大矢博士自傳

自分は嘉永三年庚戌十二月三日の生れ、舊新發田領越後國中蒲原郡根岸村中高井、名主大矢辰次郎の七子で、九人の同胞の七番だといふところから幼名を又七郎と命けられた。父は不幸にして自分の六歳の時歿し、こんな人であつたと朧氣に記憶にある位のものに過ぎない。父亡き後は兄共は未だ幼少であつたから、專ら母の教を受けた。母は臼井村の醫師西潟の女で、その父即外祖父は相當の學問もあり、醫術の傍ら一郷の庄屋組頭の子弟を集めて學問を教へてゐたので、自分の母の如きも幼時から数育を受け、一通りの漢籍をも讀んだらしい。西潟の伜西潟敏之助といふのが、後に世に知られた大審院判事の西潟オソシの幼名で、即ち自分の外叔父である。自分の長兄は幼名益之助、後に益彦と改め、次兄は昌山と云つた。實は叔父の西潟訥が早く家を出て四方に遊んだため、祖父は自分の次兄を養うて醫師の相續者とするつもりで昌山と名のらせたものだ。

自分も初めは近所の小兒と共に隣村の夏穗なつほの庄屋の中村といふ人の家へ行き手習をやつた。この人は文徴明風の書を書いたもののやうである。十歳のころからは叔父の宅へ通うたり、また自宅で教はつたり、まづ朱熹の小學内篇の素讀を受けた。元來新發田藩は朱子學であつたから、領内でも率ね朱子派の學問をやつたものだ。朱子派では大學を教へず、直ぐに小學から始めるのが例である。

自分は生來愚鈍で記憶も悪く、萬事に疎かつた爲に常に、長兄には蔑視されてゐた。そのころなかくち川が破堤し、濁水郷内に溢れ、通學することが出來がたいためうちに數十日もゐたことがある。あるとき、長兄が自分を呼び、素讀をやらせた。ところが、自分は悉く忘れてしまつて一句も讀み下すことが出來ない。すると、兄は大いに怒つて、お前のやうなものには學問をやらせても張合がない。これから以後、下男などと共に農業をやらせるといふ。自分は小兒心に兄の嚴責が悲しく、泣く泣く母の許へ往つて訴へた。ところが、母は笑ひながら、マアよいからこれを讀めと云つて授けられたものは一册の草艸紙であつた。これを讀むと實に面白い。これに興味を得たのがもとで、後には家中にある草艸紙を悉く讀んだ。

當時、宅に友松ともまつといふ下男が居つた。これは宅の出入のものゝ息子であるが、若いとき商家に勤めたこともあつて、多少の文字もあり、常に暇さへあれば軍書を讀んでゐた。友松があるとき、自分に繪本大閤記を見せたから、讀んで見ると實に面白い。日ならずして讀みつくす。友松の話によれば、一里川上の白根しらね町の貸本屋から借入れたといふので、自分も母に請うて白根の貸本屋へ行き、宮本武勇傳・荒木一代記その他の軍書本を借りて歸つて讀んだ。こんな風にたびたび白根へ往つたが、歸る途中地藏堂か何かで讀んでしまつて、そのまゝまた白根へ引返して借り替へるといふやうな滑稽もあつた。こんなことが兄に知れると叱られるから隱して讀んでゐたのだが、自分の家は貧乏名主で、畑仕事くらゐには誰でも出る。自分も二歳上の姉と一緒に豆の草取に出たことがあつた。かういふ時でも軍書本は必ず離さず持つて行く。姉は女心のやさしく、草取は私一人でやるからお前は本を讀んでおいでといふので、自分は柿の木の下で讀むといふやうなわけで、軍書本は殆ど晝夜讀み耽つてゐた。尤もこの間にも、母は慈愛のうちにも嚴格なところがあつて、常に忠恕の恕の意義を説き、この一字を生涯の守りとすべきこと、惡いと思ふことは決して行うてはならぬこと、虚言を吐いてはいけないこと等、行往坐臥訓戒したものである。自分は七十八歳の今日まで、徳義上非難を受けるやうな行爲のなかつたことを確信すると共に、これみな幼時における慈母訓戒の賜といはざるを得ない。

あるとき、家兄が小林家から一部の書を得て來た。これは外叔小林敏之助(後に西潟訥)が漢學の師なる加茂の神官山伏宮房であつた雛田松溪といふ人の家から持歸つた、平田篤胤の「出定笑語附録」である。家兄はこれを得て、一家族を集めて讀み聞かせたが、自分はその時非常にその説を信じ、爾來平田の著書は勿論、本居宣長の古事記傳等より、次第に國書に眼を曝す樣になつた。家兄は名主たる公務のために日常繁忙であつたが、自分にはそれ等の累ひもなく、日夜讀書に耽ることが出來たゝめ、後には家兄も自分の説を聽くやうになつて來た。かゝる間に次兄昌山が醫學修業中病死したので、母や兄から、その後ぎ繼が醫師となるべきことを勸められ、止むを得ず日々臼井村に往き、外祖父に從ひ、醫書を讀んだ。中には蘭書を譯した生理學もあり、また平生本草學を好んでゐたゝめ、醫書以外、本草綱目を讀むことを樂しみにしてゐた。

そのころより、程なく洋人の渡來あり、維新前の薩長の征幕となり、官軍進んで長岡城を攻略するに至つた。この時溝口藩は從來の關係上、會津藩を助けなければならぬ譯合から、兵を長岡に出すことゝなり、領内の名主組頭もしくはその子弟を募つて、あらたに銃隊を作り、もつて軍隊の不足を補ふことゝなつた。自分は兄の代りとしてこれに充てられ、十七歳をもつて新發田城下に赴き、銃隊に加はり、長岡城にちかき見附町に宿陣し、たび〳〵會津・米澤の兵と共に長岡城を攻撃し、銃砲の下を潜ること數回であつた。そのうちに、家兄は他の父兄數人とゝもに見附の宿所へ來て、官軍が松ヶ崎へ上陸したことを告げ、兎に角一まづ歸れと云つて、自分を促して歸郷したので、母は大いに喜んだ。すると間もなく、新潟から叔父の西潟が迎ひをよこしたので行くと、官軍に附屬するやうに説き、直ちに勤王黨で北辰隊長たる遠藤七郎に紹介し、隊長は自分を北辰隊訓導に命じた。そのとき遠藤の弟八郎が半隊長となつてゐたが、自分は年も上のことで八郎を助ける任務を帶びたわけである。北辰隊はかねて官軍總督の命を奉じて佐渡の戊兵となつてゐたので、佐渡夷港へ上港したのがすなはち明治元年十二月であつた。

自分は木津の戊兵となりて同所に宿陣してゐたが、居ることいくばくもなく、一人の兵士が眞野山附近で古い玉冠樣のものを發見して屆け出た。眞野山は人も知るごとく、承久亂離の昔、佐渡へ遷幸崩御になつた順徳院の御茶毘所であるから、もしやと思うて、西潟や伊藤(甥故大審院判事伊藤悌治の養父)に告げ、いろ〳〵調査研究を遂げると、まさしく順徳院の玉冠だといふことが明かになつたと共に、京都の宮内省へお納めすべきものであると決議し、そのお伴を自分にいたせといふことになつた。明治二年、自分は玉冠を唐櫃の中へ納め、小木港を發して柏崎へ上陸し、北陸道を經て上洛、三月京都に省し、宮内省へ出頭して委細上申に及んだ。ところが、同省でも大いにこの擧を賞美あり、大臣の意によりて攝津水無瀬の順徳院御陵に納むることゝなり、これまた自分に命令があつたので、自分は神戸に至り、滯りなくその任務を果し、歸路は東京を經て新潟へ歸り、以來北辰隊を去り、郷里の根岸村へ歸つた。

郷里へ歸つてからは、學校の監督のやうなことをやつた。この時分には一郷に一つの學校があつたのみで、これが臼井にあつた。この學校の教員は新發田藩から派遣された上野某といふ人で、たしか上野喜永次君の兄君だつたと思ふ。自分は友人の田澤實入君とゝもにこの學校の監督をしてゐたのである。明治三年の秋八月、新潟に遊び、不圖新潟皇學校の表札が眼についた。入つて見ると、新潟縣最初の社寺課長の小池内廣翁が新潟皇學校を開設し、自ら校長となり、縣内の神主連中を集めて皇典を教授してゐることがわかつた。自分は國學には親しみをもつてゐたので、小池翁に入學を請うて許され、後、いくばくもなく同校句讀師を命ぜられた。この學校には國學の書物が澤山あつたので、自分にとつては大いに益をなした。そのうちに小池翁は伊勢へ轉勤されたために自分も罷めた。

そのとき、この新潟皇學校の同窓で親しく交つてゐるものゝうちに、新津の桂重章といふ人があつた。自分がこの人との交際の端緒についても一條の物語があるが、兎に角、ある事情で桂君が自分に信服し、爾來懇意の間柄となり、自分が新潟皇學校へ入學するや、矢張り自分を追うて同じく入學してゐた。自分がこの時分から讀書以外に何一つ出來るものがない程、無能であるところから、自分に同情してくれて、近時歳月を逐うて諸學校がさかんに起つて來るに相違ない。從つて書店を開けば大いに利益があると思ふ。一つやつて見てはどうか、といふ。自分は書店はいいかも知れぬが、然し資金がないから駄目だといふと、ナニそれは本家(新津の桂家)へ頼めば出來るといつて勸めるので、自分もその氣になり、重章君と共に桂本家を訪うて主人に懇請したところが、早速承諾され、取敢ず百圓を貸與せられ、その後また廿五圓拜借した。當時の金で前後百廿五圓といふ金は相當の大金であるのに、たゞちに貸與されたといふのは、分家の桂重章君の斡旋よろしきを得た結果であることは勿論だが、桂家の主人が相當の理想をもつた人であつたためでもあらう。自分はこれに力を得て、今はもう故人になつたであらうが、新潟の日野徳三郎君等の盡力もあつて書店を開き、なんでも自分が讀本やうのものを著述して出版もしたやうだ。しかし生來世務に疎き自分が、殊に若年の無經驗者だから、成功しようはすがない。數月を保つ能はずして倒れ、また郷里へ蟄息してしまつた。爾來自分は全く物質的事業には天分の皆無なることを知つて、全然手出しをしようとも思はない。そんなこんなで桂家からの借金はその後記憶にはあるといひ條、返濟も出來なかつたが、近頃ある知人が桂家からその證書を貰ひ受けて來てくれたので、桂家の當主の好意を感謝してゐる。

明治五年三月教導職訓導を拜命、六年二月投票により新潟縣十九大區郷社諏訪神社祠掌となつた。八年に官立新潟師範學校が設立された。この時の師範學校は全國において八校だけ設置されたもので、新潟は五港の一だといふところから、その中に加へられたものである。自分は訓導及び祠掌を辭して直にこの師範學校へ入學した。自分は前に云へるが如く、かつて新潟皇學校に入り、國書を讀んだ結果、この方の學科は相當の素養もあつたので、その他の學科即ち生理・物理・化學・動植物學といつた方に力を注いだが、自分の如き鈍才にしてなほ同校卒業の際には第三位を占むることを得、後、各縣師範學校・中學校に教鞭を執つた際にも大いに便宜を得た。

明治九年十一月山梨縣三等訓導に任し月給金二十圓給與せられ、山梨縣師範學校へ勤務を命ぜられた。その後友人の村田忠恕といふ人の勸めにより、翌十年二月茨城縣師範學校に轉任、師範學校三等訓導に任ぜられ、同十二年三月茨城縣師範學校二等教師、同十四年八月同二等助教諭に任ぜられ年給二百七十六圓支給、同十六年茨城縣師範學校一等助教諭に任じ年俸三百圓を給與せられた。この間水戸で妻を娶つた。同十七年九月土浦の茨城第二中學校三等教諭に任ぜられ、年俸三百六十圓給與されたが、同十九年九月同校廢止とゝもに自分も廢官となつた。

自分は中學校教諭が廢官となつたので上京した。當時田中東作といふ人が、教育に關する圖書を刊行する普及社の主筆で、自分は豫て知合であつたが、此人が當時文部省の教育局長といつたやうな位地であつた伊澤修二氏に紹介してくれて、この伊澤氏の手で明治十九年十二月、文部省雇編修局詰を命ぜられ月給三十圓給與せられた。同廿年十二月には文部屬に任じ判任官六等に叙せられ、廿三年六月總務局詰を命ぜられ、廿四年三月非職となり、廿七年三月非職滿期となつた。

文部省在職中及びその以後に於ても、伊澤修二氏には一方ならぬ好意をうけた。元來伊澤氏は非常に偉い人であつたが、同時にまた非常に短氣な人であつたから堪まらない。氣に入らぬと火のついたやうに怒る。所が、自分がまた極めて直情徑行にて、意見が違へば直ちに反對する。かつて大勢の職員のゐる前で、伊澤局長が何だか無理なことを云ふたので、自分もカツとなり、之に反抗して下らず、たちどころに大喧嘩となり、同僚の取りなしで止めた。しかし、伊澤氏は根が立派な人格の人だから、喧嘩のあとからすぐ柔かになつて、それ以來はかへつて前にもまして懇意となつた。自分は文部省在職中、國語教育に關するものに興味をもち、これが著作を試み、明治廿二年に「小學讀本」、廿四年に「わづかのこらへ(童話)」、廿六年に「大東讀本四卷」・「大東商工讀本四卷」等を公けにした。

自分が文部省から非職となつた當時、伊澤氏は既に文部省を去つて教育學館の館長となり、大日本圖書株式會社にも關係してゐた。この會社は主として教育・學校教科書の圖書出版事業を經營した。自分は豫て此會社から讀本類を出版してゐた縁故と、伊澤氏の關係とにより、同會社の社員となり、專ら教科書の編纂に從事した。明治卅二年四月、自分は臺灣總督府民政部學務課編修事務を囑託せられ、同卅四年八月に至り、御用濟解雇となつた。臺灣總督府在職中は、主として臺灣方言の調査と、臺灣小學校の教科書編纂に從事した。この前後に亘り、自分が國語教育に關する著作は、明治卅二年に刊行した「國語溯源」、卅五年の「臺灣教科用書國民讀本」・「教授用掛圖」を初め、「語學指南」・「東文易解」等であつた。

明治三十五年四月、文部省内に設置せられた國語調査委員會の補助委員を囑託せられ、明治四十年二月、同調査會廢止に至るまで、その職務に從事したのである。

さて自分が假名の研究に一生を委ねようと考へたことは、正にこの時に端緒を得たもので、これについては面白い話がある。當時東京女子高等師範學校教授の町田則文氏が自分への話に、同校長の高嶺秀夫氏が石山寺から齎し來れる一册の古經卷の傍訓に研究すべきものがあるやうだが、一見されてはどうかといふことであつた。自分はこれを聞くと直に高嶺氏を訪問して請うてこれを一見した。この經卷は、高嶺氏が官命にて京阪地方を巡回し、諸社寺の寶物調査をやつた際、江州石山寺の調査に盡力した勞に酬ゆるため、同寺から贈られたものださうな。ついてこれを見るに、傍訓の朱字や墨字に字態の珍らしいものゝ少くないことを發見したが、これを讀むにも相當の時間を要するので、高嶺氏から借りて歸つた。歸つてから一通り見てこれを差置いた。ふと見れば不思議にも朱墨二點とゝもに數多の白點を交へてあることを發見し、驚いて明處に向つて見れば白點は見えず、机邊に置けば白點が見える。さてはと思ひ、注意して見れば、白色は全く明處に向つてはかへつて見えないものだといふことを覺知した。

さてこの古經卷に就て、さらに白點の假名と字態とを注視すれば、記・紀・萬葉等の奈良朝時代のものゝやうで、實に珍らしいものであるから、たゞちにその一部分を淨寫し、後、之を假名遣及假名字體沿革史料に加ふることゝした。この高嶺氏から借入れたものを研究したところによれば、これは唐鏡中沙門神逈著「法華文句」第一卷であつて、もと廿卷あつたものであらう。書體は天平時代を少しく下つた程のもので、首から半過るまでは行筆やゝ謹嚴なるも、末尾の近づくに隨ひ漸く粗略となつて、暗に根氣もすでに竭きて、書寫他卷に及ばざりしを示してゐる。全卷白點・赭墨及び朱の三通りの訓點がある。熟視すれば赭墨が白墨の上に重なり、朱點間々赭墨を避けて書入れしてある處から見て、白點が一番先で、赭墨これに次ぎ、朱點は最も後に施したものだといふことが明瞭になつた。また假名の字體が三點とも相類似するところから推せば、ほゞ同時代の人の手になつたといふことも疑ひなく、かつその時代に眞假名の多きと、「テ」の假名に「弖」を用ゐたことなどから考へて、ほゞ推測することが出來ると思ふ。自分が偶然にもこれを發見したときは實に嬉しく、殆ど手の舞ひ足の踏むところを知らざる位のものであつた。

この白墨の傍訓を發見してよりは、矢も楯もたまらない。國語調査會長に依頼し、夏休を利用して京阪地方巡回を希望し、其快諾を得たので、明治四十年八月一日先づ石山寺に至り、金剛般若集驗記・大智度論等十四部を調査し、夫より京都知恩院、奈良興福寺・法隆寺、その他各地の古社寺等を歴訪して見ると、さきに發見したものゝ如き、及びその他貴重なる新史料が續々發見されるので、全部これを蒐集し、歸京の後、これを研究整理し、つひに拙著「假名遣及假名字體沿革史料第一」を完成することゝなり、明治四十三年帝國學士院において開版するにいたつたわけである。この研究については、自分も相當苦心したもので、史料の古典に、本文は勿論、傍訓の白・赭・朱三の點とも、實物と寸分違はぬやうに臨摹或は釣録し、一字をも餘さずこれを解釋したもので、その材料は實に非常の分量にのぼつたものである。自分の假名研究の動機は、これから得たもので、一生をこの研究に委ぬべき決心も、これから起つたものである。

「假名遣及假名字體沿革史料第一」完成の後、所謂萬集假名即ち眞假名の字體につき、いろ〳〵考證してゐる内、あるとき偶然詩經を讀むと、君子偕老に

君子偕老、副笄六、委々佗、如山如、象服足、子之不淑、云如之

とあり、また莊子の則陽に

無名故無、無爲而無不、時有終始世有變、禍福淳々至、有所拂者而有所、自殉殊面、有所正者有所

といふ章句がある。しかしてこの章句を一讀すると、まづ詩經の末句と、莊子の末句と相韻の用例を知ることが出來る。しかし、珈・河の字は漢音や呉音ではア韻であるのに、同じく漢呉音の宜はイ韻ので、これが相通するのが不思議なやうである。ところが我國の奈良朝時代の古書、記・紀・萬葉等また宣命・祝詞に、は多く字を用ゐるを例とするより考へ合せて、宜の古音はであつたことが推定出來る。これに端緒を得て、いろ〳〵研究して見ると、我國の假名の古音は全く詩經・莊子と同時代、即ち周代以上の古音より來たものであることの證據が續々現はれて來た。爾來自分は支那周代以上の漢籍につき、殘らず押韻を調査し、これを我國の假名と對比し、また字の構成の上から研究するため説文學の研究をも開始した。かくて明治四十四年九月には拙著「假名源流考」「同證本寫眞」を刊行し、更に大正三年六月「周代古音考」「周代古音韻徴」を刊行し、その後「音圖及手習詞歌考」をも公けにした。大正五年、不肖の假名研究の微功を表彰せられ、左のとほり帝國學士院より恩賜賞を授けられた。

賞記
帝國學士院ハ大矢透ノ假名ニ關スル研究ニ對シ本院授賞規則第二條二依リ茲ニ恩賜賞牌及賞金ヲ授與ス
 大正五年七月二日
         帝國學士院長正三位勳一等男爵     菊池大麓

自分は名聞を好むものではないが、渺たる研究に對し恩賜賞を授與せられたるは深く光榮とするところである。

研究すれば研究するほど、一層徹底的の研究を要する問題が起つて來る。そのうちに國語調査委員會は廢止せられたので、茲に自分は專心假名の研究を遂ぐべき決心を定めた。しかしこれには多少の經費が要る。貧乏な自分には困難だ。なんとか方法はあるまいかと、かねて自分の研究に同情を寄せられた上田萬年博士・澤柳政太郎博士等に相談したところが、それは啓明會の補助を仰いだ方がよからうといはれ、同博士等の盡力にて、當分の間年々千八百圓宛の研究費を補助せられることになつた。これが大正八年三月である。當時帝室博物館の總長は故森林太郎博士であつたが、非常に好學の人で、自分に對し奈良で研究した方がよいと勸められ、終に思ひ立つて奈良へ移住し、同年より大正十二年まで、足掛げ五年間同地に居住し、専念研究に沒頭し、大震災の五日前に歸京した。

この奈良の在住中は、正倉院の御本をはじめ、畿内各古社寺その他舊家所藏の古典を出來得るかぎり研究した。恰もよし、正倉院聖語藏の古經卷が修繕のため奈良帝室博物舘内に保存せらるゝに逢ひ、森總長の好意にて、三年間内覽研究の便宜を與へられた。このことはいまなほ自分の感謝措く能はざるところである。この間「假名遣及假名字體沿革史料」の第二として研究したものは左の通りである。

以上既刊

以上未刊

以上未定稿

以上は主として奈良において研究したものである。

大正十二年九月に東京へ歸つてから、奈良において蒐集したる資料を整理し、豫ての研究に成れる「韻鏡考」を著述し、これを大正十四年に刊行した。實は、去る大正五年に、自分が帝國學士院から恩賜賞を授けられたときに、知り合の學者から、學位請求論文を帝國大學へ提出するやうにと切りに勸められたが、當時自分の考としては、自分の研究には未だ餘地が相當にあると信じたので、知人の勸説に從はなかつた。ところが、奈良在住五年間の研究により、いかなる方面よりするも最早動かすべからざる確信を得た。そこへ京都大學の懇意な諸君からたつての勸めに任せ、大正十二年中、學位請求論文として「假名の研究」の一篇及び參考論文數篇を提出して置いた。それが同大學文學部教授會において審査の結果、一昨大正十四年、即ち自分の七十六歳の年に左のとほり文學博士の學位を授與せらるゝことゝなつた。

      新潟縣 大矢  透
右者論文 假名ノ研究ヲ提出シ學位ヲ請求シ本學文學部教授會ハ之ヲ授與スベキ者ト認メタリ仍テ大正九年勅令第二百號學位令ニ依リ茲ニ文學博士ノ學位ヲ授ク
     大正十四年七月三十一日         京都帝國大學

この論文は、その後啓明會に報告したので、昨大正十五年同會において刊行されてゐる。

話は前後するが、支那の反切の學問は、文字に對しては最も重要なるもので、したがつて韻鏡と共に假名の研究には須臾も離るべからざるものである。そこでこの反切の起原については、必ず魏の孫炎を稱するを常としてゐる。ところが、自分が研究の結果、李賢注後漢書和帝紀の記述から押して、後漢時代すでに説文音あることを明かにすることを得、同時に魏の孫炎の説は誤りであることもわかる。これらの詳細は拙著について知られたいが、久しく反切のはじめを魏の孫炎となし來れる唐宋以後の碩學鴻儒の確信も、一朝にして東洋における而も自分の如き老學究のために破られたといふも、奇とすべきことである。

つぎに彼の伊呂波四十七字の歌は弘法大師の作として古來言傳へられてゐる。ところが自分の研究によつてそれが誤りであることを發見した。由來延喜以前にありては國語構成の音數四十八あり、ア行の衣とヤ行の延とを分別したことは、すべての研究によつて明かになつた。この衣延の辨については往時これに言及した學者がないでもないが、しかし歴然たる幾多の證據を發見したのは自分である。しかして空海作と稱せられる伊呂波歌は四十七字で、ア行のエを缺いてゐるのが第一にをかしい。空海は弘仁・承和の間の人で、正しくこの二音を分別した時代であるから、こんな歌を作るべき筈がない。さらにこの歌の形から見ても空海時代のものではない。まづ平安朝末期と斷定して差支あるまい。

要するに、自分の微々たる研究によつて我國の假名は、支那周代以上の古音と一致するものなること、また延喜以前には國語構成の音數四十八あり、ア行のエとヤ行のとを一般に分別せること、韻鏡なる内外轉の別と四等の別との意義、漢呉音にてサ行の音なる止川等の文字が、假名となつては行の音と呼ばるゝ理由、伊呂波歌が空海の作にあらざること、反切の始が魏の孫炎にあらざること等を明かにした。即ち從來不明なりし諸項のやゝ明かになれるより、少くとも假名そのものゝ成り立ち、假名遣即ち歴史的沿革の状態、その理由等一々實例によつて説明することを得たるは、淺學なる自分にとりては實に勿怪の幸であつた。

自分の研究は全く自分の趣味から出たもので、物質的には少しも縁故のないものであるが、たゞ何か一つ發見し、また一研究が完成すると實に無上の愉悦を覺ゆるので、知らず識らずの間に幾十年を經過した。研究すべき問題はいくらもあるが、自分も昨年七十七歳に達し、老嬴日に加はり、歩行も昔のやうにかなはない。遺憾ながらこの研究を繼續することが出來ない。よつて研究の全部を擧げて、久しく奈良にありて自分の研究の經過を知つてゐる文學士春日政治氏に委托し、ただ今では無聊を醫するために、素人流の文人畫を弄んでゐる。(完)

編者云

大矢透博士自傳は、故博士の談話に據つたもので、新潟新聞に昭和二年十二月一日から同年十二月九日まで都合八回(八日休載)に亘つて掲載せられてゐる。現淺田重教氏夫人なる博士の御息女の語らるところによれば、博士はこの新潟新聞の記事を見て、二三の誤植を除いては自分の話したところと少しも違つてゐないと云つて、大變喜んでをられたといふことである。それ故、博士の傳記としては最も信憑すベきものと思ふ。本誌に掲げたものはこの新潟新聞の記事のなかから、同紙の記者のものしたと思はるゝ序の如き部分を省き、故博士の著書・日記・東京盲學校保管の履歴書等によつて誤植と思はるゝ部分を訂正し、更に韻鏡研究に就て故博士と最も關係深き濱野知三郎氏の校閲を得た。「大矢透博士自傳」といふ題は編者の附したもので、新潟新聞には「帝都に於ける新興の縣人」と題し、その第二十五回から第三十二回迄の分に、サブタイトルとして大矢透博士となつてゐる。

○順徳帝の玉冠を奉じて佐渡から上洛した顛末については、博士莫逆の友現東京盲學校々長町田則文氏の筆に成る詳細な記事が「内外盲人教育」第七卷秋號(大正七年十月十九日發行)に、「佐渡島采訪記」と題して載つてゐる。町田氏の談によれば、これは大矢博士の談話に據つたものである由。

○博士の逸話に就ては、新發田新聞昭和三年三月二十五日の「大和假名の研究家大矢博士逝く」と題する記事及同紙昭和三年三月三十一日より同年四月四日迄の「噫假名博士逝く」と題する記事を参看すべきである。この二つの記事はともに博士の壯年時代より最も關係深き現新發田新聞社長上野喜永次氏の草せられたものである。この外、「知道月報」第二〇三號(昭和三年四月二十日)・「つぼみ」第六一のまき(昭和三年四月二十五日)に大矢博士の傳記が掲載せられてゐる。


底本
『国語と国文学』(第5巻第7号、昭和3年7月、pp.90—103)