漢學宜く正則一科を設け少年秀才を選み清國に留學せしむべき論説

予今此題目を掲げんに、聞く者將に曰んとす、我邦漢學已に專門家ありて教習の法則歳久く世に行はれたれば、今改めて此議を主張するに及ばず、且漢學の用は既に盡たり、更に之を研究するは無用の事なりと。是大に然らず、今の漢學者は、悉く皆普通變則の成り上りしものにて、決して之を正則を踐みし專門家と謂ふ可からず。正則の專門家なき故に、教習上に種々の弊習ありて、有用却て無用の物となれり。而して漢學の實用は、我邦に於て終に盡期なく、是より後尤も着切の用具となる事必然たり。故に予の此題目を設くるは、即其闕を補ひ其弊を救ふの所爲にして、其理由事實は、逐條に辯明し、以て予説の當否得失を四方諸彦に質正せんとす。

此論説を演んとすれば、先其起頭より尋常討論するを要すべし。抑漢學の我邦に傳はる史乘に著はれしは、應神の朝阿直岐・王仁が百濟より傳へしを始とすれば、今を距る千五百餘年なれども、更に之を臆測すれば、其已前四五百年前崇神・垂仁の頃、三韓人歸化の時に、漢文字は已に渡來せしかと思はる。其人來れば、其文字言語自から副隨するものにて、當時漢學とて立派に世に唱へし程の跡はなくとも、いつとなく世人の耳目に觸れしと見ゆ。さればこそ、仁徳天皇稚郎子太子の入學僅々の年數にて、其成業の速なりしは、したじきありての事なるべし。例へば、蘭書蘭語の我國に入りしは、三百年の前にあれども、其學を傳へしは、シーボルトを始とすれば、後來史書に著さんには、蘭學はシーボルト之を傳ふと云はん。阿直岐・王仁の漢書に於るも之と同じ。偖漢文字の傳來せしは、崇神・垂仁の頃と見るときは殆ど二千年〈開國以後大に天業を經綸し玉ひしは、此崇神天皇にして御肇國の稱號もいます程の事なり。〉即漢文字は我國體と共に開けしと云も、誣説妄言には非るべし。

漢文字の傳はる二千年の久きを經て、教化政法より記注交移の細に至るまで、悉く之に資して用を濟すと雖ども、其學たる、所謂通常變則にして、未だ正則を修むるの專門家あらず。中間頗る正則に從事せし事ありしと見ゆれど、其法久からずして廢し、遂に今日の姿となり、以て學事不振の弊を致せり。是亦其源頭に溯りて論起せざる可らず。

今の漢學は、皆通常變則にして、碩學鴻儒と雖ども、目するに專門正則を以てす可らざるものは、始より漢音を解せず、彼の讀法に從ふ能はざるに源せり。即教習の法宜を失ふの致す所にして、其由來亦甚久し。蓋我邦漢書の讀法、世人多くは吉備眞備より始まると思へども、其實は阿直岐・王仁より起りし事は疑を容れざる所なり。而して阿・王は即ち其國の讀法を以て、我邦に移し用ひしものと思はる。今朝鮮國漢書を讀むに二法あり。一は音讀、一は國譯を帶て讀む。其國譯を帶ぶるもの、即我讀法と粗相似たり。王仁の如きは、能く我國語に通ぜしは、難波の詠歌にても明瞭なれば、〈王仁の詠歌を能くするを以て、我國語も亦三韓に入りしを證すべし。彼れ此に來らざる以前、既に國語に通ぜり。然らずんば驟かに能く之を成し得んや。〉彼國譯を以て我國言と相照し、譯を付して漢文を授けし事、今の英學者が、變則法を以て英文を兒童に授くると一般なるべし。爾後轉輾傳授し、訓點愈密になり、おこと點等の名稱あり。終に髭を添へ尾を加へ、今日の讀法となりたれども、其源始を推せば、即三韓讀法の轉化せしものにて、其音讀法は獨り佛典に殘れり。

王仁より後凡三百年を經て、遣隋唐使の擧あり。此時に當り、三韓兵革相尋ぎ、文學日に退歩し、而して我文學は日月に長進し、厩戸皇子の如き、秀才積學夐に三韓學者の上に超過せり。是に於て朝廷更に道を海外に求め、俊才偉能を選みて大使副使以下に充て、之に附するに留學生を以てし、制度文物凡百事業皆師法を彼に取れり。是より後更に三百年、延喜・天暦の頃迄を、我國中古文明の極度に達せし時とす。今將に清國留學の事を述んとす。先遣唐使及其留學生の顛末を講求し、以て此論説の參考に供せんとす。

推古天皇の十五年、始て小野妹子を遣て隋國に聘せしむ。此時は通事鞍作福利付添たるのみなりしが、其明年に妹子歸朝、是年再差遣せらるゝときは、學生四人、學僧三人付屬せり。孰れも留學年久くして〈年數は下文に云ふべし〉、學生にては高向黒麿、學僧にては南淵請安など、後に皆有名の學者となりたり。黒麿は孝徳の朝、遣唐押使となり、請安は天智天皇の藤原鎌足と蘇我氏を謀り玉ひしとき、周孔の道を南淵先生に問ふとあるは、即此人なりと云ふ。爾後遣唐使の往來毎に留學僧俗交代する事となり、陸續絶えず。猶今日學生を歐米に遣るが如し。是に於て名卿碩儒高僧智識及醫陰諸道の達材、皆是より輩出せり。就中阿倍仲麿・吉備眞備・藤原清河の如きは、其名譽彼土に顯著し、其高等の優遇を受くるに至れり。僧徒にては最澄・空海等、凡一宗一派の開祖と備がれしものは、概ね留學の人より出たり。

當時留學の期限大抵十五年以上を常とす。其最長きは高向黒麿・南淵請安並に三十三年、吉備眞備十八年。清河・仲麿終に彼土に歿し、橘逸勢二十年を期せしかど、資給乏しきを以て、六年にして歸朝せり。最澄・空海は何れも三年なり。この少年數にて成業せしは、前後比類なしとす。亦二人才氣の敏捷を證すぺし。斯く積年留學せしを以て推せば、其讀書たる、彼の音韻に達し、彼の讀法たりし事、復疑を容ざる所なり。眞備の歸るや、學課を定て五經・三史・明法・算術・音韻・籀篆の六道と〈後改て紀傳・明經・明法・算道の四道とす〉なし、留學卒業生、若くは唐人の歸化せし者を選んで教官に補すとあれば、此時の教授法は音讀も雜りしかと思はるれど、いつとなく其法は消滅して、變則國讀の一偏に陷り、遣唐使廢絶の後に至ては、竟に挽囘す可らざる事となりしは、遺憾と云はざる可んや。

宇多天皇の寛平六七年、唐室衰亂し、學生留止するを得ず。菅原道眞等議して遣唐使を罷めしかば、留學の事も遂に廢止せり。是より國内の學制次第に衰頽し、降て戰國の世となりては、文學一に僧徒の私業に歸す。然れども奝然・榮西の徒能く奮然航海し、各得る所ありて還る。文祿征韓の後、藤原惺窩明國に趣き道を學ばんと欲し、筑紫より開洋せしに、風に遭て鬼界島に漂着し、其志を果さゞりき。是時前將軍家康、遣明使を發せんとし、足利氏勘合船の例を援き、其老臣本多正信に命じて、書を明國に贈りしかど、明國應ぜず、勘合船の事行はれば、惺窩を以て之に任ぜしめんとの問答、惺窩文集に見へたり。家康をして其志の如くならしめば、遣唐留學の復古期望す可かりしに、不幸にして耶蘇禁止の事起り、將軍家光の時に及で、海禁益嚴なるに因り、海外の事は遂に望を絶つに至りしは、豈亦遺憾の極と云はざる可んや。

徳川氏文事を奬勵すと雖ども、未だ學制を定るに及ばず。故に教習の法、一に浮圖氏の遺則を襲ふ。物茂卿之を慨し、讀法を一變し、誦するに漢音を以てし、譯するに俚語を以てし、絶て和訓廻環の讀を爲さゞらんと欲す。實に古今の卓識にして、阿・王以來の陋習を看破せしものと謂ふべし。然れども、一人の言、天下の弊を救ふ能はず。僅に同志と譯社を結び、崎陽の人を延き、以て自から善くするを求めしのみなりき。茂卿の持論は、其譯社記及譯文筌蹄凡例其他文中に散見せり。就て見るべし。

音讀の便と譯讀の不便とは、物茂卿詳晰に之を辯じをきたれば、今復贅言するには及ばざれど、試に其一二を擧んに、例へば、即身成佛如是我聞を廻環譯讀にせば、即ち身佛と成る、是の如く我れ聞くと讀むべし。即身を即ち身と譯するも的切ならず。されど身に即くとも譯されず。是の如く我れ聞くは的譯なれど、之を文字に寫すとき、是は此か、如は若か、我は吾か、聞は聽かの差別わからず。且言句の數倍加して、讀誦の間診計の隙を費す。之を音讀すれば、徐半急の調子もありて、急にすればいか程も急になり、徐にすれば音節ありて怠倦をふせぐの便ともなれり。又十行並下すなど、音讀たらねば叶はぬ事にて、漢人讀書の多きは、モツぱら之に由るなり。偖又平日譯讀に慣るれば、文を作るに當り、文勢語脈の同からざるよりして、毫を援き思を攄るに及んで、措辭甚艱く、遲緩時を移すのみならず、稱して能文者と曰と雖ども、顛倒錯置あるを免れず。是皆變則の弊にして、予の正則一科を設けんと欲するものは此が爲めなり。

凡學藝は、言語文字を學ぶを首とす。一國の學を專修する者にして、其國の言語文字に通ぜざるの理あらんや。我邦の漢學者は、其理義を講ずるを主として、文字言語を次にし、言語は全く講習せざるに至る。故に論説常に高尚に失して實用に乏し。實用とは何ぞや、意を達し事を辨ずる是なり。今其文字十分に意思を攄ぶる能はず、且遲緩にして事に應ぜず、漢人と對晤するに一語を交ヘ一事を處する能はず、抗顏に漢學者と稱する者、此の如くにして可ならんや。縱令ひ經義に通達し、文章に工巧なるも、所謂脚下の暗き學問なり。況や其經義文意も、正則より入らざれば、其堂奧に詣る能はず。予の正則一科を設けんと欲するものは此が爲めなり。

方今外交大に開け、就中清國は切近の地に位し、同文同俗の國柄なれば、公事の往復より貨物の懋遷等に至るまで、日増に繁多に赴くは必然の事なり。設令ひ從前我に漢學なき事歐學なきが如くならしめば、必ず急に幾員の留學生を派遣し、其文學事情に通曉せしめざるを得ず。然るに今僅に變則鹵莽の漢學あるを以て、恃みて自ら足れりと爲し、而して其恃む所のものは、却て目前の用をなさず。是に於て長崎譯言を用ひ、通辯に從事せしむと雖ども、譯言の習肄は尋常通辯に止り、變に應じ事に處して、彼此の情を通ずる能はず。故に予の期望する所は、今の漢學者と譯言とを合併して一人となすに在り。之を合せて後ち、始て專門漢學者と稱すべきなり。

言語の及ばざる所は文字之を通じ、文字の至らざる所は言語之を達す。二者常に相資けて用をなす。今我と支那と隣國相接すれば、軍國の重事往歳臺灣役の如きもの、後來必ず無きを保せざるべし。其曲直を爭ひ、和戰を決する等の時に當り、幸に同文同俗の國たるを以て、古を援き今を證し、或は經典を引據となし、縱横論辯し、言文並用ひてこそ、漢學の實効を奏すべし。是豈今の漢學者の能する所ならんや。又豈長崎譯言の能する所ならんや。若し正則に從事し、經史の法より、今日の俗語まで通達諳熟せば、施す所にして不可なからん。阿倍仲麿の如き、彼國に留りて言を内外に歴たり。言文不通にして能く其任に在るを得んや。此を以ても、中朝の漢學は正則なりし事を推知すべし。〈當時學者の讀法正則なりしは、其所作の文章顛倒なきにても明瞭なり。〉中朝以降、東西隔絶になり行きしは時勢の然らしむる所にして、學制の變則に止りしも、是亦已むを得ざるものなり。故に代々の碩學鴻儒は、必ず汲々として彼と相通ぜん事を希望し、或は之と筆語し、或は其一句一言を得て希代の奇遇と誇るに至れり。是皆其變則に止るの不足を知り、一たび就正して進益を求めんと欲するの意に出るに非ずや。然るに今彼此交通咫尺親近し、公には國使の更迭代替するあり、私には士民の往來貿市するあり。是時に當り、學問に限り却て舊時の變則を固守し、彼此不通に安んじ、揚々として自負の色あるは、惑の甚しと謂ふべし。且近代の漢學者其專修する所詩文にあり。詩は律絶、文は序記小品に止り、烟雲を嘲弄し、風月に流連するのみにて、曾て識見を長じ、徳性を養ふの資となすに足らず。〈詩文流弊の顛末は、予別に所論あり。當に後會を俟て陳述すべし。〉然れば所謂變則も、亦極弊の度に達すと云ふべし。今にして救正せざれば、漢學一派竟に無用の長物となり、我の漢學に資して用をなさんと欲するもの、亦廢絶に歸するに至らん。是れ予の學生を清國に發遣して、學業を肄習せしむるを以て、學政の急務となす所以なり。

年齡十三四、資性敏捷にして、普通漢學を卒業せし者、毎歳十名以上を選み、留學の期を定めて十年以上となし、〈中朝留學生の期十五年より短きはなし。聞く近年清國の生徒を米國に差遣するも亦十五年を期とす。蓋期迫れば大業を成す能はず。故に務て其期を優にすべし。〉發遣及び留學中の處分は、歐米留學生の例規に照準し、執る所の業は彼土文學の士に就て之を習はしめ、或は駐清公使館内に一舍を設け、教師を延聘する等、すべて適宜の方法に任せて可なり。而して經史子集悉く彼の讀法に遵ひ、傍はら其官話を學習せしめ、雅俗文體の日用を辨ずるものは、務て兼修するを要すべし。〈清國の學、時文を屬するを以て表的とす。我邦之を用ひざれば、宜く是科を除くべし。但時文も亦摛藻の具、或は之をなすも亦不可とせず。唯深く學ぶを要せざるのみ。〉

生徒業成り歸朝するに及び、官校に入り正則を以て中學以上の生徒に教授し、漢文を和解して變則以下の讀誦に便せば、數十年の後は海内の漢籍終に原本和解の二種に止り、所謂髭を添へ尾を加ふるの書は刊行を絶つに至るべし。然る後に歐米各國の書籍と同一に歸し、和に非ず漢に非ざるの讀法廢し、隨て專門と通常との區弱も劃然一定せん。唯其れ專門通常の區別一定せず、故に漢學を主張する者は、全國皆漢學者ならしめんと欲し、漢學を排斥する者は、併て漢書・漢字を廢せんと欲するに至る。是各其一偏の見に陷ると雖ども、抑亦教習其法を得ざるの致す所なり。

聞く駐清公使館に少壯の人數輩ありて、彼國の讀法及官話を學習せりと。又文部省語學校には、現に漢語の一科を設けたり。此等みな其端緒を開きしものなれば、仰望らくは、之を擴充して全國の漢學規則を創定し、先哲の論意を踐行し、以て中朝文學の盛時に復せん事を。其變則教科は、併て鄙見あり。將に別に論述する所あらんとす。

予此演説を終らんとするに到り、更に一語を加へて其要旨の所在を辯明せんとす。抑我國體は、他善を取り衆美を聚むるを以て成り立しものにて、國初已來漢學に資して教化政法を建、近年又洋學を採用して諸事業を更張せり。凡國の隆美は諧學の興盛に由り、諸學の興盛は專門家の衆多なるに由る。專門家は水源樹根の如し。宜く濬治培養して、流委の竭くる勿く、枝葉の益蕃きを求むべし。予切に恐る、世人或は漢學を以て既に陳ずるの芻狗となし、其專門家を養成する所以の術を思はざらんを。故に敢て縷々絮言するもの此の如し。

漢學宜しく正則一科を設け秀才を選み清國に留學せしむべき議

方今學政更張、人文日に闡け、博く海外の學科を治め、其所長を取り、以て我が文治を翼んと欲し、陸續歐米に留學せしむる者數十百人、其規模の遠且大、洵に抃賀すべし。然り而して猶ほ一事の急迫擧行を要する者あり、曰漢學正則一科を設け、俊秀の少年を選み、清國に發遣し、學業を肄習せしむる是なり。夫れ漢學の我邦に傳はる茲に千五百餘年、典章文物の大より、記注文移の細に至るまで、皆之に資して以て用を濟さざるはなし。然れども教育の法漸く其宜を失ひ、因て以て學事の不振を致す。是矯正改革せざるべからざる所以なり

蓋我邦の漢土に於る、風氣異ならず、俗尚相類す。唯語言宜を異にするを以て、其書を誦する、音訓相錯へ、顛倒廻環、鬚を添へ尾を加へ、以て其意を補足せざるを得ず。而して其音たる、轉輾相訛し、以て今の漢音と徑庭するを致す。故に文義を析し、語氣を味ふに至て、往々隔靴の歎あるを免れず。而して文勢語脈の同じからざる、毫を援き思を攄るに及で、措辭甚だ艱し。稱して能文者と曰ふと雖も、或は顛倒錯置あるを免れず。此其弊、漢語を解せず、彼の讀法に從ふ能はざるに源するなり。吾嘗て之を史籍に攷ふるに、中朝使を隋に通ずるや、首に學生を遣して留學せしめ、學成て歸るに及て、復他生を遣し、陸續交代す。猶今日學生を歐米に遣るが如し。蓋し漢籍の傳るは、三韓に由ると雖も、其國亦漢土と語言を異にする事、正に我邦に同じければ、留學生を命ずる、必ず漢土に遣らざるを得ず。如此十餘世、前後材を成す者甚だ多く、阿倍仲麻呂・吉備眞備の如き、皆譽を禹域に蜚はし、諸名流の激賞する所と爲る。而して僧空海の性靈集の如き、體格駢儷と雖、風調の遒なる、造語の麗なる、後世能文の士の能く及ぶ所に非ず。書畫の末技に至ても亦然り。唐土に遊ぶ者は、必高致逸趣あり。橘逸勢の書、僧雪舟の畫、並に古今の妙手と稱し、畫所狩野の一派みな雪舟に淵源す。近世に至り、高玄岱の書、物徂徠も終身及ぶ可らずと稱譽せり。此皆所謂身を莊嶽間に處くの類に非ざるを得んや。眞備歸るに及て、學課を定めて、五經・三史・明法・算術・音韻・籀篆の六道と爲し、後又改めて、紀傳・明經・明法・算道の四道と爲す。留學卒業生若くは唐人歸化する者を選て教官に補し、以て生徒を教育す。是に於て江・菅・都・野・三善の諸賢、彬々輩出す。蓋亦留學の成績に出ざるはなし。其後唐室衰亂、學生留止するを得ず。留學の擧遂に廢す。國内の學制、亦漸衰頽し、降て戰國に及び、文藝一に僧侶の私業に歸す。然れ共奝然・榮西の徒、奮然航海、往々得る所ありて還る。慶元戢戈に及び、徳川氏文事を奬勵すと雖ども、未だ學制を定るに及ばず。故に教習の法、一に浮屠の遺則を襲ふ。物徂徠之を慨し、崎陽の學を爲し、誦するに漢音を以てし、譯するに俚語を以てし、絶て和訓廻環の讀をなさゞらんと欲す。然れども一人の言、天下の弊を救ふあたはず。且海禁甚だ嚴なるを以て、徒に同志と崎人を延き、譯社を結び、以て自ら善くするを求るのみ。

夫正則教習の利彼れの如く、和訓誦讀の弊此の如し。加之方今外交大に開け、我の清國に於る、公事の往復貨物の懋遷、日として之なきはなし。設令ひ從前我に漢學なきこと、歐學なきが如くならしめば、必ず急に幾員の留學生を派遣し、其文學事情に通曉せしめざるを得ず。然るに今僅に變則鹵莽の漢學あるを以べ安んじて以て足れりと爲て可ならんや。故に漢學を精究して其實益を收めんと欲せば、其讀法に從ひ其正音を用ふるに非ざれば、其堂奧を究むるに足らず。

今文部省に外國語學校を設けて、漢語の一科ありと雖ども、徒に傳話に供するに過ぎず。漢人の稱して文學とする者に非ず。方今の弊に任して之を救正せざれば、漢學の一途遂に廢絶に歸し、我の漢字に資して以て用を濟さんと欲する者、將に辭を成さゞるに至らんとす。是れ吾の學生を清國に發遣して、學業を肄習せしむるを以て、學政の急務とする所以なり。

且清の我と、相去る遠からず。物價亦歐米諸國の比に非ず。留學の費用、必多きを要せざるべし。故に年齡十三四、資性敏捷、普通漢學を卒業する者、毎歳十名以上を選み、留學の期を定めて十年以上と爲し、〈中朝留學生の期、皆十五年より短き者なし。蓋期迫れば大業を成す能はず。故に務めて其期を優にすべし。 高向玄理三十三年、眞備十八年、僧請安三十三年、橘逸勢以二十年爲期〈陽成〉僧智聰二十年〉發遣及び留學中の處分は、歐米留學生の例規に準じ、執る所の業は、彼土文學の士に就て之を習はしめ、〈清國の學を爲す、時文を屬するを以て表的と爲す。我邦の人此を學ぶを要せざれば、是科を除くへし。但時文亦摛藻の具に係れば、或は之を習ふ亦不可とせず、唯深く學ぶを要せざるのみ。〉成業に至らば、應世の才ある者は、駐清公使以下に任じ、資行淳謹なる者は、教官に補せば、其國家に裨益する、必ず淺尠に非らん。其變則教科は、併て鄙見あり。將に別に論述する所あらんとす。敢て議す。

底本
重野博士史學論文集 下卷(昭和14年5月、雄山閣、pp.345—355.)