高田保「ブラリひようたん」

奈落

東京日日連載の『鏡獅子』邦枝完二君の麗筆にのせられて、芙雀だの、松助だのが現われてくるのはなつかしい。六代目尾上菊五郎というとき、私のおもい出の中に泛んで來る人に、先代の守田勘彌がある。

闇に沈んだ眞Kい古沼、そこに小舟が一つ泛んでいる。乘つている人物は男二人、やがて二人は爭い合う。一人が一人を突き落す。突き落されたのは一旦ぶくぶくと沈むが、すぐ泛んで來て舟べりに手をかける。突き落した方はそれと見て、棹の先でぐいと肩をつく。棹にからまりながらまた沈む。

とこれは鈴木泉三郎作『生きている小平次』の中の一場だが、突き落すのは菊五郎、突き落されるのが勘彌だつた。突き落してから必死に棹をさして逃げようとする菊五郎の仕草がすばらしくうまかつた。

棹は三年艪は三月という。棹というやつはむずかしい。水馴れ棹などというが、底が小石か何かの綺麗な川なら水馴れただけでもいい。泥沼となると一筋の呼吸では間に合わない。力を入れてぐいと突くと、舟が動くより先きに、棹がずぶずぶと泥の中にめりこんでしまう。拔こうとすると吸い着いていてとれない。焦つて引つぱるうちに、すぽんとおもいがけぬ拔け方をする。私は水郷霞ヶ浦の育ちだからその邊のことは詳しい。

これが菊五郎の仕草に、憎いほどよく出ていたので感心した。すぽんと急にそれが拔けた途端、勢い餘つて前のめりによろめくあたりの呼吸が眞に迫つていた。藝だなとおもつた。見物の誰もが私とおなじように感心したにちがいない。見物は舞臺の上に現わされているものを、そのまゝそれだけを受取るのである。

その日私は樂屋で勘彌と會つた。縁につながつていた彼とだつたから、率直な所感を述べて菊五郎を賞めた。すると勘彌は妙ににやりと笑つて、

そんなにうまいかい?

うまい。

じやもう一遍見てもらおう、そうすりやわかる。

うまくないことがかね?

誰がうまいかがだよ。

何かあるなよとおもつたから、私は素直に承知した。でそのすぐ翌日に出かけていつた。すると勘彌が、

沼の場になつたら、奈落へ來て、切穴のとこで見ておくれよ。

舟から落ちる。舞臺のそこに穴が切つてある、そこから奈落とよばれる舞臺の下へ消えるのである。私はいわれた通り、その場になつたので奈落へ廻つた。私がそこで何を見たか、明日のツヅキを讀んで戴きたい。

奈落(ツヅキ)

舟の上の勘彌は突き落される。舞臺の切穴から一旦下へ消えた勘彌は、そこの臺の上で這い上る恰好に、伸びをする。船の上の菊五郎がぐいと肩先を突く。それで沈められた形で勘彌は躰をかゞめてその臺から下りて來る。すべて昨日見た芝居の通りだつた。

これでこの場の勘彌の役は濟んだのである。濟んだからには弟子の差出す茶碗の湯でもぐいと飮んで、さつさと樂屋へ歸つてよろしい。だが彼はそうしなかつた。

舟の上で菊五郎が、急いで逃げようとしてさす棹の先きが、切穴から下へぐつと出る。といきなり勘彌がそれに飛びついた。菊五郎が引き離そうと力を籠めるのを、畜生めとばかりに掴んで放さない。持ち合いの形で棹が動かなくなる。と勘彌がいきなりぼんとそれを外ずした。急に力を拔かれて、舟の上なる菊五郎は、當然勢い餘つてよろめかざるを得ない。持ち直してすぐまたさし直す、その棹をまた勘彌がつかまえる。

なるほど!

と私は改めて感心し直さなければならなかつた。がそれにしても勘彌がそれをやるのは解せない。仕來りからいえば、當然菊五郎の弟子が受持つべき仕事である。それを怪しむと勘彌が笑つた。

三日目までは弟子にやらせたんだが、弟子だと駄目なんだ。引張る方が旦那なものだから、こん畜生とはやれない。引張られるまゝつい放してしまうから、氣を拔かれてよろめくのが嘘になる。僕だとこん畜生でやつて、本當によろめかしてやれでやるから、芝居でなしに自然とそうなるんだよ。

誰がうまいのかと敢て勘彌のいつたことが、はじめてわかつた。見物席からの眼には菊五郎しか見えぬのだが、見えぬところには勘彌が働いていたのである。菊五郎の藝と私も見たのだが、それは菊五郎だけの働きではない。一と月ほど前に私はこの欄へ『商法』と題して、對米貿易初期の頃、新井領一郎氏が私産を傾けての大損をしながらも、紳士としての取引契約を果し、日本商人の誠實を彼地の人に示したことを書いたが、この新井氏の蔭に菊五郎の場合における勘彌と同等な助力者があつたのだそうである。その名は星野長太郎。

星野氏は新井氏の實兄に當る。海外へ赴いた弟領一郎氏を活躍させるために、日本にいての生糸出荷をやつていられたのだが、當時の損害はむしろ兄長太郎氏の受けたものであつたらしい。時の農商務大臣大隈重信から十萬圓という援助もあつたのだそうだが、それでも全財産はおろか、祖先の墓石まで賣つて金に換えてそれを償つたというのである。

『今は前橋公園に顧みる人もない記念碑があるばかり』と、星野氏の令孫に當る方から私信があつた。實はこの事を語りたいために、芝居の奈落ばなしなぞを持ち出したのである。

勸告

シャウプ勸告についてのマ元帥書簡は『……傳達する。……期待する』といつた調子だつた。これに對してわが首相の返書は『……了承しております。……所存であります』といつた風だつた。二つを比べて讀んだ老人が、被占領國というものはと、ひどく情なさそうな顏をしていた。笑つてもいられぬから、元帥書簡が英文であることを話し、飜譯のせいだからと安心させてやつた。

ぺルリ提督と林大學頭の應對を記録したものがある。それでみると提督の方は『是非御承知下され候よう願い奉り候』といつた風になつている。それに對して大學頭の方は『承知は相成り難く候』と、まことに威風堂々であつて、決して兩者對等ではない。

この頃の開港文書、先方からの申入れなどはすべて『伏して懇願奉り候』といつた調子になつているのだが、原文はおそらく『余ハ望ム』くらいのところだつたのだろう。しかし幕府の役人たちは、この敬語使用の飜譯を受取つて恐悦したのである。だから交渉が次第に深まつて文書の往來がはげしくなると、忙しさにまぎれて飜譯もつい内容本位になつた。それを見て、近頃の異人の増長ぶり、言語の粗略に現われていると、老中たちが憤慨したというのである。

ペルリ來訪のとき『我國主ノ命ニヨリ聊カノ貢獻物差出候』と卅三種の珍品をもたらしたというのだが、この『聊カノ貢獻物』という日本語の内容をくわしく飜譯して先方に傳えたら、ふざけるなと怒つてそれを取返したかもしれない。が『聊カノ貢獻物』という口上でなかつたら、將軍の方が受取らなかつたろう。

この卅三種の贈りものの中に、汽車の模型があつた。模型といつても、線路の幅は二尺だつたというから、結構人間の乘れる輕便鐵道ぐらいの大きさだつたのだろう。これには『我國主謹ンデ推考候ハ』という添状がついていて、文明の利器だから貴國に於ても試驗の上、充分利用せられるがよろしいと、親切な勸告がしてあつたそうである。

この汽車の運轉は、韮山の代官の江川太郎左衞門が傳授をうけ、江戸城内吹上御苑、將軍はじめ御三家諸大名の居並んだ前で動かして見せたのだそうだが、それきりで後は仕舞いこまれてしまつた。やがて火事で跡形もなくなつてしまつたというの、だから、聊かの貢獻もしなかつたことになる。

『聊カノ貢獻物』は、折角の勸告を無視して仕舞いこんでも大事なかつたろうが、今度のシャウプ勸告はそうではない。現代の江川太郎左衞門の任務は試運轉では濟まぬのである。山坂越えての本格運轉だ。何としても無事にやり遂げてもらわねばならぬ。その技術のほどがわからぬ間は、誰にしても不安がるだろう。

平平平平

『二十の扉』をハタチのトビラといつていた人があつた。シャレていると感心した。ニジュウノトビラとぎくしやくした音よりも、この方がずつとすつきりしていて、口に滑らかだし耳に快い。言葉というやつは、まず口と耳のものである。

この『二十の扉』で『九十九里濱』という題が出た。解答者が『キュウジュウクリハマ』と答えていた。『九死に一生』のキュウだから、ちつとも差支えなさそうにもおもえる。が固有名詞となればやつぱり困る。『一九』をイッキュウといつたら、一休と間違える。

一、二、三という數字の讀み方でさえ、二通りや三通りではないのだから、日本語というやつは外國人にとつて難物だろう。一日という日附の場合、ツイタチと讀むといつたら、では一はツイかと聞かれるかもしれない。そうだとは答えられるものでない。

一月元日と書けば、日の字はジツだが、明けて二日となると、ニジツとはいうまい。ニニチなどといわせられたら頬の肉が硬ばるだけだ。誰だつてフツカという。續いてミッカ、ヨッカ、イツカと來る。だが日の字をカと讀むとは誰だつていわぬだろう。

名月と書けばゲツだが、一月二月はすべてガツである。年中ガツガツだとこれは洒落にもならぬことだが、坊さんはお經の場合に『月』をガツと讀む。月光菩薩はゲツコウではない。が坊さんにしてもムーンライト・ソナタを、ガッコウ曲といつたら笑われる。

禮拜はお坊さんならライハイだが、教會へ行くとそうではない。レイハイと佛教讀みを避けている。ラジオのアナウンサーがいつもレイハイというのは、多分クリスチャンだからだろう。

日本再建ということ、今日では誰もがサイケンといつている。お寺ではあるまいし、サイコンは不適當だというのだろう。ところで問題は法隆寺だ。五重の塔の下にあるという祕寶を、掘り出せ掘り出さぬで學者と寺とが爭つた。出してみればあの塔の再建か非再建かの謎も解けるのだそうだが、この場合の『建』はケンかコンか。

學者の方に建築を問題にしているのだからケンだろうし、寺の方は坊さんとしての信仰からの言い分だからコンだろう。ケンコンの爭い、となるとケンコン一擲などと駄洒落がいいたくなつてくる。

『平平平平』という人があつたのだそうだが、これを何と讀むか、物知りでもこれには弱るだろう。ヒラヒラヘイヘイなどと讀んだら、落第である。ヒラダイラヘッペイというのだそうだ。どうも厄介なことである。漢字の數を制限してみても、それだけでは日本語字の複雜怪奇は修正されそうもない。

以上、私は『日本文化の將來と世界性』について論じたつもりなのである。今のような日本語字ではと私は考えている。

逸話

ゲーテ生誕二百年祭、彼の名は偉大だから日本人も騷いでいる。併し彼を偉大と仰ぐ人かならずしも彼の讀者ではあるまい。

ゲーテ在世中、すでに文名諸國に響いていたので、遠くから慕いよる客が多かつた。だがその客のすべてが彼の著書に感動したというのでもない。讀もうとしても讀めぬ連中までがやつて來ると、ゲーテ自身苦笑した言葉を殘している。ナポレオンはゲーテと對面のとき、おれは君の『ウェルテル』を七遍も讀んだといつたそうだが、『ウェルテル』だから七遍だつたのだろう。

クリスチャン・ヴルビュスという女とゲーテは同棲した。このクリスチャンは文字通りに無學無知だつた。だからゲーテの著作なんぞ一行だつて讀んでいなかつたと、これもゲーテ自身いつているのだから嘘ではないだろう。ゲーテの知性に渇仰する女性たちは眉をひそめるかもしれない。

無學無知ではあつたが、彼女はゲーテに對して全く獻身的だつた。一八〇六年のこと、醉つぱらつたフランス兵たちが、ゲーテの家に侵入して來た。そのとき彼女は、身を挺してその醉つ拂いの前に立ち、呶鳴りつけて追い歸した。それに感激してゲーテはすぐさま、彼女を件つて教會へ行つた。神の前で夫婦の宣誓をしたのである。だが彼と交渉のあつた女はこのクリスチャンだけではない。

彼の墓には三人の女の像が彫りつけられているそうだ。彼が三人の女を同時に愛し得たしるしだという説もある。高潔な詩人ではあつたが、同時に厭らしい淫卑な男でもあつたといわれている。

ファウストでもあり、メフィーストでもあり、兩面を餘すところなく持つていたればこそ、七十歳の餘にもなつて十七歳の少女を結婚しようとおもうまでに愛しもしたのだろう。彼の偉大さを通俗に説明しようとおもつたら、彼の文學を説くよりも、こんな逸話を話す方が早わかりかもしれない。

『女とみれば相手かまわずの倡夫的人物』だつたと、これも彼をめぐつた女たちの一人であるシャルロッテ・フォン・スタインが書いているのだが、そのくせワイマールのゲーテ別莊へ行つてみると、寢室には小さいベッドが一つしかないなどという話の方が『ファウスト』についての講義よりも喝采されることは受合いである。

もしも自分が英國に生れていたら、とゲーテはいつたことがあるそうだ。英國にはシェクスピアがある。あれだけの傑作が頭の上に載せられていたら、何をしていゝかわからなかつたろうという意味である。ゲーテ時代のドイツは音樂の方ではすでにバッハ、ヘンデル、ハイドンと天才が現われ、モーツァルト、べートオフェンと續いた時代だが、詩文劇作の方にはそれに匹敵するものがなく、いわば空位時代でもあつたのである。しかしそんなことよりも、もしも彼が英國に生れていたら、果してあれだけの數々の戀愛ができたかどうか、その方を考えてみた方がよかつたようにおもえる。

權威(オオトリテエ)

百年前の今月、樂聖ショパンは死の床で呻いた。精神的な覺悟はできていても、肉體的苦痛はやつぱり苦痛である。四日四晩も彼は苦しんだそうだ。戰場ででも死ぬのなら別だ、と彼はいつたそうだ。ベッドの上で死ぬのになぜこうも苦しまねばならぬのか。だが周圍の人はこの彼をどうしてやることもできなかつた。

生きることが絶望となつたとき、苦痛なく死ぬことが新しく希望となつて來る。死ぬ當人ばかりではない。親身となつて看護する側でも同じことである。廿年前のことだが、私は妹と死別した。肺を患つて長い間、鎌倉海岸に暮らしていたのだが、醫者がひそかに絶望を私や母に傳えた。私も母もそれを信じようとはしなかつた。が信じなければならぬ日がついに來たとき、樂に終らせたいとだけ私も母も祈つた。

幸いに彼女の死は靜かだつた。極めて靜かに、苦痛なく妹は眼を瞑つたのである。私はほつとした。母もほつとした。ほのぼのとした安心が私たちの顏に、微笑となつて泛んでいたかもしれない。悲しい希望ではあつたが、とにかく滿たされたのである。

『安樂死』の事件がいま法廷で問題にされている。鴎外はこの問題を短篇『高瀬舟』の中で扱つている。弟に安樂死を與えたために遠島される男を護送して行く同心が、その罪人を果して罪人かと深く疑うのである。オオトリテエに從う外はないと同心は考える。そう考えながらなお、オオトリテエであるお奉行樣に聞いてみたいものだと考える。現代のオオトリテエは同じ問題をどう裁くだろうか?

私の知人である醫者はいつた。あえて脈を斷つてやる方がとおもわせられる場合はしばしばある。しかし私は私自身を、生きたいと希う場合に人間を生かすことが自在でないと考える。その無能力者が、死にたいと希う者を死なすことは僣越だと反省する。苦しいことだが醫者はその人の運命を左右することを許されていないというのである。ただ神の恩寵を願うだけだと。彼は誠實なクリスチャンなのである。

ある年、私は大島に遊んだ。三原山火口ヘの投身が流行した頃だつた。山上の茶屋の主人が日の暮れに下りて來ると、上つて來る一人の青年に出會つた。怪しんで連れ戻したが果して投身志望者だつた。事情を聞くと無理もないほどに哀れだつたのだそうだが、しかし不心得を諭して翌日船で東京へ歸らせた。しかしその青年はその船の上から投身してしまつたというのである。あのとき連れ戻すのではなかつたと、茶屋の主人は後悔していた。しかしこの主人の處置を非難することは誰にもできぬだろう。

『高瀬舟』の同心はオオトリテエに任せながらオオトリテエに信頼しきれなかつたのだが、この事はつまり、こんな場合のオオトリテエとは何かということである。法文というようなものでないことだけは確かだろう。

曼珠沙華

『パリに革命が起つても、ムゲは季節どおりに咲いて出る』とフランスではいうそうである。ムゲというのは谷間に咲くすゞらんのこと。五月一日といえばメーデーの日だが、パリの男たちは朝早く家を出て、このムゲの花を摘みに行くそうだ。この白い花を愛する彼女の胸へ挿してやるのが樂しい行事なのだそうである。同じ日の行事ながら、赤い旗を夢中で振りたてるのとは大變に違う。

秋彼岸、お中日といえば大概がいいお天氣なものだが、今年のお中日はひどい土砂ぶりだつた。共産黨の諸君ならお寺詣りなどする筈もないから平氣だつたが、善男善女は失望したことだろう。さて共産黨には抹殺されているお彼岸だが、この行事の季節になると狂いなく彼岸花が咲いて出る。この花が赤旗のように鮮かに眞赤なのはおもしろい。

狂いなくといつたが、梅とか櫻とか、春を待つて咲く花は、その年々の寒暖で遲速があるものだ。しかし彼岸花は彼岸となるときまつてきちんと咲き出るのである。昨日までたゞの青草だつたところが一夜にして今日は一面、眞赤な絨毯を敷きつめたようになつている。指令たちまち赤色蜂起、とこういつたら共産黨の諸君のお氣にも召すことだろう。人民花とか何とか名づけられるかもしれない。

おらんだ華という異名をとらなかつたのがふしぎなくらいだと、佐藤春夫氏はこの花のことをいつているが、日本的といわれるものから遠い味のものであるのは確かである。曼珠沙華とは誰がつけた名か知らぬが、マンジュシャゲという音にしても異端であろう。先年毎日新聞が、秋の新七草を選ぶというので、各方面の人に好みの秋草を推してもらつたが、その折北原白秋氏と齋藤茂吉氏とが、この曼珠沙華を擧げていた。

關西ではカガリというそうだが、かがり火のように燃えているとみたのだろう。も一つの名を狐花ともいうのは、どことなく妖氣を漂わせているからだろうが、妖氣といつてもアドルム中毒のような不健康なものではない。それにしても異端好みのアプレゲール新人たちはこの花をどうみるか、聞いてもみたい。

久保田万太郎氏の句に

きこゆるは瀧の音とや曼珠沙華

というのがあるが、宗匠はこの花が外國でネリネと呼ばれているのを御存知だつたのだろうか。ネリウスという半人半魚の神がギリシャ神話に出て來るのだそうだが、ネリネはその娘でうつくしい人魚だというのである。この花を水邊に置けばさらに一段と妖氣が深まる。きこえてくる瀧の音に、水氣戀しやとネリネが身をもがいている風情、この十七字の中に――といつたら宗匠は、よして下さいよと、例の温厚な微笑を示されるかもしれない。

頭痛

先日『平平平平』という妙な題で、漢字の讀み方について愚痴をのべた。三日四日をミッカヨッカとは讀むが、だからといつて『日』をカと讀むとはいわんだろう、とつい力んだのだが、氣づいてみると私は古語を忘れていた。

『にひばりつくばを過ぎて幾夜かねつる』と日本武尊がいうと、心火燒之老人――これをミヒタキノオキナと讀ませるのだから古語というやつは恐ろしい――が答えて、

『かかなべて夜にはここの夜日には十日を』

この『かかなべて』だが、指を屈めて數えればというのは嘘で、本當は『日々並べて』の意だと、本居宣長がいつたそうだ。宣長は多分『東京日日新聞』を『カカ新聞』と讀むだろう。呵々。

九十九髮と書いて何と讀むか、どんな意味かと女學生に尋ねてみたら、クジュウクハツと讀んで、男の人の髮がうすれて九十九本位しか殘つていない。つまり禿頭のことだろうと答えたので、御明答と賞めてやつた。『ももとせに一とせ足らぬつくも髪、われを戀ふらし面影にみゆ』實は白髮のことだと説明したら、まるで『トンチ教室』みたいねと笑つていた。何としても時勢である。

ところで『平平平平』の出た翌々日のことだそうだが、米軍新聞の『星條旗』に、君の書いたようなことが出ていたからと、高石眞五郎さんがわざわざその切拔を屆けて下さつた。『日本の頭痛の種』という標題のものである。

新聞記者が電話で原稿をおくる。人名の綴りは正確でなければならぬから、ジョセフのJ、オレゴンのO、ハムプシャアのH、ナッシングのN,JOHKという工合にやる。日本でも同じ式にやつているのだが、何がさて漢字といつて三千もの象形文字がある。これが同じ音であつて意味の全く違うのが多い。だから特別な面倒がある。

眞中の『中』と、米をつくる田の『田』といい送るのだが、念のために『タ』は多いの『多』でもないし、他人の『他』でもないよとつけ加える。受取る方がそゝつかしいと、このため却つて混同して、『中田氏』とやるべきを『他田氏』とやつてしまうことがある。英語でいえば『ミッドル・ライス・フィールド氏』が『ディファレント・ライス・フィールド氏』に變るわけだというのである。

同じ『カジ』という一つの音の名前でも『喜べる政府』だの『讚うべき子供』だの『鹿の住む世界』だの『鍛冶屋のルール』だの十以上もあるというのである。こう書き立てられると、ひどく未開國の言葉に聞えてアイヌ語と大して違わんじやないかともいいたくなる。

讀んで私はすつかり『日本の頭痛』を感じてしまつた。『頭痛同好會』といつたようなものを作りたいと私は考えている。しかし文字に最も縁のある文士諸君は、意外にもこの頭痛文字を愛しているらしい。頭痛とは何事かというだろう。

看板

表裏というもの、あつていゝものとよくないものがあるだろう。引揚者への援護、これに表裏があつてはとんでもない事になる。

『皆樣のお歸りを心からお待ち申上げていました』と大きく書いてある立看板の字は鮮かに白日の中に照らし出されている。さてその裏側へ廻る。そこには何もない。

私は意地の惡い皮肉をいうことを好むのではない。昨日『東京日日』で、悲しい轉落をした引揚青年の手記を讀んで、この看板の表裏を考えたのである。もしもあの裏に『皆樣のための職業安定策』というようなものが掲示されていたら、あの青年はあんな悲しいことにならなかつたに違いない。

一握りの米を與えることである。千萬金を投じて一等展望車を新造する國家が、不幸な人たちにそれを與えることさえもできぬとは信じられない。一握りの米が人間の良心を支える。引揚者の赤化をあれほど心配する政府が、引揚者の空腹を見逃がしたらおかしな話である。だがあの青年の場合、その一握りの米が與えられなかつた。

空腹にたえかねて、人の家へ盜みに入つた話をしよう。その家の主人が歸つて來て、中に泥棒のいるのを發見した。荷物を背負つて出て來るところを捕まえようと、その主人は、樣子をうかがいながら待ち構えた。

泥棒はその邊のものを風呂敷につゝみ入れる、とそこの棚の上に小鉢のあるのに氣がついた。中に白い粉が入つている。彼はいきなりそれをつかみとつて口に入れた。一口、二口、三口、夢中で頬ばつたが、四口目は止めて鐵瓶の湯をのんだ。

と泥棒は何か考え込んでしまつた。包んだものを解いて、中のものを元の處へ置きはじめた。おかしなことをすると主人が怪しんでいると、泥棒はやがて手ぶらで出て來た。手ぶらだつたら泥棒ではない、しかしそれにしても解せぬ奴だ。こいつめと襲いかゝると難なく恐れ入つて手をついた。

はい。實は盜みに入りました。私は失業者、この二日ほど何一つ食つてはいません。あんまりのひだるさに、ついふらふらと迷い込んでしまいました。しかし棚の上の小鉢に麥粉があつたのを見て、夢中でそれを頬ばりました。空ききつた腹ですから味も何もありはしません。二口三口、夢中で頬ばるとやがてそれが、麥粉ではなくて灰だつたとわかりました。しかし灰であつたにもせよ、腹へ入つてみれば、ひだるさが納まりました。人心地がつくと、自分の所業が反省されました。だから盜みかけた品物を元へ戻して出て來たのです。

これは現代の話ではない。『古今著聞集』に出て來る昔がたりである。が一握りの灰ですらが人間の轉落を救うものだということは、昔も今も變るものではない。

秋風の中に立つ引揚援護の看板、私はそれを感慨をもつて眺めているのである。

拳骨

ナポレオンは新聞を『第七の強國』といつたそうだ。『自由な新聞と獨裁者とは共存しない』という標語を今年の新聞週間はかゝげている。

共存しないとき獨裁者はどうするか。『權力だ』とナチスのゲッベルス宣傳相はいつたそうだ。『編集者どもの鼻の先へ拳骨をつきつければいい』日本の軍部もこの眞似をした。ペンは劍よりも強しなどというが、實際は劍の方がペンよりも強い。

新聞は強い宣傳力をもつている。しかしヒットラーはそう考えなかつた。文筆よりも雄辯だと彼は信じた。宣傳とは相手を引きずることだ。相手に是非を判斷させることではなくて、こちらの説に同じさせることだ。活字は人を感動させない。

事實彼は相當の雄辯家だつたらしいが、それでも眞晝間やつたときには失敗したそうだ。日の暮れから夜にかけてにかぎる。時刻を選ばなくてはいけないといつたというのは、なかなか心理的に周到である。

日暮れになると泣けてくるのよ。という唄があつたが、人間の理性の抵抗はその日の落日とともに弱まるものらしい。流行の欲情小説などには、朝つぱらからふざけている場面も出たりするが、常識として、口説というものは夕闇とともに始まるものであるが、ヒットラーはそんなことから、その祕密を會得したのではない。

カソリックの會堂内、晝も夕のごとくにうす暗い。しかし氣の利いたお坊さんは、それでいながらなお日暮れを待つて儀式をやる。うす暗さがさらにうす暗く、それだけで、すでに神祕莊嚴の氣を漂わす。その中で説教するのだから、人々は恍惚として聽きほれる。批判の餘地などはある筈がない。

ヒットラーの雄辯は巧みに人々を恍惚とさせた。だが自由な新聞までが恍惚とするはずはない。冷靜な批判をそれに加えたとき、この獨裁主義者が憤怒したことはいうまでもあるまい。彼の代辯者ゲッベルスは『彼等に對する唯一の方法は、彼等の鼻の下へ拳骨をつき出してやることだ』といつた。

ナチスが政權を得たと同時に、この拳骨は約束通り突き出されたのである。自由な新聞と獨裁者は共存しない。新聞の自由が一切失われたとき、結果は讀者の數の上に現われた。急激に四十%も減つてしまつたというのでる。自由な新聞でないかぎりはということ、日本の讀者にもよくわかる話だろう。

『與えられる内容は同じでも、表現は各紙各樣にやれるじやないか』とゲッベルスは、各新聞の單調をしかりつけたそうだが、それでもなお、新聞に自由の必要なことは認めていたとみえて『君等は國家に從う自由をもつている』とつけ加えたそうだ。

國語國字

人間の歴史は『原始時代』から『原子時代』へと移つた。日本語の發音ではどちらも『ゲンシ時代』である。兩極端は一致するという説があるが、この兩極端を耳で區別するのはむずかしい。『アダム』から『アトム』へというのだと、似てはいても間違うことはなさそうだ。

『ゲンバク』と耳で聞いただけではわからない。『原爆』と目でみて成程と合點するのである。そこへいくと『ピカドン』はわかりいゝ。といつたらさる科學者に『ピカ』には原子という意味がないから科學性がないとやられた。では『アトムドン』では駄目かときいたら、藥の名と間違えるとイヤな顏をされた。

アトムのことを日本では、『チャイルド・オヴ・フィールド』というといつたら外國人は驚くだろう。野性の子供はうつかり手がつけられない。感情を爆發させたら何をしでかすかわからない。

『原子』とはまことに當を得た日本語だと、漢字論者は悦に入るかもしれない。だがこういう名譯をした日本でありながら、ウラニウムはやつぱりウラニウムのようだ。

テニヲハドイツ語というのがある。醫者同士が話し合うときの日本語である。病名は無論だが、胃袋とか心臟とか、いや脈や體温も日本語ではない。萬事ドイツ語でそれを日本語のテニヲハでしやべるのである。これは何も醫者の學者ぶつた虚榮心ではない。その方が互いに通じいゝのである。しかし國家試驗の答案はこれでは通らぬそうだ。大學を出た醫學生たちは、試驗のために日本語の勉強をやつているらしい。

小學校の職員會議というものを、一度でものぞいた人は、日本語について改めて考えさせられることだろう。こゝでは老校長までが唇を無理に曲げながら、『コカコラム』がどうで、『スコップ』がどうで『シーケン』がどうだと話し合つている。それは何語ですかときいてみたまえ。

『コアカリキュラム』だの『スコープ』だの『シークエンス』だのという言葉は、もはや飜譯されずにそのまゝ日本語となつて用いられているのである。だから老校長が『コカコラ』だの『スコップ』だのと間違えても、結構それで通じるのかもしれない。デパートメント・ストアがデパートとなるようなものだろう。あるデパートにエスカレーターがあるが、以前あれを『ライスカレーター』といつた人があつた。

PTAをどう譯すか、樣々な評議があつたが、今日ではどんな田舍でもPTAで通つている。しかも『ピーテーエー』などとは書かずに、そのまゝ『PTA』と書いて通つているのである。國語國字の問題も『ゲンシ時代』からゲンシ時代へ大きく飛び移るべきではあるまいか。

庶民

法隆寺塔下の祕寶は、こつそり眞夜中に掘り出された。めつたに庶民の眼に觸れさせるなと、警察までが出て警備したらしい。そうされると、一體あの寺を立てたのは誰だという風にいいたくなる。聖徳太子だと寺では答えるにきまつているが、あの時代の庶民が從つたればこそ、太子も太子だつたのではないか。

話が違うようだが、アメリカのTVA、巨大なダムを幾つも造つたが、どのダムにも個人的な功勞者の名前など掲げてはないそうだ。たゞ『合衆國市民のために』とだけ彫りつけてある。造つたのは民衆諸君なのだというのがTVAである。法隆寺とTVAでは大分の違いがある――などといつたら、千年の昔と今とを一緒にする馬鹿が、と笑われることだろう。 奈良の大佛へいつたあるとき、あの大建造物を仰ぎ見ながら、ふとTVAをおもい出した。千年の昔を考えるとあの大佛は大した事業だつた。廿世紀のTVAと比べて、どつちともいえぬかもしれぬと考えた。TVAはアメリカの市民に現實の幸福をもたらしている。大佛もそれに劣らぬ廣大な御利益を與えてくれたと、お坊さんたちは主張するかもしれない。しかし大佛は開眼されても、その頃あつた奴隷階級は解放されなかつた。――がこれも千年の昔のことだから、いい立てるのが野暮かもしれぬ。

諸民救濟のための寺院というが、寺院大建立のために諸民が苦しまされたという方が正しいかも知れぬ。奈良なゝ代七堂伽藍八重櫻というが、お寺は決して自然に咲いた花ではない。そのために驅りたてられたのは、一般庶民である。

人間六歳になれば相應の口分田が支給されたと聞くと、いかにも四民平等、安居樂業の時代だつたようにおもえるが、その口分田の收穫だけでは、必要量の三分の二にも滿たなかつたそうだ。天地は廣いというが、それはオレたちのことではない。日月は明るいというが、それもオレたちには無縁のことだと、山上憶良が『萬葉集』の中で歌つている。カマドに火の氣がなく、飯びつにクモの巣が張つている。詩人の空想で事實無根をうたつたのだとはいうことができまい。

しかもその『貧窮問答』には耳も籍さずに粉金が取立てられた。苦しさのあまり收穫のごまかしや、役人の買收や、さては最後の逃亡や、今とそつくりの事が、今より以上にやられていたらしい。これが當時の庶民の姿なのだそうだ。花さきにおうごとき王朝のめでたさは、人の上の人々だけの事だつたらしい。

法隆寺の祕寶は、最初に埋められるときも、庶民の眼を禁じたかもしれぬ。とすれば今度の處置も傳統通りということになるのだろう。庶民がいたればこその太子、などといつてみても、何のことやらと法隆寺の方ではいうにちがいない。文部省もそれを承認しているらしい。

三味線

永年連れ添つた女房でも、冷たくみれば不服がある。暖かくみればありがたくおもえる。みる目の冷たさ暖かさ、これが一家の和合が崩れるか固まるかの岐れ路だろう。

廿七年の合三味線の鶴澤清六から、冷たい人だと山城少掾が愛想づかしをされた。そこへ行くまでの消息、いろいろ複雜なものがあるのだろうが、藝道は本來が冷たいものだと少掾の方では答えているかもしれぬ。冷たい藝道でも二人の間に暖かいものが通わねば、道行きになるものでないと清六の方ではいうだろう。

文彌ぶしという昔の音曲の名、文彌という名人の語り手がいてというのではない。文は文賀、盲人の三味線彈き、彌は彌太夫でこれが淨瑠璃、仲よく二人の名をとつての文彌ぶし、この話は聞いてすがすがしくいゝ氣持である。新聞種となつた二人の喧嘩はよくない氣持である。

他に増す花の合三味線でもみつけて、それで冷たくなつたのなら話はわかる。でなかつたら山城少掾はどうするのか、まさかに彈き語りというわけにもいくまい。代りに誰かを連れてくるのだろうが、おいそれとイキの合うわけのものでもあるまい。

二人の組合せ、今度の興行きりというので、今のうちに聽いておかねばといつた人があつた。それを聞いて、まざまざイキの合わなくなつている醜さを、いまさら聽く氣にはなれはしないと答えた人があつた。どつちも道理のようだが、どつちが多いか面白い問題でもある。

文樂の保存ということがいわれるが、淨瑠璃と三味線と人形と、この三つの中で何が一番大切かとなると微妙である。文樂を立たせている三本足のうち、淨瑠璃と人形は認められて藝術院會員にされた。三味線の清六は山城少掾や吉田文五郎に比べて、藝遺修行がまだ足らぬというわけだつたのだろう。だがそれは世間樣の御覽になつた眼、わたくしどもからすれば、三味線もろともでなければお受けできませぬというほどの心意氣があつたなら、今度のような事はなかつたろう。

三味線彈きは太夫を仕立てることができるが、太夫は三味線彈きをつくるわけにいかない、ということは文樂保存の上でよくよく考えるべきである。山城少掾を仕立てたのは誰であつたか、知つている人は知つている。次の世代に十人の太夫が生れるよりも、一人の三味線彈きの生れる方が、確かな保存となるのである。

別れるのを無理に引戻すよりも、もし清六に山城少掾とは別な義太夫についての見解があるなら、むしろ新人と結びつかせて新しい太夫を仕立てさせるべきだろう。山城少掾の語り口だけが義太夫なのではない。封建的な藝術の世界でも、個牲の自由はやはり大切なのである。

時代

いかゞわしい讀物ばかりのせている雜誌から『近頃の美談はないか』というハガキ問合せが來た。『あなたの雜誌が廢刊したら美談になる』と返事したら、さすがに掲載しなかつた。

美談というものにも時代がある。『時雨の炬燵』を文樂の人形で觀て來た娘さんが、いかに人形でも馬鹿々々しいと憤慨していたから、『しかし近松門左衞門にとつては、あれが美談だつたのだよ』と説明したら、では近松をケイベツするといつた。

ある金持、何かのことで大勢の人夫を使つた。その人夫たちを眺めていると、休みの時間中も落着かぬ風體の一人があつた。怪しんでわけをたずねると、

旦那、私はこうしている時間が勿體ないのでございます。

この返事を聞いてその金持は、よろしい。ではあそこに積んである石を、殘らずこつちへ運びなさい、と命じたのだそうだ。喜んでその人夫はそれを運びはじめた。

旦那、仰せの通りに運んでしまいました。

まだ働きたいか?

はい。

ではその石を元の所へ運びなさい。

外の人夫たちはとつくの昔に歸つてしまつても、この人夫だけは、殘つてそれをその通りにした。そこで金持が、

今日の働き賃、どれだけ欲しいか?

あたり前の一人分で結構でございます。

明日も働きたいか?

はい。

では來いといわれてその人夫、翌日の朝早くにやつて來て、今日は何をすればよいかと金持にいつたのだそうだ。金持は答えて、

昨日やつた通りに、あの石を運び直しなさい。

はい、と驚きながら人夫は答えたが、しかし默つてその通りにやつた。終つて新しい指圖をしてもらいに行くと、

では又、元へ戻しなさい。

はい。

人夫はいよいよ驚いた顏はしたのだが、何故そんなことをしなければならぬのかとは、ついに最後まで口に出さなかつたのだそうだ。

おまえは實に感心な男だ。

と金持は最後にその人夫を賞めて、改めてその家の召使にすることにしたというのである。人間はえてして、碌な仕事もできぬうちに、あゝだこうだといいたがるものだ。それをお前は默々として、いわれた通りに働いている。だから感心だというのだそうだが、これを『美談』といつたら、誰だつて馬鹿々々しいというだろう。

右は西洋の話、西洋にもこれが美談で通つた時代があつたのである。

マーク

共同募金の趣旨には大賛成だが、赤い羽根を無理やりつけさせられるのは愉快ではない。相手が子供か女かだから喧嘩にはならぬのだが、大の男から押しつけられたら、羽根よりも赤い血がまみれぬとも限らない。

議員選擧の投票のとき、投票濟みの紙をくれた。戸口ヘ貼つて置いて下さいといわれたものである。義務完了をマークせぬと完了したことにならぬというのはどうもおかしな話である。

背も表へあらわしてマークしたことがあつた。結婚すると丸髷に結う、眉毛を落す、齒を染める。このマークで既婚と未婚とはつきりわかつたものだ。赤い羽根でマークしたりする時代ではありながら、この方のマークはすつかり廢れてしまつている。どこのお孃さんかと思うと三人の子持ちだつたりすること、決して珍らしくはない。

天竺のシュダツ長者、晩年には福運が盡きて貧乏になつた。細君と二人きりで身寄りとてもない。さて無一物になつたとはいつても、さすがに昔は長者だつたから、空つぽながら倉はある。その倉の中に何ぞ殘つているかもしれぬと探すと、栴檀の木で作つた桝が出て來た。それを賣つて米四升と換えた。これでまずしばらくは凌げると、長者は安心して外へ用達しに出かけた。

その留守中、シャリホツが來て門に立ち、供養の布施を願つた。長者の細君は四升の米の中から一升出して報謝した。それが歸ると今度はモクレンが來た。そこで一升。續いてカショウが來た。また一升。殘るところは一升しかないが、これだけあれば今日明日は何とかなる、とおもつていると今度はニョライさんが現われた。

斷わりようがない。殘りの一升を差上げてしまつたが、さて夫の長者どのが歸られたとき何といえばいいか。おもい餘つて泣き伏していると、長者が歸つて來た。

しかじかの話、聞いたがさすがに長者だつた。かえつて細君の仕打ちを賞めて、

三寶のおん爲には身命をも惜むなとある。それでいいのだ。さてもう一度あの空倉の中を探してみようか。桝くらいのものならまたみつかるかもしれぬ。

さて倉の方へ行つてみると、驚いたことには、空つぽどころではない。いつの間に誰がどうしたのか、米錢、絹布、金銀、財寶昔のごとくに一杯詰まつていたというのである。めでたしめでたし、という教訓ばなしがあるのだが、人問の義務完了の本當のマークはこんなものでなくてはなるまい。

上衣を求められたら下衣もやつてしまえ、キリストはそういつたそうだが、風邪を引いたらどうしてくれる氣かといつた男があつた。身を捨ててまで義務を完了したときの、後々の始末について誰もが不安がつているのである。これは完全な社會の姿ではなさそうである。

定量の就眠劑がきかぬゆえよけい身にしむ蟲の聲々

歌になつているかどうかはしらない。私は歌よみではない。だが日本人だから、感慨を口の中でもぐもぐやつていたら、三十一文字になつたのである。敷島の道、先祖代々の歩いた道だから、自然にそこを歩くことになるのだろう。

鎌倉に唐から渡來の坊さんで智光というのがいたそうだ。お經の方はどうだつたかしらぬが、藥の調合では有名だつたのだそうだ。さてこの坊さんが何とか散という靈藥を調合していた。傍にいた人が、どんな藥かと指につけて舐めてみたのだそうだ。するとそれをみてその坊さんが、藥というものは味ではない。効き目が大切なのだ。効き目を知るのには、定まつただけを服さなければならぬと教えたのだそうだ。あたりまえの話である。就眠剤などといつても、ちよつと舐めたから五分間だけ眠れるなどというものではない。

このあたり前の話を、夢窓國師は、ことさら引いて信仰を説いている。佛の利益などというが、利益のあるまで信仰しなければというのである。今の世では唯物主義者が同じように説いている。ある定量まで唯物主義者にならなければ唯物主義者になつたといわれないという論法である。もちろんこれは少しも間違つてはいない。

就眠劑の用法書を讀むと、一錠乃至二錠としてある。たゞの一錠で無性にきく人もあるのだが、私などは二錠でもなかなかきいてくれない。一册のマルキシズム解説書を讀んで簡單にマルキストになれる人もあるし、十册讀んでもなれぬ男もある。思想に定量というものがあるだろうかなどと、下らぬことを考えてうつらうつらとしていると、いつまで經つても寢つかれない。よけい身にしむ蟲の聲々というわけである。

身にしむ蟲の聲々といつても、しかし私は敗戰日本を嘆じたり何かするのではない。耳を傾けてうつろにそれに聽き入つていると、いつかこつちかそれと同じ一匹の蟲となつてくる。人間さまだなどと威張つていても、つきつめて考えれば、結局は床下になくコオロギと別して變らぬではないかとおもえてくるだけなのである。

人間の世界でこそ原子爆彈も暴力革命も大問題だが、コオロギの世界では何のこともないのである。わが身を一匹の蟲とおもつたとき、にわかに氣持がゆつたりとして、ひろびろと豐かな味のものが湧いてくる。せつかく基本人權というものが認められた幸福な時代だというのに、これはまたどうしたことかと、自ら深く怪しみもするのだが、そのうちいつか寢入つてしまうので、いまだに私はその理由をつきとめることができずにいる。つきとめさせず寢入らせてしまうところをみれば、定量の就眠劑、やつぱり私にとつてはきいているのであろうか。

血統

うつくしい混血の娘さんが遊びに來た。母は日本人、父がイギリス人、父なるその人は永らく日本にいて、日本に對する功勞も多かつたので、勳三等をもらつていた。しかし敵國人というので開戰と同時に收容所へ入れられた。

留守中に家宅捜索が來た。洗いざらい引つくり返していると、その勳三等の勳章が出て來た。かき廻していた兵隊が慌ててその箱の蓋をしめ、それに向つて恭やしく擧手の禮をしたそうである。それ以來その勳章は、その一家にとつて別な値打ちをもつた。パパに敬禮したようにそのときおもつたと、その娘さんは笑つている。だから今でも大切にしまつてあるそうである。

この父なる人は、終戰のすこし前に、榮養失調で死んでしまつた。だから日本人に殺されたとその娘さんはおもつている。しかし娘さんは自分をイギリス人とはおもつていない。どこまでも日本人だといつている。

人に祖國を持たねばならぬ、とその父なる人はいつていたそうだ。日本人としての教育とイギリス人としての教育とを一緒にすれば、結果として中途半端の無國籍のものができ上る。おまえの祖國は生れた日本でなければならない。だから女學校へ入るまでは完全に日本人としての教育をする。女學校へ入つたらはじめて英語の讀み書きもするがよい。こういつて順序をはつきりさせていたそうだ。

やつと女學校へ上つたときに開戰、だからこの順序は完全に狂つてしまつた。イギリス的教養を身につける機會を與えられずに、女學生時代を工場勤勞や何かで追い廻されてしまつた彼女である。が彼女の血の中のイギリスは消えていない。

私の家へ來ると彼女は、ふと床の間に漢代の瓦犬が置いてあるのをみた。私の所藏品としてはちよつと自慢に値する古美術品なのだが、遊びに來る日本人の娘さんで、かつてこれに目をつけたのは一人もいない。男の學生にもいなかつた。がこの混血の娘さんは、みるなり、まあ綺麗と聲をあげてその前に坐り込んでしまつた。外國人が東洋の美しい新鮮なものを感じたときの驚きに似たあの聲であつた。

私は知人の息子の夫人となつたアメリカ育ちの二世の女の人を知つている。義父となつた人は彼女に、日本の傳統の美しさをしみ込ませようとして、歌舞伎へつれていつたり、茶道を習わせたりした。二世だから血は完全に日本人である。しかしすでにアメリカを精神の祖國としてしまつた彼女は、なかなかそれを受入れようとはしないらしい。そのことを私はおもい出した。混血の娘さんか東洋の古美術に無邪氣に美を發見したのは、誰に強いられた教養の結果でもない。いつまでもその前に坐り込んだ彼女を見ながら、東洋の血と西洋の血、私はとりとめのない感慨にふけつたのである。

町醫者

ながらく病院勤務だつた知人が、開業して町醫者になつた。まだ三年とは經たぬのだが、親切なので評判がいい。

夜中に叩かれて、必ず起きてやるからだろう。

と當人は笑つているのだが、三年たつてもこれだけはやつぱり辛いそうだ。商賣だなどとおもつたのでは到底起きる氣にならぬ。仁術だという氣になつて眼を覺ます。だがそのときいつも、こんな仁術にさえ税金をかけやがるのかと考えて、そつちの方で腹が立つといつている。

町醫者というものの存在、まことに非時代的なものと考えていた。健康保險制度と公共の病院とが並行して、一般市氏の病氣を處置して行くのが本筋、とこう病院勤務時代は考えていたのだが、町醫者というものをやつてみて、それがそうではないことに氣づいた、とその知人はいつている。理由はと聞くと、

健康保險も病院も、患者のことは問題にするが患家のことまで扱いはしないからだ。

町醫者だからあちこち往診する。二間つきりほどの狹い中で主人が長い間寢ついている。この場合、その患家の生活にとつて、主人の病氣ということは大きな問題だろう。その生活の苦勞がすぐさま患者の病状にも響いてくる。彼を治してやるためには醫者としての手當ても必要だが、それ以上のことも必要となる。病人を診斷するだけでなく、その一家の生活についてまで、何くれとなく處方しなければならなくなる場合は決して珍らしくはない。

ある患者の病状がおもつたようにいかない。色々聞いてみると、夜分寢られませんのでという。とりあえず催眠劑を與えたのだが、段々わかつたことは、一家内のことである心配があつたからだ。それを案じつゞけての不眠だつたら、催眠劑よりもその心配事を解決してやる方がずつと効能がある。こうなると醫者として責任外であることは勿論なのだが、醫者としては、何としてでも彼の病氣を治してやるべき義務がある。骨を折つてそれを解決してやつたら、たちまち病人は元氣づいて元へ戻つた。

富家に出入して、その家事に首をつつ込んだらオタイコ醫者だろうが、貧家に赴いてこんな工合にやつたら、仁術以上であろう。主人の藥費のために、枕許でできる内職の世話をその細君にしてやつたり、兄の療養費のために、妹の就職の口をきいてやつたり、そこまで行くと町醫者は、一萬圓の高價藥を費して三日で治す方がいいか、十日かゝつても、五百圓で治す方がいいかの判斷などが、極めて重大なことになつてくる。

健康保險や病院は患家のことまで扱いはしない、といつた知人の意味、そこまで聞くと私にもよくわかつた。なるほどこういう町醫者だつたら、税金に腹が立つだろう。その知人は腹を立てながら、しかし町醫者になつたのを喜んでいる。

變り方

十年ぶりにロサンゼルスヘ歸つたら、まるで別世界のように變つていた、と早川雪洲が語つている。新興の都會だからだろう。成長ざかりの年臺、たとえば十歳の時の少年と、廿歳になつての青年では、同じ人間でも別人のようになつているものだ。

ある人がパリに留學していた。そこへその父親なる人が訪ねて來た。父親は卅年前にそこに留學していた。昔のことだからとおもつて息子の方が案内しようとすると、かえつて父親にあちこち引廻された。あそこに私がはじめてアブサンをのんだカッフェがある筈だ。行つてみようというのでいくと、ちやんとそれがあつた。何もかも卅年前とそつくり、そのカッフェのテーブルの並べ方までが變つていない! これはパリが古いからだろう。

變る方がいいか變らぬ方がいいか。東京などはすつかりと昔と變つている。震災で變つた。それから戰災で變つた。古い東京の面影はどこにもない。しかし震災戰災がなかつたら、果してパリのように變らずに濟んでいたか。そうもおもえない。二千五百年の歴史とか傳統とかいうが、世界史の上では新しい國家である。

戰災こそ受けなかつたが、京都の町は變つている。變らずにいるのは郊外の寺々やお宮だけかもしれぬ。奈良にしても公園の外の町の方は行くたび變つている感じがする。日本の生活には停滯がない。進歩はないが、しかし變化は著しい。

最近のフランス雜誌を手にした。『プレジイル・ドウ・フランス』贅澤な雜誌だから贅澤な廣告が入つている。それをめくつていると變化がない。十年前の廣告と同じ調子である。眺めていて私はちよつと寂しくなつた。パリが昔のまゝなのはいいが、これが昔のまゝなのは、フランス生活の足踏みをおもわせる。藝術の本場などと威張つても、藝術は生きものだから、人間の生活の變化につれて變化するだろう。廣告意匠が足踏みしているように、もしもフランスの繪畫や音樂や文學やが足踏みしていたら、それは當然文化の沒落を意味する。

サルトルは戰後派だが、アメリカヘ渡つて活躍したらしい。コクトオは戰前からの藝術家だが、やつぱりアメリカへ渡つた。フランスでは新しい活動ができないからだというのだつたら、フランスはもう本場ではない。

アメリカの雜誌を見ると、編集、内容、廣告、すべてが溌剌と新奇なものへ移つている。アメリカには元通りのものがどこにもないらしい。文化の時代的颱風はアメリカ中心で渦卷いているというのが、何としても事實のようだ。フランスがアメリカを田舍のように輕蔑したがつていたのは昨日のことである。今日となつては違うだろう。しかし日本も大いに變つているというのは、アメリカとは全然別な性質のものである。日本の變り方を何と解釋したら、いいのか、不敏な私には簡單にいうことができない。

昔話

この春のこと、友人宮田重雄の家へ花壇屋が來たそうだ。庭へ花壇をつくつて球根類を植え込む。夏から秋にかけて綺麗な花を咲かせる……という勸誘だつたそうである。宮田重雄は畫家だから、すぐさまその花の咲いている花壇を眼に描いた。

旦那、このバラは珍らしい黒ですぜ、紫いろか濃くつてビロウドのように光つている。こいつは眞赤なカソナだ。カンナつていうやつはやつぱり赤が深くなくつちや面白くねえ。こいつは桔梗ですよ。だがたゞの桔梗じやあありません。花の底色が淺くつて花瓣の端へ來てからぐいと調子がつよくなる。

とにかく宮田重雄に、それもこれもという風に植えさせて、結局三千圓ほど拂わせられたそうだ。三千圓は贅澤のようだが、咲いた花を買うよりは安上りになるだろう。とにかくこれで樂しい庭になる。

ところでそのころに彼は、吉屋信子女史の『花の詐欺師』という小説の挿畫を描かされていた。奧さんがふと氣づいて、ねえ、あれも花の詐欺師じやありません? といつたそうだが、まさかと彼は笑つた。

さて日が經ち、月が經ち、花壇にはとにかく芽を出すものがあつた。大輪の黒バラだというものも勢いよく伸びはじめた。いよいよ樂しんでいたら、なんとそのバラというのが、その邊の野良によくある、つまらん野茨だつたのだそうである。芽を出したものも雜草で、カンナなんぞはどこにもありやしない。

この話、先日の句會のときに出て、すぐにはバレぬ利口なインチキと皆で笑つた。花の季節までとにかく三、四ヵ月はだませるわけである。政治の公約とか朗報とかいつたのもこれだろう、と私はひそかにおもつたのだが、席が句會だから、遠慮して口に出すのを控えた。その代り私は次のような昔話をした。

昔といつても卅年と經つてはいないのだが、しばらく故郷の家で暮らしていたころ、花賣りの婆さんに頼んで金鈴蘭の根を掘つて來て貰つた。婆さんは七株ほどもつて來て庭の隅へ植えたのだが、いくらかと代金をたずねてもそれには返事しなかつた。茶を飮んだだけで歸つてしまつた。日ごろ花を買つてやつているので、お禮のつもりかもしれぬが、こつちから頼んだものだけに氣にかゝると、母と私は話し合つた。が間もなくそれも忘れてしまつた。

その翌る年、春さきのことだが、その花賣り婆さんがやつて來て、何か庭の隅でごそごそやつていた。何だろうとおもつていると縁先の私の方へ來て、

二株だけ根がついて芽を出してるよ、だから二株分だけ金をもらいますべ。

去年の秋、七株植えこんだ金鈴蘭のことだつたのである。この話を句會の席の人たちはみんな、いい話だと感心して聞いてくれた。だが誰の顏にも、遠い遠い昔の話といつたような表情があつた。