國語の統制を強化せよ

民主日本を建設するにあたり、なにより大切な要件は、純正にして氣品に富んだ國語を創造することでなければならぬ。言語は人格の育成にもつとも重要な關係を有し、言葉づかいは實に人格の象徴ともいうべきものであるから、亂雜卑野な國語によつて、民主日本の興隆は到底望まれないであろう。歐米各國において、國語に對する社會的制裁のきわめて嚴重であることも、もとより當然である。ことにフランス國民は、祖國語に對する尊重愛護の觀念がよく發達し、いやしくもフランス國民として、發音を亂り、文法をあやまるものは、國民に取つて大きな罪惡と考えておる。しかもこの考えは國民一般に實によく行きわたつているのはまことに驚歎にたえない。ドイツでも國語の標準を嚴守することにふかく意を用い、小學校の第一學年から標準語の指導に全力を傾注している。イギリスでは、言葉づかいに對する社會的制裁がすこぶる嚴重で、相當な地位にあるものが、方言や卑語を用いるようなことがあれば、かならず嚴重な制裁を受ける。國民がこぞつて純正な標準語を尊重愛護してこそ、國家の基礎を固定し、その發達を促すことができるからである。この點から見ると、わが國の過去、現在における國民の祖先傳來の國語に對する態度は、まことに思なかばに過ぎるものがある。

わが國において、國語に對する社會的制裁のはなはだゆるやかであるのは、國民の國語に對する關心すなわち祖先傳來の國語を尊重愛護する觀念が、一般に乏しい結果に外ならない。しからば、なぜその觀念が乏しいかというと、小學校以來純正な標準語の教育がはなはだしく不徹底であるためで、これまでわれ〳〵日本國民は小學校に入學してから、國語の正則な教育はまつたく與えられなかつた。われ〳〵の日本語は、家庭や學校または社會生活において、自然に覺えたもので、學校で學んだものでない。これまでわが國の小學校では、文字の教育に重點を置き、國語はもつぱら文章の素讀と讀解に終始し、發音の基本練習も行わなかつたし、基本的な語や表現形式の習得もおろそかにされた。したがつて、祖先傳來のわが國語をいかに尊重愛護すべきかという觀念も別に沸き起つてこなかつたのである。そこに英佛獨等における國語教育と、わが國における國語教育との間に、大きな差異の存することが認められる。わが國民は日常使用している言葉については、ほとんど無關心である、まつたく無頓着であるといつてもさしつかえない。であるからこそ、祖先傳來の國語を尊重愛護すべき觀念も沸き起つてこないし、標準語を嚴守しなくとも、これに對する社會的制裁も別に問題にならないのである。いやしくも一國の首相たる人が、「オラ」というような野卑な言葉を使つて平氣でおるし社會も別にこれをとがめようとしない。いな、とがめるどころか、これを一種の愛きようとして、「オラガビール」なども飛び出した始末である。ロンドンにおいてある侯爵夫人が often をオフツンと、下層社會の方言で發音したことが、交際社會の大問題になり、ついに交際社會の體面をきずつける不所存者として、その社會から追放されたことなどを思いあわせると、「オラガビール」の出現のごとき、まことに言語道斷なはなしである。

今後われ〳〵は民主日本を立派にうちたてるべき重大な責任を有するのであるが、それには、さきに述べた通り、純正にして氣品に富んだ國語を一日もはやく創造しなければならぬ。それには、國語に對する嚴正な統制を強化することがなにより必要な條件であろう。しかし、國語の統制をすみからすみまでよく徹底せしめることは決して容易な業でない。およそ統制ということは、國民一般の自覺にまたなければ成功することがむずかしいので、法令や行政の力などに依存してはだめである。ゆえに、統制を勵行するには、まず國民一般の自覺を促さなければならないが、それには從來のわが國語教育を根本的に改めて、小學校第一學年から發音の基礎練習を勵行するとともに、言葉づかいの指導に重きを置き、自分の思うことを自由自在に、純正にしてきれいなうつくしい言葉で言いあらわし得る能力を養わなければならぬ。これまで同じ事を言いあらわすにしても、どうすればよりよく純正にしてきれいにうつくしく言いあらわし得るかの指導は、あまり與えられなかつた。ドイツの小學校で、ある兒童が表現したとき、その表現は一應正しい、どこにもあやまりはないが、ドイツ文學に即してもつとよりよく表現することを考えて見よと指導していた授業を參觀して、わたくしはふかく感心したことがある。國語の指導はこうなければならぬ、日本の國語教育はこれに比べると非常に遲れている。兒童をしてもつときれいに、もつとうつくしく表現すらにはどうすればよいかを考えさせるようにすれば、自然に國語を尊重愛護するようにもなり、その統制に從うようにもなるいであるから、まずわが國語教育をこの線にそうて改善することをはからなければならぬ。

つぎに國語の統制を徹底せしめるには、國家的の有力な統制機關を設けることが必要である。すでにフランスでは、アカデミーを設置してはやくから國語の統制を嚴重に勵行している。正字法や文法などが時勢に應じて變化する場合、その變化を認めるかどうかはアカデミーと文部省の權限にあるのである。たとえば、文法上これまでの制規にそむくような用例のあらわれて來た場合、はじめはこれを誤りとして嚴重に訂正するが、それにもかゝわらず、それがます〳〵ひろく社會に慣用されるようになると、もはやこれを誤りとしないで許容することにするが、それはアカデミーが文部省と協議の上で取りきめるのである。發音や用語についてもやはり同樣である。正字法の改正も、アカデミー編修の辭書を改版するごとに、若干語ずつ實施するようにしている。外來語にしても、新造語にしても、アカデミーの認めたものでなければ、辭書に取り入れないのである。自分勝手に新造語を使用することは、社會が許さないから、わが國の現状に見るように、新造語が亂發するようなことは絶對にない。わが國において國語の統制上もつとも必要なものは、外來語の亂用と新造語の亂發を整理することである。これをフランスのアカデミーのような有力な國家的機關によつて嚴重に統制をはからなければ、國語がますます荒廢していくであろうことをおそれるのである。

民主日本の國語としては、これまでの樣相を改めて民主的なものに改めていかなければならぬ。これまでの國語には、超國家的や封建的な用語や表現形式が多分に存在するので、これを一掃して民主的なものに改善することが、今日の時勢上もつとも急要とするところであるが、これに對しては、有力な國家的機關の力にまたなければならないことはいうまでもない。

これを要するに、國語に對して統制を強化することは、いまや絶對に必要である。由來わが國語はあるがままにあり、動くまゝに動くに任せ、なんら統制を施さなかつたから、國語としての體制や樣相に、荒れすさんだあとが多分に認められる。ことに漢語や漢語系の言葉または外來語がはなはだしく亂用されて、國語の純粹性をきずつけている。ドイツ語にも第十六世紀以來おびたゞしく外來語が輸入されたが、第十九世紀以來國民の自覺反省により、國語の純化運動を起してきたが、わが國においても、民主日本の建設を契機として、國語の純化運動を大がかりで起すべきであると信ずる。

初出
國語學第1輯: 9-13. (1948)
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