國語學の一側面

國語學は明治時代に西洋の言語學の刺戟によつて著しく發展した。當初は西洋の學の模倣を盛んに試みたが、次第に落ち着いて國語を眞に自覺反省する方面に進んで來た。而してはじめは主として學としての形態即ち體系とか組織とかが研究の中心となつてゐたが、それらが追々に少しづゝ解決の緒に就いたので近時に到つてはその他の種々の方面にその研究が展開しつゝあることは喜ぶべき現象である。國語の學として先づ興るべきは語格の研究である。之がまとまらなければ、その他の方面の研究が正しい意味に於いて興り難いのである。語格の研究が略々緒に就いて來れば、國語の學の地固めが一往出來たことになる。さうなると、土代の上に建築が行はれるが如くに個個の語の研究が着々行はれるべきである。勿論、語格の研究とてもすべてが完全に落ち着いたなどといふべき時代は嚴密にいへば永久に來るべくも思はれないが、しかし大體の事が一往きまれば、その方面の精細な研究は追々に行はれて然るべきであらう。而してそれら大局のことは現今は一往目鼻が附いたと見てもよからう。かくして他の方面の研究が追々に展開していろ〳〵精到な研究が各方面に行はれるやうになつた。

そのいろ〳〵の方面のうち、最近著しく目立つことは方言の綜合的研究である。方言の調査は大分古くから行はれたが、明治時代に勃興した觀があり、大正時代から現代に引き續いて行はれて來た。それらの報告は頗る多くて一一その名目を枚擧するに堪へぬ程である。それらは資料としては貴重であり、又それが多いほど結構なことなのだけれども、それがたゞ報告に止まつたならば、いくら多くても未だ學として認めることは出來ぬ。それが多くの方言が比較せられ綜合せられて系統的の説明が實現せねば學とはいはれぬ。江戸時代以降多年に亙り多くの人々の努力の結果が集まり歸納すべき基礎も大分堅固になつたのでここにそれらの研究が學としての權威を示すやうに近づいて來た。而してそれは柳田國男氏を中心として着々成果を示してゐることは喜ばしいことである。

次に著しいのは文献上の研究として前人未到の方面の研究であるが、それにはいら〳〵の方面がある。特に發見せられた古代の文献を資料としての研究、これはその新資料は多くは無いが、一つでも新な方面の増加することは歡迎せねばならぬ。又春日政治氏等の行はれてゐる古典籍の訓點に用ゐた語の研究である。以上、二の方面によつて從來知られてゐなかつた古い語の明らかにせられたことも少く無い。更に又眞山青果氏潁原退藏氏等の努力によつて江戸時代の文献に基づいての研究が著しく展開して來たことも慶すべき現象である。

以上、各方面の研究がそれ〴〵獨自の局面に就いて發展しつゝあり、又大いに發展して行くべく思はれるが、それらはどこまでもその獨自の立場に於いて精細周到に行はるべきものであると同時に、又相互に提携しつゝ啓沃しつゝそれ〴〵益を得、又益を與へつゝ行くべきものである。極めての古代にのみ行はれたと思はれ來つた語が方言によりて現に行はれてゐたり、又西鶴や近松などの作品にあつたりなどすることは屡見る事實である。かくして古今を貫いて存する語が新に認められたり、又或る時代に限る語が明かにせられたりすることは今一々あげていふまでもあるまい。しかしながら、かく古今を貫いての研究は隨分困難なもので、それが或る時代限りの語の樣に見えてもなか〳〵さう容易く斷言し難いものである。一例をいへば、たしか柳田氏の論説だつたと思ふが(失禮な點は學問の爲に寛恕を願ふ)「棒」といふ語は漢語では無くて「ほこ」といふ語から轉じたといふ説を見たのだが、倭名鈔の刑罰具に「棒」といふ字を標示して「字亦作㆑㭋俗音方」とある。それで古代から棒といふ漢語を國語に通用してゐたことは著しいのである。又俳諧七部集の「冬の日」の句に「琵琶打」といふ語が見える。露伴が之に就いていろ〳〵と論じてゐるけれども、要するに知らぬからであるといふべきである。續日本後紀の童謠に「天爾波琵琶乎曾打奈流」とあつて、琵琶を打つといふことは古くから行はれた語でそれを名詞化したことは何の疑もないことである。かやうな事もあるから方言の研究にも近世の文献の語の研究にも古代語の智識の必要であることはいふまでもあるまい。而して古代語の研究もこれまでの研究に滿足せず、斷えず努力しつづけて近世語の研究や方言の研究等の成果を參照しつゝ進めて行かねばならぬ。しかも、その古代語の研究に附隨して變則的な一方面の存するといふことは從來顧みられなかつた樣に思はれるからそのことを次に述べよう。

古代の文献の研究に於いて中世の學者などが往々誤つた見解を下したものがある。それらの誤つた見解が近世以來の學者の骨折によつて、正しく改められたものが少くない。之はもとより然るべきことで、我々はその正しい見解に隨ふべきはいふに及ばぬ。然るに、その中世の誤つた見解が基となつて道理上不都合と思はれる語が生じて、現代にもさやうなものが行はれてゐることがある。萬葉集の解釋に就いてさやうなことの行はれた例は今和歌の浦に「片男波」といふ波がよせるといひ、殆どその邊の地名の樣になつてゐるのは卷六の赤人の歌の誤解に基づいた俗説である。又駿河國丸子の柴星軒(宗長の舊栖)で人々に頒つてゐる竹箸の包紙に「幾若葉はやしはじめの園の竹」とあるのは宗長がそこに竹を栽ゑはじめた時の發句であるが、これは卷一の「綜麻形乃林始乃」とある「林始」の讀み方と解釋との誤に基づいたものである。かやうに誤解に基づいた俗説は謠曲や淨瑠璃や西鶴物やいろ〳〵のものに散見するが、今は一々いはぬ。

ところが、その樣な誤解が正しい解釋によつて一掃せられてしまへば問題は無いが、さういふ樣なことが新に發生してそれが展開且つ固定して今日になつては、もはや動かすことの出來ぬ樣になつてしまつたらのもある。その一例は「日和」といふ文字が「ヒヨリ」といふ語を表はすことになつてゐることである。この「日和」に就いて委しく草したものがあるから、それに讓つてここには詳説しない。さて一旦このやうなことが成立し固定すると如何に不合理でも、それはそれで存在を主張して、その生命は容易に亡びないのである。「日和」の如きは頗る著しい例でありかやうな例はさう多くはあるまいけれども、上にあげた例の樣に中世の誤つた解釋が俑をなして生じた語も多少はあると思ふ。この樣な語即ち誤解に基づいて生じた語の本質と由來とを研究することは國語の學の正系ではあるまいけれども、學者の捨ておくべからざる一側面であらう。之はあまり香しくも無い研究ではあらうが、しかしながらやはり必要のあることである。かやうな研究が行はれてゐなかつたら意外な不覺をとるかも知れぬ。自分は年來之を人にも勸めて來たが、未だ着手した人も無い樣だから自分で試みたのが上に述べた「日和」の研究である。


初出
國語學第1輯: 13—17. (1948)