世のうつりきぬるまゝに。人のよろづの言の葉も。やう〳〵に飛鳥の川のかはりきぬることは。久米のさら山さらにもいはず。詞は古ヘに同じき物から。つかふ心のあらずなれる。あるは詞も心も同じくて。つかひざまのかはれるなど。歌詞文詞。此集彼集。此物語かのものがたりと。呉竹のよゝにしたがひて。一ツ松一ツ詞も一トやうならず。さるまゝに。ちかのしほがま近き世になりては。いよいよしづたまきいやしき言の葉。ことやうなるつゞけざまなどうちまじりて。よみ出る歌にも。かき出る文にも。昔シ聞えぬことゞもなむ多かりける。そも〳〵言の葉の道は。うるはしくみやびやかなる古ヘをこそ。ならひまねぶべきわざなれ。今の世のやうに。心詞のさとびあやしきをもえらばずて。歌文のみやびを好むは。たとへば花鳥のなさけをしらで。くれゆく春をゝしむがごとし。吾師の君。としごろ此事を深く歎きて。さきには詞の玉の緒をよりとゝのへて。てにをはのみだれを明らめ。こたみ又。かの大石にはひまとへる礒のしたゞみ。たみたるを正し。山崎にうるてふまがりの。まがれるを直さむとて。音たて給ふ。槇の板やの此玉あられよ。いなのめのいざとき人は。空とぶ鳥のとくおどろきてむを。猶いぎたなくて。耳も心も。秋の田のおくての稻の。おそからむ人は。あふみの海のいかゞさき。いかゞはせむは。高蔭らがためには。かの詞の玉緒と。此玉あられと二つの書は。手習ふわらはの難波津淺香山と。父母のやうにその海山の高くあふぎ。深くたのむこゝろから。うひまなびのたど〳〵しさをも思ひはからで。筆のゆくまゝに。つたなき言ばを書くはへつ。
まなびのまさに音たてゝ おどろかさばやさめぬ枕を
有がたき御代のめぐみは、くらき夜の明ゆくやうにて、萬のまなびの道々も、やう〳〵にあかりきぬるころほひなるに、なほ心ぐるしきは、曉しらぬよの哥人のいぎたなさ也けり、そはいかなる故ぞや、哥をも文をも、古ヘのをばよくも見ずて、たゞちかき世の人の物せるにのみ、かゝづらひならへばぞかし、そも〳〵近きよの人のものせるとは、古ヘにあへりやたかへりや、よくかむがへ、よきあしきをよくわきまへてこそ、ならひとるべきわざなるに、さる心もなく、みだりにひたぶるにならひて、物するから、よからぬ詞、えもいはぬひがことゞもの、世にあまねくひろこりて、さだまれることのごとなれるは、いとかたはらいたきわざになむありける、そも今こそ猶物見しれる人まれなめれば、よきもあしきも、さてまぎれつべけれ、今より後、いよ〳〵道明りゆかむほどの世の人の、いとよく見しりなむは、いとはづかしきわざならずや、のりなが、近きよの此わろきくせを、世ノ人どものさもえさとらで、だゞよしとのみ思ひをるが、かたはらいたさに、それおどろかさまほしくて、常にみゝなれたることゞも、おもひ出るまゝに、これかれと書出て、いさゝかづゝさだめいへり、もらせることはなほいと多かるを、そばみななすらへてもさとりねかしとぞ、ちかき世のくせとは、廿一代集過て後のをいへり、さるは中ごろより新續古今集までの哥は、玉葉風雅の二つの集をのぞきては、大かたはおなじさまにて、ことなるわろきくせも見えざなるを、其後になりてなむ、いたくいにしへとはかはりて、聞なれぬことゞもの、おほく出まうできつれば也、されどひさかたの雲のうへ、くらゐ高き人々のは、何事もあなかしこ、殊なるゆゑあることなるべければ、いやしきわれらが、うかゞひしるべききはにあらず、今これにさためいふは、たゞおのがひとしなみなる、下ざまのことぞよ、
「月清み、「山高み、「冬寒み、「風をいたみ、「露をおもみ、「瀬を早み、などのたぐひのみは、本の意を委くいはゞ、初學の輩中々にまどひぬべし、たゞ近くいはゞ、「月が清さに、「山が高さに、「冬が寒さに、「風がいたさに、「露が重さに,「瀬が早さに、といふ意也、をもじは、あるもなきも意は同じ、近き世の人、此みもじのつかひざまをわきまへず、或は「月清く月清きなどいふべき所をも、みだりにみといふこと多し、心すべし、
やすめ詞のしもじ、おきざまあしきは、いと聞ぐるしき物也,ちかき世の哥に、「道しある世、などおほくよむ、これら「道しあればといふときは、しもし
近き世の人「春にのどけき、「秋に見し、などおほくよむ、此たぐひの「春に「秋になさいふにもじ、いといやし,又戀の哥に、「人にうれしき、「人にわりなき、「人にうき、などいふには、殊にいやしげなり、
「花や紅葉、又「梅や柳、などいふやもじ、いやしき詞なり、これはもと「蝶や花やなどいひて、そは「蝶よ花よといふと同しこと也、さる故にやもじ下にもあり、然るに「花や紅葉などいふは、其意にはあらで、花又は紅葉といふ意なれば,やもじかなはざる也、
なに いかに いづれ いく たれ たがなどの下に、かもじをおくことつねなり、そはなに か いづれ か たれ かなど、やがてつゞけてもおき、又中に詞をへだてゝもおく也、そのつゞけておくかもじは、今の世にもをさ〳〵誤ることはなきを、中に詞をへだてゝおくかもじをば、誤りてやもじをおくこと多し、たとへば「いかなることにかあらん、「たれにかあらん、などいふべきを、「いかなることにやあらん、「たれにやあらんなどいひ、また「いく年月をかへぬる、「たが里よりかきぬらん、などいふべきを、「いく年月をやへぬる、「たが里よりやきぬらんなどいふ、かやうの類のやは皆ひがこと也、古ヘの哥文を見てわきまふべし、大かた今の世には、哥をも文をもよくよみかくと思ひほこる人も、此誤りをまぬかる」はすくなし、但し「何事ぞ「たれぞ「いかにぞなど、ぞもじをおく時は、其下にはかといふことなし、ぞの下には、「いかにぞ やなど、やもじをおくことあり、これは疑ひのやにはあらず、よに通ひて、「いかにぞ よなといふに同じければ、別事也、又「いづらや「いかにや「などやなどいふやも、疑ひにあらず、ぞやのやの如し、これらと思ひまがへてあやまることなかれ、
すべてとゝいふ詞の上の
たとへば「ながるゝ水、「かくるゝ月、「聞ゆるこゑ,「すぐる月日、などいふことを、初學の輩「ながる水、「かくる月、「聞ゆ聲、「すぐ月日、などやうによむことあり、さてはるもじたらで、語とゝのはず、【万葉には、「ながる水といふ類あれ共、そは古言の格にて、後の例にはいひがたし】 さて又此類の中に、るのあるとなきとにて、自他の意のかはる詞もおほし、たとへば「とく紐といへば、紐を人のとくこと「とくる紐といへば、紐のおのづからとくる事也、又「たつ烟といへば、煙のおのづからたつこと、「たつる煙といへば、烟を人のたつること也、初學の哥文には、これらのまがひ、つねによくあること也、
必てといふべき所に、てもじをおかざれば、語うきて聞ぐるしき事あり、たとへば「花咲て人ぞ見にくるといふを、「さくらさき人ぞ見にくるといひては、いかゞなるがごとし、此たぐひ多し心すべし、又文には、かならすてもじをいくつも重ねていふへきことも多きを、その重なるをいとひて、
「たちなかくしそ、「物な思ひそなどいふ類を、もじの五七の調ヘにあまる時は、「たちかくしそ、「物思ひそなとやうに、なもしをはぶくこと、ちかき世にをり〳〵見ゆるは、いみしきひがこと也、下なるそを畧けるは万葉などには、多くあれども、それも古今集よりこなたには見えず、ましてなをはぶける例は,すべてなきこと也、こはなもじをのぞきては、聞えぬ詞なるものをや、
たゞぞといひこそといふと、もぞ もこそといふとは、意の
終りを「なき「うき「のどけき「露けき「寒けき「はかなき 又「うれしき「かなしき「さびしき「戀しき「くやしきなど結ぶ、此き しきは、上にぞ の や 何の類などのかゝりのてにをはなくては、とゝのはぬことなるを、近き世には、此格にかゝはらず、上にぞ の や 何のてにをはなくして、き共しきとも結べる哥おほきは、いと〳〵いやしげにねぢけてぞ聞ゆる、古ヘに心あらむ人は、きはめてよむまじきことなり、殊にきの方は、しと結べばこともなきを、ことさらにきと結ぶはいかにぞや、たゞ同じことゝや心得たるらむ、例のいとみだり也、
たとへば花に「さく「さける「さきし、「ちる「ちれる「ちりし、雪に「ふる「ふれる「ふりし、鳥などに「なく「なける「なきしなどいふたぐひ、或は「あふ「あへる「あひし、「思ふ「思へる「思ひし、「たつ「たてる「たちしなどいふたぐひ、大かたいづれの言も、此三つのいひざまによりて、いさゝかその意も差別ありて、花に「さくといふは、今咲クこと、「さけるといふは、「さきたるといふと同じことにて、咲てあること、「咲しといふは、前に咲しことを、後にいふ詞也、大かたかくのごとし、いづれの詞も是になすらへて、心得わくべし、其内「さけるといふべきを、「さくといふことはあり、「さく花に云々などのごとし、これらは「さける花にといふ意也、然れども「さくといふべきを、「さける「さきしなどいひてはたがへり、然るを近世人は、此差別をわきまへず、哥にも文にも「さくとやうにいふべき所を、「さけるといひ、「さけるとやうにいふべきところを、「さきしといふたぐひのたがひ、いづれの詞にもおほし、たとへば
詞によりて下を、つるといふべきと、ぬるといふべきとの差別あり、たとへば「ありといふ詞の下は、必「有つるとのみ、いひて、「有ぬるといふことはなし、「見る「聞クも、「見つる「きゝつるといひて、「見ぬる「聞ぬるとはいはず、又「ちり「ふりなどは、「ちかぬる「ふりぬるといひて、「ちりつる「ふりつるとはをさ〳〵いはず、又つるにてもぬるにてもよき詞もあり、又つる ぬるといふを、事によりては、たるといひてよき所あり、けるといひてよき所もあり、然るに近き世の人は、これらのわきをしらず、みだりなる中に、つるといふべきを、ぬるといふことの殊におほき也、大かた初學の輩などは、つるといふことをば、しらざるが如くにて皆ぬると、いへり、又たる或はけるといひてよき所をも、今の人多くは其味をしらず、皆ぬるといふ、これら古ヘの哥に心をつけて、つねによく見おきて、、その例をしるべき也、
たとへば露に、「おきそひ「おきそふなどいふは、露のおのづからおきそひたること也、【俗言にいへば、露が自身とひとりでにそひたるなり、】「おきそへ「おきそふるなどいふは、他の物の露をおきそはすること也、【外の物が露をおきそへるなり、】 然るに近世人は、多く此差別なく、そひといふべきを、「そへ共いひ、「そふといふべきを、もじのたらねば、「そふるといふたぐひおほし、いとみだり也、「そふといふべき時、もじのたらねば、古人は「そはるとこそいへれ、
たとへば菊の花に「霜のおきまがひ「おきまがふなどいふは、霜の置たるがおのづから菊の色にまがふ也「まがへ「まがふるなどいふは、霜のまがはする也、これおのづから然ると、ことさらに然らしむるやうにいふとの差別あり、然るに近世人は、これも一つに心得て、誤ることおほし
たとへば秋の來て「風の吹かはり、「吹かはるなどいふは、おのづからにかはる也、「吹かへ「吹かふるといふは、風を吹かはらする也、然るにこれも近き世の人は、一つに心得て、「ふきかはりてといふべきを、もじのあまれば、「ふきかへてといふたぐひ、みだり也、又風に「ふきいるといふべきを、もじのたらぬときは、「吹いるゝといふ、是も同じく自他のたがひあり、猶此たぐひいと多し、なすらへてさとるべし、上のそひ そへよりこれまで、みな自他のけぢめにて、いづれの詞もみな此けぢめはあるを、其中につねによく人の誤るを、二つ三つこゝにはあげたる也、
「見ゆる「見えては、おのづからに然るさまにいふ詞也、「見する「見せては、然らしむる也、たとへば風に雲の晴て、月のさやかなることをいはむに、「さやかに見えてといふは、たゞ月のさやかに見えたるところのまゝをいふにて、風の雲を吹はらへる事にはかゝはらず、おのづから然るところをいふ詞なり、それを「さやかに見せてといふときは、雲を吹はらひて、風の月をさやかに見せたる意になる也、【月を風がさやかに見せるなり、】此たぐひ何方にいひてもよきときは、「見ゆる「見えての方、大やうにしておだやか也、「見する「見せての方は、花やかにはあれど、さかしだちて、少しいやしき方に近し、然るを近世人は、「見する「見せての方を多く好むめり、哥のおもむきにしたがひてはからふべき也、
かならずさへと如ふべき所をも、近世人は多くだにといふ、こはだにをもさへをもすらをも、今の俗言には、皆おしこめて一つにさへといふ故に、さへをば俗と思ひ、たゞだにをのみ雅言のやうに心得て、共に雅言にして、其意差別あることをしらざる也、まづだにはたとへば、俗言にこれはならずとも、せめてこれなりともといふやうの意、さへは、この事のあるうへに、又此事もそひくはゝるやうの意、すらは、やはり猶といふ意にちかし、然るに古今集よりこなたは、すらの意をも、ともにだにといへり、さればすらの意をだにといふはこともなし、さへの意をだにといふは誤也、抑此三つの詞のつかひざまは、猶心得あることなれども、委くいはんにはいと事長し、まづ大かた右のごとくこゝろえて、たがふことなし、
ましは、ん又べき べしといふと大かた同じ意にて、「せましは、「せん又「すべき「すべしの意、「いはましは、「いはん又「いふべき「いふべしの意、「ならまし物をは、「ならん物を、又「なるべき物をの意也、古今集の哥に「鶯の谷より出るこゑなくば春くることをたれかしらましとあるは、春くることをたれかはしらん、又たれかはしるべきの意也、【俗言にいはゞ、たれがしらうぞなり、】然るに今の世初學のともがら、多くしを濁りてまじとよみ、不の意と心得て、「せじといふことを「せまじ、「いはじを「いはまじなどよむは、いみしきひがこと也、此詞もし其意ならば、右の古今集の哥の結句など、「たれもしるまじといはでは聞えず、然いひてはいといやしき詞也、よく〳〵わきまふべし、
ちかき世の人、てといふべき所を、さてはもじのたらぬ時は、みだりにつゝといひ、又文に、てもじの重なるをいとひて、つゝといふたぐひ多し、皆ひがこと也、てとつゝとのけぢめ、ては意廣ければつゝといふべきを、てといひたるは、たがふ所すくなきを、てといふべきを、つゝといひては、たがふことおほし、つゝは、此事をしながら、かの事をもし、又此事のあるに、かの事も相まじはるやうの所に用る詞也、なほ言葉の玉緒にいへるが如し、又文に、ての重なるをいとひて、或ははぶき、或はつゝにかへなどしたるは、中々につたなし、此事既に上にもいへり、
なほは、俗言に、まだ或はそれでも或はやつはり、などいふにあたれり、然るを「いよ〳〵といふ意につかふは、後のこと也、そはたとへば「なほいろまさるなどいふは、もとよりよき色の、まだ其うへにもまさるこゝろなるが、いよ〳〵まさるといふに近く聞ゆる、かやうの所よりまぎれそめたる物なるべし、かくていよ〳〵の意に用るも、むげに近き世の事にもあらず、やゝふるくも見えたれ共、そは聞よからず、近世に「いとゞなほと多くよむなどは、殊に聞ぐるし、
いくは、其數の知れざるを、疑ひて問フ意の詞なれば、上下の趣てにをはのはこびなども、其意を以てよむべきことなるに、近世人は、たゝ多きことゝ心得て、「いく千世などいふを、千世の數の多き事に定めてよむは、ひがこと也、「いく千世といふは、千世の數の知れざるを「いくらばかりの千世ぞ、と問フ意なるをや、但し「いく千世もなどいへば、もにて數の多き意になるを、もといはでは、其意にはなりがたし、こは今の世にもいふ平語にてもよく分れたることぞかし、たとへば日の數をいはむに「いくかもといへば、日を重ねて多きことになるを、もといはず、たゞ「いくかとのみにては、其數の知れぬを、疑ひてとふ詞にあらずや、これを以てすべていくといふ言のつかひざまをこゝろえわくべし、
此詞は、古今集夏「郭公ながなく里のあまたあればなほうとまれぬ思ふものから、此下句を、俗言にいへば、「思ひはすれども、それでもうとまれる、又「思ひながらも、やつはりうと〳〵しく思はれる、などいふ意也、又秋上「まつ人にあらぬ物から初鴈のけさ鳴聲のめづらしきかな、此初二句は、「まつ人ではなけれどもといふ意也、又物名「あぢきなしなげきなつめそうきことにあひくる身をばすてぬ物から、此結句は、「捨テもせずにゐながらといふ意也、大かたこれらの哥にて、其意明らかなり、然るを今ノ世の人は、いかに心得たるにか、「思ふからといふべき所を、「思ふものからといひ「あらぬ故にといふべき所を、「あらぬ物からといふたぐひいとおほきは、たゞからといふと、同じ意とおもひ誤れるなめり、たゞからと物からとは、おほかたうらうへのたがひあるをや、そも〳〵此詞は、哥にも物語の詞などにも、常におほく見えて、其意まぎるべくもあらぬ詞なるに、今ノ世には、哥々も文をもよくよみかくと思ひおごれる人も、多く此ひがことあるは、いといとかたはらいたきわざなりかし、
たへとば雪の消やらぬといふは、春になりて猶寒きに、雪もはやくきえよかしと思へ共、つれなくきえぬ意、「花の咲やらぬといふは、早くさけかしとまてども、さくことのおそき意、「道を行やらぬといふは、はやくゆかむといそげども、思ふがごとえゆかぬやうの意にて、やらぬは皆かくのごとし、然るを近世の人は、これらの類をもたゞ雪のきえぬこと、花のさかぬこと、道をゆかぬことゝのみ心得たるにや、或は花のまだちらであるを、「ちりやらぬといひ、月のまだいらぬを、「入やらでなどよむ類多きは、ひがこと也、さては花を早くちれかしと願ひ、月をとく入れかしと願ふ意になるをや、
花に「ちりはてゝといふは、こと〴〵く散て、いさゝかも残りなき意、戀の哥などに「絶はてゝといふは、全く絶ていさゝかもかゝりなき意也、すべてはてゝは、右の如き意をいふべき時に添る詞なるを、近世人はたゞ「散て「絶てとのみいひてよきところをも、詞のたらねば、「ちりはてゝ「たえはてゝとよむは、はてゝといふこといたづらなり、
「ありとても「なしとてもなどやうのとてもは、たゞてにをはの重なりたるなれば、こともなきを、後世には、此てにをはにはあらで、別に一つの詞にして、「とても
やがては、俗言に「そのまゝですぐにといふ意にて、たとへば春の日のいたく霞めるが、そのまゝですぐに春雨になるを、「霞める空のやがて春雨になるといふたぐひ也、然るを近世人は、程なく追
ちかき世に、
あだなるとは、花のちりやすき、露の消やすき、或は人の心のうつりやすき、などをいふ詞なるを、近世人は、「月日をあだに過すなど、いたづらにといふ意につかふはひがこと也、
近世人の哥には、したふといふまじき所を、したふとよむこと多し、そは「戀る「思ふ「しのぶなどいひてよろしきところをも、多くしたふといふなり、此詞は、古哥によめるやうをよく考へてつかふべし、
むかふとは、まさしく其物にさし
いとふは、物にまれ事にまれ、有ルをにくみきらふことなるに、近世には、或は花のちるをいとふ、人のとはぬをいとふ、などいふ類、すべてうしと思ふことをば、皆いとふとよむは、たがふ事おほし、
ものうきは、俗にいふ、ぶせうにて、何事にもせよ、することのいやなる意、しともなきといふ意也、然るを近世人、たゞうきといふと一つに心得たるにや、うきといふべき所に、此詞をつかふはたがへり、うきとは同じからず、古今集に「梅枝に物うきほどにちる雪をとあるも、雪のひた〳〵とはふらで、たゞいさゝかづゝちるをいへるにて、俗に「いやさうにふりともなさうに、ふせう〴〵にふるといふ意、又「ものうかる音に鶯のなくとよめるも、「いやさうに、なきともなさうな聲になくといふこと也、これらにて心得べし、
こゝろぐるしきは、物語に多き詞にて、俗に「氣の毒なといふ意、又「物の氣遣はしく案じらるゝといふ意也、然るを近世人、たゞくるしきことにつかふはたがへり、
これは俗に、「思ひやりのないといふ意也、此詞も物語に多し、哥には、後撰集戀三、「いづ方に立かくれつゝ見よとてか思ひぐまなく人のなりゆく、【上句は、くまといふ詞の縁につきてよめるなり、】此下句にて心得べし、おもひやりもなくつれなくなりゆく也、然るを近世に、思ふ事なく、心のすめる意によむは、おぼつかなし、千載集俊頼朝臣、「おもひぐまなくても年のへぬるかな物いひかはせ秋の夜の月、これは己が心をいひて、思ひへだつる心のくまもなきよしか、然らば近き世によむ意にちかし、されど又、年ごとになれて見れども、猶月のうと〳〵しきを恨みて、思ひやりのなきことよ、といへるやうにもきこゆるをや、
これは、人の心の底のしりがたくて、
たのめ たのむるとは、人の我を頼ましむるをいひて、頼み 頼むといふとは、こなたかなたのかはりあり、たとへば人の今夜參らんといひおきて
すなほなるとは、つくろふことなく、たゞありなるをいふ、然るに近世人の「すなほなる御代などよむは、曲れる事なく、正しく直き意と思ふにや、たがへり、
曲らす直きことを、すぐなるといふは、俗言にこそあれ、哥にも文にも、古くはさらに見えぬことなるを、近世に「すぐなる御代など、おほくよむはいかにぞや、
そのかみとは、過し世の事をいふ語の中に、上をうけて、「其時とさしていふ詞にて、たとへば「しか〳〵の事有しに、そのかみ云々と、其しか〳〵の事の有し時をいふ也、然るを上にさすところなくて、たゞひろく昔といふとに用るは、たがへり、
むかしは「天の下とのみこそいへれ「天が下といふは、後の世の事也、これらは、ひがことゝいふばかりのことにもあらねど、古ヘにしたがふぞ言の葉の道なるを、今の人心つかず、「天が下とのみいふ故に、おどろかしおくになん、
「よつの海といへることは、やゝふるくも見えたれど、ひがこと也、古ヘの哥文には、多くは「よもの海とこそいへれ、
おひ風は、うしろの方より吹來る風也、船にて、さしてゆく方へふく順風をいふにて知るべし、然るを梅の哥なとに、ただ梅ノ花の方より吹來る風を、「梅のおひ風とよむなどは、いかゞ、
そともは、日本紀の成務天皇の御卷に、
野もせは、野も狹きまで、物のみちたること、庭もせは、庭も狹きまで、みちたることなるを、たゞ「野に「庭にといふことを、野もせに庭もせにとよむはひがこと也、そはもを面め意と心得たるにや、さてはせもじをば何のこゝろとかせむ、
たゞ庭にてよろしきところを、庭の面とよみては、面といふと用なく、又哥によりては、さまたげともなれり、心すべし、
其縁もなく、用もなきに、砌とよむと近世に多し、いかゞ、
とぼそは、樞ノ字を書て、ひらき戸のほそ也、然るを、「柴の戸ぼそなど、たゞ戸のことによむはいかゞ、こはやゝふるき哥にも見えたれど、心得おくべし、
簾をこすといふは、誤なるを、近世の哥に、殊に多くよむ、いとうるさし、そはもと古き書に、小簾と有て、をすなるを、後に誤りてこすとよみならへるにつきて、つひに又別に字をあてゝ、鈎簾と書ケども、鈎簾といふ名は、なきとなるをや、
螢を、初學の輩の哥に、ほたる火とよむことおほし、こは漢文に螢火とある字を、そのまゝに心得たるひがことなり、螢火といふは、即チほたるにこそあれ、神代紀に、螢火光神とあるを、「ほたるびのかゞやく神とよめるも誤也、そは「ほたるなすかがやく神とこそよむべけれ、
春をむかふるといふことは、漢文にて、皇國の意にあらず、すべてむかふるとは、他所より來る人などを、或は玄關、或は門、或は里の入口などまで立出て、迎るをこそいへ、たゞ居て待受るをば、むかふるとはいはず、然れば春の來るをも、門口又は里の入口などまで行て、迎るものならばこそ、むかふるとはいはめ、春はたゞ來るのみにこそあれ、さやうに迎る物にはあらざれば也、題に貴賤迎春などあるは、漢文也、すべて題は、漢文の格なるも多ければ、其文字のまゝにはよまぬことおほし、然るにこの「春をむかふるといふことは、後世には、俗語にもいひ、哥にも文にも常の事なれども、古へにはをさ〳〵いはざりしこと也、同じことながら、歳暮の哥に、「おくりむかふるいそぎなどよむは、よしある事にて、それは客を送り迎る事になすらへて、然よみなせる趣意也、さる故にそのあへしらひ有て、「いそぎ「いとなみなどいへり、「いそぎ「いとなみは、俗にいふ用意支度也、たゞ何となく年のくるゝことを、「送るといひ、春の來ることを、「むかふるといふにはあらず、たとへば「春のきる霞の衣などいふも、實には春は衣をきる物にはあらざるを、人の衣をきるになすらへたる趣意にて、かの「おくりむかふるも、是に同じ、然るをたゞ春の來たることを、うちまかせて「春をむかふるといふは、はるの空のかすみたるを、うちまかせて「春が霞の衣をきたりといはんが如し、よくわきまふべし
とひよるといふは、近き世の人の、つねによくよむことなれ共、古ヘは「立よるなどこそいひたれ、とふことをとひよるとよめることなし、
戀の哥に「うき中「逢見ぬ中「絶にし中など、男女の間を、中といふことつね也、そは皆右のごとく、「逢見ぬ、「たえにしなど、上よりつゞきたる詞有て,「しか〳〵の中とこそいへ、上よりつゞきたる詞なくて、かしらにたゞ中といへるとはなし、たとひ句のかしらにあるも、上なる句よりつゞきたる詞有ていふこと也、然るを近世には、上につゞきたる詞なくて、たゞ「中にうれしき、「中にくやしき、などおほくよむはいかゞ、いと〳〵聞くるしきこと也かし、
近き世いまだしき人の哥に、落葉してとよむとあり、ひがことなり、もみぢしてとはいへど、落葉にしてといへる例なし、
これは「今か「今日かといふことにて,かは疑のか也、もは何れも二つながらやすめ詞にて、意なし、古哥によめるを見て知べし、然るを近世には、「今も「今日もといふ意によむは、いとみだりなるひがこと也、
近世人、は うしととぢむる哥多し、「散なんは うし、「しられんは うし、「とひこぬは うし、「逢見ぬは うしなどの類也、こはてにをはのとゝのはざるにはあらざれ共、何とかや近き世めきて、いやしく聞ゆる調也、
かならず「春は來にけり「秋は來にけり、とあるべき哥を、初學のともがらなど、詞のえんなるを好むとては、「春や來ぬらん「秋やきぬらん、とよむこと多し、そもけりとらむとのけぢめをもしらぬほどの人は、せむかたなけれど、こればかりの事は、よくわきまへつべきほどの人も、をり〳〵此ひがとあるは、いかにぞや、「春はきにけりは、俗語に、「春がきたわいといふほどの意、「春やきぬらんは、「春が
神祇の哥に、「
「みよし野「三輪「美豆野など、すべてみ云々といふたぐひは、見る意にこそいひかくべきことなれ、見ゆる意にはいひかけがたし、みとのみにては、見ることにこそなれ、ゆ えなどのもじなくては、見ゆることにはなりがたし、見るは、こなたよりあなたを見ること、見ゆは、あなたよりこなたへ見ゆるとにて、別なるをや、然るに近世には此差別なく、み云々といふことを、見ゆる意にいひかくるは、みだりなり、
嵐を、不㆑有の意にいひかくる事、ゆくさきをかけて、あらじ【俗言にあるまいといふこゝろ】といふにはよろしけれども、近世人の、今さしあたりてあらず【俗言に無いといふ意】といふにもいひかくるは、みだり也、
五もじの句を、六もじによみ、七もじの句を、八もじによむことは、其句のなからに、あ い う おの内のもじある時にかぎれるとなり、たとへば「身にしあれば、「須磨のあまの、「花のいろは、「きくやいかに、「いせのうみや、「しがのうらや、「風のおとは、「いはでおもふ、などの如し、七もじの句も、なすらへて知るべし、大方古今集よりこなた、此格にはづれたる哥は、をさ〳〵なきを、新古今集のころにいたりて、西行慈圓など、これを犯して、みだりにもじのあまれる句を、おほくよまれしより、近き世になりては、殊に多し、右の格にはつれたるは、いと聞くるしき物也、そも〳〵古き哥には、五もじの句を七もじに、「さもあらばあれとよめるさへこれかれあれど、わろからぬは、あまれる二もじ、あもじなる故ぞかし、又古今集に、「日ぐらしの鳴つるなへに日はくれぬ句とおもふは山の陰にぞ有ける、これらは、ともじ下なる句につく故に、四の句もじあまりにて、三の句は然らず、すべて「云々と思ふ、とつゞく所には、此例多し、かやうなるはともじは、次の句へつくこと也、大かたもじあまりは、右の如くあ い う おの四つの内のもじの、なからにある句にあらずは、よむまじき也、
近き世の人の、好みてつねによむことはに、聞ぐるしきが猶多かるを、思ひ出るまゝに、あつめてこゝにひとつにいはむ、
春風などにゆるきといふこと、花に一花といふこと、松柳などにけぶり けぶる、
花の哥に、用なきに色香といふこと、こゝにとは、よそに對する事ある時にこそいふべけれ、さいはでもよき所に、こゝにといへるは、をさなきもの也、江は、「入江「ふる江「みなと江「ながれ江などやうに、何江といひたるこそよけれ、たゞ江とのみいひては、聞よからぬを、「江の水「江の浪、など多くよむこと、七夕の哥に、「星合の空「星の逢瀬などよむは、常の事にて、あしからぬを、「星やさぞ「星や恨むる「星やうれしき、などいふ星はわろし、船に、「眞帆ひくといふこといかゞ、ひくとは、いかにするをいふにか心得ず、もしは
擣衣の哥に、「まきかへすといふも、聞よからず、岸といひてもじのたらぬ時、岸根とよむこと、古ヘに聞カぬ詞也、「山窓「流れ藻「身をおく山、これらわろき詞共なけれど、近世めきて聞ゆ、「松も檜も、或は「松原も檜原も、とこそいふべきを、さはいひがたきまゝに、「松も檜原もといふ、原といふと、たらず又あまりて、せんかたなげにきこゆ、「すゝきかやといはむは、こともなきを、「すゝき高がやといふ、高も、せんかたなげ也、右の詞ども、必ひがことにはあらぬも、近き世めきて聞ゆる也、此たぐひなほ多かるべし、
「花よしれ、「色に香に、「月こよひ、「月ひとり、「松ひとり、「たぐひなや、「思ふぞよ、「したふぞよ、「をしむぞよ、「思へ人、「うしや人、これらいやしく聞ゆる句也、此たぐひ猶有べし、「さなきだには俗言也、これは「さらでだに共、「さらぬだに共いひてよろし、「いつしかには俗也、「いつしかと、又は「いつしかもといふべし、「いとゞなほは、「いとゞしくといふべし、此なほは俗意也、「なごりなほ、「今年なほのたぐひ、近き世のつゞけざま也、猶といふ詞は、すべてかやうにうごかぬ詞より、たゞにつゞくるとは、古哥には例なし、「雪は猶「春も猶などやうに、あひだにてにをはを置てこそいへれ、「なごり、「今年などは、うごかぬ詞なるに、たゞにつゞく故に、猶といふこといやしく聞ゆる也、「なごりも なほ「今年も なほ、などいへばよろし、「とばかりに【には、は共も共を共よむ、皆同じ】といふことは、新古今などにあるは、めでたくめづらかなるを、近世には、あまりみだりに多くよむ故に、うるさく聞ゆ、「日にそひては、「日にそへてといふべし、こは「そひてといふ方、あたれるやうなれども、古ヘはさいへる例なし、皆「そへてとぞいへる、「思ひきやといふべきを、「思はずよといひて(同じことゝ思ふは、ひがこと也、「思ひきやは、過にしかたのこと、「思はずよは、今のことにて、其意異なる物をや、「瀧おとし水はしらせて、とつゞきたる二句、近世人の好みてよむことなり、こは物語の詞なれ共、哥にはいかゞ、されどはじめてよみ出たらむは、めづらしきに、猶一たびはゆるさるゝやうも有べし、二たびとはよむべき句がらにあらざるをや、すべて詞にもあれ意にもあれ、よになべてならず、よくもあしくも、一ふしめづらしきことは、人のよみ出たらんをば、又とはよむべきにあらず、もししらずして、おのづからによみあはせたらんにも、後にしらば、すつべきこと也、然るを近き世の人は、きのふけふの人の、めづらしくよみ出たるふしをも、いさゝかもはゞからで、人ごとにきそひよむ、いといと心きたなく、かたはなるわざなりかし、さるはふるくも、ぬしある詞とて、いましめられたることあるをば、たれもよく知リながら、たゞむかしのをのみはゞかりて、ぬしある意詞は、今もつねに多かることを、わきまへざるはいかにぞや、近くよみ出たることは、いづれかさきとも後とも、しられずなり、又いかにおもしろきこゝろ詞も、たぐひ多く、常の事になりぬれば、中々にうるさくさへ聞ゆれば、かた〴〵はじめのぬしのためにも、いと心うきわざなり、ましてよろしくもあらぬふしを、うらやましげにとりてよむは、かへす〴〵心づきなし、
同じき
大かた哥にも文にもわたることゞもは、すでに哥の部にあげつ、今はたゞ文に物する事共をあぐべし、そも〳〵ちかき世の人、文も哥もともにつたなき中に、文はことにおしなべてつたなくして、いさゝか哥のはし詞を、二くだり三くだり物する中にも、ひがことのみおほく、或はから書よみの詞つかひをえはなれず、あるは今の世のさとび言のふりに流れなど、すべて
文のはじめを、それ云々と書出すは、漢文の
序などの終リを、いふことしかりとゝぢむる、これも漢文にて、いみしきひがこと也、すべてこゝとかしことは、詞のつゞけざまいひざま、異なる物なれば、いさゝかにても、かの國文のふりをば、まねぶまじきわざなるに、世の人、こゝの文のさまをば、むげにえしらず、たゞはし〴〵見なれたる、漢文の詞つきを用ひて、まぎらかしおくは、かへす〴〵見ぐるしきわざぞかし、
近世人序の終リは、かならずものならしとゝぢむる物とや心得たるらむ、そは此詞を、いかなる意と思へるにかいと〳〵心得ず、物ならしは、俗語に「ものであらうといふ意也、然るにみづからいひたる事をさして、「物であらうと、よそげにいひてよからんやは、
今の人、文のしりに、其時の年号をしるして、元年をはじめのとしとかくは、こともなし、二年三年などを、ふたつのとし みつのとしなどかくことは、中昔の文にも例はあれど、皇國の物いひざまにあらす、ひがことなり、さやうにいひては、年の二つ三つあることになる也、たとへば「二つの目「五つの指といへば、目二つ指五つの乙にあらすや、又「寛攻の三つのとしといへば、寛政といふ人の、三歳の時とも聞ゆるをや、されば二年三年などみな、「ふたとせといふとし「みとせといふとしとやうにかくべく、もし又むかしのことならば、「いつのふたとせといひし年「みとせといひしとしなど書べし、かゝるぞ御國のものいひなる、
近きころの人、文のしりに,みづからの名を、「
近きころの人、文の中に、みづからの名を、おのれ某【こゝに某といふは其名也】とかくとわろし、こはおのれとかくか、又は名をかくか、何れにもあれ一つなるべきを、おのれといひて、又名をいふは、古ヘに例なきこと也、そは漢文に「不佞某とかくなどを思ひて、いひそめたるひがことなるべし、【さてついでにいはむ、漢文にては、みづからのことをば、吾予僕などいひて、
人のもとへ、そなたの名【今いはゆる實名名乘なり】をさしていひやるは、
すべて人の名をいひ出るには、或は「
今世の人の文に、たとへば京の人大坂の人の事を、「京なる
今世人、友だちといふをば、
大きみとは、まづむねとは 天皇を申シ奉り、さては親王諸王にわたりて、必皇胤にして、臣下の氏ならさる人にかぎりて申す御号なり、いかに貴しといへども、臣下の氏なる人をば、申せることなし、然るを今の人の文には、いさゝかも己がたふとむべき人をば、みだりに大君とかくは、あなかしこ、いみしきひがことなり、
妹がり 君がりなどいふがりは、
哥の數を、近きころの人の、一くさ 二くさなどいふは、例もことわりもなき、いみしきひがこと也、古ヘは一うた 二うたとこそいへれ、古今集ノ序に、「この二うたは、とあるなどにても知べし、土左日記にも、「ひとうたにことのあかねば、今一つ、などもあり、もし上に哥といふことありて言重なりわづらはしき所なとには、一つ 二つ共いへり、然るを、一くさ 二くさとしもいふひがことは、思ふに、古今の序の細注に、「おほよそむくさに分れんことは云々、とあるなどを、心得たがへて、いひそめつるにやあらむ、かれは「六種といへるにこそあれ、六首の意にはあらざるをや、
みづからの哥をひげして、ひなぶりといふは、ことわりはさもあるべけれど、これはもと神代の哥に、ひなぶりといふがあるを、邊鄙のふりと心得來りて、たれも然思ふよりいふめれど、かのひなぶりといふ名のよしは、
田舍のことをあがたといふは、みだり也、あがたとは、京より下る田舍の官人の、その任國をさしていふ名也、古今集の詞書に「あがた見にはえ出たゝじやとあるも、參河掾になりて下るにつきて、その任國の參河をいへるにこそあれ、昔よりこれを、たゞゐなかと心得たるは、くはしからす、土左日記に、「ある人あがたの四とせ五とせはてゝとあるも、貫之主の、土佐の國守にてありしほどをいへり、大かたこれらにて心得べし、たゞ何となく田舍をいへる例なし、なほ
今の世の人、江戸にゆくことを、或は「あづまにまかりける、或は、「むさしの國にくだり給ふ、などかくはわろし、こは江戸といふ名を書を、俗なるやうに思ひてなめれど、地名なれば、なてふことかはあらむ、まさしく江戸をさしていふことには、たゞ江戸とかくこそよろしけれ、事のさまによりて、ひろくいひてもよき時は、あづまとはいふべけれど、それも猶たしかに其所をさしてよきときは、さいはんはわろし、又武藏ノ國にとかくは殊にわろし、今は天の下に二つなき大江戸なるに、其名をおきて、國の名をしもいふべきとにあらず、たとへば昔の人も、京にのぼるを、「山城にとはいはざりしをや、
今の人の文に、「吉野にあそぶ、「難波にあそぶなどかくあそぶは、漢文の遊ノ字よりうつれる誤也、物へゆくをあそぶといふことなし、又人のでしになりし物まなぶことを、「某ノ大人の
道ゆきぶりとは、道にてゆきあひふれたるをいふ、然るに此ごろの人のかける物を見れば、旅路の
山はこゆといひ、川は渡るといふぞさたまりなる、然るを今の人、族路の日記などに、「某川をこしてなどかくは、いみしきひかこと也、今時の人は、かち渡りならでは、わたるとはいはねど、むかしは海川は、橋にまれ船にまれ何にまれ、すべてわたるとこそいひつれ、又山はこゆといへども、それもこすとはいはず、こゆとこすとは、自他のけぢめあり、まして川にこすといふことあらめやは、【今世に、川ごしとて、人を渡す者あり、これはみつから渡ることをいふとはかはりて、川ながらもこすといふべきよしあるなり、】
今の人、賀の哥のはし書に、「某の七十を賀してよめる、などかくは、賀してといふこと漢文也、同じき字音ながら、「七十の賀によめるといふぞ、
ことぶきは、古言にことほぎといへるが轉じたるにて、いはふko
となり、然るを、人の命のことを、「ことぶき長し、ことぶきいくつなどいふは、たがへり、そは漢文に、人をいはふことをも
近きころの人、古書にある功ノ字などを、いさほしとよみ、みつからの文にも然かく、これ誤也、いさをといふぞ正しき、それをいさをしといふは、言をはたらかして、用にいふ時のことにこそあれ、體にいふ時はいさを也、たとへば戀を、體にいへばこひなるを、こひし、といふは、はたらかして用にいふときのことにて、いさをゝいさをしといふも、これゝ同格の詞也、然れば體にいふときは、「いさをあり、などいふべきを、「いさをしありといはんは、「戀をするといふをこひしをする、といはむに同じひがこと也、又假字も、三代實録の中の宣命に見えて、いさをなるを、をゝほとかく、これも誤なり、
とみにといふは、俗言に、「きふに「早速にといふ意、とみの事は「きふな事といふこと也、然れ共つかひやうのある詞にて、たとへば俗語に「きふには
「
人に物申すを、聞ゆといふことあり、そはもと、我より上なる人に申すことなる故に、たとひ同輩どちの間にても、いふ方よりあなたを敬ふ語に用る詞也、昔の物語などにいと多し、見て知べし、又たゞ詞の下に附ていふ事も有、たとへば「戀きこゆ「待きこゆ なとのことし、こは「戀奉る「待奉るの輕きにて、俗言に「戀申す「待申すなど、申すといふことを付ていふと同じ、これもあなたを敬ひたる詞也、然るに近きころの人の文共を見るに、我方へ人のいひおこせたることを「
近世人、哥の詞書には、かならず侍るといふことをそへざれば、雅語にならざるやうに心得て、おしなべて「しか〳〵の時よみ侍る、「しか〳〵の所へよみておくり侍りけるなどかくは、あたらぬことおほし、すべて侍るといふ詞は、つかふべき文と、つかふまじき文と有リ、みだりにはいふまじき也、其故は、これは人に對して、敬ひていふ語の内の、己がうへにつきたる事に添ヘていふ詞にて、たとへば「庭の花を見侍りてよみ侍るといふは、俗語に「庭の花を見ましてよみましてござりますといふに同じ、侍るは、此俗語のましてといひ、ござりますといふにあたれり、されば人のもとにいひやる文などには、いくらも書べし、重なるをいとふべからず、さもあらぬたゝの文章には、一つもかくべきにあらず、然るを近世人の如く、何のわきまへもなく、みだりに侍る 侍るとかくは、たとへば奴僕などに對しても、「花を見ましてよみましてござりますといひ、又ひとりいふ語にも、然いはんが如し、をかしからずや、こは哥の詞書のみならず、すべて何の文にも、右の心得あるべき也、古き物語どもを見べし、此詞は、人と人と語る語の内には、いくつ共なく重なりて多く有て、たゝ地の語、又は我より下ざまなる者、奴僕などに對していふ語などには、一つもあるごとなし、よく〳〵心をつけて考ふべし、抑近世人の、此詞をみだりに添るとは、代々の撰集の詞書にならへるひかこと也、撰集は、おほやけに奉る物なれば、撰者の、みかどに對ひ奉りて申す心ばへを以て、此詞をば多くおける也、されど古今集の詞書にはすくなし、後撰集よりこなたいとおほし、其中に拾遺集は、花山の帝の御自撰也と申すなるに、此詞の多かるは、かの集は、御清撰にもあらざなるやうに申すなれば、人々の書て奉りたるなどを、おの〳〵やがてしるさせ給ひなどせしまゝにやあらむ、心得ぬことなりかし、又新古今集は、後鳥羽ノみかとの御自撰のぢやうなるに、是も此詞の多きは、其ころほひなどにいたりては、はやくかゝるたぐひの詞づかひなども、くはしからずなりて、たゞさき〳〵の集どもの例のまゝにかゝれたりとぞ見ゆる、さて又わたくしの家々の集共などを見る、に哥どに此詞あると、
給ふは、あたふる人につきていふ詞、給はるは、受る人につきていふことば也、【給ふは、俗言に、「くれる「とらす「下さる、などいふにあたり、給はるは、「もらふ「いたゞく「拜領する、などいふにあたれり、】たとへば「君の臣に物を給ふといふは、あたふる君の方につきていふ語なる故に給ふ也、又「臣の君より物を給はるといふは、君より給ふ方をいふにはあらず、受る臣の方につきていふ語なる故に、給はるとはいふ也、かくのごとくなる故に、古き物には、給はるをば被ル㆑賜ハと書たり、然るを今世人は、此差別なく、給ふことをも、給はると、通しいふは、ひがこと也、
玉ひけるといふべきを、玉ふけるといふは、中昔よりこなたの音便にて、正しき詞にはあらず、然るを今世人は、かへりてこれを
つかはすとつかはさると、是も給ふと給はるとのけぢめのごとくにて、つかはすは、やる人につきていふ詞、【俗言にもやるといふにあたれり、】つかはさるは、ゆく人につきていふ詞にて、被ル㆑遣ハサなり、【俗言に「使にゆくといふことなり、】然るをこれも今の人は、わきまへなく、つかはさるをも、たゞつかはすを
おこすをこす、おこせしをこせしといふは、いやしき詞なり、然るを今の人は、かへりておこす おこせしを
おはしましゝなどいふべきを、おはしませしといふは、わろし、すべて「坐しは皆ましゝといふ例にて、ませしは俗也、
敬ひ詞に玉ふといふことを、奈良以前の文には、
といふといふことを、哥にはさまによりて、てふ共いひ、萬葉などには、ちふともとふ共多くあり、皆といふをつゞめ、又はいをはぶけるなとにて、いつれも哥詞也、しかるを近きころ古學の輩、例のしひてふるめかさむとては、文にも、といふといふべき所をば、おしなべて皆てふ又ちふとかくは、いと聞ぐるしきわさなるを、よきことゝ思ひてや、中古のふりの文にさへ、然かく人おほき、そは誠に聞くるし、抑これらは、哥の詞にこそあれ、文には、古ヘより例なきとなれば、古體にも、すべて書べき詞にあらず、中古のふりにはさら也、但しふるくも「たれてふ人か云々、「しか〳〵てふ詞は云々、なとやうにいへることは、まれ〳〵見えたり、されどこれは、「しか〳〵てふ
よりといふことを、萬葉などの哥には、ゆともよともよめる多し、これによりて、近きころの人、文にも、よりといふべき所を、皆ゆとかくは、わろし、古ヘも哥にこそあれ、文には皆よりといひて、ゆ共よ共いへることなし、然るを古學の輩、ひたすらかやうの耳なれぬ詞を好みて、多くかくは、いと心づきなく、かへす〴〵うるさし、
「
古今集戀三詞書に、「門よりしもえいらで、かきのくづれより通ひたるを、たびかさなりければ云々、戀五「ほいにはあらで物いひわたりけるを、む月の十日あまりに云々、又「なりひらの朝臣、紀ノ有常がむすめにすみけるを、恨むる事ありて云々、これらのけるをのたぐひのをもじ、今の人の文なれば、必皆がといふ所也、かやうの所をがといへることも、やゝむかしの物にも見えたれども、古ヘのよき文には、皆をといへり、然るを今時の人は、かやうの所ををといふべきことをば、をさをさしらずして、皆がとのみいふは、
よりては、「云々のことによりてと、上に詞有てつゞけいふこと也、ことばの頭にたゞよりてといふことなし、もし上なる語をば切リて、次に語をおこしていふときは、これによりてといふべし、たとへば上よりつゞけていふ時は、「日も暮ぬるによりてやどりぬ、といふを、上を切リていふときは、「日もくれぬ、これによりてやどりぬ、といふたくひ也、然るを近きころの人は、「日もくれぬ、よりてやどりぬとやうに、上の語の切れたる所に、よりてといふは、漢文ぶりのひかことにて、御國の詞つかひにたがへり、
ゆゑにも、よりてと同じさまにて、もし上を切リて、おこしていふときは、このゆゑにとも、さるゆゑに共いふべし、詞のかしらにたゞにゆゑにとはいふべきにあらず、【古文にては、語のかしらにては、かれといひて、故ノ字を書り、又漢文に、句のかしらにある故ノ字は、昔よりかるがゆゑにと訓ミ來れり、これかゝるがゆゑにといふことなり、かやうによめるも、語のかしらに、たゞにゆゑにとはいふまじきがゆゑ也、昔は漢文をよむにも、かく詞のつかひざまを
のみとは、たゞ其物其事ばかりにして、ほかの物ほかの事のまじらざるをいふ詞なるを、近きころの人の文には、其意ならで、たゞ語の勢ひに、のみといひとぢむると多きは、漢文にならへるひがこと也,大かた皇國の語には、さやうにのみといひて、とぢむる例はなきこと也、古き哥に「たゞ一夜のみ、「たゞ一人のみ、などとぢめたるあれど、これらは、一夜に限り、一人にかぎりて、二つなきをいへるにて、たゞ語の勢ひに添へたるにはあらねば、
かつは、此事をしながら、彼ノ事をもし、或は此事のあるに、彼ノ事もまじはるやうのところにつかふ詞也、然るを近きころの人は、此詞をつかふまじき所につかふこと多し、そはもと漢文の且ノ字にならへるひがこと也、抑漢文なる且ノ字は、かつと訓ムべきと、またと訓ムべきと、そのうへと訓ムべきと有て、古き訓点には、右のごとく訓ミ分ケたるを、近世には、差別なく、いづれをも皆かつとよむから、それにならひて、皇國の文にも、またといふべき所、そのうへといふべきところなどを、かつといふこと、近きころ多し、然いひても聞ゆるやうなれども、それも又かの近世の漢文
「いと寒し、「いとあつし、などいふいとは、つかひやうのある詞也、たとへば「いと戀し「いとかなしなどいふはよろし、然るを同じ詞ながらそれを、「いと戀る「いとかなしむ、といひてはわろき也、「戀る「かなしむといふときは、いたく いみしくなどいふ也、他の詞どもにいふをも、この「戀る「かなしむなどになすらへて、わきまふべし、いとといたくとは、意は同じきを、つかひやうは、かく異なることあり、すべて同やうなる詞も、つかひざまは、かうやうにけぢめあることを、思ひはからひて物はかくべき也、今の人は此けぢめをしらねば、いとといひてはわろき所を、「いと云々といひて、こちなきこと猶さま〴〵あり、
おほよそ同じき雅言の中にも、哥の詞と文の詞と、差別あるがあるを、今の人は此差別なくして、哥の詞にして、文にはつかふまじきを、文につかふことおほし、心すべし、たとへば花にたをるといふは哥詞也、文にはたゝをるといふべし、車を
今の人、消息文を
近世人の文に、ことさらに漢文のふりを好みて、多くかきまじふるは、殊にうるさきわざ也、そはもと雅文をえさるからのしわざにて、つたなさをまぎらかさんとてぞ、そもまことの漢文は、もじの顛倒、助字のおきやうなど、何くれとむつかしくところせきを、假字書にては、さやうのすぢにも力いらず、たゞ假字書キにしたる漢國の軍書やうの物を見ても、かかるゝわざなれば、いとたやすくして、俗人の耳には、物々しく、物しりめきて聞ゆるを、たけき事に思ふめる、いと心ぎたなきわざならずや、昔のよき文には、たとひまれ〳〵に、もろこしぶみなる事をかけるも、ことばつきはこゝのふりにこそ物したれ、かしこのふりのまゝには、かけることなし、又字音の詞もあれども、それはたつかひざまつゞけざまは、こゝのふりなるをや、
今の人の文は、時代のわきまへなくして、中昔のふりなる文に、奈良以前の詞も、をり〳〵まじり、又ふるきふりなる文に、むけに近き世の詞もまじりなどして、かの鳴聲ぬえに似たりとかいひて、むかし有けむけだものゝこゝちするぞ多かる、