高田保「ブラリひようたん」

賢人愚者

もしもソ連の軍勢がやつて來たらという假定で、世界のあちこちが騷いだ。日本でも同じ質問がされたらしい。誰が何と答えたかはどうでもよろしい。

プロシャの軍勢が侵入して來た。フローベルは苦がい顏をして『野蠻の再來』だといつた。彼はクロワッセに住んでいたのだが、その野蠻に觸れるのをきらつてルウアンに避難した。

「あなたの家にはいま十人ほどのプロシャ士官と兵隊とが住んでいます」という便りを受けてフローベルは、彼等があのイスに腰をかけあのテーブルに向つている光景を想像した。何もかも減茶苦茶にされてしまつた! 彼は絶望と憤怒で身をふるわせた。身一つで避難したのだから家具調度一切をそのままにして置いたのである。

彼にとつては氣に入つた住居だつた。以前はどこかの僧院に屬していたもので屋根の低い古風な白い建物、二百年の由緒がこもつている落着いた安息所だつた。だからあの『ボヷリー夫人』も書上げることができたのだがそれも今は昔の夢と消えてしまつたのか! 彼にとつては自分の過去までが一切踏みにじられたような氣がしたのである。

だがやがてプロシャ軍が撤退したので歸つて行つてみると、これはまたどうしたことか、どこにも變つたところはない! 野蠻なプロシャ人どもは、わずかに卓上に置いたぺンとかナイフとかを動かしただけで、その外は何一つそのままでなかつたものはなかつたとのことである。

こうなるとこの勝負、たしかにフローベルの負けとなる。私だつたら淡泊に頭を下げて『野蠻』という形容を取消しただろうが、しかし彼はそうではなかつた。室中を見廻しかあとで彼は次に鼻をくんくんとさせたのだそうだ。そして、

「やつぱりいかん! 奴等のにおいが染みこんでいる!」

ある人はこれを彼の潔癖だという。ある人はこれを彼の偏見だという。とにかく彼は家中の部屋という部屋の天井を塗替え、壁を張替え徹底的の大掃除をやつたらしい。しかもなおそれでもにおつていると言いたてて、六ヵ月もの間ペンを執らなかつたというのだから凄まじい。

それでいながら彼は人間の眞實を追求する自由人であつたのである。いい方を變えれば、自由人であつたが故に、そこまで當時のプロシャをにくんだのだとなるのかもしれぬが、何としてもこれは坊主にくけりやの振舞いであるようである。『賢人も顏の向け方では愚者にみえる』という古い俗言を捨てられない。

拍手

ラジオの中繼で吉田總理大臣の施政方針演説を聞いた。切れ目切れ目でさかんな拍子だつた。與黨二百何十人の上機嫌な顏がみえるようだつた。

しかしその切れ目が、格別拍手したくなるような切れ目ではない。こんなときはそれが盛んなほど間拔けて聞えるものだ。しかも時々突拍子もない時にパチとたたきかけるのかいた。芝居でいうキッカケをトチつたのだろう。そんなのを聞くと、拍手するために議席にいるので、演説を聞くためじやないのかなという氣にもなつた。當人たちは大いに氣勢を添えたつもりだろうが、演出という點からいつたらあれでは落第である。

野球の應援の拍手とは違うのだから、よほど考えぬといけない。すべて效果のあるものは出し惜しみをするほど效果の上るものだが、いい加減のところでは鳴りをひそめてぐつと緊張し、ここぞというところで切つて落すと爆發的で強くなる。機械的に切れ目切れ目でやつたのではただのオハヤシにしかなりやしない。與黨というものはオハヤシ連中のことではあるまい。

拍手は一應景氣がいい。だから役者なども手が來たといつて大いに喜ぶのだが、しかし見識のある本當の役者になると苦がい顏をする。眞實深い感動につき落されたら、人間はただ呆然として決して手などたたかぬものだ。だから拍手をさせるのは未だしの藝で、拍手をさせぬのが名人だとなる。それにしても上乘の拍手というものは、ほつとして我に返つてからのものだから、一息つくだけの間がある。決してあんなキッカケを待つてましたというような調子のものではない。

もしもあの演説が、再建を阻害するもの云々などといわずに先ず、公約實行が不可能になつた事情を率直に語り、その不信のそしりを忍んでもなお政局を擔當せねばならぬ苦衷を側々として述べたのだつたらどうだつたろう。與黨が拍手したら可笑しなものになる。この場合拍手するのは當然野黨の役になつて來る。これが本當の拍手だろうが、これをさせたら吉田總理大臣も政治家だつた。

べートオヴェンは作品發表の會のとき、聽衆に拍手されて非常に不快な顏をした。自分の音樂は人間の魂を沈潜させる高級なもので、すぐさま拍手されるほど輕薄な低級のものではないというのだつたそうである。今日の政治家にべートオヴェンを求めるのは無理だとおもうが、現在の難局は彼ぐらいの天才でないと切拔けられない。

近代の名女優デューゼの舞臺は、幕が下りた瞬間見物の溜息が一つになつて聞えたといわれる。ラジオを聞き終つて私も溜息をついたが、これは同じ性質のものではない。

非當世風

今の東京は住宅難どころではない。アパートの六疊一間を借りる權利金が三萬圓もすると聞いては地獄という方がいい。『借間借家に不都合はないか』というラジオの街頭録音を聞きながら私は自分の幸運をおもつた。

おなじ大磯の町内だがつい最近に私は引越しをしている。借家から借家へと移つたのだが、權利金などはおろか、敷金さえもなかつた。いやそれだけではない。借受けの證文さえも取交わさない。相對ずくの口約束だけである。

特別な因縁からだろうと誰もいうだろうが、そうでない。これが今度の借家ばかりでなく、前の借家のとぎもそうだつたのだから例外ともいえない。前の借家へは一昨年に越した。大家とはそれまで一度も顏を合せたこともない全然の他人だつたのである。

ではその大家がひどく金持で、萬事鷹揚な長者でもあつたのかと聞きたくなるだろうが、そんなわけでもない。前の大家は左官職の老人で今もつて仕事に出ている身分なのである。だから決して世間知らずでもない。

今度の大家はさる未亡人である。埼玉の實家の方へ保養がてらしばらく引込みたいというので家を空けられた。四、五年してまたこちらへもどられるときにはお返しするという條件だけついているのだが、これとても口約束だけである。約束だから私は客觀的情勢などというものがどう變ろうと守るつもりでいる。政治家の眞似などは斷じてしない。

未亡人の引越しトラックが出たあと、私の荷物が運び込まれた。前の借家の大家が人をよんで來て手傳つてくれたのである。こんなところもまた當世風ではないかもしれない。さてその荷物を納めようと押入れをあけると、そこに何やら小さな紙包みが置いてあつた。

未亡人の方で忘れていつたものとばかりおもつて、わきへ片づけようとすると私の家内あての名刺がはつてあるのに気がついた。家内にあけさせてみると、上等な障子紙が一本と、それに未亡人手作りの雜巾が何枚か入つていた。本來ならば障子の破れもつくろい、きれいに掃除した上で、お引渡しをするのですが、こちらも引越しのごたごたゆえに、という行屆いたしずかなあいさつが聞えるようだつた。あゝと家内も深い息をして、りつぱなことを教えられましたといつた。こゝに至つてはいよ/\當世風ではない。

前の大家は杉山秀吉といつて、十七のときすでに下職を指圖したという名人で生粹の職人である。今度の大家の未亡人は島崎藤村夫人でおる。これら當世風でない人たちと因縁のつながる間は私も當世風になるわけには行かない。

母の話

華道というからには中に立派な精神がこもつているべきだろう。が現代の華道について私は知らない。すでに八十を越した母から昔の活花については聞いたことがある。

活花には本來形というものがない。形はそれが置かれた場所によつて、生れるものだというのである。天地人とか眞行草とかのやかましい約束があるのだから、形式主義的なものかとおもつていたら大きに間違いらしい。さらにまた、活花がお客の眼に残るようではだめだというのである。

床の間へ飾る。床の間の主人は何といつても掛軸である。花はそれを引立たせるためにあるのだから、掛軸が生きて花が消えるようにする。これが働きだと昔は教えられたものだというのである。だから何を活けるかも掛軸次第、たとえば牡丹の畫軸のときに芍藥を活けたりしたら笑われる。不即にして不離。もしも松柏何とかにして濃しというような書軸だつたら、しずかな水仙などつゝましく活けるといつた調子である。その形も相手が横物だつたりしたらそれに相應させる工夫が大切となる等々、いわれてみれば成程形がないという意味がわかる。

内助の功というようなことをいえば、折柄に『婦人週間』だし、時代おくれの封建主義といわれるかもしれぬが、昔の華道が女性のたしなみとされていたのは、一種の人生教育だつたのだろう。主人よりも細君の方が先きに立つて目につくような家庭は賞められなかつた。これが昔である。

今は華道そのものも藝術だなどと大いにそれ自身の存在を強調するような傾向になつているらしい。どこへ置かれるかによつて形を變えるかもしれぬが、それはあくまでも花そのものを目につかせようとするものであるらしい。これは多分、解放された近代女性が、いかなる場合にも自我を主張しようとする傾向に同調させたのかもしれない。

アメリカの家庭生活について私は何も知るところはないが、漫畫の中でみる夫人たちはブロソディといいマギイといい、奔放自由な生きのいゝ暮し方をしている。多分日本の女性たちはいま彼女のごとくに在りたいと念願しているのだろう。どこへ置かれようとも本來の自我をすこしもゆがめられずに墓場まで持つて一行く! 彼久たちは幸福であるに相違ない。そしてそのときわれわれ男性は、あのダグウッドとなり、あのジグスとなる!

昔の華道を復活させるものがあつたら、それはきつとわれ/\男性だろう。現に私の知つている新家庭の二、三では、いずれも男の方が相手に順應して別人のごとく變えられてしまりつている。

ふたたび母の話

母から聞いた音の活花の話を、もう一つ續ける。

花は出來上りの一歩手前で活けなければならなかつたのだそうである。活けた時に全部出來上つていたら、その時から花は崩れてしまう。出來上りの餘地を殘して、あとは花自身に任せて出來上らせる。明日の午後に客を迎えるための花だつたら、丁度その時刻に出來上つて、絶頂の勢いにあるように活けなければならぬ。そのためには間の拔けたすき間を花のために作つて置いてやらなければいけない。

これはしかし容易なことではあるまい。無責任な突放しでは覺束ない。藤なら藤、牡丹なら牡丹、花の伸び咲く速度の計算が必要となる。この計算のためには日ごろから自然觀察をして置かねばならぬ。こうなると活花は花や技の單なる編集ではないことになる。大げさないい方をすれば、自然の生命と活け手の呼吸とを合致させることだともなるだろう。こうなるとたかが活花などといい切れたことではない。

事實母の活けた花は、當座物足りなく、しかし翌日あたりになれば形を整えて勢いがつよくなつたものだつた。小さなつぼみだつたものが枝頭一點の光彩となつたときにそれが全體へのアクサンとなり、ぐつと引緊つて成程と合點せられたことが多い。しかし未來に對する計算とか用意とかいうものは、性急な、あまりに性急な現代ではおそらく不必要とされるだろう。何事も即座主義の世の中では通用する活け方でないに違いない。

あとは花に任せる。だから母は自分で活けた花をいかにも樂しそうに自分でながめたものだつた。任せたかぎりにはもう自分の活花ではないとして、その成行きを樂しむのは謙虚な精神である。この謙虚さのゆえにその樂しみは天眞の清潔なものとなつて、さらに奧深く樂しめるというわけなのだろう。しかしこんなことももはや現代では歡迎されぬだろう。

こうして活けた花がやがて絶頂を極める。それからは勢いが衰える順だが、その衰えを見せはじめると母は何の躊躇もなく取捨てるのだつた。私などの眼からみるとまだ鑑賞に堪えるものなのである。しかし母はそのたびに、衰えを人の目にさらさせるのは情なしだといつた。これも活花の心得として教えられたのだそうである。

何もかも現代には不向きな母の時代の華道の中で、あるいはこの最後のものだけが喝采されるかもしれない。政府の公約でさえが風向き次第でさつさと取捨てられてしまうのである。思いきりのよさは似ているのだが、しかしこれくらい似ないものもないかもしれぬ。

氣轉

ある書生が橋本雅邦をたずね、畫を描いてくれと無心した。いわく、ある人へ無心に行つたら、雅邦の畫を持つて來い、そしたらそれを高く買つてやろうといつたから。まことに得手勝手ないい分だつた。しかし雅邦はそれを聞くと笑つて、そうか。うなずいて紙を展べた。

書生は喜んで貰つて歸つた。先きなる人にそれを見せると、その人はそれを展いて、これは何の畫だろうなといつた。高山彦九郎でしようと書生は答えた。

なるほど橋の袂に一人の男が土下座している。蓬頭で乞食のようにみえる。だが彦九郎にしてはちつとも氣品がない。第一その男の向つている方向が御所の方ではない。これはどうしたものだろうか。こういわれたがその書生にはわからなかつた。これは君自身ではないか。橋のたもと、橋本で乞食のように土下座して哀れみを乞うている。この畫をみて君は何ともおもわぬのか。

聞いてその書生は大いに發憤し後日とにかく人に成つたのだそうだが、諄々説明されるまでわからなかつたとは氣轉が利かない。雅邦が描き終つた途端に發憤したのでないと、この話も面白くない。

『大たはけこれが雨具かヤイ女』

というのが古川柳がある。私の好きなのの一つだが、世の中にはこんな殿樣が多いだろう。氣轉の山吹も相手が太田道灌だつたから助かつたので、でなかつたらお手討になつていたかもしれぬ。それにしても後拾遺集中のあの歌を利かせたのかと早速にうなずいた道灌は、今なら當然『話の泉』のメンバーだろう。氣轉はトンチではない。こうなると學問の働きでもある。

山吹の娘はすばらしい美女で、ために道灌はその才色が忘れられず後日城中へ召入れたとなつているが、加賀の千代女はどうだつたのだろう。俗説では醜女だつたとされており『炎天に火をはきさうな鬼瓦』という句にまでされたのに答え、

『一とかかへあれど柳は柳かな』誰しらぬはない話だが、才女とあつたかぎりにはやはり美人だつたと考えたい。彼女の才氣を稱える人たちは俗説を採らずに相當の美人だつたろうと臆斷している。徳富蘆花は次のような歌を詠んだそうだ。『二百年早く生れて加賀にあらば他へはやらじ千代といふ女』

一とかかえで思い出したが、あるときの米誌に、ある男が離婚訴訟をした話が出ていた。妻女が何百ポンドとかの大女で到底もちこたえできない、お察しを乞うというのであつた。裁判所にその理由を正當と認めてそれを許可したというのだが、これも氣轉の一つかもしれない。

外觀

女性のニュールックばかり笑つたのでは公平でない。有樂町や銀座、近ごろ際立つて男のオシャレが目立つ。ボールドルックというのだそうだ。

大膽とか勇敢とかいう意味ではあるが、ボールドといえば鐵面皮という譯もつけられる筈だ。配給物さえ受取れずに母子心中をしたとの記事が新聞にあつた。敗戰未整理、しかもいよ/\九原則だという矢先きを、新調春服で風を切つて歩ける無神經、これではルックではない。なるほど中身までボールドだと言いたくなる。

外觀に苦勞する愚。だがこれが人間かもしれない。チョコレートは容箱が立派なものだ。箱のためにチョコがあるのか、チョコのために箱があるのかわからぬ場合があるが、英雄などといつても實は、生涯をチョコレートの箱にして終つたのも多い。虚勢に終始して實は平凡な中身だつたのである。ナポレオンが自分用のイスを高くして置いたことは有名である。

形而上を問題にしている哲人はしかし形而下のことなど何とも思わぬ、というがこれも嘘である。ニイチェがあるときある女にひそかに戀をした。彼女に會うために彼は服を新調した。仕立屋は期日通りにそれを持つて來たが、ニイチェの方で金ができていなかつた。仕立屋はそのまま持つて歸つてしまつた。わが哲學者はそのため折角の戀人と會うのをあきらめてしまつた。

外觀は他人を支配するとなれば、それをどうするかも政治であるといえる。グラント將軍は市民の平服を着て葉卷をくわえて中國を旅行した。『アメリカ皇帝』を期待して彼をながめに出た中國民衆はぼんやりさせられてしまつた。とスミスの中國紹介書に出ている。東洋人に對するこのグラント式は、結局輕蔑を招いただけに過ぎなかつたといつている。

提督ペルリはおなじアメリカ人ながらこの點を心得ていた。幕府の使節との應對でも輕々しく引見はしなかつた。將軍同樣に奧まつた處にいて、部下の取次ぎを通して意見を傳えた。上陸の際にも威風堂々、公式禮裝をさせた儀仗兵を從え、行列をつくつて出た。

明治初年岩倉卿の海外行のときまずアメリカで見せたのは、束帶に笏を持つた禮裝であつたが、相手がアメリカであつたのは彼等の不幸である。折角外觀に威容を見せた積りだつたのに、不發彈の愛嬌となつてしまつたのである。そこで大西洋を越えてロンドンに渡つたときには、大急ぎで彼地風の金モール大禮服を仕立てさせ着用したとある。それがその後のあの服の基準になつたので、だからあの唐草風の模樣などでたらめなのだそうだが、ともかくこれは日本のルックが外國のルックに見事屈服した最初である。

舊憲法

明治神宮繪畫館に納められた『憲法審議會の圖』の中の明治天皇は、ネクタイをつけて背廣姿だつた。臣民と同じ服裝だつたことは珍らしい。私たちがいつも見せられていたのは大元帥の軍服姿だつた。

御眞影は八方にらみをしていなさる、と小學校のころに教えられた。なるほど右から見ても左から見ても嚴然とこつちをにらんでいるかにみえる。貴いお方だからと私たちは感心したものだつた。いうまでもなくこれは撮影のときに、レンズの中をにらんでいられたからなのだろうが、果してその效果を意識してそうされたのかどうか、側近の誰かの智惠だとしたらなか/\の賢明である。

明治十二年グラント將軍來訪、天皇は濱離宮で對談されたが、題目はまず議會開設についてだつたそうだ。意見を求められて將軍は代議政治が進歩的なのはいうまでもない。君主國家であつてもその方が繁榮の基となるのは明白だろう。しかし問題は時期にある。今直ぐでいゝかどうかは貴國の實情を詳しく知つてからでなければ述ベられぬが、權利を國民に與えたら最後二度と取もどせるものではない。だから漸進をよしとする。ことに最初から議會に立法權を與えたりするのは危險である、と答えた。

このときの將軍の方は市民的なフロックコートだつたが、天皇の方は軍服だつた。將軍隨行の人の手記によると『肋骨をつけただけの略裝』となつているが、共和國からの賓客を迎えるのに嚴めしい正裝でもとおもわれたのかもしれない。それにしても軍服だつたところに明治日本があつたともいえる。

それから十年後に憲法が制定されたわけだが、その最初の草案には『帝國議會ハ政府ノ提出スル議案ヲ議決ス』とだけにしてあつて立法權にまでは及んでいなかつた。グラント將軍の意見が影響していたものかどうかはしらない。『及ビ法律案ヲ提出スルコトヲ得』とつけ加えられたのは、三考四審の吟味を加えられた末のことだつたのだそうである。

明治廿二年二月十一日、めでたく最初の憲法は發布された。宮中に集つた文武百官、いずれも金ピカの大禮服を着けて新日本の威儀を正していたのだが、その中に一點、これはまた何と! 古代日本の象徴たるあの『チョンマゲ』をちよこんと載せて席に列つていた人があつた。薩摩の島津公だつたということである。

このとき、式場の外では文部大臣森有禮が殺されていた。

若芽の雨

モゥパッサンはバッシイの養老院の庭で、小石をばらばら花壇に投げつけていつたそうた。

「來年の春になつて雨が降つたら、こいつがみんな芽を出して、小さなモゥパッサンが生えるんだ……」

こんな話をすると誰もが一應面白がる。モゥパッサンの文學などに何の關心も持たぬ連中でも面白がる。ゴシップの興味というやつだろう。

それにしても君は實につまらんことを知つているね、と皮肉な友人はしばらくしてこういう。僕はそこで答える。そうだよ。僕はまつたくつまらんことしか知つていない!

僕はピカソについてなど本筋のことは何にも知つてやしない。原色版以外の彼の畫など一枚だつて見たこともないといつてもいゝ位のものだ。しかし彼がちつとも本を讀んでいないことは知つている。彼と何年間か同棲した女が、彼の讀書している姿なんて一度も見たことがなかつたといつているからだ。

そういえば、ドビッシイも讀書をしなかつたそうだ。とすぐ私は續けたくなる。がこの偉大なる近代作曲家についても、私はほんの些細な知織だつて持つていはしない。

大雅堂のやつは學問をしなかつたから、晩年の畫は駄目になつた、と鐵齋が批評したそうだ。そこへいくとわが輩などはというつもりだつたのかもしれない。とこう話を並べて行くと、どうやら藝術家についての知性と感性の問題に觸れそうな工合にもなる。こゝでその通りに展開すれば私もえらいのだが、そこまで深入りすると底がみえる。己れを知つているからひらり體をかわして外の話へうつる。

こういう私ごとき人物は輕薄きわまるものであつて、當然心ある方々からは排斥されるべきに違いない。私としても同感である。私はペンを取上げて、今日こそは堂々たる、内容たつぷりな、いかにも瞑想的で憂鬱な文章を書こうとおもい立つた。すわり直して眉をしかめ、さてしずかに窓前に目をやると五月の雨が降つている。すると途端に『モゥパッサンは』と出てしまつたのである。やりきれない。馬鹿は死ななきや治らない。

モゥパッサンの小石が果して芽を出したかどうかは知らない。私は私のような馬鹿がこの世にあることを輕蔑したいから、小石を蒔くようなことはしない。窓前の雨はしと/\と降つている。若芽を濡らした明るい雨、眺めているといつか何もかも忘れてしまつた。何もかも忘れた中でまた一つ、つまらぬことを思い出した。それはソフォクレスのだという言葉――

「一生を馬鹿で過せたらこんな幸福はない」

しやぼん

法隆寺が燒けてからの七十五日はとうに過ぎ去つてしまつていた。百圓札を手にしても誰も何とも言い出さぬ。國寶という扱いは結局がお世辭みたいなものらしい。

正倉院の寶物の中に『しやぼん長持』というのがあるそうだ。入つているのは近世のシャボンとはどうも違うらしいというのだが、人間の氣持を洗い流してやりたいものだと、あの佛たちはおもつているだろう。

天平の美人たちが體中を眞白な泡だらけにしている圖など、一寸想像してみるのも悪くないが、シャボンとは違うとあつてみれば、花下しやぼん玉を吹くの姿でもおもい浮べる方が無難かもしれない。何としてもあの時代のしやぼんとは奇妙である。

しやぼん玉ははじめ眞ん圓いが、やがて大きくなり風に吹かれてふわ/\飛びたつと、歪んでイビツなものになる。人間またかくの如しと、説教好きの馬琴が講釋している。子供の間は性質善良なのだが、大人になつて浮世の風に吹かれるとイビツになり易い。

何の氣もなくこんな話をしたら、政黨またその通りと言下に應じた人があつた。結黨の際は主義綱領まことに明白だつたのだが、最近は左右相爭つてすつかりイビツになつてしまつたと、これは多分社會黨のことなのだろう。

折角の社會主義が妙なものになつてしまつている。もとの白地にして返せと勤勞階級は請求している。左右兩派はそれで大いに泡を吹き合つたらしいが、どこまで洗濯ができたかはしらない。洗濯を昔は『洗濁』と書いたものだそうだ。シャボンの泡だつたら幾分濁りもとれただろうが。

肉體の濁りはシャボンで落ちるが、魂のとなるとそう簡單にはいかない。古代の人も知つていたとみえ、たとい曹達をつかい灰汁を加えて洗つても惡は落ちぬ汚れだとエホバは言い給うた、と聖書の中に誌してある。

ある牧師の娘が、學校の休暇中に船で小さな旅行をした。歸りの船中備えつけのシャボンを持つて歸つて來てしまつた。小さいものながらもそれは盜みだというので、父親の牧師は早速に詫び状を添えてそれを船會社へ送り返した。そして娘に次のように命令したという話がある。

「以後六ヵ月間、シャボンを使うことをお止めなさい。でなければおまえの汚れは淨められません」

口先きのあわではなく、良心にあわを吹かせることだろう。もしかして正倉院のしやぼんがその效用をもつていたら、たしかに寶物である。

珍説

一躍して十何倍かの議席を占領したことだし、今度の國會では共産黨がさぞ暴れるだろう、とおもつていたのにと不滿そうにいつた人があつた。

強すぎる酒には水を入れるのがいい、あんな穩健なとおもわれる人が近ごろしきりに入黨するが、あれもあの黨の度ぎつさを薄めるのには役立つだろう、自他ともに結構な話さといつた人があつた。

他黨への思惑など一切なく、尻目にかけて傍若無人の形でやるのが共産黨の面目のようにおもわれているらしいが、見る人によつてこれは喝采もされ、排斥もされることだろう。

かつての日本軍部は傍若無人に滿洲へ進出した。諸外國を尻目にかけて錦州占領となつたとき、しかし喝采したのは日本人だけで、世界中はすぐさま排斥した。そんなことから出來上つた滿洲國が承認されなかつたのは當然だつたろう。

ところが當時東洋駐在のアメリカ外交官の中で、珍説を立てた人があつたそうだ。血迷つている日本軍へいかに通牒を出して抗議したところで始まりはしない。こうなつたらいつそ眞つ先に滿洲國を承認してしまつたらどうか?

公使館どころか堂々と大使館を置く、優秀な外交官をその大使にし、できるだけ澤山の館員を駐在させる。やがて外の國々も眞似するだろう。その結果すばらしい外交團が出來上ることになる。それを相手にして日本軍人どもがアタフタしはじめる。

この喜劇を滿洲國に公開する。日常の生活、禮儀、文化、その他もろ/\について日本人とわれわれ歐米人を比較させる。その結果は滿洲國をしていかなる道をとるべきかを教えるだろう。滿洲國人自身をして冷靜にその判斷をさせればよろしい。

そのころ日本を訪問していたユーモリストのウィル・ロージャースは、この説を聞くと手を拍つて喜んだそうだ。

「名案だ! その初代大使としては僕が赴任する。滿洲獨立の歴史、すばらしくユーモラスな讀物が書けるじやないか!」

この通りになつていたら、本當の獨立を滿洲國はしていたかもしれない。庇を貸して母家をとられるわけだが、おかげで日支事變も起らず、從つてあの戰爭の惡夢もなしに濟んでいたかもしれない。がユーモラスな提案というものは、いつでもそれがユーモラスであるという理由で採用されぬものだ。折角この珍説もやはり一場の茶話で終つてしまつたのだろう。

共産黨をつぶしたかつたら、一族郎黨引き連れて吉田さんが入黨する。これも手ではないかとおもうのである。

菊五郎・ウィル・夢聲

『珍説』でアメリカのユーモリスト、ウィル・ロージャースのことを一寸いつたが、來訪のとき彼も、すべての觀光外人がするように、カブキを見物し、樂屋に通り、キクゴロウと握手した。

 わが名優はそのときに、驚いた顏をして彼にいつたのだそうだ。

「アメリカには、チュウイング・ガムの眼鏡ができているのかね?」

持前の癖でウィルはそのとき、はずした眼鏡のベッコウの縁をしきりに噛んでいたのだそうだ。通譯からその一言を聞くと彼は、

「出來たよ、君! それで今日の五十行が書ける!」

も一度つよく噛んで、キクゴロウの肩をたゝいて、それからすぐに帝國ホテルヘ歸つていつたそうだ。彼は日に五十行の通信を本國の新聞へ送らねばならぬ義務をもつていたのだが、その日どんな五十行を書いたかは知らない。

彼は文筆でユーモリストだつたばかりではない。ラジオヘ出ても大した話術家ですばらしい。人氣を博していた。アメリカの徳川夢聲とおもえばいゝ。寄席へも出たし、レヴュウの中にも入つたし、何が本職かわからぬところはそつくりである。

興行王のコクランから、ロンドンヘ渡つて來ぬかとすゝめて來た。よろしいとすぐさま海を渡つたのだが、報酬その他細かい契約なんぞ一切しなかつた。コクランの方では、何がさてアメリカでの彼の各方面からの收入莫大なことを考えて、いくら拂えばいいかと心配していると、

「僕はね、ロンドンの奴らに變な顏をさせるためにやつて來たんだよ。そんなことは問題じやない!」

一週間舞臺をあけてみて、その成績でこれとおもつただけを出したまえということだつたので、コクランがその通りにすると、

「僕には、この額面だけの價値はないよ」

出した小切手を笑つて突つ返したそうである。この邊もわが徳川夢聲に似ている。夢聲が自分を藝人とおもつていないようにウィルもおもつていなかつたのだろう。

どうせ死ぬんなら飛行機で墜落してみたいものだ。それも非常に高いところからでないと困る。あつという間では折角のチャンスを味わつている暇がないだろうからな、といつてたそうだが、望みどおりに彼はその事故で死んだ。しかしたつた三百メートルの上空から、だつたそうである。

未完成發明

タイプスピーカーというものを發明したいとおもつています、という人があつた。どんな機械かと聞いたら、タイプライターのように澤山のキイがあつて、それをたゝくと、ア、イ、ウー……、とそれ%\の音を出す。だからある文句に從つてたゝけばその通りをしやべることになるというのである。

だが、どうしてそんな機械が必要なのか、口の利けぬ人のためというならともかくも、たゝくよりは自身しやべる方がずつと完全じやないかといつたら、その人は、實は放送局に使わせたいと考えているのでと答えた。

ラジオを聽いていると、時折り齒の浮くようなことを乙にすました聲でアナウンサーがやつている。どうせ原稿を讀んでいるのだろうし、あの調子だつて一定の型を教えられてのことだろうから、アナウンサーその人には罪がない、といかにそうおもつても相手が人間の聲だからその聲の主を輕蔑したくなる。その不快さを救うためにはタイプスピーカーでなければなるまい。

タイプライターの字はタイプだから何の個性ももつていない。ハンドライチングではどうやつてみても完全なタイプにはなりきれない。誰々が書いたものというような差別を無くするために、昔もお家流などという筆法を工夫した。が結局その差別から拔けて出られたのは印刷活字の類を使うようになつてだろう。事務的ということは單に能率的というだけのものではない、非人間的ということである。なるほどタイプスピーカーとは面白い發明だと私も賛成した。

ある若いアナウンサーに、どんな仕事が一番面白くないかと尋ねたら、言下に株式市況を讀まされることですと答えた。何とか紡何百何十圓、何十圓高、何とかセメント何百何十圓、何十圓安。なるほどあんなものへは感情も氣持もこめられたものではあるまい。非人間のそれこそ全くの事務的でなければやりきれぬとしたら、キイをたゝいて出した方がいい。聽く方だつてその方が聽きいいかもしれない。

アナウンサーの讀み違えにしたつてそうですよ、とその發明志望者はいつた。手で書いたものの字の間違いはその人を馬鹿にしたくなるものだが、活字になつたものの間違いだと、これは誤植だろうで輕く濟みますからね。わがタイプスピーカーになれば肩がすつと輕くなりますよ。聽く方にしたつて、活字印刷の手紙だと見ても讀まずに捨ててしまえるように、これだと聽いて聽かずにいられますよ!

借金の申込みだけはタイプライターではだめだ、と笑つたある實業家のことを私はおもい出した。

牡丹

今年も牡丹の花時が來た。前の町長だつた船橋さんが毎年、庭で丹精されたのを切つて下さる。今年もいたゞいた。厚情が身にしみるので、咲きすぎてもむざとは捨てきれない。やがて蕪村の句の景色となる。

牡丹散りて打重りぬ二三片

打重りぬがいい。牡丹でないとこの味がない。衰えたところにまた格別の味があるところはほかの花にないことである。腐つても鯛というが、衰えても牡丹といつた方が風流である。

牡丹花の美しさには權勢がある。權勢ぎらいの私だがこの權勢は天然のものだから敵わない。正岡子規の歌に

本所の四つ目に咲けるくれなゐの牡丹燃やして惡き歌を焚け

というのがある。今ならばカストリ雜誌を燃やせというところだろう。音から楊貴妃にたとえられたりしたくらいだから、相當エロティックなにおいも高いが、現在の好色文學とは全然品を異にしたものである。

後宮佳人三千。牡丹のような美人を三千も集めておいたらむせ返るばかりだろう。四つ目の牡丹園は有名だつたが、全盛の時でも千株ほどだつたというから、中國の王者の豪勢にはとおく及ばない。

三千となるといかに王者といえども整理がつかなくなる。そこで漢代の元帝は時の肖像畫の名人毛延壽に人別の畫帖を描かせたものだそうだ。それをめくつて今日はどの子を召そうかとお考えになるという趣向である。そこで三千の佳人は競つて毛に賄賂を送つた。その額に應じて毛は鼻を高くしたり低くしたりした。

こんな國だから、いざ外敵侵入となると花のように脆い。匈奴に攻められて貢物をさゝげねばならぬとなつたとき、その佳人畫帖をめくつて中の一人を差出すことになつたが、どうせ相手は野蠻人だしというので、一番の醜女を出すことにした。選ばれたのが王昭君である。みるとすばらしい美人だつたので元帝はあつといつてしまつた。彼女は一錢も毛延壽へ贈賄しなかつたのである。そうとわかつても後の祭り、怒つて元帝は毛を叩き斬つてしまつた。側近などといつて氣を許しているととんでもないことになりやすい。

蕪村の牡丹句には『波翻舌本吐紅蓮』という前書で――

閻王の口や牡丹を吐かむとす

舌本を波翻するというのは、閻魔大王が口を開いて眞赤な舌を見せたところで、昔の佛弟子たちは、自分の言葉に僞りがないという證據にあゝして見せたのだそうだ。犬養さんも一度吉田さんの前で長い舌を出して見せておく必要があるだろう。――と話が妙なところへ落ちたが、これは壮丹のせいではない。句がつまらんからである。

平凡の喪失

税務官吏は惡質、これは今日の定評のようである。が私の知つている一人はそうでない。時折雜談をしに來るのだが、畑で作つたものなどぶらさげて來てくれたりする。こつちからさゝげ物をするのが定法なのにと笑うと、にがい顔をして、冗談はよして下さいという。その彼かいつた。

――どうも面白くないのは世間ですよ。小さな例だが、僕が女房をつれて町を散歩する。向うから市會議員の顏役が來る。やあと向うから先に挨拶するのです。奧さんも御一緒なら丁度いゝ、その邊で一つ冷たいものでもとか何んとかいうんです。振り切つて店へ買物に入る。するとすぐイスをすゝめる。お茶をもつて來たりする。全然特別扱いです。

――それで僕はいつも女房に戒めているのです。あれはみんな僕にするのじやない。税務署に對してしているんだ。おかしい氣になつたが最後とんでもないことになる。仕合せなことに僕の女房は地味で素直な質ですから安心しているんですが、派手な虚榮的な女だつたりしたらとおもうとゾッとします。

――可哀想なのは廿歳臺の若い連中ですよ。僕なぞは卅を過ぎているから反省もするんですが、彼等は人北的に全く初心ですからね。乘せられゝばすぐいゝ氣になる。いゝ氣にさせるのが世間のネライです。年功を經た年増女にかゝつたみたいに、有頂天にさせられて無責任におつぽり出される。

――都の税務官吏の汚職という新聞記事、あれだつてどれも廿歳臺の青年だつたとあつたじやないですか、もちろん彼等はよろしくない。だが本當に責められるべきものは外にあるように僕は思うんです。それを衝かないかぎり、次々にと若い罪人を出して行くだけでしよう。取締ると國會で答辯した大藏大臣に深いところで考えてもらいたいとおもいますよ。

――若い同僚が友人の鐵道職員と話しながら『つまり君たちがバスを利用しているようなもんさ』と笑つていたのを耳にしたことがありました。何を話していたかは想像できるでしよう。つまり鐵道パスをまず取上げることが税務官吏の肅正になる。しかしこんなことは大臣など夢にも考えていないでしようね。一方に役得があるならこつちも、というのはしかし人情ですよ。

――昨日昭電公判のニュースをラジオで聽いていたら、一人が、これから役得はこの手で行こうと笑いました。金錢は受取つたが趣旨は違うという否認の仕方ですね。もちろん冗談にいつたのには違いないのですが、しかし……。

こんな平凡な感想を吐く税務官吏が、今はどうして平凡な存在ではなくなつている。平凡の喪失、がこれは決して税務署だけのことではないだろう。

學校演劇

見知らぬ青年が來て、俳優になりたいのだが意見を聞かせてくれといつた。ある町の工業學校の生徒だつたのだが、演劇部に入つて一二度實演をしたら面白くなつて、學問の方がすつかりいやになつた。だからという理由である。

工業學校だというのに、なんで演劇部なんぞあつたのかと聞くと、妙な顏をして演劇部はどこの學校にもありますと答えた。學問がいやになつたのは君ばかりではあるまい。部内の熱心な連中はみんなそうだろうと聞くと、はあと素直にうなずいた。

私は學校演劇というものに賛成しない。ある學校の演劇部から話を頼まれたとき、私の意見は風變りだがいゝかと駄目を押した上で出かけたことがあつた。

演劇の劇は劇藥の劇。うつかり素人が扱うととんでもないことになる場合がある。藝術というものは文學にしても、美術にしても自分の感じたまゝを率直に表現することから出立するのだが、俳優の仕事はそうではない。むしろ自分を隱して他になりきることから始めなくてはならない。一方は正直がシンになるのだが一方はウソが骨になる。この相違がそれをやる人間に及ぼす内面的な影響を深く考えなければいけない。元來が演劇というものは一般の人にとつて觀るべきものであつて演るべきものではない。だから諸君の演劇部がいかに演劇を觀るべきかで集つているのだつたら結構だが、學校演劇などという下らんことで骨折つているのだつたら、即刻解散してまともな勉強に歸るべきだ。とこう話したらみんな變な顏をして聞いていた。

こゝに哀れなる犧牲者がいると私は青年と對坐しながら考えた。青年は得意らしく學校演劇のときの寫眞を四五枚取出して見せたのだが、そのときの喝采をいまもうつゝに耳にしているといつた風だつた。なるほどその寫眞でみれば一應演劇の體を成していたかにみえる。これだけ演れゝば入場料を取つて觀せてもぐらいのことを無責任な人たちはいつたかもしれない。だが私はことさらに冷たくそれをながめて、こんな眞似事を演劇だなどといつちやいかんよと突つ返した。

俳優志望の青年がやつて來たのはこれが最初ではない。一度制服の巡査がやつて來たことがある。茨城縣に勤務しているというのだが、これはいきなり顏の審査をしてくれと申込んだ。顏などはどうでもいゝといったら、急にうれしそうに眼を輝かして、顏以外なら自信を持つているのですといつた。體よく追い返したことはいうまでもない。

  • (五・一九)

非盗難

友人宮田重雄の宅へ泥棒が入り、私が預けといたカバンをもつて行つた。これが本紙の記事になつたので會う人毎に何が入つていたのかと質問される。

私のことだから貴金屬、寶石、機密書類いずれも縁がない。『二十の扉』なら『鑛物』と答えるところだが、實は空氣だけだつたのである。泥棒はカバンとして盜んだのではなく、首尾よく盜んだほかの品々の入れ物として持つていつたのだろう。だとすると私は彼に便利を與えたことになる。宮田から恨まれて然るべきなのだが、彼からの速達には『失態相濟まぬ、ベンショウする』と書いてあつた。

私が預けたと記事にあつたのだが、果してそうかどうか私には異論がある。次第を申せば去年の春、彼の宅と私の宅とで期せずして駄犬を飼いだしたのである。飼えば駄犬でも自慢がしたくなり、そのうちコンクールをやろうではないかと言い合つていた。そのうちに兩犬とも運命的な異變に出會つてしまつた。宮田犬の方は急死し高田犬の方は母親になつた。

『藥石効なく』とその急死を報じて來たが、詳細を聞くとどうも『藥石効あつて』のようである。醫學博士の習慣から彼はその駄犬に無闇と高貴藥の注射などしたものらしい。がとにかくそれではというので、拙宅の子犬を一匹代りに呈上することにした。

實はその子犬の入れものになつたのがカバンなのである。幸便に託して汽車の中へ持込んでもらつたのだが、その折にもつと粗末なのにしたらという説があつた。お婿入りなのに可哀想よという説が出た。そこで滿洲新京で買求めた最上等革製ボストンバッグが採用されたわけである。とにかく國産品ではない。

さて問題は呈上物の入れものだつたということである。羊羹をもらつて箱を返すやつはない。いかに立派な裝飾の術でも、チョコレートとともに先方のものとなるのが社會の慣習である。家寶のカバンではあつたが當方からは一言も返せなどとはいわなかつたはずだ。この際の所有權は果していずれに歸屬するや『ベンショウ』などとあわてて速達して來た宮田は、多分法律について全然無知なのであろう。

つまり結論をいえば、だから私はすこしも盜難などにあつてはいないということなのである。序でに傳えるが、折角カバンもろとも呈上した子犬は『ダリ』というシュール・レアリストの尊名をもらつてあばれているうち、これもテムバで死んでしまつた。これを死なしたことについては格別詫つて來ない。死なして平氣なのは醫學博士だからだろう。

  • (五・二七)

安井さんの幸福

夏の夕わが家へわが家へ羊かな

誰の句かとくるだろう。俳人安井曾太郎と答えたら、まさかあの安井さんではないだろうなとくるだろう。安井曾太郎藝術は決していわゆる俳諧ではない。

松坂屋に毎日紙主催で『梅原龍三郎、安井曾太郎自選展』が開かれている。そこに陳列された安井さんの滯歐作品風貴畫をながめてふと右の句をおもい出した。だが當の安井さんはとうの昔忘れてしまつていて自分に覺えがないといわれるかもしれない。

私はそれを津田青楓さんの『畫家の生活日記』の中で見つけ出したのである。安井さんは青楓さんと一緒に渡佛し一緒に生活した。青楓さんはそのころから居士的だつたろうから、俳句は居士がそゝのかしたものと考えられる。あるときの山村への旅行日記をみると、汽車中で百題つくろうと二人ともども、鉛筆と手帳をひねくりまわしたなどと書いてある。してみれば俳人曾太郎の句は羊の句だけではない、外にもあつた筈だが、殘念かどうかとにかく殘つてはいない。

これこそ本當の俳人水原秋櫻子さんが『安井曾太郎』という見事な評傳を書かれたが、青楓居士と暮らした頃の安井さんの日記を詳しく紹介しながら、この俳句については一語も言い及ばれていない。畫の方はすばらしいのだが俳句の方はどうもと判斷されたからかどうか。だがそうだつたとしてもそれは、畫伯にとつては何の不名譽でもない。

セザンヌは畫描きにとつて最も警戒すべきは文學的なものの誘惑だといつたそうである。畫描きにとつて必要なのは、夏の夕方を歩いている羊そのもの、その形と色彩とだけでいゝのだろう。わが家へわが家へと歸りつゝあるなどというのは不必要な見方である。不必要なものだつたら下手な方がいい。

滯歐作品風景畫は立派なものだが、草むらの白い鷄や、ぽつんとしている小羊や、蹲くまつている村の人や、私にはそれが不必要なものにみえた。俳人曾太郎がそこにあつたのではないかとおもわれる。青楓居士も餘計なことをそゝのかしたものだという氣がした。だが安井さんにいつまでもその俳人曾太郎を同居させていたわけではない。多分今では私の知つているあの一句さえ覺えてはいられぬように、純粹畫人安井曾太郎になりきつてしまわれている。

器用貧乏というのは餘計な才能に惠まれたために、本筋のものが妨げられることだろう。この餘計なものを振り落すことは容易のようで實は容易ではない。隨分と努められたらしいにもかゝわらず、俳人安井曾太郎がついに、夏の夕の羊の一句しか殘し得なかつたことは、安井さんの大きな幸福だつたのである。

  • (五・二八)

君死に給ふことなかれ

『春みじかし何に不滿の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ』

一世を驚倒させた情熱歌だつたが、今の時代では平凡だろう。どこがいゝのかと娘たちは怪しむかもしれない。そこで昨日の與謝野晶子祭には、日露の役のとき旅順攻圍軍に加わつた弟のための長詩が選ばれて歌われたらしい。

『あゝ弟よ、君を泣く、君死に給ふことなかれ、末に生れし君なれば、親の情は勝りしも、親は刄をにぎらせて、人を殺せと教へしや……』

戰爭最中に、敢然とこんな文句を書き上げた晶子はたしかにえらい。が書ける時代でもあつたのである。そのころ私は小學生だつたが『死んぢやイヤだよお兄さま』という一句のある俗謠をうたつたおぼえがある。『君死に給ふことなかれ』とどつちが先だつたかはしらない。

出征の人に對して、死んでくれるなというのは當然だろう。命あつての物種というのはどんな場合にも本當である。だから晶子女史のと同樣の文句が、すでに隋代の中國にあつたそうだ。

隋の煬帝といえば豪奢を極めた暴君、洛陽城裡清夜遊などといつて、數百石の螢を庭に放たせその中を數千の美女に騎乘させながらともに遊んだなどという馬鹿々々しさだが、芥川龍之介の説によると、その馬鹿も實は隣國高句麗をあざむくための計略だつたのだそうだ。

時到れりとついに兵を起す。帝自ら陣頭に立ち、破竹の勢で攻め入る。軍勢百卅萬八千人とあるから大したものだ。やがて鴨緑江を越え、平壤を陷したのまではよかつたが、それから先がいけなかつた。遼河を渡るもの卅萬五千人のうち歸れるはわずかに二千七百人だつたというのだから負けつぷりがわかる。

煬帝はしかしこんなことでは諦めない。一旦引上げたが、再び天下に令して兵を徴發することになつた。そのとき民衆の中に流れ込んだのが『遼東に向い浪りに死すること勿れ』という文句の歌だつたのだそうである。作者は知世郎という詩人、というのは假面で、實は王薄という野心家だつた。歌はたちまち飛んで、その結果續々と死にたくない連中が王薄の下に集つた。

この王薄が人道主義者で非戰論者だと筋が通るのだが、集つて來たのを從えて私兵とし、その上に立つて將軍となり、叛旗をひるがえしたのだから妙なものである。煬帝の軍と戰つて最初はよかつたが、結局はやられてしまつた。どつちへ行つても、みだりに殺されたのが民衆だつたというわけである。

  • (五・三一)

片手落ち

絶對多數と衆議院の方は安心しきつていたのだが、參議院の方はそうでなかつたので、見事に野黨に引きずられた。ある人が笑つて『サヴィエル樣だよ』といつたのだが、何のことかわからない。眞面目にその意を質ねると『片手落ちだつてことさ!』物固いカソリック信者が聞いたら眉をひそめるだろう。

聖腕、信者からすれば世にもありがたいものに違いない。本願寺さんか地方へ出かけると、入つた風呂の湯までもらいに來るそうである。由來信仰というものには理外の心理が働くものらしい。理外だから不信者にはわかりようがない。迷信排除などと文部省ではいつているが、理外の限界をどこに置くかで迷わせられているだろう。

サヴィエルの死骸がいつまでも硬直せず、腐敗もしなかつたという奇跡は、不信者にはやはりうなずけない。日本ではまず新井白石がそれを疑つた。彼は渡來のオランダ人に、かゝることはあり得るものかと質問している。オランダ人は合理主義者であつたとみえ、何か藥物を用いたからだろうと答えている。聞いて白石は大いに安心したらしい。「世界紀聞」の中に誌されている。

このオランダ人の答は今もなお正しいかもしれない。われ/\もまた白石と同じようにそれで納得するのである。問題はその藥物が何であつたかだろう。奇跡は決して非科學的なものではない。科學的に究明されぬ間だけ非科學的におもえるだけである。ラファエルに描かれた『ボルセナのミサ』では、不信の坊さんが聖體パンを割つた。するとその中一面に眞赤な血がにじんでいたというのである。しかし近代の科學は赤色の細菌を發見している。奇跡の正體はつまり赤カビだつたのに違いない。

長崎でのミサに、永井博士が擔架で運ばれ出席したと報じられている。この篤信の科學者に白石の質問を向けたら何と答えるだろうか。日ごろ意地惡で殘酷なジャーナリズムだから、きつとやるだろうと期待していたが、いまのところまだその話を聞いていない。しかし博士がオランダ人と同じに答えたとしても、別に背信にはならぬだろう。そうでないとわれ/\には理解し難いものになる。科學を拒絶した信仰こそほんとの『片手落ち』だろう。

キリストの奇跡を否定することはすこしもキリストを傷けるものではない。サヴィエルの偉さはその死骸が腐つたか腐らなかつたかにあるわけではあるまい。であの話などは當然奇跡ではないとして子供に教えるべきだと、たま/\ある人に話したら、その人は心配げな顏をして、

『しかし、それで外國に對して差支えないでしようか?』

日木も妙な國になつたものである。

  • (二四・六・二)