高田保「ブラリひようたん」

著者から

ぶらりとしてゐてもへうたんは、へうげて圓く世間をわたる、身はたながりの月雪花……、とこれは小唄の文句である。東京日日新聞紙上をかりた一日一文、題して「ブラリひようたん」としたが、その日その日のうかれ鼻唄、他人からみれば、キザでもあらうしコッケイの骨頂かもしれぬ。けつして月雲花などといふ風流ではない。

鬪爭

けんかに哲學は役立つまい。選擧に知性はどんなものか? 鬪爭という言葉がしきりに使われるが、それだとしたら頭よりも勇氣、精神よりも押しの強さということになる。

條理だつた賢明な演説は人を感心させるが感動させはしない。だから選擧のときには效果がないのだそうである。この前のとき私はある候補者が壇上で、ワイシャツの胸を開き毛むくじやらを會衆に示しながら『さあここで諸君と命の取引だ。この命賣ります。どうぞ御投票を願います』とやったのを見て成程とおもつた。會衆は感心しなかつたが感動したのである。ゆうゆうたる成績で彼は當選した。街頭で『命賣ります』の看板をかけた失業青年よりもこの代議士の方が、この商賣では先手だつたことである。

選擧戰術で最も大切なことは相手が群衆だという事實である。群衆に知性はない。この説に對しては早速抗議が出るかもしれぬが、むかし映畫が活動寫眞といつたころの有名な辯士が節廻しよろしく『月は泣いたかロンドンの花ふりかかるパリの雪』という文句を語つたものだつた。場内のだれもがうつとりと醉つたように聞きほれていたものである。これは群衆だからであつて、必ずしも無知な連中だけが集つていたというわけではない。反省してみたまえ。立派に知性の持主である君自身が、芝居小屋の中に入ると下らん新派劇に泣かされて歸つてくるじやないか。群衆の一人となつたからである。

群衆を説得しようとおもつたらイソップ物語がいい、哲學は全く不要である、といつた哲學者が西洋にいる。事實あるときのいきり立つた國民をなだめるために、ローマの執政官はその手を用いた。胃袋だけがうまいしるを吸うのに憤慨した手と足がストライキを起したところ、たちまち衰弱して手も足も動けなくなつたという今も有名なあのおとぎ話である。なるほどあの『命賣ります』の演説も立派におとぎ話だつたわけである。

ある人が來て、今度の國會は國會でなくしてもらいたいものですなといつた。同感ですなと私は答えたのだが、現在のような選擧でそれを望むことができるだろうか。鬪爭的氣配が濃くなるらしいのを見ると、さらに國會的なものが出來上るだけだという氣がさせられる。これを防ぐためには、いかにも國會議員らしい人物には投票するなという運動を起すより外はあるまい。

大臣と詩人

多分、名前というやつの中に宿命がかくれていたのだろう『泉山』というのがどうも結構でない、というのは

いつぱいのんで
ずッこけた
みのほどしらずだ
やめさせろ
まつたもなしに首となる

すらすらと浮んだのだが、この文句の各行の第一音を横に讀んで戴きたい。私流の身の上判斷である。

しかし大臣が議場で醉拂うとは怪しからんという非難は論理的でない。議場で醉拂うような男を大臣にしたのが怪しからんといえば理窟に適つてくるのだが、こうなると泉山殿が惡いのではなくて、惡いのは吉田氏ではござらぬかとなつてくるだろう。吉田氏が泉山殿を引出したとき、一體どこで生れたどんな人物かわからず、各新聞社とも大いにまごついたという話は有名である。この話は酒神バッカスの誕生によく似ている。彼は神々や人間の生れるところから生れるだけの値打ちがなかつたために、父親ジュピタアの太ももを割いて出て來たのだそうだ。

生れ方といえば、堂々としていたのは例のフランス古典の怪物ガルガンチュワだろう。おぎやァと泣くところを、のみたァいと呶鳴つたものだという。泉山殿としては大臣になりたてのことだつたし、つまりはあれも産ぶ聲だつたのかもしれぬ。だつたら生かしてさえ置けばガルガンチュワ級の怪物となれたかもしれぬのに、惜しいことをいたした。

酒をのむその事は決して惡くはない。孔子は有名な美食家だつたが、酒の方も大いにやつたらしい。無量不及亂とあるから底なしに飲んでなお正體を失わなかつたのだろう。酒にも聖賢の道はあるものである。中國のある詩人は彼を讃えて『飲宗』といい、すべからく彼を祀るべしと説いた。孔子に比べると李白などは下の下であるとなるらしい。ぐでんと醉拂つて『天子呼來不上船』などと管を卷いたところ、泉山殿の類らしいが、しかし李白はよかつたことに大藏大臣ではなかつた。だから醉態がかえつて彼の美名に光彩を添えるものともなつたのである。どうも大臣になるよりも詩人になつた方が人間は幸福のようである。

身上判斷詩(上)

醉いどれ大臣象山殿の身の上判斷をやつたあの流儀で、もう二、三やつてみろという注文が來た。恐れ入つたことである。

私流儀でなどとあれをいつたが、實は折句といつて昔からあるのである。五七五の三段のそれぞれの初音をつなげれば意味をなす仕組みで、たとえば、例の大芭蕉翁の

古池や、蛙とびこむ、水の音

すなわち『ふかみ』をこれで現わしているのだというのである。もつとも行儀正しい芭蕉研究家はそんな説など毛頭信じようとはしない。

大芭蕉翁ともなればそんな下らん遊び事みたいな愚劣はいたさぬ。という説は信用するが、茶人小堀遠州などは風流事としてこの式をやつたものである。知己の一人が死んだのでそれを悔んだ文章の一節だが『かなしひのあまりにひとの嘲りをわすれて、春日大明神の十字をかしらに置きて』十首の歌をつくつたと書いている。これでいえばこれも古いところは『遠州流』となるだろう。しかし私のは一音一行だから全然別な新流のつもりである。

ついでだから西洋にも觸れておくが、オペラの『椿姫』や『アイーダ』や『リゴレット』の作者でだれでも知つているヴェルデイ、あの名が當時のイタリヤで誰よりも喝采された理由は

VIVA
EMANUELE
RE
D'
ITALIA

『イタリヤ王エマヌエル陛下萬歳』となつたからだというのは有名な話である。さて、ではいよいよ、御注文の判斷にとりかかる。だれをつかまえたらよいか。

身は一介の法學士
氣は一本のお坊ちやん
とかく浮世はジョーダンと
りこうぶつてはみたけれど
ロハより安い出演料

私は決してこんな事を知つていて書いているのではない。當時人氣物の『三木鷄郎』という名をじつと眺めていると、おのずと以上のごとく浮んで來るのである。あれほど評判の高い『日曜娯樂版』を受もって、ロハより安いとは眞逆とおもう。そこでこれは當人を訪ねて眞僞のほどを確めるとしよう。その結果は明日御報告申上げる。

身上判斷詩(下)

やつぱり私の判斷詩は正確だつた。以下私と三木鷄郎窟との對話をそのままに記す。

私「放送局ハ君ニ一萬圓グライハ拂ッテイルデシヨウネ?」

鷄「ドイタシマシテ」

私「デハ、ソノ半分デスカ?」

鷄「ドイタシマシテ」

私「デハモウ聞クノハヤメニシマスガ、實費ダケハ出テイマスカ?」

鷄「出テイルノハ私の方の足デス」

なるほどこれでは『ロハより安い出演料』とあつた通りではないか。私は私自身の靈感的なものの偉大さに驚嘆した次第である。三木君は別れるとき私に、あのジョーダン音樂はだから社會に對する宗教的な奉仕ですと、嚴肅な顏をして告白した。

ここで私も社會に對する奉仕として、吉田茂とか片山哲とか、または民主黨とか共産黨とかいう名前によつて判斷をしてみるべきだろう。だが私の靈感が正しければ正しいだけ選擧に對し影響することが大きいかもしれぬ。意外な恨みを受けて後に妨害罪だなどと訴えられたりしてはかなわない。だからこれもさしさわりのない方へ逃げよう。……どなたも御承知の好色文學についてである。

ふかいか淺いか
なきどころ
ばばも娘も
しがみつき
せつながつては
いのちさえ
いつそいらぬと
ちぢむ足ゆび

この足指を畫にして御覽に入れるといいのだが、とにかくこれは何としても國貞描くとでもいうべき濃艶な浮世繪ぶりではある。國文學出身という地力がさすがに床しい働きをしているのである。そこへいくと、

たまらぬとての
むり無體
らちも開けずに
たか飛軍に
いいではないかと
じか談判
論外な……

私としては一、二ヵ所伏字にしたかつたのだが、神意によつて浮んだ文句だから是非もないと思召して許して戴きたい。私はただこれによつて、各人各道それぞれ歩んでいるところは、すべて宿命なのだと知つてもらえばいいのである。宿命は決して非難すべきではない。同情すべきものなのである。(以上、廿三年十二月。『あときき雜話』の表題のもとに連載した。)

ホンヤク

言葉は國の手形だというが、これの兩替えはむずかしいものである。ある外人が俳句のホンヤクをしたと見せてくれたことがあつた。

サヨウナラ!
もしもつまずかぬなら
雪の見えるところ
どこまでも私は行つてしまう。

『いざさらば雪見にころぶところまで』なのだが、原句とまるで別なのは是非もない。

『タイム』誌が七戰犯死刑囚最後の日のことを傳え、日本人の氣持には西歐人にわかりかねるものがあると書いている。多くの人は『ホットシタネ』といい合つたというのだが、この日本語の意味はと英文で書いてあるのをわれわれが直譯すると『すべてが終つてしまつたので喜ばしい』となるのである。いかにもその通りといいたいが、どこか違うことは確かである。

あの人たちが書き殘した辭世となると、どこまで外國人に理解できるか、歌とか句とかの形であるだけに、雪見のホンヤクと同じことになつてしまいやすい。東條の詩として紹介されている英譯をそのまま日本語に直譯すると、

さらばだ
山を越えて今日私は行く
佛陀の胸へまで
かくて私は仕合せなのだ。

『さらばなりうゐの奧山けふこえて彌陀の御許にゆくぞうれしき』と意味は寸分違わぬのだが、うける印象は決して同じではあるまい。これは單に英語と日本語との違いというだけではあるまい。西歐的なものと日本的なものと、ニュアンスの中での距離があるのだが、問題はその距離がどうしたら縮まるかである。

辭世の文句から推して板垣だけが悔悟の情を述べたたつた一人だつたと『タイム』誌は書いているのだが、彼の『大神のみたまの前にひれ伏してひたすら深き罪を乞ふなり』を次のように譯している。これも文字通りの直譯にすると

心から私はひざまずく
わが偉大なる神の前に
そして御許しを願う
すべての私の罪に對して

もちろん西歐人たちはこの直譯から私たちが受取るものとは違つた受取り方をするのだろう。だからといつて原歌の氣持がホンヤクを通じてその通りに受取られるとは信じにくい。この食違いはどうすればいいのか。どうもわれわれ日本人の方がこの際『變形』しなければならぬようである。

金・情事・政治

金權候補を排撃せよという聲には私も大賛成である。だがそれを果すためには、金が力だという世の中を革命しなければなるまい。掛聲だけでやれる排撃ではない。

『色道大鑑』昔はこの道にもルールがあつたとみえる。この書でみると男廿歳から卅歳までは、青春というものがあるので金を使わずとも女ができる。卅から四十となると腕がものをいう。四十から五十となると腕だけではだめで金を使わなければならない。五十歳から先はもう腕も金も何にもならぬ。何としても沒法子だとなつている。これでみると金權にも限界があるようだが、このルールも昔の話、今の世は廿や卅でも金が無ければたし、六十、七十になつても金があればである。

この點では西洋の方がはつきりしている。スタンダールは戀愛學の大家だつたのに、彼の若いころの手紙を見ると、月に六千フランの金もうけさえ出來れば、情事の方だつて詩の方だつて滿足に行くのにと嘆いている。現代日本で彼の文學がしきりに讀まれるのは多分、こんな心境が讀者のと相通じて共感したりするからかもしれない。

ヴォルテールの『サデイグ』の中に、女心を試みた王樣の話が出て來る。百人の美人を抱えていたのだが、どれが眞實おのれのことを愛しているのかわからない。そこで黄金をどつさり携えた醜いセムシの男卅三人、水際立つた美男の小姓卅三人、平凡だがしかし辯もたち才も勝れた坊さん卅三人合計九十九人をその百女の中へつかわすことにした。

するとまず、たちまち女たちに取り圍まれて幸福になつたのが、醜いセムシ男たちだつたというのである。その次にしばらくして美男の小姓たちが幸福になれた。最後が辯もたち才も勝れた坊さんたちということだつたのである。かくて九十九人が片づいてたつた一人の女が殘つた。その女こそというのだが、その結末などはどうでもよろしい。

人間本來の情事さえ金だというのなら、政治は金だというのもという氣がする。こうなると金權排撃ということは社會革命ではだめかもしれない。人間革命まで行かなければとなると、あゝなんと道の遠いことよ!

演説をタノシむ

ハズミというものは恐ろしい。ある代議士が演説し、調子づいたハズミに『板垣死すとも自由は死せず、自由は死すともわが黨は死せず』とやつてしまつたそうである。

ラジオで各候補者の政見發表というのを聽いているが、聽き手を前にしてのエンゼツではないから、このハズミというものがない。愛矯のないこつけいに終つてしまつているからちつとも樂めない。

選擧演説をタノシむなどといつたら不眞面目といわれそうだが、私の友人で道樂からそれをあちこち聽き廻つているのがある。遊びに來て面白い報告をしてくれた。

「當選の曉には必ず本心に立ち返り……」とやつたのがあるそうである、職業は土建となつているが例の何々組であろう。本心に立ち返られたら何をするかわかつたものじやないと友人は笑つたが、日本の國會も今度の選擧で本心に立ち返つてくれぬと困るのだからそれもいいよと私も笑った。

「諸君の御期待に副うべく目下苦戰中であります……」

その結果落選してお目にかけますとなるのだろうが、いかにも悲痛な聲をふり絞つて呶鳴つたので、聽衆はたれも笑わなかつたそうだ。そこへ行くと次の文句の候補者のときには、堂々とした風采でジェスチュア入りのエンゼツだつたから一部の者がクスクス笑つたそうだ。

「故にわが輩は敢て、わが黨のほかにわが黨なしと斷言するのである……」

クスクスという筈はない。當然ゲラゲラと來るべきなのにと怪みたくなるか、友人の説明によると、氣の利いた連中はほとんど一人もといつていい程、演説會へはやつて來ないそうである。例えばある候補者が次のようなことをいつた。しかし聽衆はしずかに、成程そうかという顏で聞いていたのだそうである。

「私は黨の公認候補であります。だから私のする約束だけが黨の公約であつて、他の諸君のとはワケが違うのであります……」

ハズミは恐ろしいなどと私はいつたが、こうなると決してハズミではあるまい。ハズミでなしにこんなことが平氣でいえる連中がもしも何かのハズミで當選したら?――あゝやつぱりハズミというものは恐るべしである。

計算讀書法

さすがに近ごろはカストリ雜誌、賣行きがよくないそうだ。編集者たちが澁い顏して、やつぱり確かに購買力が落ちたためですなといつた。だが果して左樣か。

ある青年が來て面白い報告をしてくれた。ある雜誌のある作家の小説を讀んで、その中の主人公が女を追い廻すのに使つた金、その總額を丹念に計算してみたのだそうである。

あるキャバレーへ行き女に目をつける。三日目に連れ出し、銀座でハンドバッグを買つてやり、新橋から汽車で熱海温泉へ行く。二泊して歸るというお定まりの筋だが、キャバレーの三日間が少く見積つても一萬圓、ハンドバッグが上物なので一萬圓、熱海の温泉支拂いが……と色々書出してみて合計したら、總計十萬圓よりも上へ行つてしまつた。寒燈の下にいて徒然なるままに、ふとこんな讀み方をしてしまつたら何ともいえぬ氣持になつてしまいました――というのである。

肉體の文學、肉體の解放などと作家はうたつてくれるのだが、十萬圓の金が無ければ女は口説けぬのかと思うと、讀者の方は解放どころではない。さてこの讀み方をし始めたら、現代作家の遊興小説はみんな、僕たちにとつては『おとぎばなし』だと氣がつきました。僕らの生活とはどれもこれも餘りに遠すぎるんですよ。あきれました――とこう次ぎにいつたのである。

私は笑つてうなずくより外はなかつた。この青年は決して文學好きだつたのではない。文學青年ではないからそんな讀み方もしたのである。この讀み方は決して理窟を述べたのではたい。ただ事實をつかまえただけなのである。だから當の作家といえどもこれを反駁したりはできないだろう。

ただ私はエミイル・フアゲが『讀書術』の中でいつていた言葉を思い出したので、それをあたかも自分の説のような顏で取りついでやつた。フアゲは愚作惡書というものもたまには讀むべきだというのである。なぜならそれは、人間を害うかもしれぬ危險な感情を淨化し、その後に惡影響を及ぼすことがないようにしてしまうところの、一種のカタルシスとなるからだというのである。私はいつた、『つまり君が考案したその計算讀書法のごときは立派にそのカタルシスだよ』と。

とにかく、かくてカストリ雜誌が一人の讀者を失つたのは事實である。

審査投票

キング・イングリッシュとプレジデント・イングリッシュとを比べたら、プレジデントの方がずつと簡便だが、その簡便をもつと簡便にしたいと考えたプレジデントがあつた。鼻眼鏡と虎狩りで有宅なセオドール・ルーズヴェルトである。

動詞の語尾變化をみんなtの字だけつければよいことにしようという説など、相當共鳴者もあつたのだそうだが、遂に實現しなかつた。言葉は生きもの、アメリカのような國でさえ簡便ということだけではどうにも動かせなかつたところに微妙なものがある。

それを政府の方針だけで決め、一片の布告で國民に押しつけてしまつたのが日本だから大したものだ。『新制假名づかい』とか『漢字制限』とか、まことに政府の權能は大したものである。ところがこれは、憲法學の權威故美濃部博士の説によると、明らかに憲法違反になるのだそうだ。そういわれるとわれわれ素人にもわかる氣がする。それでこそ憲法だという氣になれる。

國語をいじくること、これがもしもフランスだつたら大騷動だろう。何しろドイツ語は馬の言葉で、英語は犬の言葉で、わがフランス語だけが人間の言葉だと誇つている國民である。事がフランス語に關したらそれはフランスの傳統的道徳につながる問題だとして騷ぎ立てる。その事例なら數え切れぬほどあるだろう。

『ブウルボン宮殿をアカデミイの如くにした』と木下杢太郎がパリ通信の中に書いているのもその事件の一つだ。中學校の必修課目としてラテン語、ギリシャ語を残すべきか除くべきか、日本ならば平氣で文部省内の一局ぐらいで片附ける問題だが、これが國會の議題となり、甲論乙駁、廿日餘りにわたつてやつと納まつたのだそうだが、國會が、ためにアカデミイの如き觀を呈したということ、われわれとしてはただうらやましいと嘆息するだけである。

最高裁判官の經歴書というのが廻って來たが、これだけではどうにも頼りない。曖昧なものは判定の材料として取上げぬのが裁判の常識だと聞いていたが、これで投票しろというところをみると、裁判と審査とは違うのだろう。それにしても、もしも文藝家協會あたりで『新制假名づかい』の決定を憲法違反で告訴してくれていたらと思つた。

つまりその判決次第で、私は確信的×印をつけることが出來たろうからである。

法隆寺

ずつとの昔になるが、銀座裏に妙なレストランがあつた。主人というのは郵船のコックを永らく勤めていたとかで、世界中の何處でも知らぬ土地はないというのが自慢の男だつた。ある日のこと阿部眞之助さんと連立つて入ると、例の話になり、カイロとかナイルとかいう土地の名が出て來た。そこで阿部さんが、

「あの邊は面白いだろうね?」

するとその主人、けろりとした顏で、

「いや、あそこは、バビロン王朝が亡びてからこつち、ちつともオモロウなくなりました」

さすがの阿部さんも二の句がつげなかつたものである。

法隆寺金堂炎上のニュースをラジオで聞いた。折柄三、四の青年が遊びに來ていて一緒だつたのだが、佐伯老貫主が猛火の火の粉をかぶりながら大般若經を讀み上げていたというのを聞くと、そりや御無理でしようと咄嗟に一人がいつたので、一同どつと聲を上げて笑つた。天平王朝の名殘りが亡んでしまつたというのに、それは至極不謹愼のようだが、事實あのような場合には、大般若經よりも一本のホースの方が、ずつと有效だつたのだろうから許して戴きたい。

『花みればそのいはれとてなけれども心のうちぞ苦しかりける』というのは西行の和歌だが、ある年の法隆寺もうでにふとこれを思い出したことがあつた。形あるものは必ず滅するものだというのに、千何百年の風雨に耐えながらこの天平の花が散りもせずあるのをかえつて通常のようにながめて『心のうちぞ苦しかりける』と感じたのだつた。なまじ古代の文化など殘つていない方が人間にとつては氣樂かもしれぬ。あの王朝が滅んでしまつてからこつち奈良も面白くなくなりましたと澄ましていられたらなどと、途方もない感慨にふけつたことがある。

もしも私が貫主だつたら、大般若經の代りに手向けの鉦でも鳴らして、しずかに千二百年の大往生を見屆けてやつたろうに、とこういうばかげた空想が浮んで來たのも、そのときの『心のうちぞ』がいまだに影を殘していたからにちがいない。

だが私の前の青年たちは、今度の災難がいかに大きな損失かということから政治的な議論へと移つていつた。多分、ホース(法主)の代りに貫主を置いたのは何黨の責任かということを追求するつもりだつたのだろう。

座談會

UP記者のキャリシャー君が新聞に出る座談會記者を笑つている。精々四段か五段位にしかならん記事を、だらだら對話體にして面白くなつていると考えているのは『傳統』だろうというのだが、アメリカ人的感覺からはそうおもえるだろう。

△「それがそうではない」

×「いやそうなのだよ」

□「どつちにしても同じだ」

◎「そういえばそうだが、政治というものはだね、アハヽヽヽ」

實際バカらしい對話の筆記なのだが、そのバカらしさを通して各人の渡り合いをみる面白さがある。つまりは座談會というものも立廻りの一種かもしれない。

ところでこの座談會速記録だが、あの著作權というものはどこにあるのだろう。小説『宮本武藏』をめぐつての問題が起きているらしいが、序でにこれも考えてみたら面白い。しやべつているのはもちろん出席各位だが、席を設け御馳走をしてしやべらせたのはその社である。速記をしたのは速記者である。それをうまくアレンジして適當に讀物にまとめたのは編集記者の働きだとなるだろう。各人が權利を主張したらそれこそテンヤワンヤだろう。

人間の座談なんて元來が無責任なもので、つい卅分前に拾い讀みした他人の著作の内容を、卅年も考え拔いた擧句の結論みたいな顏をしてしやべつても、結構それで通つたりするのである。反對に、卅年の持論を述べ立ててもその場のひよつとした思いつき同樣、輕くあしらわれてしまうこともあるのだが、他人のを鵜呑みにしての發言の場合には、その他人もまた著作權者の一人になるかもしれない。

私などは無駄なおしやべり屋だから、随分取つときの話を一面識の客にぺらぺら話してしまつたりすることもある。それが雜誌上にそつくり他人名の文章で出ていたりするのでおやおやと思う場合も少くはない。だが考えてみると私の方でも他人の著作權を侵害している場合が多いようだ。大方の人間の知識などというものはすべて他人の知識からの讀みかじり聞きかじりの集積みたいなものだろう。

他人のものはわがものとおもえといつたら亂暴な沙汰になるが、座談會の速記の中にはかなり粗漏なのがあつて、喋り手の甲乙が入れ違つていたりすることなど珍らしくないのだが、やかましく言立ててそれを訂正させる氣にもならぬところを見ると――いやこうなるとキャリシャー君は、それも『傳統』かと笑うだろう。

國會議員

つい最近の話、新國會議員になつた男が、奈良の宿屋へ泊つたのだそうだ。洋服を脱いで、風呂に入つて、丹前にくつろいで、早目の夕飯も濟ましてから玄關へ下りて、女中に、

「君、法隆寺はどっちの方角だい?」

「この邊に當ります」

と女中は指さして答えた。

新議員はその方角へ歩き出したのだが、町の方へ出てしまつたので見當がつかなくなつた。そこで通行の人をつかまえて、

「君、法隆寺へ行くのはどつちですか?」

するとその人は向うを指して、

「あそこが驛ですよ」

新議員はいささか腹を立てていつた。

「私は驛を尋ねているんじやない。法隆寺はと尋いているんだ」

法隆寺は奈良にあるといつても奈良縣のことで奈良市ではないこと、だから何里か向うであること、はじめて知つたその新議員は流石に恥かしくなつたと見え、そのまま別な旅館へ飛込んでそこの客となり、そこから電話をかけて荷物を持つて來させ、つまり宿替えをしてしまつたのだそうである。おもうに猿澤の池の邊りにでもあるのかと思い、ぶらりと散歩がてらに見まわつて置いて、後日國會で國寶文化に關する質問でもするときの用意にして置くつもりだつたのだろう。實話だそうである。法隆寺を見舞つて來た人が歸途立寄つてお土産に話してくれた。選擧區が何處で何黨かということまで聞いたのだが、これは忘れたことにしよう。

これで思い出すのはずつと前に聞いた話、滿洲ハルビンでのことである。ある年國會議員の一行が視察旅行でやつて來たのだそうだ。町の横を流れる松花江の中に太陽島というのがある。そこに氣の利いたレストランがあつたので、そこへ案内して御晝食となつた。一行はその島の河岸に立つて向う岸をながめる。そつちにも家があるので人か歩いていたり、犬がほえたりしている。感に堪えた形でしばらくそれをながめていた一人が、

「なるほど、赤色ロシヤはあれか!」

するとその傍の一人がうなずいて、

「こうまで近いとは知らなかつた!」

つづいて別な一人が、

「實に危險だ!」

しかし私はこの話を聞いたとき、つまりそれほどハルビンという町がロシヤ的なので、だからその錯覺も無理ではないとその議員諸君に同情したつもりだつた。が、奈良市法隆寺の話のときにはそんな寛大な氣持にはなれなかつた。宿替えしただけまだ殊勝だとでもいつて置く外はなかつたのである。

税金と文化

奈良の町に『日吉館』という宿屋がある。古美術研究者だつたらだれでも知つている。研究者などというのは大概金持ではない。金持ではないこの連中が泊つてゆつくり研究のための滯在ができるのがこの日吉館である。

私は何も宿屋の廣告をしているのではない。今時に珍らしい美談の紹介がしたいのである。學生たちがやつて來て米だけは背負つて來たから安く泊めてくれといつたところ五十圓でよろしい、その代り外のお客より一時間早起きをして、できるだけ澤山見て廻りなさいと答えたそうだ。宿屋だから無論商賣ではある。だが奈良美術のためにというのでなければこんな儲からぬ返事は出來ぬだろう。

豪勢なホテルに泊つて東大寺境内を自動車で廻るような高級鑑賞家御連中にとつては、日吉館などどうでもいいだろうが、日吉館の方にとつてもそんな連中は必要ない。あるときホテル泊りの客、この人は現參議院文化委員で時めいている有名な人だが、日吉館泊りの客を訪ねて來てその歸り際、ホテルまで自動車を呼んでくれといつかそうだ。すると主人は落着いて、自動車屋はホテルよりも遠い所にござんすでなと答えたそうだ。有名人はいら立つて、僕は歩くのがきらいなんだ! すると主人はいよいよ落着いて、それはまあ御自由なことで!

國寶保護はもちろん大切、ぜひやつてもらわねばならぬが、その國寶を慕つてそこに集る巡禮者のわらじの脱ぎ場所も大切にしてもらいたい。同じ有名人でも決して金持ではない會津八一先生とか廣津和郎先生とかは、日吉館があるからこそしばしば奈良へ行けるのだといつている。名こそ擧げぬが今日立派にその道の學者となつている人で、かつてはこの目吉館に居候みたいにして巣食つていたのもある。一泊五十圓で泊めてもらつた學生たちの中からもやがてはその後繼者が出るかもしれない。

あそこは奈良美術大學の學生寮だといつた人があつたが、これは適評の名言だろう。ところがである。この學生寮へ他の旅館並みの高額税金が課せられたのだそうである。到底今後立行きそうもないと主人が嘆いているという話を聞かされたのだが、自動軍乘廻しの客を相手にせぬ日吉館が、それを相手にする他の旅館と區別なしに扱われたら、なるほど日吉館は日吉館でなくならぬ限りやつて行けるはずはない。

この税金のためにもしも日吉館が無くなつたらという問題、これは一宿屋のことではない。文化に及ぼす税金の影響の一例として、切に當局に考えてもらいたいのである。共産黨の反税運動などに乘つて言つているのではない。

衆望

ワン・マン・パーティーとは何かと人にきかれた。仕方ないからオットセイの話をした。長い冬が終つて海の氷が割れる。その割け目を泳いでやつて來たオットセイたちは、島に上陸するなり、わが世の春とばかりワン・マン・パーティーをつくる。

三百近い群の中に、老大獸というのが一匹いて、それが傲然とうずくまる。側近はすべて從順なる牝どもで、老大獸に不服な若小獸は遠くの方に追いやられている。

つまりこれはオットセイのハレムなのだが、いささかでも老大獸に隙があると、遠くの方でうかがつていた若小獸がたちまち彼に代ろうとして、爭鬪の結果、追い出されたり、分裂したり、あるいは乘つ取られたりするのだそうである。

とここまでいつたら、そつくり政黨みたいですなと相手が愉快そうに笑つた。がデモクラシーの近代にオットセイ的生活があるべきではない。もしあるとしたらそれは何々組とかいうあれで、何々黨というようなものではない筈だと、私は強くたしなめた。

オットセイのハレムは今の世でもあるが、人間のハレムがあつたのは古代のアラビヤである。だが人間はハレムを持つてもなかなかオットセイのように傲然とはやれなかつたらしい。大聖マホメットはその細君たちからストライキをされたことがある。

ある日のこと彼は、ふとした出來心で、登録外の女の腕の中で居眠つてしまつたというのだ。いかにハレムだからといつても守るべき限界がある。これはハレムにあつてもやはり許されぬ浮氣だつたのだそうだ。一人の細君に發見されるや否や、たちまち問題になつた。ハレムの女たちよ結束せよ、この結果がストライキだつたわけである。

が、さすがにそこはマホメット、逆手に出て彼女たちに一切閉め出しを食わせることにした。すなわち、神に裁きを願うとばかり、女人禁制の寺院の奧深く入り込んで、向う一ヵ月間は出て來んぞと宣告したのである。ああ一ヵ月とはまた長い……彼女たちはすつかり悄然としてしまつた。

彼がハレムの王であつた面目はここにあるといわれているのである。卅人分の男性であつた彼は、だから日に卅人の女性を御し得たというのだが、その彼にして一人よく卅日間を過し得たのは人格ではないか。讃むべきかな、とために衆望いよいよ篤かつた――と昔讀んだ駄本にあつた。

火の用心

初代新國劇の澤田正二郎、赤坂の演伎座で『本能寺』の芝居を演じた。信長に扮して毎日、「火よ、煙よ、このわしを受取つてくれ」というセリフを呶鳴つていた。大車輪の熱氣に神も感動したのか、その興行の間に火を發して、折角震災後復興した劇場はそつくり祝融氏に取られてしまつた。調査の結果原因は漏電ということに決まつたのだが。

出した火が自分の家を燒いただけなら、不幸中の幸ともいえる。がいつもそうとばかり行くものではない。時と場合ではいつ能代市みたいになるかも知れぬ。「一筆申す、火の用心」と留守宅への手紙の冒頭に書いた氣持どなた樣にもおわかりだろう。

淺草の町家でいつも店の大戸を半開きにして營業していたのがあつた。間口何間かの味噌醤油酒の店だつたのだが、先代のときに自火を出してその界隈に迷惑をかけた。お詫びの印に店を閉じ、息子に讓つてから半開きにさせ、その謹愼一代が終つて孫の代になつたらはじめて晴れて元の通り開けさせて戴く、つまり私の見たのは息子の代だつたのである。他人迷惑とはどんなものかを、これほどに昔の人は知つていた。

明和九年、どうも語呂がよくない。今年は何か迷惑が來るぞと江戸の市民たちは心配しながら、しやれをいつた。ところがひようたんから駒が出て、どえらい迷惑になってしまつた。江戸市中全滅の大火である。

目黒の行人坂の大圓寺へ、長五郎坊主眞秀という惡黨が火を放けたのだが、大圓寺にだけ恨みがあつたにもかかわらず燃え上つた火の手は折柄の風にあおられて、幅一里の長さ六里、遠くは千住骨ヶ原まで、足掛け二タ月にわたり燃え續けたというのだからすさまじい。もつともこの足掛け二タ月というのは、出火が二月廿九日午の上刻で、鎭火が翌けて三月一目未の中刻だつたということである。燒死の數は奉行所へ屆け出たのだけでも四百何十何人。

なるほどこれは明和九だつたとあつて、早速に元號を改めて安永元年となつた。聞けば能代市も以前は野代と書いたのを元祿のころの大火で燒野原になつたため改字したのだそうだが、そんなことで御利益が受けられるものならありがたいことである。そのころの落首に、

年號は安く永しと變れども諸色高ぢきいまに明和九

――餘計なことだがそのころもインフレだつたとみえる。

自然發生

ここに一通の古文書がある。『申上候事』という書出しだが、宛て名は『當所御奉行御役人樣』で、差出人は『おいぬばゞより第三番目百姓彌太郎』としてある。内容はお讀みになればわかる。

「正月二日集會の節萬屋彌市どの役金はいくら出すものやら一向に知らざるよしに候……」

とあるからそのころも人が寄ればまず税金の話だとみえる。

「私は享和元酉より文化十年酉まで金一歩づつ御上納同樣上納仕候、御帳面は改め可被下候その内享和元より文化十まで十三年のうちは江戸住または岡右衞門どのの家の小すみ借りて住うちもたしか金一歩づつ上納仕候……」

まことに以て範とすべき完納者である。この人が次のようにいうのだから傾聽してもらわなければならない。

「彌市などは祭棧敷になぐさみの錢ちらしながら上納同樣役錢出さず、棧敷かける力なき私が缺かさず役料とらるること闇夜の草原歩くやうにわかりかね候。……」

この言い分は何も共産黨から教えられたわけではない。正當な不平は自然發生のものである。

「あはれ青天白日なる明鏡の御心に御尊察可被下候。おのれ中風この方歩行心のままならず、出入のたびに駕賃に追まくられて困窮の上生れるの死ぬの又生れるの死ぬのと大に困り候。なよ竹の直ぐなる御さばきにて役金ちとの間休ませ可被下候はば……」

それでは公儀の方が歳入減で困るだろうからと、そこの所はちやんと察し次のようにいうのも自然發生である。

「その代り今まで長々よい子の顏して休みたる彌市より御取立可被下候はば生々世々ありがたく奉存候。參上候て申べく所、今日御他駕のよし、夜は中風の名殘り、老足よろよろと川に落ちんことのおそろしく、如此候御憐み給へ」

以上が全文である。日附は文政四年十二月廿九日とある。その時代に敢えてものいう一筆の氣骨この百姓彌太郎がただの百姓でないことはお察しの通りである。彼の句に、

大牡丹貧乏村と侮るな

大牝丹に彼の胸中に咲いていたのだろう、この花果して白かつたか赤かつたか。赤ならば共産黨の先輩だつたかもしれぬ。武林無想庵翁入黨すと聞いておのずから彼のことを思い出した。すなわち俳人一茶のことである。

寫し時代

子供をつくるのは男である。生んで育てるのは女である。女には創造力がない。だが守成の才能はもつているといわれる、が同格論者はこの説に反對するだろう。

茶の湯とか活花とかは女の藝になつている。が始めたのは男だつた。それが一應出來上つてこれからはただ傳統に從つて法を守つて行けばよいとなつたとき、女人が入り込んで來た。だからそれ以來その發展はなくなつてしまつたともいわれる。

ある年京都の龍安寺へ石庭を見にいつたらやはり東京からという家族づれの客が來ていた。一緒にお茶を出されたので口を利きあつたのだが、その中の奧さんが得意そうに、わたくしどもではこの庭をそつくり寫してこしらえましたといつた。非常によく出來ているから一度見に來てもらいたいというわけだつたのだが、もちろん私はいつたことはない。戰災前のことだから大方燒けて跡形もなくなつているだろう。

がこんな馬鹿々々しさは女だからとばかりはいえない。相當茶人ぶつている男たちが、好みだの寫しだのといつて珍重する。利休好み、遠州好み、よろこんで亞流になつているのである。向月亭寫し、不審庵寫し、獨自の茶室は夢にも考えずにイミテーションに夢中になつているのである。

ある人が福運を得て立派な新居を設けた。ふさわしい庭を作りたいが、どこのを寫したらいいだろうかといつた。言下に私は京都の西芳寺と答えた。有名な苔寺の庭である。あれを寫すにはまず苔をはやさなくてはなるまい。苔をはやすにはそれだけの年代が必要である。さすがに相手は苦い顏をした。

佗びとか寂びとかいうもの、一朝一夕では出て來るものではない。金にあかして佗び寂びの道具をかき集めるのだが、精神の方は所詮寫しである。今の茶人ほど俗物なるはない。龍安寺寫しを得意がつた奧さんの方がまだ無邪氣だろう。

だが茶人ばかりも罵しれない。ハリウッド好み、例えばヘップパーン寫しの化粧などというのがある。というとまた女の惡口になるが、サルトル寫しの文學などというのはどうだろう。いや文學となると外國ばかりが宗家ではない。志賀寫しなど一時の流行だつたが、近ごろでは舟橋寫し、丹羽寫し、創作と銘打ちながらこうである。別な方ではマルクス寫し、レーニン寫し、いやはや……。

ときに『非日活動委員會』というもの、これもどうやら寫しの一つのようである。いよいよもつて女にはなどと言えたことではなさそうだ。

英語

人間は七歳になれば完全に話せるものだ。だが讀み書きは學校へ行かなければおぼえられない。話す英語より讀み書きの英語をという一昨日(十八日附)の社説、私は賛成である。

大學生が三人遊びに來た。さすがに大學生だから、北大西洋條約、ソ連政府部内の大異動、それからそれと國際的視野で論じ立てていた。ところで私はおもいついたまま、紙と鉛筆とを三人の前へ出したものである。話はわかつた。さあそこでこれへ次の人名を、片假名でなく書いて見せてくれ給え。ロイヤル。アイケルバーガー。ヴィシンスキー。

この成績のほどは大學生の名譽のために發表したくない。強いて知りたいお方は、お近くの大學生を相手に試みてみなさるがいい。多分ロイヤルの最後のLをタブらせた答案は十に一つ位しか出て來ぬだろう。

こんなことはもちろん語學ではない。が、語學に關連する。大學生たちはこれらの名前をいつも片假名でだけ讀んでいるのだということだ。つまり英字新聞も英文雜語も、英語を學んでいる筈の大學生たちにとつては存在していないということ。どうも奇妙な話である。

英文壇現役のサマセット・モームは今年第七十五囘の誕生日の席で、今までに自分の最もうれしかつたことは、太平洋作戰に從軍のGIから、貴下の作品を通讀したが一度も辭書の厄介にならずに濟んだ、という手紙を受取つたことだといつたそうである。というと早速、だから話せさえすれば讀めるわけだといわれるかもしれぬが、そうはいかない。そのGIは讀み書きを知つていたからである。

あるとき私は汽車中で、向いの席にいた進駐軍將校から、片言の日本語で『竹に木の目がどうしてハコですか』と聞かれた、何のことやら見當もつかなかつたが、やがてそれは漢字のことだとわかつた。竹冠りに木偏で作りが目ならなるほど『箱』である。折角箱根行きの途中だつたのだが、どうしてハコなのかは私にもわからない。でそう答えると彼は肩をすぼめながら愉快そうに笑つて『オオ日本人でもネ!』

とにかく私は、話すことが片言でいながら讀み書きを習つていることで驚かされた。が考えてみれば私たちの學習もその方式だつたのである。でこちらも片言の英語でそれをいうと、彼は熱心にうなずいてこう答えた。知識を求めるためには口よりも耳よりも目が一等大切なはずだと。おそらく彼等の中でも彼は變つた篤志家だつたのだろう。しかし私が何よりも傳えたいのは彼の次の言葉である。

「英語をよく語す日本人よりも、話せぬ日本人の方が賢明である場合が多い」

外國人と滑らかに會語することはもとより結構である。だが軽蔑されぬ方がもつと結構であろう。

人間と動物

電車の中、『動物愛護デー』のポスターの下で、近ごろめつきりと鼠が殖えて困つていると話していた人があつた。鼠は動物の中に入らぬとみえる。

ある日のこと孔子が琴を彈いていた。彼はその名手だつたのだが、そのときの音色がひどく變つていたので、弟子の閔子と曾子が室へ入つていつて譯を尋ねると、猫が鼠をねらつていたのでうまく捕らせようとおもつたからだよ、と孔子が答えたそうだ。聖人でも動物愛護には不公平があつたらしい。

「動物虐待防止會の宴會がありましてね」とあるレストランのコックか笑つたことがある。「メニュウがやつぱりチキンの煮たのやビーフの燒いたんでしたよ。可笑しなこつてさァ――」

もつとも「取つて食つてしまいたいほど可愛い――」ということもある。

「R・S・P・C・Aの御連中ですつて? すると何ですかい、あんた方はビーフステーキは食わねえとでもおつしやるんですかい、そんなら話はわかる!」

カウボーイの一人がこうタンカを切つたことがある。大英博覽會のときのこと、興行王といわれたコクランが大西洋を越えて本場カウボーイの一團を招き、豪快なロデオをロンドン人士の前に公開した。ところがその演り方があまりにも動物虐待だというので問題になつた。R・S・P・C・Aというのはその防止會の略稱である。カウボーイの藝は藝のための藝當ではなく、元來は牧畜のための手練なのだから、その手練が非人道的だというのなら、當然ビーフステーキを食うことも、いやミルクを飮むことだつて牧畜に關するかぎり非人道的といえるかもしれない、というので、たちまちロンドン中の騷ぎとなつた。その結果議會での問題ともなり、最後は法廷の事件とまでなつたのだが判決は無罪だつたそうである。法律は人間のために存在するのであつて動物にまでは及ぼさないという解釋だつたのだろう。

重い荷車をひいてあえぎながら急坂を上つて行く牛馬を、無闇にひつぱたく人間はなるほど殘酷らしい。しかしそれを責める人が平氣で競馬をながめているのはどうしたものか。ゴール寸前の追い込みなどは隨分すさまじいものだが、あれについていう人はいない。勝利の榮冠を目前に見なから、愛馬をいたわつて棄權した城戸中佐の佳話が表彰されたそうだが、もしも騎手がそんな眞似をしたら最後、ペテンだ、インチキだで馬券連中の大騷ぎになるのはきまつている。

觀護所に放火して少年たちが脱走した。人間だからそれだけの智惠があつたので、そこへ行くと動物どもは、と情愛の深い人々は動物園へ行つても泣かれることだろう。

誕生日

――私は貧しい。しかし人のもつているものを、一つだけ私ももつている。それは誕生日だ――という意味の詩。が西洋にあつた。

今日は『三月廿七日』だと括弧をつけてみたところで、だからどうしたと聞き返されるだけだろう。實は私の誕生日なのだ、といつてみたところで、ふんそうかいと輕く返事されるだけにきまつている。私みたいな人間が生れようと生れまいと、世界の歴史に關わりはないのだから當然である。貧しいものは誕生日だつてやはり貧しい。

スターリンとなれば、今や世界歴史の眼目の一つだろう。だがソ連には天長節がないようである。この前の誕生日のときも、平日通りのクレムリン宮であり、新聞も人民もそれにならつて、平日通りだつたとあつた。多分誰彼の産聲の日も區別なく一括して共同に人民の誕生日を祝う方が正しいというのであろう。なるほど共産主義とあるからにはその方が理に適つている。

がほかの國ではそうではない。お祝いの菓子をつくり、その上に年の數だけのローソクを立て、その灯を主人公が一氣に吹き消したところで一言、お祝いに答える挨拶を述べる。

『わしの眼の黒いうちに必ず、フィラデルフィヤ・チームに覇權をとらせてみせる』と米國野球界の大長老コニイ・マックは最近の誕北日のとき挨拶をしたそうだ。そのときの菓子は五十ポンドという大きさだつたとある。日本流にいえば來年は米壽に當る彼だ。その上に八十何本のローソクが灯つていたら一寸した壯觀だつたろうと思うが、そうなるといかにマックでも一氣には吹き消せまい。そこで人生五十を過きた場合は大概まとめて一本の灯にしてしまうようである。

祝い祝われるのは人間ばかりではない。先ごろハリウッドでは、デズニイが父親役で愉快な宴會が開かれたそうだ。一九二八年に生れたのだから今年は芳紀まさに二ならびというところ、ミッキイ・マウスの誕生日である。どんな工合にローソクを吹き消したか、どんな挨拶を述べたかは知らない。

この日友人知己は何かと祝つて贈り物をしてくれる。いま私は私の誕生日に當つて『外國の習慣であれ、それがいい事だつたら遠慮なく眞似るべしだ』ということを私の挨拶としたい。現代作曲界の巨匠ジャン・シベリゥスは第八十三囘の誕生日を、去年故國フィンランドで迎えたが、今問題の北人西洋を距てたアメリカの知己友人から八十三箱の葉卷を贈られたとのことである。葉巻はわしの主食じやというのが老人の口ぐせだそうだからどんなに喜ばれたことかと思う。さらにその添え状にいわく『今後生涯あなたに葉巻の苦勞はさせぬつもり』

斷つて置くが私の主食は葉卷ではない。