肥人書薩人書に就いて

卜部懷賢の釋日本紀卷一、開題に、又問假名字誰人所㆑作哉、答、師説、大藏省御書中、有㆓肥人之字六七枚許㆒、先帝於㆓御書所㆒、令㆑寫㆓給其字㆒、皆用㆓假名㆒、或其字未㆑明、或乃川等字明見㆑之、若以㆑彼可㆑爲㆑始歟、と見え、又薩人書の事は本朝書籍目録帝紀の部に、肥人書五卷、薩人書、(卷數を記さず)と見えたるぞ始めなるべき、さて此の肥人書薩人書の事につき松下見林以來諸先輩、種々考説を附し來りしも、畢竟現物を見ざればたゞ臆測に過ぎず又其の先輩の考説にも各異なるところあれば、二三大家の説を掲げさて後に余が臆測を掲げて試みおかんとす、固より前に述べたるが如く現物傳はらず一覽も遂げざるものなれば所謂空論に過ぎざるものなれども余は余の臆測として茲に一説を試みんとするなり、まづ從來諸先輩諸家の説を掲げ其の論ずるところを示すべし。

肥人書薩人書について諸家の説

松下見林は肥人書について萬葉集に肥人をコマヒトと訓みたるを採て肥人は即ち高麗人なりとし肥人が彼の國の字を傳へしをいふ歟といひ今西國人が文字の異體を謂て肥後字を書くといふとじふ俚諺を以て證とせられたり、此の事谷川士清の日本書紀通證に載せられたり。

〔日本書紀通證一〈彙言〉〕釋曰、問假名字誰人所㆑作、答師説、大藏省御書中有㆓肥人之字六七枚許㆒、其字皆用㆓假名㆒、或其字不㆑明、或乃川等字明見㆑之、若以㆑之爲㆑始歟。

松下氏曰、萬葉集云、肥人額髮結在ヒタヒカミユヘル染木綿ソメユウノ染心ソメシコヽロハ我忘哉ワレワスレメヤ、肥人者高麗人也、肥人傳㆓彼國字㆒、故稱㆑之歟、今西國人謂㆓文字異體㆒曰㆑書㆓肥後字㆒肥前肥後其國近㆓高麗㆒、又本朝書籍目録有㆓肥人書五卷㆒。

新井白石は、同文通考に記して、肥人書は萬葉集に肥人をコマビトと訓みたれば、高麗國の書をやいひけむといひ、彼の國に行はれし文字の我が國に侍りしを記せる書なりけむも知るべからず、薩人書も肥人書の類なるべしと論ぜり。

〔同文通考中〕 肥人書

兼方〈普通懷賢に作る考ふべし〉ノ宿禰ノ説ニ、假字トイフモノヽ始レル事イヅレノ世ニヤ、神功皇后ノ御代ノサキノ文書ツタハラネバ見ル所ナシ、大藏省ノ御書ノ中ニ、肥人ノ字六七枚バカリアリ、其字皆假字ヲ用ユ、其字イマダ明ラカナラザルモアリ、等ノ字ハ明ラカニミユ、コレラヲヤ假字ノ始トスベキトミヘタリ。〈釋日本紀ニ見ヘシナリ〉

謹按スルニ、冷泉大納言爲富卿〈○普通清原業忠の作とす考ふべし〉ノ本朝書籍目録ニ肥人書五卷トノセラレタリ、サラバ此書モト五卷ナリシニ、後ニ纔ニ六七枚バカリ大藏省ノ藏書ノ中ニノコレルナリ、肥人書トハ肥ノ國人ノ書也、肥ノ國トハ今ノ肥前肥後等ノ國コレナリトイフ人アレド、萬葉集ノ中ニ〈十一卷二〉肥人トカキテコマビトヽヨミタレバ、肥人書トイフハ高麗國コマノノ書ヲヤイヒケン、今モ朝鮮ノ國中ニテ用ユル所ノ文字、其體梵字ノコトクナルヲ諺文ゲンモントイヘルアリ、今ノ朝鮮トイフハ古ノ三韓ノ地ヲアハセタル國ナレバ、今其國ニ用フル所ノ文字アルコト古ヨリノ俗ナルベキ、サラバ高麗ノ世ニ其國ニ行ハレシ文字我國ニ侍リシヲシルセル書ナリケンモシラズ、サレド肥人書ニ見ヘシトイフ所ノ字、今モ我國ニ用ユル所ナレバ、兼方ノ説ニヨリテ此書ヲ以テ我國ノ假字ノ始トゾイフべキ。〈今片假字ノツノ字假字ノつノ字等スナハチ肥人書ナリ、クハシキ事ハ下ニ見ユ。〉

薩人書

冷泉家ノ書籍目録ニ、薩人書トイヘル物アリ、是モ肥人書ノ類ニシテ、薩摩人ノ用ヒシ書體ナルヨシイヒ傳ヘヌ、サレバ是モ亦我國ノ書ノ一體ナルべシ、タヾ此書ノ事クハシクシルセル物ヲイマダミネハ詳ナラズ。

伴信友は假字本末に記して、肥人書は肥の國の人にて、今の肥後國をいひ、いろは假字世に弘まり、遠國の下ざまにも漸行はれそめし頃、肥後人の調物など進る時、うひ〳〵しく書き出せるを、國司より取副て奉れるが、大藏省に收め置けるなるべしと論じ、又肥人をコマヒトと訓むにつきては、釋日本紀、師説の大藏省の肥人の書中に乃川等の字明見㆑之とあるは、朝鮮の吏道の草體文字に乃川などの文字あるを思ひ合すれば、肥人はコマヒトにて高麗人ならむかといひ、又肥人を萬葉集にコマヒトと訓めるは戲書にて古は肥たる人をコマ人といひ、又は高麗人はなべてふとりたるによりていへるにやあらむと附説したり、尚又薩人書についても薩摩人の書にて、是も肥人の書と同じ類の書なりしなるべしと、而して本朝書籍目録に帝紀の部に載たるは、公事の部に在けるが傳寫の際紛れたるなるべしと結論したり

〔假字本末〈上卷之上〉〕 さて肥人とは肥の國人なるへし、古書どもに據りて考ふるに、今の肥後國を古は火國といへりしを、後に肥前肥後の二國とし、又後に改て舊の火國の地を肥後とし、筑紫の今の筑前筑後わたりに接する地を割て、更に肥前國と定められたりと聞ゆれば、前後の國出來て後もなほ昔は肥後を、たゞに肥國ともひ其國人を肥人とも呼へりしにて、續紀文武天皇四年六月の下に、薩末人厶厶從㆓肥人等㆒持㆑兵云々と記されたる是なるへし、かくていろは假字世に弘まり遠國の下さまにも漸行はれそむる頃、肥の國人のいまだ能も書熟れさりけるが、調物など進る時に、うひ〳〵しくかきて出せる書の、をかしくめづらしかりければ、國司よりとり副て奉れるを、大藏省に收置けるが在しなるべし、松下見林の書せるものゝ中に、今西國人文字の異體に書なしたるを見て、肥後字に書たりといへり、古諺の遺れるなるべし。

〔假字本末附録〕釋日本紀に、師説大藏省御書中有㆓肥人之字六七枚許㆒、先帝於㆓御書所㆒令㆑寫㆓其字㆒、皆用㆓假字㆒、或其字未㆑明、或乃川等字明見㆑之と見えたる乃川は、吏道の草體に乃川なと書るがあるならむか、萬葉集十一卷に肥人額髮結在ヒタヒカミユヘル染木綿ソメユウノ染心ソメシコヽロハ我忘哉ワレワスレメヤとある肥人を、舊訓にコマビトと訓めり、肥をコマとよむへき義は心得かたけれと、故なくて然訓べくもあらす、もしくは古は肥たる人をコマ人といひて、さも書なれたりしにや、又は高麗人はなべてふとりたるによりて、そのかみ肥たる人を、高麗人のごとしといへるから、戯書の例に肥人とかけるにもやあらむ。

〔假字本末上卷之上〕本朝書籍目録、帝紀部に、肥人書五卷、薩人書と拉べ載たり、肥人書五卷とは、かの有㆓肥人之字六七枚許㆒と云へる書にて、綴書にはあらで、其書たるものゝ五まきにしたるを云ひ、薩人書とあるは薩摩人の書にて、是もかの肥人のと同じ類の書なりしなるべし。〈○中略〉その肥人薩人の書を、かの書籍目録の帝紀部に載たるは心得かたし、此はもと次なる公事の部に在けるが、傳寫せるときに、混れたるものなるべし。

平田篤胤は神字日文傳に記して、封馬國卜部阿比留氏所傳日文ヒフミ、又出雲國大社所傳日文ヒフミ等の奧書を證として、釋日本紀に肥人之書とあるは、今傳ふる神字の草書を、肥國人の書けるなりと論じたり。

〔神字日文傳上〕 對馬國卜部阿比留氏所傳日文四十七音の奧書。

右神代四十七音字者、天兒屋根命之眞傳也、對馬國卜部阿比留氏、内々傳㆑之可㆑秘云々焉〇一本云、右日文四十七言者、日神勅㆓天思兼命㆒所㆑作云〇一本云、右神世行文中古所謂肥人書也、下総國人大中臣正幸傳㆓源八重平㆒、八重平傳㆓之政文㆒者也。

〔神字日文傳下〕 出雲國大社所傳日文の奧書。

右出雲國大社所㆑傳、武藏國人金井滌身麻呂傳㆓政文㆒者也〇一本云、右神世草文中古所㆑謂薩人書也、

〔神字日文傳上〕 釋日本紀に和字ヤマトモジオコリを問へる答の其一に、師説大藏省御書中有㆓肥人之書六七枚許㆒、先帝於㆓御書所㆒令㆑寫㆓給其字㆒、皆用㆓假名㆒、或其字未㆑明、或乃川等字明見㆑之、若以㆑彼可㆑爲㆑始歟とあるは、古史徴の開題記に言へる如く、康保以前の私記の説とキコえたるが、この肥人書と云ふもののこと、前にかの開題記を撰れる頃までは、肥國人ヒノクニビトの古く作れる和字ヤマトモジに、たま〳〵乃川などの漢字の交れるなるべしと思へりしを、上下に擧たる字ともを見て、近頃よく考ふるに、この謂ゆる肥人書は、すなはち今此書に著し傳ふる字等ジドモにて、乃川等字明見㆑之といへる二字は漢字にあらす、其はまづ萬葉集を始め古書どもの用ひ來れるの二字は元より漢字にて、乃はナイの音なるをに轉じ用ゐたる例にて論もなく、セム字を義訓にに用ひたりと見ゆるが、適々肥國人ヒノクニビトの書る皇國字にそれに似たるが有しを見て、ゆくりなく漢字の乃川なりと見へるなりけり〈○中略〉釋紀に肥人之書とあるは今著し傳ふる神字の草書を肥國人の書るなること疑なく上件の奧書に中古所㆑謂肥人書也と云るは、中世より書傳たるにて、此を肥國人の書たるもアリしを見たる人の奧書なること、更に疑なき物なり、然るに新井君美ぬしの『同文通考に、右の釋紀の文と、仁和寺書目に肥人書と有を引きて、肥人書とは肥國人ヒノクニビトの書なりといふ人有れと、萬葉集に肥人と書たるをコマヒトと訓たれば、肥人書といふは高麗國の書をや言ひけむ、今も朝鮮にて用ふる文字、その體梵字の如くなる諺文と云ふあり、今その國に用ふる文字あること、古よりの俗なるべし、然らば高麗の世に其國に行はれし文字、我國に傳はりしを記せる書なりけむも知らずと』言はれたれど、此はいみじき非説なり、そは此説は萬葉集十一卷に寄㆑物陳㆑思歌の處に「肥人の額髮ヒタヒカミへる染木綿ソメユウの染し心を我忘れめや」とある歌の肥人を常の印本にコマビトと假字付たるを見て言れたる説なれど、此は非訓なり、ヒノヒトと訓べし、然るは此歌に竝べて「早人の名に負ふ夜音ヨコヱいちしるく吾か名をらせツマタノまむ」と云る歌あり、早人とは薩摩人の事なるに、かく竝べシルせると、仁和寺書目録に肥人書薩人書と竝べてシルせるを以ても、我が肥國人の書なること論ひなし、殊に肥人を高麗人とする事は、たゞ萬葉集の誤訓を據とするより外に正しき證のなき事なるをや。

榊原芳野は文藝類纂に記して、天武天皇の十一年に境部連石積等が勅を奉して新字四十四卷を造りたる即ち天武朝の新製の和字ならんかと論じ、其の字母を諸社には其のまゝに存し、肥人薩人などの僻地には亡びずして、傳へしなり、本朝書籍目録には二國のみ存してありしを記したるなるべしといへり。

〔文藝類纂〈一/字志〉〕日文略説。

芳野別に一説を立つといへとも、是亦試にいふに過きす、自亦決する所に非す、竊に思ふに是天武の朝新製の和字ならんかと、日本紀、天武十一年、命㆓境部連石積等㆒、更肇俾㆑造㆓新字一部四十四卷㆒、とあるを、釋日本紀に私記を引きて、師説此書今在㆓圖書寮㆒、但其字體頗似㆓梵字㆒、未㆑詳㆘字義所㆗准據㆘乎、といへるは、ウチサスなどの字を析するに似たり、又一紙にして足るべきを、四十四卷とあるは、此頃の卷本なりと雖多きに過るか如し、然れとも其書數字連合して、事物の語を擧けし故に、多くなれるなるへし、さて其字頒行の令はなけれと、必其字母をは寫し傳へしことは著し、然れとも官府及都下にては朝廷にて行はれさる字なるか上に、其頃特に漢學を專とせられし故に、自其原字母も散逸せしを、諸社にはこれを其まゝに存し、肥人薩人などの僻地には、文華に疎き者多けれは、これにも自亡ひす、且韓國にも傳へしなり〈○中略〉其肥薩兩國に傳はりしは、本朝書籍目録に擧けしが如く、二國のみ存して、此由來も知らす、諸家にも只肥人書薩人書とのみ題して藏め有りし者なるへし。

古事類苑文學部文字の條に肥人書、薩人書を掲げ、按文を附し、肥人は恐らくは隼人のことなるべしと論じ、尚同書官位部隼人司の條に、本朝書籍目録に肥人書五卷薩人書とあるは、薩章人書とありしが、摩の字を脱したるものにて、即ちこの肥人書は薩摩隼人の書なるを註したるものならんと論じたり。

〔古事類苑〈文學部〉〕 文字の條。

〔本朝書籍目録〈帝紀〉〕 肥人書五卷、薩人書。

〔令集解〈十三/賦役〉〕 凡邊遠國有㆓夷人雜類㆒〈(中略)古記云、一夷人雜類、謂毛人肥人阿麻彌人等類、問夷雜類、一歟二歟、答本一末二、假令、隼人毛人本土謂㆓之夷人㆒也〉

按スルニ、本文ニ據ルニ肥人トハ、恐クハ隼人ノコトナルベシ、尚ホ官位部隼人司篇參考スベシ。

〔古事類苑〈官位部〉〕 隼人司の條。

又按スルニ、萬葉集卷十一ニ肥人額髮結在ヒタカミユヘル染木綿ソメユフノ染心ソメシコヽロハ我忘哉ワレワスレメヤトアル肥人ヲ、舊點ニ「コマヒト」ト訓ジタリ、然ルニ賦役令ニ、邊遠國有㆘夷人雜類之應㆑輸㆓調役㆒之所㆖、隨㆑事斟量、不㆔必同㆓之華夏㆒トアリテ、其集解ニ古記ヲ引テ云ク、夷人雜類、謂㆓毛人、肥人、阿麻彌人等㆒、問、夷人雜類一歟二歟、答本一末二、假令隼人毛人、本土謂㆓之夷人㆒也、此等雜㆓㆐居華夏㆒謂㆓之雜類㆒也、一云一種無㆑別トアル毛人ハ、蝦夷阿麻彌人ハ即チ南島奄美ノ人ナレバ、肥人ハ隼人ニテ「ハヤヒト」ト讀ムベキニ似タリ、而シテ此歌ノ一二三句ハ、隼人ノ歌舞スル時ノ状ヲ擧ゲシモノナラン、又本朝書籍目録ニ肥人書五卷薩人書トアルハ、薩摩人書トアリシガ、摩ノ字ヲ脱シタルモノニテ、肥人書ハ薩摩隼人ノ書ナルコトヲ註シタルモノナラン、又播磨風土記賀毛郡ノ條ニ載セタル、日向肥人朝戸君モ、續日本紀文武天皇四年紀ニ、薩末比賣、久米波豆、衣評督衣君縣、助督衣君氐自美、又肝衡難波從㆓肥人等㆒持㆑兵剽㆓㆐劫覔㆑國位刑部眞木等㆒トアル肥人モ、亦隼人ノ事ナルヘシ、附シテ後考ヲ竣ツ。

久米邦武氏は日本古代史第六章第二十四節に記して肥人書は韓土より傳へ薩人書は閩地より傳へたる苗字の一種ならんといひ更に同書第十四章第六十三節には肥人書薩人書とて古字のありたるも皆支那南方の古字なるべしと論斷せり。

日本古代史第六章第二十四節日本新羅の往來の條に曰、是までの學者は自國の歴史に傳はらぬ事の、周圍の國に記録されたるを收拾するといふ、緊要の眼目に盲かりしを以て、古代の事のいとど晦き世を、更に闇黒になし畢りたり、因て爰に諾冉二尊までの年代を相當の位地に排序し、日韓兩史を參照すれば、當時の事跡を闇中に髣髴と見るを得たること前に述るが如し、猶此端より緒を挑げて裏面に伏する事を鉤知せん、漢史に眞番辰國欲㆓上書入見㆒の句あり、文辭譯語の國際に必要なる情理を推せば、衞滿箕準が朝鮮馬韓に據りし比より、眞番辰國は漢に交通するの利を發覺して、必ず漢字漢文の傳習を始めたるべし、出雲に語部あり、筑紫に譯部あり、此時より既に漢の隷字は傳はりたるに因て、神代の傳説を記録して有史時代の過渡となるを得たりと思ふは、あながち謬見に非ざるべし、秦篆までは日本に痕跡を存せず、出雲文字島に存する、少彦名命の字は苗字にして呉越往來の時代に用ゐたる文字なるべく、又肥人書薩人書などありといへど、夫も秦篆とは思はれず若し古文あらば承平年代の博士が知らぬ理なし、其字傳はらねば稽ふに由なけれど、肥人書は韓土より傳へ薩人書は閩地より傳へたる苗字の一種ならん。

同書第十四章第六十三節大陸の學藝移入の條に曰、日本の古代に篆書の徴跡は好古日録〈寛政に藤原貞幹著〉に古竹簡曲尺にて長八寸許廣五分餘上下に韋を穿つ孔あり、鐫所の篆奇古なり疑ひもなき漢以前の物なり、享保の初まで村人の覆醤となりて存すと外祖の手録に見えたりとある、是などは一顧の價あれど、傳來も知れず、其物も存せざれば徴とはなしがたし、又同書男奇字〈竪に書す〉四十七字を寫録し、原本は鹿島神祠の傳ふ所にて、世に寫し傳へて神代の文字と云、按文字は八絃繹史に載る苗人の書と絶て相似たりとあり、又出雲の文字島にも巖に鐫附たる神代少彦名命の書とて存するも亦同體の字といふ、平田篤胤是等の古字を輯めて日文傳を著はし、神代文字なるを辨すれど、信ずるに足らず、少彦名命は常世國即ち閩越の人なれば苗人の字といふ方是に近し、肥人書薩人書とて古字のありたるも秦篆とは思はれず、皆支那南方の古字なるべし〈既に六章二十四節にも略説す〉

亡父眞頼日本文學説に記して、肥人書は肥の國に流布せし文字にて書きつらねたる書を云ひ、薩人書は薩摩地方に流布せし文字にて書きつらねたる書を名つけしなるべし、其の文字は古文字なれば後世に至りては讀み得ざりしなり、但本朝書籍目録に據れば、我が帝王歴代の事を記せし文なりと論ぜり、尚因に肥人をコマビトと訓めるは肥の國には高麗人の多く歸化せしより稱せる歟、薩人はシラギビトと訓まむ歟といひ、高麗新羅の人々が歸化して肥人薩人となりて、我が帝王歴代の事を記したる事なれば、肥人書薩人書といはんかた穩當なりと考ふといへり。

〔日本文學説〕 肥人書薩人書。

本邦に文字の行はれそめしは、西國(西海道)より流布して中國(山陰、山陽)に波及せり、故に肥人書薩人書の名も傳れるなるべし、按するに肥人はヒヒト薩人はサツヒトと訓むべきか、然るは肥の國に流布せし文字にて書きつらねたる書を肥人書といひ、薩摩地方に流布せし文字にて書きつらねたる書を薩人書と名つけしなるべし、此肥人書薩人書は後世まて傳はりしかとも、後世に至りては其文字は古文字なれば、讀み得ることも能はざりしなり、斯くいふ徴は、釋日本紀卷一にいはく、又問假名字誰人所㆑作哉、答師説大藏省御書中有㆓肥人之字六七枚許㆒、先帝於㆓御書所㆒令㆑寫㆓給㆓其字㆒、皆用㆓假字㆒、或其字未㆑明、或乃川等字明見㆑之若以㆑彼可㆑爲㆑始歟〈○以上文〉と見え、又本朝書籍目録なる帝紀の條に、肥人書五卷薩人書〈○卷數缺〉とあるなどに據りていふなり、肥人書薩人書は、本朝書籍目録に據るに、我が帝王歴代の事を記せし書なり。

上件に述べたるがごとくなれば、本邦に文字使用の事の起りし其の始は、鎭西諸國にて其の諸國の中にても、肥國(今の肥前、肥後の地方)と熊襲國(今の日向大隅薩摩の地方)の地方などぞ、殊に先たちて文字使用の事の開けたりし地にはありける。

因にいふ、肥前肥後の地方に文字の早く開けしは高麗人の傳來にやあらむ、抑此の肥前、肥後の地は、上古に高麗人の歸化するもの多し、故に其の傳來の文字の流布せしなれば、これを肥人書といへるならむ、肥後の二字を萬葉集に高麗人に填てゝ用ゐしも、肥國に高麗人の多く歸化せしことの徴證とすべし。

因に又いふ、肥人を上古にコマビトと訓めれば、肥人書はコマビトとよみ、又此の例によらば薩人書はシラギビトフミとよみしにやと思へど然らず、尚肥人書薩人書とぞよみしなるべき、然るは此の肥人書、薩人書は、高麗人、新羅人の我が帝王歴代の事を記したる事なれども、既に歸化して肥人、薩人となりて我が帝王歴代の事を記したる事なれば、肥人書、薩人書といはむかた穩當なりと考へらるゝなり。

因に又いふ、倭名類聚抄卷九、肥後國菊池郡に辛家郷あり、是高麗人の多く歸化せし一斑を見るに足り、日向國兒湯郡に韓家郷あり、是新羅人の多く歸化せし一斑を見るに足る、此の他新羅人の多く熊襲國(日向、大隅、薩摩)に來りて、我が人民となれりし事は、次々に述ぶべし。

結論

以上掲げし先輩の説、何れも肥人書、薩人書は文字なりといふことは一致したり、但其の文字について松下見林は肥人即ち高麗人にして彼の國の文字を傳へし歟といひて、俚諺の肥後字を以て證せられ、新井白石は見林の説と同じくその上に薩人書も肥人書の類なるべしと論じ、伴信友は肥人は肥後人なりと論じ、いろは假字世に弘まり肥後人の調物など進る時に、初々しく書き出せるを、國司より取副て奉れるが大藏省に收め置けるなるべしと、又薩人書も薩摩人の書にて、是も肥後人の書と同じ類なるべしといひ、平田篤胤は對馬國卜部阿比留氏所傳の日文、また出雲國大社所傳日文の奧書を證として、肥人之書とあるは神字を肥國人の書けるなりとして日文を益々論證したり、榊原芳野は天武天皇十一年に境部建石積等が勅を奉じて新字四十四卷を造りたる、天武朝の新製の和字の字母を肥國人薩摩人などの傳へしなるべしと試み、古事類苑文學部文字の條には肥人書、薩人書を掲げ按文を附し、肥人書は隼人の書なるへし、薩人書とあるは肥人書の註にして薩摩隼人の書なることを註したるまでなりと論じたり、久米邦武氏は肥人書は韓土より傳へ薩人書は閩地より傳へたる苗字の一種ならんといひ、更に又肥人書、薩人書は皆支那南方の古字なるべしと論斷せり、亡父眞頼は肥人書は肥の國に流布せし文字にて書きつらねたる書をいひ、薩人書は薩摩地方に流布せし文字にて書きつらねたる書を名づけしなるべしと、但其の文字は古文字なれば後世に至りては讀み得ざりしなりといひ、然して本朝書籍目録に據れば我が帝王歴代の事を記せし文なりと論ぜり、又肥人、薩人の訓については一説を試みたれど、尚肥人書、薩人書といはんが穩當なりと結論せり、以上先輩の諸説異なりといヘども、要するに肥人書、薩人書は一種の文字なりといふ事は一致したり、是より余が愚案を述ぶべし、そは鎌倉時代に成れる釋日本紀の説に肥人書は一種の文字なりとの説あるになづみて何れも一種の文字なりと思ひて先輩が種々説を試みたるなり、然れども余は第一に釋日本紀の説を信ぜず、肥人書の大藏省に傳はる理由の後世の學者が辯護するも薄弱なる事、且其數何枚といふ程の少數なるに、其の後足利時代に成れる本朝書籍目録には五卷と記せることの相違ある事、或は本朝書籍目録の肥人書と大藏省の肥人書とは別物なるかは知らねども、此の點に於て不審あるなり、然して本朝書籍目録には帝紀の部に掲げて、字類の部には掲げざる事に於ても、既に亡父眞頼が因に論ぜしが如く、肥人書、薩人書は我が帝王歴代の事を記したる書なる事疑ふべからざるなり、伴信友は此の在が書籍目録に帝紀部に載せたるは心得がたし、此は次なる公事の部に在けるが、傳寫の際混れたるものなるベしなどいへれども、此の書が公事部に入る可き證據なければ一向に其の説たち難し、こは全く肥國人が傳へたる歴史、薩原人が傳へたる歴史にして、遠僻の地に傳へたる一種の地方的歴史なるべし、亡父は單に帝王歴代の事を記せる書籍なりと考へられたれども、果して然るか、余は此の書は地方的の古傳書にして、歴史上の事やら、肥國に於ける郷土の古傳説を記したるもの、又薩人書は薩摩に於ける古傳説を記したるもの、肥人書、薩人書と特に書名に冠せしも特殊の事なることを知るべし、此の二書は何れも西國の僻遠に傳はれる傳説として見るべき古書なり、されば釋日本紀に記せる如き一種の古文字を記せるものに非ず、文字に於ては普通の漢字にて記せしものにして傳説を記したるものと思考せらるゝなり、是固より臆測の説なることは上文既に言明し置くところなれども、本朝書籍目録に此の書を帝紀の部に收め、字類の部に收めざるに先輩何れも一種の文字を記せし書なりと論じたれば、圖らず不審起り茲に一説を試み置くなり、猶また書名に何書といふ事、漢籍に尚書、本邦に天書などありて、といふ事はあながち文字ばかりをいはざる事をも、知る可き事なりかし。

初出
『考古學雜誌』第九卷第六號、大正八年二月五日發行、pp.341—354.