漢字の別訓流用と古代に於ける我邦制度上の用語

日本の言葉も、古今一定、動かざるものではなく、時代に因て多少の變遷があるのである。それで、古へ廣く行はれて居つた言葉の中にも、今日死語となつて、擬古文の外誰も、之を用ゐないものがある。是れ今日、古事記や、萬葉集などいふ古書の了解し難い所以である。斯かる死語は勿論其數非常に澤山あるけれども、茲に其一端を擧げば、カバネ(姓)マヘツギミ(待臣)、カキノタミ(部曲)、ムカヒメ(嫡妻)、コナミ(前妻)、ウハナリ(後妻)等の如き是である。

言葉が死語となれば、それだけ、言葉の數が減少する道理であるが、言葉は獨り時代に因て其數減少することある而已ならず、其意味も亦減少することがあるのである。例せば彼のカバネといふ言葉の如き、昔は、之をホネの意味や〈海ゆけば、水つくカバネ山/行けば、草むすカバネの如し〉姓の意味ウヂカバ/ネの如し〉に用ゐて居つたけれども、今日に於てはカバネを以て、姓の意味に用ゐることが無くなつた。勿論學者の中には骨のカバネと姓のカバネとを以て、各々別語と看做して居らるる人もあらうが、拙者を以て之を見れば、彼の姓にいふ所のカバネは本、是れ韓國の古語に於て、骨品、姓骨などといつて居つた、其骨といふ字に對して、假りに下した譯語らしく思はれるのである。又、近い例を擧げば、舊幕時代に於ては、錆刀を呼で、赤鰯といつたことがあるが、廢刀の結果、今月に於ては、縱令、赤鰯といつても、其錆刀たることを知つて居るものは、殆ど無からうと思はれるのである。

以上言つた所は、言葉の數や、意味が、時代に因て減少した場合であるが、今、若し、今日の言葉を以て、之を古代の言葉に比較したならば、其數は固より、其意味に於ても、今日の言葉の方が慥に多きを加へて居らうと思はれる。現に、ここ二三十年の間に於ても、日本語の發展は實に驚くべきものであつて、法律上の用語だけでも、新規に出來たものが非常に澤山あるのである。彼の權利といふ言葉の如き、義務といふ言葉の如き、又、動産といふ言葉の如き、不動産といふ言葉の如き、さては又、法人といふ言葉や、財團といふ言葉の如き、孰も皆明治年代の新熟語であるのである。

然るに又、言葉の意味を觀るに、後世の言葉は、其意味に於て、古代の言葉より更に複雜なるものが多いのである。此の事は、他に原因もあらうが、時代を逐ふて、人間社會の情態が益々複雜に成つた事の如き、其一大原因であらうと思はれる。さて又、時代を逐ふて、言葉の意味が益々多きを加へた事はイロといふ一語に徴するも已に明白であらうと思はれるのである。

(言海)いろ(名)(一)光ニ固有ナル一種ノ性ノモノ、光線ノ屈折等ノ理ヨリシテ、物ノ體ヲシテ、眼ニ各種サマザマミエヲ生セシムルモノ(中略)(二){禁色キンジキ(中略)(三){喪服ノ鈍色ニビイロ(中略)(四)顏色カホイロ(中略)(五)顏色ノ艶ニシテ戀ヒ慕フヘキ情ヲ起サシムルコト、(六)男女ノ情、色情シキジヤウ(七)イロメキタルコト、好色コウシヨク(中略)(八){髮ノ色ノ美シキコト(中略)(九)キザシ、状、容子、(中略)(十)ヒビキ、調子(中略)(十一)品、類「ー」ー」(十二)醤油シヨウユノ異名、ムラサキ、

さて、我邦の言葉には、古來幾多の變遷があつたのであるが、此の言葉の變遷上、最も大なる影響を及ぼしたるものは何んであるかといへば拙者の察する所、外國語(外國文字)が最も大なる影響を及ぼしたであらうと思はれる。將來は知らず既往を以て之を言へば、漢語(漢字)の影響といふものは、實に至大であるのである。現に、今月我等日本人が平常用ゐつつある所の言葉の如き、少くとも其半分は漢語であらうと思はれる。但し、漢語をそのまま用ゐてゐる場合に在つては、世人も直に漢語の影響を感ずるのであるが、熟く考へて見ると、漢語の影響は決して斯かる場合に止まらず、實に隱微なる處にまで及んで居るのである。拙者は嘗て此事に關して、字註訓や、字形訓を擧げて之を論じたことがあつたが、今囘は更に一歩を進め、漢語の別訓流用〈漢字轉訓と稱す/るも亦可ならむ〉が國語に及ぼせる影響に付て聊か愚見を開陳する積である。

字形訓や字註訓の事は、先般已に之を論じたことがあるが、其後又、多少思付いた事があるから、序を以て、更に一言せば字書は固より、其他の書籍に於ても、往々、或文字に付て、其意義を説明したものがある。例せば、説文に、赤金也、从㆑金、同〈ノ〉聲、黒金也、从㆑金、〈ノ〉聲とあるが如き、又、爾雅に白金謂㆓之銀㆒とあるが如き、或は銅といふ文字につき、或は鐵といふ文字につき、或は銀といふ文字につき、各々其意味を説明して居るのである。今、拙者が茲に宇註訓といふのは、乃ち斯かる古書の語釋(字註)に對して下した和訓をいふのである。例せば、赤金に對するアカガネ、黒金に對するクロガネ、白金に對するシロガネの如き即ち是である。拙者の察する所、世人は普通、此等アカガネクロガネシロガネなどいふ言葉を以て日本固有の言葉と看做して居るかも知れないが、其實決ししてさうではなく、アカガネ、是、銅の字の注解赤金アカガネを直譯したもの、クロガネは、鐵の字の注解黒金クロガネを直譯したもの、又、シロガネは、銀の字の注解白金シロガネを直譯したものに過ぎないのである。尤も、文字の注解は、此書にも、彼書にも、往々、同一のものが出て居ることがある。故にアカガネといふ字注訓や、クロガネといふ字注訓を以て、一概に説文や爾雅から起つたとすることは出來ないけれども、兎に角此等の言葉が或古書の語釋(字注)より起つたことは、更に疑ない事實と思はれるのである。其事は、宋本の玉篇と、慶長板の和玉篇とを對照しても、略之を察するに足るのである。

慶安板玉篇が慶長板玉篇より後のものたることは勿論なれども、茲には、唯々字註訓發展の徑路の概況を示さんが爲め、姑く之を擧げたり。讀者諸君幸に諒察せられよ。

左に掲ぐる所は字注訓として起つたらしく思はれる所の言葉である。但し、精しく取調べたならば、この外、猶ほ相似た言葉多かるべしである。

日本語 字注 字注の和譯 字注の出所
ヒメガキ(女墻) 〈魚禮、魚計二切、城上/小垣、廣雅、女墻〉 女墻==ヒメガキ 玉篇〈假りに玉篇に依る/但し他書にも同じ/注解あることある/ベし〉
〈徒頬切、城上女墻〉
ツクダ(佃) 〈同年、同見二切、作田/也〉 作田==ツクリタ==ツクダ
マユゲ(眉) 〈莫亂切、目上毛〉 目上毛=メウへゲ=マユゲ〈言海にも、まゆは目上メウへの約轉かと/あり〉
キノシン(橗) 〈莫耕切/木心〉 木心=ノシン
クハ(所食桑) 〈思郎切、蠶所食葉〉 所食葉=クヒハ=クハ
タケノヘラ(𥯟) 𥯟〈匹賣切、竹片也〉 竹片=タケノヘラ〈慶長板和/玉篇には/タケベラ ヘラは片の字音へンの轉/訛、平群をヘグリ、駿河をスルガ/と讀むが如し、萬葉集にも干の字をカレ、幹の字をカラと讀みたり〉
カバゴロモ(裘) 〈巨留切、索也、招也、/終也、務也、又皮衣也〉 皮衣==カバゴロモ
ヤド(宿) 宿〈思六切、夜止也、思宙/切、星也〉 夜止==ヤド 〈夜止の字音〉
ワキノシタ(腋下) 〈公洛切、腋下〉 腋下==ワキノシタ
ツギキ(椄) 〈子捷切、椄木、續木也〉 續木==ツギキ
コズヱ(梢) 〈所交切、木末、小柴也〉 木末==コズヱ
〈彌紹切、木末也〉
ミナモト(源) 〈語袁切、水本也〉 水本==ミナモト
ミギハ(涯) 〈五佳切、水際也〉 水際==ミギハ
ネゴト(囈) 〈魚計切、笑也(亦)睡語〉 唾語==ネゴト
フミ(書) 〈式餘切、世謂蒼頡作㆑書/即黄帝史也、又著也、/文也〉 文==フン==フミ〈文の字音〉
カサネ(襲) 〈似立切、左衽袍也、入/也、重衣也〉 重衣=カサネギヌ=カサネ
アカシ(證) 〈諸孕切、驗也、明也〉 明==アカシ

さて、右列擧した言葉の中、彼のアカシといふ言葉の如きは、法制にも密接の關係ある言葉である。例せば、アカシといへは、證據のことにもなり、又、アカシビトといへば、證人のことにもなり、又、アカシブミといへば、證文のことにもなるのである。然るに此のアカシといふ言葉を以て、證據の意味に用ゐることは、隨分古いことであつて、既に、孝徳紀證の字の旁訓にも、アカシビトとあるのであるが、今卒然之を見ると、アカスといふ言葉に、本來、立證の意味があつたかの樣に思はれないでもないが、深く考へて見ると、同語に斯かる意味あることは、矢張、字注訓の結果であるまいかと思はれるのである。

日本語の中には、漢字の形状に據つて下した和訓が多少ある樣に思はれる。拙者は假りに斯かる言葉を名付けて、字形訓といふのである。さて往古韓國に於て、史勿サモルといふ地名を改めて、泗州サチユーとしたことがあるが〈三國遺/事參考〉今、其理由を考ふるに、これ、史勿は其音sa-mol()なる處、泗の字を分析すれば四水サムルとなる。然るに、四水は是れsa-mul()にて、〈saは四の字音、mul/は水の韓名なり〉其讀方殆んど史勿と相同じきを以て、韓人の支那文學に心醉せる、茲に典雅なる文字を採用して、かくは地名を改めたものと思はれるのである。之を要するに、泗州改稱の當時に在つては、韓人は泗の字を見るや否や、忽ち四水サムル(sa-mul)と史勿(sa-mol)とを聯想したものである。さて、今、我邦の言葉を見ると、往々斯かる字形訓あることを發見するのである。例せば、糴の字をイリヨネと訓するが如きは是れ、同字の偏に、籴(イリヨネ)とある故にして、莣の字をワスレグサと訓するは、是れ亦、同字が忘(ワスレ)艸(クサ)二字より成立てるが故なるべし。其他、禾の字をノギ(ノ木)と訓するが如き、〈禾の字をノギと讀むは、其字型/に據つて下せる假訓にして其本/義にはあらざるべし、我邦に/てノギといふは芒のことなり〉又、拇の字をオヤユビ(母指)と訓するが如き、皆是れ字形に據つて下した和訓であらうと思はれるのである(1)。所で、此の拇といふ文字に付ては、餘程面白い事がある。それは餘の儀でもない。韓國に於ても同樣、矢張、字形訓があるのである。抑韓國に於ては、拇の字を訓してömchikarak()といつて居るが、此のöm()は是れ母の義、又、chi()は之の字音にてömchikarakといふことは畢竟、母之指オムチカラクといふことに過ぎないのである。

さて又、我國の制度に關係ある言葉に付て言へば、前文に擧げたイリヨネ(糴)といふ言葉の外、彼のツカサ(官)といふ言葉の如き、恐くは亦字形訓に屬するものであらうと思はれる。如何となれば、官の字の一部分たる㠯の字は、乃ち𠂤()=堆と同字であつて、日本の古語を以て訓するときは、之をツカサ〈ツカサの本義は、物/高き處をいふとぞ〉といふべきであるのである。但し、此の事は、先年、本誌の第二十一卷の、第四號に於て詳論したことがあるから、今囘は唯々其大略だけを述べて置くことにする。

これより本論に入り、漢字の別訓流用に付て一言せば、凡そ漢字の和訓は、其意味毎に、各々別に訓を下すのが通例である。故に野の一字にしても、之を田野の義に解するときは、訓してといひ、之を野卑の義に解するときは訓してイヤシといふのである。然しながら、文字に因ては其意味毎に、各々別に訓を設くることをなさず、其甲義に對する訓を移して、其乙義に對する訓とすることがある。例せば、色の字の如き、其意味を擧ぐるときは、色彩の義あり、容色の義あり、色慾の義ありて、其意味甚だ多いけれども其和訓に至つては、大抵皆イロの一語を以て、之に充てて居るのである。拙者が茲に漢字の別訓流用といふのは、即ち斯かる場合をいふのである。

法制に直接關係のない事柄を餘り長く論ずるのは、本誌の爲めに宜しくない事であるが、序であるから、漢字の別訓流用に付て、更に二三の例證を擧げて置かうと思ふのである。

右略陳した所は、日本語の意殊發展の徑路に關する一種の觀察法であるか、拙者は、以下、此の方法を應用して、少しく古代に於ける我邦制度上の用語を論じて見る積である。

一 アキ アキナヒ アキヒト

我邦に於ては、商といふ字に、種々和訓があつて、其中、アキといふ訓や、アキナフといふ訓、又は、アキヒトといふ訓があるのであるが、さて、此の商業の意義に於けるアキといふ言葉の由來に付ては、從前種々意見がある。新井白石氏等一派の學者の説では商業のアキは、季節のアキより起つた言葉であつて、其原義はき又はきの義であるのである。然るに、又、村田了阿氏の説では、季節のアキは、きの義にして、商業のアキアキナスの義であるのである。其他、大石千引氏の説では、アキナヒ歩行營アリキイトナミの義であるのである。乍㆑然、拙者を以て之を見れば、商業の意味に於ける商の字に、アキアキナヒアキヒト等の諸訓あるのは、是れ亦、別訓流用の結果であらうと思はれるのである。蓋し、商の字には、種々意味があつて、之を商業の義に用ゐることは勿論、又、之を秋季の義に用ゐることがあるのである。

因て、拙者の考ふる所では、商業の意味に於ける、商の字に、斯くアキといふ訓のあるのは、本、秋季の意味に於ける同字の和訓が轉じたものであらうと思はれるのである。其事は、萬葉集に商島守をアキサキモリ〈釋春登氏云、商は/秋の音なればなり〉と讀み、金待吾者をアキマツワレハ〈釋春登氏云五行に配/すれば金を秋とす〉と讀みたるを始めとして、類聚名義抄に左の如き訓を下したるのを見るときは、之を察するに餘りあるのである。

〈俗𧷮字     秋/アキナフ   アキ〉

換言すれば、拙者の説では、アキといふ言葉には、本來、商業の意味は無かつたのであるが、商の字の轉訓に因て、始めて茲に商業の意味を含むことに成つたのである。

二 カバネ

我邦に於ては往古、カバネといふ言葉があつて、普通、骨といふ字や、尸といふ字、さては又、姓といふ字をかく訓して居るのである。茲に其一端を擧げば、左の如しである。

骨の字をカバネと訓したる例、

茲に氏骨とあるは、推古紀二十年二月の條に、便以㆓境部臣摩理勢㆒令㆑誄㆓氏カバネ之本㆒矣とある氏姓と同義なること喋々するまでもなし

尸といふ字をカバネと訓したる例

姓の字をカバネと訓したる例

さて今、臣連オミムラシ等の諸姓をカバネといふことの由來を尋ぬるに、是れ亦、轉訓の結果であらうと思はれるのである。抑々カバネとは本、骨骸の義であつて、夙に骨又は尸の字の和訓として用ゐられたるを、骨の字には、骨骸の外、亦、族類及び階級の義あるを以て、カバネなる言葉の意味何時となく、自然に廣がり行きて、カバネといへば、臣連等諸姓をも指示することに成つたものらしいのである。蓋し骨の字に、骨骸の義あることは、説文に之を釋して肉之覈とあるにて明白なるが、韓國に於ては、往古、同字に特殊の用例あり、之を以て族類及び階級を示す所の稱呼とし、從つて、第一骨第二骨等の熟語、其他、姓骨、骨品、眞骨などいふ熟語さへあつたのである。

因て思ふに、我邦の古書に、氏骨、骨名等の文字見えたるは、全く是韓國の用例に傚つたものらしいのである。現に武烈紀七年の條に見えたる、百濟の別表中にも「前進調使麻那者非㆓百濟國主之骨族㆒也、」といふ一句があつて、骨の字に關する韓國の用例は、夙に我邦にも知れて居つたことと察せらるるのである。

三 サト

我邦では普通、郷又は里の字を訓してサトといつて居る。所で、今、此のサトといふ言葉の原義如何といふと、今日は學者の説が未だ一定して居らず、或學者は之を以て狹所サトの義として居るが、又或人は之を以て、盛所サカリトの義や住所スミトの義として居るのである。拙者の如きも亦、甞てサトを以て、韓語のSaneuntai(〈住所の/義なり〉と同語として、其原義住所の義たるべきことを論じたことがあつた。斯かる次第故、訓の原義が五十戸であるといふ樣なことは、誰も、之を言つたものなければ、亦、之を信じて居るものもなからうと思はれるのである。然るに、我邦に於ては、夙に五十戸の意味に於ける里の字をサトといつて居る而已か、萬葉集には、五十戸といふ文字をさへサトと訓してあるのであるが、抑々此の五十戸の意味に於ける里の字を斯く訓することは、是れ亦、漢字の別訓流用といつて、然るべきであらうと思はれるのである。蓋し、里の字は、玉篇に「里、力擬切、邑里也、周禮、五鄰爲㆑里、國語、五家爲㆑軌、十軌爲㆑里、」とあり、孝徳紀及び戸令に「凡五十戸爲㆑里」とあつて、邑里の義あると同時に、五十戸の義となることもあるのである。それで、サトといふ言葉が、轉訓の結果、五十家をも指示することに成つたのは、毫も怪しむに足らぬ事である。

右擧げた所は、唯々一二例に過ぎないのであるが、拙者の信ずる所、これにても、我邦古代の言葉、而かも、制度に關係ある言葉にして漢字轉訓の影響を受けたものあること、略已に明白であらうと思ふのである。然るに今、拙者の見る所に依れば、此の漢字轉訓の方面よりして、國語を觀察することは、獨り我邦語學者の大に注目すべき事柄なる而已ならず、何事に因らず、我邦の歴史的事項を調査する人の、均しく留意すべき事柄であらうと思はれるのである。如何となれば此の觀察法は、國語の意味變遷の徑路及び事物の新古を究むる上に於て、時として一道の光明たることあるべきが故である。


初出
(明治四十三年五月、法學協會雜誌第二十八卷第五號所載)
底本
中田薰編『宮崎先生法制史論集』(岩波書店、1929年、pp.632—647.)
目次
  • 第一 律令に就きて(明治三十二年二月十二日東京學士會院例會講演、同年三月同院雜誌第二十一編第三號) 一頁
  • 第二 質屋の話(明治三十二年十一月十二日東京學士會院例會講演、三十三年一月同院雜誌第二十二編第一號) 一一頁
  • 第三 日本支那古代の爲替制度(明治三十三年十月二十日史學會例會講演、三十四年一月史學雜誌第十二編第一號) 四五頁
  • 第四 手附の話(明治三十三年十一月十一日東京學士會院例會講演、同月同院雜誌第二十二編第九號) 六三頁
  • 第五 家人の沿革(明治三十四年十月十三日東京學士會院例會講演、東洋學藝雜誌第十八卷第二百四十二號至第二百四十四號) 九八頁
  • 第六 唐代の茶商と飛錢(明治三十五年十一月九日東京學士會院例會講演、東洋學藝雜誌第十九卷第二百五十四號至第二百五十五號) 一四八頁
  • 第七 都加佐名義考(明治三十六年四月、法學協會雜誌第二十一卷第四號) 一八三頁
  • 第八 日本法制史の研究上に於ける朝鮮語の價値(明治三十七年四月及五月、法學協會雜誌第二十二卷第四號至第五號) 二〇四頁
  • 第九 朝鮮語と日本法制史(明治三十七年七月、國家學會雜誌第十八卷第二百九號) 二四一頁
  • 第十 朝鮮意流村の地名を論じて日本古代の内治外交に關する二三の事項に及ぶ(明治三十七年十月、國家學會雜誌第十八卷第二百十二號) 二五四頁
  • 第十一 朝鮮語と日本歴史(明治三十七年十二月十一日東京學士會院例會講演、東洋學藝雜誌第二十一卷第二百七十九號) 二七八頁
  • 第十二 姓氏雜考(明治三十八年二月至三十九年三月、法學協會雜誌第二十三卷第二號、第三號、第十一號、第二十四卷第三號) 二九四頁
  • 第十三 賒と出擧(明治三十八年九月、國家學會雜誌第十九卷第九號) 三二九頁
  • 第十四 啄評の原義(明治三十九年一月、史學雜誌第十七編第一號) 三四四頁
  • 第十五 贉の字義を論じて、日本支那印度古代の手附に及ぶ(明治三十九年二月、法學協會雜誌第二十四卷第二號) 三七三頁
  • 第十六 日韓兩國語の比較研究(明治三十九年七月至同四十年十一月、史學雜誌第十七編第七號第十號及第十二號、第十八編第四號、第八號、第十號及第十一號) 三八一頁
  • 第十七 佐刀(郷里)の原義(明治三十九年十月、國家學會雜誌第二十卷第十號) 五〇〇頁
  • 第十八 部曲考(明治四十年三月、法學協會雜誌第二十五卷第三號) 五〇六頁
  • 第十九 部曲考補遺(明治四十年四月、法學協會雜誌第二十五卷第四號) 五三一頁
  • 第二十 再び服匿(保止支)の事を論じて匈奴語と蒙古語の比較談に及ぶ(明治四十年七月、史學雜誌第十八編第七號) 五三五頁
  • 第二十一 阿利那禮河と新羅の議會(明治四十一年四月至六月、法學協業雜誌第二十六卷第四號至第六號) 五四九頁
  • 第二十二 須恵(陶)の語原を論じて鳥居龍藏君に答ふ(明治四十一年十一月、史學雜誌第十九編第十一號) 五八九頁
  • 第二十三 履中紀の史に就て(明治四十二年一月、國家學會雜誌第二十三卷第一號) 五九九頁
  • 第二十四 勝部考(明治四十二年三月、法學協會雜誌第二十七卷第三號) 六一四頁
  • 第二十五 漢字の別訓流用と古代に於ける我邦制度上の用語(明治四十三年五月、法學協會雜誌第二十八卷第五號) 六三二頁
  • 第二十六 皆叱知考補遺(明治四十三年八月二十八日書翰) 六四八頁
  • 第二十七 毛麻利叱智に就いて(明治四十三年十月、東亞之光第五卷第十號) 六五二頁
  • 第二十八 任那疆域考(明治四十三年十二月及四十四年二月、國家學會雜誌第二十四卷第十二號及第二十五卷第二號) 六六六頁
  • 第二十九 任那宰の韓名「吉」の本義(明治四十四年三月、法學協會雜誌第二十九卷第三號) 六九一頁
  • 附録
    • 第一 國司の起原(明治二十五年九月、法學協會雜誌第十卷第九號) 七〇一頁
    • 第二 津城漫筆(明治二十六年三月至二十七年四月、法學協會雜誌第十一卷第三號至第十二卷第四號) 七一七頁
    • 第三 裁判至要抄の由來(明治二十七年一月、法學協會雜誌第十二卷第一號) 七三二頁
    • 第四 古代の人身賣買(明治二十七年九月、法學協會雜誌第十二卷第九號) 七四〇頁
    • 第五 隨筆二種(明治二十五年二月、法學協會雜誌第十卷第二號及二十六年二月、同誌十一卷第二號) 七五〇頁