で浮んだ愉快な面白い無責任な妄想などは、そのときもう跡形もなく消えてしまって、どうにもおもい出せない。で仕事なく政治の悪口などを無理矢理しぼり出して書くのである。パスカルにも兼好法師にも到底追いつけるわけはない。勤め氣のない私である、こんなのを多分近代ジャーナリズムというのだろう、氣のひける話である。

水爆コンクール

青い鳥はどこにいるか、存外奇妙なところに隱れているかもしれない。その見営を私はみつけてみたいのである。

スターリン大元帥から私の許へ招請状が來た。水素爆彈の公開實驗をするから來いというのである。もちろんこれはある夜のたわいもない夢に過ぎない。しかしその夢の覺めたあとでこれは青い鳥だとおもつた。

水素爆彈は世界の恐怖となつている。この恐怖の種はアメリカで製造されているというし、ソ連でもそうだという。しかし双方ともに絶對の秘密にされている。私たちが聞くのは双方の掛聲だけにしかすぎない。

わけてもソ連の方が秘密なのだが、實際にこれを公開して見せたらどんな結果になるだろうか。ヒロシマ爆彈の千倍と傳えられているが、十倍でも澤山である。ピカと光りドンと鳴つた瞬間に、戰爭というような言葉では、もはや間に合わぬ事態が現實になる。もし双方がそれをやり合うことになれば、双方ともが地球から消えるだろう。

戰爭以上のものに對する恐怖が當然誰の胸にも湧くのである。勝つとか負けるとかを越えて人々は、喧嘩の愚を反省せずにはいられぬだろう。夢の中のスターリンがその恐ろしい武器の公開實驗をおもいついたのは非常に賢明なことである。實驗の結果は當然、それをもつている別な國、アメリカを反省させずにはおかぬだろう。

アメリカも持つている。かりにスターリン式のよりずつと進んでいるにしろ、その優劣は問題ではあるまい。うち込まれる危險は感じなければならぬ。その場合の結果が致命的だとあればそれで萬事は決定するのである。優劣の問題はいつも致命的以前のもので、すでに致命的となればそれ以上のことは競爭になる筈がない。

私にふと國連を考えた。國連が主催してこの際に、水素爆彈のコンクールを開催する案である。アメリカも出品して、ゴビの沙漠かどこかで一緒に實驗し合つてみるとおもしろい、コンクールという限り審査員が問題だというかもしれぬが、結果はおそらく優劣をきめる必要のないものになるだろう。誰もがこの兵器の、人類に對する償うべからざる災害に氣づくからである。おそらくは爆彈の製造責任者ですらが身ぶるいしてしまうだろう。

つまり世界平和の青い鳥は、このコンクールの物すごい景觀の中から、羽音高く飛び出すかもしれぬというのが私の夢なのである。共産主義を守るとか資本主義を守るとかいうが、本當に守らねばならぬものは人類の幸福である。人類の幸福を破壞するものが現われたとすれば、それはどちらの主義者にとつても敵だろう。一致し難いとおもわれている二つのものが、このときはじめて一致することができる。飛び立つた青い鳥は、かつて人類の耳にしたことのない妙音で囀り立てるかもしれない。

愛護

私はまた仔犬を飼つている。女どもがしきりにお手々とかお預けとかの藝當を仕込んでいる。いわれた通りにやれば御馳走にあずかれることがわかつたとみえて、仔犬は手を、出したり、食いたいのを我慢したりするようになつた。そこで仔犬は、いよいよ彼女たちの愛寵を得ている。

ある日文藝春秋の中戸川君が遊びに來た。この仔犬の藝當を見ているうちに、私の父はとても犬が好きでしたが、私たちが藝をさせようとするとつよく叱りましたといつた。やりたくもない仕種を強制するのは殘酷だというのがその理由だつたそうだ。聞いて私はすこし顏を赤くした。それはまつたく道理にかなつた見解のようである。やつぱり中戸川君の父君は文學者だつたとおもつた。父君というのは故人作家中戸川吉二である。

私は上野動物園の若い技手に會つたことがある。戰爭ずつと前のことだが、動物を馴らすということは、動物を動物でなくすることですよといつた。象を公衆の前に引張り出してお辭儀をさせる。みんなが可愛いと抽手喝采する。しかし一體ジャングルの中の象で、人間に會つたからと膝を折り曲げて挨拶するのが一匹でもいるか。あんなことは象の習性では決してない。あんな藝當を押しつけるのはまつたく殘酷というべきだというのだつた。なるほどと私は敬服した。

その後に私は大阪へ行き天王寺公園の動物園へ入つた。するとそこではチンパンジーが飛白の着物を着て、竹馬に乘つて舞臺へ登場した。竹馬から下りるとテーブルに向つて椅子に腰を下し、運ばれた食事を、片手にナイフ片手にフォークという人間そつくりのやり方で平らげてみせた。見物はもちろん大喜びである。だが私は上野で會つた若い技手の言葉をおもい出し、やつぱりこいつは氣持のいいものではないと感じた。

こゝのところ動物愛護週間というので、上野あたりは何かと催しがあつたそうだが、人氣者の象は引つぱり出されて、何か一役やらされたらしい。象にとつてはそれが愉快であつたかどうか、象は自然な象のまゝであるときが一番愉快だろうと私は考える。とすると、動物愛護のために象は愉快でない事をつとめさせられたことになる。

愛護という言葉は美しいのだが、人間は得手勝手な暴君かもしれない。相手にこつちの意志通りの行動を強制する。滿足にそれが果されたときその相手に愛情を感じる。このことに必ずしも對動物の場合ばかりではないかもしれない。私は眼前の仔犬が、しきりに兩前足を上げてチンチンをするのをみながら、何かたまらぬ感情が湧き上つてくるのをおぼえた。

馴らし馴らされる。時としては、國家と國家との間にさえこの種の愛護感情がありそうである。私は急に歴史の書が讀みたくなつた。

小町と紫式部

小野小町が美人であつたことは定説だが、貞女であつたかどうかとなると異説區々らしい。生理的にどうとかだつたという話もあるが、彼女の美にケチをつけようとしたデマだつたようにもおもわれる。

深草の少將の想いをついに遂げさせたかつたというのを、彼女の貞節と考えるか、手練手管と考えるか、美人は男を手玉にとる方が餘計美人である氣がする。

スターリン外交はトルーマンやアチソンを手玉にとつている感じである。面憎やとおもう人と、痛快とおもう人とあるだろう。資本主義と共護主義は共存できるものだなどというモロトフ放送は、たしかに手玉の一手である。

だが小野小町の末路が幸福でたかつたことは事實のようだ。『誘ふ水あらばいなんとぞおもふ』などと文屋康秀をからかつているのだが、史實によるとそのときの小町はすでに六十歳だそうである。誘う水が涸れてしまつたときに、どう色つぽいゼスチュアをしてみせても仕方あるまい。

今のソヴェートを美人の年齡と考えたらいくつぐらいか、これは興味のある問題である。モロトフ演説は誘う水あらば的のものだつたが、存外世界的反響はなさそうだ。とすると花の盛りは一應過ぎ去つたかともおもえる。

過去の日本が共産主義に醉つぱらいかけた頃のソヴェートは、マルクス・ボーイ、エンゲルス・ガール、若い年代が減茶苦茶無批判に傾倒した。あの頃の唯物史觀は花のさかりで、だからあの頃の謳歌情熱にはたしかに戀愛的なものがあつた。水々しかつたといえる。だが現在はちと違うようだ。

あの頃は戀愛だつたから功利を離れていたが、今は結婚の問題になつている。だから人々は冷靜に實利的に考えている。詩から散文へと移つて來ているようである。從つて燎原の火のごとく燃えひろがる氣勢がない。

その點で祖師マルクスに對する情感も、小野小町から紫式部へ變つたようだ。『源氏物語』は人を感動させるのだが有頂天にはさせない。醉わせるのでなくて考えさせる段階に來てしまつている。この散文時代は批評精神を伴い出している。

戀人としては十分な女でも、いざわが妻として考えれば別だ。女というものは何よりも素直で心のやさしいのがいい。とこれは紫式部が『雨夜の品定め』でいつていることだが、これは現實的な言葉である。コンミュニズムに對する批判も現實的となると、大分以前とは趣きを異にして來るだろう。

紫式部の傳記では、望月の缺けたることもなしとおもへばの法成寺入道道長の横戀慕を最後まで振りぬいたことである。右翼へも左翼へも轉ばず、日本人が本當に紫式部になれたら大した進歩だ。

春なればこそ王朝の美人才媛をおもつたりするのだが、時代なればこそこんなことも考えるのである。

アメリカ

ローマ人は何處へでもローマを持ち歩いたといわれている。いたるところでローマ風の家を建て、ローマ風の町をつくり、ローマ風の生活をしたらしい。ローマを最高とした誇りがそうさせたのだろう。

この『ローマ』を『アメリカ』と置き換えてみることはどうか。日本へ來ているアメリカ人たちは、たしかにアメリカを、そつくりそのまゝ日本に持ち込んで來ている。これはオキュパイド・ジャパンだからと見ている日本人は少くない。

だが實際は、ローマ人よりもアメリカ人の方がずつと無邪氣らしい。ローマ人はローマ風を誇りとして考えたのだが、アメリカ人はアメリカ式をたゞベターだとして考えている。郷に入つては郷に從えということはあるが、自分たちの生活ぶりが、より合理的で、より便利なものなら、日本人にもそうさせた方がいい。そう考えて無邪氣に無遠慮であるだけらしい。

面白い話がある。アメリカ人が京都である人の持家を借受けて住んだ。持主はなかなかの茶人で、だからその庭など相當澁く凝つたものだつたそうだ。ところがそのアメリカ人は、借受けるとジメジメした苔など片端から剥がしてしまい、代りに新鮮快活な感じの芝草を植えた。數寄を極めて持主自慢の石だつたのだそうだが、それを色さまざまのエナメルで塗りたくつてしまつた。面目一新! 得意になつた新しい店子は、設計通りに出來上ると喜んで家主を招待してテイ・パーテイをやつたそうだ。テイとはいつても日本の茶である筈はない。カナッペが出たりコカコラが出たりしたに違いない。もちろんそこにはアメリカ風の坐り心地のいい快適な野天椅子など並べられていたことだろう。招待された家主はアッといつてしまつた。この家主の氣持、日本人たら誰にでもわかるだろう。

家主の氣持もわかるのだが、私にはこのアメリカ人の氣持もわかる。東洋の幽玄などという傳統を思切りよく捨てきつて、明るいスポーティな、近代合理主義ずばりの生活にもたしかに肯定すべきものがある。世界から隔絶されていた特殊世界日本はもはや、何百分の一に縮まつてしまつた近代地球上に生存できそうもない。西洋と東洋とが右手と左手との距離ほどになつてしまつたのだと考えると、寂びとか佗びとかいう趣味はもはや古代の遺物かもしれぬ。

日本における生活のアメリカニゼーションは著しい。がこれをアメリカという國家の勝利と考えるのは早計かもしれぬ。近代合理主義の勝利だと考えると、必ずしも植民地的現象とはいわれまい。私はハリウッド好みの新しい靴を好んで穿いて、野球に熱中している青年が、おそろしく強い調子でソ連を讃美していたのを聞いたことがある。國粹的白足袋を穿いた古風な問屋の主人が、アメリカ政治を禮讃したのを聞いたこともある。持ち込まれているアメリカに、やはり内面的なものと外面的なものがあること吟味しなければとおもう。

肖像畫

自分の顏を後世に殘したくおもう。しかし寫眞では趣が淺い。然るベき畫家に描いてもらいたいのだが、肖像では誰が一流なのか、畫料は必要だけ出すつもりだが――という相談をある人から受けた。

私は當然安井曾太郎氏をおもい出した。が、氏の名前を口にすることは躊躇した。なぜなら私にはある考えがあつたからである。一流の畫家に頼むのも結構だが、あなたの顏を殘したいというなら、むしろ三流畫家を選ぶべきでしよう、とこう私はいいたかつた。

安井さんの畫は立派なものである。昭和年代の記念として長く後世に殘るにちがいない。だから安井さんに描いてもらうことはその畫とともにその人の顏も殘るわけなのだが、しかし、畫中の人が誰でどんな人物であつたかということまで殘るかどうか。

畫としての價値はそのモデルの如何にかゝわりはしない。今日こそこれは實業家某氏の像だといわれるかもしれぬが、その實業家の名聲などは極めて脆いものである。五十年と經たぬうちにどんな人物だつたか誰も知らぬようになつてしまう。その際にその畫はたゞある男の像とだけしか扱われぬことだろう。

たとえばレムプラントの描いた肖像畫が今日殘つている。何とかいう貴族を描いたのだと名が殘つているにしても、その貴族のことはもはや何の問題でもない。問題はレムプラントの天才だけなのである。虎は死して皮を殘す、貴族は死んでレムプラントを殘した。この殘り方は決してその貴族の本意ではあるまい。

三流畫家の描いた肖像ならば、後世に殘されても畫そのものは何の問題ではない。描かれたその人が歳月の塵に埋まつてしまうと同樣に、その畫もまた塵同樣になる。このバランスを私は考えたのである。何者とも知れぬある男の顏として形骸だけが殘されても意味はないだろう。歴史的に不朽の人物となつて殘るということは極めて少數の人間にしかできることではない。

私に相談をかけたその人は、ともかくもかなりの産をなしたいわゆる成功者だつた。彼は自身その半生を勝利と考え、勝利者のしるしとして記念の肖像を殘す氣であつたのだが、こういう得意が春さきの花ほどに脆いものであることには氣づかない。私は挨拶にくるしんだ。さすがの私も率直に考えを述べるわけにはいかなかつたのである。

描く人と描かれる人のアンバランス、これは不朽の人物と三流の畫家が取組んだ場合にも考えられるだろう。たとえばナポレオンを描いた下手くそな畫の運命など、まことにみじめなものがある。割れ鍋に綴じ蓋という文句があるが、今の政治家諸君の肖像など殘すとしたら、三流畫球諸君に限る。しかしそうはいいながら私は、安井曾太郎氏の筆先きに相應するような人物が出てくれねば困るとも考えているのである。

眞實のための平和

『その秘密の統制は非常に嚴重で私は獨り言をいうのも恐れるくらいです』と、これはソ連にいた人の書いた手紙ではない。自由なアメリカ人が自由なアメリカにいての手紙の一節なのである。

眞實を語ることが平和をもたらす。まつたくその通りだ。トルーマン氏の言葉に間違いはない。だが語つてはならぬ眞實がアメリカにもあつたことは事實だ。何のカーテンかは知らぬが、とにかく『特秘』の中に封じ込まれて、極めて少數の人にしかその全貌が知らされたかつたのは、原子爆彈の秘密である。その極めて少數の人の中に、たつた一人のジャーナリストがいた、W・L・ローレンス氏である。しかしジャーナリストとしてその秘密の經過を見ることを許されたがら、見たものをペンにした場合、それは悉く別製の金庫の中へ收められてしまわなければならなかつた。

『0の曉』はその金庫の中に封じられたものがやつと日の眼を浴びることを許されて出た書なのである。はじめて彼は眞實を語ることを得たわけなのだが、それにしても彼は、それまで何一つ語り得なかつたというわけだ。このことを私は考える。

平和のために眞實を語るべきではあるが、戦爭のためには秘密を守らねばならぬ。私は眞實を語れと新聞協會で演説したトルーマン氏が、止むを得ぬ秘密を現在持つていることについて、苦しい矛盾を感じているだろうと察しるのである。水素爆彈の製造、これを公開することは許されない。原子力管理委員會ということはいわれるのだが、その完全な實現をなし得ぬかぎりには、獨自秘密の中にそれを抱きしめていなければならぬ。

原子爆彈研究、製造、やがて決戰までの全行程を、一人のジャーナリストにことさら見聞させたことは、眞實を報道させようとする尊敬すべき良心からであつたことは十分に理解できる。それでいながらその報道を嚴禁しなければならなかつた矛盾は、一方に平和を願いながら一方で戰爭への用意をせねばならぬ現實の矛盾を、そのまゝ現わしたものといつていい。

對立する二つの勢力があり、その對立の中に平和が失われているかぎりこの矛盾を解消することはできない。だから、平和のために眞實を語れというのは正しい言葉でありながら、同時にそれは眞實を語り得るためには平和でなければならぬということなのである。私は現在の學者諸君が、たとえば地質學會というようなほとんど戰爭とに縁遠いともみられる人々の集りでさえ、平和への要求が決議されたことを當然と考える。今やすべての人が、平和なしには眞實を語り得ないことを身にしみて感じつゝあるのである。

學者たちのこういう平和運動を、共産黨に踊らされているなどと放言する右翼政治家ぐらい平和が何であるかを知らぬものはない。平和とは、對立することのどちらをも否定することである。世界政府の説は決して非現實な夢物語りではない。天皇誕生日であるがゆえに私は殊更にこれを書いた。

新日本

孝宮さんは二十歳の現代少女だつた。それが御婚儀となると、平安朝時代の妙な衣裳をつけさせられた。お婿さんの方は近代風のモーニングであつた。

この不調和はなぜなのか、私にはわからない。だが不調和ということになると、御婚儀の日の式場の寫眞だつた。皇太后さんは鹿鳴館時代そつくりの洋裝で、眞珠の首飾りなどをされていた。皇后さんは例の宮中服というので、まだわれわれには眼慣れぬものを着けていられた。孝宮さんはオスベラカシで、緋のはかまにコウチギとかいうものを着ていられた。天皇さんはモーニングで、手にシルクハット、花婿さんもモーニング。

御一家おそろいのこの寫眞が、外國へ紹介されたときのことを私はおもつた。外國人には到底理解できぬだろう。不可解なバラバラが、バラバラのまゝで誰にも怪しまれずに濟んでしまうとしたら、日本民族というものは全くえたいの知れぬ一つの謎だとおもうかもしれない。日本人の私にしてからが、ふとそれに氣づいて改めてその寫眞を眺めてみたら、何ともいいようがなくなつてしまつたのである。

多くの日本人が格別可笑しいとおもわぬのは、これと同質の可笑しさが日本人の生活全體の中にあるからだろう。敗戰後一齊に新日本への踏み出しをはじめたなどというのだが、その新というのは、世界歴史的に新なのか、舊日本の復活的に新なのか、あの愚劣な戰爭を引起したいわゆる日本的流れの否定なのか肯定なのか、これらのことがあらゆる面ですこしもハッキリしていないのである。

新憲法はできたものの、日本人の生活は大して變つていない。尾崎翁はアメリカで日本は以前よりも惡くなりつゝあると率直に語つたそうだが、依然として米を食い、依然として疊の上で生活し、依然として神體のわからぬ氏神サマの祭禮をやり、しかし同時にまた勇敢に赤旗を振り、以前よりも活溌にデモ行進し、でも首を切られれば最後にオトナシク觀念し、ハダカ・ショウに夢中になり、競輪という世界に類のないバクチに熱を上げ、かとおもうと引揚げの元將官を閣下扱いで歡迎し、……と書いて行くとキリがないが、これらの現象が當然のごとくに雜居して、それに對して人々は怪しまずにいるのである。

『單獨講和』という言葉を、私はふと國内的に考えてみた。この雜然たる日本人の全部と講和せずに、この雜然たる部分のある部とある部だけ講和するというような意味での『單獨講和』だつたら、それこそ、大變なことになりはせぬかということだ。しかし國家としてまだまだ一致したスタイルとでもいうべきものが出來ているとなると、そんなことだつて一つの心配として浮んで來るのである。

とにかく私には、一枚の寫眞を前にして複雜な感想が浮んだ。新日本の道は遠く遠くずつと遠い氣がさせられたのである。

花とあるからには何でも美しい、というのが常識のようだ。ある花道の家元という人の文章にもそう書いてあつた。

だが私は、それほど無私公平にはなれない。ことさらに反撥するわけではないが、どうみても美しさの感じられない花がある。季節ものだが卯の花など、もう一寸で嫌いだといいきれそうな氣がする。

夏になると色彩のない白いのが多いがこの白が大體鈍くて光らない。何となく氣力がない。同じ白でも、椿の白玉などとはひどく違う。

この春、庭の白玉椿が咲いた。舊主藤村先生が、ことさら、どこからか移し植えられたのだそうだが、あまり見事なので一枝切つて床へ挿した。茶褐色の細長い素燒の壺へ投げいれたのだが、葉の色の濃い逞しい緑と、その壺の茶褐と花の純白とが、ブラックの好んで描くような色調を見せていた。

床の壁には梅原龍三郎氏の、青磁の壺に赤いバラ一輪の小品がかけられていたのだが、小品ながらこれはかなり強い力のあるものだ。それと圖らずも、生きた椿の白玉とが取組み合うことになつたのだが、一緒にして眺めていると、いつか梅原藝術の方が負けて來るとみえたので驚いた。とうとう私は、畫の方をはずして別な方へ移した。

しかしこれほどの強い花にめぐり合うということは、そうザラにあるものではない。その後、ことさら私は梅原畫の下に大輪の牡丹を三輪も挿して置いてみたのだが、この場合は花の方が負けた。

畫家のドガは花嫌いだつたといわれている。ヴォラールの『畫商のおもいで』の中に、フォランの家へいつた時の話が出て來る。室へ入つたら誰もいない。テーブルの上に花が置いてあつたので見えぬところへ片づけた。ところがいざ食事となつたら、女中がわざわざドガさんの爲にというので、それを探し出して食卓の上へ置いた。ドガは腹を立てて飛び出していつてしまつたとある。

すべての花が嫌いだつたのではないのだろう。注文がきびしく氣に入つた花以外は許さなかつたのかもしれぬ。ドガにいわせれば、花なら何でも美しいなどという日本の花道の家元は、花について最も鈍感な奴だというかもしれない。このドガに賛成したい氣持は私にもある。

トルーマンとかスターリンとかいう人たち、この花などについてはどんな氣持をもつているのだろう。近代の政治というものを考えたとき、人間の生活が完全に自然から切放されてしまつているような、一種非人情的なものを感じさせられる。ある花を愛したり、時には憎んだり、人間的感情を人間以外のものにぶつつける生活などというものは、もはや誰からも忘れられてしまつているようにおもえる。これを取戻すのが本當の世界平和だという風に私は考えるのだ。こうなると多分、空論どころか愚論とのゝしられることだろう。

話しことば

『先生、テレビジョンは日本語で何んといえばよいのですか』生徒に聞かれて弱つたと、中學の先生がいつていた。私にも答えられない。テレビジョンはテレビジョンで、それがそのまゝ日本語だろう。

テレビジョンではちと長すぎる、というのでテレビと略していう。テレビでは意味がわからぬという人があるが、片假名ではテレビジョンでも意味はわからない。日本語化してしまえば何も、テレは何でビジョンは何と分解して考える必要もあるまい。となつたら、簡略なテレビで通用さした方が簡略なだけいゝではないか、という説も出る。

『國語白書』というものが出たそうだが、國語審議會の力で國語をどうするということもできぬだろう。現在の混亂、手に餘りましたと嘆息してみせるよりほかはなかつたろうと推察する。義務教育の子供たちの表現力の低下はなどと論じている間に、ギョギョなどという妙な言葉である氣持を表現することを子供たちはどこからかおぼえて來てしまうのである。

だがもちろん學校では、ギョギョなどという表現を正しいと許す筈がない。學校では正しい國語で話させようとする。ところでこの正しい國語とはどんな風のものか、子供たちが學藝會の舞臺などでしやべつているそれを聴くがいゝ。

ボクラはホコリを守ることを喜んで、ヨイコになるための勉強を、社會科でケンキュウしています。コンニチまでのセイカをホーコクすれば……

これを聞いて猿芝居とか九官鳥とかをおもい出すのは、一所懸命の子供に對して大變無情のようだが、何としても我慢ができなくなるのである。もつと自然な、素直な語しことばはないものか。日本の子供は日本語でしやべらせたい。ヨソユキ語は彼等にとつて外國語である。

しかし自然な日本語というやつ、今ではそれが、どこにどんな形で存在するのか、實は學校の先生自身それがわからぬので當惑しているのである。無責任に自然に任せたら、ギョギョというような表現を見送らねばならぬことになるだろう。

こうなるとどうも國語審議會は、改めて『日本語』というものを作らねばならぬとなりそうだ。新國語の創作、これはエスペラントを創作したほどの努力のいる大事業である。假名づかいとか漢字制限とかは、多分二の次三の次の問題だろう。

つまり私のいいたい事は、まず『話しことば』の問題、これに全力を集中してほしいということなのである。私は『テレビ』を自然な語しことばだと考えている。たとえばの話が……。

ミス日本

美人はこの世の寶物だろう。ミス日本などと騷ぎ立てる。外國へまで押出すというのでどんな美人かと誰も眼をみはるのだが、これは今さらはじまつたことではない。

明治四十一年というと大分古い。その頃に『日本一』と自稱した時事新報が、日本一の美人を募つたものだ。この趣旨が、海の彼方のシカゴ・トリビューンからの挑戰に應じたもので、彼地で選ばれた『米國一』と競爭させようというのだつた。

條件として『女優藝者その他容色を賣るものは採らず』とあり、すべて良家の淑女からというのだつたから、當時としてはセンセーションだつた。『本社獨力のよくするところにあらず』というので、その頃の地方有力紙全部の協力を求めた。その結果を、畫家の岡田三郎助氏や、役者の河合武雄、中村芝翫(後の歌右衞門)人類學者の坪井正五郎、茶人の高橋箒庵、彫刻家の新海竹太郎その他の人々に銓衡させたのだが、選ばれたのは、ミス福岡縣の末弘ヒロ子という令孃だつた。

この時の美人寫眞帖が出ているが、その序文を今讀むと面白い。『此帖載する所は悉く良家淑女の眞影にして、苟も容色を以て職業の資となすが如き品下れる者に非るが故に、觀者は相應の禮意を以て之に臨み、彼の坊間に有り觸れたる醜業者の寫眞などと同樣に心得ざるやうありたし』と先ず冒頭で戒めているのである。

ミス日本に當選した末弘孃は、その後間もなく、日露役の司令官將軍だつた野津大將の息子さんの夫人に迎えられたように記憶しているが、今でも健在でいられるかどうか。最近選ばれたミス日本と二人會わせてみたら、この間約半世紀の時代の距たりなどはつきりして、面白いだろうとおもうが、どこの雜誌社でもまだやつていない。

ある雨の日のつれづれ、書棚をかき廻していたらこの美人帖が出て來た。展いてみて意外におもつたことは、半世紀前のミス日本の方が、どこか瑞々しく、豐かで、いつてみれば屈託なく、自由に見えたことである。現世のミス日本の方がむしろ古典的につめたくて堅い。外國美人に挑戰するとしたら、昔の方が超日本的で國際性をもつていそうにみえたことである。

考えてみるとそれは、奔放な女流歌人與謝野晶子女史を生んだ時代でもあつた。昔の方が存外新しかつたと考えると、何か索莫としたものを感じさせられる。雨の日だつただけに私はやつぱり憂鬱になつた。

○の恐れ

〇〇〇〇〇……と〇が一行の餘もつづいている。私はふとゾッとした。昔をおもい出したからである。昔はよくそうした文章を讀まされた。いわゆる伏せ字というやつだつた。がしかし今の世にあんな暗欝なものがあるべきものではない。

私が手にした本は『原子力』の通俗解説だつた。だからこの〇は決して伏せ字ではない。たとえばヘリウム原子核の質最は、〇・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇六五グラムだといつた調子なのである。だから明快な〇であつて、どこにも暗い影などあるべきではない。

だが本當に一點も暗くはないか? 私は昔の伏せ字に似たその〇〇〇の連續を眺めながら、昔の○○○の連續がついにはあの愚かな戰爭を將來したことをおもつた。今日の〇〇〇の重なりはどうであろう? 原子という言葉がすでに私たちの不安の種になつている。數字の〇〇〇とはわかりながら、私の眼にはやはり氣味がよくない。

原子爆彈を用いることなかれ。という聲に誰しも異議はないだろう。私はストックホルム・アッピールというものについて聞いている。原子爆彈を最初に使用するものを犯罪者とせよ! この文句の限りにおいて私もまた同ずるものではある。しかし私はかつて一度もそのための署名を求められたこともなく、從つて一度も署名したことはない。

ところがある日、私は自分の名が高々と讀み上げられるのを聞いた。これもふと何氣なくダイヤルを囘したときの赤い電波である。たしかに聞きおぼえのある、なるほど岡田嘉子らしい女聲で『東京から上海への電報によれば』として、日本におけるストックホルム激文の署名者は何萬何千名とかに達し、その中には云々、その途中で『高田保』というのが聞えたのであつた。私は何かすばらしいユーモアにぶち當り得たような氣がした。病床に寢ながらであつたが、大きく愉快に哄笑した。

私はこのときに一緒に聞いた他の人々の名をあげることを好まない。私の場合が全く身におぼえのない署名だからといつて、だから他もそうだろうともいいきれぬからである。しかしこの時以來、折角の赤い電波も私に對しては信用を失つてしまつた。以後何を聽いても私はこのときの『高田保』をおもい出して哄笑したくなるのである。しかし、私の署名が嘘であろうとなかろうと、世界は大きく動く方へ動いて行く。私の小さな哄笑などは、それこそ本當に〇なのであろう。黙殺ざれる〇また〇、無數の人々の意志も願望も抗議もすべて〇〇〇となつた末にやつぱり來るものが來るのであろうか。昔の伏せ字をおもい出したのも、やはり氣まぐれではなかつたらしい。

隔離

避病院は大概が町はずれ、人里離れたところにあるものだ。必要と認めるから建てるのだが、わるい影響のことも考えねばならぬので、自然そうなつたものとおもう。

吉原というもの、田圃の中に建つた。界隈が賑やかになつたのはその後のことである。すでに人が住んで町になつていた中へ出來たのではない。昔の役人は前後の分別をはつきりともつていた。

東京震災前にあつた淺草の十二階下が賣春窟で賑やかになつたのを玉の井へ移轉させたが、私はあの玉の井の草創期を知つている。白髯橋を渡つた吹きつさらしの田圃の中だつた。釣堀が近くにあつたので、鮒つりの人がよくその邊に行つたが、その外の人にはまるで縁のない土地だつた。こんな土地で商賣ができるのかとおもわれたが、あの商賣の客は、千里を遠しとせずにやつてくるものなのである。だからどこでもいいようなものだ。玉の井時代の役人はまだまだその機微を心得ていたのである。

千里を遠しとせぬということでは驚いたことがあつた。關東の名山筑波、あの中腹に筑波町がある。町には遊廓があつた。通つて行く客は山麓三四里四五里の所からであつたのである。しかもそれが農村の若い衆で、日暮れに仕事が終えるとそれから山登りだ。暗いうちに後朝の別れをすると、さつさと村に歸つてその日の仕事にとりかゝつたものだ。勞働基準法などというルールなど、もとより影もなかつた時代である。

私の今住んでいる大磯の廓は、わけても曾我兄弟で有名だが、十郎が虎に會うためにはやはり、五里の道を歩かなければならなかつたろう。あの廓へは鎌倉方の若侍が馬を駛らせてやつて來たものだというが、現在通じている海岸觀光道路をやつて來たとしても、やつぱり五里はある。

つまり五里ぐらい離れた山里や野良へこしらえても、特飮街なら商賣に差支えはないことなのである。何を苦しんでお祖師樣門前の池上町を選んだり、早大女大にはさまつた高田の馬場を選んだりするのか、業者にしても智悪がなさすぎる。その愚かさが指摘できなかつた役人の頭の惡さだから、世論の動き方も見拔くことができなかつたのだろう。

しかし頭の惡さは窓口の係り役人だけのことではない。上の上のそのまた上の大臣連中にしても、頭となると同格のようだ。法の不備などといわれると、あゝそうかとぼんやり答えてしまうらしい。世論にお構いなく競輪を再開したのなどはその適例である。それでいて個人としては反對なのだがなどといつている。あの競輪場にしたつて五里離れた山里でもいい代物だろう、同じ許すにしてもやり方があつた筈である。

スエーデンに詫びる

ラジオを聽き終つて、私は大きく溜息をついた。續けざまの溜息、だがもう十度もそれを重ねぬと口が利けそうもない。聽いたのは國會における總理大臣の演説である。

もう一度聽きたい。NHKは再放送やるなら今度はニュースの時間でない方がいい。あの『社會探訪』という時間が適當だ。『日本の政治はこんなもの』とでも題すればぴつたりするだろう。

冒頭からワヤワヤガヤガヤ、喧咆政治という字が頭に浮んだ。同音異語をいうならと、騷裡大臣という字も浮んだ。がこれは日本の名譽になることではない。だから電波には乘せても、海外までは屆かせぬ方がいい。民間電波の出力を弱くしろという説があるそうだが、弱い方がよいのはNHKかもしれぬ。

ワヤワヤガヤガヤもあれくらい徹底すると妙なものだ。一種のリズムがおのずと湧くとみえ、音樂的にさえなる。耳を澄ましながら私は、もしも私が作曲家ならと考えた。たちまち五線紙の上にペンを走らせて『國會ブギ』でも作つただろう。

音樂的と感じたのはそのワヤガヤに關せず焉と總理が悠々しやべつていたからだともいえる。ワヤガヤは件奏、その件奏にちやんと乘つていたとは、吉田さんも修行したものだ。ディマジオ選手はワールド・シリーズを觀て、日本の投手がワイルドにならぬのはエラいと賞めたそうだが、この吉田さんを見たら何といつたろうか。

どうせ國會だと、最初から考えていたのだから、私は格別憤慨もせず、以上のような愚想をほしいまゝにしながら聽いていた。だから溜息など出るべき道理はない。と、おもいもかけぬ文句がそのワヤガヤの中から聽えて來たので、はつとした。たちまち私は愕然とさえもしたのだ。

スエーデン……陛下の崩御に對し……哀悼の意を……新國王グスタフ・アドルフ陛下……の御即位に對し……慶祝の意を……。

馬鹿! という罵聲はおもうよりも先きに口を出るものだ。が私の心中を察していたゞきたい。私は吉田總理大臣の口を封じるような氣で、一聲高くこう呶鳴りながら、ラジオのスピーカーに手を宛てがつたのである。このような國際的儀禮の言葉は、時と處とを愼重に選んで發せらるべきだ。何としてもワヤガヤの喧咆騷裡ではエチケットではない。だが私がラジオの口を塞いだからとて間に合うものではない。

よしんば草稿にそう書いてあつたとしても、臨機にそこだけは削除すべきだつた。そのくらいの才覺は、もしも外交官なら働かすべきだつた。私はもう外交官吉田茂を信用できなくなつたのである。すなわち十度の溜息を重ねた所以はこれなのである。

それにしても私はこゝに、日本國民の一人として、遠くスエーデンの人々に、心から恥入りつゝ、深くお詫びを申上げる。

楠山正雄さんを悼む

楠山正雄さんが死なれた。まだまだ惜しい人だつたとおもう。劇文學の畑の學究となると、信用できるだけの實力をもつた人が案外すくない。楠山さんはその少なかつた人の一人である。

私は卅五年前をおもい出す。『美術劇場』という新劇團があつて、私もその中の一人だつたのだが、顧問格で楠山さんが秋田雨雀さんと一緒に入つていられた。秋田さんも御存知のとおり脊が低いが、楠山さんも劣らず低かつた。當時澁谷にあつた稽古場の歸り、誰がいい出したか、向うのポストとどつちが低いだろうとなつた。さつそくお二人がそれと比べ合つたことがある。

脊は低かつたが、きりゝと引締つた顔で美青年であつた。その頃のゴシップでは松井須磨子から口説かれたことがあるといわれたものだが、本當かどうかはもとよりわからない。口説かれてもしかし楠山さんは體よく逃げたろう、と誰しもがいつていた。十分派手に振舞える才氣を持ちながら、都會人の潔癖と弱氣とで生涯を地味に暮らした人である。だから氏の眞價を知らぬ人が存外多いかもしれぬ。

私はいつも楠山さんを早稻田畑の人ではないとおもつていた。帝大とか慶應とかの道を選んでいたら周圍の影響からもつと世間的な活動をしていたかもしれぬ。生得の地味な澁さが早稻田の空氣の中に浸つたため妙に野暮つたく受取れることがあつた。とにかく都會人の持味が環境のために殺されていたことは事實である。

まつたく環境次第では、小山内薫さんみたいになつたかもしれぬ楠山さんであつたろう。小山内さん程度に歌舞伎も新派もわかつた上で、近代劇に對する熱情をこれまた小山内さん程度にもつていた人である。たゞ楠山さんには小山内さんにおける左團次がなかつた。島村抱月さん亡きあとの須磨子が生きていたらあるいは楠山さんも新劇運動の實際に乘出していたかもしれぬ。須磨子が口説いたなどというゴシップも、演劇人としての楠山さんに他の誰に對するよりも大きな信頼を寄せかけていたことからかもしれぬ。

とにかく書齋に引込んでもつねに劇場を忘れぬ人だつた。生粹の演劇人だつたといえる。それは楠山さんの劇評をみればよくわかる。劇評の中にいつもどことなく學究的な匂いを漂わせながら、しかしあくまでも劇場的であつた點、私はいつも敬服した。しかもかく劇場的でありながら、その中に楠山さん流の演劇理想を一貫させていたのである。

日本の演劇にも、近頃になつてようやく新世代の曙光がおぼろげながら涌いて來たようだ。それだけにもうすこし生きていてもらいたかつたとおもう。年はとつても楠山さんは若い人であつたのである。

齒について

思念にも思春期というものがある、と私はおもつている。學生たちが派手な大騷ぎをしたとき、彼等は青春だなと私は微笑した。

私は仔犬を飼つている。齒が生えそろいかけたとき、無暗にものを噛みたがつた。一種の思春期である。今はすこしオトナになつたので以前ほどではない。段々に落着いてくるのである。

齒は生えてくれぬと困る。學生でいながらいつまでも學問に興味をもたぬのは心細い。興味をもちはじめた初期は、生噛りのものを威勢よく振廻して、先輩と議論したがつたりするものである。こういう齒の生えかゝりをみるときは頼もしい感じがする。

オレはマルクスはキライだ。

オレもだよ。

こんな對話を聞いて、頼もしくおもう人は多いかもしれぬ。だが私は心細く感じる。なぜなら、彼等が次の一語を發したからだ。

何てつたつてマルクスは學問だからな。

彼等はマルクスが嫌いだつたのではない。學問がキライだつたのである。彼等は決して赤の徒黨には加わらぬであろう、だが早船某とか山際某とかの盟流にはなりそうである。學問を噛む齒がいつまでも生えぬ學生の行末こそ私には心配なのである。

早稻田の學生が來て、わが大學ながらイヤになりましたと嘆息した。理由をきいたら、各大學の總長が衆議院の委員會に呼ばれたとき、東大の南原總長は議員たちにひどく不評判だつたが、わが早大の島田總長はひどく評判がよかつたのだそうですと答えた。現在のあの議員たちに評判がよいようではと失望したわけなのだろう。あの議員たちを噛みつけるだけの齒がないようではという嘆息、私にも慰めようがなかつた。

齒が立たぬという俗語がある。完全なる敗北という意味だろう。大橋法務總裁は就任のとき、反共は理論でなく實踐だといつたと新聞に出ていた。理論では齒が立たぬという意味にとれる。齒には齒をもつてという言葉がある。齒の生えかゝつた若い學生を反共にとおもつたら、やはり反共の理論をもつてせねばなるまい。

レッド・パージに學生が反對するのは、日共のソ連製鐵牙をはめた特別な連中は格外として、賛成の齒を見出し得ずにいるからである。政令第六十二號だけではその齒になり得ない。島田總長は校友に訴えた文章で『營々七十年間、折角先輩諸君が築き上げた社會的信用を挽囘したい』と述べているが、早稻田大學の信用は健全な大人の齒をしつかりもつた人間を數多く出した點にあるだろう。

最初から大人の齒は生えない、子供の齒は拔け代るものである。拔け代つたのが次第に成熟する。齒質が缺け落ちて、今は一本も滿足なのがないこの私が、齒について辯じるのも異なことだ。

北歐の太子

『スエーデンに詫びる』を書いたら、よくぞ詫びてくれたと人々に賞められた。ほかの國とは國が違う。とその人は私よりももつと憤慨されたようである。

ほかの國とは國が違うというのには私も無條件で賛成した。前囘のあの文章の中で、序でにそれに觸れたかつたのだが、餘白がないので諦めたのだ。

まず第一には、ノーベル賞をもらつたではないかということ。湯川さんが偉いからもらつたので、何もスエーデンのお蔭じやないというだろうが、私のいうのは儀禮上のことである。あの授與の式場で、湯川さんの手に渡した人は、病陛下に代つた皇太子、すなわち今度のグスタフ・アドルフ六世だつた。

吉田さんの演説では、戰時中あの國が、わが國の利益代表國として、在外邦人にいろいろ心づくしをされたことを感謝されただけだが、今度の新王と日本とは、それだけではない。ずつと以前に深いつながりを持つたはずだ。

卅年前、大正十五年に新王は日本を訪問されている。當時の病天皇に代つて、撮政宮だつたいまの天皇が應接されたから、つまりは兩國宮廷は相識の間柄というわけである。しかもこの北歐の太子は、世に聞えた考古學の研究者だつた。極東の太子は生物學の熱心な學者、對照は違つても好學の氣には通じ合うものがあつたかもしれない。

東京ではまず博物館を御覽になり、それから歌舞伎座で『忠臣藏』を見物なすつた。法隆寺へ行き、高野山へ登山、いかにもその人らしいコースを辿つて朝鮮に渡られ、滿洲から北京へと赴かれた。あちらでは京大の濱田博士らと考古史料發掘の仕事もなされたはずである。とにかく、たゞの通り一遍の東洋旅行ではなかつたらしい。

考えてみれば、その頃は泰平の東洋ではあつたのである。改めて王座に坐されて新王は、曾遊の日のことをおもわれながら今日の血なまぐさい東洋動亂に、變轉の感慨を催されているかもしれぬ。

こんな因縁があつただけに、あの舊王長逝への悼辭と新王即位への慶祝とを、下劣なワヤワヤガヤガヤに包ませてしまつたことに、一倍餘計、取り返しのつかぬ後悔を感じたのである。あのときの若い太子の印象には、美しく靜かな好き國として殘つていた日本であつたろう。

他國の國旗が掲げ下されたり、他國の國歌か奏樂されたりのときに、起立し、注目し、靜肅にする位の作法は、庶民のわれわれでも心得ているのに、と客と私はも一度憤慨しながら、それも心得ぬ不作法な者どもがやれ日の丸だの、君が代だの、修身だのとは、なんとこれ僣上の沙汰というものではあるまいか、といよいよ調子を高くして論じ合つたのである。あるいは氷雨が降つていたせいかもしれない。

わが悲願

この數日ほど私は自分の病體を悔んだことはない。私はおもいきつて立上りたいのだ。立上つて心の底から世界平和を呼びかけたい。不安のどん底を感じて私は、居ても立つてもたまらぬ氣持なのである。

全面講和ということ、小さな日本の幸福のためではないと、かつて私はこゝに書いたことかあつた。大きく世界平和のためである。もしも日本の不幸が世界平和を呼ぶのに何かしらの爲になり得るものなら、私たちはその不幸をよろこんで忍ぶべきだ。全人類の幸福の上に私は立ちたい。

日の丸とか君が代とかの問題は問題ではない。私は國家という愚かなワクを捨てることを考える。世界が一つになることが國連の理想の究極だろう。その可能不可能を私は論じたくない。その可能を信じるところにだけ殘された『たつた一つの夢』がある。國連旗はどこの國旗よりもつねに上位に掲げられるべきだという規則、これこそはその夢から生れたものなのではないか。

鴨緑江に沿つて非武裝地帶ができるかできぬか、私たちにはわかることでない。だが世界の平和のためにそれが必要なら、私は全朝鮮をも引つくるめつゝ、この日本をその地帶の中に入れられて不服はないといいたいのである。國連がこの國を全部管理する。この管理を占領とは誰もいうまい。世界平和のためにこの國の一切を投出して原子爆彈の殘虐から世界を救うのである。小さな獨立というようなことよりも、はるかにはるかに大きな榮譽であろう。

私はキリスト教徒ではない。しかし誠實なキリスト教徒諾君は私を理解してくれるだろう。私は佛教徒でもない。しかし佛の説いた精神を知る人たちはうなずいてくれると信ずる。昔の天皇は自ら三寶歸依の奴といわれたそうだ。國家を棄却することが天皇制を棄却することだとしても、それが人類の大幸福のためだつたとしたら、天皇もまたよろこばれるだろう。

世界に向つて日本人みずからあえて日本を捨てる行爲である。大悲願捨身の修法、そのために焚く大護摩に私は火を點じたい。そのためには街頭に立つて血も吐かずばなるまい。橋畔に斷食をすることも要るかもしれぬ。雨風をおそれず、霜雪を凌ぎもせずばなるまい。だが私の病體はいま、半日もそれに堪えることではない。たゞ夜半しずかに、この文字を綴るのみなのである。この切なさを察して下さる諸君があらば、その君をこそ私はわが知己と呼ばねばならぬ。