高田保「ブラリひようたん」

十等車

京洛の旅に出てくれと新聞社からの依頼である。以前は旅行好きの私だつたが、終戰後は不精になつた。外地へなら飛出したいが、日本内地など興味がない。そういつて斷わる氣でいたら、汽車の切符を二枚取つて置いたと先手を打たれた。二枚というのは愚妻同道という計らいである。

この切符が一等なので苦笑した。私はいつも小市民である。日頃惡たれや憎まれ口を叩いているのは、小市民代表というつもりのいわば代辯のつもりなのであつて、決して指導的とか啓蒙的とかの評論類のつもりではない。この小市民を一等車の客にしようというのは、社に何らかの魂膽があるからなのだろう。そこで默つて乘つてみることにした。

夜行列車『銀河』、入れられたのは二人きりの別室である。ことさら所望してこの別室に入る人種があるそうだが、別室に入れられても今さら心理が變化するような私たち夫婦ではない。冷然としてそれぞれの寢臺に入ろうとしたが、さてその寢臺は上段と下段とである。この際は男の方が梯子をよじ登つて上へ行くのが外國風なのだろう。だが外地の旅ではない。おれが下へ寢ると私はいつた。とたんに傍にいたボーイが妙な顏をした。

そのボーイの顏を後に私は外の廊下に出てトイレットヘいつた。するとそこには『レディス』と書いてある。愚妻に對して横暴な私でも、明らかに記されたその横文字を無視するわけにはいかない。改めて『ゼントルメン』とある方を探さなければならなかつた。

いかにもつまらんことを記しているようだが、私が述べたかつたのは厠のことではない。鐵道當局は一等の客の場合だけ、人間に男女の別を認めているということである。私とても二等車の客ならばしばしばなつたことがある。しかし男女は同等に扱われていた。三等のことは小市民諸君が御存知のとおりである。なるほど男女の別があればこそ、二人きりの別室をと望む連中が一等には多いのである。

汽車の中のわずかな時間中も男女の別を分ちたがるのは、人間として果して一等といえるかどうか、ふと考えたとき、私は急に三等車を戀しくおもいはじめてしまつた。旅は道連れというが、二人きりの別室にいては、袖すり合う他人と語り合つて、世は情と喜んだりすることはできやしない。

車中に一人の他人もいないから私たち愚夫愚妻は、行屆いた車中の諸設備でも鑑賞するより外はない。隅の小箱を引き開ければ小机が出る。も一つ引き開ければ洗面器が出る。鏡面に一點の曇りもなく、スイッチを押せば鮮やかな螢光燈が點滅する。

これが一等車だとすると、いつも私たちの乘つている三等車は、十等車といつた方がいいくらいですわね!

愚妻がいつた。愚夫は鷹揚にうなずいた。三等客を十等車に押し込めておくかぎり、小市民には一等車が是認できぬのである。貧富の差は許しても貧富の生活の差は許し難い。

提灯持ち

有益な書にめぐり合つたときはうれしいものだ。讀後感をこゝに記したくなることもある。ことにそれが知人からの惠贈であつたりした場合、それをするのが答える禮というものだろうと考えることもある。しかし私は努めてそれを愼んだ。私は決してかの徳富蘇峰先生のような大人ではない。先生は大人だから、よしんば泊つた宿屋の庭の景色を賞めたつてよかつたのだが、私のような小人はなすべきではない。小人がそれをすれば下司な提灯持ちになつてしまうからである。

だが今日はあえて提灯持ちをしようと決心した。北輝次郎著『國體論』というものが近々出版されると知つたからである。北輝次郎では知る人が少いかもしれない。しかし北一輝といえばあの人かと誰もうなずくことだろう。北一輝先生はわずか廿四歳のとき、『國體論及び純正社會主義』という大著を發表された。

大著というのはたゞそれが千枚を越すものであつたからではない。自費で出版された無名青年の著書ではあつたが、常時の學者たちを驚倒させたからである。たとえば福田徳三博士はこの無名の著者を想像して、おそらくは英佛獨語に長じ、歐米社會學の書を萬卷に亘つて讀破した隱れたる學窓の士であろうといつた。しかしそれにも拘わらずこの大著は埋れ去らねばならなかつた。發賣禁止の命令を受けたからである。

しかもこの命令は當時の官權が自發的にしたものではない。當時の言論機關がこの書を天下最大の危險として攻撃し、その危險を世に放置する責任如何を追及したからである。その言論機關とは當時の『東京日日新聞』であつた筈だ。それをかくの如く『東京日日新聞』に書くことに私は歴史的な興味を覺える。

一輝先生の生涯は一大ロマンスだつたといつていい。そのまゝを記して小説よりも奇なるものがあるようである。少年の頃すでに與謝野鐵幹に認められて『明星』寄稿の歌人だつた。青年にして、革命家、中國に渡つて宋教仁と深く結んで死生の中に活躍した。その後の先生について知る人は多いかもしれぬ。しかし丹羽文雄君の『現代史』中に現われる先生は、私のように知遇を得たものからいえば、片鱗をだに傳えてはいない。先生が格別の人であつたからだろう。

先生の知遇を得たのは、令弟北ヤ吉先生が、私の中學一年からの恩師だつたことによる。學窓の恩顧以上のものを受けているのだから、大恩師といわねばならぬのだが、『國體論』刊行のことは、北ヤ吉先生からのお手紙で知つた。私はいまだ何にも先生の御恩誼に應えてはいない。咄嗟にあえて提灯持ちをする氣になつたこと、いわば私の良心である。咄嗟のことだから、どこの書房から刊行されるのやら、それさえも私にはわかつてはいない。私の腦中に今去來しているのは、卅數年前、黒表紙のその分厚な國禁の大著を、ヤ吉先生から拝借して讀んだ折の、すさまじかつた興奮のおもいでだけである。

禍福

旅の宿でゆくりなくも呉清源君と一緒になつた。こつちは圍碁については何にも知らないから、雜談の中で、圍碁の勝負にも運があるかという愚問を發した。

運よりも縁だと呉君は答えた。縁という字には糸篇があるように、目に見えぬ絲に作用される。だから勝負は授かりものと考えていますというのだつた。勝負をつかさどる神樣との間に、その絲がつながつていれば勝つのだろう。絲が切れゝば縁が切れる。縁の切れ目に負けが存在するというのだろう。

對局の場合、一つの計畫は立てるのだが、しかしおもいもかけぬ場面が出來上つてくる。となると最初の計畫はもう捨てねばならぬ。でき上つた事態に即應して構想をもつことになる。この即應にいつもすぐさまなれるのを天衣無縫というのだろう。呉君にいわせればそれは縁まかせということらしい。

京都の町を歩いていると、縁まかせということのできぬ窮屈な宿命を感じさせられる。なまじ燒けなかつただけに、過去の殘骸がそつくり殘つている町。この殘像をどこまでも主體として生きて行かねばならぬのが京都なのである。おもいもかけぬ新生日本となつて、この殘骸につながる時代の絲はぷつりと切れてしまつた。だがその縁が盡きてもやつぱり京都は残骸に執着して苦しいアガキ方をしなければならぬようである。

京といえば祇園という。祇園といえば舞妓という。だが祇園だの舞妓だのといつても、兒童何とか法とか勞働何とか法とかいう規則ができれば、やつぱりそれに從わざるを得ない。十八歳未滿の女の子が座敷へ出て勞働をすることは許されない。だつたらだらりの帶の風情なぞは昨日までのことにしてしまえとサッパリすれば天衣無縫なのだが、それがそういかぬところが京都なのである。やつぱり舞妓というものを具えつけて置く。しかし十八歳以上の舞妓などというものでは、あまりにも天衣無縫でなさすぎる。一夕見に行こうかと友人に誘われたが、さすがの私も二の足を踏まずにはいられなかつた。

舞妓見物は斷わつたが、祇園界隈の散歩はしてみた。すると京都特有のうす暗い紅殻格子の並んだ小路から、淡緑のスェーターという溌刺たる服裝の女の子が、溌剌と飛出して來たのをみて驚いた。これはまさに天衣無縫である。周圍との調和などというものはいさゝかも構おうとしない。だらりの帶とは大變な相違である。

がこれでいいのだろう。周圍との調和などというが、それはその周圍が生きている間のことである。死んだ周圍なら、死んだ殻から飛出すように溌刺と飛出さなければ新時代と調和する人間とはなれそうもない。大膽にその周圍を無視しているところ、その女の子こそは天衣無縫だとおもつた。

燒けなかつたから過去の殘骸が存在する。東京のようにすつかり燒けきつた町と比べて、京都は大分變つているようだ。燒けたのと燒けぬのとどつちが幸福か、禍福はあざなえる繩の如しという文句、改めて考えさせられたのである。

イヤリング

京都奈良、修學旅行の生徒たちでにぎわつている。京都なら清水の境内とか、奈良なら若草山とか、辨當のつかい場所へ行くと、新聞紙やら空箱やら、みかんの皮やら、殘骸がやたらに散らばつている。社會科という教育があつたはずなのにとおもう。

奈良に來て三月堂二月堂のあたりを通る生徒たちをみた。立止まりもせずに行き過ぎて行く。先生は何の説明もしないのに驚いた。せつかく法華堂内に國寶の觀音樣がいられてものぞかぬかぎりには縁なき衆生である。これでは日光菩薩も月光菩薩もあつたものではない。

これだとやつぱりつい先日までの方がよかつたのかもしれぬと、心ある人々はまゆを曇らせて生徒たちを見送つている。ついこの間の廿五日までは、學校が特定の宗門宗派の布教をするような結果になつてはいかんという規則から、修學族行ではあつても先生が案内して寺社の境内へ入ることは許されなかつたのだそうだ。だから引率の先生は奈良の公園へ入ると生徒を解散する。解散された生徒は自分たちで案内人を雇つて案内してもらう。先生はそつと後から離れてついて行く。

案内人だから要所々々を引廻してくわしく説明してくれる。隨分怪しい口上も述べ立てているのだが、それでも無いよりはいいだろう。ところがこの廿五日から、先生が引率案内して差支えなしということになつたのだそうだ。だが神道佛教その他、特定の宗教を宣傳するなという規則の方は生きているらしい。そこで先生は、大佛樣の靈驗はなどということ、めつたに口に出せたことではない。唖みたいに默つて引率して行くだけなのは必ずしも先生たちが何にも知識がないからのことではあるまい。

日本歴史というものをどう教えているのかしらぬが、京都にしても奈良にしてもすべての寺社は歴史である。宗教とか信仰とかいうものなら、てんでの自主に任せるべきだろうが、歴史となればやはり説明して教えて知識として與えてやらねばなるまい。この邊の區別、容易にわかりそうなのだが、どうも混合しているようである。

たがこの混合は氣の小さな學校先生諸君にばかりあるのではなさそうだ。法隆寺の問題が學問と信仰との對立でもめているなど、やはりこの混合の整理のつかぬところから來ているのかもしれぬ。ぼんやりと二月堂三月堂の屋根をながめただけでいつた中學生たちのあとを見送りながら、そんなことを考えて私は若草山の方へ歩き出した。

なつかしや鹿の姿がみえた。さつきの生徒たちがとり圍んで何か餌をやつていた。昔からの奈良の鹿だか、鹿は生きているから歴史ではない。歴史ではないから先生の説明がなくとも生徒たちにはわかるとみえる。生々と喜んだ顏でそれと遊んでいた。古い時代の縁のきれた新しい時代の少年少女である彼等はしかし、鹿といわずに多分イヤリングといつているだろう。晴れた秋空高いところに鳶が輪を描いていた。

法隆寺

法隆寺をたずねた。燒けた金堂、外から見ると大して異状なく見える。階段を上つて内廊下へ入つても、廊下だけを見ていると昔通りである。だが一歩さらになかへ入ると、眞つ黒焦げになつている形容出來ぬ慘状である。千年の法燈、外から見ると靜まりかえつて何の煩惱もなさそうたが、實はその中に毒饅頭事件などという業火が燃えたぎつていた。それが明るみに出た時、外にはもれぬ魔炎が金堂の内に狂つていた。因果といつたようなものを感じる。

が、この時、地元の斑鳩町の人々はちつとも騷がず、日本全國は當時大騷ぎして文部大臣が辭職するのせぬのとなつたのだが、地元にとつては毒饅頭事件が有罪か無罪か、その方がもつと問題だつたそうである。最近は五重塔下の秘寶の中に、佛舍利があつた、なかつたで、世間が何かと取沙汰しているのだが、地元ではそんなことより、無罪になった法隆寺執事がまた元通りにもどるかどうかの方を、より多く取沙汰している。政治の動きよりも政治家の戀愛事件の方が、もつと興味の的になつたりすることを考えれば、地元の人々のこと、笑つたりは出來ない。

お蔭さまでなあ、と地元の人々は法隆寺の災難をむしろ喜んでいるような口吻をもらしている。あれまでは參詣の客が少かつた。奈良見物の客の中で、特志のある連中だけが廻つて來たにすぎない。それがあれ以來は、まず法降寺ということで、やつて來る。大阪から法降寺廻り奈良行というバスも出て、一日千圓か千五百圓せいぜいだつた拜觀料が、いまでは平均二萬圓を越すそうだ。お蔭さまというはずである。

しかし拜觀料を納めても、寶藏が見られるだけで、金堂の燒跡は覗けない。もしも特別拜觀料を納めさせてそれを覗かせたら倍の收入になるだろうに、などと考えるのだが、さすがにそんな興行師的才覺は法隆寺にはないようである。だが眞ツ黒焦げになつた金堂内部は、柱その他のボロボロに落ちそうになつた消炭に、樹脂を吹きかけて滅多には落ちぬように固めつけてしまつた。これで見ると眞ッ黒焦げのまゝ保存する氣と見える。とすればその慘状もそのまゝ拜觀させる氣なのだろう。

あたら男前を汚した創痕それを賣物にしたのは昔の與三郎、さつぱりしていて私は好きである。懸命にそれを隱して元の美貌を賣つているのがいまの世の長谷川一夫。あれはいろいろ苦勞せねばなるまい。とこんなくだらぬことを私は、夢殿の方へ歩きながら考えた。どつちが利口かは救世觀音さんに伺つてみたい。

折柄に夢殿の觀音さんがお開帳中だつた。ほんのりと口紅のついている觀音さんの顏には物足りない微笑が浮んでいる。その微笑を仰いでいると、火事のことも佛舍利のこともどうでもいい氣がして來た。法隆寺の歴史的な、あるいは古美術的な價値などというものに地元の人々が何の關心も持つていないのは、もしかするとこの觀音さまの感化かも知れない。私はのんびりと素直に合掌した。

五重塔

五重の塔の除れている法隆寺は、何としても見た目がさびしい。早く元通りにしてもらいたいものだが、そう簡單にはいかぬらしい。初層だけは出來ているのだが、それから上に問題がある。

木造では腐れやすい。鐵骨ではという案があつたそうだ。なるほど堅固かもしれぬが、あちこち鐵サビなどがみえてはあまりに飛鳥時代から離れすぎる。それなら要所要所の用木を二つ割りにしてその中へ鐵骨を隱し込んではどうだとなつたそうだ。だが一層毎に一トンの鐵材として四層で四トン、そんなものを載せたら塔はぺしやんこに潰れますと、現場で働いている大工の親方は笑つている。しかし設計の學者の方はちやんと計算して、四隅に丈夫な柱を立てるから、大丈夫という。私たちはどつちが當つているのか判斷はつかない。

四隅に四本の突つかい棒を立てた五重の塔というもの、それが變てこなものだろうということだけは素人にも想像がつく。やつぱり木造というのでないとその調子は出なかろうという説も出て、こゝのところ三種ほどの設計をしてみてから決定ということに落着しているのだそうだ。解體された元の塔の千年の古木は、しずかに地面に寢かされてその決定を待つている。待つている間に一本二本、どこかへ流れて行くのもあつたりするという話である。

それは怪しからぬ、嚴重な管理をすべきだといきまく人もあるかもしれぬが、法隆寺は結局法隆寺のものであつて國有財産ではないのだから、いい立てると見當違いになりやすい。修覆費に年額三千萬圓も政府が出しているではないかという人もあるが、それは補助金であって修覆の仕事にしても結局は法隆寺がやつていることなのである。だからまず法隆寺がその費用を投じている。

しかしその法隆寺支出というのは、たゞの一萬圓だそうだ。その一萬圓に對して三千萬圓の補助を受けているのだから、法隆寺としてもあまりにつよく我を張るわけにもいかぬのだ、という説明を聞いたが、この理窟だと金で威勢を利かしたことになる。金を出してやつてるのだから自由になれでは、新興成金の放蕩みたいで君子國の政府らしくもない。

『柿喰へば鐘が鳴るなり法降寺』子規の句碑のある茶屋で柿を喰いながら、もしも私が佐伯貫主だつたらと考えた。百圓札の表裏に無斷で夢殿と法隆寺全景とを刷り出している。あれは一種の著作權侵害だ。あれを許す代りに版權料を納めろと大藏省に談じこむ。三千億圓の札が出ていたら、枚數にして三十億、一枚一錢ずつ取つても三千萬圓という勘定になる。補助金などと大きな顏でいうが、たかだかその三千萬圓にしか過ぎぬのではないか、私が貫主だつたらこう啖呵を切る。

折角法隆寺まで來ても、私のような俗物にはこんなことがまず頭に浮ぶのである。その俗物でさえ、早く元通りの五重の塔を見せてくれという氣持になるのだから、やつぱりこゝはほかの寺と違うのだろう。

別院

法隆寺の佐伯貫主は、信仰を楯にとつて學問を拒否する。時代を解さぬ頑迷だと非難する人が多いようだが、あのサビエルの聖腕を人間生理の研究材料にしたいと、學問の名で學者がいい出した場合、果してカトリックの人々が素直に承知するか。カトリックに許されるものは法相宗にも許されねばならぬ。われわれは公平を保たねばなるまい。

こゝが問題の舍利容器の出た空洞ですと、案内の人が特別に木の蓋をとつて見せてくれた。それで私も一應のぞいてはみたのだが、私の場合はほんの好奇心にしかすぎない。はしたない振舞いだと心の中で自分を責めた。信仰者の側からいつたら大それた無禮だろう。

だが世間が法隆寺に向けているものは、ほとんど百パーセントが好奇心である。學問的探究だと學者は主張するだろうが、信仰派と好奇心派と二大別するとしたら、學者はどつちにつくことになるか。八十歳の老貫主が學者連を好まぬのは無理でない。

私は隣りの中宮寺へ詣つて、あの幾分かなまめかしいほどやわらかな彌勒菩薩の前で、これくらいの小ぢんまりとした寺を立てゝ法隆寺別院としたら、とふと考えた。その別院へはあの金堂の釋迦三尊でも安置したらいいだろう。そこは完全に法相宗信仰のありがたい御本堂ということにする。

頑是ない子供が氣に入つて握つているオモチャ、取上げようとするには何か代りのものを與えねばなるまい。學者などというコウルサイものから離れて、明け暮れしずかに勤行三昧ができるならと、存外老貫主も喜んで納得するかもしれぬ。その上であの法隆寺建築を、推古白鳳の諸佛ともども、完全に博物館的に管理するのである。

眼をあげると前なる彌勒菩薩は、輕くしなやかな指先きで自分の頬をつきながら、善哉というように微笑されていた。尼寺の御本尊だから掃除が行屆いている。頭の上、肩のさき、どこにも塵一つ止まつてはいない。私はついさつき拜んだばかりの法隆寺寶藏内の釋迦三尊が埃まみれだつたのをおもい出した。別院ができてはつきり信仰の御本尊ということになつたら、尼寺ではなくとも埃だけは拂つてもらえるだろう。寺内の一切合切は信仰の對象などと息ばつてみても、八十歳の老貫主では行屆いた掃除ができかねる。法相宗という宗旨がすでに老齡なのである。小さな別院にでも納まれば、どうにか手が廻るだろう。

今度の舍利容器、法隆寺と文部省との約束では、學者が奉拜してこれを掃除するとなつていて、調査などという言葉はどこにも使つてないそうである。信仰となれば理窟ぬき、その理窟ぬきと學問研究との組合せ、調和のできぬものを何とかゴマ化そうという苦心はわかるのだが、しかしゴマ化しはどこまでもゴマ化しである。この場合ゴマ化しているのは誰で、ゴマ化されているのは誰か? 急に佐伯貫主に味方したくなつたのは、眼前の彌勒菩薩のせいだつたかもしれない。

滑稽車

來たとき『銀河』の一等寢臺だつたのなら、歸りは『つばめ』の展望車にするがいい、とすゝめられたが斷わつた。私はあの展望車というものをしげしげ外からのぞいたことがあるのだ。

東京へ出て大磯へ歸る終列車を、品川のフォームで待つたことがある。そのときフォームの片側に、廻送列車で『平和』が止まつている。待つ間所在のない時だから、しげしげその中をのぞくようなことになるのである。

桃山式天井、なるほどとおもうのだが、妙に末香くさいものを感じた。連想されたのは靈柩車である。何としてもいい趣味のものではない。その下に豪華なソファがずらりと並んでいる。がこのソファがどれも窓の方へ背中を向けているのはどうしたものなのだろう。

窓を背にして兩側に並んでいるのだからそれへ腰をかければ否も應もなく、前方のソファを展望しなければなるまい。ソファだけならまだ腹も立つまいが、そのソファにもいずれ誰かが腰をかげるのだろう。

絶世の美人でもかけてくれたら、絶景かなと喜んでいられるかもしれぬが、それでも列車が琵琶湖の岸にでもかゝつたころには飽きてしまうかもしれぬ。東京へ着くまで見飽かない美人などというのは、一寸考えられそうもない。これがもしも下司な新興ヤミ成金でもかけているとなつたら、大變な不展望になるだろう。眼でもつぶつていないことにはやりきれない。

滿鐵のアジア號の展望車はボタンを押すとソファが廻轉した。くるりと窓の方へ向くから、同車内の人間を眺めずにいることができる。しかし滿洲の風景には變化がない。どこまで行つても遠い涯に地平線が見えるだけ、眠くなつて寐てしまつたことをおもい出す。

ソファの廻轉裝置ができぬのだつたら、眞中へ出して二側を背中合せにすればまだよろしい。だが日本の風景、明媚だなどというが、東海道沿線で見られるのは第一に貧弱な民家の立並びである。その民家の生活と桃山式展望車との距離、そんなことにもし氣がついたら、日本人ならいたゝまれなくなるだろう。それなのに、いかにも得意そうに共同募金の赤い羽根をつけてふんぞり返つている。『銀河』の一等車の客はみんな、寢臺で眠つてしまつているのだからまだ罪はないが、『平和』の客はそうではない。

そんな手合とは無縁に、ともあれ展望一點張りでいこうとすれば、立つてデッキヘでも行く外はないのだが、展望車というやつは最後尾についているのだから、たまたまこゝはいい景色だとおもつても、それからどんどん遠ざかつて行くのだ。それへ近づいて行くのでないと面白くない。

展望車を機關車の前へつけてくれるんなら乘つてもいいよ。

と私は難題を出して答えた。それで相手はそれ以上勸めなかつた。何としても私にとつては、展望車は滑稽車である。滑稽の仲間へだけは入りたくない。私はあたり前の方法で歸京した。

師弟

町に住んだ一老人が昨日死んだ。天明愛吉と名をいつても、知る人はないだろう。だが市川朝之肋といえば、古い記憶をよび起す人があるかもしれぬ。

左團次がはじめて『ヴェニスの商人』を出したとき、一緒の舞臺をつとめた。市川朝之助はそのときの藝名だが、これは左團次からもらつたのでなく、島崎藤村からつけてもらつたらしい。古くからの藤村門弟である。

藤村は弟子をとらない。藤村を慕つて天明さんが弟子入りを頼むと、お友だちになりましようといわれたそうだ。藝術上の友という意味であつたろう。天明さんは喜んで友だちになつたわけだが、もちろん氣持は弟子だつたことである。

この弟子を藤村は可愛がつた。『佛蘭西だより』の中で、朝之助という新進の俳優が當時めぐりあつた小山内薫と話合つたことが出ていたとおもう。が病弱だつたので天明さんは間もなく俳優をやめてしまつた。その後は作者部屋の人となつたが、そこでその頃の野心兒だつた先代中村又五郎と結びついた。

先代中村又五郎の名をいう人はすでに少くなつているが、松竹の手を離れて淺草の公園劇場へ出た彼は、はつきり歌舞伎の革新を目ざしていた。その點、後に春秋座を組織して松竹を脱退した猿之助の先達だつたといえる。大正七八年の頃だが、彼は一座につける名前を『民衆座』としたいといつた。民衆という言葉は當時すばらしく革命的な響きをもつていたものである。この又五郎の後ろに天明さんがいた。私とはこの時代からの縁である。

大磯の生活では天明さんの方が私よりもずつと先輩である。私はこつちに移つて間もなく藤村墓碑のある地福寺へお詣りした。すると小さな名刺受けの傍に、小さな板碑が立てであつて、それに『藤村先生は生前白い花がお好きでした』と行儀のいい楷書で書いてあるのを見た。『薺垣居』と署名がしてあつたので、この人が墓守だとみえるとおもつたのだが、この薺垣居が天明さんだつた。藤村に大磯生活をすゝめたのは天明さんだそうだが、この忠實な弟子がいるのを心強くおもえばこそ、藤村もそのすゝめに從つたのだろう。

天明さんが死なれたのは、地福寺門前の腕屋である。以前は寺の奧の方にある家を借りていられたのだが、そこにいられなくなつても、先生の墓近くを去るのはといつて門前のそこへ移つたのである。誰に頼まれたでもなく自ら任じて藤村の墓守となつた。

日頃病身だつたが、先生の石碑が建たぬうちは死なないと笑つていた。今年は七囘忌でそれが立派に立つた。その除幕式のとき誰よりもうれしそうだつたのは天明さんである。折柄眞夏であつたが、上布の單衣に獨鈷の角帶をしめ、老優市川朝之助といつた風の江戸前の粹な姿だつた。藤村の遺徳を慕う人々に、このお弟子さんの死をつたえたい。

獄中

非凡だから大元帥にもなつたのだろうが、スターリンだつてやつぱり人間には違いあるまい。だが彼の人間像、われわれとさして變らぬ月並な面などはあまり語られていない。あゝいう位置を持續するにはそれを祕密にするのが戰術かもしれぬ。ヒットラーの私生活も祕密にされたが、この點兩者揆を同じくしているのは妙である。

しかしこゝに一通、一九一五年に書いたというスターリンの手紙がある。シベリヤの流刑地に居てのものだが、後に彼の義母となつた人に宛てたのだそうだ。彼を慰めるために食物の小包を送つてくれたことに對する禮状、その中で彼はこう訴えているというのである。『凍てついたツンドラの外には何もないこの呪うべき土地にいると、繪に描いた風景でもいいから眺めたい、というばからしい願望にかられて來ます』

なるほどそうだろう。人情の當然、これは誰にもわかる。この手紙を書くときのスターリンは、鐵の人らしくもなくセンチメンタルであつたといえるかもしれぬ。だがこういう月並なところがはつきりのぞける方が、われわれにはかえつて親しみが持てて好ましいようだ。鐵の理論よりも時には一枚のエハガキの方がずつと欲しかつたとしても、それは決して裏切りでもなければ變節でもなかつたろう。

この話は私に、終戰すこし前に惜しくも死んだ市川正一をおもい出させる。彼は遂に最後まで屈しなかつた日本共産黨の第一巨頭だつたが、獄中彼がほしがつていたのはエハガキだつた。彼の獄中からの手紙を讀むとそれがよくわかる。弟妹へもエハガキで便りをくれといつて寄越しているが、面會に來た母親にもその話をしたらしい。母親からそれをもらつて喜んだことも書いてある。この事は獄中生活の人間感情を、最もよく率直に語るものだろう。この感情に觸れてこつちも切なくなることである。

ソ連の作家シーモノフは、ユーゴ見聞記の中で、チトー元帥、が獄中で一緒に暮らした畫家のことを書いているが、彼等の入れられていた獄舍には高い窓が一つあつて、そこから空と雲のほかは何にも見ることができなかつたのだそうだ。が畫家は毎日變化するその雲に風景を見つけ出したのだろう。晴れた日の雲や、雨の日の雲や、雷のときの雲や、暴風のときの雲や、それを眺めていた畫家は、拾つた石炭のかけらでがりがり、その雲ばかりを獄舍の壁に描きつけていたそうだ。多分この場合は、エハガキ一枚の差入れさえ許されていなかつたに違いない。この雲の畫家は、元帥と親友になつて、出獄してから後、元帥が革命戰で各所をかけずり廻つたとき、どこへでも一緒について廻つていたそうである。ついて廻りながら今度は何を描いたか、シーモノフはそこまでに傳えていない。

名聲

今は上山浦路だが、元の名を山川浦路といつても、知つている人はもう少くなつているだろう。上山草人主宰の『近代劇協會』がイプセンの『ヘッダ・ガブラァ』で旗上げしたのは、今から卅數年前のことである。浦路はそのヘッダを演じた。

私には彼女の印象が深い。田舍中學の四年生だつたが、上京してその舞臺を觀た。有樂座――といつても今のではなく、今のピカデリー劇場邊にあつた手頃な劇場だつたが、そこで觀たそれは私にとつての最初の新劇だつた。私が演劇というものに本心を奮われたのは、それからだつたといつていい。

中學を卒業して上京、早稻田へ入つた私は、縁あつて草人と知合いになつた。浦路は草人夫人である。新橋に『かかしや』という小さな化粧品店を開いていたのだが、そこへ行くと彼女は黄八丈に黒襟をかけた姿で、いかにも女主人らしく立働いていた。草人が私に、炬燵の中で、松井須磨子が草人の手を握つたという話を聞かしたことがある。すると浦路がわきにいて、そんな馬鹿な話を若い學生さんにするものではありませんとたしなめたことが、なぜかくつきりと殘つている。たしなめであつてそれは決して嫉妬ではなかつた。草人よりもずつと上なのが浦路だと、そのときはつきり感じたからかもしれない。

その頃の新劇女優の大きさということについて私は考える。『近代劇協會』は草人が主宰し、伊庭孝が助けていたのだが、中心は浦路だつたような氣がするのである。衣川孔雀という新女優が第二囘公演の『ファウスト』に出て人氣をさらつたが、その後に泰然としていたのが浦路だつた。私は彼女のマクベス夫人をおもい浮べる。たしかに彼女はそれを演じおおすだけの幅と貫祿をもつていた。

日本の新劇史といえばすぐ築地小劇場がいわれるが、あの小劇場が現われる前の、數々の新劇圏が果していた新劇運動の使命を除外することは正當ではない。坪内博士の『文藝協會』が分裂し、島村抱月、須磨子の『藝術座』が誕生したことは記録されているが、荒つぽい記録ではいつも外に洩らされている群小劇團が、新鮮で活溌な仕事をやつていたのである。その中で浦路の『近代劇協會』の足跡はかなり大きい。

中年で死んだ惜むべき新劇女優伊澤蘭奢などは、つまりは浦路型だつたのである。松井須磨子はともかくも大きな存在だつたが、しかし彼女の後繼者はなかつた。新劇には必須であつた知性の匂いが彼女自身になかつたからである。彼女が新劇女優でいられたのは蔭に島月抱月がいたからであつた。が浦路はそうではない。彼女自身だけで新劇女優だつたのである。草人が新劇をやれたのは浦路がいたからだともいえるだろう。

彼女の遺骨がアメリカから歸つて來て、日本での葬式が行われたのである。しかし現在の新劇人ですらが、彼女についてはほとんど知らないにちがいない。名聲というものはいい加減なものである。

婦人雜誌

買物をしたら必ず目方を檢めなさい、主婦の心得としてすゝめられている。そこである主婦が、本屋の店頭で、婦人雜誌の新年號を買おうとして、

ちよいと秤を貸して下さいな。

まさかと誰もいうだろう。もちろんこれは常談である。この常談を私は知合いの本屋の主人にいつた。すると主人は眞面目な顏で、

なるほど、こいつは一つ衡つてみましよう。

六大婦人雜誌というのを集めて、それぞれ衡つてみることになつたのだが、御承知のごとく各誌とも第一、第二という調子の大附録競爭である。だがまず本誌だけということにしてやつてみると、

(甲)
A九〇匁
B七〇匁
C六〇匁
D五五匁
E五〇匁
F四〇匁

A誌の九〇匁はずば抜けて多いようだが、實に附録が綴込みとなつているので、切り放せぬのである。さて、次に附録を衡つてみた。すると、

(乙)
B一〇五匁
D八五匁
F八五匁
E八○匁
C六〇匁

前とは順位が大分狂つて來る。

さて今度は本誌附録を合せた目方と定價とを比べてみることにした。

(丙)
B一七五匁……一三五圓
D一四〇匁……一三五圓
E一三〇匁……一四五圓
F一二五匁……一四〇圓
C一二〇匁……一四〇圓
A九〇匁……一二五圓

こうなると自然、匁當りの値段を計算してみたくなる。主人は早速に算盤をはじいた。

(丁)
B七七錢
D九六錢
E一圓一一錢
F一圓一二錢
C一圓一六錢
A一圓三九錢

これを平均してみると、婦人雜誌というものは『一匁が一圓九錢』といつたところなのである。この相場は果して高いか安いか、それは主婦諸君に尋ねてみないとわからない。

その本屋の主人に私は、折角調査計算したのだから、この結果を大きく店先へ書き出したらどうだといつてみた。すると主人は即座に手を振つて、

そうすると、B誌が斷然格安だというので、誰も彼もそつちへいつてしまいますよ。

現代婦人の知性というもの、やつぱりそんなものなのであろうか。私は暗然としてしまつたのである。

にせもの

非凡とはいえぬだろうが、私の顏は人並みではない。類がないからニセモノが出ない。とおもつていたらそうではなかつた。

先日、見知らぬ人が拙宅を訪れた。玄關で愚妻が應對すると、とにかくお目にかゝりたいといつた。どちら樣かと伺うと、銀座はずれの屋臺のおでんやの亭主だと答えたそうだ。午前中のことで、私がまだ床の中にいた時刻である。

主人とお知合いのお方さまでしようかと愚妻は聞いた。そうですと答えたそうだ。いつも十時頃私の店へおいでになります。十時と聞いて愚妻はてつきり夜分とおもつた。大磯行き下り最終列車はその時刻に東京驛を發車する。そこで愚妻ははじめて、おかしいとおもつた。ところが聞き直すと朝の十時だというのである。

では人違いでございましよう、宅はその時刻に起き出したことなど、生涯に何遍と數えるほどでござんすから、と妙に力を入れて返事している愚妻の聲で私は目を覺ました。狹い家だから私の寢室は玄關と襖一重なのである。その人がニセモノだとすると、なおのことホンモノの御主人にお目にかゝつて歸りたいといつているのを聞いて、もつともだと私は跳ね起きた。丹前を羽織つて玄關へ出ると、きちんと背廣服を着た人がいて、眼を圓くしながら、あゝ似ている! しかし違いますといつた。

その男もやつぱり齒が缺けていて、だから音聲の洩れ工合などそつくりだつたそうである。何遍か來て馴染になつて、二千八百圓とかの借りができて、その上にある日、ロマンス社からとれる筈の稿料が遲れたから、千圓ばかり貸してくれといつて持つていつて、それぎりだつたのだそうである。私は仔細を聞いて一寸ガッカリした。ケチなニセモノである。それ位の借金なら私だつてやれる腕はありそうだ。どうせニセモノなら、新橋一流の待合あたりで百萬圓も引つかけてくれたら愉快だろう。ホンモノには到底できないことをしてみせてくれたのだと、ホホゥ高田保もという氣になれたのに!

この背廣服を着たおでんやの亭主がだまされたように、その店へ集まる定連たちもその男を高田保とおもいこんでいたそうである。だから『週刊朝日』連載の對談で、私が一滴もやらぬと喋つているのを讀んで、大嘘つきだと憤慨した人があつたそうだ。

そういわれるとおもい起されることがある。先頃私宛に妙なハガキが何度か來たりした。『ブラリひようたん』は時々君らしくないことを書いている。いい氣持に醉つ拂つた時のあの調子を忘れるな、というような意味だつた。全然私にはおぼえのない名前の人だつたのである。まさかニセモノが私に代つて醉つ拂つて氣を吐いているとはおもわなかつた。世の中には面白いことがあるものである。それにしても私は高田保だとして、そのニセモノに好意を寄せていてくれた人々に、やはり友情を感じもしたのである。おでんやの借金も拂いたい氣がしたが、愚妻に注意されてそれは止めた。

慶賀

久保田万太郎さんが還暦を迎えた。めでたいことである。昨日その祝いの會が三越劇場にあつた筈だ。さまざまなプログラムの中に『鈴ヶ森』というのが豫定されていた。いうまでもなく權八と長兵衞との出合うあの芝居である。

配役は久保田さんが權八、久米正雄さんが長兵衞、いとう句會の同人面々が雲助ということだが、どんなことになつたか、私は殘念ながら出席できなかつた。久米長兵衞は例の『お若えの、お待ちなせえ』のセリフを『お若えの、イヤさお若えのを貰つたお方、お待ちなせえ』とやつで大いに受けるつもりだと張切つていた。お若えのを貰つたというのは、久保田夫人が若くつて美しいからである。

忘年會も兼ねて賑やかにやろうというので、歌舞伎の役者、新派の役者、裝置家、放送關係の連中、作家、俳人、重役、醫者、踊りの師匠、書き上げていくときりのない多種多樣の人が集まつて、さまざま趣向を凝らしてのいわば隱し藝大會みたいなものをやることになつたのだが、これは年の瀬だからできたというものではない。主人公に人徳がなければ、こうは賑やかにやれはしない。若くて美しい夫人も羨ましいが、この方がずつと羨ましい。

私にとつて、久保田さんは、戯曲家として先輩であり、俳人として宗匠である。しかし私が久保田さんにつながつているのはむしろそれ以外だといえるかもしれぬ。十年の餘も前のことだが、私は困却の果てに、ある迷惑を久保田さんに願つた。

月一割というのは今の世では質屋の利子だから、大して驚くことでもないだろうが、當時は大變な高利だつた。その高利の金を金貨しから借りることで保證人か要ることになつた。誰に頼んだものかと案じながら町を歩いていたら、ばつたり出會つたのが久保田さんであつた。話をするとすぐさまに『私ですむことだつたら』と久保田さんはいつて下すつた。人はなかなか決してこうは氣易くいうものではない。

これは私にとつて一つの恩義である。久保田さんの文學作品に對しては、私流の見解ももち、從つて批評もする私なのだが、しかし恩義となると批評のできるものではない。批評を越えた敬意を私は久保田さんに拂わなければならぬのである。久保田さんの方では忘れてしまつていられるかもしれぬが、私の方はそうではない。

今日は大晦日である。借金話も可笑しくはあるまい。今夜の除夜の鐘とともに、三百六十五日目の年輪が刻まれるのだが、その年輪が六十と重なつて、暦が生れたその時へと戻つた久保田万太郎さんのめでたさを私は心から祝福しているのである。藝術院會員なんぞになられたよりも、この還暦の方がどんなにめでたいことだかしれやしない。

暦日

これからが冬なのだが、新春ということになると氣持だけは春めいてくる。私のいる大磯は東京にくらべてずつと暖地だから、梅の咲くのが早い。もう一週間も經つと白いのを見せる木があるだろう。

田舍にいて母と暮らした時分、大晦日となるときまつて母が梅を活けた。夕飯をすませるとはじめたものである。二時間もかゝつてやつと活け終る。これを『除夜の梅』とだけ教えてくれた。やがて十二時が來る。除夜の鐘が鳴り出すと、それをこわしてまた新らしいのを活けた。今度に全然趣が變つている。『今度のに後夜の梅だよ』と母はいつた。

その除夜と後夜と、趣がどう違つていたか、殘念ながらはつきりとはおぼえていない。方則として除夜のに眞の枝がどうで、後夜のは全體がこうだという風の説明も聞かされたのだが、見事に忘れてしまつている。たゞ後夜の方がのびのびと、幾分締りがないような形だつた感じだけが殘つている。

この後夜の梅を活けるのがいつも二時近くで、それから卅分經つか經たぬかでそれもこわす。その後で改めて迎春の花を活けるのである。南天に水仙といつた風のものだつたが、誰に見せるでもなくての除夜と後夜とを活けるのを、その頃の私はつまらぬことにおもつた。昨日は世界的などということをすこし息張つて書いたが、私の腹の隅には昔の人のこうした生活風流を懷かしむ氣持もあるのである。新しい年への移り變りを人間の世界だけでなく、植物の生氣と一緒にやるような餘裕はもはや現代人にはない。若水などという言葉は俳句の中には殘つているのだが、水道の栓をひねるのでは、別に新らしい感慨も湧いて來ない。初日影、初鳴き、初富士、自然の物象のすべてに新年を感じる感覺は、現代人ほど鈍つているようである。

初夢というものをことさらめでたがつたなども、大いに素朴だつたからだろう。一富士二鷹三茄子。しかしこんなものは今のわれわれに全く無縁である。寶船の畫を枕の下に置いてなどということ、百人に一人はおろか、千人に一人も今はやりはせぬだろう。

知合いの家の犬が、わが家のようにやつて來て庭の日向で眠つている。私はその背を撫でてやりながら、犬には正月はないと考えたが、正月をせぬ犬の方が實は存外正月を感じているかもしれぬとふとおもつた。暦日の運行の中で人間は人爲的なあれこれをやつている。結局は人爲的なのである。昔の人はその人爲の中に自然を持ち込むことを忘れなかつたのだが、現代人は人爲だけで正月を騷いでいるのである。暦日の本當の運行はしかし、人爲よりも自然の中にあるのだろう。

暦日を忘れて暦日を感じてみたい、とふとおもつたら、私は柄になく詩人になつたような氣がした。

美と不便と

もしも私が日本人だつたら、とエディス・ウェィグル女史が毎日紙上で述べていた。

私はきつとキモノを着るとおもいます。

女史のいうごとく、キモノは確かに美術的で、それは日本婦人だけが着こなすことができる。だからうなずけぬ言ではない。だが女史は、多分一度もそれを着たことがないのだろう。

キモノを着て滿員電車に乘れるか。乘れぬだけでも大變な不便である。キモノの不便はその他數えたらきりのないことになる。プディングの味は食べてみないとわからぬというが、キモノの正體も着てみぬとわからない。

この不便をどう改良するか。何度も問題になりながら遂に名案が出て來ない。多くの日本女性はキモノそのものを見限つて洋裝に走つている。便不便ということは大した作用をするものだ。彼女たちの洋裝を滑稽だと笑う人は多いのだが、美術的よりも實用的の方が結局力が強い。

私は多く家の中にいる。だから和服着用が多い。近頃は丹前を重ねて着ぶくれた恰好でいる。キモノはキモノだがちつとも美術的ではない。私のキモノ生活は實用から來ているのだ。だから外へ出るときは洋服に着更える。

私は京都の鳥原へ遊びにいつたことがあつた。角屋という古風な家、昔通りの手順と恰好で太夫が出て來る。百目ローソクの灯つた部屋で私は洋服を着ながら坐つていた。不調和なことおびたゞしかつたが、旅中だつたから仕方がない。キモノで旅行は大變な不便である。

せつかく美術的にでき上つているのを、便不便を理由にして捨てる法はないという論者は日本人の中にもいるようだ。しかしそれは奇妙なことに男に對してはいわれない。いつも女に對してだけである。

キモノ趣味復活の兆がこゝのところすこし見えて來たようだ。しかし、いずれも着附がわるい。今のうちに何とかしなければと嘆いたりする。この人達はキモノと女性とを天然記念物のように保存したいというのだろう。足は靴下のために存在すると説いた哲學者がある。パングロスという男だそうだ。

キモノを正しく保存するためには、女性をもう一度家の中だけに閉じこめて置かねばなるまい。家の中で疊の上で生活させて置くかぎり大して不便はない。こうなるとキモノ美術をとるか新憲法解放をとるかの問題となつてくる。そこまでの問題になるならと、キモノ禮讚の外人たちも考えるだろう。

しかし新聞でみると、湯川夫人もあちらの宴會でキモノだつたようである。田中絹代はもちろんキモノだつた。これでみると日本女性もキモノ美術を誇りにしているらしい。しかし考えてみれば二人とも、それを誇るだけですむ生活の中にいるからのようである。内地の大多數の女性たちはそうではない。キモノの問題はキモノではやりきれぬ生活の中で解決しなければならぬようである。多數の名もなき日本女性でないと本當の答えは出せないのである。

文化の方向

コーヒー一杯百圓は決して安値ではない。若い友人をある喫茶店へ連れていつたら、僕のいきつけの店では、これと同じなのが五十圓ですよと、不服そうにいつた。半値とはまた違いすぎる。

そして次のとき、そつちの店へいつたのだが、なるほど五十圓で大差のない味と分量である。だが私に店内を見廻した。百圓の店には電話があつたがこゝにはない。ともかくも『嗣治』と署名のある十號ほどの油繪がかゝつていたがそれもない。テーブルの上に新らしいカーネーションなど挿してあつたが、それも五十圓の方にはない。

第一腰を下した椅子があの店とこの店とでは違つていた。萬事に百圓の店は贅澤だつたのである。だが若い友人はちつともそんな比較をしなかつた。比較したのはコーヒーそのものだつたのである。だから私が、

こつちの店の方が高いよ。

といつても全然通じなかつた。

ある料亭へいつた。床をみると雅邦の双幅がかゝつていた。蟇仙人と鐵拐仙人、見事な力作である。私はあまり雅邦は好まぬのだが、それでも感心した。その後、日をおいてそこへまたいつたのだが、今度は司馬江漢の達磨圖がかゝつていた。すぽりと頭から冠つた朱毛氈の朱が何ともいえず強く美しく、泥繪というものもこゝまでくればと感心させられた。と同時に私は、その拜見料について考えたのである。

私自身の道樂でその料亭へいつたのではない。座談會があつてそこへ招かれたのだから、私には會計方については一切御存知なしである。だが商賣で料亭を經營しているからには、御座敷裝飾費というものを勘定の中に一項目加えてもそれは當然だろう。しかしそこでは存外それが主人の道樂で、見て下さるお客が見て下さればといつているかもしれぬ。

昔の一流の料亭には、お勘定の帳面のほかにも一つ、特別な帳面があつたそうである。それには客の名と、日附と、床の掛軸、置物などが明細に書きつけてあつた。御贔屓の客から座敷の申込みがあると、すぐさまそれを繰つて、これまでに大雅堂と、牧溪と、何と何とをおかけしたから、今度は趣を變えて錢舜擧といこう。置物は古瀬戸のお國物だつたから、定窯の白壺がいゝという工合にやつたというのである。がこうなると、一寸した美術館ぐらいの所藏でないと間に合わぬことになつただろう。

昔の人は鷹揚なものだつた。こうして馴染がつくと自然客の方から、明日の座敷にはいつぞやの馬遠をかけて、遠州の竹筒を置いてくれなどという注文が出た。もちろんこの注文通りにすれば、默つていても相應の御祝儀が渡されたものだそうである。

文化日本といつても、この昔風の味いは戻りそうもない。百圓よりも五十圓の方がコーヒーは安い。というところから新文化は出立しているのであろう。私はこの事を嘆いているのでは決してない。

  • (一・七)

畫伯

南薫造畫伯が亡くなられた。温顏が眼に浮ぶ。温顏は氏の人柄をそのまゝ現わしたものだつた。

四年ほど前、一緒に瀬戸内海の島々を歩いたことがある。畫伯がスケッチしている傍で私も眞似事をやつたことがあつた。その私のをのぞいて、私よりもうまいと笑つてくれた。温顏の畫伯でなかつたら私は苦笑したかもしれない。畫伯だつたから私は無邪氣に喜んだ。

ある島を歩いていたら、女學生が水影で寫生していた。後からのぞいていた畫伯は、その色を使うと畫が寒くなると繪の具の使い方を親切に教えてやつた。純粹の親切だから女學生はうれしそうにうなずいてその通りに直しはじめた。それを見て畫伯の温顏はいよいよ温顏だつた。畫伯ともなるとなかなかこんなことはしないものだ。

南薫造の名をはじめて知つた私は中學生だつた。文展に氏の『瓦燒く日』が出品され、小杉未醒の『水郷』と並んで、渇仰の中心となつた。今の梅原、安井といつた風の二柱の感じだつたのだが、私は畫伯の畫の温かな色調に感動させられた。色彩感覺というものをはじめて教えてくれた恩人である。

瀬戸内海旅行のときはじめてお目にかゝつたのだが、私には中學時代の先生に會う懷かしさがあつた。旅行は十日あまり續いたのだが、最初から窮屈を感じなかつたばかりではない。お別れするとき心から名殘り惜しさが湧いた。訃報を得て格別の悲しさを感じる。

この時の畫伯の内海スケッチに私が文章を添えて、ある新聞に連載するはずだつたのだが、歸宅するなり私が病氣で長く寢ついてしまつたので、そのまゝになつてしまつた。その後機會を得ぬのと私の怠慢のため、畫伯のスケッチだけは出來上つていながら未發表になつてしまつたのは相濟まぬ次第である。私はしみじみ後悔している。今となつては是非ないわけだが、そのうちどこかへ發表して責を果したい。

畫伯はずつと内海の岸に住んでいられた。内海の美しさの中にいられることが、畫伯の滿足だつたのだろう。畫壇への野心よりもその滿足の中にいる幸福の方が、畫伯にとつては大切だつたのである。素朴な自然詩人だつた。この素朴さは氏の畫業に『瓦燒く日』以來ずつと現われている。

畫伯との旅行は秋だつたが、春の島々の美しさを畫伯は夢のように私に語つてくれた。島の段々畠に麥が萠え、菜種が咲き、桃の花が彩る。ちようど若武者の着た鎧の派手な威しのように綺麗だ。今度はそのころ油繪の道具をもつて一緒に旅行しようといつてくれた。私のような本當の素人を、おなじ畫人仲間のようにすこしも區別せずこういわれたのである。私の感じている人柄を感じてもらえるだろう。

つゝしんで私は畫伯の靈前に香華をさゝげる。

  • (一・一一)

雪がふつた。つもつてくれゝば景色になるとおもつても、温い土地だからすぐ消えてしまう。大磯へ移つてからは雪らしい雪をみたことがない。

早稻田の學生時代、學友の一人がある女に戀した。毎日熱心に手紙を書いたが返事がなかつた。丁度七日目に雪がふりつもつた。熱心な彼はその雪に勇氣づけられて『今日の東京は純白清淨の美しさでありました』という書出しで、綿々の情をつらねた。するとはじめて彼女から返書があつたというのである。しかしそれには『あなたが御覽のときは純白清淨でしたろうが、私は寢坊ですから、起きたときは泥んこのとても汚い東京でした』と書いてあつたそうだ。

この學友は途中で退學して故郷へ引込んでしまつたが、一方彼女は後に女優になつた。五月信子である。男を喰う毒婦役を得意にしたが、藝風はすでに返書の文句に現われていたともいえる。だがこの話は、東北信越のような白魔の狂う地方の人には通じぬだろう。

つもつた雲が解けて泥んこになつてくれるのだつたらありがたい、とその地方の人々はいうのである。つもつたまゝの上へまたつもる。丈雪というようなことになると始末にいけない。

私の兄は鑛山技師で、東北のある町にいるのだが、五六年前、雪のひどく深いときに訪ねた。冬籠りだからすることもなく、ストーヴばかり焚いていたが、のんきでいゝなといつたら、ばかとすぐ笑われた。

雪は屋根へつもる。澤山つもればこれも重量である。落さぬと家が危い。といつてこの落し方が素人にはむずかしい。うまく前後左右のバランスをとらぬと家がひん曲る。そこで自然慣れたその道のものをたのむのだが、タダでやつてもらえるものではない。

屋根からずり落しても泥んこになる雪ではないから、落ちれば落ちたでそこへ山となる。でなくても雪にさえぎられて暗い家の中が、これでは眞暗になる。さてこの雪の裁き方である。馬橇をたのんで積んでいつてもらわなければならぬ。川べりへ運んで捨てて來るだけだが、のせるのが雪だからといつて料金が安いわけはない。

つまり要するに、一吹雪やつてくるたびに、百兩千兩萬兩、その積雪量に應じて支出をしなければならぬのが冬籠りだというのだつた。そう聞くと、折柄さかんにふり出した雪景色を、壯觀だなとは賞められぬ氣がしたので、お氣の毒といえばいいのかと笑つた。すると兄は兄らしく、壯觀は壯觀でいいが、雪がふれば金がかゝるものということぐらい心得ていなければ、おまえの商賣として駄目じやないかということだよ、と教えてくれたのである。なるほどと私は、弟らしく素直に頭を下げた。

  • (一・一八)

愚妻

日本髮の流行はフアッショの前兆だと書いたら、早速に抗議のハガキが來た。そんなことよりも、おまえがいつも書く『愚妻』といふ言葉の方がずっとフアッショだ、というのである。

『愚妻』というのを英語で『フーリッシュ・ワイフ』としたら外人が驚くだろうといつた人がある。外人ばかりではない、日本人だつて驚く。この際の『愚』は決して『フール』ではない。

私自身も『愚夫』である。『愚夫』と『愚妻』と、まことにめでたい『われ鍋にとじ蓋』だと私はおもつている。人生的に至らないのが『愚』であつて、つまり私たちは謙虚なのである。謙虚の美というものは外國人も知つている。この謙虚の表現が國によつて違うのはどうも致し方がない。

私の愚妻は謙虚である。この謙虚をいとしく思うが故に私は、『いとしの』という意味で『愚』という形容をつげているのである。こういうニュアンスに富んだ表現はまことに詩的なものだ。封建的とかフアッショ的とかいうものでは決してない。これをかりに私が彼女を『賢妻』と呼んだとしたらと考えてみればわかるだろう。彼女はこれこそ不快を感じるに違いない。

わが子を『豚兒』と呼ぶことに呆れていた人があつたが、この言葉の中に親の愛情を汲みとれぬ人とは話ができない。私には子供がないのだが、あつたら喜んで、豚兒呼ばわりをしただろうとおもう。偉大なる作家チエーホフは夫人への手紙の中で、『私の犬よ』と呼びかけている。古風に譯せば『狗妻』とか『犬妻』とかになるわけだが、そう呼びかけられた夫人は喜んでハイと答えていたわけである。

日本人はいたずらに自分のことを卑下する惡癖をもつているというが、必ずしも左樣ではない。『大日本帝國』などと無暗に大きく自分をうたつたものである。日本人本來の性質からいえば『小日本』とか『愚日本』とかいうべきだつたのだろう。

自ら『大痴』と誰がいつたか、御承知のことだろう。大愚といつた人もいる。だがこの連中はすべて腹に一物あつてのことだつた。『愚妻』と私がいうのもやはり腹があつてのことである。

實るほど頭の下がる稻穗かな。私にしても新婚早々の未熟の頃は、到底おそろしくて『愚妻』などとはいえなかつたものだ。だが段々と夫婦の間が熟し、お互に人間として不足なところがわかり、それを許し合う寛大な愛情がたつぷり實つたので、安心して『愚妻』といえるようになつたのである。おもえばこれは夫婦間の本當の信頼を表現する言葉のようだ。以上の文章、愚妻とは何の相談もせずに書いたのだが、おそらく愚妻は笑つて承認するだろう。彼女がかく愚妻であるかぎり、私は彼女を心から私のよき件侶だとおもつているのである。

  • (一・二五)