夕陽舍漫筆

ゆふひのいへとは、わたくしの小さな書齋の名である。窓がちやうど西南に向いでゐるので、晩秋から冬、冬から早春へと、あかい夕陽が眞正面にさしてくる。もとは、机にむかつたまま眼をあげると、はるか秩父の連山の向うに、白い富士のすがたがくつきりと見えたものである。金色の夕陽は、その富士の右の肩に靜かにおちて行く。それは實にすばらしい美しさであつた。そのころからわたくしは、自分の書齋を夕陽舍とよび、たづねてくる人たちをつかまへては、その夕日の富士の美を自慢したものである。ところが、三四年もたたぬうちに、二階建の立派な邸宅が、ちやうどその西南の方角にでき上つでしまつた。せつかくの富士が見えなくなつて、がつかりした。

ところが、そこはよくしたもので、不思議にも一箇所だけ、その富士の見える場所がのこされてゐた。その唯一の場所といふのは、縁側の右端の一點であつた。この一點をのこしてくれたのは、何とありがたい神の思召しであつたらう! もう富士ともお別れだとあきらめてゐたので、隣の屋根の端に、思ひがけず富士の姿をとらへたときのよろこび! おもひ出すだにたのしい。それ以來、夕陽の舍の主人はその縁側の一點に立つて、自分の目と屋根の端とを結ぶ線の延長の上に、夕日にそめられた富士をさがしあて、エドガー・アラン・ポーの小説などおもひ出してはにこにこしてゐる次第だ。

この書齋の名は、ゆふひのいへのほかに、もう一つある。それは桃園文庫といふのである。馬鹿になまめかしい名だなアなどとひやかす人もあるが、わたくしは別になまめかしいとも思つてはゐない。實はかうなのである――この名は桃園の末葉のささやかな文庫といふ意味にすぎない。歌の方で柿下庸材などといふたぐひである。そのむかし一條兼良の文庫を桃花坊の文庫といつた。しかも兼良は有名な源氏物語の學者であつた。彼にあやかつて源氏學の末席につらなりたいとの希望を抱く一書生の書齋ですといふ意味でつけた名なのである。べつに桃の花をうゑてゐるわけでもなく、それ以上になまめかしい故事出典があるわけでもない。平々凡々な命名にすぎない。この機會に、一寸斷らしていただく。


噂などといふものほど馬鹿げたものはない。噂の大半はうそだと兼好法師は喝破したが、まあ、さうしたものだらう。人間といふものは、なぜかうもいい加減なことをいひたがるものか。いはれる身としてみると迷惑この上なしだが、いふ側からは、話に尾ひれがつくほど面白いらしい。面白くてたまらぬらしい。このごろ、わたくしは毎日、ひまのあるごとに卒業論文を見てゐる。戰爭が終つてから入學してきた學生諸君の勞作だ。三ヶ年の努力の結集なのである。何といつても卒業論文への努力はたいしたものだ。それは將來の學究生活に方向と性格とを與へる。人生において、卒業論文を書くときほど眞摯な生活の體験はすくない。わたくしはさういふ意味で、若い人たちの論文に學び、勇氣づけられ、反省させられてゐる。わたくしにとつては、論文を審査する三ヶ月間は相當の過勞である。そのため必ず健康を害する例になつてゐる。しかし、この間ほどたのしい期間はないのである。

論文にはかなり大部なものがある。國文學といふ學科の性格によるであらうが、よくも努力したなど感嘆せざるをえない力作がある。尤も力作といふのは、必ずしも分量をいふのではない。分量の大きなものがいつも立派だといふわけにはゆかないが、しかし、概してすぐれたものが多いことは長年の經驗に徴していひうることである。

ところで、分量のことだが、それについて途方もないデマがとんでゐる。二十四年前に提出したわたくしの卒業論文についてである。一體誰がそんなべらぼうなデマをとばしはじめたか、皆目見當がつかない。あきれたデマだが、しかしそのデマはたえず成長してゐたらしい。すくなくともその點だけはたしかである。はじめは池田のやつ風呂敷にいつぱい包んで、かついでいつたとさ、の程度からはじまつたらしいが、すぐ自轉車ではこんださうだ、いやリヤカーにつんで行つたんだよ、どうして荷車だつたといふぢやないか、いやどうしてどうしてトラツクではこんださうだぜ、なんてことになつたらしい。

他人のことによけいなおせつかいだ、どうだつていいではないかといやになつてしまふ。毒にならぬからかまはぬやうなものの、これが人格を傷つけたり、學問の本質を疑はせたりするやうなデマになると許せない。さういふ惡質なデマは、せめて學界からは絶滅させたいものである。

一、二月――卒業論文の審査がはじまるころになると、いつも自分の論文のうけた根も葉もないデマのことを忍び出す。かういふデマは、不快以上の何ものももたらさなかつたが、ただ説話文學――噂の文學の性格を考へる上によい示唆を與へてくれた。とりえがあつたとすれば、ただその點粘だけのことであつた――とは馬鹿々々しいかぎりである。


五十嵐博士の新譯源氏物語が出た。まさに待望の書である。博士は亡くなられるまでその仕事のために獻身され、出版の日を一日も早かれと念じてをられたといふ。わたくしは、博士から直接教へをうけたわけではないが、講演會などではよくお目にかかつた。最後にお目にかかつたのは、日本女専の夏期大學講座であつた。その時は、お顏色もわるく、お元氣もなかつた。それから戰爭になり、おたづねもできないでゐると、いつか谷馨さんが見えて、熱心にその五十嵐源氏の出版のことを相談された。わたくしは谷さんのその眞心と侠心とに深く感動した。ぜひともこの出版は實現させなければならない、自分も犬馬の勞をつくさないではすまないといふ氣持になつた。

それから色々ないきさつがあつたが、今度立派な本となつて世に出ることになつた。この本が先生の御生前中に出たら、どんなにかよろこばれたらうにと、ただそれだけが殘念である。しかし、出版界の不況の折に、よくもこのやうな美しい本となつて世に出たことよと、このことに關係された人々の勞苦に對して感謝せずにゐられない。この間、出版元の菁柿堂の松山編輯部長と、早大の岡教授とが、わざわざこられて、いろいろと事情を話して下さつたが、すべては美しい師弟愛の結集と分り、しみじみ感ずるところがあつた。

源氏物語の現代語譯には、早く與謝野晶子女史のものがあり、窪田空穗氏のものがあり、谷崎潤一郎氏のものがある。それぞれみな特色があつて立派なものである。今度五十嵐源氏が出て、いよいよ四本の脚がそろつたといふ安定の感じがする。源氏物語の研究の歴史は長いが、明治・大正・昭和の時代は、ある意味で特筆大書されてもよい時代であらう。藤原伊行・藤原定家・源親行・四辻善成・宗祇・一條兼良・三條西實隆・中院通勝・北村季吟・賀茂眞淵・本居宣長・萩原廣道……といふふうに七百年の歴史をたどつて見ると、なるほど文獻學の方面では、近代においては山脇毅氏の劃期的な研究のほかはわりにさびしい。しかし、源氏を藝術として生かすといふ點では、近代は實に花々しい業績を生んだ。これもたしかに研究である。古典研究は、實はここから出發し、さうしてここにかへるべきものであつた。その意味で、わたくしは四氏の業績に對して讚歎の辭ををしまぬ。特に四人の中二人までが早大から出てゐるといふ事實には、注意を拂はずにゐられない。わたくしは、坪内博士以來の傳統であるこの學園の性格が立派に生かされてゐる點に深甚の敬意を表し、またもつて深く自らを省みる資としたいのである。


早大に關聯して、わたくしにとつて忘れることのできないのは、永井一孝教授のことである。わたくしが國文學に關心を抱くやうになつた動機について囘顧してみると、やはり何といつても永井教授の講義が第一であつたとおもふ。講義といつてもべつに教室できいたわけではない。早大出版部から出てゐた講義録に、同教授の講述がでてゐた、それを讀むうちに、しらずしらず國文學への強い興味を感ずるやうになつたわけである。

わたくしは田舍の一少年として、永井早大教授を敬慕しはじめた。まだ見知らぬ同教授の風貌を瞼にゑがいて憬れるやうになつた。ゆきとどいた廣い知識、穩健な解釋と批判、うつくしい文章、わたくしはたたただ感激して講義録をよみふけつた。さうして、このやうな先生について親しく講義をきくことのできる學生たちの惠まれた境遇をうらやましくおもひ、いつになつたら自分はさういふ境遇になれるのかと思つたのである。

永井教授に傾倒したわたくしは、教授に對して批判といふ態度をとることができなかつた。今でもわたくしにはそんな傾向がある。宣長流な考へ方からすると、わたくしの生き方はまちがつてゐるのかも知れぬが、わたくしとしてはどうにもならぬことである。教授の示された平家物語觀は、今日もなほわたくしの腦裏に生き、さうして私の考へ方を決定的に支配してゐる。それについて面白いことがある。

それは平家ではなくて實は落窪についてであるが、二十年ばかり前、新潮社の日本文學大辭典に落窪物語について執筆した時に、「落窪物語註釋」といふ本が大石千引の著であり、別に源道別の同名の本があるといふふうに書いたものである。ところがその解説に對して、ある二人の學者から手きびしい抗議が出てきた。大石千引の著とか、源道別の著とかいふのは、何によつたのか、その根據を示せといふのである。その後調査したところでは、たしかにわたくしの失考に相違ないことが分つたが、その抗議そのものにもあやまりがある。しかしそれをここで詳しく駁論するひまはない。實は永井教授の講述された國文學書史の記述そのままを踏襲したのにすぎなかつたのである。わたくしとしては、同教授に傾倒するあまり、その所説に對して批判を加へるなどといふことは思ひもよらぬことであつたのである。おそらく右の落窪物語註釋については、さすがの教授も千慮の一失ををかされたものであらうが、わたくしがそれをそのままうのみにしたことについても罪はない。われながら人間的だつたとかへつてほほゑましくさへ思つてゐる。同じやうなことが橋本進吉博士の書かれたものを引用した時にもあつて、博士からじやうだんまじりの注意をうけたことがある。わたくしといふ人間は絶對信頼といふ氣持になると、よくかうした失敗をやる、しかしべつだん惡いとは思つてゐない。皷をならして撃つべきほどのこととは考へてゐない。それは無邪氣なものだ。ともかくも永井先生はつねにわたくしの心の中に生きてゐる偉大な人物の一人である。

底本
池田亀鑑『花を折る』(中央公論社、1959年、pp.180—186.)