色葉歌の年代に関する疑問

色葉歌(漢字をあてる場合に、助辞のハに葉を書くは妥当で無いが、便宜上慣例により此の二字を使用する)の作者や時代に関しては、徳川期のものゝ代表として、村田春海(字説弁誤一巻、享和二年九月成る)伴信友(仮字本末四巻、成稿年代不詳、但し天保十年頃の古史本辞経の第四巻四十八丁右に引かる)黒川春村(碩鼠漫筆巻六「伊呂波仮字」条。他に、色葉類説要文鈔、色葉類説臆断の二書ありと漫筆に云へり。養子真頼博士の色葉歌作者考に、色葉類説二巻とあり。何れも震火に焼け失せたるならん)等の研究があり、近頃の研究としては、故大矢透博士の綜合的研究(音図及手習詞歌考。大正七年八月刊)があり、其の他精粗様々の意見も発表せられ居り、一般国語学者は多少の異論を抱き躊躇しつゝも、大体殆んど大矢博士の説を認めるものゝ如くに見受けられるが、又一方国語学者ならざる人々の間では、相変らず、弘法大師説を伝統的に信ずる人々も多々有ると云ふ具合にて、大矢博士説が学界の全部をして信服せしめるにはまだ〳〵充分で無いものである事を示すものゝ如くである。しかして自分はもとより国語学徒として大矢博士説に左袒するものではあるが、其れでもやはり其の説の全部を無条件的に信ずるところまでは行つて居ない。同時に一方では又密教系のあが仏尊し流の説も根拠が無いから困ると考へて居る。其れで、今は思考を精緻にする立場から、故意にあらゆる説に楯つく態度を取りて、強説鑿説めいた解釈を試み、最後に一資料――資料と云ひ得るか何うか、資料として価値あるか何うか、と云ふ事も不明であるが――に拠りて、色葉歌が、或ひは延長又は延喜の頃、少くとも延長頃に存在して居り、しかも真言宗的色彩を有して居たのでは無かつたか、と云ふ疑問を述べて教示を乞はうとするのである。

論を進めるに当り、順序として、色葉歌作者に関する古来の説を列挙する。

さて以上は平安朝期より室町期末までの書に見えた説にして、従来指摘せられて居たもの、又は自分の気づいたものを挙げたのだが(だから探せば、まだ〳〵異説が存するかも知れない)、徳川期に成ると定説的な空海説以外に様々な説も出て来た。其れらを無秩序に列挙すると、左の如くである(京字に関する事は除く、歌の作者のみを云ふのである)。

さて斯う云ふ異説は出で、又合作説も存したが(本朝学源、日本書紀通証など)国学者や一般人の間に於いて、定説的であったのは、無論弘法大師であつて、主要なる著書について云へば、和字正濫鈔(巻一、二三右以下)代匠記雑説(三七頁)、古事記伝総論(二一頁)、玉かつま巻十一、松屋筆記(三の三七四、三七八、三八二頁)仮字本末、文教温故、以呂波問弁一ウ和字大観抄(上二五オ)の如きが其れであり、国学者では無いが、青木昆陽の昆陽漫録(巻三、n字の条)には、大師入唐の時欧洲の文字を習得し、帰朝後、其れに倣ひて色葉字を作つたのであらう、の仮字(希云、者字の極草体)やはオランダ文字のh nと同じである、と云ふやうな奇説も見受けられるに至つた。しかして学者にしても一般人にしても、大師説を認めるのは、漫然と在来の伝説を認めると云ふのが普通であり、別に理由は説かず、殊に、概して文字と歌と何れも大師の作とすると云ふのであり、和字正濫鈔が、少々論拠を挙げて居るだけであると云ふ有様であつたのだが、此の徳川末期に成ると、得仁の統弘法大師年譜、山崎美成の文教温故や伴信友の詳細な考証が現はれ、大師説を力強く主張するに至つたのである。しかして此の説は、明治の黒川真頼博士により継承せられ、大正に成りて村田春海や黒川春村の説を綜合大成した大矢博士の説が出てからでも、やはり大師説は根づよく信ぜられて居り、国語学者以外の間では(尤も国語学者と認められる人で大矢博士説を無視して居る人もある事はある)大師説の方が優勢であるかの如くに見受けられるのである。(なほ作者に関した事で一往言及して置く可きは、例の合作説非合作説であるが――京字の事は、何時でも誰でも加へられるのだから問題とする必要が無い――合作説は徳川期に於いては信ぜられもして居たが、今では、余りに不自然な説であるために、殆んど誰も相手にして居ない〔真頼が認めたのは驚く他は無い〕斯う云ふ奇説は、古くよりの伝説であるとは云へ、無視して可いと信じる)。

以上は色葉歌の作者を中心にして述べたのだが、作られた時代を中心にして云ふと、徳川期から、現在に至るまでの間に、非空海説の学者により数説が呈示せられて居る。左に其れを列記する(空海の作と認めた上で何時頃の作であると説く類のものは、全部省略する)。

さて是れより、色葉歌――文字の方は問題とせない――に関する諸説を、鑿説的に批判せんとするのであるが、其の順序は、空海説を否定する側の論の批判から始める。

最初に挙ぐべきは村田春海の学説弁誤である。此の書は、平沢元愷の謨微字説(癸卯之春云々とあるから天明三年の作であらう、字源を説いて居るのみ謨微字には色葉に因みモミヂ〔紅葉〕を含めて居るらしいが其れは非である)を批判したもので、享和二年九月に出来たが、此の書の中で、春海が、空海説を否定してかかつたのは無論完全であるとは云へないが、偉なりと云はなければならぬ。(因みに云ふが、古事類苑文学部一の二九頁に「謨微字説」の説として引用してあるのは、字説弁誤であり、類苑編者の誤りである。類苑の誤りは伊藤慎吾氏の近世国語学史に累を及ぼして居る。慎しまねばならぬ事だ)さて春海は、従来の論者が、やゝもすると色葉歌と色葉仮字とを一所に考へて、歌も文字も共に空海作とするのが常であつたのに反し、文字と歌とを別々に考へて、文字は自然発達であるとし、歌の方は云々であると論じたのであるが、是れは安藤為章の年山紀聞巻六の説に従うたものであり、春海の独創説では無い。

春海の論の主要な点は、色葉歌が七五調の今様歌の句法であり、古き長歌には無き事であり、弘法の時世の姿で無いと云ふのである。しかして此の説は、春村も認め、大矢博士も認め、大矢博士は、宝亀より永観までの歌詞を考察して、七五四句の色葉歌が空海の頃に存するもので無いと詳論して居られるのだが、其の反対論も存する。即ち高野博士の日本歌謡史(二六七頁以下)が其れであつて「歌謡の発達上からは、空海にいろは歌の作があつたとしても、之を疑ふには及ばないのである」とするのであるが、歌謡の発達上云々と云ふのは、七五二句形の按摩の二の舞の詠が、遅くとも仁明天皇の御代に存したのだから、七五四句の色葉歌を空海の作と認めても可いと云ふのである。斯くの如くに、色葉歌の形式に就いては、空海時代のものであると認めても可いと云ふ説も、歌謡研究家の間に有るとは云へ、空海時代に七五四句の形式があつたと云ふ確証が無い以上は、何うもわれ〳〵の主観は、此の色葉歌を空海時代のものと認めるのに賛成できぬ。殊に、五七、五七、五七、五六と云ふ五七四句とも見る可き大為爾歌に比べても、七五四句の色葉歌の形成は、新しいやうに見受けられる。そこで、自分の如きは橋本博士が「七五調は平安朝初期から現はれたとしても、いろは歌の如き純然たる七五四句の体は果してあり得たかどうか疑問であり……」日本文学大辞典)と云つて居られるのに賛成する他は無いのである。

春海の論拠の第二は、古今集序に、難波津浅香山の歌が手習歌として見え乍ら、色葉歌の事が見えない。これは、古今集の当時、色葉歌が無かつたからであろうと云ふのであつて、春村も認めては居るが是れは理由とは成らぬ筈である。蓋し色葉歌が当時存して居たとしても、其れが、手習用に供せられて居なかつた場合には、序文中に書かれる機会が無いからである。なほ吉沢先生は「文字を一字一字習ふ時の放ち書きと、歌文を書く時の続け書きとは別である、難波津浅香山の方は其の続け書きの手本であつたと見れば、難波津浅香山の事が見え乍ら、天地の詞や大為爾歌の如きものが見えないからと云つて、其れが為め古今集序の時代に天地の詞其の他が存在して居なかつたとする理由にはならない」と云ふ意味の事を述べられたが、其れも先づ〳〵首肯できるのである(尤も大為爾歌や色葉歌は続け書の手本にも成り得る)。

次ぎに春海は色葉歌に仮名の誤用の無い事を指摘して、花山一条の御時の前後のものとして居るのであり、大矢博士も此の点をかなりに重視して居られるやうではあるが(一四五頁)是れも然う云へるとも限らない事である。蓋し、一般では仮名遣が誤られて居るにしても、斯う云ふ風なものを作つて見ようかと云ふ位の人ならば、仮名遣と云ふ点にも注意して、誤らないやうにする事は有り得る筈だからである。

以上は字説弁誤の所論だが、春海の門人清水浜臣の泊洦筆話を見ると、春海が「我が世誰れぞ常ならむ」とあるは「てづゝ也、大師の比の作ならんには、かくしひたるいひなしはなきことなり」と云つて居たと見える。「しひたるいひなし」とは、語法上の誤りと云ふ事であらうが、春村も亦、此の点を強く論じ咎めだてをして居り、大矢博士も問題としては居られるが、同字無き歌であるからと云ふ点で、寛容主義を取つて居られる。(尤も春村は、空海の頃のものとしては不都合だと云ふ立場であり、大矢博士は「天禄前後より永観までの間」の物と見乍らも寛容な態度を取つて居られるのであり、事情は大分に異る)。しかして日本歌謡史も、「(此の論は)首肯し得るのであるが、同字を用ひないで歌を作り出したのでやや常格とは違ふ用ひ方をしたものと解すべきで、之を理由にして天暦以後へ下げるのはちと勝手過ぎると」弁じて居るが、寛容するにしても、たゞ同字無き歌だから寛容すると云ふだけでは不合理である。たゞさう云ふ例が他に存する場合は、認めてもよい事と成るのだ。そしてゾを疑問の義につかうた例は、宣長、春村の言のやうに古く存し、又タレゾツネナラムの如く反語となるものも続紀宣命第廿八「天下人誰不在安良武(詔詞解によると、曾を何と書いて居たものもあつたらしい)と云ふやうな例があり、又「誰曾」では無いが、やはり疑問の形で「何此人復立無止第卅三詔)と云ふ例もあるのだから、曾を疑問のカと同じやうに使つた事は奈良朝期にも、あつたやうに考へられる。して見ると、色葉歌を空海の作と考へる事も、「誰ぞ」の語法のみからは、否定できない事と成るのである。

さて以上述べた所によると、春海の否定説としては、七五四句の歌式を問題とした点が最も有力である訳であり、他は根拠と成るとは云へないのである。

春海についで否定説を述べた黒川春村の説は先づ、消極的に、江談や密厳諸秘釈をば論拠にする事は出来ぬと云ふのである。即ち春村は匡房の言には信用できない説があるから(碩鼠漫筆二七一頁参照)従つて、匡房が「古人日記中有㆓此事㆒」と断つて居るにしても信用はできない、と云ふのであるが、此の論は明らかに論理的では無い。よしや匡房が捏造の言を弄する事あつたとしても、匡房も何から何までも虚構の言を弄したと云ふのでは無からうから、中には根拠ある事を云うた事もあらう。しかして此の色葉歌作者の説が虚構の言であると断言する事は理由が無いから出来ないのである。とにかく大師説を信ずるものが、江談を殆んど唯一の論拠として縋りついて居るやうな態度はまね出来なくとも、源信の時代に、色葉歌の存した事を認めるぐらゐは、支障あるまいかと思はれる。

新義真言の宗祖、根来寺の開山覚鑁興教大師が、其の密厳諸秘釈の中で、色葉歌の作者には一言も触れない乍らも、其れを註釈して居られる事は様々に解釈せられるのであつて、春村は覚鑁が大師の作であるとも何とも言及して居ないから、大師の作では無いのだと解釈して居るが、考へ様によりては、和字正濫抄をはじめとして空海論者の総てが認めるやうに、歌が大師の作である事は、東密の学匠の間では、秘法伝授の際に伝授せられて居り、判りきつた事であるから、事新しくわざ〳〵断る必要も無かつたのだ、秘密主義の当時としては明記せないのが当然である、色葉歌が大師の作にして真言宗関係のものなればこそ、覚鑁も註釈したのだ、と云ふ解釈も可能である。しかして此の全く相反する両説は全く水掛論的であると云ふ他は無い。だがしかし考へ直すと、大師作と断つてない事は、やはり何と無く主観的にはをかしく感ぜられるのではあるまいか。あの伊呂波釈を読むと何度読んでも、大師の作なるが為めに注釈して居ると云ふやうな味が無いやうに自分には感じる。(此の場合に、真言秘密だから覚鑁がそぶりにも示さなかつたとか、真言秘密なるが故に覚鑁も作者の何人であるかを知らなかつたのだなどと云ひ出すならば、笑止千万である。)春村が「尊信の筆づかひだにあらばこそあらめ、いさゝかも其色だにみえず、たゞ我もの顔に註したるは元より作者もしられざりけむ事、よく筆勢に顕れたり(こは本書を熟視して量知すべし)」と云つて居るのが最も妥当であるやうに思はれる。しかして若し覚鑁が、色葉歌をば大師の作であると信じ居り、真言秘密で一般世人や凡庸の唖羊僧の類は作者を知らずとも、学匠達や高級の僧侶は口伝相承で知つて居たとすれば、東寺の長者ともある参河僧正行遍が、弘法大師説のあるにも拘らず、わざわざ婆羅門僧正が作つたなどゝ云ふ不合理非常識な妄説を述べる筈も絶対に無からう。とにかくにも覚鑁の態度は作者についての真相を知つて居ない人の書き様であると云ふ他は無いと思はれる。

春村は凌雲集の仲雄王の詩をも、色葉歌の事を云つて居るのでは無いと否定して居るが、此の詩句の解釈は面倒であるから後に詳述する。

以上は消極的な否定説だが、春村は新に一論拠を提出した。其は、色葉歌の中には、エが一つしか無いと云ふ点であり、詳しく云ふと、色葉歌の中にはヤ行のエであるべき江はあるが、阿行のエである衣は見えない。yeは子音と母韻とにより生れたものであり、悉曇で云へば所生音(子音と母韻とが結合して出来た音の義)である、色葉歌の如きを作る場合ならば能生音のeを取るべきである「其能生を棄て所生をとれるは悉曇の祖と称すべき大師の作としては快からず」と云ふのであるが、此の論は、春村が、悉曇三密抄の教ふるところにより、五十音図に於いてe yeの別を知つて居り、其の音韻考証(九ウ、又五十字音三内所発図解)ではe yeの仮名を区別して居る事、又彼れが万葉集ではe yeの別のある事を知つて居る事(於乎軽重義の頭註に「万葉中に……衣延同用はふつになきが如し、但記紀は同用せり」とある決して精しい説では無い)を考慮せなければ理解できない事である。しかし春村は古言衣延弁の著者とは異り、国語に於けるe yeの使ひ分けが、新撰字鏡頃に於いてもあつたと云ふ事を確認して居たとは思はれないのであり、現にこゝでも、然う云ふ事は積極的には云つて居ないのだから、従うて空海の頃にはe yeの使ひ分けがある可きだのに、色葉歌では、yeのみがありてeが無い、だから色葉歌は空海頃の作では無いと云ふ推論をして居るのだと見る事は出来ないのである。だから、春村の此の論拠としては殆んど無意味であると云つて可いやうだが、やがて是れが古言衣延弁によりて天地の詞の研究をせられた大矢博士により、有力な論拠に進展せしめられた点で注意すべきである。しかして大矢博士は、天地の詞や、新撰字鏡、和名抄などにより、空海の時代はe yeの別ある四十八音時代であり、源順の時はe yeの別の失はれた四十七音時代であるとし、色葉歌は四十七音であるから、とても空海時代のものでは無いと断定せられたのであり、此の説は国語学徒の間にては大体認められては居る。尤もe yeの別は新撰字鏡に混同の例があり、更に溯ると大矢博士の紹介せられた地蔵十輪経元慶元年点にも、yeと和行のヱとを混同して居る如き極端な例もあるので、高野博士は「弘法の在世時代と元慶元年とは相距る僅に四十年で、此の混同は更に時代を弘法在世の時迄溯れさうで、それ程有力の理由になし難い」とせられたのであるが、是れは首肯できない。四十八音の天地の詞は、相模集の頃までも行はれたのであるから、橋本博士が「ア行とヤ行のエの別は、万葉集にも混同した例が一つある故、平安朝初期にも混同は全然なかつたとは言へないが、正しい発音としては、区別せられて居た事と思はれ、あめつちの如き四十八音の誦文が天暦以後までも仮名手本として行はれたのであるから、いろはが弘法大師の時代に出来たものとすれば、四十八音を区別すべきであり」と云はれた事を肯定するを正しいと思ふ。殊に空海は悉曇を心得て居たのであるから、国語声音に関する理解も、一般人以上である可く、e yeの別がよしや微弱ながらも存して居たとすれば、同音無き色葉歌を作る場合に、e yeの両方とも収めなければ、其の悉曇の智識が承知せなかつた事だらうと自分は考へる。普通の人間ならば気づかぬやうな事であつても悉曇学者には関心事であり得たと認めるのである。歌形としてもe yeを両方とも収める時は、完全な七五四句と成り得るのである。しかもエに於いて一音を捨てると、形が乱れるのだ。是れ位巧みな歌を作り得る人が、しかも悉曇の智識ある人が、現に存在するe yeの一方、殊に母韻として重用なeを捨てゝまでも、一字欠けた不完全な歌とするとは到底考へられない事である(大師自身は悉曇学者として、極めて厳格な態度であつたが、何しろ下愚の民衆を相手にするので、国語音整理の意味から許容案的態度を取りe yeを一つで済ませたのだらうと云ふ解釈を試みるならば、不可能では無いが、大師の時代としては、e yeの別が存したと認められる以上、此の解釈はやはり不都合であらうと思ふ)。e yeを一つで済ませ得た色葉歌作者は、必ずや、e yeの別が全く無くなつた時代の人であるか、e yeの別が殆んど失はれかけて居た延喜頃又は其れ以後の時代の人で無ければなるまいと思はれる。要するに春村の説は、e yeの別の事を問題とした点を、其の真義は判らぬながらも、買ふ可きである。

春村の後に、空海作説に反対したのは文芸類纂(明治十一年一月刊)の著者榊原芳野であるが、其の説(大師筆と云ふ色葉歌は大師の真蹟では無い、江談等は信用できぬ、麗気記は偽書である、字母弘三乗云々も色葉歌の事では無いと云ふのであり、春海や春村の述べた重要な論拠は問題にせられて居ないのである)は、空海説の否定としては、春海や春村の説にも劣ると云はなければならぬ。但し性霊集の序を引用したのは、注意すべきである。

芳野に次いで、空海否定説を綜合大成せられたのは大矢博士であるが、同博士が、新に提出せられた論拠は、大為爾歌を土台とするところのものである。

源順の頃に、手習の詞として、天地の詞の存した事は既述の通りであるが、其の順の愛弟子源為憲の時代に成ると、大為爾歌と云ふ五七四句四十七音の歌が、恐らくは同様の目的で存したのであり、為憲は天禄元年十二月に、口遊一巻を書いて、此の大為爾歌を載せたが、其の時に、「今案世俗誦㆓阿女都千保之曾㆒里女之訛説也、此誦為㆑勝」と附記したのである。しかして此の歌は、七五調の色葉歌に比べると五七調である点で古色があり、又其の文句もはるかに色葉歌よりは拙劣(信友の言の如くに意味も通らぬと云つて可い)単純である如くに感ぜられる。しかも為憲は色葉歌には一言も言及しては居ないので、そこで「四十七音にして巧妙なる伊呂波歌、果して空海の作にして、存在したらんには、之をこそ挙ぐべきに、かゝる拙き五七調の歌を取りて、之を誦するを勝れりと為すといへるが如きは、自ら、此の時代に於いては、未曾て伊呂波歌の存在せざりしを確認するに足る」と大矢博士は云はれたのである(五七頁。一四一頁にも同じ意味の事が見える)しかして、是れは甚だ尤もなる事であり、国語学者が全部認めて居るやうであるのは、妥当であると云へよう。しかし、ひねくれた解釈をすれば「色葉歌は、作者が誰れであるかは不明であるにしても、とにかく、為憲の時代には存在して居たのだ、但し作られた時代が新しいので、一般に流布するに至つて居なかつたのだ。時代はかなり古くても、其の作られたのが京都では無く、遠隔の地であつたか何かの事情により、京都人の間には知られて居なかつたのだ。又作られた土地の如何に関せず京都でも一部の仏者ぐらゐは知つて居たらうが、色葉歌が其の内容上神秘視せられ、神聖視せられた余りに、是れが手習歌として採用せられると云ふ事も無く、秘密にせられる傾向があつたので、一般に知られるに至らなかつたのだ。従つて、為憲のやうな、和名抄を作つた師匠源順の学風を継承し、啓蒙教育に関心を有した人も、耳にし、目にする事を得なかつたのであらう」と云ふ解釈も可能と成り、必ずしも大為爾歌の当時に、色葉歌が存在して居なかつたと断定する訳には行かぬやうでもある。たゞ当時、色葉歌が存在して居なかつたと断定する訳には行かぬやうでもある。たゞ当時、色葉歌が一般に知られたもので無かつた事を認める事は出来るに過ぎない。(明治の極初年に普通教育を受けた老人で、五十音図を知らぬものも居る。それより年長の老人連に成ると、五十音図を知らぬものが多い。国学者連中が五十音図を重視するやうに成つたのも、荷田家の妄伝を妄信した真淵以来の事である。現在でも、見方に於いては色葉歌よりも優れて居る「とり鳴く声す夢さませ」の歌を知つて居る人は極めて少なからう。斯う云ふ事情から察すると、大為爾歌、天地の詞、色葉歌の三者が同時に存在して居ても、世人に知られる程度に於いて相異があつた事を考へても支障は無いやうだ。天地の詞は、恐らくは、最も古いものだから、保守的な歌人の間では、古きを尚ぶと云ふ意味から、又昔、順などが是れにより歌を作つた事があると云ふやうな懐古趣味から、かなり後までも行はれたのであらう。大為爾歌の如きは口遊に出て居るからこそ、其の存在が指摘できるのだが、口遊が若し佚亡してしまつて居たとすれば、恐らくは永久に大為爾歌の事は、存在して居た事が知られずに終るのであらう。色葉歌に於いても同様な事情が考慮せられる。)宇都穂物語「かむな、はじめには、をとこでにもあらず、をんな手にもあらず、あめつち」とあるのにより、字都穂の時分に、色葉歌が存在せなかつたのだと見る事の妥当で無いのも云ふまでも無い。

色葉歌が果して空海の作であるならば「必ず、そが伝にも記され、後々までも明かに言ひ伝へらるべき理なり。然るに前段の如く、三百年の後なる江談に記さるゝまで其の名も知られず、作者は空海なりと伝へながら未定なるさまを見れば」空海説は信ぜられぬと云ふのは、大矢博士の言(一三一頁)であるが、是れは、何人も抱く疑問であり、空海説否定の一論拠としてかなり有力であると云へない事が無い。蓋し其の色葉歌の制作が、大師の功績として重要な事であり、仲雄王が詩の中で特筆して激賞せなければならない程の事であるとすれば(仲雄王の詩の中の文句で此の類の事は他に見えない)其の色葉歌を作られた事を大師自ら漏らされるとか、真言宗の方で何か確実な文献に記して置くとか、若しくは、御手のものの師資相承で伝へさうなものだのに、全く然う云ふ事は無く、現存の文献では、天台の源信が云つた事を江談が伝へて居るのみであり、其の後もたま〳〵空海説を述べて居るものあらば、釈日本紀、筆道伝授の如きものであるのは、何としても甚だいぶかしい事だからである(空海作の天地麗気記に色葉の事が見えるので、信友は「こは別に又色葉の説を作りて、例の神道にも附会せるものなり」三九三頁〕と云って居るが、此の書は偽書であるから問題には成らぬ。)ところで此の論に関しては、空海説主張者の側に反対論が無論存する。そは、空海否定説を「密教に対する認識不足の学説」と批評せられた石井氏の論にして、石井氏は色葉歌作者に就いて異説の生じて居る理由につき、大師作とする立場から「これには尤な一大理由がある。其れは当時密教ではなんでもかでも秘密秘密と云つて秘密主義を高唱し、世間一般に公開しなかつた結果である」三七頁)と云はれるのだが、是れは大師自身で色葉歌を作つて置き乍ら、自作であると吹聴しては有難味が少い、だがさりとて、梵字を梵王所製と勿体ぶる天竺人の真似も出来ないと云ふので、故意に自作なる事を明されなかつたのであると云ふのであるらしい。だが果して何うか。

真言秘密であるから、作者の事が明記せられず、又明確に伝へられなかつたと云ふのは、真言宗系の人の云ひさうな事だが果して何うだらうか。真言秘密と云ふ事は、斯う云ふ不明な事情を説明する場合に、極めて都合のよい重宝な言葉ではあるが、色葉歌の神秘性を保持するためには、作者を隠さねばならぬと云ふやうな意味で密教の秘密主義が採用せられるものなのだらうか。秘中の秘と云はれる類の事も随分書き留められて居り、祈祷教としては大切な儀軌の類も夥しく伝へられ、経疏の類も夥しいのである。然う云ふ真言秘密に於いて、色葉歌について、其の宗祖の作である事を、空海の在世中、又は其の入滅せられて間も無い頃に於いて、隠さねばならぬ必要が果してあつたであらうか。弟子や法孫としては、色葉歌を流布せしめ、宗祖の作なる事を知らしめる事こそ、宗勢拡張上有効であつたのではあるまいか。若し何うしても俗人に対しては秘密主義を固守せなければならぬと云ふのであるならば、僧侶の間では御手のものの師資の口伝相承と云ふ方法が、立派に存したのでは無いか。秘密主義だから口伝相承が重んぜられ、盛んに行はれたのでは無いか。しかして口伝相承が行はれて居たとすれば、其の説はよしや記録には載せられなくとも、正しく伝へられて行く筈であり、場合によつては密教徒も自ら記録に留める事もあらうのに、真言宗の相承に於いて確実な空海説の相承の無い事は事実であり、真言宗の記録に残つて居ない事も、真言宗系の学匠により空海説の確実な文献的証拠が呈出せられて居ない事に(尤も真言宗の学者にしても宗門関係のあらゆる古文献を渉猟する事が常に可能であるとは云へなからうが、少くとも、方面違ひの国語学者が渉猟するのに比してははるかに容易である筈である)よりて明らかである。しかも、たま〳〵空海説があれば古いところでは源信の言を引いた江談のみである。鎌倉中期に於ける真言宗東寺の長者ともある大学匠が、たま〳〵色葉歌の作者を記したと思へば、婆羅門僧正の作だなどゝ非常識な事を述べて居るのである。是れによれば相承さへも行はれて居なかつた事は想像に難くない。従つて此の事から、真言宗の方では、鎌倉期頃までは、色葉歌を宗祖に結びつけて居なかつた事、換言すれば、色葉歌が宗祖の作である事を認めては居なかつたのである事を認定しても可いと思ふ。

なほ石井氏の論は、色葉歌の作者が空海であることは明白な事実だが、真言秘密の立場から、秘密にせられて居たと云ふのであるのに、一方では又仲雄王の「字母弘㆓三乗㆒真言演㆓四句㆒」の句は色葉歌の事を指して居るのだと云ふのである。此の論は、云ふまでもなく明かに自家撞着の論である。

真言秘密と云ふ事が絶対のものであるならば、仲雄王も色葉歌作者が大師である事は知られなかつたものと見るべきではあるまいか。此の詩の文句が、大師説主張者の主張の如くに、事実色葉歌の事を意味して居るとすれば、少くとも仲雄王は作者が何人であるかを充分知つて居られたものである。仲雄王は作者の事を知つて居て詩の中で明記――石井氏其の他空海論者に云はせると明記である(だが、正直のところ決して明記であるとは云はれない。であるからこそ空海否定説も生れるのである)――して居る程であるのに、大師や宗門の人々は、なほも秘密を厳守して居たと見るならば、其は諺に云ふ「頭かくして尻かくさず」の矛盾である。石井氏は此の矛盾をば矛盾とせられぬものゝ如くではあるが、自分は此の矛盾を認めないわけには行かぬ。だから、色葉歌が大師の作であると云ふ事も、仲雄王が詩の中で其の事を賞め称へて居ると云ふ事も、仲雄王の頃には明らかであつた作者が、後に秘密主義から不明に成つてしまつたと云ふやうな事も、全部否定せなければならぬ。要するに色葉歌は大師の作では無く、仲雄王の詩も色葉歌の事を云つて居るので無いからこそ、色葉歌が大師の作であると云ふ事が、確かな文献に記されるに至つた時期が後れ、しかも動揺があるのだと考へたい。

また石井氏は、真頼の言を踏襲して、空海が人民教化の為めに色葉歌を作つたけれど「時代が漢字隆盛期であつた関係上、今様式の以呂波歌は時人の嗜好に合はず、埋蔵されて僅に仏家の間に伝へられて居た」四七頁)と説かれるが、是れは空海の布教の相手が京都に於いては概して貴族であつた事、その貴族は漢学漢詩文万能で国風を顧みなかつた事を考慮すると首肯できさうではあるが、それにしても、色葉歌が空海の時代より有つたとするならば、其れが古文献に見えさうなものだとする見方を改めさせる程有力であるとも思はれない。

斯くの如くに、色葉歌が空海の作である事を説いたものも乏しいし、又色葉歌の事が見えるのも時代はかなりに後れるのであるのはいぶかしい極みである。たゞしかし、鑿説的に云へば、さきにも云つた通りに、大為爾歌にしたところで、偶然、口遊に記されて居てくれたからこそ、此の歌の存在が知られ得るに過ぎない。したがつて色葉歌の如きも、作者はともあれ、其れが、文献に書き留められたのは、口遊と同時代、又は少し位若しくは甚だ早かつたのだが、遺憾乍らも、其れらが全部佚亡してしまつたので、色葉歌に関する初期の消息が判らぬのだ、たゞそれだけの事なのだ、と云ひ放つてしまへば必ずしも然うではあるまいと否定が出来る事では無いのである(e yeの別の無き事、歌の形式が七五四句の今様形であるから何時頃より後のもので無ければならぬと云ふ論も、其の「何時頃」よりも前に色葉歌が敵として存在して居たと云ふ確証が出て来れば、撤回せらるべきものなる事は云ふまでも無い。)だから古い文献に見えるとか見えないとかを問題とする事は――方法論的には普通の事であり、妥当であると信ぜられては居るものゝ――案外に危険性のあるものである事も考慮する必要は充分にある。

色葉歌の初見は白河天皇承暦三年四月十六日書写(此の時の著述であると信ぜられる)の金光明最勝王経音義であり、其れ以後は、連続的に見えるが、最勝王経音義以前には見えない。しかも賀茂保憲女集や、相模集にはまだ天地の詞が見えて居る。そこで皇紀千七百年代の初期頃、後冷泉、後三条、白河三朝頃、限定すれば後冷泉・後三条両朝頃のものではあるまいか、「伊呂波歌の出来た時代に就いても、天禄永観よりも後にくり下げられぬことは無いと思ふ」と云ふ解釈も出る訳であり、此の推定は如何にも尤もではあるが、鑿説的に云へば、大為爾歌について述べたやうに、承暦三年の最勝王経音義が幸ひにも伝存したと云ふ事は、単なる偶然であつて、是れが伝存して居なかつたとすれば、当然三十年程後の江談佚文、もしくは更らに三十年位は後の密厳諸秘釈を以て初見とせなければならず、従うて最勝王経音義を以て初見とするのにくらべて、三十年乃至六十年の隔りが出来る事と成るのである。そこで此の事情を推すと、最勝王経音義の初見に拘泥するのも、当然でやむを得ないとは云ひ乍らも其れが必ず正しいとは云へなくなる。同様に天地の詞にしても、其れが古く、順などによりもてあそばれて居た以上は、保守的傾向のある歌人どもが、大為爾歌や色葉歌が存するにしても、わざわざ古いものを取ると云ふ事も考へられる。(現に北畠親房卿の時代に於いてさへも、正月には天地の詞を使用する事があつたのである)斯う云ふ訳であるから、相模集所見の天地の詞や、最勝王経音義初見の色葉歌によりて、色葉歌の時代を千七百年代の初期に下げるのも、必ずしも妥当であるとは云へないと思ふ。

(追記。徳川記の伝炉広録には、永観元年の入宋僧奝然が色葉歌を支那に伝へたとあるが出典不明なれば後考をまつ。)

大矢博士の研究が出た後で、異色ある説を出されたのは、新撰国文学通史の著者坂井衡平氏である。氏の説(上巻二二〇頁以後)を要約すると、

と云ふのであり、大矢博士説に比べると、全く宵壌の差があると云へよう。しかも大矢博士説の批判は全く見えないのであるのは不思議である。是れだけの異説を創唱するには、既存の学説を一往批判するのが順序であらう。ところで、自分は今まで、色葉歌に関する説で自分の知つて居るものは、一つ一つ故意に盾つく態度を取つて来たのであるから、今また坂井氏の説を否定する立場で批判すると左の如くである。

だから、いはんや其の五言絶句が「偶然にも同字が少い」と云ふ程度に和訓が施され(つまり善珠以外の人によりて和訓せられたと云ふのであるらしいが、同じ事ならば善珠が然う読んで居たとするのが妥当であらう、善珠も日本人である以上、棒読はして居なかつた筈であるからである)それが「歌人など」により更らに同字同音無き現在の形に「補削」せられたと云ふに至りては非常に無理な論である。斯う云ふ推定に成ると、主観的分子が多いために、否定するにしても、肯定するにしても、明確には出来ないものだが、自らの主観では首肯できぬと思ふ。なほ坂井氏は「善珠の法相宗では六無為の教理も説くし、いろは歌全体が、新宗教の空海伝教等の思想と言ふよりも奈良の旧宗の口吻に近い点がある」と云つて居られるが、是れも亦主観的である。無常思想は仏教の骨髄肝心であつて、是れを重視するのは某宗に限られて居る何宗では説かぬ事だ、などゝは到底確定的に云へない事であるからである。現に其の弘法大師も、諸行無常偈は引いて居られるのである(性霊集七の四八三頁、八の五〇二頁)(大矢博士が色葉歌作者をば天台宗系の僧と見て居られるのが妥当であるとは云へないのも同様である)。因みに、守山師の「文化史上より見たる弘法大師伝」は、坂井氏の此の説を挙げて「大師が母方の阿刀氏と同系統の阿刀氏の出である善珠に、教を受けられたやうな事があり、其の時善珠が右の歌を大師に示したやうな事があつて、後に成つて大師が色葉歌を作る場合に、其の善珠の歌を換骨脱胎せられたのであるかも知れないと云ふ推測も強ち無理では無い」と云ふ意味の事を述べて居るが、斯かる推定は、色葉歌が大師の作である事が定つた場合に云ひ得る事であり、此の推定を土台として、大師作説を認めるのは妥当であるとは云へないであらう。

さて斯くの如く、坂井氏の論拠は大体崩れるものであるからには、其の異色ある結論が論理的に首肯できなくなるのは云ふまでも無い。がとにかく、氏が色葉歌を以て涅槃経の無常偈の翻案ではあるまいとせられたのは注意すべき事である。

一〇

色葉歌が諸行無常偈の翻案であると云ふ説は、密厳諸秘釈以来定説と成り居り、春村も認め、大矢博士も認めては居られるが、実のところ、歌を空海の作と認める八事山の諦忍(真言宗)でさへも云つて居る通りに「涅槃経ノ四句ノ文モ一向以呂波ニ寄ヨリツカヌ事」以呂波問弁二〇左)である。

金剛般若経は経の中にても普遍的に行はれたものゝ一つであり、其の為めに、註釈書も沢山出来、金剛般若集験記のやうな霊験談集も出来たのだが、(弘法大師も此の経を転読し〔高野雑筆集下〕、書写もして居られる〔拾遺雑集、済恩寺願文〕、解題も書いて居られる)此の経の要旨を要約した「一切有為法、如㆓夢幻泡影㆒、如㆑露亦如㆑電、応㆑作㆓如㆑是観㆒」と云ふ四句偈も、其の思想から云へば、色葉歌と酷似して居り「有為」と云ふやうな語も存するのであるから、翻案を説くのであるならば、此の金剛般若経の四句偈の如きも亦、一候補たり得る筈である。

とにかく、諸行無常偈と色葉歌との関係は、其れが翻案関係に在ると明言するに足るものでは決して無い。そこで坂井氏の如き説も出る訳であるが、志田延義氏は一歩を進めて、止観文曲に比較し、其の全体の意味と用語との類似性を主張せられるに至つたのであるが、

色は匂へど散りぬるを王位高顕、勢力自在、如空中雲、須臾散滅
我が世誰れぞ常ならむ無常既至誰得存者
有為の奥山今日越えて有為諸法、如幻如夢、三界獄縛、無一可楽
浅き夢見じ酔ひもせず如幻如夢、無一可楽、如空中雲、須臾散滅

と云ふやうな類似点を見れば、両者の関係は、諸行無常偈と色葉歌との関係の比では無い事は明らかである。もとより一字一字が意義を有する漢語の四言四句偈(しかも其れは深遠な仏教の骨髄を示すものである)を、一字としては意味を持たない我が仮字で、国語に翻案する時に、四句偈に忠実に直訳的に翻案できる筈も無いから、大体の意を汲む程度と或る可きである事は判りきつた事だから、大体思想が似て居る以上は、翻案で無いかと云ふ疑ひを抱いても可い訳だが、止観文曲の如くに、用語や思想で酷似したものが、指摘せられない場合はいさ知らず、指摘せられた以上は、諸行無常偈の翻案であるとする古来よりの定説を捨てゝ、止観文曲の翻案であると云ふ論を採用しても支障は無く、むしろ其の方が公平なる態度であると思ふ。(たゞ止観文曲の性質や年代が不詳であるため、止観文曲が色葉歌に基いたものでは無いかと云ふ疑ひも生ずるのだが、此の決定は自分には出来かねるから、止観文曲を色葉歌以前のものとして居られる志田氏の説に従うて置く他は無いのである)しかして、色葉歌が止観文曲の翻案であり、諸行無常偈の翻案に非ずとする事は、当然、色葉歌を以て、空海の作とし、しかも諸行無常偈の翻案だとなし、其の「確証」として、「真言演㆓四句㆒」の句を引く論には重大なる打撃と成るものである。何れは、「真言演㆓四句㆒」を確証と奉ずる論者により、止観文曲説は反駁せられる事であらうが――但し、今までに、さう云ふ批判が出たやうにも見受けられない――両者の論は決して、水掛論などゝ云ふ可きものでは無いと信じる。

一一

以上で空海作に非ずとする説を批判したから、次ぎは、空海作説の考察に移る。

空海説は江談所見の源信の説を初見として、其の後大体は伝統的に信ぜられては居るが、是れを学術的な立場から主張したのは、流石に契沖の和字正濫鈔が最初である。其の後文政十二年に山崎美成の文教温故(二巻、文致十一年歳次戊子春正月自序、同年刊但し刊月不記)があり、天保十一年に成ると、高野山無量寺院の得仁(字学霊)の続弘法大師年譜九巻(天保十一庚子年夏他序、その第八巻に色葉歌の事が見える。正編十二巻とともに真言宗全書に収めらる)が出来、其れと大体同じ頃に伴信友の仮字本末が出来た。明治に成ると、空海否定説の春村の養子真頼博士の色葉歌作者考があるが、所論に新味は無い。大矢博士の画期的研究が出た後のものとしては、高野博士の日本歌謡史(大正十五年一月刊)石井重誉氏の以呂波歌論(国文学踏査第二輯昭和八年六月号。因みに石井氏は同じ題名の文を前年の昭和七年五月の「歴史と国文学」に発表して居られるが、手元にある抄書を比べると全く同じ論文であるやうだ。同一の文を二度公表せられたものゝ如くである。)がある。(国語学者のものとして、昭和三年五月刊行の伊藤慎吾氏の近世国語学史があるが、此の書は、大矢博士の卓説の存するを知らずして看過したか、知つて無視したか、何れであるかは知らぬが、とにかく大矢博士の説は一言も言及せずして、真頼の説により空海説を採つて居るのであるが、いぶかしき限りである、引用文にも間違ひがある。)又真言宗側のものとしては東寺で作つた密教大辞典第一巻(昭和六年九月刊。辞書の事なれば、続弘法大師年譜に考証の見える事を挙げて「此の説信を措くに足る」と云つて居るのみ。否定説の批判などは無論見えない)豊山派宗務所が弘法大師一千一百年御遠忌の紀念として、昭和八年八月に公刊した「文化史上より見たる弘法大師伝」(伝記課の主任守山聖真師が執筆せらる)東寺専門学校教授長谷宝秀僧正の御説(昭和九年三月二十四日の大阪毎日新聞の記事なれば簡単なもの。其の後師より直接の高教を得た)「大師の門流の人」たる史料編纂官補三浦章夫氏の弘法大師伝記集覧(昭和九年一月刊。大師の作と断定して居るのでは無いやうだが大師作たる事を認める側のものであると見受けられる。大師説の史料を多く挙げ最後に大矢博士の説を引き、次ぎに参語集の婆羅門僧正説をも引いて居る。史料集としては流石に敬服すべきものである)などがある。(なほ明治以来、色葉歌関係の論文の類は仏教学者により種々発表せられて居る事は、仏教論文総目録によりても判るが、何れも未見である。其れらの中に異色あるものが存するかも知れない。最近のものとして山上ゝ泉氏の「いろは歌についての常識」〔「かぐのみ」昭和七年十二月号〕松下太虚氏の「弘法大師といろは歌」〔書芸昭和八年十月号〕の如きがあるが、是れも未見である。なほ弘法大師伝の類は何れも色葉歌に触れて居るので、かなりに渉猟したが、遺憾乍ら、所説は全部が無視して可いと信ぜられるものであつたので、拙文には引かぬ事とした。)さて空海説の論拠は左の如きものである。(追記。水原堯栄僧正の「高野板の研究」も色葉歌の作者を大師として居られる。但し論拠は示さぬ。)

と云ふ五条であり、他に空海説を否定する論に対する否定として、

と云ふ解釈がある。

是れらの中(一)(六)(七)(八)の事は既でに批判した通りである。(二)は美成・得仁・信友が論拠として居るけれど長谷師の如きも「大師真蹟の本も伝へてをらない。真蹟の摹写と称するものは、古来出実の国神門かんど寺、紀州高野山、大和当麻寺の三ヶ寺から印行してゐるが、字体同じからず、何れを真の草本とも定め難いのである」と云はれて居る位にて、今の学者が認めて、大師真蹟となすものは絶無であるから、問題には成らぬ。摸本にした所で信用できないものなる事は定評である。

(四)の無常思想の事は、石井氏の「当代は天災・地変・悪疫等交々勃発し、此れに加ふるに遷都が行はれたので、人心は極度の無常観を惹起して居た。ある者は山中に遁世し、又ある者は仏教書を耽読して自慰につとめた。従つて経典等も現在過去因果経等の類が多く読まれ、当時の文学作品(万葉集、霊異記)の中にも、無常観の現はれたものが尠くない。かゝる恐怖に襲はれた時世にあつて、人心慰安大衆教化のため、以呂波の歌の作出されたのは当然の事ではあるまいか」四八頁)と云ふ論とも成り、又石井氏に拠ると「現代仏教学の大家椎尾博士は、平安朝仏教の無常思想から見ても、亦いろはの内容から見ても、弘法大師の作に相違ないと云はれて居る」四二頁)との事であるが、万葉集と霊異記とを並べて見たり、平安朝初期の思想界を右の如く大ざつぱに概括せられた事の当否は問は無いにしても、然う云ふ無常思想が瀰満して居たから、色葉歌が作られたとか、其の作者が弘法大師であるとか定めるのが、論理的には決して妥当で無いのは冗説を要せぬ。(果して然う云ふ風に無常思想が人心に浸潤して居たとすれば、無常思想を巧妙に歌うた色葉歌の如きは大いに世の好尚に投じ、大いに行はれる事はあつても、其れが顧られず捨てられると云ふ事がある筈が無いとも云はなければならぬ)。次ぎに(五)について云はう。

色葉歌を七字づゝに切りて(最後は五字と成る)其の踏文字(此の語文芸類纂に見える)を読むと「とがなくてしす」と成るので、是れは「咎無くて死す」であり、人間処世の要道を喝破したものであると感歎するのが、何時より云ひ出された事であるかは知らぬが、仮りに作者が、同音無き四十七音で涅槃経の四句を翻案したとしても、其の時に他方に於いて「とがなくてしす」までも顧慮して作つたとまでは到底考へられない事であり、自分は無論「とがなくて」の方は偶然であると信じる(文芸類纂「人を絶倒せしむるに過ぎず」と評して居る。大矢博士が認めて居られるのはいぶかしい)或る人は真面目であつたか、冗談であつたかも今は忘れたが(学士会月報五〇二号)「いろは」の「い」と「ゑひもせす」の「ゑ」「す」とを試み添へて「いゑすとがなくてしす」(耶蘇イエス罪無くて死す)をも籠めて居ると解釈したが、此所まで行けば最早や万歳か落語かである。しかも「とが無くて」死すにしたところで逕庭は無い。自分の如きは「とがなくて」を作者が意識して居たとは到底考へないが、石井氏の如きは「かくまで巧に織り込んだあたりは、凡者の到底作り出される所ではなく、聖者の作物たる事明である。而して当代の聖者と云へば、弘法大師を置いて他に何人があらうか。故に以呂波歌は草聖空海の作と云ふ事が出来ると思ふ」五一頁)とまで云はれるのであつて、是れに似た論は屡見受ける事ではあるが此の論法は不思議であると云ふ他は無い。いかにも同音無き文字で自由に散文を作る事さへ難しいのに、石井氏の説の如く、七五四句の歌で、四句を翻案すると云ふ厄介な条件のもとに、しかも「とがなくて死す」を読み込むと云ふ条件も加へて居ながら、極めてなだらかに色葉歌を作つたのだから、確かに其の作者は凡者では無い、しかし聖者――此の意味は判らぬ、行阿が権者と云つて居るのと同義であらうか――の作とし、しかも其れを限定して、大師の作とするに至つては、余りに非論理的であり何とも批評のしやうが無いのである。「とがなくて死す」を認めるにしたところで、考証には此の種の乱暴な論法は慎しみたいと思ふ。(「当代の聖者」と云はれたが、当代とは何時の事か。色葉歌を空海の作と見るからこそ、当代は空海の時代と云ふ事と成るのである。論を進める場合に此の種の誤謬も排斥せなければならぬ)石井氏は「近代一部の学者間には、徒に博引傍証し、曲解も甚しき認識不足の推定、珍奇なる談を立て、しかも堂々と論じ立てゝ、自から自説のドグマに陥入つて居る学者先生等が少くないやうである」、空海説を否定する論は「弘法の作に非ずとなすべき適証がなく、詮ずる所、臆断より出たる推定説である」と云ふかなり辛辣な言葉を吐いて居られるのであるが、其の所論全体が、真頼や高野博士の説より一歩も出ず、しかも、是れも昔の論者の説を高調せられたに過ぎないとは云へ、(五)のやうな論法を採られた事は甚だしき遺憾である。

以上で空海説の論拠八条の中七条まで批判したから、最後に第三の論拠を考察する。

一二

色葉歌を大師の作とする論者が唯一の確証として引くものは、凌雲集に見える仲雄王の「謁㆓海上人㆒」詩「字母弘㆓三乗㆒、真言演㆓四句㆒」とある句であるが、性霊集の真済僧正(空海弟子)の序に見える唐の胡伯崇の歌に「説㆓四句㆒演㆓毘尼㆒」とあるものも、右と関聯して重視せられて居る。(因みに云ふが、此の仲雄王の詩を最初に指摘したのは誰れだつたらうか。春海の字説弁誤の頭註に「友人長崎屋新兵衛云」として引かれて居るが、春海の加へた頭註であるか何うかは判らぬ。〔東大国語研究室に小島知足(成斎)が天保五年二月に書写し、狩谷棭斎が校評した本があるが、其れには此の頭註が存せない〕大田南畝の仮名世説上巻〔文政七年山崎美成序、刊〕や山崎美成の文教温故〔文政十一年正月自序同年刊〕にも見え、春村、得仁、信友も引いて居る。はじめて引いた人は今のところ自分は知らぬ。胡の歌は真頼が引いて居るが、時代より云へば、明治十一年一月刊行の文芸類纂の方が古からう)。

仲雄王の詩句は、大師説論者により確証と見られて居る。だが果して何うであらうか。是れに対しては、否定肯定両論者の間から、数種の解釈が提出せられて居るが、今其れらを表の如くにして示すと左の如くである。言及して居ぬもの、言及しても意味曖昧のもの、わざわざ挙げる程でも無いもの等は、表に出さぬ事とした。

(仲雄王の用語) (胡伯崇の用語)
(論者) 字母 三乗 真言 四句 四句 毘尼
非空海説 黒川春村 悉曇字母釈 ―― ―― ―― ―― ――
榊原芳野 梵字母 ―― ―― 「上人の詩」 「上人の詩」 ――
大矢透 梵字母 ―― ―― 涅槃経四句偈に限らす ―― ――
坂井衡平氏 梵字母 ―― ―― 善珠の五言絶句 ―― ――
志田延義氏 梵字母 ―― 秘密呪 「一般に偈を意味し」 「一般に偈を意味し」 Vinaya
空海説 山崎美成 色葉仮字 ―― ―― 涅槃経四句偈 ―― ――
伴信友 色葉仮字 「こゝにては人間といふ意なるべし」 色葉歌 涅槃経四句偈 ―― ――
黒川真頼 色葉仮字 声聞・縁覚・菩薩の三乗の義 涅槃経四句偈 涅槃経四句渇 ――
高野辰之博士 色葉仮字 ―― ―― 涅槃経四句偈 ―― ――
石井重誉氏 色葉仮字 声門・縁覚・菩薩の三乗の義 涅槃経四句偈 涅槃経四句偈 「教戒の詩」
長谷宝秀師 梵字母 「惣じて仏教のこと」 和歌 涅槃経四句偈 ―― ――
守山聖真師 色葉仮字 三乗の教 大師の「まことの言葉」 涅槃経四句偈 ―― ――

さて此の表だけでは、各論者の解釈を完全に知る事は出来ないから、さらに繰り返し説明すると左の如くである。

さて斯くの如くに、仲雄王の詩句に関しては、数種の解釈が存するが、何れが正しいであらうか。果して空海説の「確証」と成り得るであらうか。

一三

一体斯う云ふ詩句を解釈するためには、出来るだけ其の言葉の根本の義理に従ひ、忠実に、すなほに解釈するのが必要であり、いりほがな解釈は、時には無論必要でもあるが、概して避けなければならないものである。其の言葉の原義による解釈の不可能な場合とか、原義による解釈が不安定であると見られる場合にのみ、いりほがな解釈も必要であらう。

さて此の詩で字母と云つて居るのは何か。字母は日本の仮字の事だと説く論者は多くありて、石井氏の如きも「字母とは普通いろはを指して云ふのであり、梵字の時は必ず冠に梵字悉曇とか、単に悉曇とかの名称が付いて居る。故に単に字母とある時は、以呂波と見るのが当然であらう」と云つて居られるが是れが疑はしい。自分は字母と云ふ語の用例を、支那や日本の文献に於いて検する事もして居ないので明言は出来ないが、金剛頂経や文株問経に字母品の存するのを見ると、仮りに、字母の語をば支那人の創造した術語であると仮定するにしても、梵字字母又は支那語の三十六字母を意味するのが本義であり、日本の仮字を意味するのでも無く、まして色葉仮字を意味するものでは無い事だけは明らかである。密教大辞典にも「悉曇の摩多体文を総称す」と云つて居る。本邦で仮字を字母と云ひ出した時期も不明だが、仮字が或る程度に発達して後の明覚は悉曇要訣の中で仮字を字母と呼んで居る。しかし仮字(草仮字や片仮字)の発生の初期とも云へるか何うかも判らぬ程の弘法大師の時代に於いて、字母の語をば、明覚が使用して居るやうな意味で使つて居たとは考へられぬ事である。現在に於いては、字母を本邦の仮字の同義語として使ふ国語学者はかなりあるやうだが、其は幾分変つた言葉を使はうとする動機から、字母の義を少し変じて使用して居るまでの事にして、(しかも其れは正しいとは云へまいと思ふ)「字母」そのものは、どこまでも梵字又は支那語の字母である。しかして此の詩句では梵字母と見なければならぬ。(大師が字母を仮字の義で使用せられた事があるか何うかを検する必要はあるが、自分は精細には検して居ない、此の点所論の不徹底なる事は自認するが、仮りに大師が然う云ふ用法をして居られたとしても、此の詩句に於いては、本義のまゝで少しも支障は無いのである。しかして大師が字母の語を仮字の義に使用せられたと云ふ事は何人も指摘し得ぬところであり、真言宗方面の学匠も明言はして居ないのである)。

なほ石井氏は、母の事を古語でイロハと云つて居たから、従って字母は色葉仮字の事であると云はれるのであるが、斯う云ふ論理の不可能である事は云ふまでも無い。(河海抄梅が枝巻註や、親房の古今序註の難波津の歌の条も此の説であるやうだ。それより古いものには、斯う云ふ説の見えて居るのを知らない。徳川期のものには、此の説を認めるものが普通である)。

次ぎに三乗は、元来は声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三種の教法の義であるから、其の通りに解しても可いし、長谷師の如くに「惣じて仏教のこと」と云つても可からう。

故に字母㆓弘三乗㆒とは、梵字字母により、三乗の教法を弘通せしめたと云ふ事と或る。然らば其の事は何を意味したかと云へば、榊原芳野の解釈の如くに、字門道の事と見なければならぬ。

一体密教では東密にせよ台密にせよ、字相字義を説くのであるが、是れは、字母の各字に深遠神秘な宗教的意義がありとするものにして、空海伝教ら入唐八家の説其の他を集成した台密の安然の悉曇蔵は瑜伽金剛頂経釈字母品、文殊問経字母品、大方広仏華厳経入法界品、大方等大集経海慧菩薩品、大毗慮遮那成仏神変加持経の百字成就持誦品や、字輪品等を挙げて居り、空海にも梵字悉曇字母併釈義の著があり、(其の字母釈を嵯峨天皇に献上する時、大師は「悉曇之妙章、梵書之字母、体 リ㆓先 ヨリ㆒理含㆓種智㆒、字絡㆓生終㆒、用断㆓群迷㆒、所以三世覚満、尊而為㆑師、十方薩埵重逾㆓身命㆒、満界之宝半偈難㆑報、累劫之障、一念易㆑断、文字之義用大哉、遠哉……伏願陛下、一披㆓梵字㆒梵天之護、森羅、……」と申し上げて居る〔性霊集四、献㆓梵字并雑文㆒表〕)悉曇即ち梵字学(梵語学では無い)と云へば、梵字の字形や発音、其の綴字法、及び此の字義字相門の事であり、字義字相門が悉曇学習の最後の最高目的でもあつたと云つて可いのである。だから天安三年三月十九日に大僧都真言(空海の肉弟にして弟子)が奉つた表にも「悉曇梵字者、凡聖之教父、人天之智母也、所以学㆓字相㆒者、広生㆓世間之庶智㆒観㆒字義㆒者、深証㆓出世之妙智㆒」とあるのである。とにかく密教では梵字を尊んだが、其れは梵字が天竺の文字であり、三蔵は皆其の梵字で書かれて居たからと云ふだけでは無く、主として字義字相門の立場からであつたのであり、字義字相を説く事は密教の教理を弘める事であるからであつたのだ。(因みに云ふが、空海は梵学に通じて居たかに云はれ、梵学史上では空海の地位は非常に重要なものと成つて居るが、其の梵学を相承した筈の東密の学匠にしても、梵学と云へば、切継・連声・字義字相以外は、文法関係の事はお話に成らぬものであり、梵文を読みて理解すると云ふ事は全く出来なかつた事を思へば、泉芳璟氏が、空海の梵学に関し「悉曇の伝授は梵字の書法のみ、これ梵語と云ふべからず。要するに彼が梵文をよく解し得たりとは考へられない」「梵学津梁を論ず」(大谷学報九巻の二、昭和三年五月号)〕と云つて居られるのを認めざるを得ない。空海にして見れば梵字梵語の智識は、陀羅尼が読誦できる程度であり、字義字相の方を教理的に重要視して居られたもので無いかと考へられる)。

とにかく、密教では字義字相門が教理上重要であつたのだ。して見れば、字母弘㆓三乗㆒を以て、文字通りに梵字の字母で以て、三乗の教義、換言すれば密教の教法を弘通せしめたと解するに何の支障があらう。此の解称以外のものこそは、先代主の見にとらはれた僻説でなければならぬ。

ところが字母を色葉仮字の事だとする石井氏は、若し字母を梵字とすると「むつかしい梵字」「大衆に弘めた事になり、不都合な事になる」と反対して居られ、守山聖真師も亦全く同じやうな事を云つて居られるが、字義字相を説くにしても、何も空海が梵字其のものを、斯う云ふ形であるとか云つて明示し乍ら説教したとまでは云はなくとも可い。支那では、梵字は普通は漢字で音訳せられ、又、陀羅尼にしても、普通は音訳せられて居たのであるから、説教の時に、丁度今の学校教師が黒板に書いて示すが如くに、わざ〳〵梵字を書いてまで説いたと見るには及ばぬ事である。しかし、時には梵字を書き示す事があつたと解しても何等支障は無い(此の場合に、その梵字を習得せしめるやうに努力したと解するからこそ石井氏の如き誤解も生じるのである。教を弘めるのが眼目であり、文字の事は問題では無い)。

なほ石井氏は「大衆に弘めた」と云はれ、守山師も亦同じ趣きの言を述べらて居られるが、大衆と云ふと、今日の用例では、やゝ語弊があらう。空海の真言宗は、鎮護国家を大理想とする立場から、宮廷仏教、貴族仏教の色彩の濃厚なものだつたから、貴族階級には、異国趣味的でしかも殊勝な梵字を示す事も歓迎せられたかも知れない。支那かぶれして居た貴族連中は、新帰朝者で、しかも詩文の達人たる大師が珍しい梵字により教を説くを物珍しく聴聞しただらうし、大師も亦、多少は得意になりて説法せられた事であらう(此の間の消息は、外国関係の学術を専攻する徒が、徒らに無意味に外国語を弄して得意に成つて居る現状と一脈通ずるものがあらうと思ふ)。

因みに、石井氏は、空海の悉曇字母釈を引き「字母即ち摩多」「むつかしい梵字の摩多其のものを大衆に弘めた事になり」などゝ云つて居られるが、梵字の字母と云へば、何も十二摩多に限つた事では無く、三十五の体文も無論字母である。石井氏は字母を何と心得て居られるのか、解しかねる次第である。

要するに字母弘㆓三乗㆒は、梵字母に関した事であり、仮字とは没交渉である。

一四

次ぎに真言演㆓四句㆒の句であるが、是れは、

の三様の解釈(訓み方)が可能である。(演は演説即ちノベトク義である。演説の語は性霊集にもまゝ見える)しかして其の真言は漫怛羅Mantraḥの訳語にして諸仏菩薩の本誓を示す真実の語言の義であり、陀羅尼と同義語に使はれ、真言宗では、其の宗名と成つて居る程に重要神秘神聖なものである。ところで空海論者は此の真言をば、和歌又は歌謡の義に解し、色葉歌の事だとし(契沖〔和字正濫抄一の五ウ〕も色葉歌を陀羅尼として居る)「真言即ち色葉歌が、四句即ち諸行無常偈を演じた」として甲又は乙の解釈を採用するのであるが、「真言」は語史的思想史的に観察すれば、然う云ふ事が云へるか何うか。歌を仏教に結びつける思想は、伝説によれば源信の頃よりあり、大斎院の発心和歌集の如きもあり、其の後、此の思想は珍しく無く成り、歌と陀羅尼とを結ぶやうにも成るが、其は狂言綺語も賛仏の因と成り得ると云ふ思想の継承であり、最初から、真言は歌と同じだとする説があつたと云ふ証拠は無い。(所謂安世家記は問題にならぬ)江戸時代の人々や、現在のわれ〳〵は、和国の歌は陀羅尼であるとする思想(沙石集巻五の第十二条、耕雲口伝など)の存在を知つて居り、又其れに浸潤して居るから、先入主の見に支配せられ真言演四句の真言をも、歌の事だと平気で定めて何の疑ひも抱かないで居られる人々も出来たのだが、平安朝時代には、歌と仏教との関係についての思想もまだ、陀羅尼は歌だとまでは進展しては居なかつたのだから(坂口玄章氏の「狂言綺語の文学観」〔国語と国文学昭和六年五月号〕は此の種の思想の進展を考察したものだが、歌を真言、陀羅尼とする思想としてはやはり沙石集以上のものを示して居ない)まして平安朝初期の大師の頃に、しかも、漢詩万能国風暗黒の時代に於いて然う云ふ思想があつたとは思はれない。(白楽天の狂言綺語云々讃仏果云々の文句は、此の思想を述べるものにより重視せられるものだが、開成五年十一月即ち空海帰朝後三十四年、又示寂後五年にして白楽天が、「願以㆓今生世俗文字之業、狂言綺語之誤㆒、翻為㆓当来世々讃仏果之因、転法輪之縁㆒」と云つたのは、「である」と断定したのでは無く、十悪の一として戒める狂言綺語の業を、翻して当来世々の讃仏乗の因縁と「したい」と希求し、又は「したまへ」と願つたのである事を忘れてはならぬ)とにかく、語史的に思想史的に「真言」を歌の事であると見難いと考へる。

しかも「真言」と云ふ言葉の本義を検するに、東寺で作つた密教大辞典によると、

真言。Mantraḥ梵には漫怛㦬と云ふ……真言宗には特に漫怛㦬を尊重し、真言とは法身如来説法の言語なり。如来の言語は真実にして理に契ひ虚妄なきが故に真言と云ふと説き……真言に種々の異名あり、密語・密言・陀羅尼・明・神咒・咒・密号等これなり。如来の言語は一字一文に能く無量の教法義理を惣摂任持するが故に陀羅尼と云ふ。陀羅尼Dhāraṇiは惣持と訳す。普通は仏頂尊勝陀羅尼の如く字句多きものを陀羅尼と名け、字句の簡単なるものを真言と名くれども、本質的には区別する理由なし。次に真言は如来智慧の光明輪中に現じたるものにして、自体清浄円明なれば、能く之を念誦する時、無明業障を悉く消滅して、身心共に清浄円明となることを得る故にこれを明Vidyāと名く。又真言を念誦する者広大の神験を顕はすこと彼の世間咒禁法の神駿の一分相似するが故に神咒又は咒と名く。次に密号・密語・密言等は法身如来内証智の言説は自拳属の諸尊の外衆生の測り知る所に非ざるが故にしか名く。……独り大日如来の言説のみならず、広く諸尊の内証本誓を説法せる言説をも真言と云ふ。故に能説の尊につきて真言の種類を分類せば五種となる、一に如来説、二に菩薩金剛説、三に二乗説、四に諸天説、五に地居天説これなり。地居天とは龍鳥修羅等の類を云ふ。又五種の中、前三種を通じて聖者の真言と名け、第四を諸天衆真言と名け、第五を地居天者真言と名く。

と見える。斯う云ふ神聖な「真言」である。いかに甚深微妙の法門を歌うたらしく見えるとは云へ、色葉歌を真言と呼び、又いかに即身成仏の義を立てゝ、自ら清涼殿上にて毘盧遮那法身の相を現じた程の大師を尊ぶからとは云へ、其の大師の言を真言と呼ぶとは考へられない。仲雄王が、そこまで「真言」の語を寛大に使用して居るとはとても考へられない。(「真言」の語は性霊集の中でも、屡々使はれて居るが、何れも本義により使はれて居るのである)色葉歌が大師の頃に在り、真に大師が作られたものであつたと仮定しても、其れを「真言」と呼ぶ事は、見方によりては一種の冒涜であつたのでは無からうか。

真言宗の事に関する門外漢としては、右の如くに考へるのであるが、しかし又考へ方によりては、反対の事も云へるので無いかとも思はれる。と云ふのは沙石集「一行禅 ノ大日 ノ ニモ ノ ハ ナ陀羅 ナリト云」(京大の長享三年写本により引用す、以下同じ)とあり、斯かる広義の解釈を更らに推し拡げると「日 ノ モヨノツ ノ ハナレドモ和 ニ テ ヒヲノブレバ ズ感有、マシテ仏 ノ ヲ ンハ疑ナク陀羅尼ナルベシ」と云ふ考へは当然に生れるものであり、又、

 ノ モ ニ ナ響アリ、六塵 ク文字 トノ給ヘリ、五 ヲ タル音ナシ、阿 ヲハナレタル詞ナシ、阿字 チ ノ根本也、サレバ経ニモ舌相言語皆是真 ト云也

などゝあるから、詩人たる大師が詩歌は真言である、陀羅尼であると考へられるやうに或る可能性はあるからである。だがしかし、「和歌は陀羅尼であると大師が明言せられた」事を認められる長谷僧正にしても、単に安世家記と云ふ信用できない書物を唯一の根拠として居られるのであり。大師の著述に現はれて居る大師の文芸観と云ふやうなものから立言せられたのでは無いのだから、門外漢としては、真言宗系の学匠よりの積極論が出ない以上は、「和歌は陀羅尼である真言である」と大師が認めて居られたと云ふ事は承認できないのである。(自分も性霊集や文鏡秘府論は、此の問題の考察の必要上、電覧的に目は通したけども、斯う云ふ文芸観は見つける事が出来なかつたのである)とにかく、真言宗の事に門外漢である自分が常識から判断すれば、以上の如くに考へる他は無い。仮りに数歩を譲り、大師当時、本義を離れた用法が存したと仮定するにしても、此の詩句の用語までが其の通りの用法のものであるとは断言は出来ない筈である。(斯うなつて来ると、此の問題は或ひは水掛論と成るのかも知れない)。

さらに観察点を改めて、此の詩句を考察するに、此の仲雄王の詩は無論大師を讃歎したものだから、大師が真言の教法を広められた事を必ず述べて居なければならないと思はれるのだが、百二十言の中、真言宗を伝へた大師に関して具体的な事を述べて居るらしいと認められるものとしては、僅かに字母弘㆓三乗㆒、真言演㆓四句㆒、受持灌頂法の三句があるのみである。しかして今仮りに、字母や真言を、色葉仮字や色葉歌の事であるとすると、此の詩が、真言を伝へた空海に関して述べて居る事は、灌頂と色葉歌との二つと成る。しかして灌頂は東密独特のものであり、伝教大師も弘法より灌頂を受けられた位であり、灌頂は真言宗の最極肝心であるから、こゝに「灌頂法」の語があるのは当然であるが、色葉歌の思想は何も密教にのみ関係したものでは無い。そこで此の詩は、密宗を伝へた大師の事を述べるに当り、色葉歌と灌頂の事のみを述べるに止めて真言宗を伝へたと云ふ肝心の事を積極的に明言せなかつた事となるが、此の点甚だいぶかしい。仲雄王が然う云ふ拙劣な詩を作つたのだと云つてしまへば其れまでだが、然う云ふ解釈は、嵯峨天皇の詔を奉じて文華秀麗集を撰進した程の仲雄王の詩に対する限りは乱暴である。ところが、字母を本義通り梵字字母と見、真言を本義の如く真言の教学の義であると見るならば、字母弘㆓三乗㆒、真言演㆓四句㆒の二句こそは、大師が真言宗を弘められた事をば、堂々と明示して居るのである。しかして、弘法大師の教法にとりて大切な此の字母や真言を、曲解してまでも色葉仮字、色葉歌の事だと見るのが正しいか、本義通りに解するのが正しいかは、常識に訴へれば判断は容易である筈だ。仲雄王は、此の二句で、空海が真言宗を伝へ弘めた事を明示し、最後の句で密宗の肝心たる灌頂に及んで詩を結んだものである事は明白だ。空海の辞職奏状に対して御帰依厚き嵯峨天皇は、勅答の書を下されて「密門稍 ケ真言スナハチアラハルと仰せられたが、此の勅語中の真言の語も、仲雄王の詩の真言の語も、同義と見るに何の支障があらう。同義と見てこそ詩の意味も通ずるのである。仲雄王の詩が色葉歌の事を述べて居ると云ふやうな解釈は、此の詩からは全く出て来ない。

要するに、此の「真言」はどこまでも本義通りの真言であるのだ。決して、色葉歌の事では無いかと云ふ疑ひを起させるやうなものでは無いのだ。同時に又「真言」は、空海の述べた言句と云ふやうなもので無い事も認めねばならぬ。従つて真言演㆓四句㆒は、

と云ふ解釈は、先づ第一に成立せないものである。

一五

次ぎに四句は、四句偈の事である。偈頌には長短があるが短いのは、大体四句の形式である。従うて、四句は四句の偈と見るが至当である。しかして此の事は、空海論者も、其の反対論者も一致して居る。但し空海論者は此四句偈を限定し特定の諸行無常偈の事だと見る点で大差がある。しかし乍ら此の四句を夥しくある四句偈の中の諸行無常偈の事だと見なければならぬ理由はどこにも無いのであり、四句偈は単に四句偈の事である。たゞ「真言」を色葉歌の事だとし、色葉歌は空海の作だと認める場合には諸行無常偈であるかも知れないと云ふ疑ひが出るに過ぎないが、其れらの空海論者は、他に確証が全く無いのに、空海説を唱へ、しかして、仲雄王の詩を以て確証とするのであるから、論法に於いて明らかに過誤があり、其の論法は成立せぬのである。

斯く吟味して来ると、残るのは、

と云ふものゝみと成るが、是れだと云ふと、「真言をば、空海が、四句偈で演じた」と云ふ事即ち、「真言・陀羅尼・又は真言宗の教理をば、お得意の詩文の才を発揮せしめて四句偈の形に作りて示し、詩文万能の時代に於いて、教化の方便に供した」と云ふ事であり解釈は可能であり、解釈に無理な点は無い。たゞ空海の作つたものを「四句」と云ひ得るか何うかゞ、偈と云へば本来経典中のものを云ふのであるがために問題である。(但しこれも、空海の言をば「真言」と云ひ得ると見る論者にかゝれば、問題には成らないのだが、空海の歌や詩を真言と云ふ筈が無いとする立場の自分は一往は問題とせなければならぬ。なほ禅宗では、経典中のものならざるものをも偈と云ふのは常であるが、今の場合には、引かない方が正しいと思ふ)。そこで仲雄王の詩はしばらく措いて、胡伯崇の歌に「説㆓四句㆒演㆓毘尼㆒凡聴者尽帰依」とあるものを考察するに、是れは前後の文より察すれば、空海の詩を激賞して、空海が在唐中に、教戒の詩を作り、説法した事を云ふのである事は明らかである。しかして此の歌も、

の三様の解釈(訓み方)が可能である。ところで空海論者は此の四句をも諸行無常偈の事であるとし、諸行無常偈を説いて、教戒の詩に作つたと解するものゝ如くであるが、四句を諸行無常偈と限定する理由は、色葉歌を諸行無常偈の翻案と見、仲雄王の詩が諸行無常偈の事を云つて居ると解すればこそであり、胡の歌のみからは、然う云ふ解釈は絶対に生れては来ない。教戒の詩を作るにしても、何も諸行無常偈の翻案敷演に限られた事で無く、他に四句偈は多い事である。なほ云へば、すでに漢語に翻訳せられて居る偈を敷衍のためとは云へ更らに、判りやすく、巧妙に作りかへる必要も無いのではあるまいか。要するに、甲乙の解釈は可能で無い。(尤も乙の方は「四句を説く」を、丙のやうに四句を作るの義と見るならば丙と同義と成る)斯く解して来ると、

と云ふ解が残るのみだが、是れならば「空海がお得意の詩才を発揮し、四句の形に作りて、毘尼即ち戒律を演べた」と云ふ事と成り、四句は大師の作つたもので四句偈の形式のものを意味する事と成る他は無い。しかも然う解釈すると仲雄王の真言演㆓四句㆒の丙の解釈と全く同じ趣きと成る。そして仲雄王の詩にしても、胡の歌にしても、然う解釈するのが最も妥当なものであり、他の解釈は凡て妥当ならずと信ぜられるものである。

斯く考察し来ると、真言演㆓四句㆒も説㆓四句㆒演㆓毘尼㆒も、何れも結局は、諸行無常偈の事でも無ければ、色葉歌の事でも無いと云ふ他は無くなる。

要するに、空海は、在唐中は詩才により四句偈の形成で教戒の詩を作りて唐人を感激せしめ、帰朝後も亦、漢詩文万能の時流に乗じて、其の詩才を発揮して、真言の教理を四句偈の詩形に作り、以て教化の一手段とせられたと云ふのであらう。性霊集の序で真済が大師の詩賦の才を述べて「風雅勤戒、煥乎可㆑観」と云つて居るものと同じ事で無ければならぬ。色葉歌や諸行無常偈の事では無いのだ。

(此の詩に関しては、鈴木虎雄先生に、専ら漢詩の構造より見た解釈につき高教を仰いだところ、私の説を認めて頂く事出来た。なほ先生は、「真言演四句」の句は、よしや四句演㆓四言㆒〔四句が、即ち四句の形が真言を演じた〕と云ふ可きところであるにしても、詩形であるから、字母弘三乗の句との対句的関係や韻の関係から、真言演四句と逆置しても不思議は無い。其の四句は、詩であつたか偈であつたか何うかは判らぬが、とにかく陽明の四言教と云つたやうな四句形成のもので、真言教の教理の真髄を演べた重要なものをば〔数は一つであつても沢山であつても可い〕大師が作られ、其れが〔今日まで伝存して居るか何うかは問題では無い〕当時は有名であつたから、胡も仲雄王も特に其の四句の事を詠じたのであり、二人の四句は同一のものである。詩は五絶でも七絶でも長詩でも韻で数へるのが普通で、句数では数へないから、四句は詩では無かつたらう」と云ふ趣きの高教を賜つたのである)。

上述の如くにして、自分は真言演四句に関して解釈を下した。これはいりほがな解釈を排斥して、言葉に忠実に有りのまゝにすなほに解釈したつもりである。だからいりほがな説よりも有力であると信じる。否、自分の主観としては、右の解釈より他に解釈の途が無いと信じて居るのだ。

しかも亦、既述の通りに、色葉歌をば諸行無常偈の翻案であるとする説は、覚鑁以来の古説ではあるが、翻案であるとの証拠は無く、反対に止観文曲との類似が指摘せられて居るのである。四句を諸行無常偈の事だと曲解する場合のみ、真言演㆓四句㆒を色葉歌の事だらうと疑ふ余地もあるのだが、根本に於いて諸行無常偈と色葉歌とが関係無き以上は、演㆓四句㆒が色葉歌の事で無くなるのは当然である。

なほ色葉歌が諸行無常偈の翻案で無いと云ふ論以外にも、色葉歌は空海作ならずとする論に有力な論拠のある事は既述の通りである。仲雄王の詩に関する空海論者の解釈がいよ〳〵成立せなくなるのは明らかである。

一六

既でに、空海説と非空海説とを批判し終つた。こゝに於いて、今までに於いても、少し言及した事のある行遍の参語集の婆羅門僧正説について述べなければならぬ。参語集五巻又は三巻(国文東方仏教叢書第四巻随筆部所収。三巻本は未見だが、該叢書の解説によると、分巻の相違のみにて、内容は相違無きものゝ如くである)は、参河守を父とする参河僧正行遍(安徳天皇養和元年生)が、主として密教関係の雑事を記したものだから参語集の名がある。恐らく元来は無名抄であつたのを、後人が斯う云ふ呼称を使用し出したものであらう。行遍は仁和寺第七世の道法法親王の行法の弟子であるが、宝治二年に東寺の長者と成り、文永元年十二月に世寿八十四歳を以て示寂した真言宗の高僧である。さて此の人の参語集第三巻に色葉歌に関する説が見える。東方仏教叢書の翻刻本は平仮字文の色彩の濃いものと成つて居るが、是れは、行遍執筆当時の姿のまゝであるとは到底信ぜられないが上に、本文テキストとしては、少しでも異るものを挙げるが可いと考へるので、京都府立岡崎図書館所蔵の五冊本により引用する。此の本は「広橋蔵書」と云ふ陽刻朱印のある美濃版型のものにて旧堂上家の広橋家旧蔵本である。翻刻本と同じく享保三年十一月の曇寂の奥書があるものだが(曇寂以後の奥書は無い、翻刻本は文政十一年五月の隆賢の奥書もある)宣命書きの体裁などは、古色を存して居る。今引くに当り句読点や数字点雁点を加へたが、其の他は全く写本のまゝである。

色葉因縁事

 ハ婆羅門僧正制作也。一 ノ言語卌 ニハ不㆑過。是対文摩多相合タル数也。古ハアメ土ナソト云テ、色 ノ ニ聚タル物有㆑之。自等以 ハ ノ ヲ用也。但十二マタ、卅 ノ対文合シテハ卌 ノ員数ナレトモ、 ノ ヲ除間四十七也。天竺一切言詞、マタタイ ニハ不㆑過、仍摸㆑ ヲ四十七 ノ ニ被㆑作也。是涅槃 ノ ノ ヲツクラル。諸行無常、是生滅去、生滅々已、寂滅為楽、是也(希云、次ぎに色葉歌の略解あり、今は略す)婆羅門僧正ハ天 ノ梵僧ナレハ、梵 ヲコソ可㆑ ニ漢語猶 テ難㆑誦、和語不審アルヘキナレトモ、普賢菩薩化 ニテ為㆓済度則生㆒自㆓天竺㆒来㆓我朝㆒給ヘリ。仍以㆓和 ノ風俗㆒述㆓涅槃文㆒ フ也(此の後に、僧正と行基との例の贈答歌を載せて居る、今略す)

(註)「対文」は本のまゝ、刊本は体文に作る。「自等以来」、刊本「自爾以来」に作る。「重重字」の下の重字には、刊本や史料編纂所本は体文の尾より二番目の梵字が梵字で書いてある。「済度則生」刊本は「済度利生」に作る。何れも刊本の方が正しい。

さて此の婆羅門僧正説なるものは、色葉歌の作者に関する諸説の中では、最も珍奇な、突飛な、非常識な愚劣な妄説であり、斯う云ふものを記載して憚らぬ著者の心持について、いかに時代が時代であるとは云へ、驚歎する他は無いのだが、しかし参語集が斯う云ふ愚説を記して置いてくれた事は結果に於いては七百年近くも後のわれわれにとりて非常に有益な事であつたのだ。一体此の行遍の説は

の何れかで無ければならないが、共の(イ)の真言宗に於ける師資相承と云ふ事も亦理論上、(甲)古くより、即ち空海の時代より伝へて居た相承説であるか(乙)真言宗に於いて何時の間にやら、無根拠に捏造せられ其れが相承せられたのであるか(丙)真言宗以外の伝説などが何時の間にやら真言宗の相承と化したのであるか、の何れかである可きだが、何れにしても、行遍が、弘法大師の作であると云ふ事は全く云はないで婆羅門僧正説を述べて居る以上は、行遍は、宗祖の作とする説は夢にも知らなかつたと見なければならない。若し、大師説が真言宗で相承せられて居たとすれば、そは真言宗内に於ける定説であるから、相承を重んずる宗旨の事だから行遍は無論、何の疑ひも無く、其れを記したであらう。相承を否定してまでも婆羅門僧正説を出す筈が無い。若し又、真言宗に相承説が無くて、大師説と婆羅門僧正説との二伝が、云ひ伝へとして存して居たとすれば、行遍は、正直に両説を挙げるか、人情の常として、大師説を記し、僧正説を無視してしまふかの何れかであらう。其の逆があらうとは思はれない。然るに行遍は、僧正説は記し乍ら、大師説には一言も触れて居ないのである。是れで見ると、行遍は、大師説の存在を全く知らず、僧正説の存在のみを知つて居たと見る他は無い。

しかして行遍は平凡無学な羊僧では無かつた。東寺の長者に任ぜられたのだから、東密に於ける代表的の高僧であり、学匠でもあつた筈である。ところが此の行遍にして、大師説は全く知らず、僧正説のみを伝へて居るのである。是れを見ると、吾人は、当時真言宗に於いては大師説の相承が全く存せず、仮りに相承説が存して居たとすれば、案外にも婆羅門僧正説と云ふやうな妄説が定説として相承せられて居た事を認める他は無い。源信や匡房が大師説を述べて居るのだから、当時然う云ふ説も一部に行はれて居た事は認められるが、肝心の真言宗の側では、何の相承も無く、従うて大師説を唱へようとするでも無く、何時の間に生れたかは知らぬが、婆羅門僧正説と云ふ如き途法も無い説を相承して居たと認める他は無いのだ。尤も此の場合に於いて、一口に真言宗と云うても法流は多様であるから、行遍の当時に於いては行遍の法流にては、僧正説を相承して居ても、其は異端説であり、他の一般の法流では大師説を相承して居たゞらうと云ふやうな勝手な解釈を試みてまでも、大師説を生かさうとする論者も出るかは知らぬが、真言宗の相承は理論上溯れば皆大師に帰するのであるから、真に色葉歌が大師の作であつたとすれば、いかに真言秘密であるとは云へ、相承に異説が生ずるに至ると云ふやうな状態に陥るとは到底信ぜられない事である。とにも、かくにも行遍の言によりて、真言宗に於いては、当時、大師説が存せなかつた事を認めなければならぬ。しかして此の事は、色葉歌を大師の作とする説の否定と成るのである。

結局参語集の言は、大師説の否定の論拠として有力なものと成るのである。是れ自らが参語集の婆羅門僧正説を重視する所以である。

一七

上来縷述したところにより、空海説は否定し得たと信じて居る。と同時に大矢博士が「天禄前後より永観までの間」に於いて作られたものとせられるのも、強説的にあらがへば、も少し時代を溯らせられぬ訳でも無い事を認める事も出来ると思ふ。

しかして、斯う云ふ強説を支持し得るのでは無いかと思はれる材料が存するから、其れを述べて批判を乞はねばならぬ。其の材料と云ふのはやはり参語集の中に見えるのである。

醍醐天皇の延喜元年正月、菅公は左遷せられた。藤原時平の讒言によつたのであるが、其の讒言なるものは、菅公が廃立を行ひ其の女婿たる異母皇弟斉世親王を御座に即け奉らんとして居ると云ふ意味のものであつたのである。そこで菅公の左遷と同時に、斉世親王は僅か十六歳の御年で、(天皇宝算は十七歳)御父宇多法皇の座す仁和寺に入りて落飾せられ、真言宗の一沙門とお成りに成り、延長五年九月十日に四十二歳を以て示寂せられたのである。御法名高寂、世に法三宮と申した。此の法三宮には御自撰の三家撰集目録に見ゆるが如くに、五十余部の御著述があつたのだが、無論皆宗門関係のものである。(孔雀経音義三巻、宿曜経音義一巻の如き音義の御述作もあつた。是れらは音義物史上で云へば、古いものだから注意すべきである。孔雀経音義の方は古鈔本が国宝として醍醐寺に現存して居ると、国宝目録の類に見え自分も受売して居たが、其れは法三宮のものでは無く、天暦第十丙辰報沙月に観静が述作した三巻本であつた。)

真言宗を奉ぜられたのだから、梵語関係の御著述が十数部もあるが、中に梵漢語説集百巻、梵漢相対鈔五十巻(此の相対鈔は三家撰集目録には所見が無いが、法三宮の著でないとも云へまい。諸宗章疏目録にも見える。巻数は二十巻とあるが参語集によると五十巻である)と云ふ如き大部の書がある。何れも佚書であるために性質は判らぬが書名より察すると、梵漢対訳の語彙集の如きもので無かつたかと想像せられる。そして、書名から云へば、殊に後者に於いて其の疑ひが濃厚なのである。しかして参語集によるとまさしく辞書であつた。

ところで既でに語彙集であり、しかも五十巻と云ふ大部のものである以上は、其の語彙の列挙が無秩序であり、無分類であつては、使用上甚だ不便であるは云ふまでも無いが上に、既でに、意義分類体梵漢対訳辞書は梁の真諦のものかと想像せられる翻梵語十巻、本朝のものでは、其の翻梵語に倣うたと覚しい飛鳥寺信行の梵語集三巻の如きがあつたのだから、必ずや法三宮も何らかの標準で分類せられた筈である。しかして例の行遍の参語集第五巻を見ると、刊本には、

梵漢相対抄事。法三宮の御作也、五十巻の書也、 テ㆓色一 ヲ ル㆓部類㆒、常喜院 テ ニ二帖の書を ル㆑之

とあるのである。「部類」の語が使用してある以上、梵漢相対鈔が、梵漢対訳辞書であつた事は明らかだ。(こゝに常喜院とあるは、色葉分類梵漢対訳辞書多羅要鈔三巻を書いた常喜院心覚〔治承四年寂六十四歳〕の事である。心覚の作つた二帖本と云ふのは、伝存せないが、色葉分けの梵漢辞書であつたらしい。此の事は別に述べたものがある)然らば其の部類は如何なるものであつたか。参語集は「以㆓色一等㆒被㆓部類㆒」と云つて居るのである。故に「色」「一」の二語は分類の標準を示すもので無ければならぬ。ところで既存の梵漢対訳辞書には意義分類体のものがあるので、是れも意義分類に関係があるかと一往は考へられもするが、「色」「一」は意義が異るから、梵語の漢訳の意義により分類したものであると見る訳に行かぬ。

ところが辞書には、語頭音による分類体のものもあるから、「色」「一」は梵語の語頭音を示すもので無いかとも考へられるが、漢字音訳に於いて「一」を語頭音とする梵語は無いでも無いやうだが(枳橘易土集による)「色」字を語頭音とする梵語は無い。仮りに有るにしても「―」「―」では音が続かぬから不都合だ。なほ梵語の語頭音で分類せうとする程の人ならば、先づ摩多体文の順に従うであらうから、何れにしても「色」「一」は梵語の語頭音とは関係が無い。では漢語としての語頭音かと見るに、「シキ」「イチ」では同一の音も続かぬし、第一、漢字の語頭音による分類と云ふものは、現在でも、色葉歌順、五十音順、abc順の如きがあるだけであり、漢字独特の語頭、音分類――韻分類ならばある――は無いのだから、まして法三宮の時代に於いて、漢字音の語頭音分類が可能であつたとは到底考へられない。もし語頭音による分類が出来たとすれば、国語音を整理した色葉歌の如きものがあり、それにより配列したと見る他は無い。

ところが、「色」「一」を、訓読音読すればイロ・イチであり、イを語頭音とする点で一致する。して見るとこれは、イを語頭音とする物から二語だけを例に挙げたのである事が判る。即ち摩多体文の順などとは異る何か特殊な音分類(例へば国語音による)であつたものと見なければならぬ。ところで、法三宮の当時は国語音による分類としては天地の詞順があり得た訳であり、又或ひは大為爾歌順もあり得たかも知れぬが、若し然う云ふ順序を採用して居るならばア又はタを挙ぐべく、イを以て挙例とする事があるとは考へられない。ところが、時代と云ふものを考へずして云ふならば、云はずとも明らかな如くに、色葉歌順と云ふものがあり、しかもイは色葉分類では最初に位するものであり、ことにイロハは、色葉歌では直ぐ思ひ浮べ得る音の連続である。して見ると、色葉歌が法三宮の時代にあつたか無かつたかは別問題として、此の「色一」のみを観察する場合には、何うしても色葉分類の最初の二語を挙げたと見る外は無いのである。云ひかへれば、梵漢相対鈔は、梵語の漢字義訳の語を、適宜に或ひは訓読し、或ひは音読し、其の語頭音により色葉順に配列したものと断ずる他は無いのである。

とにかく「以㆓色一等㆒被㆓分類㆒」とある以上、何うしても色葉分類であつたと見るべきだが、しかし色葉分類を示すのにイロ・イチで示すと云ふ事は極めて拙劣である(五十音分類なる事を示すのに、アイウエオ順と云へば通じるが、若しアサアキを以て部類すると云へば、通じ難い拙劣な云ひ方であるのと同様である)行遍がさう云ふ拙い云ひ方をしたとは到底考へられない。しかも色葉歌は、其れが呼ばれる場合には、色葉字類抄や台記以来必ずイロハと云はれて居り、行遍自身も参語集の中で「色葉」と云つて居るのだから、色葉順である事を示す場合にはイロ・イチなどゝ云ふ筈は無く、必ずイロハと云つたに相異ない。

ところで参語集を検するに、東方仏教叢書本では右の如く「以㆓色一等㆒被㆓部類㆒」とあるのだが、京都府立図書館の広橋家旧蔵写本では、まさしく、

法三 ノ御作也、五十 ノ書也、以色葉被部類、常喜院就之二 ノ書造 ト云々

とあり「色葉」と明記してあるのである。国文東方仏教叢書所収本は和田英松博士御所蔵の三冊本を底本とし図書寮本を写した史料編纂所所蔵の五冊本、帝国図書館の参語集抜書一冊により「厳密に校訂」した本であり「諸本皆誤字脱字甚だ多く、随所に解し難き語句あり。深く意を用ひて補正を加へたり」と断つてある位だが、色一等のところは何とも断つてないから、二本及至三本は皆一致したものゝ如くである。だがしかし「一致したからと云つて其れが正しくあり、広橋家旧蔵本に色葉とあるのが後人のさかしらであると見る理由は無く、理論上、色葉とあるべきものであり、其れが伝写の際誤写せられたものと断ずべきである。そして葉字が一等の二字に誤られると云ふ事は、字形より見て有りさうな事である」と自分は確信して居たであるが、幸ひにも其の宮内省図書寮本を転写した史料編纂所の本(片仮名宣命書、美濃版五冊、尾に「以仁和寺院家本令写了安政三年七月実万」とある)を見る機会を得たので(昭和十年七月中旬)相対鈔の所を検して見ると、是れも亦まさしく色葉とあるのであつた。次いで上野図書館の抜書一冊本も検したが是れには、相対鈔に関する記事は省いたものであつたので、「色一等」とあるは、和田英松博士御所蔵の三冊本だけの事であるかと想像して居たところ、(立命館文学昭和十年八月号所載拙稿「梵語辞書史概説」二二頁参照)幸ひにも博士より御高教を仰ぐ事が出来た(八月八日附)。其れによると博士の御本は「色一等」の「一等は下に長く葉字の如く記し、上を白粉にて抹消し書き改めしもの」であり、博士も「他本に色葉とあるものに従ふ方が宜しかるべく」と云はれるのであつた。斯うして見れば参語集の此の記事が「以色葉被部類」であつた事は確かであらう。(因みに云ふ、史料編纂所本は広橋家旧蔵本と同文であるが、たゞ相対鈔の巻数が五百巻と成つて居り、それを「十歟」と旁記して居るだけの相異がある。)

斯くて、相対妙が色葉分類のものである事は、明らかと成つた。しかして、東方仏教叢書本の如くに「色一」とある場合には、梵語の漢字義訳によりて、色葉分類したものと見なければならないが、「色葉」とあつたのである以上は、漢字義訳による色葉分類と見るよりは、梵語の語頭音による色葉分類と見るが穏当であるのは云ふまでも無い。そして梵語を色葉分類した辞書ならば、平安朝末期にも存し五十音分類のものならば、徳川期に成つて生れて居るのである。斯う云ふ点から見ても、相対鈔の組織が、梵語の語頭音により色葉分類したものであつたと見るのが当然である。

とにかく、法三宮の梵漢相対鈔が色葉分類体の梵漢対訳辞書であつた事は断言してよい。(但し、法三宮は別の分類をして置かれたのだが、後人が、色葉順に改めたのでは無いかと云ふ疑ひも、疑ひとしては生ぜないでも無いが、要するに、単なる疑である。無要であると信じる。)ところで法三宮は延長五年九月に四十二歳で示寂せられたのだから、相対鈔が、其の四十二歳の時に計画を立てゝ其の五十巻の大著述の述作に従来せられたとしても、色葉歌の存在は延長五年まで溯るのであり、大矢博士が「天禄前後より永観までの間」と云はれた天禄前後よりは、少くとも四十年位の相異がある。しかして、相対鈔の著述を示寂の延長五年と見るは、不自然である。も少し溯りうるであらう。(御自撰の三家撰進目録が相対鈔の事を記さぬのは、相対鈔は目録の出来た後のものであるからであるかも知れないと云へる。相対鈔は御晩年の御著述らしい)

仮りに、延喜の末頃二十年頃まで溯り得るとすれば、其れだけ色葉歌存在の時期が溯るのである。しかも、色葉歌が何人かにより作られ、其れが法三宮の御目に留ると同時に、色葉順の配列をお考へつきに成つたと見なければならぬ証拠が無い以上は、色葉歌の製作せられた時期は、相対鈔の色葉分類が始まる年よりも何年か前の事であつた筈である。しかし其の「何年か前」が、何時まで溯り得るかは、全く不明である。仮りに十五年溯れば古今集奏上の延喜五年である。其れより七年溯れば、昌泰云々と新撰字鏡にある昌泰元年である。

そこまで溯り得ずとも、とにかく延長初年には色葉歌が存し、しかも、色葉分類の辞書までも生れたのである。此の事実は、色葉歌をば早く見ても天禄の前後の作であるとする従来の説に比べると、かなりの相異であり、又言葉を色葉順に配列したものとして現在指摘し得る最初のものは、二中歴所引掌中歴中の名字集(掌中歴は保延五年に九十一歳で死んだ三善為康の撰)であると云はれて居るのに比べると、大きな相異がある。

しかして色葉歌が延喜の中頃には存して居たらうなどゝ仮定し出して来ると、こゝに、

と云ふやうな問題が生じて来るが、是れはすでに強説的にかなり詳しく批判したやうに、何うとも解釈がつくのであつて、色葉歌の存在時期を延喜中頃まで溯らせても、又場合によりては、延喜初年又は其れよりも少し以前に溯らせても支障はないと信じる。即ち七五四句歌謡の事は、其の発生期を溯らしめたらば其れで可いのである。e yeの別は新撰字鏡にも誤用がある事で判る通り、区別が崩れかけて居たので、色葉歌作者は、許容案的な立場から、e yeを無視したと見れば可い。口遊に見えない事は、色葉歌が僧侶間のものであり、俗人間には知られて居なかつたのであると解釈すれば可い。(詳しい事は既述の通りである)

だから色葉歌は延喜頃に存して居たと見てもかまはないと考へられるのである。

だが、其れは全く梵漢相対鈔に関する参語集の言を信じるからである

若し、疑ひの目を以て参語集の記事に対するならば、

と云ふ事も疑ひ得るのである。そして其の疑ひが正しいのであるかも知れないが、今のところでは其れを確かめる事は不可能だ。であるから、唯一の参語集の記事のみを信ずるのは危険であるかも知れないが参語集が無下の人間の著述では無く、東寺長者ともある学匠の著述であるが為めに、参語集の記事を信じた上で色葉歌は法三宮の坐しました頃にもあつて、辞書の分類に採用せられる程であつたのだと云ても可いかと思ふ。

斯うして、参語集を信じる以上は、色葉歌製作の時期、七五四句歌謡発生の時期、色葉分類辞書発生の時期等の事は従来の説が動揺せなければならぬ。

こゝで自分は、

と云ふ事を、疑問として提出し、解決を――若し解決が可能であるならば――他日に期したいと思ふ。

以上縷述したことの眼目は字母弘三乗、真言演四句の解釈と、梵漢相対鈔の指摘とである。しかして相対鈔は、専ら参語集に拠つたのだが、相対鈔其物は佚書である事、法三宮御自撰の三家撰集目録に見えぬ事、諸宗章疏録中の真言録・諸師製作目録・釈教諸師製作目録・悉曇目録・悉曇具書目録等の如き後世の編纂物の中には相対鈔を遍明の撰として居るものがあり、其の遍明が法三宮の事であるとも断言できない事、などの諸点に弱点の存する事を否定できない。しかして参語集の記事に誤ありとせば、相対鈔を土台して色葉歌について推定した事は、無論全部たわいもなく崩れてしまふ。だから相対鈔の性質をつきとめるのが最も肝要となる。ところが斯う云ふ密宗の佚書の性質を、密宗の古書の断片的記事によつて、探るは、普通の国語学の徒には難しいことである。真言宗の方々の御高教をお願ひする次第である。(昭和十年五月廿九日稿、十二月廿九日補)

(附記) 寂昭の事は宋の皇朝類苑巻四十三「日本僧」の条にも出て居るが色葉歌の事は見えない。

初出 : 『国語国文』第六巻第六、七号、一九三六年六、七月
底本 : 久木幸男/小山田和夫編『論集 空海といろは歌 : 弘法大師の教育 下巻』(1984年、思文閣出版、pp.259-318.)
猪川まこと
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