我國にて漢字を用ゐしことは、漢字の傳來せし時に、既に起りしならん、されども、當時の筆跡の今日に現存せる者は、崇峻、推古二帝の御時の物より古きはなし、今其體を以て、之を説文等の字書に参照するに、合はざる者多し、蓋し我邦にては、李唐の士を取る法などゝは異にして、必しも字眼の正俗をば問はずして、筆勢の秀逸なるを貴びし故ならん、學令に云、凡書學生、以㆓寫書ノ上中以上ノ者㆒聽㆑貢
とありて、義解に、書生唯以㆓筆勢ノ巧秀㆒爲㆑宗、不㆘以㆑習㆓㆐解字樣㆒爲㆖㆑業、與㆓唐ノ法㆒異也
とあり、即ち唐六典に、書學博士、掌㆓文武官八品已下、及庶人子之爲㆑生者㆒、以㆓石經説文字林㆒爲㆓專業㆒、餘ノ字書モ兼テ習㆑之
とありて、唐にては書を以て進む者は、書を善すべきのみならず、字學にも通ぜねばならぬなり、然ども書と云ものは、運筆の便否、字態の好醜などあり、况や楷書は、篆書に合はざること多き事なれば、唐の顏元孫の干祿字書の序には、若シ總テ據㆓レバ説文㆒、便下㆑筆多㆑礙、當㆔去㆑泰去㆑甚、使㆓輕重合㆒㆑宜
と云ひ、唐の唐玄度の九經字樣には、
と云へり、書體の標準たる書籍にさへ、斯く言へれば、我邦の書の俗體多くして、説文等の説に合はざるは、
我邦にて新字を造りし事あり、日本紀に、天武天皇十一年三月丙午、命㆓境部連石積等㆒、更㆓肇テ俾㆑造㆓新字一部四十四卷㆒
とあるが如し、こは支那人に仿ひし事にて、魏書ノ世祖紀に、始光二年、初造㆓新字千餘㆒
とあり、又顏氏家訓にも、北朝喪亂之餘、書迹鄙陋、加以㆓專ラ輙ク造㆒㆑字、猥拙㆑於㆓江南㆒、乃以㆓百念㆒爲㆑憂、言反ヲ爲㆑變、不用ヲ爲㆑罷、追來ヲ爲㆑歸、更生ヲ爲㆑蘇、先人ヲ爲㆑老
とあり、此等の字は、當時の金石の文に見えたり、、〈歸○宇文周碑、〉〈老○北魏碑〉の如し、妻をに作り、〈北魏碑〉棱を楞に作るも、〈楞伽經○劉宋ノ代ニ印度人譯〉此時の新製なるべし、甦の字の如きは、我邦の靈異記等の書に見えて、今日も間々、これを用ゐるなり、其後唐の則天武氏の新字ありて、天を而と爲し、地を埊と爲し、日をと爲し、月をと爲し、星を○と爲し、年をと爲し、人をと爲し、臣をと爲し、國を圀と爲し、聖をと爲し、正をと爲し、授をと爲せり、亦當時の碑文、及び東大寺所藏の唐人の書に見えたり、此後にも、唐の元結が、荒昬の二字を合せの字を造り、音荒と爲して、隋の煬帝の諡とし、五代南漢の劉巖が、飛龍在天の義を取り、龑の字を造り、音儼と爲して、己の名としたるが如きは、多かるべし、さて我邦の新字は、榊、杣、廾ハ二十并也、古文省㆑多
とありて、段玉裁の注に、省㆑多者、省㆓㆐作テ二十ノ兩字㆒、爲㆓一字㆒也、考工記ニ桯長サ〉倍㆑ス之、四尺者二、十分寸之一謂㆓之枚㆒、本於㆓二ノ字㆒爲㆓句絶㆒、故書㆑十、與㆓上ノ二㆒合爲㆑廿、此可㆑證㆘周ノ時凡言㆓二十㆒、可㆖㆑作㆑廿也、古文廿、仍讀㆓二十ノ兩字㆒、秦碑小篆則維廿六年、維廿九年、卅有七年、皆讀㆓一字㆒、以合㆓四言㆒、廿之讀如㆑入、卅之讀如㆑、皆自反也、至㆓唐ノ石經㆒、二十皆作㆑廿、三十皆作㆑卅、則仍讀爲㆓二十三十㆒矣
、とあるに依れば、此等の字を二字の音に呼ぶは、往昔よりの事なり、玉篇に、廿ハ如拾切、二十并也、今直爲㆓二十ノ字㆒
と云ひ、廣韵に、卅ハ蘇合切、三十也、説文云、ハ三十也、今作㆑卅、直爲㆓三十ノ字㆒
といひ、唐韵に、卅ハ先立切、説文云、數名〈今の説文に卅の字なし、〉今直以爲㆓四十ノ字
と云ひ、唐の張參の五經文字に、廿ハ音入、今以爲㆓二十ノ字㆒、卅ハ先答反、今以爲㆓三十ノ字㆒
とあれば、此時も此等の字を二字の音に呼びしなり、爾るに舊唐書ノ睿宗本紀に、先天二年三月癸巳、制敕表状書奏牃ノ年月、作㆓㆑二十三十四十ノ字㆒ニ
とあるは、是に至て、公文には、廿、卅、卌の字を用ゐずして、二十、三十、四十の字を用ゐしめしなり、〈通俗編に、金石文字記ニ、開業ノ碑陰、多㆓宋人ノ題名㆒、有㆑曰㆓元祐辛未陽月念五日題㆒、以㆑廿爲㆑念、始見㆑於㆑此、楊愼謂廿ノ字韵書皆音入、惟市井商賈音念、而學士大夫、亦從㆓其誤㆒者也
とありて、後には念の字を廿に代用することあり、〉、我邦の書は、支那の舊時の法に依りたれば、廿、卅、卌の字を用ゐたるを、今の日本紀などに、二十、三十、四十に作れるは、後に改めし者なる事は、類聚國史に、日本紀などを引るを視て知るべし、皆二字の音に呼びしにて、二合字なり、又我邦にて、白田を畠に作るも合字にて、二字に代用せし事は、類聚三代格貞觀十四年十二月十五日の官符に、重請㆓神地㆒、耕爲㆑畠
、とありて、四言の處に三字を用ゐたるにて知るべし、〈和名抄に畠の字あれど、別に此字の事を注せざれば、白田とありしが轉寫して畠となりしなるべし、〉火田の二字を合せて、畑の字を作りて、ハタと訓ませ、堅魚の二字を合せて、鰹の字を作り、カツヲと訓せたるが如きは、皆同じ、上に擧げたる、榊、楉なども此類なり、〈前にも云へる如く、我邦の創製の字には音なし、偶其音あるは、漢字の音なり、鰹を音堅とするは鮦の大なる者にて、堅魚にあらざるが如し、又音讀の字を合せたるは、音ありて訓なし、〉又、、、などは、類聚名義抄にあれど、支那にて印度語對譯の爲に造りし合字にて、一字一音なり、〈二箇の字、三箇の字の下に、二合、三合と注せるは、佛經に多し、亦印度語對譯なり、今は其二合を一箇字としたるなり、〉又菩薩をに作るも、〈東大寺所藏なる天平寶字六年四月一日の文書、及び靈異記などにあり、遼の僧行均の龍龕手鑑には、、音菩薩ノ二字
とあり、唐の僧慧友の書なる冥報記にも此字あり、唐の僧玄側の書なる、般若心經疏には、ササ
と二字に書けり、〉省文なれど此類なり、又菩提をに作り、〈靈異記、及び延慶三年に寫せる遍明抄等に見ゆ、龍龕手鑑にはに作りて、音菩薩ノ二音
とあり、空海の神通論には、廾提
とあり、〉涅槃を炎に作り、〈靈異記に見ゆ、法華經の入㆓無餘涅槃㆒薪盡火滅
の二字を取れりとぞ、昔世殖善、及び神通論には、に作る、の省文なるべし、は八十にして、釋迦の涅槃の年齢なり、遍明抄にはに作れり、〉般若をに作り、〈靈異記に見ゆ、〉聲聞をメメに作り、〈遍明抄に見ゆ〉懺悔を忄忄に作れるなど、〈昔世殖善に見ゆ、〉此に近し、
數目の字に、大字、小字あり、公式令に、凡簿帳、科罪、計贓、過所、抄牓之類、有㆑數者
とありて、集解に、釋ニ云、三ノ字作㆑參之類
とあり、奈良の朝の帳簿の類に、一二三四五六七八九十百千万を、壹貳參肆伍陸柒捌玖拾佰仟萬に作れるを視て、大字と小字との別を知るべし、〈柒は漆の字なり、傳教大師將來目録には、大字の柒を漆に作れり、〉禮記の表記に、先王諡以尊㆑名、節スルニ以㆓ス壹恵㆒、耻㆓名之
とある鄭注に、壹讀テ爲㆑一
とありて、唐の孔頴達の正義に、上ノ壹ハ是㆑齊壹、下ノ一ハ是數之一二也、經文爲㆓大壹之字㆒、鄭恐是均同之理、故讀爲㆓小一㆒、取㆓一箇ノ善名㆒而爲㆑諡耳
とあり、仍ち壹を大壹とし、一を小一としたり、此大字は、唐以後の書には多く見えて、故らに多筆の字を用ゐしめて、人民の改換して姦を
數字の次に、度量衡に關係せる字の事を言ふべし、 厘は、釐の省文にて、市廛の廛を厘に作れるとは別なり、〈干祿字書に、厘を廛の俗字と爲せり、延喜式には廛を㢆に作れり、〉醫心方に、五厘
とあり、清初の順治通寶の背に一厘
とあるにて知るべし、 毛は、毫の省文にて、原はガウと云ひしが、後に文字に依りて、モウと唱ふる事と成しならん、 丁は町の省文にて、弘安二年の常陸國大田文に見えたり、此字は音を借りたるのみなれば、マチとは訓まず、 反は、段の訛體なり、よりとなり、更に反となりしなり、應徳三年三月十六日の嚴島文書にに作り、建久八年大隅國國田帳にに作れるなどを視て知るべし。 卜は、文永二年ノ若狹國大田文等にあり、段歩の歩に用ゐたれど、符兵切、平也
とあれど區畫の義なし、 疋は、雅の字の古文なれど、匹の字とするは、匹の俗字〈唐ノ蓋文達碑〉より轉ぜるならん、正字通に、借㆑疋爲㆓丈匹之匹㆒ト非ナリ
とあり、 端に反の字を用ゐるは、同音に呼ぶ故に、田畝の段の字を借用ゐたるなり、續日本紀和銅七年二月の條に、商家二丈六尺ヲ爲㆑段
とあれど、それが轉じたるにはあらず、〈令の制は唐の法に依り、匹と端とは、絹絁と布との別なりしが、後には絹布を擇ばずに、二端を匹とする事となれり、是は支那の古法にて、左傳昭公二十六年の杜註にあり、〉 升を舛に作ることも、古き事にて、足利幕府の時には、此字を叔の一體なるの字の草書と混じて、シユクと讀し者ありしと云ふ、壒嚢抄に見えたり、 夕は、勺の一體にして、天平年間の帳簿等にあり、趙子昂の書に酌をに作れるに依て考ふれば、支那人に本づきしならん 朝夕の夕もシヤクと讀めど、是は其字を用ゐしにはあらず、さて勺の一合の十分の一なる事は、孫子算經等に見えたり、 才は、撮の字の偏を取たるにて、而も升合の下に置けり、此字は、東寺の文永五年七月の文書に見えて、七升七夕八才
、四合四夕五才
、六合二夕四才
などあり、又壒嚢抄には、石斗升合
と云ふ、才に至ては、正字を知らず、但音に付て推量せば、若し是れ撮の字歟、十撮を一勺として、撮と云ふを、作りを略して、偏ばかりを用る歟、鈔物に、或は作りを書き、偏を用ること、常の習なり
とあり、撮を合の下に置くは、天平年間の文書などより、既に爾ることにて、慶長十六年の節用集などにも、撮をサツと假名付して、合の下に置けり、爾るに寛文九年の塵劫記などには、合勺の下に抄撮ありて、抄を又は才に作りて、サイと讀み、撮を又は札に作りて、サツと讀めるは、是も支那人の書に依て改めしならん、元の朱世傑の算學啓蒙の類、みな合勺抄撮に作り、清の呉中孚の商賈便覽の算法全書、及び毛煥文の萬寶全書など皆同じ、さて撮の字は、倉㆐括、祖㆐外の二切ありて、古くは祖外切の方を取りて、サイと云ひ、省きて才に作るに至りても、サイと云ひしが、其間には、倉括切の方を取りて、サツと云こともありしならん、後に撮の上に、抄を置くに及びて、前の習慣に任せ、撮の一音なる、祖外切の方を假り用ゐて、サイと云ひて、才に作り、撮をば倉括切の方を取りて、サツと云ひしにや、
狩谷棭齋の度量權衡攷に云、舊唐書食貨志に、量ノ制、公私不㆑用㆑籥、合内之分、則有㆓抄撮之細㆒
と云へり、然らば漢書によりて、龠と云ひたれども、其實は龠をば用ゐずして、合より内をば、勺撮抄などゝ量りしなり、〈唐の制を云〉孫子算經、夏侯陽算經に、十圭ヲ爲㆑撮、十撮ヲ爲㆑勺、十勺ヲ爲㆑合
とあり、梁の陶弘景も、十撮爲㆓一勺㆒、十勺爲㆓一合㆒
と云ひしこと、證類本草序例に見ゆ、皇國にても、一勺を十分したるを一撮と云ふ、延喜式に、何合何勺何撮と量り、拾芥抄にも、十撮爲㆑勺、十勺爲㆑合
と云へり、然らば孫子算經、夏侯陽算經等の今本は誤りたるにやと、
石を碩に作り、斗を㪷に作り、 升を勝に作るも、姦を防ぐに出づるならん、〈此三字は、大安寺縁起などに出たり、〉匁は錢の字の俗書の省文なり、金の承安四年の圓覺禪院の鐘款に、錢氏を不氏に作り、明の崇禎通寶の背に、一とあり、匁の字を我邦にて用ゐしは、大内家壁書文明十六年金銀兩目定法之事と云ふ條に、九文目、五匁などあり、古寫節用集に、一錢〈同〉
とあるが如し、さて錢を武徳四年七月、廢㆓五銖錢㆒、行㆓開元通寶錢㆒徑リ八分、重サ二銖四絫、積㆓十文㆒、重サ一兩、一千文重サ六斤四兩、其詞先ツ上後ニ下、次ニ左後ニ右讀㆑之、自㆑上及㆑左、囘環讀㆑之、其義亦通、流俗謂㆓之開通元寶錢㆒
と云ひ、新唐書食貨志に、武徳四年、鑄㆓開元通寶㆒、徑八分、重二銖四絫、積㆓十錢㆒重一兩、得㆓輕重大小之中㆒
と云ひ、趙宋の王應の玉海に、淳化三年三月劉承珪等の奏言を擧げて、十忽爲㆑絲、至㆓十釐㆒爲㆑分、毎分二絫四銖、以㆓開元通寶錢ノ肉好周郭均者㆒校㆑之、十分爲㆓一錢㆒、積㆓十錢㆒爲㆓一兩㆒
といひ、清の趙翼の陔餘叢考に、此時の事を擧げ畢りて、此近代兩錢分釐毫忽絲之所㆓由起㆒也
とあるが如く、開元通寶の重さより起りて、趙宋以來、錢を秤の名とせしに依れるなり、即ち開元錢十文の重さは一兩にして、一文の重さは、今の一匁なり、故に匁をモンメと云ふ、匁をモンメと云ふは、開元錢一文の目方と云ふ事なり、メは輕重の名にして、後撰集に、逢ふばかり、なくべのみ經る、吾戀を、ひとめに懸くることの
と云ひ、源順集に、露をおもみ、たへぬばかりの、青柳は、いくめ懸けたぶ、黄金なるらん、
とあるが如し、又我邦にて、一匁の下に、分、釐、毫、絲、忽あるも、亦趙宋以來の制に依る、是に於て釐以下の名は、度より起りたる者なれど、専ら秤の名となれり、故に上に擧たる、厘、毛などの證も、多くは秤の名に依れり、 メを貫とするは、未だ詳ならず、明末僭僞國の錢に、洪化通寶と云がありて、其背に壹メ
とあり、古來これを一貫と讀めど、恐くは非ならん、意ふに何メ目のメは、書札の封緘に用ゐる封候事、總別は夕、如㆑此可㆑引事、本儀にて候也、然れども當時メ、此分なり
、とあるが如し、是をシメと云ふは、萬葉集に、赤駒之、
とある緘の字を、古來シメと讀ませたるが如く、封緘を云ふなり、又總計をシメと云ひて、メを用ゐたり、天正十五年の伊賀良ノ庄、錢納高に、總メ
とあるが如し、原來總計は、合、都合、總都合、以上、小以上、〈農家に、小以高と云ふも、小以上高の略語なり、〉など云ひしが、此頃よりメの字を用ゐて、シメと云ひしならん、爾るに是には大に紛はしき事あり、東寺正長二年六月の文書に、〆六百文
とあるは、以上六百文なるべければ、シメのメは、以上なるべく思はれ、又類聚名義抄などに、卜をシムとあれば、卜筮の卜なるべくも思はるれど、今は假に定めて、封緘のメを用ゐたりとす、さて貫をメと書くは、壹貫の錢を、一の一緡〈一メ〉
とあり、然れども是は試に言ふのみ、さて十匁、百日、一貫目など云ふは、我邦にて立てし制なるべし、又百目壹貫目を、百匁一貫匁とも書く事ありて、此時は匁をメと訓めり、銖を朱と書けることは、文保二年十二月十二日の東寺文書に見えて、綿二兩一分二朱
とあり、徳川幕府の時にも、二銖、一銖と云ふ貨幣ありて、銖を朱と書けり、但し銖を朱に作れるは、我邦にて偏を省きたるならん、鐘鼎款識に載せたる軹家釜、軹家甑には、竝に重四斤廿朱
の文あれど、それ等に依れるにはあらざるべし、
名を諱みて缺畫し、字體を改め、別字を用ふることは、李唐などの例なり、爾るに我邦にて、唐の諱の字を缺畫などしたるは、踏襲の誤にして、奇を好むの弊なり、其缺畫せしは、神通論に、世をに作り、古寫尚書に、民をに作
れるが如し、〈續日本紀天平寶字元年七月庚戌橘奈良麻呂の款に、置㆓剗奈羅㆒、爲㆓巳大憂㆒
とある巳の字は、の字の誤にはあらざるか、〉世民は唐の太宗の名なり、又此二字より成れる字の體を改めしは、牒をに作り、葉をに作り、昬を昏に作り、泯を汦に作り、〈汦は文館詞林に見ゆ、〉愍をに作れるが如し、〈は大津ノ大浦の書に見ゆ〉此等の中には、今日に至りても、不㆑教㆑民戰
の民を人に作り、〈此句、文館詞林六百九十九、梁の王筠の習戰備教に据れり、〉養老二年四月、道君首名の傳に、勸㆓民ニ生業㆒を、勸㆓人ニ生業㆒
と云ひ、日本後紀大同三年四月辛卯の詔に、民瘼を人瘼に作れるが如し、數世の世を代に作れるも、當時の餘習ならん、勿論之を避けしにあらざれば、唐にて民部を改めて、戸部とせしかど、我邦にては、之を改めざりしなり、又虎を靈異記に贙に作り、類聚名義抄にはの字を擧げ、〈文正元年の大塔にもあり、殊に奇を好むより出でしなり、宋の高宗の書にも、此字あり、〉律及び神護景雲二年に寫せる、阿難四事經に、丙丁の丙を景に作れり、虎は唐の高祖の祖父の名、炳は父の名なり、〈今の唐律に、景丁を丙丁に作れるは、後に改めるなり、〉又唐律に、顯の字、隆の字を避けたるに、我律に此字を用ひたるは、我律は、直に永徽の律に依りたればなり、顯は唐の中宗の名、隆は玄宗の偏名なり、又我律に、評直の評を平に作り、剩利の剩を乘に作れるも、唐律の舊本に依れる故なり、〈今の唐律には、皆これを改めたり、〉さてかゝる字ども、みな唐碑などに見えたれど、今は煩しく其出處を擧ず、
我邦にては、平出、闕字の制ありて、公式令に見えたれど、闕畫の事なし、徳川幕府の時に、英をとし、兼をとし、惠をとし、統をとしたるが如きは、儒者の輩の私になしゝなり、爾れども諱を避る等の事は、昔より有りて、孝徳天皇ノ大化二年の詔に、以㆓王ノ名㆒輕シク掛㆓川野㆒、呼㆓名ヲ百姓㆒、誠可㆑畏焉
と云ひて、之を禁じ、元明天皇の和銅七年には、
重字に二點を寫す、是を重點と云ふ、新撰字鏡に見えたり、蜻蛉日記にも、こゝにはこゝにはと、ぢうてんがちにて、返したりけむこそ、尚あらめ
、なども云へり、通俗篇に、涪翁雜説、複語書㆓二字㆒、重㆓二字㆒也
、升庵外集に、乃古文ノ上ノ字、言ハ字同㆑于㆑上者ハ複書也、按二説未㆑定㆓執是㆒、今人或書㆑二、或書㆑匕、各于㆓舊説㆒有㆑合
とありて、重點は二の字なりと云説と、上の字なりと云ふ説とを擧げたり、但し楊升庵の説も、二を古文の上としたるにて、匕を指して、上の字としたるにはあらず、さて支那にては、此字極めて古く起りたる者にて、周の石鼓文にも重點あり、嬴奏の碑には、大夫を夫ニに作れり、亦重點にして、後世の印譜などにも、明月を明ニに作り、流水を流ニに作るなどの事あり、我邦にては、支那に倣ひて、重點に數種の書法あり、處處を處ニと書き、種種を種ニと書くなどは、常の事なり、二字以上を重ぬるには、三種の書法あり、空海の即身成佛品に、一而無ニ量ニ而一
と寫し、慶長二年の書寫なる舊事紀に、之ニ多ニ儾ニ瀰ニ能ニ
と寫せるは、毎字の下に、直に重點を寫せるなり、浪華帖の道風の尺牘に〳〵と寫し、醫心方に又作強中病ニニニ者
と寫せるは、數箇の字を寫して後に、其下に重點を一封に寫せるなり、浪華帖の空海の尺牘に、所ヽ望ヽ
と寫し、莫ヽ責ヽ也
と寫せるは、數個の字を寫して後に、毎字の間に重點を寫せるなり、皆支那人に仿ひし者なることは、草露貫珠拾遺、米庵墨談などを視て知るべし、さて重點は文字の下の中央に在るあり、右に在るあり、其形も種種ありて、ニ及び〻は、支那人に依りたる者にて古し、人は〻より變じたるにや、大塔物語、及び寛正三年十一月九日の東寺文書などにあり、唐僧玄測の書には、とあり、又後にと寫せるあり、古寫蒙求などに見えたり、即ち合の字にて、上の字に合せて同字なる事を顯すにや、は合の字かと思はるゝは、天仁三年の書寫なる大日經疏に、二合を二と寫せればなり、其後また々となれり、寛永版の舊事紀などに見えたり、倭楷正訛に、、凡文有㆓疊字㆒、如㆓兢兢業業㆒、上書㆓本字㆒、下書㆓二字㆒、作㆓兢ニ業ニ㆒、二ハ古ノ上ノ字、亦作㆑匕、倭俗作㆑ルニ非
とあり、但し匕は、支那にても古くは見えず、我邦にては、徳川幕府の時の儒者などの書る物にあるべし、因に云ふ、雙を㕠と書き、讒をと書き、棗をと書ける類は、一字の中に重點を用ひたりなり、亦支那人の筆跡に在り、
東大寺所藏なる天平間の文書に、万呂をと書けるが多し、淳化帖なる羲之の書に頓首をと書き、獻之の書に、再拜をと書たるに同じ、上の一字を書すれば、下の一字は體を成さずしても、自ら知らるれば、倉卒に書けるなり、今世のの、の字、の字など是に同じ、又不具をと書けるは、浪華帖の空海の書に在りて、亦二王等の書に見えたり、
上にも言へる如く、我邦にて俗字を用ふるは、常の事にて、顏氏家訓に、自有㆓訛謬㆒、過成㆓鄙俗㆒、亂傍爲㆑舌〈亂、干祿字書、〉揖下無㆑耳、〈、北魏ノ碑、緝をに作り、葺をに作るなど同じ〉黿鼉從㆑龜、〈未㆑檢〉舊奪從㆑雚、〈、梁碑、、未檢〉席中加㆑帶、〈廗、干祿、〉惡上安㆑西、〈、北魏碑、〉鼓外設㆑皮、〈皷、北魏碑〉鑿頭生㆑毀、〈䥣、唐碑、〉離別配㆑禹、〈、隋碑、〉壑乃施㆑豁、〈、北魏碑、〉巫混㆓經旁㆒、〈、東魏碑、、唐碑〉皋分㆓澤片㆒、〈睪、莊子、今なほ睪丸に此字を用ふ、〉獵化爲㆑獦、〈干祿〉寵變成㆑竉、〈鍾繇〉業左益㆑片、〈、廣韵〉靈底著㆑器、〈、北魏碑〉
とある類の字をも、多く之を用ひたり、さて匚匸を辷に作るあり、匠をとし、〈唐碑〉匣をとし、〈干祿〉匹をとする〈干祿〉が如し、亻を彳に作るあり、健を徤とし、〈歐陽詢〉條をとし、〈梁碑〉彳を亻に作るあり、役を伇とし、〈梁碑〉技を佊とする〈北齊碑〉が如し、宀を冖に作るあり、穴を冗とし、〈篇海〉宼を㓂とし、〈五經文字〉寫を冩とする〈干祿〉が如し、口をムに作るあり、吝をとし、〈字文周碑、〉售をとする〈干碑〉が如し、ムを口に作るあり、弘をとし、〈漢碑〉雄を䧺とする〈漢碑〉が如し、公を㕣に作るあり、松を柗とし、衮を袞とするが如し、㕣を公に作るあり、船を舩とし、〈鍾繇〉沿を㳂とし、〈石經〉袞を兖とするが如し、十を忄に作るあり、協を恊とし、〈五經文字〉博を愽とする〈干祿〉が如し、广を厂に作るあり、廚を厨とし、〈五經文字〉廁を厠とし、廏を厩とするが如し、廴を辶に作るあり、延をとし、〈北齊碑〉建をとする〈北齊碑〉が如し、辶を廴に作るあり、迪を廸とし、巡を廵とするが如し、氵を冫に作るあり、滅をとし、〈唐碑〉減を减とし、〈東魏碑〉決を决とし、〈廣韵〉準を准とする〈梁碑〉が如し、木を扌に作るあり、構を搆とし、〈北齊碑〉枉を抂とする〈干祿〉が如し、方をオに作るあり、於を扵とし、〈廣韵〉旅をとし、〈唐碑〉族を挨とするが如し、禾を米に作るあり、稟をとし、〈北魏碑〉穀を糓とするが如し、禾を示に作るあり、穎を頴とし、秦をとする〈智永〉が如し、示を禾に作るあり、祕を秘とし、〈北齊碑〉祓をとし、〈唐景教碑〉禊を稧とする〈蘭亭〉が如し、竹を艹に作るあり、筵を莚とし、〈羲之〉第を苐とし、〈干祿〉等を䓁とし、〈唐碑〉符を苻とする〈唐碑〉が如し、耳を身に作るあり、職を軄とし、〈梁碑〉耽を躭とする〈五經文字〉が如し、昜をに作るあり、場を塲とし、〈康煕字典〉腸を膓とする〈同上〉が如し、を夏に作るあり、腹をとし、〈獻之〉復をとする〈鍾繇〉が如し、喿を㕘に作るあり、操を撡とし、〈北魏碑〉藻をとする〈梁碑〉が如し、又罔を罓に作り、〈北魏碑〉網を䋄に作り、〈東魏碑〉國を囯に作り、〈東魏碑〉率を卛に作り、〈北齊碑〉刺を㓨に作り、〈梁碑、顏氏家訓に、刺字之傍應㆑爲㆑束、今亦爲㆑夾
とあり、〉師をに作り、〈五經文字〉歸を皈に作り、〈唐碑〉呉を吴に作り、〈唐碑、呉志ノ薛綜傳に、無㆑口爲㆑天、有㆑口爲㆑呉
とあり、〉商を啇に作り、適をに作り、〈陸柬之〉敵をに作り、〈干祿〉學をに作り、〈東魏碑〉擧をに作り、〈東魏碑〉壻を聟〈干祿〉又は婿に作り、〈集韵〉總を惣に作り、〈唐碑〉惱を惚に作り、〈北齊書、古事記の患惚
の惚は、此字の誤なるべし、伊勢本には惱に作れり、〉忝をに作り、〈干祿〉極をに作り、〈北魏碑〉缺をに作り、〈北齊碑、晉書慕容垂傳に、改㆓名㆒、尋以㆓識記之文㆒、乃去㆑夬、以㆑垂爲㆑名
とあり、〉段を叚に作り、〈歐陽碑〉穀を䅽に作り〈干祿、我邦の書には、多く䅽に作れり、〉鹽を塩に作り、〈唐碑〉祝を呪に作り、〈北齊碑〉礙を碍〈正字通〉又は㝵に作り、〈漢碑〉著を着に作り、〈唐碑〉策を筞〈東魏碑〉又はに作り、〈唐碑、顏氏家訓に、簡策ノ字、竹下施㆑束、末代ノ隸書、似㆓杞宋之宋㆒也
とあり、〉蛇を虵に作り、〈東魏碑〉陀を陁に作り、〈西魏碑〉軌を䡄に作り、〈漢碑〉輩を軰に作り、〈干祿〉諡を謚に作り、〈五經文字〉麪を麺に作り、〈獻之〉亶をに作り、〈干祿〉飾を餝に作り、〈北魏碑〉鶴を鸖に作り、〈唐碑〉鴟を鵄に作り、〈東魏碑〉鬢を髩又は鬂に作るあり、此中自ら新古の別はあれど、皆支那人に依りし者なり、州を刕に作るなども、或は支那人に本づきしか、〈晉書ノ王濬傳に、濬夜夢ニ懸㆔三刀於㆓臥屋梁上㆒、須臾又益㆓一刀㆒、濬驚覺、意甚惡㆑之、主簿李毅再拜賀曰、三刀爲㆓州ノ字㆒、又益㆑一者、明府臨㆓益州㆒乎
とあり考ふべし、〉又佛を仏に作り、〈梁鐵鑊銘〉釋迦を尺加に作れるは、〈婆娑論〉支那にて古く行はれしなれど、佛を仏に作るに由りて、拂を払に作り、又釋を釈に作りて、更に澤を沢に作り、擇を択に作るは、我邦の俗字なり、又充を古く宛に作れるに由りて、終にに作り、アテ又はツヽと讀ませ、又宍を完に誤り、榲を椙に誤り、奄匂に誤り、叓〈事の古文〉を㕝に誤れるも同じ、籾も糅の一體なる粈より誤れるなり、新撰字鏡には籾を糅の古文とし、類聚名義抄には籾を糅の正字として、モミと訓ぜり、是は雜糅の義より、モミと訓むにより、其訓を借りし者ならん、又粈を籾に作るは、紐をに作るに同じ、かゝる類には、草書より來れる者多し、驗を騐に作り、〈正字通〉正をに作り、〈唐碑〉麥を麦に作り、〈虞世南〉處を䖏に作り、〈廣韵〉變を変に作れる〈唐碑〉が如し、樣をに作れるも、草書より轉ぜるなるべし、〈樣は橡の本字なり、樣式の樣は、唐人はに作れり、故に東大寺獻物帳、傳教大師將來目録には、樣をに作れり、〉
又頭を加へ、脚を加へ、偏を加ふるあり、稾を藁とし、〈唐碑〉瓜を苽とし、〈北齊碑〉泥を埿とし、〈漢碑〉冢を塚とし、〈干祿〉然を燃とし、〈干祿〉坐を座とするが如し、〈此中には、甲の義にのみ用ひて、乙の義に用ひざる者あり、〉麻を魔とし、加沙を袈裟とし、曾を僧とし、荅を塔とするも〈僧塔は、説文の新附字なり、〉此類なり、又偏を改め、或は頭を以て偏と爲すあり、館を舘とし、槍を鎗とし、筏を栰とするが如し、是等はみな支那人に本づきし者にて、思を偲に作り、惡をに作り、定を掟に作り、升を枡に作り、鉾を桙に作り、鞍を桉に作り、椀を鋺、碗、埦に作り、刈を苅に作れるなどは、支那に倣ひて創製する者なり、かゝる事は、支那の南北朝の比に、盛に行はれし者にて、顏氏家訓に、呉人呼㆑紺爲㆑禁、〈我邦にて、紺をコムと呼ぶは、此音なり、〉故以㆓糸傍㆒作㆑禁、代㆓紺ノ字㆒、呼㆑盞爲㆓竹筒反㆒、故以㆓木傍㆒作㆑展、代㆓盞ノ字㆒、呼㆓鑊字㆒爲㆓霍字㆒、故以㆓金傍㆒作㆑霍、代㆓鑊字㆒、又金傍作㆑患爲㆓鐶字㆒、木傍作㆑鬼爲㆓魁字㆒、火傍作㆑庶爲㆓炙字㆒、既下作㆑毛爲㆓髻字㆒、金花用金傍作㆑華、窓扇川木傍作㆑扇、諸如㆑此類、專輙不㆑少
、とあるが如し、故に我邦の創製と思はるゝ中にも、支那人に本づきしもあるべし、又熟語の偏を加へ、又は改むるあり、輻湊を輻輳に作り、搢紳を縉紳に作り、摸糊を糢糊に作れるは、支那人に依れる者にて、蝦夷を蝦蛦に作り、可怜を怜に作り、景迹を迹に作れるは、我邦の創製なるべし、
又省文あり、蟲を虫に作り、〈北齊碑〉絲を糸に作り、〈東魏碑〉蠶を蝅〈干祿〉又は蚕に作り、〈字典〉聲を声に作り、麤を麁に作り、〈干祿〉爐を炉に作り、驢を馿に作り、學を斈に作り、〈北齊碑〉盡を尽に作り、〈字典〉獻を献に作り、體を躰に作り、〈字典〉證を証に作り、〈正字通〉涙を泪に作り、〈目水を涙とするは、四方木を棱とする類か、〉燈を灯に作り、〈字典〉遷を迁に作り、〈丁千の音を借るるべし、〉舊を旧に作る〈旧は臼の一體なり、後に舊の省文とす、〉が如きは、支那人に依りし者なり、檀那を旦那に作るも、恐らくは亦支那人に原づきしならん、〈昔世殖善に、檀主を旦主に作れり、〉雁及び暦を厂に作り、摩を广に作り、幅及び幂を巾に作り、歳を戈に作り、〈戈は靈異記、及び建久三年に書寫せる禮佛懺悔作法にあり、〉閏を壬に作れるは、閨の訛字閏より出たり、关は癸の省文なるべく、刁は寅の草體の省文なるべし、又省文に似て然らざる者あり、處を処に作り、〈処は處の本字なり、説文に、処ハ止也、處或從㆓虍ノ聲㆒とあり、〉歌を哥に作り、〈説文に、古文以㆑哥爲㆓歌字㆒
、とあり、〉箇を个に作り、〈説文に、箇或作㆑个
とあり、〉棄を弃に作る〈説文に、弃ハ古文ノ棄
とあり、〉が如し、又無を无に作り、〈周易〉禮を礼に作り、〈説文に、古文ノ禮
とあり、〉某を厶に作るも、〈此字、我邦にて古くより用ひたり、諸家の日記などに多し、陔餘叢考に、天祿識餘を引て云、今人書㆑某爲㆑厶、皆以爲㆔俗從㆓簡便㆒、其實ハ即古ノ某ノ字也、穀梁ノ桓公二年、蔡侯鄭伯會㆑于㆑鄧、范注云、鄧厶地、陸徳明ノ釋文ニ云、不㆑知㆓其國㆒、故云㆓厶地㆒、本又作㆑某
とあり、〉亦古文にして省文にあらず、灑〈説文に、汎也
とあり、〉を洒、〈説文に滌也古文以㆓爲灑掃ノ字㆒
とあり〉に作り、〈曬を晒に作るは、是に倣ひしならん、字彙補に在り、〉棲〈説文に、西或從㆓木妻㆒
とあり、〉を栖〈説文に此字なし、西の字の注に、鳥在㆓巣上㆒也、日在㆓西方㆒而鳥
とあり、西の字は即ち鳥棲なるを、後に木を加へて、東西の西に分ちしなり、〉に作るなども又省文にあらず、
他の字を通じ用ふるあり、磐を盤に作り、〈漢書〉績を續に作り、〈穀梁傳〉宵を霄に作り〈北魏碑に、夙宵を夙霄に作る、宵は霄の一體なり、〉包を苞に作り、〈儀禮〉鐘を鍾に作り、〈周禮〉刑を形に作り、〈梁碑〉後を后に作り、〈禮記〉餘を余に作り、〈周禮〉檢〈説文に書署也
とあり、段注に引伸爲㆓凡檢制檢校之稱㆒
とあり、〉を撿に作り、〈説文と拱也
とあり、〉校〈説文に木囚也
とあり、唐の石經には、參校の字に、此字を用ひたり、〉を挍に作り、〈説文に此字なし、陸徳明曰、比校ノ字、當㆑從㆓手旁㆒
と、〉按〈説文に、下也
とあり、〉を案に作り、〈説文に、几ノ屬
とあり、〉模〈説文に法也
とあり、〉を摸に作り、〈説文に此字なし、摹の字あり、規也
と注せり、〉橈〈説文に曲木也
とあり、段注に、引伸爲㆓几曲之稱㆒
とあり、〉を撓に作り、〈説文に擾也
とあり、〉を藉に作る〈説文に、祭藉也、一曰草不㆑編狼藉
とあり、段注に、引伸爲㆓凡承藉蘊藉之義㆒、又爲㆓假藉之義㆒
とあり、〉が如し、互に相通ずる者あり、爾〈説文に、麗爾猶靡麗也
とあり、〉を尒に作り、〈説文に、尒ハ辭之必然也
とあり○彌を弥に作るは、此に傚ひたる者なり、稱を称に作るは、稱の俗字穪より來れるなり、珍を珎に作るは、參を㕘に作れる類にて、自ら別なり、〉與〈説文に、黨與
とあり、〉を与〈説文に、賜予
とあり、〉に作り、〈歟を欤に作るは、此に傚ひたるなり、〉號〈説文に、嘑也
とあり、〉を号〈説文に痛聲也
とあり、〉に作り、異〈説文に分也
とあり、〉を异〈説文に擧也
とあり、尚書の鄭注に音異
とあり、〉に作れるが如し、我邦にても檴を獲に作り、㙲を擁に作り、〈並に令に見ゆ、〉糠を粳に作り、〈續日本紀等に見ゆ、〉鑰を鎰に作り、列を烈に作り、枚を牧に作り、租を祖に作るは、他の字を通じ用ふる者にて、附を付に作り、大を太に作り、小を少に作るは、〈大寶を太寶に作り、少納言を小納言に作れる類なり、又少納言に對すれば、大納言の大は、泰の音なるべきを、字の如く呼ぶも、混用せしに似たり、〉互に通ずるなり、
偏傍頭脚などを囘易するあり、和を咊に作り、〈説文に、咊あり、和なし〉稾を稿に作り、峯を峰に作り、嵯峨を嵳峩に作り、幕を幙に作り、松を枀、枩に作り、槩を概に作り、海をに作り、蘇を蘓に作り、羣を群に作り、腰をに作り、脅を脇に作り、酬をに作り、鄰を隣に作り、〈阝の右に在るは邑なり、左に在るは阜なり、相通ずるべからず、俗字なり、〉颯を䬃に作り、飆を飇に作るが如し、〈○良弻曰、書家語に、この格を互換法と稱す、〉偏傍などを囘易して、他の字となるあり、枷架、杲杳、棗棘、悲悱、愀愁、愈愉、紊蚊、翌翊翋の如し、〈○良弻又曰、凡そ二畫同じき者相並ぶ時は、其一畫を省く例あり、是を借換法と云ふ、祕を秘とし、岫をとし、嶇をとし、赫をとし、歳を嵗とするが如し、本論に漏たれば、こゝに取添へつ、〉
同字の異體を以て、異義を分つあり、柰は奈の正字なり、爾るに奈を奈何の義にのみ用ひて、別に㮈の字を作り、果は菓〈漢書〉の正字なり、爾るに菓を果實にのみ用ひ、句は勾の正字なり、爾るに勾は勾曲にのみ用ひ、邪は耶の正字なり爾るに耶を多く助語にのみ用ひ、華は花の正字なり、爾るに花を花實に用ひ、華を華美にのみ用ひて、全く別字の如くなれり、〈千字文にも、此二字倶に在りて、別字としたり、但し我邦にては、古く花を華美にも用ひたり、〉
又古に在りては、也、焉の二字を、多く助辭に用ふるに由り、別に、鳶の二字を製せしが如きは、常の事なり、
上に擧げたる俗字の中には、干祿字書に云へる通字も多かれど、今は正字にあらざるを、概して俗字としたり、而して古にありて變したる者は、俗字にあらずして、後に至りて變じたる者を、俗字とするなり、
此考には、我邦の文字の俗體なるも、多く本づく所ある事を述たれど、今日に在りては、成るべく正字を用ふべし、况や奇異なる俗字を用ひて、人を驚すをや、されども普通に俗字を用ふる者は、俗字を用ふる方、反て