三矢先生の學風

只今、武田君からいろ〳〵お話がありましたが、私は三矢先生の學風と言ふ興味のありさうで、興味のない話を少し申しあげます。或は皆さんを疲れさせるかと思ひますが、この庄内の鶴岡が生んだ、明治から大正にかけて、記念すべき功績を殘された學者のことですから、尚、一時間ほど御靜聽を煩はしたいと思ひます。先ほど、武田君のお話の中にも、あの春日神社の境内に建てられました歌碑の、歌の講釋を申しあげたやうでありましたが、あの歌は大正六年、日附はありませんが、大正六年の七月一日に、多分、お作りになつた歌であらうと思ひます。

あの歌は、先生が源氏の研究に油の乘り出した頃のお作で、連作になつて居ります。先生は以前から、短歌の上の連作と言ふものを御存じで居りながら嫌つてをられましたが、今日展覽會にも出て居りましたあの寫眞版の本、『こゝろのいろ』とか『うたつか』であるとか言ふ、先生の歌集を見ますと、連作をしきりに作つてをられます。其中に、源氏物語を詠んだと思はれる歌が「あたひなき」の歌をはじめ、七首ばかり載つてをります。二番目に、

わりなしや人こそそれと知らざらめ知る人さへやひそみ棄つべき

といふ歌があつて、何れも何を歌はれたか一寸はつきりしませんが、この歌は、「全然何も知らない人が、源氏の世界的な價値といふものを、認めてゐないのは尤ではあるが、さうだからと言うて、其源氏を理會した人までが、あの價値を默つてゝいゝ訣がない」といふ意味の歌であります。先程の歌碑を卒然とみますと、源氏物語などゝは何の關係もない、堂々したますらをぶりの歌で、

價なき珠をいだきて知らざりし譬おぼゆる日の本の人

まるで、神道を説いた歌のやうに思はれるが、此は天下に比類のない優れた珠をば抱いてをりながら、その價値をちつとも知らずにゐる日本人は、あはれなものだといふ意で、過去の讀書人に對して、不滿の心を吐き出された歌なのであります。

其頃、私達はしきりに先生がかういふ不滿を言はれるのを聞いたものですが、「世界の大きな文學の頁を勘定すると、何は何頁、何は何頁だと數へあげられるが、量から見ても、質から見ても、源氏は實に立派なものである、どうも日本の國文學者はいかん」といふ樣なことを言はれる。其は其頃生意氣な文學青年だつた我々にも、無條件に受け入れられました。先生の晩年、愈研究が深くなつて源氏全講會を始められ、私その後を繼がせていたゞいてをりますが、益この價値と言ふものが訣つてまゐります。先生がおつしやつたことは本道であると思つてゐるわけです。

先生と私どもとは、勿論時の距りがありますから、文學といふものに對する感じ方が違つてをります。併し、大きな文學でありますから、どの角度から見ても、此は立派な價値があります。かう申しますと、三矢先生の鑑賞眼をみくびるやうになつていけませんが、先生の片鱗にも觸れてゐない方だと、或は皆さんの中にも、三矢先生の學問を古風な、味到の力の淺い物と思つてられる方があるかも知れませんが、決してさうではないので、其點を少し申し上げたいと思ひます。一體、他の國學者が源氏物語より枕草子、少し下つて大鏡、ずつと降つて、増鏡・徒然草などいふ末流の文學の講義をしてをりますが、古い一つの主義を持つた國文學者――と言うては當りません――國學者は、平安朝以後のものに魂を打ち込んですることを潔しとしなかつたので、一つの立ち場があつて、平安朝より前のものゝみをよいとする風があつたのです。先生がこの歌をお作りになつたのは、國文學に對する一つの發見であつて、即、源氏物語の價値は皆が知つてゐるが、文學としての源氏の價値といふものに對しては、皆半信牛疑でをつたのですが、先生が始めて本道に立派なものだと、はつきり言はれたのであります。先生は明治の始めに鶴岡にお生れになつた方なのですから、我々と文學に對する感じ方は、かなり違ひますので、源氏のよさを私どもに話されるにも、大分骨を折られたと思ひます。

あの「價なき」の歌は、むしろ古事記だとか、萬葉・日本紀などゝいふもの、又は神道を歌つたやうなものでありまして、源氏物語讚美の歌とは誰も思はないのです。だが、この歌はたゞ源氏を褒めたのみならず、日本人が本質的にいゝものを持つてゐるのに醒めない。日本の文化の優れてゐることをも歌はれたので、さういふ氣持ちで色々の場合にあてはまるものだと思ひます。此は歌の融通性で自由自在な點です。

さて、先ほど申し上げました樣に、國文學と國學とは大分立ち場が違ふ。世間では三矢先生を國文學者とみたり、國語學者とも言ふでせうが、先生は恐らく、單なる國語學者と見られることに反感をお持ちになるだらうと考へます。又我々が先生を、國文學者と言つたら、或は先生に叱られたかも知れぬ。しかし、先生は極めて純なところを持つてをられたから、或は喜ばれたかも知れません。だが、本道言ひますと、先生は國文學者と言はれることは喜ばれなかつたと思ひます。國文學者と國學者の違ふところは、日本の文學を材料――對象とする點では同じであるが、その扱ひ方が違ふのです。國學者は日本の過去の國民生活を尋ね、生活の規範を發見しようとしてゐたので、國文學者はさうしたことから離れ、文學は文學として、源氏なら源氏、それから枕草紙・古今集、遡つては萬葉集・古事記・日本紀などゝ言つたものを、正當な文學の價値に於て考へてみようとするのです。さういふ立ち場と國學とは全然違ふ。國學者について考へる時、我々にすぐ思ひ浮んで來る人は、あなた方もさう感じられませうが、固い處で賀茂眞淵・本居宣長、もつと固いところで、平田篤胤あたりと同じやうに感じられて來る。我々も長い間氣分的にさう感じてゐたのです。平田篤胤が綛の着物を着て坐つてゐられるやうな感じがしたのです。先生は極めて打ち解けた處のある反面、大變堅いところがあつた。これは先生の生れが、我々町人の家に生れた者とは違ひ、立派な士族の家に生れられた關係でありませうが、例へばお宅に參りますと、石刷りの襖がありまして、我々が今頃石刷りの襖なんか言ふ物は、芝居の忠臣藏でゞもなけりや見られませんね、と申し上げると、さうかね、と笑つてをられた樣なことであります。

常に接してゐる我々でさへ先生を、平田篤胤などに當てはめてみようとしましたが、これは何事でもさう思つて見れば、さう見えて來ることなので、警察官などが判斷の間違ひをするのも、型にはめて見るからで、學者の認識不足なのも同じ理由です。しかし、何でも一つの型にあてはめて見ると訣り易い。實際、學問といふものは、物を細かに見て行つて、其處に間違ひのない一つの型を見出さうとするものです。で、先生の學問・學風といふものも、過去の國學者の型にはめれば、はまるのですが、事實は少し違ひます。昔、若い人がふらいなどを食べられたのは、ふらいてんぷらに似てゐるから、食べられた。つまり、てんぷらを鑑賞する型を持つてゐたから、食べ始め易かつたといふ訣です。型で這入つて行くのは這入り易いのです。だが、人間を見るのに此では困るのですが、人間の場合でも、實は誰でも、かう言ふ風にして觀てゐるのです。

先生がお亡くなりになつて、今年で十三年になります。佛教なら十三囘忌でもするところですが、先生は神道ですから十三囘忌は致しません。で、かういふ具合に年月を經ましたから、少しは先生の批評的なお話しを致してもいゝと思ひます。ですが口幅つたくて、餘り言へないのですが、それでも、これを他人の口から先鞭をつけられるのがいやですから、或は失禮な語をいふかも知れません。弟子の私たちなら、其に觸れていつても、先生は大目に見て下さると思ひます。他人にされては腹が立つ、自分がする分には怺へていたゞける。變な論理ですが、一つお赦し願はうと思ひます。

ところで、國學と言ふものは――私はかういふ語を使つてゐるのですが――國學は一面、氣概の學問であると考へてゐるのです。即、一種の主義と言ひますか、道徳的な興奮を持つてゐる。これが江戸の末から、明治の初年まで傳つて來たのであります。大體先生はむづかしい人のやうに思はれてをられますが、理會は極めて圓滿な方でした。尤、我々がお教へいたゞきましたのは、先生が圓熟された頃であつたのですが、とにかく思つたより理會の圓滿なお方でした。で、先生が氣概の學問を守つてをられたのは、多少適當のやうな氣もするのでありますが、私は未だに國學者として殘つてゐる人は、この氣概を持つてゐる人でなければならぬと思つてゐます。三矢先生は、我々に理會を持つて下さつたので、何とも言はれませんでしたが、他の先生達は、私達を気概がないと、よくお叱りになつたものです。君等では國學院の學問を傳へるには心細いと言ふ訣だつたのです。併し、私は大體そんな氣持ちも訣るので、腹も立てませんでした。だが先生は、そんな叱り方はなされなかつた。其だけ三矢先生にはゆとりがあつたのではないかと思ひます。即、先生は國學者の生活態度を、一つの型で律せられようとはしたかつたのです。氣概だけが國學者の資格だとはされなかつたのです。と言うて、我々が國學者から離れ得ないのは、其氣概があるからでもあります。

處が、氣概ばかりでも困ります。近頃の二月何日事件であるとか、其前の何月何日事件であるとか、いろ〳〵な事件が起りますが、あれは判斷力に缺けた氣概だけの所有者がした事である。それでも、我々はその氣持ちだけは理會出來ます。論理的遊戲に遊んでゐる者よりも、其行動に多少の意義は考へられると思ふのです。で、世の中の状態如何によつて、氣概の學問も、良くもなれば惡くもなる訣で、世の中の惡い時には反動化し、よい時には上の方に立つて、靜かに指導してゆくのです。古い先輩の國學者は、この上の方から靜かに指導して行くといふ氣持ちでゐたのでありますが、それが三矢先生あたりまで續いて參つたのです。先生が亡くなられましたのは、大正の大地震の少し前で、私は七月の十七日の夜半と思つてゐたのですが、あとで承ると、十八日の午前零時何分かでありましたが、それから間もなく、あの九月一日の大地震があり、あれからこつち、世の中がすつかり變つて荒んで參りました。そして本道の國學と言ふものは、かうした世の急變に際しても、其に應じてすぐ效果が見えるのでなく、他のものが色々出て來て、うまくやつてゆけるのですが、只今何としても辯解出來ないことをしたのは、國學の知識などのない反動論理の徒がやつたからです。これは我々が柔かに指導して行かなければならぬものではありますまいか。其が出來ないのは、我々が無力の爲です。

國學が江戸の末に力強くなつて參りましたのは、やはり世の影響でありますが、大體學問として成立して來た時代は、今から百年乃至百五十年前で、其以前は科學的態度の整はない時代ですから、自然發生的に出來て來たとは考へなかつた。我々の今日の生活にしても、過去から段々と續いて來たのと同じわけなのですが、其を考へないで、結果からすぐ原因まで飛び上つてしまふ。今日の生活は遠い過去に原因があると、其に向つて飛びついていつた。併し、その間の運びが考へられてゐないので、危險な考へ方である。神代から飛鳥・藤原・奈良へ、それから一遍に現代に飛んで結びつける。昔の人のした事なら、何でも間違ひはないと飛びついて行く。しかし、此は間違ひではないかと私は考へます。神代や古代の研究が江戸期に行はれた元を考へなければならぬ。すると其は、更に前の京都の坊さんであるとか、隱者であるとか、さう言つた人達の間の古い學問に對する態度がいけなかつたと言ふことも考へられる。その頃の古い學問は、歌や連歌の解釋――傳統的にやつて來た解釋を固く守つてゆくのが學問であつた。そんなものが學問でないことは段々わかつて來た。元祿時代になつて、佛教の學的な態度をもつ契沖阿闍梨などになると、これまでのは語に對する態度がなつてゐないと考へて、こゝらあたりから學風が漸く一變し出したのであります。その頃の學問は、古文學に對する適當な解釋を行はうとした。かうして、次第々々に學者の態度といふものが變つて來たのです。この古代研究が江戸の末期に至つて、遽かに飛躍したが、近代の社會組織は違つてゐるから、古代に歸らなければならぬきりになつたのです。かういふ風潮は漢學者の間にも擴つて、明治にまで跨つて來ました。

處が、國學者に優美な心を捨てられない一面があつて、歌集などを殘してをります。さういふ態度ですから、ある點では國學者は漢學書生に負けてゐる形でありましたが、尚、國學書生の間には、漢學に對する激しい氣概が殘つて傳つてゐました。處が明治時代になつて、西洋風が起つて來ると、其を呪ふ氣概によつて、またこゝに幸福な状態が生じた。國學院が建てられる一つの足場が出來た訣です。

明治の初年から二十年位にかけての國學者の心は、常に不平で煮えくりかへつてゐました。

橿原の御代にかへると思ひしはあらぬ夢にてありけるものを

といふ歌があります。これは矢野玄道の歌でありますが、これを見てもわかる。王政復古の御代といふのは、神武天皇の昔にかへることだと思つてゐたら、現れたものはすつかり違つてゐた、といふ意味です。――自分の考へは全然見當違ひで、理想の状態を豫期出來なかつたのを歎いたのであります。そんな歌は丁髷親爺の寢言だと思ふかも知れぬが、かういふ氣持ちも理會出來なければ、人間としての心に觸れられず、世の中をほんとに見てゆけない。また「……なかりせば馬によそへて鞭打たましを」といふ樣な激しい歌もある。これなど無條件に古代生活を認めてゐた人が、作つた歌であります。この作者は平靜な生活をしてゐた人ですが、歌を作ると其氣概がかういふ處までいつた。又一つの例をあげると、

馬子等が草むす屍得てしがも切りてほふりて恥見せましを

と、かう言ふ歌がある。その飛鳥の馬子の墓が發かれて、今では村の青年會が十錢とつて一般に見物させてゐる。その學者が知らない中に、ちやんと其學者の呪ひが果されてゐる。しかし、この學者の氣持ちは理會して頂かなければならない。我々はさういふ境遇を經て來て、みなその氣持ちをもつて育つて來たのだから、他人の事と思つて貰つては困ります。我々の話してゐることが無意味になります。

三矢先生も世の中の事に對して憤りを發せられた。――おほやけはらだゝれた。これで一體どうすればよいのだと言ふ激しい氣持ちがあつた。私にはよくそれが訣りました。我々は國學者の糟をなめてゐる樣なもので、激すればまあ「ちゆうつぱら」といふ方なのです。直に腹を立てる。喧嘩腰になるあの氣持ちと同じです。世の中の不正に對してすぐ氣概を發する用意が先生には出來てゐたのです。では何が先生の他の先輩に違ふ處かと申しますと、先生は他の人と違うて、極めて自然に世の中の變つてゆく状態を受け入れてゆく用意がおありでした。靜かに世間の刺戟を受け入れられてゐられたのです。例へば我々が先生のお宅へ伺つて、文學の話をいたしますと、其時は苦蟲をつぶした樣な顏をしてをられますが、其次にお伺ひすると、其が影響となつてゐて、必歌などに現れてをりました。けれども、さうして作られた歌は、とかく親しみを感ぜられる物で、讀んで微笑みを覺える樣なのがあります。昔の人は文學を通して古代を研究し、その生活を見てをりましたが、其中に文學の誘惑に負けて、古代をよく見ない人が出て來た。即、一人の人が古代文學をやつてゐると、いつそ文學に浸つてしまふか、それとも古代の道徳的生活に憧れるか、この二つの氣持ちが一人の心の中でこんがらかつてゐるのです。國學の學問的立ち場は、昔のものを讀んでゐると自然に出來て來るものと思つて居た。それは氣分の學問であり、その氣分に乘つて古典をみたのです。だからその氣分によつて、或は小説家になつた人もあり、或は狂歌師になつた人もある訣です。處が明治になつて、其ではいけない、もつと科學的にならなければならぬとして、素朴的に乘り出して行つたのは文法であります。

もし、言語學の素養があつたら言語學に行つたでありませう。言語學の知識で國文學に對したでありませう。が併し、國學者には悲しいかな、其素養がなかつた。又言語學者には、かういふ學問があると教へるやうな親切もなかつた。城壁を固くすることにのみ一所懸命であつたのであります。昔はこの言語學を博言學と言つて、いーすとれーきの字引きには博言學博士など書いてをります。だが、誰も彼も、言語學はどうやつて融通したらいゝかも、訣つてゐなかつたのです。三矢先生も東京に出て來られました時分、大分外國語をせられましたが、御自分でなさる事が外にあつたので、この方にはあまり手を出されなかつた。幸なことに、そこへ西洋文法が這入つて來た。尤、江戸末期から古代言語の研究による文法の研究が初つて、ある程度まで完成されてゐたのですが、そこへちようど西洋の文法が這入つて來て、段々飜譯が出たりして、之を對照すると文法の比較がやり易かつた。それで、文法研究に進んだ人が大分多かつたのでありますが、なぜするかといふと、之こそ國學者の新しいたつた一つの道で、科學的な態度であつたからです。言語の研究のみを通して、古代を知ると言ふ態度は間違ひであるが、とにかく言語の研究で古代が訣ると信じてゐる。而も考へれば考へるほど、日本人にとつてみれば、日本の語は感謝すべき神祕な作用をもつてゐる。だからそつちの方へ進んで行つた。神道家にとつて言語研究は、最正しい態度と考へられ、神道の學的な基礎になるものが國學だと思はれたのです。しかし、嚴密に言ふと、これは少し意味の違ふもので、色々問題もあるのですが、それはこゝで申しません。神道學と國學者とは一つになる。で、安心して文法研究に進んだのですが、其中段々學問に專門的な態度が出て來まして、それまでは、國學者の學問といふものは何事でもあり、又何事でもないと言ふ風でありましたが。ともかく、さういふ風にして漸く日本文法が興つたのです。其中で最正しい文法を作り上げられたのが三矢先生であります。尤、其以前、先生が影響を受けられた方は色々ありまして、例へば直接には物集高見さん、間接には大槻文彦さんなどゝ言ふ諸先輩があるにはありましたが、三矢先生が眞の意味で文法を大成せられた方であつた。先生の文法は、國學者の進んでいつた結著點であつた訣であります。此は内證の話で、中學校や女學校の子供達にはきかせられないのですが、日本の文法と言ふものは半端で、まだ啓蒙的なものであります。既に言語に關する學問としては言語學があり、下れば解釋學がある。文法はその中間にあつて非常に實用的なもので、この實用性を缺いては文法といふものは意味がないのです。先生の『高等日本文法』もほんとの實用の他は顧みない。無駄な理論を少しも弄ばれてはをりません。尤、あの文章篇だけは別で、實に理論もよく書いてをられますが、私どもは文章論なるものは、すべて文法とは思つてをりません。言語心理學であると思つてをります。文法は品詞論だけで、實用以外に何もないので、實用なくして文法はないと私は考へて居りますが、その點、三矢先生の文法は、極端に神經を働かせて、端の端まで行きとゞいてゐます。弟子だから言ふのではありません。此は皆、關係のない人までも言うてをります。

かういふ處をみると、先生は非常に圓滿な方であることがわかります。先生の文法をよく御覽になれば、すぐ訣ることですが、文法家はむづかしい術語を作りますが、先生は使はれません。山田孝雄さん、岡倉鉦次郎さん、松下大三郎さんなどの方々は、隨分むづかしい術語を使はれます。先生の文法はこの肝腎な品詞論が、實に完全緻密に出來てをりまして、本が勝れてゐるだけでなく、三矢先生の人間としての廣さが考へられずにをられません。私どもとしては、三矢先生によくあんな文法論が出來たものだと思はれる位です。とにかく文法で國學の學的基礎を築き上げようと、先生はじめ他の人達も努力した訣で、文法といふものによつて國學者の立ち場を作り、中つ腹だけでなく、こんな爲事もあるものだぞといふことを示さうとされた。その一番先に立たれたのが先生で、又結局、一番完全な文法を殘された訣なのです。

處が、國學院が出來ました時分は、ちようど帝國大學では國文學科といふのが出來ました頃で、こゝでは、國文學者が文學を通して古代の生活を掴んで來ようとするのではなく、單に文學だけを掴んで來ようとしてゐた。其學風のよかつた點は、國學者が本道に尊敬してゐるのは奈良朝まで、平安朝もまあよい――國學者の嚴重な態度から言ふと、同感出來ぬものも平安朝にはあるにはあるが、まあ昔からしてゐたものだから其もよいと考へた――として、大體奈良朝以前でありますが、帝國大學の國文學科では江戸時代に到るまで、正當な認識を得ようとした。それから鎌倉・室町の時代の文學に遡つて行つたのです。國學者は戰國から江戸に至る時代といふものは、帝國大學の國文學科と異つて、全然認めてゐなかつた。

かう申すと、國文學といふものは、結局日本の文學の總計なのであるから、何の時代の文學も認容しなくては正しくないのではないかと、皆さんの中には考へられる方があるかも知れませんが、其は間違つてをります。私ども教壇で國文學を扱ふ者にとつて一番困るのは、近代殊に現代文學で、今のものが國文學であるかないかといふことです。最近、學生の卒業論文なんかに、今も生きてゐる文學者などを書く者があるが、どうもこれは、蒸したての饅頭みた樣なもので、かういふ人を評論するのは私には、どうも變に思はれて爲方がないのです。夏目さん、二葉亭以後我々と同時代、或は我々より若い時代の文學者を扱ふのは變な氣がするのでして、これは一種の嫉妬であるかも知れません。さう思つて反省してみるのですが、どうもどう考へても變です。これは國文學ではない。日本の文學故、國文學であると言ふが、我々の言ふ國文學は少し違つて、國文學の上に成立する學であつて、國文學學とでも言ふべきのを、舊稱のまゝに國文學としてゐるのです。世間では國文學を、只飛び〳〵の文學だと思つて居るが、此は違ひます。國文學と言ふのは、單に日本人が書いた文學と言ふことだけの意味ではなくて、ある條件づきで時代文學を對象とする場合に限つて國文學といふのです。明治・大正・昭和の文學といふものは、未だ學問的對象とはならない。文學評論の對象ではあるが、これは國文學の對象ではないと思ひます。國文學の構成要素は、國文學史が完成されてゐることが必要である。例へば明治の文學が國文學になる爲には、明治の文學史が完成しなければならぬ。いま一つは、時代の人心の動きを指導してゐる道徳感を本道に發見しない中は、國文學とはならない。もらるせんすが文學を指導してゐる。そのもらるせんすを發見しない限り、その時代の文學は國文學になり得ないといふことです。

國學者が扱ふ對象を平安朝以前に置いたのは、決して理由なくはないのです。なぜならもらるせんすといふものを、はつきり掴んで居つたからで、國學者は本道は文學は知らないのですが、其外郭だけは掴んでゐました。一國文學の或時代の外的制約をなす所の言語論――時代辭書・時代文法――が成立せなければ、或時代の「國文學」と言ふものは存在しない訣です。處が國文學者の方は文學は掴んだが、文學を通してのもらるせんすを發見し得なかつた。統一的な原理が成り立つてゐなかつた。そこで帝國大學の國文學科の認識を深めようと言ふやうなことになつて、芳賀矢一博士などが、御自身の力一つでなさらうと洋行されて力を盡されました。大體國文學史研究法の目的で行かれたのですが、國文學史の爲には外國に行つても、何も研究すべきものはない筈です。先生は文學は時代思想の反映であると言はれた。故に文學史は國民思想の研究の爲にと言ふことになるのですが、皮肉です。若しさうなら國文學といふものは、結局、日本民族の精神生活の研究と言へることになるのであつて、大分變なことになる訣です。これは芳賀先生の説明が足りなかつたので、今申し上げましたやうに、結局は、時代的もらるせんすの發見と言ふところに努力の意味があつた訣なのです。

三矢先生の國文學に對する爲事は、もつと考へられなければならない。誰よりも先に文學を發見されたといふことは、源氏を發見せられたことだ。勿論、昔から――室町時代から學的に讀まれてをり、明治になつてからも讀んだ人は澤山ありましたが、あれほど明らかな指導力を持つて人に奬められたのは、先生が最初です。これをもつと廣めなければならぬといふので源氏物語の全講會を始められました。かう申すのは、弟子の私どもの己惚であるかも存じませんが、さう考へて居ります。世間が源氏に目を向けて來たことも事實であるが、先生が源氏について鼓吹せられたことが、世間を動かしてゐることも、否定出來ないかも知れません。

近頃萬葉についでは源氏がもてはやされてをりますが、萬葉ならば長い歌でも二三べん讀めば訣つて來ます。むつかしいけれども、簡單であります。處が、源氏は只讀んだゞけでは訣らない。讀むにも修練がいります。森鴎外さんのやうな偉い人でも、源氏は惡文だと言ひますが、私はさうは思はない。表現の變つてゐる長い文章を讀むと、一遍ぐらゐでは、まるで外國文を讀んだと同じで、文字は訣らうが、文章は訣らないものです。だからと言うて、源氏を惡文とは言へないと思ひます。森鴎外さんは、漢學と洋學とを學ばれた方で、國文を讀む素養はない。勿論あのやうな鋭敏な方でありますから、友人の落合直文さん其他の方々の影響を受けて、其等の人々よりも先に一通り卒業してしまはれたが、源氏の讀める理由はないのです。これは自分の商賣贔負でいふのではありません。源氏には惡い文章もあることはありますが、いゝ文章も澤山あります。ちやうど自分の持つてゐる財産、例へば刀なら刀を輕蔑されたのと同じで、外國人が言ふのならともかく、同じ日本人の認識不足は許す氣になれません。自分だけの物指しでなく、正しい本道の物指で計つて言うてもらはぬと困ります。

三矢先生が源氏を認められたのは、先生が國學者にして國文學者であるからと言つてよいのです。私が最感謝するのは、平安朝の生活にも、古代の生活がある。古代のひき續きがあると考へられてゐたらしいことで、先生は其を新しい物指しで説明しようとしてをられた時に、體をいためられたのです。先生は源氏物語の中に詩を求められてゐました。此詩をば晩年殊に求めて居られました。まづ先生の頭を捉へたのは漢文の調子です。これは先生の非常な變化で、我々にとつてみれば、非常な驚きであつたのです。まあ、坊さんが死んでみたら、實はきりすと教に籍があつた――失禮な話でありますがそんな驚きでありました。で、先生はあの漢詩や漢文の調子の文章を求めてをられましたが、純粹な漢文を求められたのではなく、少し違つた詩を求めてをられたのです。とにかく先生は、漢文は齒切れがいゝと頻りに言つてをられました。實際三十年も國文學をみてゐると飽き〳〵します。あのぬる〳〵した調子にあき〳〵して來るのです。先生には學者として、一つの文章の好みがありました。それが先生の歌をぶち毀してゐるやうな場合が少くありません。大正九年ごろ、耳が餘程遠くなられた爲に、先を案ぜられて田川温泉に來られたことがありました。其時のお歌があります。

いくそとせ忘れてありしかたかごの花のゑまひを今日みつるかも

この歌など、殊に「花のゑまひを今日みつるかも」には近代的な感情のひらめきさへ見られます。かたかごといふのは片栗のことです。

わが思ふ田川處女にかざさせてみせましと思ふかたかごの花

「田川處女にかざさせて」など、色氣があつてなか〳〵いゝですが、歌の上で爲立てたのです。花を田川娘に插頭にさゝせてやりたいと言ふのであるが、古い語を用ゐ、大分感情を誇張してをられる。

かそかにもやさしき花のかたかごは若紫の君とはやさん

そんなに讚美しなくともいゝのにと思ふのですが、こんなところがやつぱり先生だと思ふ。讀んで思はず笑ひがこみ上げて來るのです。今の若い學生などの歌にもこれがあつて、いでおろぎいだの生活内容だのと言つて、この歌には生活がないとか、何とかいふが、其は何れも理窟で、歌の抒情詩であることを忘れてゐます。

かたかごのその葉にはゆる紫の花よ姿よ田川處女の

まるで文法の例みたいです。これでは段々歌ではなくなつて来る。此は年のいつた人のいでおろぎいなのですね。先生の歌には、文學になり得るものを強ひて文學にしないといふ處がありました。あゝした文法家が、どうして捉へられたかと思ふやうな題材なのに、歌の中ではつひ學者としての足を出してしまはれる。さういふ處があるのです。先生に若し、今少し生活にゆとりが出來てのんびりなされたなら、歌の上にも、漢文に誘引せられた律動が現れて來たであらうと私は考へてをりましたが、とう〳〵其が出ずじまひになつた。

晩年、先生は非常に忙しく日を送られました。殊に教科書の爲事には、最後の生き甲斐を見出されて、一所懸命になつてをられました。自分の理想を國文教科書の編纂に見出され、教科書を通して、若い頭を指導することに興味を持たれたのです。其頃先生の所へお伺ひ致しますと、昨夜は殆徹夜をしたよと言つて、教科書の參希書を書いてをられるのです。私どもには、むしろをかしく思はれた位ですが、ともかく、先生は一所懸命で、あらゆる知識をそゝぎ込まれ、しかも其が、まともに中學の教師によつて若い頭に注ぎ込まれてゆく、と思つて居られたのです。今考へてもをかしくてしやうがないが、よく考へると、此純粹を笑ふ自分の方が反省が足りない氣もする。控へ室にも陳列されてゐる三冊の本『國語の新研究』『國文學の新研究』『文法論と國語學』等の立派な本もありますが、『中等新國文』の參考書は、今よみかへしてみてもなか〳〵面白い。初版が殊によかつた。參考書を見れば、先生の全生活があると思ひます。先生はこの最後の爲事に生き甲斐を持たれて、あまり一所懸命になりすぎられた爲に、お體に大分障つたものと思ひます。私なども、このお爲事を多少ながらお手傳ひをするつもりでゐながら、いつも怠けて、碌なことも出來ませんでした。此も先生亡き後、先輩と共に、何とかよい本にしたいと考へてゐます。


かうして先生のなされたお爲事を見て參りますと、先生の生活が自然と移り變つて行つた道筋がよく見えるのです。私は先生の事を少し面白く言ひ過ぎたやうに思ひますが、私の語は、先生も「庄内の語と大阪の語とはよく似てゐる。お前の語はよくわかる」といはれて、いろ〳〵お話し下さいました。殊に先生は耳が遠いので、私は大きな聲で話さなければならず、

聲張りて わがものまをす いさゝかの 心シマりをも、喜びたまへり

まづい歌ですが、さういふ訣で、伺ふ毎にへと〳〵になりました。とにかく私は庄内の方々に、よく先生を知つていたゞきたい。私の語も訣つて貰へるといふ安心から、大分語り過ぎたやうに思ひますが、どうか誤解のないやうに願ひます。三矢先生は、學者としても、人間としても美しい立派な處のある人でございましたが、その點を少しでも皆さんに訣つて頂けましたならば、私のお話しも思ひがけない效果を收めたことになります。

初出
昭和十一年七月五日講演.九月「國語教室」第二卷第七號
底本
折口信夫全集 第28巻(昭和32年2月5日初版、昭和49年8月20日新訂再版、中央公論社、pp.204—224)
入力者
猪川まこと
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