源氏物語の作者及び其節(物語の源流続稿)

当時宮中に女の文学者輩出したるは如何なる教育を受た歟、読書を仕込む設けは更に見当らぬ。是より先き平安朝になつて真名の草仮名(今の平仮名)となると共に万葉が古今の歌風に成た。其歌の学問に用ゐた書も影だに伝らぬ上からは、伊勢物語の如き歌物語に養成されたと言より外はない。女の禀性は普通に読書を好まぬもので、只言語容姿に細かな心を付け、歌舞音曲を好み、此点にはさかしく記憶力の強いものである。依て男子が文学より得た智識をば言語文筆態度に優しく著すを見聞して、それを批評し、それを記憶し、それを真似るが是が女の学問といふて良い。彼清少納言、紫式部などは万葉集白氏文集位は読得た様なれど、勿論詩は作り得ない。詩句を知たのは、殿上人たちの詩歌管絃の遊びに朗詠し声歌などに諷はるゝのを記憶したのである。常には偏突、謎々などをして遊び暮すまでゝ、歌をよむのは歌物語に誘かれたのである。皇后中宮の勢力強き時代にて、公卿たちは宮中に参侯し、女房と交際繁く、因て互に風品態度の優美を競ふて、男は女に侮られず、女は男に笑はれぬ様に、管絃にて声律を悟り、詩歌にて言語を磨き、声歌にて音声を練り、舞振にて姿勢を刷ひ、常に舞台にある様と、言語動作に品をつけ、綾を付た所から、物いひ換す話しより、長き口上の語り振りに節調子をよくし、物語の大流行となつたものである。故に物語は男女共に習はすべき必用の事なれど、是も男のなす業として女は一般的に習はなかつた様である。清少納言が女房と物語したるに皇后より第一ならばと問せられ、紫式部が物語本を見て後言をいはれ、只宰相の君と二人で物語するなど、先づ物好きの事に看做されて居て、物語といへば公卿博士などの学者に語らせて聴聞するが本式であつた様である。思ふに物語には節調子があつて、伊勢物語以来の語り様は男に適する音調にて、女の禀性は兎角容姿に流れ易く、語りをなすに第一にならんとすれば其声の歌詞に流れ易きものである。因て当時宮中の女が物語に耳を傾けられ、己れも語りたる所より女の調子に適する様に源氏物語ができたのであらふ。

源氏物語は紫式部の作と古くより言伝へられてゐる。然らば女物語をんなものがたりである。されど是を只書た歟、語つた歟、如何なる節で語つた歟、此点には是まで一向に注意が脱てゐる。語調を今より知ることはできねど、文辞の上より幾分かは判じらるゝのである。賀茂真淵の言に、伊勢物語は古への文の体にて、言少くて意をこめたる事、かゝる物には又類ひなし。源氏物語は此文(伊勢物語)を広めたる所多し。東麿のいはれし如く、よく見れば、げに此文の一言を数多言にいひ述べ、総ての趣然也と思ひ得る。源氏は後になれる文にて事を書尽し、且心言葉共に薄し。伊勢は古へに書きたる物にて心言葉事少くて篤きなりと論じてある。其言の如く、言葉の少くて厚きは語る節も自然と厚く、言葉の延て薄きは語る節も自然と薄なるはずである。伊勢物語が源氏物語になつたのは、時代の変遷に催され、且は宮中の女の聴聞に適する様に時の調子に書広めたものであらふ。譬へば平家節が浄瑠璃節じやうるりぶしと成た如く、又義太夫節ぎだいふぶしの浄瑠璃が常盤津節ときはづぶし清元節きよもとぶしと成た如く、だん〳〵と言葉が延て薄く歌調に走つたものと判じられる。源氏は伊勢をさること百年の後にて、今は既に九百年前の宮中言葉であるから、都雅優美にて文学者は却て伊勢よりも発達した美文と認めてゐるけれど、其時代では無学の女も解得る言葉で、やはり義太夫が常盤津清元になつたと同様と言に躊躇しないのである。謡曲の女物をんなもの源氏物げんじものといふ。其文を見るに材料は伊勢より採つたのが多い。是は謡ふ節回しの中より言葉にこめた意をあらはすには言少なく厚き文辞が適る所から、自然の取捨であらう。而し歌詞にかゝりて延る所には、源氏物語の言葉にも亦後の時代の言葉を加へて、更に書き広めてあるのが、即ち時の調子に合はするので、此変化の例を以て考ふれば、源氏を語つた節の様子を推測する一端になる歟と思ふ。

物語本は歌曲と同じく作者の判然せぬものが多い。伊勢物語は業平の作り出したものなれど、延喜の比まで書加ヘた所が少からぬ。栄華物語を赤染衛門の作といふは早く否認されてゐる。只源氏物語のみは紫式部の作と認められてゐれど、是も信ぜられぬ。本人の紫式部日記が何よりの証拠で、源氏物語は寛弘五年前に既にできて居る。是年彰子中宮(後の上京門院)廿一歳にて後一条帝を産給うた年で、紫式部は其宮に宮仕して年浅き時である。一説に紫式部といふは源氏の若紫を書いたに因て、其紫を取て名付られたといふ。是は信ぜらるゝ説にて、然らば其作はまだ故里に居た若い時の事である。日記寛弘五年十一月朔皇子五十日御祝の宴に、

左衛門督(前の斉信)あなかしこ此わたりに若紫や候ふと伺ひ、(以下紫式部)源氏にかゝるべき人見え給はぬに、かの上はまいていかで物し給はんと聞居たり。

とあるは、紫式部は若紫を書いたことを人に隠してゐるに、其座は藤原の上達部計りで源氏の人は居まさぬに、己が事をいはるゝならん、宮は何と答へ給ふにやとの意である。夫を源氏物語を書たと誤解さるは、翌六年に、

左衛門の内侍といふ人侍り。怪しうすゞろによからず思ひけるも、得知侍らぬ心憂き後言の多う聞え侍りし。内の上(一条帝)の源氏物語人に読せ給ひつゝ聞召けるに、此人は日本紀をこそ読給べけれ誠に才有べしとの給はせけるを、ふと推量りにいみじくなむ才あると、殿上人などは言散して、日本紀の御局とぞ付たりける、いとおかしくぞ侍る、此故郷の女の前にてだに包みしものを、さる所に才さかしいて侍らむよ。

思ふに源氏物語は一条帝の文学者に作らせ給ひ、其中に若紫の一帖は紫式部の作なれど、式部は故郷の女にも隠しゐたり。されど世には隠れなく、帝の御耳にも入り、其文を聞召して此才ならば日本紀も読得るならんと仰せられしを、言散し、日本紀の局と綽号あだなを付たのである。前にいひたる如く、中宮の女房たちは読書を嫌ふ故に、紫式部は心を尽してこれを隠してゐた。日記の其次に、

式部丞(惟親)といふ人妾にて史読し時聞習ひつゝ、彼人は遅う読取り忘る所も、(妾は)怪しきまでぞ暁く侍りしかば、史に心を入たる親(為時)は、口惜う男子にてもたらぬこそ幸ひなかりけれとぞ、常に嘆かれ侍りし、それを男だに才がりぬる人はいかにぞや、花やかならずのみ侍ぬるとよ。漸人のいふも聞留て後一といふ文字をだに書渡し侍らず、いふてづゝに浅ましく侍り、読し文などいひけん物目にも留めずなり侍りしに、いよ〳〵斯ること(左衛門内侍の後言)聞侍りしかば、いかに人も伝へ聞て憎むらんと耻かしきに、御屏風の紙に書たることをだに読ぬ顔し侍しを、宮の御前にて白氏文集の所々読せ給などして、さる様のこと知し召させまほしげに掩ひたりしかば、いと忍て人の候らはぬ物のひま〴〵に、去々年の夏頃より楽府(白氏文集の)といふふみ二巻ぞ、いとしどけなくかう教へたて聞えさせて侍るも隠し侍り、宮も忍びさせ給ひしかど、殿(道長)も内(倫子)も不思議を知せ給て、御文ども愛たう書せ給てぞ殿は奉らせ給ふ。実にかう読せ給ひなどすること、はた彼物言の内侍(左衛門)はえ聞ざるべし、知たらばいかにぞ。

見よ。此通り紫式部は父為時より教られた読書を深く隠し、中宮にも人目を避て習はせらる程であるに、里に居たる時に源氏物語を一人で書いて世に流布し、主上の御覧にまで上るに、猶しらを切ることのあるべき歟。此日記を熟覧すれば、紫式部が源氏五十六帖を書いたといふは全く誤解である。石山寺に籠りて書たなどゝいふは嘘である。此時は行成公任など有名な文学ある公卿は幾人もある。前の斉信が清少納言に物語の言を見るに、此人も亦源氏を書いた一人かと思ふ。推量るに紫式部の父為時も亦其一人にて、数帖を書た中に、娘の書いた若紫を取繕ひ己が文として入れたるが、はしなく斉信などの耳にいり、紫式部の名は殿上人に知れ、主上の御耳にも入り、他の女房たちより女だてら才ざかしく憎み思はるゝを愧て、真名を読ことは止めてゐたに因て、中宮もそれを察して忍び〴〵に真名を習ひ給ひた、然るにいかで五十六帖を書く隙のあらふぞ。

源氏物語は紫式部の作でもなければ女物語でもない。是は伊勢物語以下の歌物語をば一と切〳〵語ることが、既に古くなり、調子が変つて来たから、一条帝の時文学者たちが、時の調子に語る様に、長い昔物語に作つて源氏節を始めたもので、物語の一変した時期である。斯くいへば是まで源氏を只美文として読た人は奇怪な臆説と驚くであらう。さりながら物語といふ物を語ッたものでないとは無理な話しである。語りに節調子のないといふは聞えぬことである。畢竟物語といふことに注意の落た所から新奇に感ずるのである。縦し一歩を譲りて一条帝の源氏物語人に読せてとあるを捉へ、是は読物に作つたとするも、朗読には自然に調子がある。長文をだれぬ様に読聞するには節にかゝる所ができ読が誦になり、猶唐詩和歌を声律にかけて誦じ朗詠と成たと同様に、やはり源氏を読にも其節のできるは自然の理である。まして物語大流行の最中に、時の嗜好に応じて綾艶タップリの文に書れた源氏物語であつて、後世に歌謡を作る文辞の庫に成てゐる艶文なれば、必ず其時一種の節調子を工夫されて、元の伊勢大和の語り様を一変したといふは疑ひないことである。然し其頃までは後の平家節へいけぶし謡節うたひぶしなどの如く一定して長く行はれた源氏節げんじぶしといふものゝ有たかは、固り今は知る便りはないけれど、是について謡曲と平家とに参考する必要が起るのである。

初出
明治42年(1909)5月、『能楽』第7巻第5号
底本
久米邦武歴史著作集 第5巻 日本文化史の研究(吉川弘文館、1991年、pp.60—64.)