旅ごころ

Tさんが旅から歸つてくる。一寸の――朝出かけて、夕方かへつて來る小さな旅でも、その間、お互に同じ土地に住まない淋しさを、どうすることも出來ない彼と私とである。そのTさんが、はるかなる旅を終へて、この週の土曜日、朝早く東京驛に歸つてくるといふ。私の心は近頃の夕方の空のやうに明るかつた。が、私には、この純な、美しい夢を、むざんに破壞してしまはなければならない運命があつた。それは、親しい人を迎へる喜びにもまして――少くとも、その喜びに對立すべき、別の大きな興味に直面したからである。

興味――それは、藤原定家自筆の後撰和歌集が、加賀の金澤で競賣に出たといふニュースである。定家自筆の後撰集――しかもそれが賣立――この驚くべきニュースが、學問に志してゐる若い私の胸を狂喜せしめたことは、とても筆や紙に書きつくせるものでなかつた。その時の私には、Tさんのことなどは、もう全く問題にならなかつた。私は即座に、金澤まで、その後撰集を見に行かうと決心した。

それは金曜日の午後だつた。丁度T大學の學生諸君が二十人あまりも來てくれて、實に愉快な日であつたが、私はどうにも後撰集のことが氣ががりで、源氏物語の諸本の講釋なんかする氣になれなかつた。學生諸君は、教室で聞くべき講義を、實物を見るために、わざわざ私の書齋まで出かけてくれたのだつたが、どうにも落ちつかないので、せつかくながら事情を打明けて二時間ばかりで引上げてもらつた。そしていそいそと旅の仕度をととのへ、研究室のM君と一緒に、夕日のうすい我が家の門をあとにした。

私たちは、七時二十分上野發金澤行といふ汽車にのつた。定家の後撰集! 私はこの言葉を幾たびかくりかへした。若い學者にありがちな、虹のやうな感激が、私の胸の中に燃えた。私は、窓にもたれて、うれしいことのくさぐさを、ひとりで心ゆくまで味ははうと思つた。

汽車は、夕やみの京をあとにして、北へ北へと走つた。眞理を求めて旅する心、その心の尊さを、私はその時ほど、しみじみと感じたことはなかつた。

――この定家自筆の後撰集には、奧書に天福の年號があるかどうか。天福本の定家自筆後撰集は、一本しかあり得ないにかかはらず、二條家にも、冷泉家にも傳へられてゐるやうになつてゐる。それゆゑ、この本にもし天福の年號があるとすれば、冷泉家こそ、定家自筆の天福本を傳へたとしなければならぬ。一體冷泉家本の奧書には、爲家が、大夫爲相に家本を與へた由の記録がある。古今集嘉祿本にも、拾遺集にも、同じやうな奧書が見え、伊勢物語天福本も、源氏物語奧入も、いづれも爲家が爲相に與へたと傳へられてゐる。もし、今度發見された定家自筆の後撰集に、爲家の右の奧書があるとすれば、二條、冷泉兩家の歌學の傳統に、新しい解決の光が與へられるだらう。この本は、爲和が奧書を加へてゐるといふから、冷泉家所傳の本に相違はない。しかるに、もし内容的に見て、二條家本と全然同一のものであり、かつ爲家の奧書がないとすれば、一體この問題はどうなるか? 冷泉家の何人かが、定家の筆蹟を摸し、爲家の名を冒し、僞書を作製して、末流を愚にしたものと云へようか? いや、さういふことはあるまい。必ず爲家の自筆の奧書があるだらう。いやある筈だ――

と、私は、窓に向つて、たびたび、同じやうな獨り言をくりかへした。

走り行く列車の窓の外には、青やかな初夏の夕もやがあつた。あたりが暗くなるにつれて、私の心は、しかしながら、次第に澄みとほつてきた。ふと、私はTさんのことを思ひ出した。

Tさんは、明日の朝早く東京驛につくといふ。Tさんは、今夜の七時頃、京都を出發するだらう。私に近づくことを樂しみに、彼は、恐らく夜汽車の苦痛をも苦痛としないだらう。彼は、何やらせまり來るうれしさに、恐らく今夜まんじりともしないだらう。それだのに私は、彼を後ろに、突如として遠い旅に出てしまつた。

私が、彼をよろこび迎へるのは、決して單なる儀禮ではない。義務ではない。むしろ私の權利なのだ。お互に愛し、信じ、尊敬してゐる二人である。將來どんな運命にもてあそばれようと、二人の美しい友情は、必ずこまやかに育てられて行くことを私は疑はぬ。その彼をせめて同じ土地にゐて、心安らかに迎へることもせず、たとひ賣立の期限に餘儀なくされたとは云へ、かうしてあわただしく旅立つて行く私の心は許されないかも知れぬ。

定家の頭文字もTだ。TとT――二つのTが私の胸の中で戰つたのだ――と私はユーモラスな微苦笑をもらした。がそれはとにかく、今日の私においては、眞理への愛と、人間への愛と、この二つが戰つて、一方が敗れたことは事實だ。私はつひに眞理を愛して、人間を愛することの出來ない學究であつたのだ。これは外面的には、どんなに小さな事實であつても、學者としての永遠の宿命を、又將來私のたどるべき懊惱の道を、まざまざ,と眼前に示した點において、私自身としては重大な苦痛である。私は、これから、生きてゐるかぎり、ひたすら目的地に向つて進む列車のやうに、眞理の追求のためには、親をすて、友をすて、家をすて、その他一切のものをすてて進まねばならないだらうか? さうあらねばならぬ運命に、私は生きてゐるのだらうか?

それは深まり行く黄昏の色にもまして、私においては堪へ難き憂鬱である。


金澤についたのは、翌日の朝の七時四十分であつた。かがやかしい朝日が、私たちの前にあつた。私たちの胸は、つつみきれない喜びでいつぱいだつた。

金澤美術倶樂部、そこに、後撰集が陳列されてゐるのだ。私の胸の中は、その珍しい古寫本をめぐるロマンチックな幻想で、はちきれさうになつてゐた。平素圓タクなどに乘ることは罪惡のやうに考へてゐる私も今日といふ今日は、文句なしにタキシイをよんだ。

美術倶樂部に着いて、古寫本後撰集の前に立つた時の気持――それは恐れと、喜びと、不安と、希望と、さういふものの一切を包む複雜きはまる心の興奮であつた。私は、かすかにふるへる手で、強ひて平靜をよそほひつつ、何千圓もするだらうといふその珍しい古寫本を取りあげた。

定家だ――と、私はいきなり叫んだ。それは、まぎれもなく定家流の書體であつた。私の興奮した眼は、電光のやうに册の全面に走つた。

奧書は? と私は最後の丁をめくつた。天福本――と私は叫んだ。それは、實にまちがひもなく天福本であつたのだ。では爲家の奧書は? つぎからつぎへと、廻り燈籠のやうに去來する疑問と解決とが、私の平靜を全く奪つてしまつた。

『どうですか。定家本でせうか』

同じやうなM君の感激の眼光も、前にひろげられた本の一つ一つの文字の上に注がれてゐた。

『うん、定家流だね』

私は定家の奧書の次に、必ずあるべき――なぜなれば、この本は冷泉家傳來の本であるから――爲家自筆の奧書の存在しないことを知つた時、ほとんど、絶望の谷底につき落されたやうに、がつかりして気力のぬけた眼をぢつとM君の顏に向けてゐた。

『君、これには融覺の奧書がないやうだ。して見ると……』

『例の爲家の識語といふやつは、怪しいですね』

『さういふことになる譯だ。もし、この本が、定家自筆本にまちがひないならば……』

所謂定家自筆といふ確認が、この際根本的に重大な結果をもたらすことを、私もM君も同樣に直覺した。

『小堀遠州などのやうに、一寸見分けのつかない位うまく摸倣してゐる奴に出あふこともあるから……しかし、この本は、どんな事があつても、南北朝を下るものぢやないよ。少くとも……』

しかしこれが、果して定家の自筆であると、誰が斷言し得よう。又、これが、定家の自筆でないとも、同樣容易に斷言の出來るものではない。

『とにかく、二條家の傳へた定家自筆の天福本といふものと、冷泉家の傳へた定家自筆本といふものとが、全く同じものであるといふ不合理が、やはり未決の謎として殘つた譯だ。これや問題だよ』

M君と私とは、顏を見合はせて、淋しく微笑した。私は、この本に關して、一切の立言を避けなければならない立場にあることを痛切に直覺した。

期待してきた大きな幻が、はかない夢のやうに消えたあとに、私はやうやく、淋しい自らの魂の姿を、しげしげと眺める私にかへつてゐた。私は、細川幽齋自筆の源氏注、烏丸光廣自筆の源氏詞等を一覽するとともに、M君をうながして、早々美術倶樂部を辭した。

金澤にきて、私は成巽閣の壯麗の中に、兼六園の幽玄の中に、加賀百萬石の大きな力を見た。古風な、どつしりとした軒なみに殘る城下町の落ちつき、その沈思と靜寂とを次第に侵して行く近代都市の華麗と喧騷、これ等の二つのものの雜居の中に、北國の街は大きく擴がつてゐる。私は、この町にきて、今更のやうに、自分自らの魂のパラドックスを、われと我が眼の前に、ありありと見つめることが出來た。

しかし、金澤はなつかしい所である。私が忘れようと思つても、忘れることの絶対に出來ない土地である。なぜならば、この土地に、恩師N先生の魂が、永遠に眠つていらつしやるからだ。N先生は、日本美術史の權威だつた。私は、大學の學生として、繪卷物の講義を聞くといふ、通り一ペんの關係以外に、先生から個人として非常に可愛がつていただいた。偉大とは方向を與へることであると、獨逸の哲學者は云つたが、私の學問に於ける方向を決定して下すつたのは、實に誰あらう、このN先生であつた。私においては、N先生は、他の何人にもまして偉大なる存在である。そして、今、私は先生の靈の鎭まります金澤の土地に來てゐるのだ。

先生のお墓は郊外の野田山にある。野田山を訪ねることが、私の限りなき喜びであることは、今更云ふまでもない。私とM君とは、夕ぐれ時、その墓場の入口に立つた。

私たちは、墨染の衣をつけた若い僧の案内をうけて、赤松の林の下を歩いた。大きな山一山が、麓から頂上まで墓地になつてゐる。何といふ大きな、そして靜かな墓地でそれはあらう。

赤松の幹といふ幹が、一つ一つ夕日をうけて、淋しく映え、その後には、ほの暗くひつそりとした夕ぐれの影があつた。私は、しのびよる夕べのささやきを、この野田山の靜寂の中で、はじめて耳にした。それは、はかり知ることの出來ない大きなそして深い沈默であつた。

先生のおくつきは、野田山の中腹にある。N家總墓と刻した石碑には、淡い夕日の光が斜めにさしてゐた。晩春の草がもえ、ぼけの花や、つつじの花が赤く、墓地の周圍をつつましくかざつてゐた。私は、墓前に佇んで、しばらく、言葉もなく合掌してゐた。

『先生の魂は、あなたの胸の中に生きてゐる』

とM君が云つた。

私たちは、再び、とぼとぼと山を下りた。不遇で終られた先生の憂欝なりし一生――それはすべての天才がさうであつたやうに、黄昏の寺院にも似て、偉大なる、そして敬虔なる憂愁そのものである。

金澤への旅は、たとひそれが第一の期待に外れた點で失敗であつたとは云へ、私たちの生活において、決して無意義ではなかつた。ことに、第四高等學校で、宣長手澤本といふ正三位物語を見、花鳥餘情の一本と、一寸不思議な河海抄を見たことだけでも、十分意義のあることであつた。私たちは、さまざまの感情を、胸の奧深く秘めて、この親しい金澤の町をあとにした。

途中、私たちは富山市に下車して、富山圖書館と、淺田家文庫とを見、古本屋を訪ね、初夏のあつい一日をこの町で暮らした。をりから、山王樣のお祭りで、市中には賑やかなお祭氣分が、みちみちてゐた。その田舍らしい賑はひの中に、私は、幾度びか、少年の日の夢を思ひ起した。私はふと昔の友達をなつかしんで、彼に繪葉書を送らうといふ子供らしい氣になつたりした。

富山の町で、私たちの心を喜ばしたのは、何としてもはるか南方の空に連なる日本アルプスの威容であつた。西は立山から、東は白馬山に至る雄大なる連峰の姿、その一つ一つに輝き、紫紺の空に映える殘雪の崇高さ。私たちは、大ヒマラヤの前に立つて、ただわけもなく、山靈にぬかづく印度の行者の敬虔を想ひ起した。

私たちは、更に富山をたつて、入善の町に、米澤文庫を訪れた。この文庫は、現にこの町の町長であり、そしてこの地方きつての舊家の若主人である米澤元健氏の圖書館である。米澤氏は、私たちが、東京から、はるばる訪ねてきたことを、心から喜ばれた。米澤氏は、京都帝大の出身で、町長として地方開發の劇務のかたはら、史學を專攻してをられ、文庫にも、主として、史論又は史料の參考書が集められ、藏書數三萬卷に及んでゐる。氏は、學問に專心する初志を貫ぬくことが出來なかつた事情や、圖書館經營の苦心談などを、こまごまと二時間に亙つて話された。

『文庫の藏書數がふえるにつれて、私の家の財産がなくなつて行きました』

と米澤氏の述懷された言葉は、いたく私の胸をうつた。といふのは、私も、氏と同じやうな道をふんできたからである。私は、日本アルプスのかなたに、北國の海に面したこの小さな町に、氏のやうな情熱と意志の人を見ようとは思はなかつた。

『秒に鞭うたう!』

お互に寸秒を惜しんで、刻苦勉勵の人生を築かう! これが、氏と私との別れのかたい誓ひであつた。


私たちの旅は終つた。

私たちは、一路東京さして急ぐのだ。目まぐるしい旅の新奇に放浪してゐた魂は、今や彼のやすらひの原郷にかへらうとする。ふるさとに向ふ心――それは搖籃のなつかしさである。子守唄の淋しさである。

私は、暮れ行く窓にもたれて、ぢつと海のかなたを見た。日本海にはまれな靜かな夕白波が、私たちの汽車に沿うてつづいた。不遇の英雄義經が、みちのくの果てに向つたこの路、詩人芭蕉が、月の夜、遊女と泊り合はせたこの北の國のうまや路、あをき夕もやの中を、私たちの汽車は走る。ひたすらに、東ヘ――東ヘ――と。

ふるさと――さうだ。魂の深みにひそむなつかしい姿が、ふと私の幻に浮かんだ。それは、親しいTさんのおもかげである。今まで、旅の新奇の中にかくされてゐたこの忘れ難き幻――Tさんは、かうして、やはり永遠に私の魂の一番深みに、しかも一番美しい王座にゐたのだ。

Tさんは、私の住む東京にかへりついた喜びに、たぶん昨夜は眠れなかつたらう。さうして、私が汽車に乘る前に出した葉書を讀んで、私の心持を了解すると同時に、一種やるせない淋しさにおそはれた事であらう。Tさんは、今まで自分の歸り來る日を待つてもらつた私を今は逆に待つ身となつた運命をきつと微苦笑してゐるにちがひない。さう思ふと、私にも、又自ら淋しい微笑が浮かんでくるのを、どうすることも出來なかつた。私達の列車は、そのTさんの住む東京に向つて走つてゐる。眞一文字に!

『今夜は、うたたねに、Tさんの夢を見よう』

私はかうつぶやきながら、淋しい青色の中に暮れて行く白馬山のいただきをふりかへつた。

歸り行く心! 魂のふるさとに歸る心は、眠りの前の祈りにも似た心だ。永遠の靜けさに入る心だ。

すべての愛すべきものよ安らけく眠れ! 御身たちの休息の夜が來たのだ!

私は、すつかり暮れてしまつた信州の山々を、ガラス越しに眺めながら、今宵列車の窓にして、一切の存在の幸福を祈りたいやうな氣特になつた。

山のかなたには、高原の夜の薄明と、それから、お伽話のやうな青い星かげとがあつた。

附記

この小稿は、互に愛し、信じ、かつ尊敬し合つてゐる親友T君の胸に捧げらるべきである。

底本
池田亀鑑『花を折る』(中央公論社、1959年、pp.31—41.)