物語の源流

能楽と物語とは密接の関係がある。能楽の研究も追々緒を抽でゝ、観世世阿弥の伝書にて世に隠れたる珍本も印行され、又去一月の会には深川忍山翁の平家を聴聞して比較研究を試まれた。其席には相憎故障あつて欠席したが、平家節へいけぶしと謡曲の節とは大分縁が遠かッたよし。余も二十余年前に平家を聞き、其後或る宴席に有名なる瞽師の琴を聞た歌の中に、二三度平家節の余韻が耳に響いたによッて、今のは平家が交ッてゐると言たが、後に主人の話に、瞽師が予の言を聞て、御客の中平家と御聞なされたが、全くあの歌には、私の工風で三処に平家節を用ゐてゐると言たぞと話されたことがある。其声は、景清の松門の謡にある呑節のみぶしの様な所の引音に甲に響く声であッた。因て松門の謡は平家節に注意して節を付たもので、諷ふにも其心で諷ふのであらふと臆度してゐる。勿論糸に合する平曲へいきよくの調子は琴には用ゐらるれど革には合ぬ。只節回しに平家を帯る心得であらふ。夫は兎もあれ、今度の研究会で物語に節があり、其節の名と象と知れたのは斯道の研究に於る進歩の現象にて、先年余の論じかけた謡曲は歌と語りとの二つにて組織した物なるを証したるを喜び、進んで昔の物語は文芸に大関係あり、其流れが能となり劇となッた計りでなく、口上演説振となり今の雄弁学に接するに至りしことを論ぜん。

物語の起り 話と語との別

余は能楽の五巻八号に昔の物語は扇か何かを打て語ッたもので、自然と節にかゝり身振をなすことが起ると委しく論じおいた。然し其頃までは昔の仮名文に話と語との差別が確と有や無やまだ判らず、猶疑ひつゝあッたが、其後奈良朝には漢学を婦人にまで普通せんとした末に、平安の朝となり、藤原氏が勢を得ると共に仮名文の発達となッた次第を推源すれば、仁明天皇の時にはゝや良峰宗貞(後に僧正遍昭)小野小町などの歌人が出て、程なく在原業平の伊勢物語が書かれ、遍昭集伊勢集などの和歌の前書も多少物語に似てゐる所より、仮名文の発達は物語から誘かれたものと心付いた。其後紫式部の日記を見て、当時の文には物語と話とは確と書分られてゐる、よく差別して見ねば大いな誤解となることに心付いた。それは日記の初め(寛弘五年)秋の比のくだりに、

しめやかなる夕暮に、宰相の君と二人物語してゐたるに、殿(頼通)の三位の君簾の褄引あけて居給ふ。年の程よりはいとおとなしく、心憎き様して猶心ばへこそ難きものなめれなど、世の物語りしめ〳〵としておはする気はひ、幼しと人の侮り聞ゆるこそ悪けれと愧しげに見ゆ。打解ぬ程に多かるべき野辺にと打誦(吟ずるを云)じて立ち給ひにしさまこそ、物語に誉たる男の心地し侍りしが、かばかりのことの打思出らるゝもあり。

此文に物語の文字三ツある内、前の二人物語してとは差向ひに話して居る様にも聞へて紛らはしけれど、若しそれならば、女の二人話しするを、簾の褄をあけて立聞し、俄に吟声を発するとは卑陋な挙動になる。決して然らず。物語を立聞しつゝ「打解ぬ程に多かる野辺に」とずんされたるがおとなしくて、物語にほめた色男の心地したのである。宰相の君は紫式部の熟懇なる朋輩なることは、後の霜月朔日皇子五十日御祝いそかおんいはひの条に「聞にくき声も殿(道長)の給はす、怖しかるべき夜の御酔なめりと見て、事果るまゝに宰相の君に言合せて隠れなんとするに、東の表に殿に公達宰相中将(兼隆)など入て騒しければ、二人御帳みちやうの後に隠れたるを取払はせ給て、二人ながら執居させ給ひて、和歌一つづゝ仕れさらばゆるさんとの給はす」とあれば歌人である。紫式部の年齢は、母の祖父中納言文範、ことしより十三年前に八十八歳にて薨じたるより推すに、まだ式部は卅歳にはならぬ時なるべく、三位の君は中宮の弟頼通にて、当年十七歳になる故に幼しといへり。

当年彰子中宮は廿一歳(後に上東門院)にて、宮中平日の有様は前文の前に「御前に近う候ふ人々、墓なき物語するを聞し召つゝ」とあり、又「八月廿日余りの程より、上達部殿上人どもさるべきは皆宿直がちにて、橋の上、対の簀子、渡り殿などに皆転寝をなしつゝ、墓なう遊び明す、琴笛の音などにはたど〳〵しき若公達の読経争ひ、今様歌いまやううたども声合せなどしつゝ論じ給ふもをかしう聞ゆ」とある。さるべき公卿は物語をして女房たちに聞せらるれと、若公達は読経争ひ今様を歌ふなどにすぎぬといふ所に、謡曲の源が流れてゐることに注意を払ひおくべきである。

同時の定子皇后の宮にて書たる清少納言の枕草紙(春曙抄)巻四に、「御斎に籠りて、さすがにさう〴〵しくこそあれ、物やいひにやらましとなんの給ふと、人々語れ」とあり。又「長押の下に火近取よせて、さし集ひて偏をぞ突、(中略)炭櫃(火鉢を云)のもとに居たれば、又そこに集り居て物などいふ」とあり。又巻六に「皆酔て女房と物いひかはす」とある。「物いふ」「物いひかはす」は話し「語れ」は物語である。偏突は漢字の作りを隠して偏にて何字なるを当ることである。巻五に「御前に人多く侍へば、庇の柱によりかゝりて女房と物語して居たるに、物を投給はせたる、開て見れば、思ふべしや否や、第一ならはいかゞと問せ給へり、御前にて物語などするにつけて、人には一に思はねば更に何かせん」とある。第一といはるゝ様に語らへとの意である。世に名高き清少納言が香鑪峰かうろほうの雪との仰せを聞て簾を巻上た事は、一条帝の勅ではない。皇后の御前に集り物語の時である。巻上に、

雪いとたかう降たるを、例ならす御格子まいらせて、炭櫃に火をおこして物語などして集り候ふに、少納言よ、香鑪峰の雪はいかならんと仰られければ、御格子あけさせて簾高く巻上ければ笑はせ給ふ、人々皆さる事は知り歌などにさへ歌へど、思ひこそよらざりつれ。

白楽天が「香鑪峰雪掲㆑簾看」の句は、此頃久しく吟誦された句で、物語の間に上の文字を問かけらるれば、下の文字は此文にいへる如く人々みな知り歌などにさへ歌ふてゐるから、少し気転をきかする一種の偏突へんつき、謎々、又は歌留多取の様なことにすぎぬ。観世大夫が近衛公の座にて西行桜の曲を所望され、近衛殿の糸桜をこの御庭の糸桜と謡ふたといふ程の事である。然し平常ならば突然の問かけなれど、物語の席にはかゝる事のあるが趣味になるものであるに、是までの人は話と語との別に注意せず、物語朗詠などの流行に心付ぬ故に、げう〳〵しく見做したのである。

物語本の種類 歌物語 昔物語 絵物語 琵琶物語 世物語 即座の物語

此時代の物語本の今に伝はッて居るのを少し類挙すれば、まづ伊勢物語、大和物語は短き歌物語であり、竹取物語、宇津保物語は長き昔物語である。其外絵物語、世物語など色々の物語本ができ、又即座の口上も物語に語ッたもので、源氏物語は此時代に歌物語を昔物語に長く書広めたものである。枕草紙に「物語をもせよ、昔物語をもせよ、さかしらにいらへうちして、こと人との言粉らはすは人いと憎し」とあり。物語本の夥多しくできたるは、紫式部日記の寛弘六年正月の条に、

雨降る日、塵積りてよせたてたりし厨子と柱の間に首刺入つゝ、琵琶も左右に立侍り、大きなる厨子一とよろひに隙もなく積て侍るもの、一つには古歌物語の、えもいはず虫の巣になりたる、むつかしくはい散れば、開て見る人も侍らず。夫らを徒然せめて余りぬる時、一つ二つ引出して見侍るを、女房集りて、御前は斯くおはすれど御幸ひ少きなり、なてう女が真名文をよむ、昔は経読をだに人は制しきと、後言しりこといふを聞侍るにも、物忌ける人の行末命長かるめる、よしとも見えぬ例なりと、いはまほしく侍れ。

斯く古き歌物語の本がむしに喰せ在たのを紫式部が引出して見たるは、今の女が謡曲に凝りて廃れた謡本を見る様なものと想はれ、琵琶も左右に立とは時に調子をとるためかと思ふ。物語本を読さへ女房たちが後言いふ程なれば、女はよく〳〵読書嫌ひである。其中に紫式部が源氏物語五十四帖を書いたとは信ぜられぬ。是は後にいふ。

皇后の宮中は物語の流行盛んに、而も皇后は真名文を読ことを好ませられた。枕草紙巻四に「暮ぬれば参りぬ、御前に人々多く集ひてゐて、物語のよき、あしき、にくき所などを定め、言諍ひ誦し、仲忠が事など御前にも劣り勝りたることなど仰さる」とある。仲忠は宇津保物語に仲忠の大将とて、わかこ君といひし人の子にて、宇津保の俊蔭が娘の腹に生れし人云云の事にあたる。清少納言は漢籍も読得る故に后宮に召され、皇后は真名を読ことを悦ばせ給ひたれど、中宮の方には痛くこれを嫌ひ紫式部は物語本を読て謗られたるに拘はらず、后宮の方に対しては其日記に「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける、人さばかりさかしらだち、真名書散して侍る程も、よく見れはまだいと堪ぬこと多かり、かへ人に異ならんと思ひ好める人は、必ず見劣りし、行末うたてのみ侍れ」とあり。要するに当時宮中に才媛の輩出したるは自身の読書にて文心を養成したではなく、物語の聞学問に得たのである。

両宮共に文学ある公卿博士などの物語を聴くは、今の講義演説を聞が如く、折に触て其催しあり。而して女房たちも閑々には物語をなして娯みたものである。清少納言が史記の孟嘗君の故事にて「夜をこめて雞のそら音は計るとも世に逢坂の関はゆるさじ」の和歌をよみたのは、職の曹司にて物語を御催しの時である。枕草紙巻七に、

頭弁(行成)の職に参給ひて物語などし給ふに夜いと深ぬ、明日御斎おものいみなるに籠るべければ、丑になりぬればあしかりなんとて参給ひぬ。つとめて蔵人所の紙屋紙かうやがみ引重ねて、後の旦は残多かる心地なんする、夜を通して昔物語を聞へ明さんとせしを、雞の声に催ふされてと、いといみじう清げに、裏表に言多く書給へるいとめでたし(下略)。

斯く書置て帰らるゝを送りてよみかけたる歌である。是は其宵より公達博士たち参りて物語りし、暁晨には昔物語の有益な興味ある語りになる順序なるに、残多しとて早退せられしを惜みて、孟嘗君の雞鳴に函谷関を出たる故事をよみたる、当意即妙の思出である。然るを是まで物語といふことに注意なき故に、北村季吟の春曙抄にも、行成の夜深く帰り、心浅き様なるを紛らさん、と雞の声に催されてと偽り給へるを、左様の偽に誑かされては逢侍らじとの心をいへるなりと、恋情に誤解されてある。大弁蔵人頭となりて、天皇に昵近し、政事を取扱ふ人が、夜分一人皇后の女房の部屋に往て私語さゝめごとし、けふは昔話をして夜を明さんと思ひしは残多しと、書遺して丑満比に帰ったとは、言語道断な濫行になつて居る。是は唯物語を話しと看做す所からである。此行成の書は、後に皇后の御覧に入りて珍重されたとあり、文学の美談なるを、纔かの誤解より淫猥の醜行に言做してある。

絵物語及び琵琶物語の一二をいへば、枕草紙巻四に頭中将斉信が半蔀より歩み出て、皇后の簾近く居たる、直衣指貫の姿をば、「まことに絵にかき物語のめでたきことに言たる、是ぞこそはと見えたり」とあるは、即ち絵物語である。当時殿上人の著付、言語、動作は、さながら能楽の舞台がゝりの如く婦人たちに見られたるを想像さるゝ。又長徳元年二月御仏名三夜すぎて翌朝の事に、

御仏名のあした地獄絵の御屏風取渡して宮に御覧させ奉給ふ、いみじうゆかしき事限りなし、是見よがしと仰らるれど、更に見侍らしとて、ゆゝしきに上屋に隠れ伏ぬ。雨いたく降て徒然なりとて殿上人上の局に召て御遊あり、道方の少納言琵琶、いとめでたし、済政の君箏の琴、行義の笛、経房の中将笙の笛などいと面白く、一と渡りり遊ひて琵琶弾やみたる程に、大納言殿の琵琶の声はやめて物語せんこと遅しといふ事を誦し給ひしに、隠れ伏たりしも起出て、罪は怖ろしけれど、猶物のめでたきは得やむまじと笑はる、御声の勝れたるにはあらねど、折の殊更に作り出たる様なりしなり。

前の地獄絵の屏風を殿上人と御覧の時には、必ず絵の説明をしたる人ある。是が即ち絵物語である。絵巻物、絵縁起などに絵詞とて附てあるは其物語の本と見てよろしい。夫を口頭にていふとき語りの調子になるは自然の事にて、今にも京都を始め、処々の古社寺や名所旧蹟の案内者、或は古書画古器物を陳列したる、説明して観者に聞する語調のあるのは、絵物語の遺習である。

後の大納言伊周のずんは即ち朗詠である。白楽天の琵琶行に「停㆑船暗問弾者誰、琵琶声停欲㆑語遅」の語欲を物語することと吟じたるは当時の解釈にて、大に注意すべきことである。琵琶行の琵琶は初め一曲を弾たる後に弾者の素性を語る。恰も平家の前弾まへびきをして後に語り出すと同様なるは、唐の時代の江南に流行出して琵琶の本朝に渡り、夫が琵琶法師の物語りの起源となつたものであると思はるゝ。琵琶の日本に伝はりたるは在原業平と同じ時代であつて、業平の書れた歌物語の流行ると共に琵琶法師の物語も流行り出し、甲の系統は源氏物語となり、乙の系統は平家物語となり、謡曲は此両流を収容して成立て居る。思ふに伊勢物語は本朝固有の語り調子にて、短き一節の歌物語をなし、宮中にてなしたもので、一方に専門の物語師は唐の琵琶語りを参取して、一つづりの長き昔物語、世物語を面白く語り出したものであらう。近世にできた浄瑠璃の朝顔日記宿屋の段に、初め露のひぬ間の歌を琴曲に前弾し、後に身の上ばなしも亦一興と問れて、サハリ(即ちクセ)に語るは平家式を採たものである。されば身の上がたりといふべきを、身の上ばなしといふのは、話と語との無差別になつた後世の訛りである。謡曲までは話と語と自ら判別されてゐる。よく注意を加へて見れば話と語との分界は自然に看出さるゝのである。

物語は物語本によるには限らず、世物語は現時の事を其まゝ語つたものである。枕草紙に「徒然なる折に、いと余り睦しくあらず、踈くもあらぬ客人の来て、世の中の物語、此頃有事のおかしきも、憎きも、怪しきも、是にかゝり、彼にかゝり、公私おぼつかならず、清き程に語りたる、いと心行く心地す」とあり、又巻四の「左衛門則光がきて物語などするついでに」とあるなどは、世物語である。後に帖に書綴られたる宇治拾遺物語、今昔物語は昔物語世物語を集めたものである。

即座の物語は即ち口上振である。最初に挙た枕草紙の「物やいひに遺れしとなんの給ふと人々語れ」とある、語れは之である。此に一例を挙れば、長保二年大納言伊周大宰府に左遷され、定子皇后は髪をおろし小二条に幽居せられ、清少納言は中宮方に縁あるとの嫌疑にて故里に帰つて在し時の事を枕草紙巻七に、

故殿(道隆)などおはしまさで、世の中に事でき物騒かしく成て、宮又内にいらせ給はず、小二条といふ所におはしますに、何となくてうたてありしかば、久しう里に居たり、御前わたり覚束なきにぞ、猶えかくてはあるまじかりける。左中将(斉信)おはして物語し給ふ、(以下は物語)今日は宮に参りたればいみじく物こそ哀れなりつれ、女房の装束も唐衣からきぬなどのをりにあひ、撓まずおかしうても候や、簾の側の開たるより見入つれば、八九人計にて黄朽葉きくちばの唐衣、薄色の裳、紫菀萩しをんはぎなどをかしう居並たる哉。御前の草のいと高きを、などか是しげりて侍る、払はせてこそといひつれば、霜をおかせて御覧ぜんと殊更にと、宰相の君の声にていらへつる也、をかしくも覚えつる哉。御里居いと心憂し、かゝる所に捿居させ給はん程は、いみじき事ありとも、必ず候ふべき物に思召されたる甲斐なくなど数多いひつる、語り聞せ奉れとなめりかし、参りて見給へ、哀れげなる所のさま哉、露台の前に植られたりける牡丹の唐めきをかしき事などの給ふ、(以上清少納言)いざ人の憎しと思ひたりしかば、又憎く侍りしかばといらへ聞ゆ、(以下斉信)をいらかにもとて笑ひ給ふ。

是が皇后より語り聞せよと仰せにて、腹稿ふくかうにて即座に物語りたる口上振である。斉信は前に半蔀より歩み簾前に候したるの絵物語の人と褒られ、此に又口を開いて即座語りをなしたるは、源氏物語の一節に比ぶべく、当時の殿上人の動作言語を練習したるは、さながらいつも舞台の上にある様である。能楽は此態度を物真似に演じ、其白詞は物言ひ語りを写したもの、本朝の国粋なることを此にて想像するを得る。世降りて世事辛くなり、人の言語動作が粗野になり、今は泰西の筒袖股引にて舞踏する、騒しき物真似にかき乱されて、昔しの面影を却て嘲笑するなどは、些と嗜むべきことである。

初出
明治42年(1909)4月、『能楽』第7巻第4号
底本
久米邦武歴史著作集 第5巻 日本文化史の研究(吉川弘文館、1991年、pp.52—59.)