年をとると根氣が無くなる。で、くはしい調べは若い學徒にまかせて、「國語學」の出發に際し、いさゝか國語研究上に提言したい。
從來、假名用法上の取扱ひにも、餘り用字面に盲從しすぎてゐるやうに思ふ。疑はなければ、研究は出來ない。疑つて疑ひぬいて、も少し、視野を奧へ〳〵と深めて行かなければ、いつまでも本居學で、足ぶみしてゐたければなるまい。師の説に泥むなと、宣長翁は誡めてゐられるでは無いか。
新しい開拓は、われ〳〵の手で行はれつゝあるでは無いかと、若い學徒におこられるかも知らぬ。それは、學問の爲めに、常に感謝もし、慶賀もしつゝあるのである。が、その新研究の中には、伴信友のやうに、先賢の説を先づ受入れて後に、學的傅彩するといつた類のものも在るやうに見える。信友は、あの通り、博引旁證、その點に於いては、天才的な能力を示してゐる。けれども、例へば、假字本末の平がな、片かなの研究などは、その驚くべき能力が、徒に衒學的形式を整備するに終つたばかりでなく、どうかすると、その精細な學的裝ひが、後進を眩惑せしめて、批判を封じる結果ともなり、却て學問の邪魔をした嫌ひさへも無いでは無い。また、大言海に引かれてある岡本保孝の難波江の「すき」の説き方のやうに、徒に同形の言葉を拾ひあつめて、これを己れの國語意識で纒めると云つた研究に類するものも少くないやうである。すべて、言葉を拾ふ場合には、その言葉の用ひてある文學――當該言葉を含んだ一行二行の文章でなく――を精讀して、その用法と、その時代性とを知悉してかゝらなければ、努力しながら、意外な誤謬を貽すことになる。かうした例は、現代大家の中にも、少くは無いやうで、一々指摘はしないが、案外、保孝の亞流は多いのである。さういふ自分も、氣附かない間に、その仲間入りしてゐるかも知らぬが、ともかく、信友も保孝も、訓詁の學に興味を持たなかつた人達のやうで、さうした種類の國語學者の論説には、一見尤もらしく見える謬見が包藏されてゐるものである。古典解釋を蔑如して、片々たる論説に興味を導いた明治學が、かうした早仕込みの學風――中には辭書や百科辭典類から生れたやうなのさへ見受けられる――を流行させた結果として、明治以後の研究に、特に此の種のものが多いやうである。用心しなければならない。
古典例へば、萬葉集や今昔物語に見えてゐる「風流」の文字を、ミヤビと訓んですましてゐる類も、かうした早仕込み學風の一現象であるが、今昔物語の「風流」をミヤビと訓むのは、明かな誤謬であるし、萬葉集の「風流」をミヤビと訓むにも、再檢討の要がある。
閑話休題、江戸末期の國語學者が、カンナを「かな」、ナンドを「など」、ナンメリを「なめり」などと、文字面の拾ひよみを始めてから、今日の古典學者も、かな、など、なめりと讀んで疑はないやうであるが、これは、平安時代の假名用法が近代のと違つてゐることに氣附かなかつたところから起つた誤りである。平安時代の國語撥音標記法には、代表的なものに三種あつて、撥音を、「む」を以て表はすもの、「う」を以て表はすもの、全く標記しないものがあつた。「かな」「など」「なめり」等はこの第三種に屬する無標記法であつたのであるが、いつとなく、その文字面のまゝに讀む習慣が成立して、その文字の拾ひ讀みから、「かな」「など」「なめり」などといふ語形が、古典上に新生したといふ結果になつたのである。
促音を「ツ」を以て表記するに一定したのも、室町時代からで、平安鎌倉時代には、五種類あつたやうである。
以上であるが、ヌ標記は、管見の及ぶところ、親鸞が用ひたばかりのやうである。「切に」をセチニと云ふやうな場合のチは、促音では無かつたであらう。
拗音の標記法も、平安、鎌倉時代には、一定しなかつたやうで、
警策 | キヤウザク |
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カウザク | |
莊 | シヤウ |
サウ | |
装束 | シヤウゾク |
サウソク | |
書寫山 | シヨシヤサン |
ソササン | |
顯證 | ケシヨウ |
ケソウ 又ケンソウ | |
帳 | チヤウ |
タウ | |
病者 | ヒヤウサ |
バウサ | |
妙蓮 | ミヤウレン |
マウレン |
等、或は拗音に或は直音に、假名は二樣に標記されてゐる。これも、假名標記が一定されてゐなかつた結果だと思ふ、而して、發音は、一定してゐたものだと思ふ。また、拗音に發音されてゐたものだと思ふ。また、今日それが直音で讀みならされてゐるのは、かな、など、なめりと同じ徑路を辿つて、古典上に成立した新誤であらうと思ふのである。尤も、右は、國語に轉入した字音語の場合に限つての問題である。
さて、古典の讀みくせとして直音が取上げられたのには、雅語であり、古語であるといふ常識が、常談平語と引きはなさうとする一種衒學的意識に導かれたといふやうな事情が考へられさうに思はれるが、どんなものであらうか。
併し、この拗音の場合は、所謂漢音・呉音の二重用法の事實もあり、また、萬葉假名中には、拗音漢字の直音假名に用ひられてゐる例もあるのであつて、それやこれや、問題は複雜ではあるけれども、漢字の音を標記する場合は、拗音に正しく一定してゐたといふ事實もあるし、ともかくも、國語化した字音語には、同一語に二樣の假名用法が行はれてゐたといふ事實は、假名標記が一定しなかつた結果だと信ずるのである。
以上、撥音・促音・拗音の假名標記が、二樣乃至數樣に分かれてゐた事實は、同語としての發音が、二樣乃至數樣に分かれてゐたからだとは信じられず、畢竟、假名用法が統一されてゐなかつたからと考へざるを得なからうと思ふ。かうして、發音は、よしや一つであつても、自然に放任したのでは、假名標記の統一は見られなかつたといふ平安・鎌倉時代の例を提げて、上代の假名標記が一定してゐたといふ事實にぶつかつて見たい。言葉を換へて云へば、上代に於ける假名標記の統一は、發音の一定から、自然に馴致された結果では無くして、人爲的な規約が、嚴重に守られたに由るもので無ければならないと考へられるのでは無からうかの提案である。
上代人が、國語并にその假名標記の上に、多大の注意を拂つたことは、例へば、三内音の假名標記即ち唇内音の m・舌内音の n を、無・武・牟等の假名で表はし――神懸、神佐備などの加微を無と轉じて用ひてあるのまでを kamu と發音すべきだと説くが如きは、餘りにも、文字面に拘泥しすぎた論である――喉内音 ng を宇又は伊の假名で表はすと規定した方針の上にも窺はれよう。特に橋本進吉氏によつて、委細に祖述査定された所謂特殊假名用法の如きは、上代人の、如何に假名用法の統一に注意もし努力もしたかを勘へる好資料である。この假名用法を、漢字の音韻の相違といふことで解決しようとする橋本説には、嘗ても指摘した通り國語の音韻變遷律の性質に違背したものでもあり、その他にも重大な先決問題を伴つてもゐるので、到底從ふことは出來ないけれども、さうした假名用法の存在したことは、明かな事實で、かうした用法が、嚴重に守られてゐたといふことは、上代人の國語并に假名用法に、謹嚴にして忠實であつた史實を如實に傳へてゐるものであつて、現代人のだらしなさを警しめて餘りあるものである。
上代人は國語假名用法の統一に嚴密な注意を拂つてゐたであらうことが考へられるばかりでなく、標準語――當時としては、雅語と云つた方が適切であらう――によつて、國語を統一しようとする努力さへも拂はれてゐたであらうことが考へられるのである。
上代人が歌語といふべき一語類を認めて、和歌の上にのみ用ひてゐたことは、已に十數年來、私の説き來たつた通りである。上代の歌語は、當代語と古語と新造語との合成語であつて、それ〳〵和歌の性格に準據して選定されたものである。かうしたその專用語を、和歌の世界に專有したといふ事實は、已に、標準語を、日常界に持ち得たであらうことを想はしめるのであるが、更に、例を以て、その可能性を考へて見たい。
「行」といふ動詞には、ユクとイクとの二つの形態が在り、それが上代から今日に至るまで、そのまゝに存續し、且つ、何時の時代に於ても、ユク形が雅語と認められイク形が俗語と認められ來たつたといふ珍らしい例である。萬葉集の和歌にも、イク形が用ひられてゐないでは無いけれども、それは、大體に、同語病を避ける場合か、頭韻法を踏む場合かに行はれる特殊用例であつて、さならぬ場合には、いつも、ユク形が用ひられてゐる。これはユク形が「行」の雅正形態と見られてゐたのでなければならないと思ふ。さて、上代に於て、當代語中にも、雅俗の區別が認められてゐたわけであり、たゞ一つの例ではあるが、この認識をおし擴めて標準語の制定まで考へ及ぼさうとする事は無理であらうか。新しく唐土に往來して、方言、蠻語の中に、官話の存在とその用途とを見もし聞きもした祖先には、標準語の制定は、直に思ひつかれさうなことでもあり、また、その必要もあつたであらうと、私には考へられるのである。而して、歌語として取上げられた當代語は、大體、この標準語であつたと信ぜられるが、中には、祝詞や宣命には、見ることの出來ないやうな頽形も、和歌の用語中に見られるのである。勿論、かうした頽形は、標準語とは認められてゐなかつたであらうし、それ故にこそ、祝詞、宣命にその影を見せてゐないのではあらうが、歌語には、音律上、特に容認せられ、頽形も一役買つて出て、適所に能力を發揮したのであつた。
かうして、上代人は、言語の性格をあらゆる面から究め盡して、それ〴〵在るべき位置に在るべきものを採用して、言語の全機能を、殘すところなく活用せしめたのであつた、それほどに、言語考察に注意した上代人は、廣く國民に話しかける宣命の用語に就いては注意しなかつたとは考へられない。廣く國民に理解せられ、しかも、品位のある言葉、即ち、言はば標準語は、かくて選定されてゐた筈のやうにも思はれ、さてこそ、前にも觸れたやうに、宣命文には、頽形は用ひられなかつたのであらうと思はれる。のみならず、宣命中には古語も用ひられなかつたことは、助詞ユリ、ユ、ヨリ、ヨの考察からも窺はれよう。宣命文は、一種の節博士で朗讀されたもののやうであるが、それは、位格づけるに必要な一つの手段であつたであらう。けれども、和歌の如き嚴重な音律に縛られた文章では無かつたから、歌語に見るやうな新造語を工夫する必要も考へられなかつたであらう。否、新造語の如き普汎性を缺いてゐる言葉は、古語の用ひられなかつたと同じ意味に於て、宣命文には適しない筈でもあつたと考へられる。
以上は、かう解釋するのが妥當ではあるまいかと思ふ思ひつきを一つの提案として申述べたに過ぎない。これを學的に問題化するのは、若い學徒の研究に一任したい。が、くれ〴〵も、千年の昔だから、千三百年の昔だからといつた時代觀は、拂拭して、赤裸々に事實と取組んでもらひたいといふことを申添へて置きたい。