此の複製本は、京都帝國大學教授醫學博士小川睦之輔氏御秘藏の國寳新譯華嚴經音義私記二卷を原寸通りに複製したもの、原本は、抹消してある識語に據るに、延暦十三年甲戌の春の書寫にかゝる古鈔本にして、他に類本全く無き天下の孤本である。唐の慧苑が開元の頃に撰述した新譯華嚴經音義二卷を土臺とし、他に、も一つの新譯華嚴經の音義を參照しつゝ本邦人が作つたものであるが、其の時期は奈良朝の末期頃であつたらうかと考へられる。本邦人の手の加はつた内典音義の古いものゝ古鈔本として注意す可きであるが、僅少ながらも倭言即ち國語の訓註の存する點に於いてさらに一層國語學上重視すべきである。是れ本書が今回貴重圖書影本刊行會により刊行せられるに至つた所以であらう。〈本書の解説としては唯一つ日本國寳全集第五十輯(昭和七年五月刊行)の解説があるのみだが其れは僅か四十字詰二十二行の簡單なものであり妥當ならざる説も見える。〉
華嚴經は詳しくは大方廣佛華嚴經と云ふ。佛成道後、菩提樹下寂滅道場にありて初七日の間は默然として説法せられず、二七日に至りて、文殊・普賢菩薩等を對機として佛自内證の法門を説かれたるもの、所謂五時の教判では第一の華嚴時の幽玄なる所説が此の華嚴經である。經名の中心は「佛」にして「大方廣」は「佛」の形容、「華嚴」は因の萬行の「華」を以て果の萬徳を「嚴{カザル}」の義、即ち自他一切を救濟するために、大方廣佛を億念して精進し種々の行業を修する(これは大菩薩道である)、其れを喩へると、因の萬行の華であり、其の萬行によりて生ずる果の萬徳は憶念した大方廣佛を莊嚴する事と成る。故に華嚴は大方廣佛の莊嚴である、又大方廣佛の功徳である。さて此の經に漢譯三種あり、一は東晋安帝代に天竺の佛駄跋陀羅三藏が譯出し、法業・慧觀・慧嚴等筆授に成りたるもの〈東晋義熈十四年三月より宋永初二年十二月に至る〉七處八食三十四品六十卷、後の唐譯と區別するため舊譯{クヤク}、晋譯又は卷數により六十華嚴と云ふ。二は唐の則天武后代に、于闐國の實叉難陀三藏これを譯出し、菩提流志・義淨・恒景・復禮・法藏(賢首)等譯業を資け、武后自ら筆削したもの〈證聖元年三月より始め聖暦二年(我が文武天皇三年)十月に至る〉七處九食三十九品八十卷あり、新譯・大周經〈周は武后の國號である〉・八十華嚴等と云ふ。三に唐徳宗の代に罽賓{ケイビン}國の般若三藏が、廣濟・圓照・澄觀等の助力を得て譯出せるもの、四十卷〈貞元十二年六月より十四年(我が桓武天皇十四年)二月に至る〉詳しくは大方廣佛華嚴經入不思議解脱境界普賢行願品と云ひ、普賢行願品又は貞元經、四十華嚴と略稱する。内容は八十華嚴の第九食入法界品に當る。此の三種以外に部分的に譯出せられて獨立に行はれた華嚴支流經は三十五部もあり、其の一部は現存して居る。十住經の如きは其の一例である。 さて斯くの如く三種も譯出せられたが、舊譯の譯場に列した法業が、該經を講じ註疏を著はしてより後、六朝の間に此の經を講ずるもの續出し、此の機運に乘じて隋末唐初に華嚴宗が起つた。隋の文帝に重んぜられ、後、唐の太宗の歸依を得て帝心尊者の號を賜つた杜順〈陳の永定元年に生れ唐の太宗貞觀十四年に寂す壽八十四〉が第一祖であり、其の門下の至相大師智儼〈隋の文帝仁壽二年に生れ、唐高宗總章元年寂、壽六十七歳〉が第二祖、至相の門下の賢首大師法藏(香象)が第三祖である。賢首は貞觀十七年に長安に生れ、至相の門に入り華嚴の玄旨を究め、後、則天武后に特に歸依せられ、又此の時實叉難陀を資けて八十華嚴を新譯し、一生の中新舊華嚴を講ずる事三十餘度、著述六十餘部、〈中華嚴經に關するもの約三十部舊譯華嚴の探玄記が有名である、又新譯經の音義も書いた〉玄宗先天元年十一月に七十歳で示寂した。華嚴宗の大成者と云ふ可きであるから、世に同宗を賢首宗とも云ふ位である。門下數百人、就中六哲最も顯はれて居る。其の六哲の一人に長安靜法寺の慧苑あり、賢首が八十華嚴の疏を作らんとして完成せずして歿したので、遺志を繼ぎて華嚴刊定記を作つたが背師自立の邪説が多いと云ふので排斥せられ、華嚴宗祖の列に加はる事も出來ず、刊定記の異解は第四祖清凉大師澄觀〈慧苑の弟子たる法詵に學ぶ、賢首の寂後二十七年にして玄宗開元二十六年に生れ、元和中に寂すと云ふ。又開成四年に、百二歳で寂したとの云はれて居るからわが聖武朝より平城嵯峨兩朝頃に至る間の人である、四十華嚴の譯場に列した〉の大疏鈔により破斥せられるに至つた。此の慧苑が八十華嚴について音義を物したのが〈宋高僧傳には、刊定記は記さないで、訓詁の書二卷を著したとある。〉新譯大方廣佛華嚴經音義二卷である。〈四卷と成つて居る本もある。又慧琳一切經音義はこれを上中下三卷に分卷し第二十一、二十二、二十三の三卷に收めて居るが何れも原本通りの卷數では無い。〉これが述作せられた時期は自序があり乍ら年月を記さぬため、又彼の傳記が明瞭で無いため全然不詳であるが、其の自序に「苑不㆑涯㆓菲薄㆒少翫㆓茲經㆒索㆑隱從㆑師十有九載」とあり、又これが比較的述作の容易である音義なる事を思へば、刊定記(これも述作時は不詳であるが)よりは前の著述であると見て可いらしいが、實はさうでは無く、第八卷の卍字の説明に具顯如㆓刊定記説㆒也とあり、九卷の師子嚬呻、六十卷の師子嚬呻三昧にも同じやうな事が見えるから、少くとも刊定記の後に書いたらしい、刊定記云々は後の記入だとすれば、少くとも刊定記以後の完成であると云はねばならぬ。十有九載を、師の賢首が示寂した先天元年までの事であるとすれば、少くとも慧苑は中宗嗣聖十年頃(武后長壽年中)に、賢首の門下と成つて居た筈である。假りに此の音義が開元十年頃に出來たとすれば、我が元正天皇養老六年の事である。
此の華嚴經や華嚴宗は我が國にも傳はつた。元正天皇養老六年十一月に、前年十二月に崩御あらせられた母帝元明天皇の奉爲{オホミタメ}に華嚴經八十卷・大集經六十卷、涅槃經四十卷其の他を書寫せしめ給うたと云ふのか〈續日本紀〉華嚴經に關する記事の最初であつて新譯成りてより二十三年目の事である。八十華嚴經の渡來について、凝然の三國佛法傳通縁起華嚴宗の條に、天平八年(七年の誤)に玄ムが一切經を將來した時に八十經も傳はつたと云つて居るが、正史には其れ以前に渡來して居た事を明記して居るのである。此の後十四年にして、聖武天皇の天平八年八月八日天竺の婆羅門菩提僊那、林邑國佛哲、唐の道璿が難波に來り都に入つた。菩提僊那は此の後二十四年にして天平寳字四年五十七歳で示寂して居るが、諷㆓誦華嚴經㆒以爲㆓心要㆒と記されて居る。〈婆羅門僧正傳〉しかし其の華嚴經が梵文原典であつたか何うか、支那譯であつたとしても六十であつたか八十であつたかは判らぬ。同時に來朝した道璿は〈此の人の來朝月日について凝然の法界義鏡は東大寺要録供養章所引大安寺菩提傳來記により七月二十日として居るが婆羅門僧正傳によれば誤である〉華嚴尊者普寂の弟子で華嚴宗を傳へ、章疏を將來したといふ。天平十一年には八十華嚴書寫の事が正倉院文書に見える〈石田茂作氏「寫經より見たる奈良朝佛教の研究」〉此の後鑑眞が天平勝寳六年に來朝してゐるが、齎來して朝廷に奉つた内典の中に八十華嚴がある。〈東征傳〉かくて此の頃、華嚴弘通の機運あり、金鐘寺の良辨は元興寺の嚴智を請じて華嚴經を講ぜしめんとしたが辭して、大安寺に居る新羅學僧審祥(賢首の門下)を推したので、天平十二年十月八日より、良辨の金鐘道場〈これは持統七年より存し、良辨が寺勢を盛んならしめたのである〉に於いて慈訓・鏡忍・圓證の三人を複師とする講説が始まり、六十華嚴であつたゝめ探玄記を指南として、毎年二十卷づゝ講じ、天平十四年一月に審祥が示寂した後は、前記の三複師が講師として二十卷づゝを分擔して講じて三年で講じ了り、其の後嚴智智璟らも各三年間に六十經を講じ〈東大寺要録卷五東大寺華嚴別供縁起〉又八十經も講ぜられたか、何れも皇室の御歸依庇護を背景として行はれたものである。かくて、金鐘寺が大和の國分僧寺で、國分總寺である大養徳{オホヤマト}金光明四天王護国之寺と成り、東院或いは東寺と云はれたものが次第に完成せられて東大寺と成つて行くと、華嚴經講説は東大寺の華嚴會と成り東大寺は大華嚴寺と稱せられ、大佛殿には恒説華嚴院の額が打たれ、天平勝寳四年四月の大佛開眼の特にも華嚴經が講ぜられ〈東大寺要録卷二、華嚴經の種類不明、有名な鯖賣翁の傳説によると八十經であつたやうだ〉東大寺は華嚴宗の根本道場と成るに至つたのである。しかして此の頃には八十經を説くに慧苑の刊定記を指南とし、六十經の探玄記との矛盾をも顧みなかつたやうであるが、後に弘法大師が四十經と共に八十經の大疏鈔を將來せられてより、刊定記を斥けるに至つたのである。〈以上大體凝然の書による。金鐘寺、金光明寺、東大寺の事は「國分寺の研究」による〉さて以上は帝都を中心とした華嚴信仰であるが、民間や地方に於ける信仰の片影として光仁天皇寳龜二年十一月、肥後國八代郡に生れた奇形の女児が聰明にして、七歳以前に法華經や八十華嚴を轉讀しやがて尼と成つたが、寳龜七・八年の比、肥前國佐賀郡の大領が安居會を設け大安寺の戒明をして八十華嚴を講ぜしめた時、此の尼出席して聽聞し、講師が其れを難じ呵嘖したるに、尼屈せずして講師に反駁し、諸高僧等の問試にも悉く答へ、舍利菩薩の號を得た由を、日本靈異記下卷第十九話に記して居る。六歳や七歳の幼少な奇形尼が大安寺の學僧をやりこめるなどゝ云ふのは信ぜられないが、邊陲の地に於ける八十經の崇信状態は察知できると思ふ。
以上が奈良朝期に於ける華嚴經の尊信、及び華嚴宗の弘通状態であるが、東大寺を根本道場とする同宗の宗勢は旺盛なものであつたらうと想像する。しかして八十華嚴や刊定記が傳へられて居る以上、慧苑の新譯音義が傳へられる事も不思議では無い。但し渡來期は判らない。案外早かつたらう。其の慧苑音義に基き本邦人がかなりに手を加へて作つたのか小川家本の音義であつて、新翻華嚴經音義〈これは上卷經序音義の次にあるが、内題とは云へないものゝやうだ〉八十卷花嚴經音義〈上卷尾題〉大方廣佛花嚴經音義〈下卷尾題〉とあるが、此の古鈔本は慧苑音義其のものでは無いから、元祿六年の英秀識語の言葉を採りて新譯華嚴經音義私記と呼ぶのが妥當であらう。
小川家の古鈔本私記は二重の箱入りと成つて居る。中の箱は新しい桐製であるが、外の箱は粗末なもので、蓋の表に
神龜天平年間ノ古寫經 華嚴經音義私記上下 二卷
とあり、「大谷家什寳」と云ふ陽刻朱印を捺した紙が貼付してあり、他にも、二印が存する〈大谷家は本派本願寺の事である〉
本は卷子本で、各卷表紙は幅一尺一寸二分、圓形龍や雲形花模樣の圖案を織り出した裂布であるが是れは支那よりの渡来品にて、唐{カラ}織又は糸織と云ふ由である。表紙の裏は黄紙である。さて上卷は表紙と音義の本文との間に用紙五寸六分の端書があり〈この端書の事は後述する〉其の右下方に「徹定珍藏」の陽刻朱印が存する。さて本文がはじまるのだが用紙は天地九寸一分五厘ぐらゐ、横一尺八寸ぐらゐのものを、上卷は二十六紙使用してありて、全長四丈五尺程ある。〈全長は複製本によりて計つた、古鈔本で計る事は、遠慮したのである。しかし同寸大の寫眞による複製であるから支障は無い筈である。後に日本國寳全集の解説を見ると、上卷四丈五尺六寸五分、下卷六丈五寸二分、竪は九寸二分五厘とあるが、竪は少し異ふやうだ。〉本文最初には内題は無い、用紙の長さから云へば、此の第一紙はもう六七分長くても可い筈であるが、よしや其れだけの長さがあつたとしても内題の書かる可き餘地は無いと信ぜられるから、もと〳〵卷首内題は存せなかつたものらしく見られる(下卷にも卷首内題は無い)。さて内題は無くて直ちに則天武后製作の經序の音義がはじまり、其れが濟むと「新飜華嚴經卷第一世主妙嚴品第一」よりの音義がはじまり「經第廿五卷十廻向品第廿五之三」までの本文があり、本文終ると一行置いて「八十卷花嚴經音義上卷」と尾題があり其の次に上方に「信」の陽刻朱印、〈此の印は本書同樣徹定舊藏で男爵佐藤達次郎氏現藏の東大寺舊藏本、國寳華嚴文義要決(此の書は紙背に書かれた東大寺諷誦文と共に、二卷として、本年八月初旬に複製せられ筆者も惠贈を忝くしたのであつた)にも卷尾上方に押してあり解題筆者山田孝雄博士の解説によると、東大寺所藏華嚴關係の古書に此の印が存する由である。東大寺で一度華嚴關係の古書の整理をした場合に押したものと見える。〉下方に「徹定珍藏」及びも一つの陽刻朱印があり、其の次ぎに「僧定昭之本也」と墨書してある。此の最後の用紙も、他と同樣の長さであるから書寫當時のまゝの寸法であらう。本には此の複製本で見れば判る通り破損、汚損、摩損など殆んど無く小々虫損があるのみで誠によく保存せられて居る。全體に裏打が施してあるが、繼目には「古經堂藏」及びも一つの朱印がある(かゝる事は下卷も同じである)。次に下卷は三十四紙、全長六丈三寸程「經第廿六卷十廻向品第廿五之四」の音義よりはじまるが、此の第一紙は、卷首が破れ居り、現存の紙の横幅は他の用紙に比し、極めて少し足らない。しかし、内題の存す可き餘地の全く無い事は上卷同樣である。もとより無かつたものと信ずる。卷尾は「經卷第八十入法界品之廿一」の音義が終ると、やはり一行置いて「大方廣佛花嚴經音義卷下」と云ふ尾題が存し、上卷尾同樣に三の朱印及び「僧定昭之本也」の墨書があるが、其の尾題と墨書との間に
八十經私記{音義}上下二卷依破損爲興隆之今修復軸表紙付畢 元祿六年〈酉〉卯月中旬 法印英秀
と云ふ墨書がある。此の最後の用紙も他と同樣の寸法であるから、切り取られた部分の無い事は判る。さて此の識語は「八十經私記」と書きさて右傍に音義と小さく記して居るが、これは八十經音義と書く可きものをつい誤つて八十經私記と書いたから、横に音義と補記したものであると見たい。八十經私記では足らぬからとて音義二字を加へ、八十經音義私記と讀ませる所存であるとは見られない。しかし此の音義は、慧苑音義其のものではないのだから慧苑音義と區別するため此の私記とあるのを生かして、本書を新譯華嚴經音義私記と呼んでよいと思ふ。從來でも然う呼ばれて居る例も存するのである。(なほ此の私記の二字につき、日本國寶全集の解説は、本書には倭訓があるから私記と呼んだのであらうとして、著述當初より、私記の語があつたと云ふ風な書方であるが、最初より私記と呼んで居たとする積極的證據は無いのである。)さて此の次ぎに別の紙を足して、長さ五尺三寸程の分量の跋文があるが、第一のは長さ一尺程の分量〈一行十八字詰十三行餘〉徹定が文久元年十二月に佛嶺古經堂で加へたもので、まづ存しても支障は無いが、後のは、明治十年辛未九月廿二日〈明治四年〉光緒四年太歳在著雍攝格律中夾鐘〈明治十一年戊寅二月〉に徹定が其の趣味よりして金邠、何如鏱、張斯桂らの三人〈何は清の公使、張は副使と云ふ。是等の人々は、徹定所藏の他の古經類にも跋を書いたりして居ると云ふ。金邠は古經題跋の序者である。〉に書き加へしめたもので、むしろ取り除いてしまひたいもの、内容から云つても、取るに足る事は云つて居ない、(上卷のはじめの端書に馬道手箱とあるので、是れを筆者に擬して居るものも居るが取るに足らない)
現在の装潢は何時なされたものであるかは知らぬが、徹定の識語などが存し、裏打の紙の繼目にも徹定の印のあることから見れば、徹定であつたらうと想はれる。装潢の時少し斷ち縮められた事は、下卷上欄の文字が少し切り取られて居る事で判る。
此の古鈔本について注意すべきは其の書寫年代の事である。しかして是れに就いては木村正辭の如く、安政の頃を基準として、千年上の古鈔本と云ひ、積極的に奈良朝期寫本と云はぬ人もあつたが、〈萬葉集訓義辨證〉大體は奈良朝期古鈔本とするのであり、愛藏者徹定は神龜天平間に「寫經生名匠」の筆に成ると云ひ〈跋文〉又塙忠寳や黒川春村らは書體と料紙とにより天平頃の寫本と云ひ、明治以後の學者にして本書を親しく手に取りて閲した人々の中にも奈良朝の寫本なる事を明言して居る人もあり(後で知つたのだが、日本國寳全集の解説にも「書寫年代はその書風より見て奈良朝を降らぬ頃のものと思はれる」と明記してある)自分の如きも、其れらの學者の云ふがまゝを信じて居たのであつたが、今年の二月七日に實物を親しく拜見して、本書には奈良朝期古鈔本ならざる事を明示する墨書が存するのを見て唖然としたのである。本書には書寫の年月が墨書してあつたのである。自分は本書下卷を次第に披閲し行き、本文最後の「大方廣佛花嚴經音義卷下」と云ふ尾題と、その尾題より一寸程の距離も無くて存する元祿六年卯月の英秀識語とに達したのだが、此の尾題と識語との間の紙がかなり薄汚くなり居り(即ちウスズミ色に汚れ居り)且つ紙面に摩損さへ少し存するのに氣づいたのではつと思ひ、若しやと疑ひて凝視すると、案の如くそこに今はかすかになつては居るものゝ、文字が元來存したものなる事を知つた。そこで撓めつ眇めつしたところ「甲戌之」の三字と最後の「了」字とが現はれ第二字は厂と曰が現はれたので凝視すると「暦」の字なる事判り、其の上は、暦字を下半とする年號を想像しつゝ見ると「延」字なる事が、はつきりと浮んで來た、さて延暦甲戌が何年であるかは記憶し居らぬが「暦」と「甲」との間が三字分の長さにして、□□年と讀み得るやうにも成つた、斯くて「甲戌之」の下を凝視するに「春寫之了」である事も判明した。又□□年の所を甲戌が判つて居る以上、も早や判讀する要はないが、其れでも「十□年」「廿□年」の何れかだらうと豫想して見ると、「十」らしい事も判つた。が結局「十」の下の字だけは讀み得なかつた。しかしとにかく本書に「延暦十□年甲戌之春寫之了」と云ふ識語の存したと云ふ事を知り、從來奈良朝の寫本だと云はれて居た事を是正出來る事と成つたのを喜んだ。歸宅後年表を檢したるに延暦甲戌は十三年にして、こゝは、
延暦十三年甲戌之春寫之了
とあつたものである事を確め得た。此の頃の寫經で、年月日を明記したものには「延暦十七年〈歳次/戊寅〉八月卅日 願主金光明寺僧慚忠」とある觀佛三味海經(訪書餘録所載)がある。(さて右の如く讀解したから、樂に讀み得るならんと想像する人々もあらうが、實は然うで無く、むしろ理詰めで讀解したと云ふ可きである。赤外線寫眞に於いても文字の存する事が判る程度であり、此の複製本でも不明である。肉眼の方が斯ういふ場合には優れて居る。)
それにしても何故此の識語を消したのか。寫本としては延暦の寫本ならば、古寫本として珍重すべきであるは云ふまでも無いのに、これを消したのは、此の識語がありては都合が惡いと考へたからであるに相違ない。そして此の識語があると都合が惡いと考へるのには、(一)此の古鈔本を延暦以前の寫本であると云ひたい場合と(二)延暦以後の某と云ふ有名な人の筆である事を裝ひたい場合とがあると想像するが、先づ(一)の場合の方が可能性が多くは無からうか。〈なほ此の識語は元來無かつたのだが、後人が何かの理由で加へ、其れが又何かの理由で消されたので無いかとの疑も抱きうるかも知れぬが、自分は無要の疑と信じる。〉
又如何なる手段で消したのであらうか。抹殺箇所に於ける摩損は極めて僅少であり、光線に透して見ても極めて輕度である。だが「大方廣佛花嚴經音義卷下」とある「廣」より「卷」に至る八字は、其の漆墨の濃厚な墨色がやゝ流れて居る。しかして經師屋が、故意に文字を消し又汚點を除く時に、水で洗ふのが普通である事を思へば、此の識語の抹消も水洗に據るものと見る可く、其の時苦心しても此の程度にしか抹消できなかつたものと見える。しかして廣佛花嚴經云々の行が、此の程度に流れたとすると、元祿六年識語の行も亦、水洗の影響で少しは流れさうなものだのに、此の方は流れて居るやうにも見受けられないのを見ると、元祿の識語は水洗の後に書かれたのではあるまいか。或いは又、元祿識語の書かれた後に抹消したのだが、此の方の墨は音義の漆黒の墨色に比べると墨色が淡いので、流れるには至らなかつたと云ふのであらうか。とにかく何時誰が斯う云ふ不正な事をしたかは不明である。
それにしても、紙が黒ずんで居るから、此處に斯う云ふ小細工が施されてあると云ふ事は容易に看破できると思ふのに、徹定、塙忠寳、黒川春村、木村正辭等は氣づかず、近頃の學者で氣づいた人も無かつたのである。かなりいぶかしい事である。以前大正十年に、自分は建長三年八月の寫本だと稱せられて居る觀智院本類聚名義抄〈現在國寳〉の實物を閲して、識語の肩にはもと「本云」と云ふ文字があつたのだが其れを、故意に摩消してしまつてある事實を指摘し、建長の寫本で無い事を論じた事があり、其の後はこれが認められて居るが、其の抹消に氣づいたのも、摩擦痕によりてゞある。そして今度此の音義古鈔本を見て墨の流れに氣づき、抹消の事實を認めるに至つたのも、前の名義抄の場合の經驗があるからである。だがしかし、此の抹消の發見は自分が最初では無かつた事を自分は忘れて居たのである。蓋し岡井愼吾博士が昭和六年夏、當時京大司書であられた藤堂祐範氏の紹介にて小川邸に本書を見られた時、氣付かれ、昭和九年九月刊行の日本漢字學史の八十卷華嚴經音義私記の條で「延暦十三年甲戌之春□之畢」とあると記され、自分は其の漢字學史を雜誌に紹介した時にも、此の識語の指摘を特に感謝して置いたのであつたが、それらの事を全く忘れてしまつて居つたのである。斯う云ふ次第である以上は、自分の事などは今更書くにも及ばぬのだが、此の愚書の存在に氣づく事は從來の例から云ふと容易であるとは云へないため、自分の判讀の經路を示し、且は岡井博士所引のものゝ足らざる所を補ひたいために、冗説したのである。諒恕せられたい。それにしても未だ視力の衰へさうにも無い四十二歳の頃には既に本書を珍藏して居た筈の徹定や、二十九歳までの正辭、又は日本國寳全集の解説者らが、延暦識語に氣付かなかつたのは何うしてゞあらうか。(尤もはじめてこの識語を引用せられた岡井博士が判讀の困難なる事に言及し居られれないのも、實はいぶかしいが)さて本書の書寫年代を述べたのに因み、其の後の傳來事情などを述べよう。
本書の書寫は、都が長岡より平安の新京へ遷る年の春であるが、何れは舊京平城で寫經生が書いたものだらうから、常識上舊京の大寺院に存したものと思はれるが、傳はつて「僧定昭之本也」の定昭の手にある時期もあつた。佛家人名辭書は高僧傳と高野春秋とにより大僧都定昭は小一條左大臣藤原師尹の子、興福寺に住し、後、一乘院を開いた人、永觀元年三月廿一日に世壽七十三歳で寂したと記して居るが、尊卑分脈には師尹の條に定昭の名見えず、大鏡師尹傳にも見えない。僧綱補任永觀元年の條には七十五歳で寂したとあり、左京人也とあるだけである。それに年齡から云ふと、安和二年に五十歳で薨じた師尹の子とすると、逆に定昭の方が十歳以上も年上となるから、師尹の子では無い。索引を檢するに分脈にも見えない。名門の出では無かつたのだらう。
なほ本書には兩卷とも卷尾に「信」の陽刻朱印が押してある、これは東大寺所藏の華嚴經關係の古書に見る所だと云ふ事であるから、東大寺の所藏であつた時期もあつた譯である。但し「信」の印の押された時期は判らない。
本書には上卷々首に、別紙が繼ぎ足してあつて、端書とも云ふ可き「永延識語」が記されて居る。
□論云 □譯大方廣佛華嚴経音義二卷 馬道手箱 右一部二卷其本見在 沙門釋慧苑京兆人、花嚴藏法師上首門人也、勤學不惰、内外兼通、花嚴一宗、尤所精達、苑以新譯之經未有 音義、披讀之者取決無從、遂博覽字書、撰成二卷、夫尋翫之者、不㆑遠㆑求㆑師高曉㆓於字義㆒也 以此久言留于 彼土、云何此土不㆓披習㆒歟 □永延之本
第一行の「論」の上の字、及び第二行の「譯」の上の字は不明だが、後者は新譯と續くらしい。「馬道手箱」の四字は別筆である。尾の「之本」の上の人名は左方が繼目であるため欠けて居るので判らぬが、永延とも讀める。が上の一字は讀めない。さて此の紙片は、此所へ端書として添へるために書かれたものか何うか判らぬが、(又何時から此所へ繼ぎ足されたのかも判らぬ)とにかく、此の古鈔本が永延と云ふ僧の所持品であつた事も認められる。但し、何時の事であつたかは判らぬ。此の永延の識語は□論と云ふ書を引用して、慧苑音義の解説を記したものであるが、此の全文が□論云の内容であるのか、此の文の尾の方に永延の言も交つて居るのであるかも知りかねる。〈苑字、はじめの方のは誤つて、訂正して居る、久言云々の所、判りかねるが彼土は唐土、此土は本邦の義なるは明らかだ。〉
次ぎに此處に永延の筆とは異る筆で「馬道手箱」とあるが、手箱は手文庫の義であるから、馬道と云ふのも、かつての所持者の名であつたらう。永延識語中に書き込んであるから、永延識語が卷首に繼ぎ兄されてから書き込まれたものにて、馬道の方が永延よりは後に所持したと見られる。さて其の馬道と云ふ名であるが馬道と云ふやうに馬字のついた名は僧の名とは認められず、俗人としても奈良朝期の如く馬養{ウマカヒ}、常世{トコヨ}但馬人・檜前{ヒノクマ}馬長〈何れも寫經生の名〉のやうな名の行はれた時代ならば珍しく無いが、平安朝に入りて、名に支那風の好字を撰ぶやうに成つてからの名としては珍しい。しかし平安朝に成つてからでも、皇室では嵯峨・淳和二帝の皇子方より支那式の名と成つても、臣下殊には藤原氏以外の他氏のものや下級人にはずつと後まで古めかしい奈良朝式の名が行はれて居たのであるから、馬道を其の種の人と見れば馬道の名も、彼是云ふに兄らないのかも知れない。しかし永延や馬道が平安朝の初期中期の人だとは自分も云ひ切る事は出來ない。たゞ斯う云ふ人も此の古鈔本の所持者であつたと云へば可いのである。(本書下卷の支那人の跋の中に、馬道を以て、寫經生の名に擬して居る。寫經生は朝廷の役人として寫すのが普通だが、假りに公暇を利用して、自費で紙筆を調へて本書を書寫し珍藏したとしても、「馬道手箱」の書かれてあるのが永延識語の用紙の空白である點で、馬道を筆者に擬する事は到庭信ぜられなくなるが、しかし「馬道」と云ふ氏は姓氏家系辭書によると、正倉院の天平十一年文書に見える由である。又假定が續古經題跋〈解題叢書本三四九頁〉に引く天平廿年四月一日の解には寫經書生二十三人の一人として「馬道兄」を記して居る、これは馬が氏で〈當時「馬」と云ふ氏は存した〉道兄はチタリ又はミチタリと云ふ名であらうが、これを馬道と云ふ氏だと誤解したとし、さて西村兼文式の遊戯心が加はつたとすると、此の古鈔本を神龜天平間のものとする徹定の言、馬道兄と云ふ寫經生の存在、馬道手箱の馬道を此の古鈔本の筆者に擬する臆測等の間には、何か一脈通ずるものがあるかの如く想像せられるが、何うであらうか。但し邪推は止めて、判らぬと云つて置かう。)
此の古鈔本は元祿六年には英秀と云ふ僧の手中にありて裝潢に修覆が加へられた。其の後幕末に成りて、古經に興味を有して居た徹定の藏と成つた。其の時期は不明だが、徹定が跋を加へた文久元年よりは前であり、木村正辭の萬葉集訓義辨證によると、今六年は溯り、安政二年二月以前であるかも知れないやうである。嘉永壬子五年の秋徹定は江戸より西遊して近畿諸山の古經を探訪して居る〈古經題跋序〉時に三十九歳、恐らくは此の時に此の古鈔本を得たのではあるまいか。徹定は本書に跋を加へ、又其の古經題跋に本書を録した。本書が學者の眼に觸れるやうに成つたのは徹定の愛藏に歸してからである。其の徹定の識語の一部を録すると左の如くである。
此私記二卷、南京一乗院開祖定昭僧正舊 藏也、筆力宕拔、墨色如漆、頗有理源大師筆意、 與常絶異、余觀古經不爲少、然未見勁健巧妙 若此者、江州石山寺、収弆玉篇廿卷、其體稍類、 蓋神龜天平間、寫經生名匠所作也、音義與宋 元諸本不同、有則天新字廿五、…… 註脚中往々附和訓、與和名鈔、稍有異同、 所以名私記也…… 文久辛酉嘉平月吉旦書於佛嶺古經堂 芸窓下 竺 徹定
本書の筆蹟を過褒し、又書寫時代を神龜天平間と云ふのは妥當で無い。和名抄との關係も此の記事では和名抄が前に成り、本書が後に成つて、本書は和名抄の私記であるかの如く解せられるが其れも宜しく無い。和名抄は承平中のものであるから、本書の書寫せられた延暦十三年より云うても百四十年後のものであり、和訓に「稍有異同」つても不思議で無い。本書の珍藏者として注意すべき徹定は養鸕{ウガヒ}氏、筑後の人、文化十一年三月十五日に生れ、文政二年六歳で得度し、尋いで京に上り修學し、天保三年江戸に下り三級山増上寺で修學し、やがて寺内の學寮主と成つた。明治七年四月京の知恩院に晋住し第七十五世を襲いだ。二十年に知恩院を辭し塔頭に隱棲したが、二十四年二月尾張に巡化して病を得、三月十五日に名古屋で示寂した、壽七十八、松翁・古溪・杞憂道人・古經堂主などゝ號した。古經を愛する事甚しく、蒐藏した古經其の他が多い。著書は多いが、書誌關係のものは古經題跋二卷、續古經題跋一卷、譯場列位一卷、増補蓮門經籍録二卷〈文雄原撰徹定増補〉等がある。〈龍谷大學論叢昭和五年八月號(二九三號)に藤堂祐範氏の徹定傳が見える。〉
徹定の寂後、其の蒐藏品で知恩院の藏に歸したものもあるが〈有名な法王帝説や大唐三藏玄奘法師表啓は其の中のものである〉此の音義は、いつの時か、西本願寺の藏と成つた。龍谷大學で編纂した佛教大辭彙〈大正三年五月第一卷刊〉の第一卷「華嚴經音義」の條に
我國奈良朝の頃の作と認むべき新譯華嚴經音義私記二卷あり、本書〈慧苑音義のこと〉の内容に就て稍省略を加へ、各品の大要、舊經との比較を述べ、諸處に倭音、倭訓を附せり。又武后制定の異字を註する所少なからず。本派本願寺に古抄卷子本を藏す。
とあるは其の時代の事だが、其の大正三年には、も早や此の古鈔本は西本願寺には無かつたのである〈序ながら仏書解説大辭典第六卷(昭和八年十一月刊)に龍大の湯次了榮教授が、「今本派本願寺には古本卷子本を藏す」と云つて居られるのも、無論正しくない。〉即ち大正元年頃、本願寺は夥しい書畫骨董品を三回にわたりて賣拂うたが、其の時此の古鈔本も紛れて出てしまつたのである。龍大教授禿氏祐祥氏のお話によると、此の音義は品物の性質上、賣拂はぬ事に決めてあつたのだが、其れが處分品中に混入し、三千五百圓程にて賣拂はれてしまつたのであると云ふ。〈其の時の入札品目録は存するが、三回分ともに本書の名は記さない。但し入札品目録は全部の目録では無いのだから、記さなくても不思議は無い。第一回入札の下見の日、中學生の自分も見に行つたが其の日は武石洪波と云ふ新歸朝飛行家が、大阪より京に飛び、深草練兵場に墜落慘死した日である事をしかと覺えて居る。かゝる私事は書かでもの事だが、入札品目録には年月日を記さず全く不明で、自分も入札は大正元年頃と覺えて居るに過ぎないから、わざと記すのである。〉しかして、大正二年十二月四日、京の田中寸紅堂より、大阪の富豪小川爲次郎氏(睦之輔博士先考)が購められ、昭和六年十二月には國寳に指定せられて今日に至つて居るのである。小川家が展覽會に出陳せられた事も大正四年秋大典慶祝博覽會〈其の時の目録たる古美術品圖録の奈良朝の所に上卷首の寫眞が出て居る〉大正十年五月の和田雲村翁追悼辭書類展覽會、昭和三年三月より四月へかけての大阪朝日新聞社主催天平文化綜合大展覽會〈圖録あり、上卷首尾の寫眞見ゆ〉昭和十一年十月の第二十七回京都大藏會など數度ある。
此の音義は他に古い寫本があるか何うか知らぬが、禿氏教授が、此の本がまだ西本願寺にある頃、專門家に依頼して、多額の寫字費を出して忠實に影寫せしめられた本がある。ところが此の新影寫本を明治四十五年〈即ち大正元年〉に大矢透博士が見て二箇月程持ち歸り、其の中の和語を抄出した一篇を添へて返却せられたが、大矢博士も其の時、全體を寫されたとかである。ところで此の禿氏教授本は其の後間も無く黒板博士が持ち歸られ、同博士が又貸しでもして失はれたと見えて、永久に教授の手許へは歸つて來ないのである。だから大正震災で燒失したと云ふやうな事さへないならば、禿氏教授の影寫本は、誰れかの所藏品として現存して居る筈である〈以上、西本願寺時代の消息は私が禿氏教授より親しく承つた事を記したのである〉
さて以上は本書傳存の事情であるが、次ぎに、本書について研究し、又は何か言及して居るものを擧げると最も早く本書の事を述べて居るのは木村正辭〈博士〉で、萬葉集訓義辨證〈二卷、安政二年二月自序〉下卷〈五四頁〉で「新翻華嚴經音義……そも〳〵此音義は芝三縁山なる徹定寮の秘藏にして、千年上の古鈔本なり、余別に其書の中より訓釋のある文字のみを摘録してこれを藏す、暇あらむをり校正して世に傳へむとおもふ」と云ひ(千年上では判らぬが、安政二年〈二五一五年〉より千年溯れば文徳齊衡二年で、光仁帝末年天應元年までには七十餘年ヘだゝる。奈良朝の物とは認めなかつたか)なほ同書上卷〈六三頁/八二頁〉にても「此書は皇国古人の作にて、此本即ち其原本と見ゆばかりの古鈔本なり」と云つて居る。此の頃黒川春村〈國學者、慶應二年歿、六十八歳〉塙忠寳〈保己一男、文久二年勤王浪士の爲め殺さる〉も本書を見たか、二人は此の古鈔本を天平頃のものと鑒定した由である〈小中村清矩の言による、後述〉珍藏者徹定は文久元年の跋にて、神龜天平の書寫と云つたが、文久三年冬十二月の自序ある古經題跋卷下でも、文久元年の跋の趣を簡明に述べて居る。
さきに述べた事により、木村正辭が、本書の和語の條を抄出した事が判るが、其の抄出本は轉寫せられて行つた。金澤庄三郎博士還暦記念の「濯足庵藏書六十一種」〈昭和八年三月刊〉に寫眞の見えるものは、小中村清矩〈博士〉舊藏本で、清矩が正辭の抄本を、明治二十八年三月に影寫せしめたもので、彼はその前年即廿七年十月稿の「わが國の辭書」〈陽春廬雜考卷八と國文論纂との兩書に入る〉の中で「天平の頃に著せるものと覺しき」ものとして此の音義に言及してゐるが、見る可き事は無い。此の正辭の抄出本の轉寫本は濱野知三郎氏も所藏せられ、自分は其れをお借りした事があるが、其の本は、一頁八行二段〈其の體裁は濯足庵藏書六十一種の寫眞を見れば判る〉で本文は、十丁表で終り、裏に元祿六年の識語及び「僧定昭之本也」までを記し、さて
原本ハ徹定和尚ノ所藏ニシテ木村正辭翁ソノ假名釋アルモノヽミヲ抄出シオケルヲ借覽ノ次自ラ寫シ置ケルモノナリ
明治三十九年十二月十三夜 水齋主人〈○以上朱〉
四十年八月ノ末高野ヨリ奈良ヲ經テ京都ニ出デシヲリ知恩院ニマヰリテ此書本ノ有無ヲ尋ネタレバ無シトイヒキ尚増上寺ヲ尋ネテム木村翁其本ヲ見ラレシハ徹定ノ同寺ニアリツル程ナリトキヽツレバナリ 水齋又識
とあり、十二丁表より十六丁裏第一行までは和訓のあるものを一頁五行〈段なし〉づゝ記し、十七丁、十八丁には「隣音輪」、「墜 音豆伊反」の類を記すが、別に説明も無い、しかし是れらは正辭の抄出に漏れたのを補はれたものである事が判る。其の補はれたのは、翁が禿氏教授の影寫本を見られた時であらう。さて此の水齋と云ふは故大矢透博士の號であり、濱野氏は大矢氏本を書生に影寫せしめられたのである。
其の大矢博士が、明治四十五年に禿氏教授より新影寫本を借りて抄出せられたものは八十華嚴音義私記音訓と稱する、美濃紙十一紙〈他に表紙二枚あり、十三枚を紙捻にて假綴したるもの〉のもので一頁六行二段、八丁餘が倭訓で、殘部は倭音と覺しきものであるが、倭訓に一つの脱漏あり、倭音が全部倭音であるか何うかは判らぬ。卷尾に
この册子はさきに禿氏師より西本願寺藏八十華嚴音義の影抄本を借覽せる度に倭訓并に倭音と覺しきかぎり書きぬきていさゝか心つけるところに朱を加へたるなり今その本を返すをりに瓿覆はん料にもこそとて添ふるになむ
明治四十五年四月一日 水齋主人朧[印]
とある。
吉澤博士も亦、小川爲次郎翁存生中に、古鈔本から直接抄出せられた事あり、其れも恩借したが十八丁のものでこれが正辭や大矢博士のに比し一番詳しい。又博士は「天暦時代の假名遣」〈國語國文第五號、昭和二年二月號〉の中で古鈔本の書寫年代を奈良期となし、
奈良寫本新譯華嚴經音義……は慧苑のものに基いて和訓を添へたものである。この音義の出來たのは、慧苑の晩年で開元中かと思はれるから、それが我國に傳へられたのは聖武天皇の御代以前ではあるまい。從つて右小川氏所藏本の出來たのは孝謙朝頃であつたかと思はれる。
と云つて居られる。自分は、慧苑音義をば、別に理由はないが、便宜上、開元十年頃の著述と假定して居る。
此の後昭和六年夏、岡井博士は玉篇の研究資料として小川邸に本書を調査し、其の結果を大著「玉篇の研究」〈昭和八年十二月刊〉の玉篇佚文内篇に記し、又其の後の昭和九年九月刊行の日本漢字學史で簡單に言及せられたが、書寫年代を明記せられた事は注意すべきである。昭和七年五月、日本國寳全集第十輯が出て、本書の上卷々首九行と、則天武后字の所とを寫眞版で收録し、解説も添へたが、其れは別段注意するに足る解説では無かつた。
さて本書は八寸一分程の間隔を置きて天地に横の郭線を引き、其の天地間に、大體九分(一寸のもある)の間隔で縱の界線を引いてあるが(何れも墨界)一行の字數は大字は十七字乃至二十一字で不定、十八・九字が多い。雙行註の細字は二十一、二十二、二十三、二十四字等が多いが、二十六字もある、やはり不定である。中には細註が間隔を無視して極めて窮屈に書いてある例
もある。〈これに類したものは他にもある〉そして細註の字數が一定せない爲めだらうが、本書を見た場合に横の字並びが全く無統制と云ふ可き程であり、縱の字並び又正しくは無く、幼稚園兒を整列させたやうに不整頓に見受けられるものもあり、又界線を無視して斜に成つて居る行もあるため、本書を一目見た場合に、文字に落ちつきの無い感じを受ける。しかも一々の文字は漆黒の墨色で大字も小字も、寫經風の強い筆致で書いてはあるのだが、奈良期の寫經に見る樣な謹直味は無く、字も右肩上り、右肩下りが交り巧みとは云ひ難く、一寸見た時には良く見えても、複製本を繰返し〳〵眺めて居ると不几帳面な點が目立つて來て評價は低落するのを禁じ得ぬ,筆蹟に關する徹定の過褒は當らず、寫經生の中でも決して名手で無き未熟なものが寫したもの、殊に謹直と云ふやうな事は忘れて書いたものと見たい。しかして、誤字、脱字、衍字、大字に書く可きを小字に書き、小字に書く可きを大字に書いたと云ふ如き例は實に驚く程多くあり、此の點では此の古鈔本の價値をかなり減少せしめて居ると云はなければならないのである。斯う云ふ事も、筆者が未熟であり、且つ輕卒であつた事を想像させるに充分である。文字は一筆であるが、朱筆や墨筆の訂正、又押紙による訂正があるが、これらは別筆であるやうだ。〈此の事原本を再見した上で確かなる事が云ひたかつたが、再見は出來なかつた〉朱筆は色が淡く印刷せられて居るから、墨筆と紛れる事は無い。保存よくて殆んど手擦や虫損で文字が不明に成つて居る所とては無いが、強ひて云へば十三卷「弗婆提」の下の具、「丈夫」の下の丈、「惟仁」の下の天徳曰、「毗藍風」の註尾「嵐力含反」、十五卷「庭院」の下の音、六十七卷「巖〻」の註尾累重ぐらゐである。
以下、本書の内容につき記述する。
本書は新譯華嚴經(場合によつては八十經とか、新譯經とか、適宜略稱を使用する所存である)の本文及び則天武后製作經序の音義であつて、其の單字、熟字、句等を擧げ、其の音や意味を説いたものだが、或る文字につき、其の古文を示したり、俗體は何う書く、正しくは何う書くと云ふ事を示し、又某字は某を扁とし某を旁とし、某と云ふ部首にあると云ふ風に字形に關する事も説くし、又舊譯華嚴經(六十經、舊譯經)との文字、譯語、本文、品名等の比較を試みたりして居る。註を加へらる可き語句――これを標出語と呼ぶ事とする――は、經序も經本文も文章の順序に從ふのが普通であるが、又順序の少し亂れて居るところもある。標出語は大字、註文は細字であるのは勿論だが、大字とす可きを小字に書き誤り小字にすべきを大字にして居る例も夥しい。標出語の脱落して居るらしいものも少しはある。標出語はありて註文は無く、空白にしてあるものもある、又空白にせずして、直ぐ次ぎの標出語を書き續けて居るものもある、註文の末尾を書き落したらしいものもある。又標出語を擧げるに當り、五字擧げる可きを二字三字で濟まし、註文だけは五字分であるため、ふと見ると註の所屬に迷ふやうな場合もある、又、何う云ふ事情があつての事か推量しかねるが、甲字の註文が其の近くにある乙字の註文中に紛れ込んで居るやうなものもある。是れらの諸點に關しては、本書の著著が責任を負はねばならぬものも隨分あらうが、本書の筆者が責任を負はねばならぬものも夥しいであらう、此の古鈔本の筆者は甚だ無學であり、本文を常識程度に理解する事も出來ず、機械的に不注意な態度で書寫したものでは無いかと思ふ。
以上述べた事を、これより例を擧げて具體的に述べよう。だが述べずとも可い事、複製本を見ればすぐ判るやうな事は述べない、又文字の字形に關する事は、印刷上の不便もある事で、しかも本書を或る程度の熱心を以つて見て行けば理解できる事だから是も省略する。なほ引用文中に出て來る文字で活字體のと異るものもあるが、其れらも無論斷りはせずに通行活字體に改めて引用する。
大字を小字として居る例。これは大字で書く可き各品の名や標出語を小字で書いて居る場合であるが、品名の如きは小字で書かれても大して支障は感ぜないが、標出語を註文同樣の細字で書いてあるのは註文と紛はしく成り、大いに困る事である。さて小字に誤寫せられて居る大字を發見するには克明に讀んで行く他は無いが、其の場合でも其れが大字に書かる可き標出語である事を確めるには、此の書の土臺と成つた慧苑音義や經文を檢する必要があるから、相當に勞力が要る。自分は慧苑音義としては元祿中刊行の單行本を〈なほ縮刷藏經本、卍藏經本も參照した〉又八十經の本文としては藏經書院の卍藏經本を使用した。經本文を引く場合には丁數、丁の表裏、段の上下、行數を記す。さて此の大字を小字にして居る例は、氣づいたもの全部を擧げる。
なほ、標出語を脱してしまつて居る例も存するが、其れは脱字の條で言及する。
此の反對に小字を大字に書くと云ふ例も夥しいが、是れは細字にすべき文字を特に標出語同樣に大書したものが主であつて、音義の體裁から云へば不體裁であり、此の點で刊本音義よりも劣るが、大字が小字に書かれて居る場合の如く標出語と細註との區別に迷ふと云ふやうな事は無いから、此の點では大した支障があるとは云へない。だが標出語の語數を數へる場合には、是れらのものは、數へないで無視すべきだから、計算をするのに邪魔となる。なほ此の類には註文を全部大字で書いたものも少しあり(其の極端な例は經序音義で「念處正勤三十七品爲其行」の註文をば、二十一行にわたりて大字で書いて居る例がある)其れらはやはり體裁上好ましからぬものと云ふ他は無い。さて此の類のものは、又澤山あるが二十二卷までゞ少し擧げて置く。但し二十二卷までのが、全部で是れだけであると云ふのでは決して無い。
(六)普振の次ぎの「振」、(七)無遺云々の次ぎの「遺」、(八)澄埿其下の次の「埿」、四隅の次ぎの「角」、繚繞の次の「又繚」、(一一)乃往者語助也乃往也とあるは「乃往」が標出語にして「(乃)者語助也、乃往也」は註であるから〈但し乃字を脱す〉小字である可きである。又十方云々の次ぎの「止」、妓樂の次ぎの「技藝」、(一五)須臾の次ぎの「臘」、また釋提桓、釋迦、提婆、囚陀羅等の語の註は細字である可きだ、(一六)十佛名の下の「飜如唐音義」の五字(一七)爾時佛神力云々の「以下舊經云々」の十字、(二二)因於撫撃の次ぎの授以下十八字も因於撫撃の註文だから細字たる可きだ。
標出語の不完全なる例。標出語の擧げ方が不完全不充分であるために、註文の中に、何故然う云ふ文句が存するかゞ判らず、何かの誤りで無いかと想像せられたものが、慧苑音義や經文に比べて見た上で、標出語の擧げ方が不足であつた事が判るものもある。例へば第一卷に
遐暢〈上遠也、下達/也、及至也〉
と云ふのがあり、上字は遠の義、下字は達の義である由は判るが、及至也が判らぬ、そこでこれは「下達也、及也、至也」の也字が脱ちたのかとも、一往は考へられるが、實は慧苑や經文〈二オ下五〉によると、「遐暢無㆑處㆑不㆑及」と云ふ文句の註であるのに、標出語として「不及」までを引かぬから誤解を生ぜしめ易いのである事が判明する。此の種のものもかなりあるが二十三卷までゞ少し擧げる。上が不穩當で下が正しいのである。
是れにやゝ似た事であつてしかも本質を異にする誤謬がある。其は甲の標出語の註文としては全く無關係であるため、何の爲めかゝる註文が存するかを種々査べて見ると、其の標出語甲の近所に存する標出語乙の註文が紛れ込んで居る事に氣付くと云ふ例である。例へば十四卷の賢首品第十二之上に
淵才〈上背演川深/也下道也〉(川は訓の旁にして、要するに訓の略字である、本書では言扁を後から補うて居るものが多い。)
とあるが下道也が才字の註としては當らないので種々しらべたが判らず、そのまゝ次ぎの「技術」と云ふ標出語に移ると、何事ぞ
技術〈上藝也/下道也〉
とあるので「淵才」の註「下道也」は「技術」の註に基づく衍字である事が判つたのである。十九卷の「勇捍」の註末に「言孤勞無人濟助也」(勞は㷀の誤)とあるのも、次ぎの「靡所資贍」の註が紛れ込んだのである。かゝる例としては次ぎの如きものがある。
此の逆に、前にある標出語の註が後の語の註に紛れ込んで居るのもある。十三卷「奔逝」の註の又湍他官反以下十八字は一つ前の「湍流」の註たるべきである。
又此の類の誤の中に、兩方の標出語の註に同じ文句が存するのがある。經序の「及㆓夫鷲巖西峙、象駕東驅㆒慧日法王超㆓四大㆒而高視」と云ふ文の「西峙」の註に
峙立也、謂彼鷲峯〈○靈鷲山の事〉亭々然正立於西域也、域外政云超〈然正二字、古鈔本殺止に誤る、今慧苑により訂す〉
とあるが、直ぐ次ぎの「超四大」には
老子云、域中有四大、謂天地王道也、今言佛出過止立於西域也、域外故云超
とあり、「西域」とが「域外政云超」と云ふ、文句が兩方に出て理解しにくいが、慧苑は前の方では域外以下を記さず、後の方を今言、佛出過於〈○於字高麗藏本により補ふ〉域内、故云㆑超㆓四大㆒也〈○也字高麗藏本に無し〉に作つて居る。西峙の註としては域外云々の註は不要だが、超四大の註としては必要だ。だから此の場合は後の語の註が、衍字として前の後の註に紛れ込んだと云ふ可きだ。十八卷「舛謬」の註文中に「三摩鉢底……心安和」とあるのは、奇妙に感ぜられるが、これは標出語「三摩鉢底」と其の註文とが舛謬の註文中に紛れ込んだのである。一卷施澓の註末に「梁、力將反、橋也、二字波之」とあるは何故これが此處にあるかゞ判らぬ。こゝは經文では、多くの主水神の名を擧げ、善巧漩澓主水神についで福橋光音主水神の名が見えるから其れに因んだのかとも思はれるが、梁字はいぶかしい。十三卷「卵」の註尾に壃也云々とある七字は別の標出語の誤であらうが思ひ付かない。十四卷「禪那」の註末に住處也とあるのも、禪那の註としては變に見える。慧苑では禪那から一つ置いて「僧伽藍」〈私記に無し〉と云ふのがあり、其の註尾は、或云㆓衆所樂住處㆒也と成つて居るから、或ひは此の註から三字だけが禪那の中に入込んだのかも知れない。六卷「事善知識」〈慧苑此語無し〉の註として事云仕奉也、次佛放眉間光とあるが、經文〈二九オ下一一〉を見ても次佛放眉間光と云ふ註がある可き所で無い。所が二十七行後に〈二九ウ上尾三〉至ると、世尊が一切菩薩大衆をして如來無邊境界神通力を得させようとせられて「故放㆓眉間光㆒」とあるからこれと關係があると見られる。しかし放眉間光の語が「事善知識」の註中に存するは妥當であるとは思はれない。何か誤りがあるらしい。次ぎに六十卷犲狼〈慧苑になし〉の註末に豹の説明があるが、經文〈二八七オ下四〉には此の動物の名は見えない。だから此の註も、これの存する理由が判らぬ。二十八卷に「罄珍」とあり(慧苑には「罄所珍」とあるが經文には〈一三八オ下尾三〉「罄捨所珍」とある)其の註に上盡也、音下、遺也貴坦蔡反忌也脱也餘也、加也世也、貴重也、又尊也とあるが、上盡也と末の方の貴以下の文は理解できても後は理解できない、慧苑は毛詩傳や杜注左傳を引いて罄盡也、珍貴者也と註して居るに過ぎない。これは古鈔本に竄入があると見る可きだらう。
標出語の重出は刊本でも少々あるが、私記ではかなりある。其れも單字のみならず、熟字にもある。同卷で重出のものもある。音義の使用者としては、實を云へば重出三重出する方が便利であるが、著作物として見る場合にはやはり重出して居ない方が、體裁が好い。なほ重出の場合に既に某卷で説明を了つて居ると斷つて居るのもある。重出の例は擧げない。
本書には誤字が甚だ夥しくある。奈良朝期の寫經生は、誤脱をすれば其の給料を引かれたのであるから、誤字脱字については敏感であつた筈であるのに、此の古鈔本では實に夥しく存する、其の几帳面ならざる文字と文字の配列とを結びつけて考へる時、筆者は一體何う云ふ態度で寫したのであつたかと其の謹直ならざる態度を詰問せざるを得ない。無論斯う云ふ物を寫す場合には、寫手は謹直であつても、底本が亂雜で誤字脱字が多い爲めに、自然新寫本も誤字脱字の多い本と成つてしまふと云ふ事情も、演繹的に想像せられもするから、此の古鈔本の誤脱の全責任を寫經生に負はせるのは酷である事は判つて居るが、とにかく文字の巧拙、字配などと考へあはせるに、未熟で又學識も極めて淺い寫經生にして、其の爲め誤脱が多くなつた事を認めざるを得ない。さて其の誤脱は單に本書を丁寧に讀んで行くだけでも氣付く事であるが、更に經本文、慧苑音義や大治本八十經音義と比較して行くと一層よく判るのである。本書中に朱や墨筆で旁書し、又は押紙したものが多いのは、繙く者の直ぐ氣づく事であらうが、これらはすべて後人と覺しき人が、誤脱を認めて補記したものである。が誤脱は其れら以外にも夥しいのである。訂正してあるのはほんの少數に過ぎない(第七十二卷以下は、古鈔本と流布刊本とは大きな相違が無くて校合も樂である。その七十二卷以下を自ら校合すれば古鈔本の誤字の多い事を認め易い筈である。)さて其れらの誤字は標出語の大字を誤れるもの、本文中の小字を誤れるものに分れる。先づ大字を誤つて居る例。
註文の誤字を、慧苑音義と比較しやすい七十二卷に於いて例示するに左の如くである。字體の相違と見られさうなもの、曖昧なものは省く。
これで全體を推測するに足るであらうから、夥しい誤字の例は擧示せぬ。しかし極めて少しく擧げて見よう。
書名を誤つて居るもの。
誤字の中には一字を二字に誤るもの、二字を一字に誤るものがある。
誤字がある以上は、脱字、指字、文字の順の亂れなども無論存する。
脱字と云ふのは落す可からざる一字乃至二字を落したやうなのを云ふのであつて、慧苑に比べた場合相當な量の註文を書いてないものなどは省略したと見るのである。なほ標出語だけ擧げて全く註を施してない例が夥しく存するが、これは古鈔本筆者が誤りて脱文したのか、本書の原作者が故意に省いたのか、又は他日記入する所存でわざと空白にして置いたのであるかは判りかねる。よしや不注意の脱文であるにしても、是れは何人にも直ぐ氣付くものなれば、例示するには及ぶまい。で一・二字の脱字を少々擧げて見る。これも夥しいものである。
衍字も多い。少々擧げる。
文字が逆に成つて居る例。
とにかく右述の如くであつて、此の古鈔本には著者の負ふ可き疵瑕、筆者が責任を負ふ可き疵瑕が、餘りにも多いのであり(殊に本書を單に慧苑音義と比較する場合には、上述の事や次ぎに説く事で判る通り、無論流布の慧苑音義に劣る事數等であり)此の點は延暦の古鈔本としての本書としては實に惜しい事である。
此の私記は、云ふまでも無く慧苑の新譯華嚴經音義を土臺として、本邦人が手を加へたもの〈本邦人云々の事は、倭語や倭音の註の存する事で想像できる〉である。此の事は、世上流布の慧苑音義と比較すれば直ぐ容易に判る事であるが、此の私記が八十華嚴の經序を註するに當り、
序〈京兆靜法寺沙/門慧苑之作〉
と書いて居る事も證據に成る。尤も序字に斯う云ふ註を施す時は、八十經の經序をば慧苑が作つたと云ふ事に成り音義の製作者が慧苑であると云つて居るので無い事に成るのは勿論だが、經序は「天册金輪聖神皇帝製」即ち八十經を實叉難陀等に飜譯せしめた則天武后の製作〈實際は大方代作だらうが表面上は武后の作である〉である事は周知の事實だから、こゝの註は、無論私記作者が斯う云ふ拙劣な註を施したと見る可く、此の註文は此の音義の作者が慧苑である事を云つて居ると見る可きは云ふまでも無い。〈因みに云ふ、第二十二回京都大藏會展觀目録(昭和十一年十月のもの)に、此の古鈔本を挙げて「法藏ノ華嚴音義ニ據リテ作ル」とあるは誤り、法藏は慧苑の師賢首である〉
然らば慧苑音義を何のやうに改竄したか。兩者を比較するに當り流布の慧苑音義に就いて一言する。
慧苑音義の製作時期は不明だが、假りに開元十年頃とすると〈我が元正天皇養老六年〉其の後八十餘年にして元和二年に出來た慧琳の百卷音義中に取り入れられたので、慧琳音義の刊行せらるゝと共に流布は盛んに成つた筈である。但し慧琳音義では元來上下二卷のものが、上(一卷より十六卷まで)中(十七卷より五十卷まで)下(五十一卷より八十卷まで)に分卷せられ、百卷音義の第二一、二二、二三の三卷中に收められた。又別に二卷本も藏經に收められた。佛書解説大辭典によると、慧苑音義は北宋、南宋、元、麗等の諸藏に收められて居る由である。自分の見得るもの、又は本邦の刊本を擧げると左の如きものがある。
なほ粤雅堂叢書第十二集や、上海刊本石印慧琳音義にも慧苑音義は入つて居る。
さて慧苑音義と、此の古鈔私記との本文上の相異を述べると先づ、標出語に於いて數量の相異がある。即ち慧苑では標出語が千二百七十語程〈重出もまれにある〉であるに對し、私記では千七百四十語程である。私記では、註がありて標出語が無いもの、標出語はありて註の無きもの、標出語が註文同樣小字に書かれて居るもの、註の無い標出語が次ぎの標出語と接觸して標出語なる事の判明しかねるもの(例へば八十卷の阿閦如來、二十六卷の飢羸)一つの標出語が二つのやうに書かれて居るもの(例へば六十六卷の「女六十四條能」と次ぎの標出語とは文句が續くのである)一つの標出語の註文中の文字を大字に書くため標出語と紛はしく成つて居るもの〈これは夥しい、例へば五十九卷孤矢劍戟につゞく劍、戟の二字の如きを云ふ〉私記に於いて標出語に脱字あるために、標出語の慧苑と私記との兩書に共在するを見逃し易い例〈例へば七十一卷の「花」は慧苑の波頭摩花に當る〉「鷲巖西峙」〈序文〉垣墻繚繞〈八〉の如く慧苑では一標出語とするものを私記では二語とすると云ふ類のもの、其の他重出語などがあつて計算が煩はしいから千七百四十語程と云ふ數は大數に過ぎぬと自ら認めて居るのだが、其れでも五百語足らず程は私記の方が多いやうだ、しかし私記の方では註の無いものも多い事を忘れてはならぬ。なほ慧苑に見える標出語であつて私記に見えないものは百八十程ある(此の中、金剛臍は慧苑で一・五兩卷に見え、慧苑四卷所見の罣礙が私記四卷には見えないで三十三卷に見え、又慧苑四卷の牟尼は私記四卷には見えずして十二卷の釋迦牟尼の中に含まれて居り、其の釋迦牟尼は慧苑十二卷四十五卷、私記十二卷、四十五卷に重出して居る、又毗盧庶那が慧苑では一卷にありて、私記では十二卷に見え、慧苑九卷の師子嚬呻は私記に無く、慧苑六十卷に「師子嚬呻三昧」と出て居るものは私記にも見えると云ふ類のものもある、これらは除く。)
とにかく、標出語に於いてかなりの相異が存する。だが何と云つても、大部分は慧苑と私記との兩方に見えてゐる。
其れらの、兩書に共通に存する標出語の註文の一致状態を檢するに、
の三種の場合がある。(一致せないものは今は問題とせない。蓋し註文の一致状態により、兩書の關係を認めようとするのが、今の目的であるからである)
今、全く、又は殆んど一致すると云ふ類のものを、假りに經序音義で例を擧げると
などは此の例である(尤も誤字脱字等の小異は大目に見る)、これで全體を類推すれば可い。なほ此の類のもので私記著者の補記の加はつて居るものも多い。十五卷の「須臾」の項は慧苑と私記と同文〈尤も私記に誤脱はある〉であるが、私記には直ぐ次ぎに「臘」と云ふ標出語がありて、史記、野王説〈玉篇〉禮記などを引き四十九字の註文があるが、此の一項は慧苑には無い。實は此の臘字は須臾の註文に出て來るので其れに因みて私記の著者が註文中の文字につき註を施したのである。だから、臘字は小さく書くのが妥當であるが、恐らくは見安いやうに大字で書いたものと見える。八卷の繚繞と「又繚」との關係も此の類である。六十七卷の「耳漏延促」の如きも慧苑より註文が多いが其の多い部分は他書〈こゝは大治本音義である〉に據つたものである(これらの例引用しても可いのだが私記の註には異體の文字が頻出するから引用しにくいのである。今後に於いても引用が異體文字で制肘を受け、適當な引用の出來ない事は甚だ多い)。
次ぎに引書以外の註文が一致すると云ふのは、私記が慧苑に據り乍ら引書を省略したものであつて、大體私記は慧苑に見える引書を引かぬ例が多いのである。恐らく無用と考へたからであらう。が、學術的態度とは云へない。だが引用書を擧げて居るのも無論存するのであり、七十二卷頃より末に成ると引書も忠實に擧げる事が多い。
(五)炳然〈上彼永反/明着也〉
慧苑は「炳、彼永反、蒼頡篇曰、炳明著也」に作る。着は著とある可きである。
(一九)若或從事〈或有也/從爲め也〉
慧苑は「爾雅曰或有也、河上公注老子曰從爲也」に作る。
(五六)觸嬈〈〻乃了反、擾也/擾亂也、煩也〉(擾字木扁に作るが、印刷の便宜上手扁に改む)
慧苑の「無所觸嬈」の項は「嬈乃了反、三蒼曰、嬈擾也、孔安注書曰擾亂也、説文曰擾煩也」に作る。私記に比し十三字多いが、其の十三字は無くともすむから、私記が省くのも無理は無い。一つの註文中に二書乃至二書以上を引く場合に、或る物を略し、或る物を擧げる事もある。
(一○)幄〈於角反、又大帳也、吉善也、祥吉凶之先兆也、又祥積象/也、何承云纂在上曰帳、在旁曰帷、四合象宮殿謂之幄也〉(はじめの帳を立心扁にして居る)
これは「吉祥幄」として擧ぐ可きものだが、註文は慧苑に
吉祥幄 幄於角反、尚書傳曰吉善也、杜注左傳、祥者吉凶之先兆也、賈注國語曰、祥猶象也、何承纂要曰、在上曰帳在旁曰帷、四合象宮殿、則之幄也
とありて、四種の引用書が存する、私記は此の文を引くに當り三種は名を擧げず纂要だけを擧げて居る譯である、しかも私記では纂要の要字を脱し、其の他にも誤字脱字が多い事は兩者を比較すれば直ぐ判る。「又大帳也」の四字は大治本に「謂大帳也」とあるにより補うたらしい。
(一二)憤毒〈上夫問反、盛也、禮/記云憤謂怒氣充實也〉
これも慧苑には「憤、夫問反、賈注國語曰、憤盛也、鄭注禮記曰、憤謂怒氣充實也」とある。
(一二)匿疵〈上居力反、隱也、藏也、下疾移/反病也、言苦諦隱藏煩惱過患也〉
これは慧苑に「匿尼力反、疵疾移反、廣雅曰匿隱也、杜注左傳曰匿隱也、疵病也、言苦諦隱藏煩惱過患也」とあるに比べると引書を略し、註文を整理して居り、誤字もある。
(一四)操行〈上倉到反、曰持/志貞固曰操也〉
この註では上の曰字は不要の筈だがこれを慧苑の「操、倉到反、王逸注楚辭曰、操志也、玉篇曰、持志貞固曰操也」と比べると、何故曰字が存するかゞ判る。書名の省略し損ひと思ふが、又轉寫の際の誤脱とも見られる。
此の種のもので、慧苑に見えない註文を有するものも夥しい。擧例せないが、別に標出したもので一例を擧げると十一卷の「妓樂」に對する「伎藝」がある。
一部分が一致すると云ふのは、慧苑の註文を一部引いた場合であり、理論上大體註首を採つたもの、註尾を採つたもの、中部を採つたものとに分け得るが、これにも無論私記著者の補記を伴ふものがある。
は註首を採り、下を略したものであり、此の種のものは多いが、註文の上部を略し下部を採ると云ふ事は、如來口右輔下牙〈四八卷〉擧體焦然〈六〇〉則爲不斷〈六三〉長者〈六三〉那由他〈六四〉の如き例も無いでも無いが多くは無い。一體註文では大體肝要な事を首に記す場合が多く、長文の註文では下略しても事足る場合が多いので、私記に於いては慧苑の註を下略したものが多く、其の反對のものが少いのであらう。中略の例も多くは無い。末の卷で少し擧げると、釋迦牟尼〈四五〉變濕令燥〈五〇〉積同須彌〈五二〉摩訶迦葉〈六〇〉明練〈六一〉我師傅〈慧苑「善知識者是我師傅」に作る、六四〉などがある。四十八卷の熈怡微笑に「上許基反、怡與脂反、説文熈悦也、怡和也、容貌和悦也、微小也、笑世鳥反、廻牟」とあるは、慧苑に比べると慧苑所引の楊子方言の文と尾の熈字の字體に關する註とが少いから、中間と末尾とを略し、それに微少也以下九字の註を補うたものである。
要するに、右述の如くに、私記の註は慧苑と一致する事が多い。しかして一致する事の好標本としては、七十二、七十三、七十四、七十五の如き諸卷あり、こゝらでは殆んど慧苑音義を其のまゝ轉載したと云つて可い。こゝらの諸本の音義を物するには、別段に私意を加へず、從うて慧苑を改變せず、大體慧苑に從うたものであらう。しかして慧苑のまゝに從うたと云ふのは、改變の必要を認めなかつた事に據るのか知らぬが、又物ぐさくなりて手を加へなかつた事も考へられる。
本書の中に音義・唐音義・一音義と云ふやうな名が少し見える。これを一々檢するに、五卷の「如川騖」の項の「音義」は慧苑と比較すれば漢書音義の事であり、書名の擧げ方が惡いのである事が判る。又三十五卷「三界焚如苦無量」の註に音義と云ふ語が二度見えるが、此の註文は慧苑と全然異るので、「音義」の性質も判らぬ。が四十五卷「倶珍那城」の項に「如音義具記」とあるは、其の註文が慧苑のはじめの方を少し引き後を略して居るのであるのと、此の倶珍那城の語は山田博士の一切經音義索引を見ても慧苑音義に見えるのみであるのとで、此の「音義」は慧苑音義である事が判る。同じ卷の「阿縻」の項に、經文は縻字に作る、此音義作耳とあるのは、今の經文〈二一四オ上七〉は阿麼怛羅に作り居り、慧苑も諸本阿麼に作つて居るから譯が判らないが、少し考へると、私記著者の見た經文は阿縻に作り居り、音義には阿麼に作つて居たから此の斷り書の存するのである事が判る。そして阿縻と云ふ標出語は諸音義にも見えないが、阿麼は慧苑音義にのみ見える事から察すれば、こゝの音義も慧苑音義であると解せなければならぬ。さて是等は「音義」とのみあるものだが「唐音義」とある例に就いて云ふと、三卷「一刹那」に「如唐音義」とあるは、慧苑所引仁王經説と一致するから、又「一刹那」の語は他の音義に見えないから、慧苑である事が判る。十三卷尾の「率土咸戴仰」の註に「唐音義」とあるものも、標出語が他に所見無き故、慧苑音義と見る可きだらう。十六卷の「十佛名」の項に「翻如唐音義」とあるのみで、十佛の梵言漢譯等が全く無いのは「十佛名の翻譯語は唐音義に説いてある通りだからこゝに省略する」の意味らしい。しかして慧苑には十佛名と云ふ標出語は無くして、迦葉以下波頭摩に至る梵言の九佛名を擧げて漢譯して居る(但し最後の然燈如來だけを擧げないのはこれが漢譯語であり梵言で無いからか、若しくは脱落したのであらうか)。斯くの如く慧苑は十佛名〈實は九佛名〉を擧げて居るのに私記は擧げて居ないのを見ると、こゝの唐音義も慧苑音義を指すと見る可きだ。十七卷の「歌羅分」の註に「唐音義作哥羅分」とあるのも、慧苑に一致するから、正しく慧苑の事である〈經文には(八三ウ上尾四)歌羅分とあり〉四十七卷の「驚懾」〈但し下字を手扁に誤る〉の項の「唐音義」も慧苑に一致するから、慧苑の事である。六十二卷の「羈勒」に「唐音義」とあるのも説明は略するが、慧苑音義の事と見られる。斯くの如く私記の著者は慧苑音義をまさしく引用して居るのである。私記が慧苑音義に據るものなる事は愈々確かである。(因みに、「一音義」とは大治本音義の事である。これは大治本と私記との關係を説く條にて言及する。)
結局此の私記は、慧苑音義を土臺として、著者が自己に便利なものを作らんとする意圖から、慧苑音義を大いに改竄し、或ひは標出語に於いて數と種類とを變へ、兩方に共存する標出語の註文も、慧苑のを其のまゝ引いたり、一部を引いだりし、更らに補ひもし、又引書などは學術的で無い態度から概して省略し、或ひは全く異つた註文を施し、又慧苑には殆んど見えない六十經との比較に努力を拂ひ、又倭音や倭言を添へなどして、著者としては相當に苦心して私記を作つたものと見られる。しかして其の著者は、本書に倭言が見え倭音(但しこれは倭音と明記して居る譯では無い)が記され居り、慧苑音義を唐音義と呼んで居る事から察すれば無論日本人で、恐らくは僧であり、奈良朝期より延暦十年頃までに撰述したと推定せられるが、慧苑の成立及び渡來――何れも不明、但し神龜か天平頃の渡來か――を考慮に入れ、且つ倭言に例の十三音假名遣の區別が多少は存するのを見ると、奈良朝末期頃の撰述であると認めて可いやうである。
だが本書には空白が多い、全體に甚だ亂雜である。これらから察すると完成品であつたとは云へない樣に思ふ。なほ著者も少しは粗漏不注意な人であつたやうだ。此の事は本書に欠點の多い事で云へるが、又次ぎの樣な例もある。
六十四卷に「枳〈經以/反訓〉」とあるが、これは慧苑では「倶枳羅鳥 枳經以反、其鳥未詳也」として標出して居るものだから、枳一字を擧げるは無意味と云つて可い。訓とあるが著者が枳の義を註する所存であつたとすれば一層愚な事である。四十七卷に「示誕〈下徒旦反欺/也不實也〉」とあるは慧苑には存せず、私記著者の新に加へたものだが、この「示誕」は經文には「示誕王宮」とあり、王宮に降誕した事を意味するのだから、此の場合の誕字に對する「欺也、不實也」の註は不當である、これは荒誕と云ふやうな場合の註である可きだ。恰も中學生が、其の文の意義に適するか何うかも辨へずして、たゞすゞろに辭書の解釋を記入したと云ふ趣きがある。三十一卷の誕生も「上音單、訓麻禰尼、育生也」とある。慧苑音義に「誕唐亶反、珠叢曰誕育也、賈注國語曰育生也」とあるもので、誕育也の三字が私記には落ちて居るが、是れは無視するにしても、「訓麻禰尼」は、「欺也、不實也」の義に當る倭訓だから、これも無意味の註である。三十五卷の「占卜〈上音點、訓卜なり/卜音僕、訓占也」〉〈慧苑音義は無し〉の如きも訓註としては無意味である。次に經序音義の尾に、私記は異字を擧げて居るが、(これは慧苑音義には見えないもので、此の點で重視すべきものである。大治本には見える)しかし、何う云ふ性質の文字だと云ふ説明は無い。しかして經文音義の中で、時々此の種の文字を記して居るが、其れらを見ると、「古文」と云つて居る(六卷二例、十卷六十卷六十五卷各一例、十一卷四例。異體字なれば所在卷名を擧げるに止める)。だが、事實は古文では無い。唐書后妃列傳の則天武后傳に見える武后制定の文字である。自分の見る汲古閣本唐書には「十有二文」とあり、其の十二字が出て居るが、此の古鈔本や大治本に比べると字形は一致せないものがあり、〈例へば、汲古閣本は、□の中に子を書いた字を擧げて居るが、これは、私記や大治本や康熙字典を見れば判る通り、水戸黄門の名に出る圀字の誤である〉數も、十二字どころでは無く三十三程ある。〈徹定は二十五字と云つて居るが實は其れよりも多い。大治本(後述)に於いても同樣である〉
斯う云ふ例がある以上、私記著者は少し不注意であつたと云ひたい。
さて、これで私記と慧苑音義との關係は大體説明を濟ました筈だから、大治本八十經音義との關係を述べる。
八十華嚴經の音義として注意すべきものが、慧苑音義以外にある、其は即ち大治三年書寫玄應一切經音義の第一卷の尾に收められて居るものである。此の玄應音義二十五卷七帖(但し第二・三の二帖は逸して五帖現存す)は東京博物館所藏であるが、昭和七年十月に山田孝雄博士により複製せられた。山田博士の解説によると、大治三年の書寫にかゝり、〈一帖は五月十八日、五帖は四月一日、六帖は五月二十四日の日附である〉かの「法隆寺一切經」の印ある天治元年四五月の頃書寫の新撰字鏡十二帖と紙質體裁を同じくし、筆蹟も亦相通へる點あるのみならず、第六帖の末に署名して居る覺嚴は新撰字鏡第五卷の筆者たる覺嚴と同人であり、此の兩卷は明かに同筆である。であるから、此の音義には法隆寺の藏印は無いけれど、新撰字鏡の書寫の四年後、法隆寺で寫されて同寺に藏せられたものであつた事が推定せられる。其れのみで無く、此の音義はかの新撰字鏡〈十二帖の中十帖〉と同時に攝津西成郡北傳法村の井上總右衞門が明治十三年に獻納したのであるから、音義も同じ北傳法村の岸田忠兵衞の舊藏であり、字鏡と共に法隆寺より坊間に出たものらしい事が信ぜられるのである。さて此の玄應音義を他本に比べると、宋版・元版と系統を一にする明藏本と異る事最も多く、高麗藏本に最も近いと云ふ。しかして本は年代的に云へば、北宋版と南宋高麗二版の中間に屬するのであり、玄應の面目は宋元系統の刊本よりも、此の大治寫本に多く傳へられ、殊に八百年前の寫本であるから、書風書體を徴する場合に版本以外に重視すべきであると博士は説いて居られる。(但し複製本は原寸大の寫眞に據らずして縮寫したものに據りしため、標出の大字さへも字畫字形の不明なるものがある位だから、雙行註の細字に至りては字形の全く不明のものが夥しいのは、折角の複製本としては甚だ遺憾である。因みに云ふ、殘つて居る五帖も脱丁のあるものがある)
此の大治本の第一帖は「大治今年〈戊申〉五月十八日敬奉書寫畢」とあるが、卷一と卷二とを收めて居り、卷一の尾に十八丁表より三十八丁裏に至る間に「新華嚴經音義」と標して八十經の簡單な音義が存する。一體玄應音義には第一卷々首に華嚴經音義が存するのだが〈大治本では六丁餘りの分量〉其は舊譯の六十經音義であるから、此の大治本を寫す時に便宜上八十經音義を卷一の尾に添へたものらしい。尤も八十經音義が添へられたのは、大治以前であり、大治本の筆者は、然う云ふ玄應音義を底本として、大治本を寫したものであるかも知れない。
ところで此の大治本八十經音義は慧苑のとは全く異り、私記とも無論異るから、其の性質の穿鑿が必要と成る。しかして山田博士は
この新華嚴經音義は恐らくは、則大武后の時の賢首大師の述なるものにあらざるか。賢首の音義は名聞えたれど傳本世に存するを知らず。若し果して賢首の撰とせば、希世の珍とすべく、然らずとすとも他に存せざるものをここに纔に傳ふるを得たるは、學界の幸なりといはざるべからず。
と云つて居られるが、論據は述べて居られない。そこで自分の所見を述べると、大治本音義は私記成立以前に存し、しかも邦人の手に成りしものと考へられ、私記は此の大治本音義をも材料として使用したのであると思ふ。以下細説する。
此の大治本音義は最初に「新華嚴經音義」と書名を記し〈玄應音義ではたゞ經名を擧げるのみであり、音義とは云はない〉其の下に「八十卷、序字及×等文者並集後紙」と細註して居る。×字は爪字の下の三畫の中にも一本縱畫を入れた形の字であるが、是れは正しい字形で無く、而字の第三畫及び、第四畫の縱の畫が各々左右に延び開いた形に書く可きで即ち武后新字の天字である。つまり、此の細註は、經序中の文字の音義や武后新字は、八十卷の經文音義の末尾の紙に集めると云ふ事である。而して、事實其の通りに、第八十卷の字の音義が濟むと引き續き「序字」と標して「天册」以下序中の語の音義を記し、引き續き、武后字三十五字を記し、さて次ぎに舊經と新經との品名卷數等の對比を説き、次ぎに品名に出る十住・十行・十無盡藏・十廻向・十地・十定・十通・十忍・十身相海の如き帶數語九語を釋し、さて「一切經音義第一」と標して居るが、是れは玄應音義としての第一卷の尾題である。其の下や横に「注水」「虹」「晃煜」「程」の四語が存するが、是等が華嚴經中の語であるか何うかは不明である、少くとも慧苑音義には見えない語である。何故此の四語が、斯う云ふ所に存するかは判らない。
さて大治本を檢するに、第五卷の尾の二語は第六卷のものにして、こゝは第六卷と標出するのを忘れたのである(第五卷の庇映の註の下に、註に紛れやすく第六と書いてある)第八卷は標出語六語と成つて居るが實は第九卷の卍字は第八卷所屬のもの、其の第九卷卍字の註中に「慣習」が隱れで居るから、第九卷は二語である、第廿六卷は駿馬以下九語であるが、悉將永訣云々の十二字は私記では三語として標出して居る、六十三卷尾の鳧雁は六十四卷の語である、「第七十二卷」が二度見えるが後の方は第七十三卷の誤である。なほ標出語が大治本の駿馬、享灌頂位、奔激に對し私記が駕以駿馬、享灌、湍馳奔激であるやうな相異は、私記と慧苑音義との場合に於けると同樣珍しくは無い。かくて大治本の標出語數は武后字や十住・十地等の品名語、末尾の四語を除くと三〇七語であり、私記や慧苑音義に比べると甚だしく少い。此の内、私記と共通のものが二七七語、慧苑と共通のものが二二五語存する。
さて、私記と大治本と共通の標出語につき其の異同を檢するに、註文の全く異るものがある。
- 序、
- 天册 〈下測革反、符命也、上聖/符信教命以授帝位字也〉 (私記〈慧苑により少し省略して居る〉)
- 天册 〈楚革反、試才能也、書也、/又相傳方册××杜也〉 (大治本〈×の所へは□の中に王を書いた字が入る〉)
右は私記が慧苑音義に基いて居る例であるが、慧苑音義と大治本とは全然異るのだから、慧苑に據つた私記の註文が、大治本と一致せないのは當然の事である。ところで私記と大治本とで、全然、又は殆んど一致するものがある、一部一致するものがある。全然又は殆んど一致するものについて例示する。
- 二七、
- 鬢額 下與×同、雅格、×顙也、幽洲人謂×爲鄂〻 (私記) (×の所へは、各を扁、頁を旁とした字が來る。)
- 鬢額 下與×同、雅格反、×顙也、幽洲人謂×爲鄂 (大治本)
私記には反字が落ちて居る、此の鬢額は慧苑に見えない。
此の種のものゝ中には倭言までも一致するものがある。
- 一、堂榭
- (私記) 下辭夜反、堂上起屋也、倭云于天那
- (大治本)下辭夜反、臺上起屋也、倭言于弖那〈倭を人扁に妾を書いた字に誤つて居る〉
臺・言・弖の三字の相異に過ぎない。慧苑は六十一字の長文であり。「除夜反……臺上起屋者也」の文はあるが、私記や大治本と關係があるとは思はれない。
- 一、
- 皆砌(私記) 上古諧反、道也、上進也、陛也、下千計反、限也、倭云石太〻美〈標出語の皆字は階字の誤〉
- 階砌(大治本)上古諧反、道也、上進也、説文陛也、下且計反、砌限也、□□倭言石太〻美〈此の倭字も前のと同じ樣に誤られて居る〉
兩者で誤字、引用書の有無、反切等の相異はあるが無關係であるとは思はれない。慧苑には階字の音義註なく説文も引かず、全く私記や大治本の註文とは異るが、たゞ砌字の音が千計反とあるのは注意すべきであらう。
- 二八、
- 寛宥心(私記) 上與×同、苦丸反弘也、大遠也、下禹究反、×也、過也、遺忘也、言由留須〈×は寛字の一異體字である〉
- 寛宥(大治本) 上與×同、苦丸反、弘也、大也、遠也、下禹究反、×也、遺志也、倭言由留須
此の「寛宥」は慧苑には無い。
- 六八、接我唇吻
- (私記) 接正可作唼字、與咂喉字同、子蓋反、入口曰咂、倭言須布、唇口也、吻、無粉反謂唇兩角頭邊也、口左岐良〈吻字は大書して標出証扱ひして居るが、其れは妥當で無い〉
- (大治本) 上應作唼字、與咂㗱字同、子蓋反、入口曰咂、倭言須布
大治本には吻字の註は無い。私記は慧苑に「吻、無粉反、蒼頡篇曰、吻謂唇兩角頭邊也」とあるに據つたのである
大治本に倭言を註するものは十四項で、其の中七項が私記と共通にて、註文一致のものは右の四項で他に一部一致する「鈴鐸」〈五巻〉がある。「階×」〈六十卷、×は土扁に犀を書いた字〉は一致せない。
とにかく、私記と大治本の註文とが全く若しくは殆んど一致する例、其れ程は一致せないにしても兩者の關係の認められる程度に一致する例は九十七程ある。
又斯う云ふ例がある。
- 八、
- 繚繞 〻又×字、説文云繚纏也、謂周帀纏繞也、又繚、力鳥反彌也繞也纏也、繞、如小反、纏也、纏除連反、與△字(私記〈×、△は繞、纏の異體字、「又繚」を大字とするは非〉)
- 繚繞 上力鳥反、彌也、繞也、纏也、下如小反纏也、纏音除連反、與繞字同(大治本〈下の纏字は他と異る形の筈であるが、別に變り無き字を書いて居る〉)
- 垣墻繚繞 繚零鳥反……説文曰繚繞也、謂周匝纏繞也……(慧苑〈但し必要のある繚繞の註のみ引く〉)
此の三註文を比べるに、私記の註文は慧苑と大治本とを寄せ集めたやうな註文である。しかして假りに大治本の註が私記より出たとすれば、私記の註の前部を省略したものと成る。經文卷十四〈六六オ上一三〉に「不矯威儀」の註あり、其の不矯について私記は「不矯」に續いて「不橋」〈木扁は本のまゝ〉を擧げ
不矯 下居肇反、武皃也、強盛也、直飛也、正也
不橋 下居夭反、國語曰、行非先王之法、曰橋、假也、言威儀眞實不詐現異相也、字宜從丈、或經爲從天者直也、勇也、正也、此乃非經意也、可作橋字
と註して居るが是れを
(大治本)不矯 居肇反、武皃也、強盛也、直飛也、正也
(慧苑) 不撟威儀 撟居夭反、賈注國語、行非先王之法、曰撟、玉篇曰撟假也、詐也、今言威儀眞實不詐現異相也、字宜從才、經本從矢者、王逸注楚辭云直也、爾雅云勇也、蒼頷篇云正也、此乃並非經意也
に比べると、私記の中には〈誤字は別として〉大治本と慧苑との兩方が含まれて居りしかもこゝは兩方を擧げて取捨に困つて居ると見たい。つまり私記が大治本を引いて居ると見るのである。此の反對とすると、大治本は私記の中から、はじめの方のみを引いた事に成るが、何うも其の樣には見られない。同じ十四卷の「示謁」の註を見るに
(私記) 示謁 下於歇反、告也、白也、歇虚謁反、歇盡也、洞也、又謁情也、言示現祈請天神靈廟也
(大治本)示謁 於歇反、告也、白也、請也、歇音虚謁反、盡也、竭也、涸也
(慧苑) 示謁天廟 謁於歇反蒼頡篇曰、亦現也、爾雅曰謁請也、言示現祈請天神靈廟也
とある。とにかく斯くの如く、私記の註が、大治本と慧苑との兩方に一致し、又は部分的に一致する例は六十四例ある。從うて前の九十七例に加へると百五十程が大治本と關係があると見られるのだが、此の數は大治本の語數三〇七語に對しては半數であり、私記と大治本とで共通する二七六語につき云へば過半數である。
斯うして私記と大治本との比較により、私記が慧苑音義以外に大治本とよく似た或る種の音義を材料として居た事が窺はれるが、其れを、私記著者は「一音義」と稱して居るやうだ。即ち二十卷に
所儔 〻直由反、類也、一音義云、又作×字、同到反𦿔也、依也、此義當經、故經文云善、又用疇字、直流反、類也、等也、二人爲匹、四人爲疇是也、又𥝷治田也、𥝷音常訓田反〈×は壽の旁に羽を書いた字、田反は國語にしてタカヘスと訓むのだらう〉
とあるのだが、この註文は慧苑には簡單に
靡所儔 儔直由反、玉篇曰儔類也
と註して居るに反し、大治本には詳しく
所儔 又作×字、或用疇字、直流反、類也、等也、文爲匹、四人爲疇是也、亦𥝷疇田治也、×音同到反翳也、𦿔也、依也、此義當經、故經文云善知一切摩所儔〈×字は私記のと同じ字〉
と註して居る〈誤字脱文はある〉三者を比較すると、私記は慧苑音義と大治本のやうな音義との二つを引き、後者を「一音義」と稱して居る事が判る。同じやうな例がも一つ六十七卷の廛字の場合に見える。
廛 音義作廛字、除連反、謂市物邸舍也、謂停估客坊邪也、尚書大傳曰、八家爲隣、三隣爲明、三明爲里、五里爲邑、此虞憂之制也、又一音義作廛店、上除連反、謂城邑之居也、店又與怙同、都念反(私記〈標出語は「廛店隣里とすべきである)
廛店隣里 廛除連反、鄭注禮曰、廛謂市物舍也、謂停估客坊邸也、尚書大傳曰、八家爲隣、三隣爲朋、三朋爲里、五里爲邑、此虞夏之制也、廛字經本從厂作者謬也(慧苑)
廛店 上除東反、居也、謂械邑之居也、下又坫同、都念反(大治本)
私記がはじめに「音義」と云つて居るのは、所謂唐音義で即ち慧苑音義の事であり、「一音義」と云つて居るのは大治本の如きを指すのである。〈其れ〴〵の誤字は對比すれば判るだらう〉
さて此の一音義の性質が問題であるが、
と云ふ三種の場合が理論上想像せられるが、何れであるかを決定するのは困難である。しかし私記と大治本との註文を引用書の方面から考へると、丙は否定したい。例へば七卷「儼然」〈この語は慧苑に無し〉の註に「上魚檢反、敬也、好皃也」とあるは、大治本に「上魚檢反、傳曰、儼矜皃也、爾雅儼敬也、説文儼好皃也」と關係があるが、大治本を略して私記が出來た事は容易に認められるが、私記の文に、わざ〳〵引用書を補ひ、大治本の如き冗文としたとは思はれない。八卷「赫奕」の註を比べると
上呼格反傳曰赤皃也、又曰光宜皃也、又發也、又明也、奕餘石反、奕々盛也、凡美容謂云奕(也、×從亦大)〈・を施したるは私記に無きもの、括弧の中は大治本に無きもの、×は亦の下に廾を書いた字、兩本とも奕字を皆亦廾の形に書いて居るから私記では末尾で斷つて居るのだ〉
と云ふ風で、大治本には傳曰・又曰・又・又が多いが、私記の註を引いてわざ〳〵是らの語を補うたとは思はれない。其の逆に、私記が大治本の如き註文を引くに當り、其れらの語を省略したと見る事は可能である。二十一卷「姦」〈慧苑に無し〉の註は
(私記) 又爲姧同、公安又、在内曰姧
(大治本)上與姧同、公安古頑二反、左氏傳、在内曰姧、在外曰宄
であるが、これも私記の文から大治本の文が出たとは思はれない。二十三卷「入苦籠檻」〈大治本は入苦無し〉の註も兩者關係あるが、大治本は廣雅や説文を引いて居り私記は擧げない。二十六卷「駕以駿馬」〈大治本は駕以二字は無し〉の註の末尾の駿字の註文は大治本の「子閏先閏二反爾雅駿速也」に基いて三字を省いたと見られるが、其の逆であるとは思へない。三十三卷「扣撃」の註にも、大治本は論語の名を擧げて居るが、私記には無い。三十五卷「仁恕」の註の聲類も私記には無い。三十九卷「繽紛」の註の廣雅も私記には無い。六十六卷「褊陋」の註は
(私記) 上方緬反、字從衣作、急也、陿也、説文衣小也
(慧苑) 方緬反、字宜從衣作
(大治本)卑緬反、傳曰褊急也、廣雅陿也、説文衣小也
の三者を比べると、傳曰や廣雅を省いて私記の文句が出たと見る他は無い。
これらの例を見るに私記の中から都合の可いところだけを全部又は一部抄出して、其れにわざ〳〵諸書を檢して引用書名を加へる場合には多大の勞力が必要であり、それを敢へてする事は甚だ面倒であるから、然う云ふ努力を拂ふとも考へられないが、其れに反し、大治本の如き本文を引くに當り、私記が引用書や不要と思はれる部分を省略すると云ふ事は、慧苑對私記の關係から充分認められる事である。即ち甲の如き場合を想像するは可能であるが丙の場合は實際として有り得ないものと考へたい。確實な證明は出來ないが、私記と大治本とを比較すると、丙の場合を考へるは無理だと信じる。
しかして乙と見る事も積極的に否定する材料は無いが穿ちすぎて居るやうに思はれる。それで結局は甲の場合、即ち私記は慧苑音義と同樣に、大治本と同じと信ぜられる一音義を材料としたものと考へる。つまり大治本の如き音義は私記成立以前に存したと見るのである。だが斯く認めるとすると、續いて、然らば大治本音義は日本撰述のものか支那撰述のものかとの問題が生じる。そして此の場合には大治本に僅かながらも倭言の存し、其れが私記所引の大治本音義の中にも少し現はれて居る事が此の問題を決定する材料と成り易いが、まづ倭言が存する以上は、大治本を假りに支那撰述のものであるとしても、すでに私記撰述以前に、邦人の手が加はつて居る事を認めて可いと思ふ。(これは、私記が慧苑音義に手を加へたものであるとするのと同樣の事情を認めむとするのである)次ぎに第三十一卷の「誕生」の註に「謾也、亦欺也、不實也」と云ふやうな、其の場の本文とは無關係不穩當な註文の存するのが訝しい(此の事は私記にもあり既述した)、これなど經文の意味も考へないで、辭書所見の註文を書き込んだものであるらしく、何うも私記同樣に邦人のやつた事で無いかと疑はれる。斯かる例はなほある。八卷「隅角」〈經文四一ウ下一四〉はカドの義であるが、「隅角 下古岳反、獸頭上骨出外也、隅角也、隅維也、上〻牛居反」とあるのも、是れでは隅はツノだと云ふ事に見え、此の語の説明としては妥當で無い。宜しく「又角隅也」とでもある可きである。(私記は「四隅」〈經文三九ウ下一一/此の語慧苑に無し〉に於いて「下牛居反、維也、角也、維音唯、訓角也、角古岳反、獸頭上骨出外也」と説明して居るが、これは大治本に據つたもので、やはりカドの説明として不完全である。)〈慧苑には「四隅」も「隅角」も無し〉序の「挹」の註の「於入反、不可也、損也」も無意味な註である、慧苑や其れに據つた私記は正しい。「俄」の註も字の不明なものがあるが、妥當では無いやうだ〈慧苑に無し/私記は正し〉「覃〈徒耽反/深也〉」も、オヨブと訓む場合の註としては誤だ、慧苑や私記は正しい。斯う云ふ不穩當な事を、僅か是ればかりの貧弱な音義中に於いて、新譯華嚴經飜譯に關係した程の賢首が記すとは考へられない。本邦人の著述であると見る場合でも、此の種のものを書く程の篤志家としては、斯う云ふ事をしたと見るのは具合が惡い事は云ふ迄も無いが、何と云つても、賢首の所業と見るよりは本邦人の所業と見る方が合理的である筈だ。
其れに若し、大治本が賢首の音義であるとすれば、賢首の高弟として八十經の音義を書かうとした慧苑は、自然に師匠の音義を參照しさうに想像せられるが、慧苑が大治本を參照したらしい形跡は無い。
こゝで慧苑音義と大治本との關係を考察する。
さて大治本音義と慧苑音義との兩者に共通の語二百二十五語の中、註文の全く一致せないものが大部分を占め、反切や註文の少部分が一致すると云ふのが三十程ある。其の一部一致すると云ふのは、
(大治本序註) 繕寫 上宣戰反、動□也、善也治也補也
(慧苑序註) 繕 視戰反、説文曰繕補也、珠叢曰凡治故造新皆謂之繕也
の如きを云ふのであるが、六十九卷の繽御の註は大治本は二十一字、慧苑は七十六字、其の中、慧苑の「鄭注禮云繽謂婦人有法度者之稱也」が、大治本の「繽人者婦有法度者之稱也」〈稱字を示扁に平を書いた字に誤つて居る。繽人の人も婦の下にある可きか〉と合ふだけである。七十三卷の「臏割」も大治本は十八字、慧苑は七十七字と云ふ相異があるが「蒲忍扶忍二反」は一致し、大治本の「生後能行人膝骨也」が慧苑の「大戴禮曰、人生暮而臏生、然後行也、説文曰臏膝骨也」と似て居る。二十六卷の「享灌頂位」も大治本の「上虚常反、享當也、受也」に對し慧苑は「……玉篇享當也、杜注左傳曰享受也」とあり少し似て居る。三十五卷の「仁恕」も大治本の「下戸預反、恕如也、聲類、以心度物曰恕」に對し、二十九字の慧苑は「聲類曰仁心度物曰恕也」〈度を愛、庶などに作る本もあるが非〉と云つて居る程度の相似點はある。最もよく似た例は、十四卷「園圃」につき大治本が「下補五反、江東音布、種樹曰園、種菜曰圃」と云つて居るに對し、慧苑が「蒼頡篇曰種樹曰園、種菜曰圃也」と云つて居り〈何れも全文〉七十八卷「利矛」につき大治本が「矛莫侯反……」と十九字で注して居るのに對し、慧苑が單に矛莫侯反〈侯を胡に作る本もあるが非であらう〉に作つて居る如き例であらうが、しかし、斯う云ふ樣な例があるからとて、慧苑音義が大治本を材料としたなどとは、到底云へない、蓋し、個々の例の近似程度が低く、且つ例も少く、其の上、無關係のものゝ方が絶對多數を占めて居るからである。とにかく自分は、大治本は慧苑音義とは無關係である、即ち慧苑音義の成立に、大治本は關與するところ無かつた事を確信する。しかして此の事は、大治本をば、假りに賢首の作であるとすると〈賢首の作に倭言を加へたと見るのである〉慧苑は、八十經音義を新作するに當り、師の撰述して置いた音義(大治本)をば全く材料とせなかつたと云ふ事に成るが、此の事は解し難い事である。一體慧苑は刊定記を書くに當り、好んで自説を立て師説に背いたのであるが、然う云ふ彼であるから音義を書く時も、わざと師の音義の存する事を序文中にも言及せず、本文に於いても師の音義を無視する態度を採つたのだと云つてしまへば説明もつくか知らぬが果して何うか。刊定記の樣に經義に關する註疏の場合には異説も立てられようが、言葉の音義に至りては、異を立てるは難しく、從うて故意に師説を無視すると云ふ態度に出るは難しいと思ふ。だから、賢首の音義が存する場合には、慧苑も其れを參照したであらうと考へたい。だから、現在の慧苑音義中には、賢首音義に從うたと云ふ樣な言は見えないにしても、慧苑は賢首のを見て自分の音義を作つたのだと認めて可いと思ふ。そこで慧苑音義が大治本に據つたらしい事が認められないのは、大治本は賢首の音義でも無く、慧苑は大治本を材料とする事も無かつたからだと考へたい。(慧苑音義、賢首音義、大治本音義との關係は、全く推定が困難であるが、自分は論據薄弱ながら以上の樣に考へる)因みに、慧苑が大治本の如き音義を參照せなかつた事を述べたに關聯して、逆に大治本は慧苑本より後のもので、慧苑を材料としたのでは無いかと云ふ事を考察して見るに、兩者に共通の標出語の註文から云へば、やはり無關係と見る他は無い。少々一致する僅少の例の中には、慧苑の一部を引用したので無いかと一往は疑はれるものが無いでも無いが、到底、慧苑より大治本が生れたとは認められない。兩者は全く無關係と云ふ他は無い。又大治本の語數は慧苑のに比べると、比較に成らぬ程僅小である。實を云へば、慧苑本がある以上は、大治本は無くとも濟む程度のものである。だから慧苑を見た人なら、其れを補うた私記の如きものを作るのが自然の理であり大治本の如き中途半端なものは作るまいと思ふ。又慧苑音義の補足篇として、慧苑音義に添へると云ふ意向で大治本を作つたのであるならば、然う云ふ事情が何處かに見えさうに思はれるが、其れも見えない。だから大治本著者が慧苑音義を知つて居たと云ふ事も否定したい。そこで結局大治本は慧苑音義の存在を――まだ渡來して居なかつた、又は渡來して居たとしても、其れが目に觸れなかつたと云ふ樣な事情で――知らない人が六十經に對する僅か一〇二語の玄應音義を標準として、其の玄應音義を材料として〈此の事は後述する〉八十經に對する僅か三〇七語の大治本の如き簡單なものを作つたのではあるまいかと思ふ。しかして其の作者は此の程度のもので事足つた筈であるから餘程學識ある僧であつたと想像せられる。〈それでの妥當ならざる註も加へたのである〉とにかく、大治本は慧苑音義とは無關係のもので、邦人の手に成つたものと想像する。私記が慧苑のを「唐音義」と呼び乍ら、大治本を單に「一音義」と云つて居るのも、私記の著者亦大治本を日本人撰述と認めて居たからではあるまいか。
大治本と私記とを比較すると、私記の誤を訂す事出來るのは無論だが、大治本の誤を訂し、又複製本の讀み難い所を解讀し得る例もかなりにある。少し例を擧げると
しかして斯かる類の訂正は、大治本と玄應の六十經音義との比較によりても出來る事である。
華嚴經音義としては、貞觀末に出來た玄應の大唐衆經音義二十五卷の第一卷の卷頭に六十經音義がある。そして六十經と八十經とは異譯であり内容に廣狹の差はあるが、同じ華嚴經だから、其の音義としては、前出の玄應音義が後出の慧苑音義、私記、大治本などと何らかの關係を有しては居ないかと云ふ想像が出來る。そこで玄應音義と其の他の音義との關係を吟味して見る。
其れに先立ち玄應の六十經音義の本文として何う云ふ物があるかと云ふに、一切經音義の一部として南宋、元、明北、明南、麗の諸藏本があり、慧琳音義卷二十中に入りては北宋、麗の兩藏本がある。又我が國では天海藏と黄檗藏とに入つて居る。最も得易いのは黄檗藏であるが、他に元文年中の白蓮社本慧琳音義中のものがあり、明治以後の刊本としては、縮刷藏經の中に玄應一切經音義本として麗本を底本として宋元本で對校した本と明藏本とがあり、又同じ縮刷藏經中に慧琳の一切經音義卷二十に收められたものがある。又卍藏經第三十五套所收玄應音義本もあり、大正新脩大藏經卷五十四事彙部所收慧琳音義本もある。他にも上海刊行の石印慧琳音義中のものもある。しかして寫本としては七帖中二・三の二帖は缺けては居るが既述の大治中書寫の玄應音義本が存する。本文、但し標出語につき大治本を中心にして檢すると、慧琳音義所收のものと大治本とは語數一致するが、縮刷藏經の二種の玄應本、黄檗藏本とは第三卷の「彌綸」、第十四卷の「遞相」の二語の有無の相異がある。即ち此の二語の無き大治本は語數百、此の二語の存する黄檗藏本は百二と云ふ事に成る。註文も大治本は慧琳本に近い。但しこの二語は大治本八十經音義には存し、註文も一致するのだから六十經音義にも本來存したもので、これの無いのは脱落したものと見なければならぬ。
今六十經音義一〇二語と大治本八十經音義三〇七語とを比較するに、兩方に共通の語二十七語の註文は殆んど一致する。
(大治本五卷) 遞發 上徒禮反、遞迭也、更易也、迭音徒結反
(六十經十四卷)遞相 古文×同徒禮反、爾雅遞迭也、郭璞曰遞更易也、迭音徒結反〈×字は古文だから説明せぬ〉
(大治本十二卷)憤毒 扶粉反、憤懣心也、謂憤怒氣盈滿也、亦情感也、懣音亡本反煩也
(六十經五卷)憤毒 扶粉反、説文憤懣也方言憤盈也、謂憤怒氣盈滿也、亦情感也、懣亡本反、煩也
(大治本五十五卷)或級 羇立反、級次也、左傳曰加勞賜一級、又斬首廾三級、案師旅斬首一人、賜爵一級、因名賊首爲級也
(六十經四十卷)或級 羇立反、禮記級次也、左傳加勞賜一級、又云斬首二十三級、案師旋斬首一人、賜爵一級因名賊首爲級也
大體一致するもの十九語、一部一致するもの八語、以て兩者の間に大治本音義が、直接に玄應の六十經音義を材料としたと云ふ事實を認めるに足るであらう。(此の場合、大治本と玄應音義とが直接の關係を有せないとか、兩者は兄弟關係に在るのだと云ふ樣な事は考へるに及ばないと信じる)
然らば慧苑音義や私記が玄應音義と何う云ふ關係を有して居るかと云ふに、例により慧苑音義と玄應音義と共通の語五〇語の中四十三語までは無關係である。ただ殘の七語、貧寠(一二、二一)〈上は六十經卷次/下は八十經卷次〉櫳檻(二六、二三)、榜笞(五五、七三)、瞽(一、四)、恃怙(一二、六三)、殞滅(五六、七五)、池沼(四八、一四)に成るとかなり似て居るが其れらは
(玄應五十五卷)榜笞 蒲衡反、下丑之反、字書榜捶也、説文笞撃也〈大治寫本に據る〉
(大治本七十三卷)榜笞 上蒲衡反捶也、下與抬同、丑之反、笞撃也
(慧苑同卷)榜笞 榜普庚反、笞勅之反、字書曰榜捶也、説文曰笞撃也、榜字宜從子也〈榜の反切は慧琳本による、黄檗版は蒲曠に作る。又、「字書」も「漢書」に作る〉
(私記同卷)榜笞 上浦庚反、下勅之〈反脱〉字書曰榜捶也、説文曰笞繋也、榜字宜從手
の如く、引用書の一致から兩者の註文が似て居るのである。引用關係とは見られない。此の類のもので著しい例は瞽字の解釋であるが
(玄應本一卷)癡瞽 公戸反、三蒼無目謂之瞽、釋名云瞽目者眠〻然目平合如皷皮也〈慧琳本による、大治寫本には誤字がある〉
(大治本四卷)盲瞽 下公戸反、無目謂之瞽、〻者眠〻然目平合、如皷皮也
(慧苑同卷)如盲瞽 瞽公五反、三蒼曰、無目謂之瞽、釋名曰瞽謂眠睡目平合如皷皮也、字從皮非也
(私記同卷)盲瞽 下公戸反、無目云、又云眠〻、目平合如瞽皮也
を比べると、大治本音義が玄應本より出でて書名を落し、私記が、さらに大治本を簡易化したものである事が判るが、玄應本と慧苑本との關係は引書まで一致するので、そこで慧苑は直接玄應に據つたのでは無いかと云ふ疑問が生じるが、三蒼や釋名は慧苑音義の普通の引書であるのだから、これ等も、玄應・慧苑兩音義の關係を認めるよりは、引用書の一致のため、註文が殆んど一致するに至つたのだと解する方が妥當であらう。なほ此の種の七條だけに於いて玄應と慧苑との關係を認めるとすると、五十の中四十三語に於いて兩者の關係を否定せねばならない事實と矛盾する事に成る、だから結局、自分は、慧苑が直接に玄應音義中の六十華嚴音義を參照したであらうと云ふ事は否定する。
次ぎに、然らば大治本八十經音義を引いて居る私記は玄應音義を直接材料として居る事もあるかと云ふに私記、大治本、玄應本に共通の語二十五語は、大治本に據るもの十六語、慧苑に據るもの十四〈此の中には大治本と慧苑との兩方に據るものも入れて居る〉であり、二十五語全部が、大治本や慧苑本に據り、直接玄應六十經音義に據つたと見られるものは無い。又玄應本と私記とに共通の二十六語は、私記が慧苑に據るもの十九語、大治本に據るもの二語、慧苑にも大治本にも似ないもの五語にして、此の五語は玄應六十經音義とも無關係である。是れにより私記は玄應音義を直接引かなかつた事を認めねばならぬ。
結局玄應六十經音義、大治本八十經音義、慧苑音義、私記との關係を示せば次ぎの通りとなる。
玄應六十經音義──大治本八十經音義─┐ ├─新譯華嚴經音義私記 慧苑八十經音義―┘
さて、私記は上述の如く、慧苑音義を土臺として、其れに取捨撰擇を加へ、又大治本音義をかなりに引用し、兩者の何れにも據らないものは、然る可き參考書に據り、相當の苦心をして、私記を作つたものである。從つて私記は慧苑音義とはかなりに相異したものである。故に日本國寳全集の解説に
新譯華嚴經は未だ音釋なく、習讀の者が原義の取決に苦むを見て、遂に諸書を博覽して〈○希云、慧苑が〉これが詁訓を施し撰して二卷となしたものである。本書〈○希云、私記〉二卷は正にその寫本であつて、その書寫は撰述〈○希云、慧苑音義の〉の時を隔ること遠からず、頗る原本の體に近きを思はしめるものである。
とあるは、妥當で無いと云ふよりは、寧ろ誤と云はねばならぬ。だがとにかく私記は、本邦人が奈良朝頃に編述したもので、しかも其れが延暦十三年の古鈔本であり、しかも他に轉寫本も無き天下の孤本であると云ふ點で貴重視すべきである。又、八十經音義としては、大治本音義や慧苑音義に據る所多いとは云へ、やはり一つの音義として華嚴經研究史的見地から見て流石に貴重視すべきであらう。又引用書の名を明記する點では慧苑本に比して、比較に成らぬ程少いとは云へ、又誤字も夥しいとは云へ、やはり佚文的價値や現存古書との校合價値も認めなければならないであらう。漢字の形音義を研究する場合に於ける材料としての價値も、大治本や慧苑本が存するとは云へ、やはり認む可きである。殊に倭音と信ぜられるものが、確實に其れと指摘し得るものは極めて僅少ではあるが存する事は奈良期文獻では本書にのみ見える事であるから重視すべきである。だが本書として最大の價値は何かと云ヘば、本書中に倭言即ち國語の註記が僅かながらも存すると云ふ點である。其の數は僅か百五十語程であり其の中には奈良朝期や其れ以前の古文獻にすでに假名書の例の存するものもあるが、中には本書にはじめて假名書の見えるものもあり、珍しい言葉も少々見える。其れで單に言葉の種類と云ふ點から云つても、奈良朝期語として若干の語が加へ得るし、又例の奈良朝期文獻に特有の十三音假名遣の資料を少しは提供する事も出來るのである。其れで此の點に於いて最も重視す可きである。今珍しい語の一例を十三卷の鑚燧に取るに
鑚燧 上則官反、謂木中取㆑火也、倭云比岐、下徐醉反、謂鏡中取㆑火也、燧正爲×〈隊の下に金を書く〉字、辭醉反、云火母也、倭云火打也
とある。これを慧苑に
鑚燧 鑚則官反、燧徐醉反、鑚謂木中取㆑火、燧謂鏡中取㆑火也、淮南子曰、陽燧見㆑日則熯而爲㆑火、方諸見㆑月則津爲㆑水、許叔重曰、陽燧五石之銅精、仰㆑日則得㆑火、方諸五石之精、則圓器似㆑杯、仰㆑月則得㆑水也、燧又作㆑×也、熯而善反
とあるに比べると、慧苑を一部引いたのである事が判る。しかして大治本には
鑚燧 上子丸反、又音子亂反、所㆓以用穿㆒㆑物者也、倭言火岐利、下正字作×、辭醉反、火母也、倭言火于知又以比岐等也〈以字理解しにくいと思ふ〉
とあるから、大治本にも據つで居るのである。比岐、火打の倭言も大治本に據つたのであらう。とにかく、私記にはヒキ、ヒウチの二倭言があり、大治本にはさらにヒキリもある。こゝで古代の發火法につき一言するに四種あつた。(一)は木と木との摩擦に據るもので、これが最も原始的なものであらう、これにも種類がある。(二)は燧石を金で打つもので(三)は凹面鏡に太陽光線を受けて其の焦點に火を得るもの、(四)は凸レンズの焦點利用のものであり、支那では、火を得る器具を遂、又は夫遂と稱したが、後に燧に作り、又、金屬を使用するに至り金扁に作り、木の摩擦に據るを木燧、(三)の凹面鏡を金燧、(四)の硝子凸レンズを陽燧と稱した〈漢代すでにこれがあつた〉しかし支那人はさう云ふ面倒な金燧、陽燧を使用し乍らも燧石利用はかなり後の時代までも知らなかつたらしい〈松本文三郎博士「遂と鑒鑒扞藝文一三ノ一」、箋注和名抄四ノ一〇二オ〉ところで本邦では、古事記大國主神歸順の條に、燧臼・燧杵が見え、又日本武尊の條に火打が見え、書紀日本武尊の條には燧の字が見える。本邦には木燧と燧石とがあつた事が判る。しかし出現から云へば、燧石は木燧より後れるものだらう。だが斯う云ふ發火器に關する國語は、ヒウチと訓む他は無い記の「火打」とヒキリウス・ヒキリギネと訓み得る燧臼・燧杵の字面があるに過ぎず、奈良朝期文獻に此の種の語の假名書の見える事指摘せられず、和名抄の「火鑚 比岐利」「燧 比宇知」が辭書に見えるだけであつたが、此の八十經音義私記と大治本とにより「火打」「火于知」「比岐利」が指摘せられ、さらに從來は殆ど指摘せられた事の無い「比岐」の存する事が知られたのである。此の中ヒウチやヒキリは意味は明瞭であつて説明を要せないが、ヒキだけは珍しいから、他に用例を探り、何う云ふ意味かと考へるに、先づ用例としては、奈良朝末寶龜三年撰の歌經標式に
禰須彌能伊幣、與禰都岐不留比、紀呼岐利弖、比岐〻利伊隄須、與都等伊不可蘇禮(鼠の家、米舂きふるひ、木を伐りて、ひき燧り出だす、四と云ふか、其れ。「アナ戀ヒシ」を隱したるもの)
と云ふヒキキリイダスのヒキに疑ひがあり、さらに僞書倭姫命世紀に
佐佐牟乃木枝〈乎〉割取而、生比伎爾宇氣比伎良世給時〈爾〉其火伎理出而
の如く、生比伎の例がある。これはナマヒキと訓むのであらう。すでに私記や大治本のヒキ、倭姫命世紀のナマヒキがある以上、歌經標式のヒキキリイダスが、武田祐吉博士の校註日本文學類從上代文學集に「引き燧り出だす」と解して居るのが妥當で無いらしい事も考へ得る。然らばヒキとは何か。伴信友は倭姫命世紀考〈全集本四七頁上〉でナマヒキは生火杵で、火鑚杵{ヒキリキネ}の事だらうとし、杵をキとのみ云ふ例につき八百丹杵築{ヤホニキヅキ}の例を擧げて居るが、杵島{キシマ}・彼杵{ソノキ}・天津彦彦火瓊々杵{アマツヒコヒコホノニニギノ}尊・遠杵{トホキ}・銷易杵{ケヤスキ}・丹杵火爾之{ニキビニシ}の如き例もあり、〈延暦儀式帳にはすでに枳根とある〉ヒキを火杵とするは妥當であらう。假名遣で云ふと火を比と書くは妥當で無いが、杵は岐で正しい。杵{キ}の語原につき柳田國男氏〈國語の將來三〇一頁〉は杵は木で作るからキと云ふと解して居られるやうだが、木の假名は紀の類だから、木と杵とは根本から異つて居ると見なければならぬ。とにかく、此の古鈔本私記や大治本を土臺とし、歌經標式や倭姫命世紀を參考資料とし、火杵と云ふ語で木燧を示した事が奈良朝期に存した事を認め得る。そしてさらに、古事記の燧杵もヒキリギネと訓まないでヒキ乃至はヒキリキと訓んで可いのでは無いかとも考へられて來る。(因みに倭姫命世紀は僞書ではあるが、其の材料は古いものであつたと認め得る)
さて斯う云ふ考察を、私記に存する倭言の全部につき試む可きであるが、事柄が餘程專門的に成るのと、解説が冗長と成るのとで、此の解説ではことさらに全部省略し、近く別の機會に發表する事とする。諒恕せられたい。
以上で不充分ながらも、古鈔本新譯華嚴經音義私記の解説は一通り言及したと思ふ。此の貴重な古鈔本が――とても活字では翻刻できないものが――今度複製刊行せられる事を感謝しつゝ擱筆する。(十月二十日靖國神社臨時大祭行幸御親拜の日)