この一筋に

わたしが大學を出たのは、大正十五年の春でした。それからすぐ國文學の研究室に無給副手として勤め、芳賀先生記念會の依囑をうけて、源氏物語の註釋書を作ることになりました。

芳賀先生記念會といふのは、同文學科の主任教授をしてをられた芳賀矢一博士を記念するために、臨時に作られた會です。その實行委員には、上田萬年、三上參次、松井簡治、長谷川福平、藤村作の諸博士がをられました。金釦の制服から背廣に着かへたわたしは、大いに力んで、さつそく註釋にとりかかりました。二、三年間でまとめるやうにとのお話でしたが、わたしは、これしきのものは二年もあればできるだらうと、ひそかに自負したものでした。ある日、大學の塀に沿うて、意氣揚々と歩いてゐると、うしろから「おいおい」と聲をかける老紳士があります。見ると上田先生です。先生はにやにやしながら、「君は、大變な仕事を引き受けたね」と言はれました。しかし、若いわたしの心には、その「大變」といふ意味がぴたりときませんでした。傲慢といふものでせうか。

それから桐壺の卷の註を書くために、活字本の河海抄と花鳥餘情とを參考にしました。すると、その文章に不審な點がある。そこで寫本をくらべてみると、どうでせう、寫本と活字本とでは、大變な相違があるのです。これは大變だ、うつかり活字本には從はれない、と考へはじめたのです。調べてみると、河海抄の寫本には、作者の草稿本と修正本との二種類があつて、内容が非常にちがふことが分りました。また、花鳥餘情にも、おなじやうな事情があつて、うかつに手をつけることができないことを知りました。このことは、わたしを、絶望といふか恐怖といふか、名状しがたい孤獨と自信喪失の深みにおとし入れました。もしその仕事が芳賀先生記念會の依囑でなかつたら、わたしはこれ程、苦惱しなかつたかもしれません。しかし、東京帝國大學教授芳賀矢一博士の名譽を負うてゐるこの仕事です。わたしは實行委員長であつた藤村先生にその心境を訴へて、辭任を乞うたのです。すると先生は、上田先生と御相談下さつて、それでは諸註集成をやつたらどうか、と言つて下さいました。

諸註集成の仕事は、註釋を書くよりも、ずつと客觀的です。そこでわたしは、東京都内は勿論、全國的に諸註を求めて歩きまはつたのです。するとどうでせう。諸註のよつてゐる源氏物語の本文といふものがまちまちなのです。河海抄と花鳥餘情、それは同一の源氏本文によつてゐるのではない、細流抄に至つては、全くちがつた本文によつてゐる、それが分りました。諸註集成も大事ですが、もつと根本的な問題は、源氏物語の本文はいつたいどうなのか、といふことです。うかつなことはできない、源氏物語には、青表紙本とか河内本とかの名前があるが、それはいつたいどんなものか、何を基準にしてそれを判別したらよいのか、その疑問がわたしの胸の中に新しく生まれてきて、わたしを苦しめはじめました。わたしは先輩にたづねていろいろ意見をききました。青表紙本は湖月抄でよいのだ、ともきかされました。いや首書かしらがき源氏物語が正しいのだ、ともきかされました。しかし、河内本については、しつかりしたことを教へて下さる人はありませんでした。何でも、平瀬家に三十帖ばかりの河内本が傳はつてゐるさうだ、また、京都の曼殊院に、三帖ばかりあるさうだ、前田家にちよつと變つた本が數帖あつて、それが河内本らしいとか、そんな程度のものでした。また東京帝大の國語研究室に、正嘉二年北條實時の奧書のある本を、五十四帖について、はじめの一頁づつ影寫した本があつて、その系統が河内本だといふ、そんな話もききました。

そこで、わたしは、その本を寫しました。また京都の曼殊院にもゆきました。その本を寄託してある京都博物館にも出かけました。そして、平瀬家の本をよく調べられた山脇毅先生を大阪のお宅におたづねしました。その時、山脇先生は、中学校の教諭をしてをられました。先生はわたしを快く迎へて、「それは大變むつかしい仕事ですね」といはれました。その時、わたしは、上田先生が「大變な仕事を引受けたね」とおつしやつた言葉の意味を、つくづく考へなほしました。

そこでわたしは藤村先生を通し、實行委員會の先生方にお集まりをいただいて、その困難さを訴へました。實行委員會は、源氏物語本文研究に、目的を變更して下さいました。わたしは家族の全員を動員して、本の影寫・整本など、それぞれ分に應じた仕事を擔當してもらひました。それから貧しい家計を切りつめて、寫眞をとつたり、古寫本を購つたり、その一筋に專心しました。勿論生きてゆかなければなりませんから、非合法でない限り、又身體の續く限りのアルバイトはしました。そして、現在まで五十萬枚に及ぶ寫眞を撮影しました。青表紙本にも立派な本のあることが分りましたし、えたいの知れなかつた河内本も、八十數種日本に現存してゐることが分りました。青表紙本でもなく河内本でもない、いはゆる別本も、だんだん發見されてきました。まだまだ決して手をゆるめてはなりませんが、わたしの力など微力なものです。今後は、國家など公的な組織と費用をかけて、この仕事が續けられ、より立派な結實を見たいものです。わたしのささやかな仕事は、その捨石として意味をもつかもしれません。「校異源氏物語」から「源氏物語大成」へ、ずゐぶん長い年月を費やしましたが、その間に芳賀先生はじめ、實行委員の先生は次々と他界されました。芳賀先生に見ていただくことができなかつたのは何より殘念ですが、とにかく記念事業は「校異源氏物語」によつて一息の段落を告げました。この赤字出版を引受けられた中央公論社の嶋中前社長も亡くなられ、さびしい限りです。家庭の私事について申すのは恐縮ですが、本の影寫や校合などに、郷里からわざわざ馳せ參じて、何日も徹夜してくれた妹も亡くなりました。また、夜更け机にもたれてうたた寢をしてゐるわたしに、そつと着物をかけてくれた母、貴重な本だといふので、その大金を工面し、やうやく得た古寫本を枕許に置いて、夜通し眺めては喜んでくれた母も、亡くなつてしまひました。今日まで三十餘年、いろいろな人たちがこの仕事を助けて下さいましたが、その期間には長短があり、分擔にはいろいろあつたにしても、これらの人の恩惠なくしては、到底なし遂げられる仕事ではありませんでした。今日にしてはじめて上田先生の「大變な仕事」の意味が、しみじみと分ります。

岩波茂雄氏が「風樹の歎き」といふことをよく口にされ、風樹會といふ會を作られましたが、その時わたしにも胸中を洩らされまし、た。「孝行をしたい時に親はない」といふ、人の子の歎きでした。これは在原業平の歌にもありますが、世の中がどのやうに變らうとも、母の愛情、母への愛情、これだけは變ることはありますまい。わたしのささやかな仕事の一筋に、生きる勇氣を與へてくれたものは、いろいろありますが、その奧にあるものは、いつもこの「母なるもの」でありました。

底本
池田亀鑑『花を折る』(中央公論社、1959年、pp.283—286.)