本誌六月號に、土佐日記本文批判に關する小著の所説を批評せられた中村多麻氏は、更に九・十月の兩號に亙つて、九月號には新資科青谿書屋本の本文に關し、十月號には架藏の爲相本に關して、それぞれ長文に亙る所見を示された。卑論に對して、かくも眞劍な批評をいただいたことは、著者として深く光榮に思ふ所である。ただ不幸とする所は、右の中村氏の所論は、その著「定本土佐日記」〈昭和十年五月刊〉に示された氏の舊説をそのまま再主張されたもので、別に新しい展開を示されたものではなく、從つて氏の今囘の所説にも遺憾ながら同意し得ない點がある。そこで、私としては、今改めて自説を變更する必要を認めず、すべては退いて學界の公平な判斷に一任すればよい譯であるが、なほ思ふに、小著では、十分意をつくさなかつた箇所や、一二の誤植もあつて、氏の誤解を招き易かつた點があるやうに思はれ、就中、文獻批判に於ける「臨摹」「奧書」「統合」等の基礎概念の説明に行屆かないものがあり、或ひはそこに誤解を招いた一原因があるのではないかと思はれるが故に、補訂の意味に於て、一文を草し、高教を仰ぐ次第である。〈實はかやうな常識的な問題は已に何人にも分りきつた問題として、小著には之が縷説を省いた向もあつたが、中村氏の今回の所説で、案外理解されてゐないことを知つた次第である。なほ中村氏が一二小著の誤植を拾つて下さつたことについては、深く感謝の意を表するものである。〉先づ、九月號發表の中村氏の異論に對し、小著の眞意を明かにすることからはじめたい。
中村氏は「青豁書屋本の假名遣と本文の疑義」なる標題で、「京」「おふせたふなり」「よくゝらへつる」「ゑひあきて」「はちすになん」「こへのかと」「むかしへひと」「えよみすゑかたかるへし」「ひとつ」「いとこ」「よめりし」等の諸語の本文判定に關する鄙説を非なりとし、氏の舊説をあくまでも是なりとして主張してをられる。その根據は要するに貫之自筆本を臨摹的意識によつて轉寫して來たと信ぜられる青谿書屋本の價値を認めずといふ點にあるやうである。
先づ中村氏は「京」の字のよみ方について、氏の著書に「みやこと訓むべき所は必ず『都』を宛ててあるのに、ここ許りに京とあるのは、故ら京と訓ませる作者の心であるかも知れない」と書かれてゐるのを、我々が誤讀してゐるとされ、氏は單に現存諸本について言及せられたのみであると辯解せられ、「拙著のどこにも貫之自筆本云々の言を見出す事が出來ない」と云はれてゐる。〈五七頁上〉如何にも「自筆云々」の言はないが、同時に「現存諸本云々」の言もない。又已に「故ら京と訓ませる作者の心」と言及されてゐるからには、たとひ自筆云々とは明記せられてゐなくても、少くとも作者自筆に關して言及せられてゐるとは解せられるし、又解しなければならない。〈もしさう解すべきでないとすれば、この文は支離滅裂で意味をなさなくなる。氏は前半に於ては現存寫本に關し、後半に於ては□に自筆本について言及し、しかも、その飛躍に氣づいてをられないやうである。〉ことに氏は、その著書に「定本」といふ自信にみちた最後的な名稱を附してをられる。我々は氏の「定本」なる名稱の中に、氏が作者自筆本の再建にたち向はれた悲壯な意圖を見出し、「京」の一字にすらも、作者自筆本の闡明に努めてをられるものとのみ解釋してゐた。ところが、氏はさう解することを我々の誤解だと云はれるが、さうすると、氏の著書の意圖は、作者自筆本の再建ではなく、現存諸本の異文の羅列にすぎないのに、「定本」の美名を冒されたことになつて、氏の本意に反するのではないかと思はれるのである。
次に中村氏は、「おふせたぶなり」については、「おほせたぶなり」と判定せられてゐるが、この部分は定家本と圖書寮本とが、「おほせたふなり」となつてゐるのであって、他の青谿書屋本、近衞家本、三條西家本、大島氏本はすべて「おふせたふなり」となつてをり、圖書寮本にも「おほせ」の「ほ」の右傍に「ふ」と併記してあるのであるから、定家本のみによつて「おほせたふなり」を原形と認めることは、諸本の本文自體の示す事實に背反するのであつて、かやうな推定を行ふには、餘程の有力な根據がなければならない。しかるに中村氏は何等の根據も示されてゐないのである。又氏は我々が貫之自筆本の臨摹たる青谿書屋本の假名を調査した結論に從つて、「貫之はこの日記に於て、決して『ほ』に『』の假名を用ゐてゐない」と云つたことに對し、青谿書屋本の字體を根據として貫之自筆本の字體を論ずるのは不當であると難ぜられた。如何にも氏の云はれるやうに、貫之自筆本そのものが眼前に出現しないかぎり、如何に確實な根據に立つ推定であつても、結局推定にすぎない。〈一切の歴史的諸學の所説は、この意味に於て推定である。中村氏の「定本」の中の所説も亦悉く推定である。〉ただ問題は推定が如何なる根據の上に立つてゐるかといふ點である。我々は青谿書屋本が貫之自筆本の忠實なる臨摹であらうとの確信の上に立つて右の推定を試みたのである。〈臨摹が何故にかかる推定を可能ならしめるかは、常識的な問題であるにも拘はらず、誤解を起しやすいやうであるから、次の節に詳しく説明することにしたい。〉
次に「よくゝらへつる」については、我々は定家本・青谿書家本・近衞家本等の字形〈爲相本の「よくしらへつる」圖書寮本の「よくみへつる」も誤寫ながら、又我々の推定に荷擔するであらう。〉によつて推定を試み、從來「よくくしつる」とよまれてゐた通説に對して、嘗て北村季吟が一本〈恐らく定家本系統の一本であらう。〉によつて注意を喚起してゐた「よくくらへつる」を採り、これに新しい根據を與へたのである。即ち、我々は、青谿書屋本、定家本、近衞家本が「よくゝらへつる」としか讀めない上に、圖書寮本は「よくみへつる」、爲相本は「よくしらへつる」であり、「よくくしつる」とあるのは三條西家本、大島氏本のみであることによつて、原形は「よくゝらへつる」であると推定したのである。かく推定することによつて、はじめて圖書寮本と爲相本との異文の成立が説明出來るのであり、「よくゝしつる」は實隆自筆本によつて犯された誤寫であるといふことになるのである。これに對し中村氏はどうしたことか、急に論點を變更して、「大正十四年に公にされた白石勉氏の土佐日記の解説一八頁をよく讀まれたら氏は恐らくかういふ説は出されなかつたらうと思ふ。氏が歴史的假名遣とか、假名字形とか云はれる二十年も前に、……定家の字形を『くしつる』と判定されてゐるのである。」と定家本の字形に飛躍されてゐる。〈五八頁上〉定家の字形については、我々は氏の教をまつまでもなく、白石氏の所説をも反覆熟讀して、愼重に吟味したのであるが、不幸にして「くしつる」とは讀み得なかつたのである。〈因みに中村氏は、定家本の字形を「よくくしつる」と判定したのは、今から二十年前の白石氏であるかのやうに教へられたが、實は今から二百八十年前に、季吟が定家本の諸本を判讀して、その本文を出版さへしてゐるのである。なほ中村氏は「よくゝらへつる」といふのを、我々の新説だと推稱せられたが、實はそれも季吟の抄に「一本によくくらべつるとも侍り。したしき心をかはしくらべしにや」と云つてゐて、我々の新説ではない。ただ我々は之に新しい根據を與へたにすぎないのである。〉第一圖は、定家本のその問題の箇所である。これを「よくゝらへつる」とよむべきか、「よくゝしつる」とよむべきかは、學界の自由な判斷に俟てばよい。ただ定家が貫之自筆本を臨摹した箇所、及び貫之自筆本の臨摹を傳へてゐる青谿書屋本に於て、しの字體は「し」即ち現行通用字體が四百二十に及んで專用せられ、「」のやうな字體は一囘も用ゐられてをらず、從つて貫之の慣用した字體ではなかつたと考へられることを參考のために附言しておきたい。
次に中村氏は、我々が貫之自筆本の臨摹たる青谿書屋本その他を根據として、「ゑひあきて」「むかしへひと」「ひとつ」「よめりし」と判定した箇所を、それぞれ「ゑひすきて」「むかしつひと」「ひとへ」「よめり」とすべきだとの氏の著書の説を再び主張されたが、その主張には、何等の根據をも示してはをられないので、ここで問題とするには及ばないと思ふから、私見は省略することにしたい。
次に從來「はぢずぞなん」とも、「はぢずになん」とも、「はぢすぎなん」ともせられてゐた本文を、我々は、青谿書屋本その他を根據として、「はちすになん」であらうと提案した〈これは中村氏の舊著の提案に期せずして一致した。〉ことに關して、小著第一部二五四頁に
「はちすそなんきける」といふ文に於て、重複する係助詞は、文法史的には認められないであらう
とあるのを、「はちすそなんきけるといふ文に於て」までをきりすてて引用して「『重複する係助詞は文明史的に認められない』といふ主張に於ては更に不當を増すばかりである」と非難された。〈これは、氏の誤解であるが、小著の文章も誤解を招きやすい點があつたと思ふ。「はちすそなんきける」といふ文に於ける重複する係助詞とは、「ぞ」と「なん」とであって、他の一般の係助詞を意味してゐるのではないことを重ねて申添へておきたい。〉氏は又一般の係助詞の重複する例をあげられ、山田博士の平安朝文法史や、三矢氏の高等日本文法等の參考書を示し、それ等の頁數までも教へられたが、〈實は右の二書は、我々も早くから反覆熟讀してゐるし、氏が示された係助詞重複の例なども、常識だと思つてゐる。〉この場合肝腎なのは、係助詞の「ぞ」と「なん」との重複する例であるが、氏は、この例だけは唯一つも示されてゐない。さやうな例は多分あるまいと思ふが、氏がもし御存じなら教へていただきたい。〈但し湖月抄の一例は問題にならない。〉又中村氏は從來の持説たる「はぢずになん」を突如として捨てられ、「はぢずぞなん」を探らうとし、「青本が『そ』で、定本の『そ』に參加し、……字體からいつても『そ』の方を採るのが妥當である……」と云はれた。これは氏が「そ」となつてゐる青谿難書屋本の價値を認められたがためであらう。〈なほここで附言したいことは、この「はちすになん」の箇所は、已にのべたやうに、青谿書屋本では「に」が「そ」になつてなり、我々の推定する貫之自筆本の字體と一致しないのであるが、我々は他の種々の理由から、ここの青谿書屋本の字體を、誤寫と認めたのである。さう認めることが、青谿書屋本を鵜呑にしない證據である。なほ一應誤寫と認めたが、その誤寫は原本の陷穽的原因によるものであつて、誤寫自體からして、原形推定が可能であると見るのである。かやうな論理が成立するわけは、青谿書屋本が貫之自筆本の臨摹と認められるが故である。〉
次に中村氏は、「こへのかと」の「こへ」について、我々が貫之自筆本に已に「こへ」と書かれてゐたであらうと推定したことを、獨斷であると非難されたが〈六〇頁下〉氏がさう非難されるについては、自筆本には「こいへ」とあつたと主張されるかの趣に見える。しかも氏は、それについて一つの根據すらも示されないのであるから、「獨斷」といふ評は、氏自身が受けられることにならざるを得ないと思ふ。現存諸本はすべて「こへ」となつてをり、〈但し「こか」(爲相本)「こゝのへ」(妙壽院本)は共に改訂本文であるが、改訂の心理的過程は「こへ」に左袒する。〉氏の主張される「こいへ」とある本は一つもなく、すべて「こへ」である。かやうな一致は決して偶然の一致と見るべきものではない。〈貫行自筆本の形を傳へてをればこそ、かかる一致が生じたのである。〉又氏は「小家の意である事は、既に白石氏がいはれた所であつて……」と教られたが、それも氏の誤解である。〈これについては、徳川時代の學者が已に屡々云ひふるした所で、敢て大正時代の註釋を俟つまでもない。〉
次に「よみすゑがたかるべし」について、我々は中村氏が「よみあへがたかるべし」とせられたのに對して異説を提案し、氏の著書に、圖書寮本の「
又中村氏は、小著第二部一四三頁に「自筆本すゑ――宗綱本あゑ――圖書寮本あゑ」と記したのに、誤植のあるべきことを指摘して下さつたが、これは氏の指摘の通りで、たしかに校正の過ちであつた。正しくは「自筆本すゑ――宗綱本すゑ――圖書寮本
最後に「いとこ」であるが、中村氏は、氏の見られた諸本がすべて「いとこ」〈定家本のみは「いつこ」〉となつてゐるにもかかはらず、「いとこ」なる語が鎌倉時代に生じた語であるといふ理由から、あれ程信頼せられてゐる三條西家本を否定し、その祖本たる實隆自筆本の改鼠であらうと斷ぜられた。この理由が薄弱なものであることは、誰よりも氏自身が一番よく痛感されてゐる筈である。〈管見をもつてしても、源氏物語・東遊歌神樂歌・元輔集・類聚名義抄・古文孝經・將門記・梁塵祕抄等の例が數へられ、これを小著第一部二七四頁にかゝげておいた。〉なほ我我は、爲家本には「い
文獻批判に於ける「臨摹」の意義は、ほとんど常識に類するものと思はれるので、小著には第二部六四頁に少しく述べたばかりで、詳しくは言及しなかつたのであるが、三囘に亙る中村氏の論難を拜見して、單に常識として放置出來ないもののあることが感ぜられるが故に、これについて少しく述べて見ようと思ふ。我々がここで「臨摹」といふのは小著に於て已に述べたやうに、形状、配行、字詰等はもとより、字體〈嚴密には字形、書風、感じをも〉に至るまで、原本のままを複寫せんとするもので、この方法に二種がある。その一は書本を横に置き、これを見比べて精密に摹寫するものであり、〈東山文庫御藏の定家自筆本臨摹の源氏奧入、同土左日記、同僻案抄、高松宮家御藏土左日記、彰考館藏傳源俊頼筆臨摹十五番歌合、宮内省圖書寮奉藏後陽成天皇宸筆三條西家證本轉寫源氏物語、古本實方集臨寫本、前田家藏檜垣女集卷末の臨摹、その他、古筆切の臨摹に至つては古版本、寫本共に枚擧に遑がない。〉今一は書本を料紙〈主として薄樣〉の下に置き、その文字の線状・字形等を入念に影寫するものである。〈前田家藏三寶繪、大島雅太郎氏藏朱雀院塗籠本影寫伊勢物語、青木信寅舊藏著者自筆隣女和歌集影寫本、前田家藏の平安時代の歌合卷影寫本等これ亦枚擧に遑がない。〉
臨摹は原本の内容のみならず形式をも摸さうとするものであるが故に、書寫者の技倆が優れてをり、熊度が嚴密であれば、ほとんどコロタイプに近い程の忠實な複製が出來るわけであるが、何分にも人問の心と眼と手とを通すのであるから、多少の誤が犯されるのも止むを得ない所であり、又自然なこととしなければならぬ。〈大矢博士の「假名遣及假名字體沿革史料」のやうな嚴密なものでも、なほ多少の誤寫が存するのである。中村氏の見解には、この點に重大な誤解がある。〉
かやうに臨摹は全體的には原本に忠實であるが、部分的には誤も絶無とは云へないのである。しかし注意すべきは、その誤寫が、誤寫なりに、一つの性格をもつてゐることである。即ち臨摹に於ける誤寫は、原本の字膿又は字形を忠實に寫さうとして、かへつて微細な字畫の末などで誤るといふ性質の誤寫なのである。〈我々が、臨摹に於ける誤寫は、その誤寫を通して原本の字體を類推することの出來るやうな誤寫であると云つたのは、かやうな理由によるのである。〉しかして、臨摹者が、ふと錯覺を起すやうな原本の書き方〈字體・字形・傍書・蟲損等を含む〉は、臨摹者の側から云へは、陷穽的なものと云ふことが出來る。如何なる古文書に於ても、この種の陷穽の一つも存しないといふものは稀である。ことに貫之自筆本の土左日記には、定家も、爲家も、堯憲も、宗綱も、實隆も容易に讀み得ない文字であると云つてゐるやうに、少からぬ陷穽的存在が豫想され得るのである。〈中村氏が臨摹には一つも誤寫があつてはならぬやうに云はれたり、原本に陷穽などはあり得ず、又誤寫からして原本の字體の類推が出來るなどといふこともあり得ないと云はれることは、かやうな點から承認し難いと思ふ。〉
「臨摹」とは右のやうな性質のものであるから、原本推定の場合に、もし臨摹が存在し、それに基いて推定がなされたとするならば、その推定は非常に確實である。かやうな場合、我々が臨摹に對して原本に準ずる價値を與へて取扱つても、非常に大きな過誤は犯さないのが普通である。〈例へば正嘉二年の奧書を傳ふる尾州家藏の源氏物語が、まだ世に知られなかつた頃、その各帖のはじめの一葉づつを摹寫した東大國語研究室藏の抄寫本は、原本推定の上に少からぬ貢獻をなした。又我々が前田家藏三寶繪詞の影寫本から、その原本を推定しても、さしたる誤は犯さないであらう。〉現に橘純一氏が、定家自筆本の卷末にある臨摹の部分の假名字體の統計を基礎として、貫之自筆本の本文再建を企圖せられ、部分的ではあるが、狂ひのない結論を得られてゐるのは、嘗て我々が屡々言及したやうに、正當な方法を示されたものと云ふべきである。〈橘氏の結論の正當であつたことは、その後の發見にかかる三條西家本・近衞家本・爲相本・大島氏本、特に青谿書屋本が證明してゐる。〉
世には、青谿書屋本が、たとひ初期とは云へ、徳川時代の轉寫本であるに拘はらず、貫之自筆本再建の資料として、この本に定家自筆本以上の資格を與へることは不當であると難ずる人があるかも知れないが、さやうな非難も、臨摹の性質を深く考へない所からの誤解である。凡そ寫本は、轉寫の囘數と書寫者の心構、熊度、力量等の如何とによつて價値を異にするのであつて、書寫年代はそれほど問題にはならない。〈現に定家自筆土左日記が、原本から直接、しかも鎌倉時代初期に寫されたものであるにかかはらず、それよりも凡そ三百二十年後の室町時代末期に、しかも原本から間接に再轉寫された三條西家本と比較すると、その正確さに於て、はるかに劣つてゐることは周知の通りである。〉もし今日まで、貫之自筆本が存在したと假定し、更にその忠實な臨摹一部を殘して、原本そのものは燒失してしまつたと假定すれば、昭和の轉寫本であるとの理由によつて、その一の正確な臨摹本を誰が無價値として抹殺し得るであらう。〈これ等に關しては、小著第二部第二章「文獻批判の諸方法」第一節「科學前の諸方法とその批判」に於て多少論及する所があつた。〉書寫年代の如きは、この場合、即ち臨摹の場合に於ては、さして問題にはならぬと思ふ。
臨摹の性質は理論的には、上述の如くであるが、では、はたして實際にもその通りであらうか。今、自筆本とその臨摹と共に現存する定家本土左日記を採りあげて、檢證することにしよう。申すまでもなく、定家自筆土左日記は、前田家に現存するが、假りに現存するか否か不明として、我々はただ東山文庫御藏の土左日記のみを與へられてゐるものとする。第二圖がそれである。もし、この東山文庫御本が、奧書・字形・書風・紙質・傳來その他から、定家自筆本を近世初期に臨摹したものと推定し得られたとすれば、我々はこの臨摹を土臺として、これに他の有力なる資料を比較し、嚴密に吟味することによつて、かなりの正確さに定家自筆本〈特に假名、字體〉を再建することが出來るであらうか。〈中村氏は再建不可能であるとして、その由を本誌六月號に主張せられた。〉果して可能であるか、又は不可能であるかは、幸にして現存する前田家藏の原本との比較が無言の中に明答を與へると思ふ。試みに第三圖を第二圖に比較していただきたい。第三圖は即ち定家自筆本である。
第二圖と第三圖との比較によつて、何人にも容易に氣づかれることは、次の五つの重要な事實であらうと思ふ。
右のやうに、「臨摹」の事實は、臨摹に關する中村氏の主張の悉くを否定してゐる。但し右の(三)(四)(五)は未だ説明不十分と思はれるから今少し補足しなければならない。
先づ臨摹たる東山文庫御本は、全體としては原本に忠實であるが、わつかに一箇所明かな誤寫を犯してゐる。三行目「あまたる」の「る」がそれである。この「る」は「か」を誤つたものである。〈中村氏は、忠實な臨摹と雖も稀に誤寫を犯すものであることを承認されるであらうと思ふ。〉
次にこの「る」は、誤寫ではあるが、原本の字體を忠實に摸さうとしたために、かへつて誤つたものであり、從つてこの誤寫の「る」の字體から、原本の「か」の字體が、誤寫であるが故に、かへつて類推され易いのである。〈中村氏は、臨摹に於ける誤寫が、原本の字體の推定を可能ならしめる底の誤寫である場合の多いことも承認されるであらうと思ふ。〉
次にこの誤寫は、原本の陷穽的原因による誤寫であることが注意される。即ち原本の「か」の字體及び字形が、どうかすると、「る」にも讀み誤られさうな弱味をもつてみるのである。原本に於けるかやうな本文的弱點を我我は原本の「陷穽」とよんでゐる。この陷穽によつて、一旦誤寫された「る」は高松宮家御本〈東山文庫御本の轉寫本〉彰考館本〈高松宮家御本の轉寫本〉扶桑拾葉集本〈彰考館本の轉寫本〉といふ風に傳へられて行き、ここに血族的な一列系を形成してゐるのである。
なほ陷穽に關して第二圖・及び第三圖の中から今一つの例をあげよう。自筆本の左の面の第五行目の下端の「いふこと」の「と」の字形の終畫に注意せられたい。この終畫に内在してゐる一種の感じが、東山文庫御本では、原本に比してやや強められ、高松宮家御本でば、第四圖の如く明かに離れて一字を作り、「いふことゝ」となり、更に彰考館本・扶桑拾葉集本へと連つてゐるのである。これも書本そのものに誤寫を導く陷穽的原因のある事實を示すもので、陷穽の存在を否認される中村氏の所論の反證をなすものである。
以上は字體又は字形に陷穽的原因の存する場合であるが、かやうな原因が傍書に存する場合もある。定家自筆本には數ヶ所傍書としてのミセケチがある。しかして忠實な臨摹たる東山文庫御本は、この傍書を書き入れたり落したりしてゐる。中村氏は忠實な臨摹には、さやうな過失や誤差はあり得ないと主張されるが、實際にはある場合が多いのである。〈古筆類の臨摹の類には、この例は枚擧に遑がない。〉試みに定家自筆本の二月六日の條には
の如くミセケチがあり、東山文庫御本にも
の如くミセケチが殘されてゐる。所が一月十七日の條には、自筆本では
の如くミセケチがあるに拘はらず、東山文庫御本では
の如く、ミセケチの符號を落し、これと血族的系列を形成する高松宮家御本・彰考館本・扶桑拾葉集本等、いづれも誤れる本文を傳へてゐるのである。かやうに、忠實な臨摹と雖も、往々傍書を採つたり、落したりすることがあり、又時には傍書のやうに本文に改めることもある。〈古筆の臨摹にはかやうな例は甚だ多數に及んでゐるのである。〉
臨摹とは、以上に述べたやうな特殊な意義を有するものであるから、もし我々が原本を忠實に臨摹したと信ずることの出來る古寫本を發見するならば、原本の再建〈特に字體の再建及び陷穽の發見〉に於て遭遇するあらゆる困難から救はれることになるのである。〈コロタイプによる複製本の價値の如きは、この最も著しいものである。〉已に臨摹を發見し得た場合に於ては、本文批判の仕事は非常に高度な立場に高められるのであつて、さやうな場合、我々としては、その臨摹を他の書寫系統に屬する諸本と嚴密に比較しつつ、その臨摹自身の包藏する誤謬を吟味・修正して行けばよいのである。〈かやうな理論的根據に立つものが、小著第一部第三章原本再建の可能とその方法、第四章青谿書屋本の吟味と修正の二章である。〉我々は、中村氏の云はれるやうに、青谿書屋本を過當に偏重するどころか、むしろ酷でありすぎる程、吟味、修正を加へたのである。中村氏が、もし臨摹について、十分な理解を持たれたならば、自然我々の處置の妥當性を了解されることと思ふ。
そこで、當然問題となることは、青谿書屋本が果して爲家自筆本の臨摹であり、爲家自筆本が貫之自筆本の臨摹であるかどうかといふ問題である。この點は、何物にもまして重要な點であるから、我々は第一部六八頁以下に二十數頁を費し、青谿書屋本の有する十三箇條の特異性について證明を試みたのである。しかるに中村氏は、それ等の十三箇條を一條一條切り離し、箇別的に悉くを否定し去られた。しかもその否定の根據が、きはめて主觀的で、何等積極性を有するものではなかつたことは、已に九月號の小稿に於て指摘した如くである。〈中村氏の論法は、例へば我々が土左日記の概念を、(一)假名文(二)貫之の作(三)紀行(四)延喜直後の作等によつて構成したとすれば、(一)假名文は土左日記だけのものではなく、(二)貫之の作品は土左日記以外にもあり、(三)紀行は更級日記にも見られ、(四)延喜直後には土左日記以外にも作品が多い。故に、右四ヶ條はいづれも土左日記の特性ではなく、從つて土左日記といふものはあり得ないといつた風な論法である。この場合大切なのは、諸條件の綜合のもつ意味である。〉
我々は青谿書屋本のみがその全部を所有してゐる十三箇條の特性を一つ一つ吟味することによつて、それ等の特性の綜合的所有者としての青谿書屋本が、爲家自筆本の臨摹であり、同時に爲家自筆本が貫之自筆本を臨摹的意圖によつて書寫したものであるに相違ないとの結論を得たのであるが、ここに再びその十三箇條について縷説する必要はないと思ふ。今は青谿書屋本の卷末の奧書をあげ、十三箇條の中から一條のみをあげて、學界の判斷に一任すればよいと思ふ。
第九圖は青谿書屋本の卷末にある奧書であるが、單にこの奧書だけの内容からしても、この本の書本は、嘉禎二年八月二十九日、權中納言爲家が、蓮華王院寶藏の貫之自筆土左日記を一字も違へぬやう忠實に書寫したものであつたことが知られるのである。しかして普通はこの本に見えるやうな奧書には「本云」との標記がなされるのであるが、この本にそれのない點をはじめ、文字の風格、字配、花押の臨摹等の諸事情の綜合からして、書寫者が爲家自筆本を書寫するに際して臨摹的意圖をもつてゐたことを認めない譯には行かないのである。〈中村氏はかゝる判定を主觀的でとるに足らぬと云はれるが、もしさやうに書風や、書樣や、その他の綜合から來る感じを信じ得られぬとすれば、あらゆる歴史的考察は成立しないであらう。〉
次に青谿書屋本の特性十三箇條の中の「定家自筆本の卷末なる臨摹の部分とこの本の當該箇所とが完全に一致すること」といふ一條をとり上げることにしたい。第一〇圖は定家がその自筆本の卷末に、貫之自筆の原本について臨摹しておいた部分である。この臨摹も、定家といふ人間の心と手とを通したものであるから、機械による複製のやうに正確であるとは云へないが、少くとも原本の字體〈必ずしも字形にあらず〉だけは忠實に傳へてゐるとすべきである。ところが青谿書屋本のこの箇所、即ち第一一圖を比較するに、兩者はほとんど完全に一致してゐるのである。もとより、字形・書風等の書道的な意味に於ては、決して近似してゐるとは云へないのであるが、我々の當面の問題は、書道的な意味のものではなく、假名字體〈字形にあらず〉であり、その字體には、ほぼ完全な一致が認められるのである。かやうな一致は、偶然的な暗合では斷じてあり得ず、臨摹の意識をもつて轉寫するのでなければ、絶對にあり得ない一致なのである。已に孫の地位にある青谿書屋本が、完全に臨摹の性格を保持してゐる以上、その母たる爲家本は、當然、より以上に臨摹的性質を所有してゐたと考へなければならぬ。かやうに、他の十二箇條の條件を數へるまでもなく、單に右の第九・十・十一の三圖を参照しただけでも、青谿書屋本が臨摹的意圖によつて轉寫されて來た證本に相違ないと斷言することが出來るのみならず、さうせざるを得ないのである。〈臨摹にあらずとするならば、如何にしてかやうな一致が生じ得たかの理由を明示しなければならないが、それは不可能である。〉
臨摹が本文批判に於て如何なる意義をもつかは、已に述べた所であるが、青谿書屋本はたしかに臨摹に違ひないと思はれる。〈今から千餘年前の作者自筆本の臨*墓が、現存してゐるといふ奇蹟的な事實のやうであるが、實は、自筆の原本が鎌倉時代を經て室町時代中期までも存在してゐたといふ事實があるのであるから、不可能なことではない。〉我々が青谿書屋本を吟味し修正することによつて、貫之自筆本の字體の再建、陷穽の發見を企てることの出來るのは、一にこの本が臨摹であると信ぜられるが故である。中村氏は、青谿書屋本の有する臨摹的性質を否認せられると共に、一般的に臨摹の價値を否定されたのであつて、この點、氏の所論と、卑見とは、全面的に、黒と白との如く全く相容れないのは甚だ遺憾である。なほ中村氏が、青谿書屋本以上に貫之自筆本の假名の面目を忠實に傳へ、これによつて原本の假名を再建し得ると主張してゆづられない圖書寮本の當該箇所は、第十二圖の如くである。これが果して、中村氏の主張のやうに、青谿書屋本以上に貫之自筆本の假名字體を忠實に傳へるものと云へるか否かは、これまた公平な學界の判斷に俟つより外はないと思ふ。
なほ最近某氏の報告によれば、爲家自筆本ば某所に現存してゐるらしいとのことである。もし幸ひにしてその噂さが事實とすれば、その本の出現は、百千の論議を一瞬にして解決することであらう。そして、その審判が、たとひ黒であらうとも、白であらうとも、我我は、私情をうち越えて、ただもう愉しさに我れを忘れることであらう。それこそ學問に從事するもののみの味ひ得る特殊な氣持であらうと思ふ。なほ又最近、貫之自筆土左日記に關する二つの全然新しい資料に遭遇し、小著に述べた卑説の妥當性に對して、益々自信を強うしたのであるが、それについては改めて詳細に述べる機會があらうと思ふ。(この項終り)