字體考

我國にて漢字を用ゐしことは、漢字の傳來せし時に、既に起りしならん、されども、當時の筆跡の今日に現存せる者は、崇峻、推古二帝の御時の物より古きはなし、今其體を以て、之を説文等の字書に参照するに、合はざる者多し、蓋し我邦にては、李唐の士を取る法などゝは異にして、必しも字眼の正俗をば問はずして、筆勢の秀逸なるを貴びし故ならん、學令に云、凡書學生、以㆓寫書上中以上者㆒聽㆑貢とありて、義解に、書生唯以㆓筆勢巧秀㆒爲㆑宗、不㆘以㆑習㆓㆐解字樣㆒爲㆖㆑業、與㆓唐法㆒異也とあり、即ち唐六典に、書學博士、掌㆓文武官八品已下、及庶人子之爲㆑生者㆒、以㆓石經説文字林㆒爲㆓專業㆒、餘字書習㆑之とありて、唐にては書を以て進む者は、書を善すべきのみならず、字學にも通ぜねばならぬなり、然ども書と云ものは、運筆の便否、字態の好醜などあり、况や楷書は、篆書に合はざること多き事なれば、唐の顏元孫の干祿字書の序には、據㆓レバ説文㆒、便下㆑筆多㆑礙、當㆔去㆑泰去㆑甚、使㆓輕重合㆒㆑宜と云ひ、唐の唐玄度の九經字樣には、モシ據㆓説文㆒、即古體驚㆑俗、若依㆓近代文字㆒、或傳寫乖訛、今與㆓勘校官㆒同、商㆓㆐較是非㆒、取㆓其適中㆒と云へり、書體の標準たる書籍にさへ、斯く言へれば、我邦の書の俗體多くして、説文等の説に合はざるは、ウベなる事なり、然るに徳川幕府の時、儒學の大に盛なるにより、漸く正體にオモムけり、太宰春臺の倭楷正訛、新井白石の同文通考の如きは、與りて功ありしならん、

我邦にて新字を造りし事あり、日本紀に、天武天皇十一年三月丙午、命㆓境部連石積等㆒、更㆓肇俾㆑造㆓新字一部四十四卷㆒とあるが如し、こは支那人に仿ひし事にて、魏書世祖紀に、始光二年、初造㆓新字千餘㆒とあり、又顏氏家訓にも、北朝喪亂之餘、書迹鄙陋、加以㆓專造㆒㆑字、猥拙㆑於㆓江南㆒、乃以㆓百念㆒爲㆑憂、言反爲㆑變、不用爲㆑罷、追來爲㆑歸、更生爲㆑蘇、先人爲㆑老とあり、此等の字は、當時の金石の文に見えたり、〓{追_來}、〈歸○宇文周碑、〉〓{先_人}〈老○北魏碑〉の如し、妻を〓{事/女}に作り、〈北魏碑〉棱を楞に作るも、〈楞伽經○劉宋印度人譯〉此時の新製なるべし、甦の字の如きは、我邦の靈異記等の書に見えて、今日も間々、これを用ゐるなり、其後唐の則天武氏の新字ありて、天を而と爲し、地を埊と爲し、日を〓{○<乙}と爲し、月を〓{○<卍}と爲し、星を○と爲し、年を〓{(刀千刀)/干}と爲し、人を〓{一/生}と爲し、臣を〓{一/忠}と爲し、國を圀と爲し、聖を〓{(長缶)/玉}と爲し、正を〓{工/山}と爲し、授を〓{禾(久/(几<王))}と爲せり、亦當時の碑文、及び東大寺所藏の唐人の書に見えたり、此後にも、唐の元結が、荒昬の二字を合せ〓{(民/日)荒}の字を造り、音荒と爲して、隋の煬帝の諡とし、五代南漢の劉巖が、飛龍在天の義を取り、龑の字を造り、音儼と爲して、己の名としたるが如きは、多かるべし、さて我邦の新字は、榊、杣、シモト、鞆、妋、栂、䒾などを初として、俤、糀、閊、働等の類多し、此中には、天武天皇の御時の創製もあるべし、さて我邦の新字には、訓ありて音なし、我邦に合字あり、刀自を〓{刀/自}とし、〈靈異記〉戸主を〓{戸'主}とし、〈大寶二年御野國戸籍、〉麻呂を麿とし、眞木を槇とし、久米を粂とし、木工を杢とするが如し、皆一字を二字の音訓に呼ぶなり、廿、卅、卌を、二字の音に呼ぶに同じ、説文に、二十并也、古文省㆑多とありて、段玉裁のに、省㆑多者、省㆓㆐作二十兩字㆒、爲㆓一字㆒也、考工記桯長〉倍㆑之、四尺者二、十分寸之一謂㆓之枚㆒、本於㆓二字㆒爲㆓句絶㆒、故書㆑十、與㆓上二㆒合爲㆑廿、此可㆑證㆘周時凡言㆓二十㆒、可㆖㆑作㆑廿也、古文廿、仍讀㆓二十兩字㆒、秦碑小篆則維廿六年、維廿九年、卅有七年、皆讀㆓一字㆒、以合㆓四言㆒、廿之讀如㆑入、卅之讀如㆑〓{韋及}、皆自反也、至㆓唐石經㆒、二十皆作㆑廿、三十皆作㆑卅、則仍讀爲㆓二十三十㆒矣、とあるに依れば、此等の字を二字の音に呼ぶは、往昔よりの事なり、玉篇に、廿如拾切、二十并也、今直爲㆓二十字㆒と云ひ、廣韵に、蘇合切、三十也、説文云、〓三十也、今作㆑卅、直爲㆓三十字㆒といひ、唐韵に、先立切、説文云、數名〈今の説文に卅の字なし、〉今直以爲㆓四十と云ひ、唐の張參の五經文字に、廿音入、今以爲㆓二十字㆒、卅先答反、今以爲㆓三十字㆒とあれば、此時も此等の字を二字の音に呼びしなり、爾るに舊唐書睿宗本紀に、先天二年三月癸巳、制敕表状書奏牃年月、作㆓㆑二十三十四十字㆒とあるは、是に至て、公文には、廿、卅、卌の字を用ゐずして、二十、三十、四十の字を用ゐしめしなり、〈通俗編に、金石文字記、開業碑陰、多㆓宋人題名㆒、有㆑曰㆓元祐辛未陽月念五日題㆒、以㆑廿爲㆑念、始見㆑於㆑此、楊愼謂廿字韵書皆音入、惟市井商賈音念、而學士大夫、亦從㆓其誤㆒者也とありて、後には念の字を廿に代用することあり、〉、我邦の書は、支那の舊時の法に依りたれば、廿、卅、卌の字を用ゐたるを、今の日本紀などに、二十、三十、四十に作れるは、後に改めし者なる事は、類聚國史に、日本紀などを引るを視て知るべし、皆二字の音に呼びしにて、二合字なり、又我邦にて、白田を畠に作るも合字にて、二字に代用せし事は、類聚三代格貞觀十四年十二月十五日の官符に、重請㆓神地㆒、耕爲㆑畠、とありて、四言の處に三字を用ゐたるにて知るべし、〈和名抄に畠の字あれど、別に此字の事を注せざれば、白田とありしが轉寫して畠となりしなるべし、〉火田の二字を合せて、畑の字を作りて、ハタと訓ませ、堅魚の二字を合せて、鰹の字を作り、カツヲと訓せたるが如きは、皆同じ、上に擧げたる、榊、楉なども此類なり、〈前にも云へる如く、我邦の創製の字には音なし、偶其音あるは、漢字の音なり、鰹を音堅とするは鮦の大なる者にて、堅魚にあらざるが如し、又音讀の字を合せたるは、音ありて訓なし、〉又〓{尾曳}〓{帝也}〓{各也}〓{牟含}などは、類聚名義抄にあれど、支那にて印度語對譯の爲に造りし合字にて、一字一音なり、〈二箇の字、三箇の字の下に、二合、三合と注せるは、佛經に多し、亦印度語對譯なり、今は其二合を一箇字としたるなり、〉又菩薩を〓{(花-化)/廾}に作るも、〈東大寺所藏なる天平寶字六年四月一日の文書、及び靈異記などにあり、遼の僧行均の龍龕手鑑には、〓{(花-化)/廾}、音菩薩二字とあり、唐の僧慧友の書なる冥報記にも此字あり、唐の僧玄側の書なる、般若心經疏には、ササと二字に書けり、〉省文なれど此類なり、又菩提を〓{(花-化)/(廾丶)}に作り、〈靈異記、及び延慶三年に寫せる遍明抄等に見ゆ、龍龕手鑑には〓{(花-化)/(廾<丶)}に作りて、音菩薩二音とあり、空海の神通論には、廾提とあり、〉涅槃を炎に作り、〈靈異記に見ゆ、法華經入㆓無餘涅槃㆒薪盡火滅の二字を取れりとぞ、昔世殖善、及び神通論には、〓{卅/卅}に作る、〓{(廾廾)/(廾廾)}の省文なるべし、〓{(廾廾)/(廾廾)}は八十にして、釋迦の涅槃の年齢なり、遍明抄には〓{(廾廾)/(廾廾)}に作れり、〉般若を〓{舟若}に作り、〈靈異記に見ゆ、〉聲聞をメメに作り、〈遍明抄に見ゆ〉懺悔を忄忄に作れるなど、〈昔世殖善に見ゆ、〉此に近し、

數目の字に、大字、小字あり、公式令に、凡簿帳、科罪、計贓、過所、抄牓之類、有㆑數者ツクレ㆓大字㆒とありて、集解に、云、三字作㆑參之類とあり、奈良の朝の帳簿の類に、一二三四五六七八九十百千万を、壹貳參肆伍陸柒捌玖拾佰仟萬に作れるを視て、大字と小字との別を知るべし、〈柒は漆の字なり、傳教大師將來目録には、大字の柒を漆に作れり、〉禮記の表記に、先王諡以尊㆑名、節スルニ以㆓壹恵㆒、耻㆓名之スグルヲ㆒㆑於㆑行也とある鄭注に、壹讀爲㆑一とありて、唐の孔頴達の正義に、是㆑齊壹、下是數之一二也、經文爲㆓大壹之字㆒、鄭恐是均同之理、故讀爲㆓小一㆒、取㆓一箇善名㆒而爲㆑諡耳とあり、仍ち壹を大壹とし、一を小一としたり、此大字は、唐以後の書には多く見えて、故らに多筆の字を用ゐしめて、人民の改換して姦をさん事を防ぐなり、〈支那の近世の市廛の計簿に、號馬と云ふ者ありて、一二三四五六七八九を、〓〓〓〓〓〓〓〓〓に作れるは、司馬光の潛虗に依れるなり、〉

數字の次に、度量衡に關係せる字の事を言ふべし、 は、釐の省文にて、市廛の廛を厘に作れるとは別なり、〈干祿字書に、厘を廛の俗字と爲せり、延喜式には廛を㢆に作れり、〉醫心方に、陟釐アヲノリの釐を音氂とし、集韵に、厘を釐の俗省と爲し、明末の孫可望の興朝通寶の背に五厘とあり、清初の順治通寶の背に一厘とあるにて知るべし、 は、毫の省文にて、原はガウと云ひしが、後に文字に依りて、モウと唱ふる事と成しならん、 は町の省文にて、弘安二年の常陸國大田文に見えたり、此字は音を借りたるのみなれば、マチとは訓まず、 は、段の訛體なり、〓より〓となり、更に反となりしなり、應徳三年三月十六日の嚴島文書〓に作り、建久八年大隅國國田帳〓に作れるなどを視て知るべし。 は、文永二年若狹國大田文等にあり、段歩の歩に用ゐたれど、と同音に依り、分の音を借りたるにて、分の壞體ならむ、 は、ツボと訓む、區畫の事なり、古は方一町を云ひ、後に方一歩を云ふ、但し支那の字書には、符兵切、平也とあれど區畫の義なし、 は、雅の字の古文なれど、匹の字とするは、匹の俗字〓{之_下}唐ノ蓋文達碑〉より轉ぜるならん、正字通に、借㆑疋爲㆓丈匹之匹㆒ナリとあり、 端に反の字を用ゐるは、同音に呼ぶ故に、田畝の段の字を借用ゐたるなり、續日本紀和銅七年二月の條に、商家二丈六尺爲㆑段とあれど、それが轉じたるにはあらず、〈令の制は唐の法に依り、匹と端とは、絹絁と布との別なりしが、後には絹布を擇ばずに、二端を匹とする事となれり、是は支那の古法にて、左傳昭公二十六年の杜註にあり、〉 を舛に作ることも、古き事にて、足利幕府の時には、此字を叔の一體なる〓の字の草書と混じて、シユクと讀し者ありしと云ふ、壒嚢抄に見えたり、 は、勺の一體にして、天平年間の帳簿等にあり、趙子昂の書に酌を〓{酉夕}に作れるに依て考ふれば、支那人に本づきしならん 朝夕の夕もシヤクと讀めど、是は其字を用ゐしにはあらず、さて勺の一合の十分の一なる事は、孫子算經等に見えたり、 は、撮の字の偏を取たるにて、而も升合の下に置けり、此字は、東寺の文永五年七月の文書に見えて、七升七夕八才四合四夕五才六合二夕四才などあり、又壒嚢抄には、石斗升合シヤクサツと云ふ、才に至ては、正字を知らず、但音に付て推量せば、若し是れ撮の字歟、十撮を一勺として、撮と云ふを、作りを略して、偏ばかりを用る歟、鈔物に、或は作りを書き、偏を用ること、常の習なりとあり、撮を合の下に置くは、天平年間の文書などより、既に爾ることにて、慶長十六年の節用集などにも、撮をサツと假名付して、合の下に置けり、爾るに寛文九年の塵劫記などには、合勺の下に抄撮ありて、抄を又は才に作りて、サイと讀み、撮を又は札に作りて、サツと讀めるは、是も支那人の書に依て改めしならん、元の朱世傑の算學啓蒙の類、みな合勺抄撮に作り、清の呉中孚の商賈便覽の算法全書、及び毛煥文の萬寶全書など皆同じ、さて撮の字は、倉㆐括、祖㆐外の二切ありて、古くは祖外切の方を取りて、サイと云ひ、省きて才に作るに至りても、サイと云ひしが、其間には、倉括切の方を取りて、サツと云こともありしならん、後に撮の上に、抄を置くに及びて、前の習慣に任せ、撮の一音なる、祖外切の方を假り用ゐて、サイと云ひて、才に作り、撮をば倉括切の方を取りて、サツと云ひしにや、

狩谷棭齋の度量權衡攷に云、舊唐書食貨志に、制、公私不㆑用㆑籥、合内之分、則有㆓抄撮之細㆒と云へり、然らば漢書によりて、龠と云ひたれども、其實は龠をば用ゐずして、合より内をば、勺撮抄などゝ量りしなり、〈唐の制を云〉孫子算經夏侯陽算經に、十圭爲㆑撮、十撮爲㆑勺、十勺爲㆑合とあり、梁の陶弘景も、十撮爲㆓一勺㆒、十勺爲㆓一合㆒と云ひしこと、證類本草序例に見ゆ、皇國にても、一勺を十分したるを一撮と云ふ、延喜式に、何合何勺何撮と量り、拾芥抄にも、十撮爲㆑勺、十勺爲㆑合と云へり、然らば孫子算經、夏侯陽算經等の今本は誤りたるにやと、

石を碩に作り、斗を㪷に作り、 升を勝に作るも、姦を防ぐに出づるならん、〈此三字は、大安寺縁起などに出たり、〉匁は錢の字の俗書の省文なり、金の承安四年の圓覺禪院の鐘款に、錢氏を不氏に作り、明の崇禎通寶の背に、一〓とあり、匁の字を我邦にて用ゐしは、大内家壁書文明十六年金銀兩目定法之事と云ふ條に、九文目、五匁などあり、古寫節用集に、一錢〈〓同〉とあるが如し、さて錢をハカリの名とせしは、舊唐書食貨志に、武徳四年七月、廢㆓五銖錢㆒、行㆓開元通寶錢㆒徑八分、重二銖四絫、積㆓十文㆒、重一兩、一千文重六斤四兩、其詞先上後下、次左後右讀㆑之、自㆑上及㆑左、囘環讀㆑之、其義亦通、流俗謂㆓之開通元寶錢㆒と云ひ、新唐書食貨志に、武徳四年、鑄㆓開元通寶㆒、徑八分、重二銖四絫、積㆓十錢㆒重一兩、得㆓輕重大小之中㆒と云ひ、趙宋の王應の玉海に、淳化三年三月劉承珪等の奏言を擧げて、十忽爲㆑絲、至㆓十釐㆒爲㆑分、毎分二絫四銖、以㆓開元通寶錢肉好周郭均者㆒校㆑之、十分爲㆓一錢㆒、積㆓十錢㆒爲㆓一兩㆒といひ、清の趙翼の陔餘叢考に、此時の事を擧げ畢りて、此近代兩錢分釐毫忽絲之所㆓由起㆒也とあるが如く、開元通寶の重さより起りて、趙宋以來、錢を秤の名とせしに依れるなり、即ち開元錢十文の重さは一兩にして、一文の重さは、今の一匁なり、故に匁をモンメと云ふ、匁をモンメと云ふは、開元錢一文の目方と云ふ事なり、は輕重の名にして、後撰集に、逢ふばかり、なくべのみ經る、吾戀を、ひとに懸くることのワビしさと云ひ、源順集に、露をおもみ、たへぬばかりの、青柳は、いく懸けたぶ、黄金なるらん、とあるが如し、又我邦にて、一匁の下に、分、釐、毫、絲、忽あるも、亦趙宋以來の制に依る、是に於て釐以下の名は、度より起りたる者なれど、専ら秤の名となれり、故に上に擧たる、厘、毛などの證も、多くは秤の名に依れり、 メをとするは、未だ詳ならず、明末僭僞國の錢に、洪化通寶と云がありて、其背に壹メとあり、古來これを一貫と讀めど、恐くは非ならん、意ふに何メ目のメは、書札の封緘に用ゐるシメより來れるならん、抑も封緘には、古くは封の字の如き者を用ゐ、其後に夕となり、更にメとなりしなり、書札雜々聞書封候事、總別は夕、如㆑此可㆑引事、本儀にて候也、然れども當時メ、此分なり、とあるが如し、是をシメと云ふは、萬葉集に、赤駒之、コユルウマシメユヒイモガコヽロ、疑毛奈思とある緘の字を、古來シメと讀ませたるが如く、封緘を云ふなり、又總計をシメと云ひて、メを用ゐたり、天正十五年の伊賀良庄、錢納高に、總メとあるが如し、原來總計は、合、都合、總都合、以上、小以上、〈農家に、小以高と云ふも、小以上高の略語なり、〉など云ひしが、此頃よりメの字を用ゐて、シメと云ひしならん、爾るに是には大に紛はしき事あり、東寺正長二年六月の文書に、〆六百文とあるは、以上六百文なるべければ、シメのメは、以上なるべく思はれ、又類聚名義抄などに、卜をシムとあれば、卜筮の卜なるべくも思はるれど、今は假に定めて、封緘のメを用ゐたりとす、さて貫をメと書くは、壹貫の錢を、一の錢緡サシに貫きて結ぶ事を、シムと云ふより、一貫を一シメと云ひて、一メと書きしが、後にメを直に貫と讀むことゝなりしならん、古寫節用集に、一緡〈〓一メ〉とあり、然れども是は試に言ふのみ、さて十匁、百日、一貫目など云ふは、我邦にて立てし制なるべし、又百目壹貫目を、百匁一貫匁とも書く事ありて、此時は匁をと訓めり、銖を朱と書けることは、文保二年十二月十二日の東寺文書に見えて、綿二兩一分二朱とあり、徳川幕府の時にも、二銖、一銖と云ふ貨幣ありて、銖を朱と書けり、但し銖を朱に作れるは、我邦にて偏を省きたるならん、鐘鼎款識に載せたる軹家釜、軹家甑には、竝に重四斤廿朱の文あれど、それ等に依れるにはあらざるべし、

名を諱みて缺畫し、字體を改め、別字を用ふることは、李唐などの例なり、爾るに我邦にて、唐の諱の字を缺畫などしたるは、踏襲の誤にして、奇を好むの弊なり、其缺畫せしは、神通論に、世をせに作り、古寫尚書に、民を〓に作 れるが如し、〈續日本紀天平寶字元年七月庚戌橘奈良麻呂の款に、置㆓剗奈羅㆒、爲㆓巳大憂㆒とある巳の字は、〓の字の誤にはあらざるか、〉世民は唐の太宗の名なり、又此二字より成れる字の體を改めしは、牒を〓{片(亠/厶/木)}に作り、葉を〓{芸/木}に作り、昬を昏に作り、泯を汦に作り、〈汦は文館詞林に見ゆ、〉愍を〓に作れるが如し、〈〓大津大浦の書に見ゆ〉此等の中には、今日に至りても、マヽこれを用ふる者あり、又別字を用ふるは、續日本紀和銅四年九月甲戌の詔に、論語を引て、不㆑教㆑民戰の民を人に作り、〈此句、文館詞林六百九十九、梁の王筠の習戰備教に据れり、〉養老二年四月、道君首名の傳に、勸㆓民生業㆒を、勸㆓人生業㆒と云ひ、日本後紀大同三年四月辛卯の詔に、民瘼を人瘼に作れるが如し、數世の世を代に作れるも、當時の餘習ならん、勿論之を避けしにあらざれば、唐にて民部を改めて、戸部とせしかど、我邦にては、之を改めざりしなり、又虎を靈異記に贙に作り、類聚名義抄には〓{(虎^虎)/貝}の字を擧げ、〈文正元年の大塔にもあり、殊に奇を好むより出でしなり、宋の高宗の書にも、此字あり、〉及び神護景雲二年に寫せる、阿難四事經に、丙丁の丙を景に作れり、虎は唐の高祖の祖父の名、炳は父の名なり、〈今の唐律に、景丁を丙丁に作れるは、後に改めるなり、〉又唐律に、顯の字、隆の字を避けたるに、我律に此字を用ひたるは、我律は、直に永徽の律に依りたればなり、顯は唐の中宗の名、隆は玄宗の偏名なり、又我律に、評直の評を平に作り、剩利の剩を乘に作れるも、唐律の舊本に依れる故なり、〈今の唐律には、皆これを改めたり、〉さてかゝる字ども、みな唐碑などに見えたれど、今は煩しく其出處を擧ず、

我邦にては、平出、闕字の制ありて、公式令に見えたれど、闕畫の事なし、徳川幕府の時に、英を〓とし、兼を〓とし、惠を〓とし、統を〓としたるが如きは、儒者の輩の私になしゝなり、爾れども諱を避る等の事は、昔より有りて、孝徳天皇大化二年の詔に、以㆓王名㆒輕シク掛㆓川野㆒、呼㆓名百姓㆒、誠可㆑畏焉と云ひて、之を禁じ、元明天皇の和銅七年には、ワカタラシ〈成務天皇の御名〉の姓を稱するを禁じ、孝謙天皇の天平寶字元年には、オビト〈聖武天皇の御名〉のカバネを毗登とし、桓武天皇の延暦四年には、シラ〈光仁天皇の御名白壁の嫌名〉の姓を改めてとし、山部〈桓武天皇の御名〉の姓を改めて山とし、平城天皇の大同元年には、紀伊國郡〈平城天皇の御名殿〉を改めて在田郡とし、嵯峨天皇の大同四年には、伊豫國神野〈嵯峨天皇の御名〉郡を新居郡としたり、是等はみな天皇の御名に觸るゝ者なり、親王にも亦これあり、桓武天皇延暦二十年に、甘南備眞人神野〈嵯峨天皇の御名、時に親王なり、〉を改めて眞野とし、延暦二十三年に、清原眞人繁野〈親王の名〉を夏野としたり、又外戚大臣の爲に之を避けし事あり、孝謙天皇の天平寶字元年に、藤原鎌足、の名を稱するを得ざらしめ、フヒトの尸を毗登とし、藤原部の姓を久須波良部とし、〈是より先、聖武天皇の神龜三年に、備前國藤原郡を改めて、藤野郡とせし事あり、〉仁明天皇の承和二年に、橘清友の爲に、清友宿禰を改めて、笠品宿禰とせし類、猶多かるべし、尚是等の事は別に云べし、

重字に二點を寫す、是を重點と云ふ、新撰字鏡に見えたり、蜻蛉日記にも、こゝにはこゝにはと、ぢうてんがちにて、返したりけむこそ、尚あらめ、なども云へり、通俗篇に、涪翁雜説、複語書㆓二字㆒、重㆓二字㆒也升庵外集に、乃古文字、言字同㆑于㆑上者複書也、按二説未㆑定㆓執是㆒、今人或書㆑二、或書㆑匕、各于㆓舊説㆒有㆑合とありて、重點は二の字なりと云説と、上の字なりと云ふ説とを擧げたり、但し楊升庵の説も、二を古文の上としたるにて、匕を指して、上の字としたるにはあらず、さて支那にては、此字極めて古く起りたる者にて、周の石鼓文にも重點あり、嬴奏の碑には、大夫を夫ニに作れり、亦重點にして、後世の印譜などにも、明月を明ニに作り、流水を流ニに作るなどの事あり、我邦にては、支那に倣ひて、重點に數種の書法あり、處處を處ニと書き、種種を種ニと書くなどは、常の事なり、二字以上を重ぬるには、三種の書法あり、空海の即身成佛品に、一而無ニ量ニ而一と寫し、慶長二年の書寫なる舊事紀に、之ニ多ニ儾ニ瀰ニ能ニと寫せるは、毎字の下に、直に重點を寫せるなり、浪華帖の道風の尺牘〓〳〵と寫し、醫心方又作強中病ニニニ者と寫せるは、數箇の字を寫して後に、其下に重點を一封に寫せるなり、浪華帖の空海の尺牘に、所ヽ望ヽと寫し、莫ヽ責ヽ也と寫せるは、數個の字を寫して後に、毎字の間に重點を寫せるなり、皆支那人に仿ひし者なることは、草露貫珠拾遺米庵墨談などを視て知るべし、さて重點は文字の下の中央に在るあり、右に在るあり、其形も種種ありて、及びは、支那人に依りたる者にて古し、より變じたるにや、大塔物語、及び寛正三年十一月九日の東寺文書などにあり、唐僧玄測の書には、〓とあり、又後に〓{人/丶}と寫せるあり、古寫蒙求などに見えたり、即ち合の字にて、上の字に合せて同字なる事を顯すにや、〓{人/丶}は合の字かと思はるゝは、天仁三年の書寫なる大日經疏に、二合を二〓{人/丶}と寫せればなり、其後またとなれり、寛永版の舊事紀などに見えたり、倭楷正訛に、〓{人/丶}、凡文有㆓疊字㆒、如㆓兢兢業業㆒、上書㆓本字㆒、下書㆓二字㆒、作㆓兢ニ業ニ㆒、字、亦作㆑、倭俗作㆑〓{人/丶}とあり、但し匕は、支那にても古くは見えず、我邦にては、徳川幕府の時の儒者などの書る物にあるべし、因に云ふ、雙を㕠と書き、讒を〓{糸(免/丶/丶)}と書き、棗を〓{朿/二}と書ける類は、一字の中に重點を用ひたりなり、亦支那人の筆跡に在り、

東大寺所藏なる天平間の文書に、万呂を〓と書けるが多し、淳化帖なる羲之の書に頓首を〓と書き、獻之の書に、再拜を〓と書たるに同じ、上の一字を書すれば、下の一字は體を成さずしても、自ら知らるれば、倉卒に書けるなり、今世の御座候の、御の字、候の字など是に同じ、又不具を〓と書けるは、浪華帖の空海の書に在りて、亦二王等の書に見えたり、

上にも言へる如く、我邦にて俗字を用ふるは、常の事にて、顏氏家訓に、自有㆓訛謬㆒、過成㆓鄙俗㆒、亂傍爲㆑舌〈亂、干祿字書、〉揖下無㆑耳、〈〓{才(口/冖/月)}、北魏碑、緝を〓{糸(口/冖/月)}に作り、葺を〓{葺-耳/冖/月}に作るなど同じ〉黿鼉從㆑龜、〈未㆑檢〉舊奪從㆑雚、〈〓{權-木/臼}、梁碑、〓{權-木/寸}、未檢〉席中加㆑帶、〈廗、干祿、〉惡上安㆑西、〈〓{西/心}、北魏碑、〉鼓外設㆑皮、〈皷、北魏碑〉鑿頭生㆑毀、〈䥣、唐碑、〉離別配㆑禹、〈〓{禹隹}、隋碑、〉壑乃施㆑豁、〈〓{豁/土}、北魏碑、〉巫混㆓經旁㆒、〈〓{一/坐}、東魏碑、〓{一/(人人)/土}、唐碑〉皋分㆓澤片㆒、〈睪、莊子、今なほ睪丸に此字を用ふ、〉獵化爲㆑獦、〈干祿〉寵變成㆑竉、〈鍾繇〉業左益㆑片、〈〓{片業}、廣韵〉靈底著㆑器、〈〓{雨/器}、北魏碑〉とある類の字をも、多く之を用ひたり、さて匚匸を辷に作るあり、匠を〓{辷_斤}とし、〈唐碑〉匣を〓{辷_甲}とし、〈干祿〉匹を〓{之_兀}とする〈干祿〉が如し、亻を彳に作るあり、健を徤とし、〈歐陽詢〉條を〓{彳(條-人)}とし、〈梁碑〉彳を亻に作るあり、役を伇とし、〈梁碑〉技を佊とする〈北齊碑〉が如し、宀を冖に作るあり、穴を冗とし、〈篇海〉宼を㓂とし、〈五經文字〉寫を冩とする〈干祿〉が如し、口をムに作るあり、吝を〓{肴-月'ム}とし、〈字文周碑、〉售を〓{隹/ム}とする〈干碑〉が如し、ムを口に作るあり、弘を〓{弓口}とし、〈漢碑〉雄を䧺とする〈漢碑〉が如し、公を㕣に作るあり、松を柗とし、衮を袞とするが如し、㕣を公に作るあり、船を舩とし、〈鍾繇〉沿を㳂とし、〈石經〉袞を兖とするが如し、十を忄に作るあり、協を恊とし、〈五經文字〉博を愽とする〈干祿〉が如し、广を厂に作るあり、廚を厨とし、〈五經文字〉廁を厠とし、廏を厩とするが如し、廴を辶に作るあり、延を〓{之_(延-廴)}とし、〈北齊碑〉建を〓{之_(建-廴丶)}とする〈北齊碑〉が如し、辶を廴に作るあり、迪を廸とし、巡を廵とするが如し、氵を冫に作るあり、滅を〓{冫(滅-シ)}とし、〈唐碑〉減を减とし、〈東魏碑〉決を决とし、〈廣韵〉準を准とする〈梁碑〉が如し、木を扌に作るあり、構を搆とし、〈北齊碑〉枉を抂とする〈干祿〉が如し、方をオに作るあり、於を扵とし、〈廣韵〉旅を〓{オ(乞-乙/衣)}とし、〈唐碑〉族を挨とするが如し、禾を米に作るあり、稟を〓{亠/回/米}とし、〈北魏碑〉穀を糓とするが如し、禾を示に作るあり、穎を頴とし、秦を〓{秦-禾/示}とする〈智永〉が如し、示を禾に作るあり、祕を秘とし、〈北齊碑〉祓を〓{禾(ノ/友)}とし、〈唐景教碑〉禊を稧とする〈蘭亭〉が如し、竹を艹に作るあり、筵を莚とし、〈羲之〉第を苐とし、〈干祿〉等を䓁とし、〈唐碑〉符を苻とする〈唐碑〉が如し、耳を身に作るあり、職を軄とし、〈梁碑〉耽を躭とする〈五經文字〉が如し、昜を〓{塲-土}に作るあり、場を塲とし、〈康煕字典〉腸を膓とする〈同上〉が如し、〓{腹-月}を夏に作るあり、腹を〓{月夏}とし、〈獻之〉復を〓{彳(百/夂)}とする〈鍾繇〉が如し、喿を㕘に作るあり、操を撡とし、〈北魏碑〉藻を〓とする〈梁碑〉が如し、又罔を罓に作り、〈北魏碑〉網を䋄に作り、〈東魏碑〉國を囯に作り、〈東魏碑〉率を卛に作り、〈北齊碑〉刺を㓨に作り、〈梁碑、顏氏家訓に、刺字之傍應㆑爲㆑束、今亦爲㆑夾とあり、〉師を〓{(阜-十)市}に作り、〈五經文字〉歸を皈に作り、〈唐碑〉呉を吴に作り、〈唐碑呉志薛綜傳に、無㆑口爲㆑天、有㆑口爲㆑呉とあり、〉商を啇に作り、適を〓{之_商}に作り、〈陸柬之〉敵を〓{商攵}に作り、〈干祿〉學を〓{與-一-八/冖/子}に作り、〈東魏碑〉擧を〓{學-冖-子/大/子}に作り、〈東魏碑〉壻を聟〈干祿〉又は婿に作り、〈集韵〉總を惣に作り、〈唐碑〉惱を惚に作り、〈北齊書古事記患惚の惚は、此字の誤なるべし、伊勢本には惱に作れり、〉忝を〓{忝-心/小}に作り、〈干祿〉極を〓{極-一/火}に作り、〈北魏碑〉缺を〓{垂夬}に作り、〈北齊碑晉書慕容垂傳に、改㆓名〓{垂夬}㆒、尋以㆓識記之文㆒、乃去㆑夬、以㆑垂爲㆑名とあり、〉段を叚に作り、〈歐陽碑〉穀を䅽に作り〈干祿、我邦の書には、多く䅽に作れり、〉鹽を塩に作り、〈唐碑〉祝を呪に作り、〈北齊碑〉礙を碍〈正字通〉又は㝵に作り、〈漢碑〉著を着に作り、〈唐碑〉策を筞〈東魏碑〉又は〓{艸/冖/木}に作り、〈唐碑顏氏家訓に、簡策字、竹下施㆑束、末代隸書、似㆓杞宋之宋㆒也とあり、〉蛇を虵に作り、〈東魏碑〉陀を陁に作り、〈西魏碑〉軌を䡄に作り、〈漢碑〉輩を軰に作り、〈干祿〉諡を謚に作り、〈五經文字〉麪を麺に作り、〈獻之〉亶を〓{面/旦}に作り、〈干祿〉飾を餝に作り、〈北魏碑〉鶴を鸖に作り、〈唐碑〉鴟を鵄に作り、〈東魏碑〉鬢を髩又は鬂に作るあり、此中自ら新古の別はあれど、皆支那人に依りし者なり、州を刕に作るなども、或は支那人に本づきしか、〈晉書王濬傳に、濬夜夢懸㆔三刀於㆓臥屋梁上㆒、須臾又益㆓一刀㆒、濬驚覺、意甚惡㆑之、主簿李毅再拜賀曰、三刀爲㆓州字㆒、又益㆑一者、明府臨㆓益州㆒乎とあり考ふべし、〉又佛を仏に作り、〈梁鐵鑊銘〉釋迦を尺加に作れるは、〈婆娑論〉支那にて古く行はれしなれど、佛を仏に作るに由りて、拂を払に作り、又釋を釈に作りて、更に澤を沢に作り、擇を択に作るは、我邦の俗字なり、又充を古く宛に作れるに由りて、終に〓{亠/夕匕}に作り、アテ又はツヽと讀ませ、又宍を完に誤り、榲を椙に誤り、奄匂に誤り、叓〈事の古文〉を㕝に誤れるも同じ、籾も糅の一體なる粈より誤れるなり、新撰字鏡には籾を糅の古文とし、類聚名義抄には籾を糅の正字として、モミと訓ぜり、是は雜糅の義より、モミと訓むにより、其訓を借りし者ならん、又粈を籾に作るは、紐を〓{糸(釼-金)}に作るに同じ、かゝる類には、草書より來れる者多し、驗を騐に作り、〈正字通〉正を〓に作り、〈唐碑〉麥を麦に作り、〈虞世南〉處を䖏に作り、〈廣韵〉變を変に作れる〈唐碑〉が如し、樣を〓{(樣-永)'次}に作れるも、草書より轉ぜるなるべし、〈樣は橡の本字なり、樣式の樣は、唐人は〓{(樣-永)'次}に作れり、故に東大寺獻物帳傳教大師將來目録には、樣を〓{(樣-永)'次}に作れり、〉

又頭を加へ、脚を加へ、偏を加ふるあり、稾を藁とし、〈唐碑〉瓜を苽とし、〈北齊碑〉泥を埿とし、〈漢碑〉冢を塚とし、〈干祿〉然を燃とし、〈干祿〉坐を座とするが如し、〈此中には、甲の義にのみ用ひて、乙の義に用ひざる者あり、〉麻を魔とし、加沙を袈裟とし、曾を僧とし、荅を塔とするも〈僧塔は、説文の新附字なり、〉此類なり、又偏を改め、或は頭を以て偏と爲すあり、館を舘とし、槍を鎗とし、筏を栰とするが如し、是等はみな支那人に本づきし者にて、思を偲に作り、惡を〓{心惡}に作り、定を掟に作り、升を枡に作り、鉾を桙に作り、鞍を桉に作り、椀を鋺、碗、埦に作り、刈を苅に作れるなどは、支那に倣ひて創製する者なり、かゝる事は、支那の南北朝の比に、盛に行はれし者にて、顏氏家訓に、呉人呼㆑紺爲㆑禁、〈我邦にて、紺をコムと呼ぶは、此音なり、〉故以㆓糸傍㆒作㆑禁、代㆓紺字㆒、呼㆑盞爲㆓竹筒反㆒、故以㆓木傍㆒作㆑展、代㆓盞字㆒、呼㆓鑊字㆒爲㆓霍字㆒、故以㆓金傍㆒作㆑霍、代㆓鑊字㆒、又金傍作㆑患爲㆓鐶字㆒、木傍作㆑鬼爲㆓魁字㆒、火傍作㆑庶爲㆓炙字㆒、既下作㆑毛爲㆓髻字㆒、金花用金傍作㆑華、窓扇川木傍作㆑扇、諸如㆑此類、專輙不㆑少、とあるが如し、故に我邦の創製と思はるゝ中にも、支那人に本づきしもあるべし、又熟語の偏を加へ、又は改むるあり、輻湊を輻輳に作り、搢紳を縉紳に作り、摸糊を糢糊に作れるは、支那人に依れる者にて、蝦夷を蝦蛦に作り、可怜を〓{心可}怜に作り、景迹を〓{之_景}迹に作れるは、我邦の創製なるべし、

又省文あり、蟲を虫に作り、〈北齊碑〉絲を糸に作り、〈東魏碑〉蠶を蝅〈干祿〉又は蚕に作り、〈字典〉聲を声に作り、麤を麁に作り、〈干祿〉爐を炉に作り、驢を馿に作り、學を斈に作り、〈北齊碑〉盡を尽に作り、〈字典〉獻を献に作り、體を躰に作り、〈字典〉證を証に作り、〈正字通〉涙を泪に作り、〈目水を涙とするは、四方木を棱とする類か、〉燈を灯に作り、〈字典〉遷を迁に作り、〈丁千の音を借るるべし、〉舊を旧に作る〈旧は臼の一體なり、後に舊の省文とす、〉が如きは、支那人に依りし者なり、檀那を旦那に作るも、恐らくは亦支那人に原づきしならん、〈昔世殖善に、檀主を旦主に作れり、〉雁及び暦を厂に作り、摩を广に作り、幅及び幂を巾に作り、歳を戈に作り、〈戈は靈異記、及び建久三年に書寫せる禮佛懺悔作法にあり、〉閏を壬に作れるは、閨の訛字閏より出たり、关は癸の省文なるべく、刁は寅の草體の省文なるべし、又省文に似て然らざる者あり、處を処に作り、〈処は處の本字なり、説文に、止也、處或從㆓虍聲㆒とあり、〉歌を哥に作り、〈説文に、古文以㆑哥爲㆓歌字㆒、とあり、〉箇を个に作り、〈説文に、箇或作㆑个とあり、〉棄を弃に作る〈説文に、古文とあり、〉が如し、又無を无に作り、〈周易〉禮を礼に作り、〈説文〓{示(礼-ネ)}、古文とあり、〉某を厶に作るも、〈此字、我邦にて古くより用ひたり、諸家の日記などに多し、陔餘叢考に、天祿識餘を引て云、今人書㆑某爲㆑厶、皆以爲㆔俗從㆓簡便㆒、其實即古字也、穀梁桓公二年、蔡侯鄭伯會㆑于㆑鄧、范注云、鄧厶地、陸徳明ノ釋文云、不㆑知㆓其國㆒、故云㆓厶地㆒、本又作㆑某とあり、〉亦古文にして省文にあらず、灑〈説文に、汎也とあり、〉を洒、〈説文滌也古文以㆓爲灑掃字㆒とあり〉に作り、〈曬を晒に作るは、是に倣ひしならん、字彙補に在り、〉棲〈説文に、西或從㆓木妻㆒とあり、〉を栖〈説文に此字なし、西の字の注に、鳥在㆓巣上㆒也、日在㆓西方㆒而鳥西スム、故因以爲㆓東西之西㆒とあり、西の字は即ち鳥棲なるを、後に木を加へて、東西の西に分ちしなり、〉に作るなども又省文にあらず、

他の字を通じ用ふるあり、磐を盤に作り、〈漢書〉績を續に作り、〈穀梁傳〉宵を霄に作り〈北魏碑に、夙宵を夙霄に作る、宵は霄の一體なり、〉包を苞に作り、〈儀禮〉鐘を鍾に作り、〈周禮〉刑を形に作り、〈梁碑〉後を后に作り、〈禮記〉餘を余に作り、〈周禮〉檢〈説文書署也とあり、段注引伸爲㆓凡檢制檢校之稱㆒とあり、〉を撿に作り、〈説文拱也とあり、〉校〈説文木囚也とあり、唐の石經には、參校の字に、此字を用ひたり、〉を挍に作り、〈説文に此字なし陸徳明曰、比校字、當㆑從㆓手旁㆒と、〉按〈説文に、下也とあり、〉を案に作り、〈説文に、とあり、〉模〈説文法也とあり、〉を摸に作り、〈説文に此字なし、摹の字あり、規也と注せり、〉橈〈説文曲木也とあり、段注に、引伸爲㆓几曲之稱㆒とあり、〉を撓に作り、〈説文擾也とあり、〉を藉に作る〈説文に、祭藉也、一曰草不㆑編狼藉とあり、段注に、引伸爲㆓凡承藉蘊藉之義㆒、又爲㆓假藉之義㆒とあり、〉が如し、互に相通ずる者あり、爾〈説文に、麗爾猶靡麗也とあり、〉を尒に作り、〈説文に、辭之必然也とあり○彌を弥に作るは、此に傚ひたる者なり、稱を称に作るは、稱の俗字穪より來れるなり、珍を珎に作るは、參を㕘に作れる類にて、自ら別なり、〉與〈説文に、黨與とあり、〉を与〈説文に、賜予とあり、〉に作り、〈歟を欤に作るは、此に傚ひたるなり、〉號〈説文に、嘑也とあり、〉を号〈説文痛聲也とあり、〉に作り、異〈説文分也とあり、〉を异〈説文擧也とあり、尚書の鄭注音異とあり、〉に作れるが如し、我邦にても檴を獲に作り、㙲を擁に作り、〈並にに見ゆ、〉糠を粳に作り、〈續日本紀等に見ゆ、〉鑰を鎰に作り、列を烈に作り、枚を牧に作り、租を祖に作るは、他の字を通じ用ふる者にて、附を付に作り、大を太に作り、小を少に作るは、〈大寶を太寶に作り、少納言を小納言に作れる類なり、又少納言に對すれば、大納言の大は、泰の音なるべきを、字の如く呼ぶも、混用せしに似たり、〉互に通ずるなり、

偏傍頭脚などを囘易するあり、和を咊に作り、〈説文に、咊あり、和なし〉稾を稿に作り、峯を峰に作り、嵯峨を嵳峩に作り、幕を幙に作り、松を枀、枩に作り、槩を概に作り、海を〓{毎/水}に作り、蘇を蘓に作り、羣を群に作り、腰を〓{要/月}に作り、脅を脇に作り、酬を〓{酉/州}に作り、鄰を隣に作り、〈阝の右に在るは邑なり、左に在るは阜なり、相通ずるべからず、俗字なり、〉颯を䬃に作り、飆を飇に作るが如し、〈○良弻曰、書家語に、この格を互換法と稱す、〉偏傍などを囘易して、他の字となるあり、枷架、杲杳、棗棘、悲悱、愀愁、愈愉、紊蚊、翌翊翋の如し、〈○良弻又曰、凡そ二畫同じき者相並ぶ時は、其一畫を省く例あり、是を借換法と云ふ、祕を秘とし、岫を〓とし、嶇を〓とし、赫を〓とし、歳を嵗とするが如し、本論に漏たれば、こゝに取添へつ、〉

同字の異體を以て、異義を分つあり、柰は奈の正字なり、爾るに奈を奈何の義にのみ用ひて、別に㮈の字を作り、果は菓〈漢書〉の正字なり、爾るに菓を果實にのみ用ひ、句は勾の正字なり、爾るに勾は勾曲にのみ用ひ、邪は耶の正字なり爾るに耶を多く助語にのみ用ひ、華は花の正字なり、爾るに花を花實に用ひ、華を華美にのみ用ひて、全く別字の如くなれり、〈千字文にも、此二字倶に在りて、別字としたり、但し我邦にては、古く花を華美にも用ひたり、〉

又古に在りては、也、焉の二字を、多く助辭に用ふるに由り、別に〓{門<也}、鳶の二字を製せしが如きは、常の事なり、

上に擧げたる俗字の中には、干祿字書に云へる通字も多かれど、今は正字にあらざるを、概して俗字としたり、而して古にありて變したる者は、俗字にあらずして、後に至りて變じたる者を、俗字とするなり、

此考には、我邦の文字の俗體なるも、多く本づく所ある事を述たれど、今日に在りては、成るべく正字を用ふべし、况や奇異なる俗字を用ひて、人を驚すをや、されども普通に俗字を用ふる者は、俗字を用ふる方、反てマサるべし、正字を用ふる時は、讀み難き事あり、


書誌的情報

底本
瀧川政次郎編『佐藤誠實博士律令格式論集』(汲古書院、1991年、375-388頁)
初出
如蘭社話、後篇第十一號第十二號、大正四年一月、三月。
猪川まこと
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