本文資料の整理について

わが國の古典研究は先づ資料を整理して出發しなければならないといふことに誰も異論を唱へる人はなからう。勿論資料の整理がすぐ古典研究そのものだといふのではない。古典研究には、種々の方面があるのだから、資料々々といつてゐたところでしかたがないことは分つてゐる。しかし、どの方面にしても、資料を無視して研究ができる筈はなく、日本の現状は決してそこまで達してはゐないのである。

最近圖書館事業が、いくらか重んぜられてきたやうだが、それは古典研究のためにもよろこばしいことである。一體、日本の古代文化といふものは、多くは廣義の文獻によつて傳へられたものである。さういふ文化財が、この圖書館で蒐集、整理され、研究者のために廣く開放される希望が生まれたわけである。さうなれば色々やかましくいはれた重要文化財の散佚も未然に防がれ、また私有化に伴ふ不愉快な問題も解消するわけである。國民の高貴な義務として、ぜひこの圖書館の機能を充實させることに協力したいものである。

もちろん圖書館の機能といふものは、ただ書物を保管するだけではない。分りきつたことだが、世間にはよくそんなふうに考へる人がある。實は保管といふことさへ大變な仕事ではあるが、しかし今後の圖書館は、もつと積極的な仕事に手をのばしてもらはねばならぬ。たとへば戰前から莫大な費用をかけて複製本を作製頒布した前田家の尊經閣文庫、近衞家の陽明文庫、岩崎家の靜嘉堂文庫、東洋文庫などのやうな出版事業も必要であらう。また戰後特に活溌に動いてゐる國立圖書館や宮内府書陵部や東大史料編纂所や國立博物館などの展示出版をふくめての啓蒙事業も、それぞれ非常に有意義な活動であり、今後も益々強化していただかなければならぬものである。

國民文化財、特に學術資料に至つては、國家のためにも學問のためにも護持されねばならない。そのためには、何よりもさういふ資料が公共のものとして、自由に閲覽の機會が與へられるやうな組織をもつ必要がある。さういふ組織は、重要文化財保護條例の強化とさらに新しい立法化にまつよりほかはない。貴重な學術資料が出現しても、一旦個人の手にわたると闇の中に沒しやすいものだ。その資料を入手した人が、家寶として大切にするのはよいとしても、他人に見せるとその價値が下ると考へたり、別に研究する目的があるわけでもないのに、祕密にすることがその本を護る所以だといふふうに考へたりする傾向があるのは困つたものである。これには、もちろん課税の問題がからんだり物慾が介入したり色々好ましくない事情がある。さういふ點では故人になられた大島雅太郎氏のやうな人は實に稀れに見る人格者であつた。また一見理解のなささうな古書籍商の中にもずゐ分立派な人がゐて、中には大學の講壇に立たせても、書誌學や目録學などは十分やつてのけるだけの努力を重ねてゐる人もあるが、さういふ人たちは、自ら苦勞した體驗をもつてゐるから理解もあり、快く便宜をはかつてくれる。反對に學者と稱する人の中に自ら努力しようともせず、他人を利用することばかり考へてゐる人がないわけではない。學究者自らが眞に資料への愛にめざめないかぎり、文化財保護を叫んだところでどうにもなるものではない。先づ自分が身をもつて、資料の博搜整理の仕事にぶつかつて見ることが必要だ。國立圖書館や、國立研究所などに、その責任を負はせ、自分は手を拱いてゐたとしたら、古典の蒐集も整理も百年河清をまつに等しい。雪は大地を淨めるものだが、われわれが先づ身をもつて、その雪の一片にならない限り、どうにもなるものではない。


編輯者からの申し入れは實は古典の索引について何か書けとのことであつた。勿論その任ではない。固辭したが、ぜひともとのことである。平素「通信」をいただいてゐる間がらでもあつて、しひておことわりもできず、締切日になつた。僭越ながら一つ二つの感想をのべさせていただくことにしようと思ふ。

わが國の古典作品の總索引として有名なものに、正宗先生の萬葉集總索引がある。これは編者がほとんど半生を捧げられた勞作で、萬葉集中のすべての語彙が、どのやうな立場からでも自由に檢出される仕組みになつてゐる。萬葉集研究が大正、昭和の時代に入つて長足の進歩をとげたのは、一に校本萬葉集とこの總索引とのおかげであるといつても恐らく異論はあるまい。また松下博士の國歌大觀も、二十一代集や主な私家集にわたる五句索引で、これもまた多方面にわたつて學界に貢獻したことははかり知れない。單に萬葉集や勅撰集の研究だけではなく、廣く國語史文法史の資料としても物語、隨筆などの解釋のためにも、また風俗習慣やその他一般の歴史的事實の闡明のためにもこれらの索引の果した、また果しつつある役割は大きい。奇矯な言ひ方かもしれないが、これらの索引は、何十、何百といふすぐれた研究論文に奉仕するためになされたといつてよい。利用者が、恩惠に俗したことを自覺してゐるか否かわからぬ位、それほど公共的な勞作である。

索引といふものは、その索引を作製してゐる人の恣意的な選擇や解釋が入つてはならない。索引をつくる場介、個人の當面の研究題目にまつはる興味が動きやすいのであるが、それは嚴重に警戒されねばならぬ。個人的な關心といふものは、必ずしも他の學究者の關心とは一致しないし、當の個人にしても今日の關心がそのまま明日の關心となりうるか否かも疑問であり、多くの場合、變化し發展するのが自然だからである。索引は、いつでも、いかなる人にも利用されるやうでなければならない。

萬葉集や勅撰集や私家集のやうな作品には本文上の疑義が少い。しかし物語や日記などには、それがかなり多い。從つてその索引は容易ではない。先づ校本(少くとも他の重要諸本との對校本)が完成し、その上に嚴密な「校訂」がなされる必要がある。さうしてなるべく單語に分解し、辭書的な配列による形式がとられるべきである。それは索引の作製者の恣意を防止する最上の方法といはれよう。近頃刊行された吉澤博士の源氏物語新釋の索引などは、この點に非常な苦心が拂はれてゐるやうである。

索引の根本使命は、どこまでも正確に語彙を檢出しうる點にあるであらう。これは新解釋や、新學説の提示である必要はない。その解釋が永久不變のものであるかどうかは分らない。解釋史の一過程として提示される場合が多いからである。從つて「新説」の名を藉りた恣意の改訂によることは索引に關するかぎり百害あつて一利ないものといはねばなるまい。通説を採用しておき疑問のあるもの異説のあるものについては、何かの符號をつけて注意をうながしておけばよい。わたくしも校異源氏物語に附隨する索引の仕事を進めてきたが、最も困難を感じてゐるのは助詞の扱ひ方である。この助詞は、他の語と切り離せない性質をもつてゐる。その接續のし方が問題である。さういふ接續のし方によつて生ずる意味のかすかなニュアンスをとらへ、解釋上の新説を提示し、それに基づいて索引を作りたい欲望に驅られない人はおそらくないであらう。それを抑へて一應通説をあげ、「參考」とか「參照」とかの標記や符號をつけて、それ以上の意見を遠慮しておくといふことはよほどの克己を必要とする。この索引の作製にあたり、助詞、助動詞以前の一般語彙の原稿の再調査の一部を援助されたある人は、解釋上にすぐれた新見を示され、わたくし自身も同意して一旦その説をとりあげた語彙もあつたが、あとで通説にあらためた。この經験により、わたくしは索引といふものが、徹底的な諸註集成と校異本との完成を俟つて、はじめて着手されるべきものであるといふことを痛感したわけである。索引といふ仕事は、どのやうな研究目的にも、そひうるやうに本文中の語句が、自由に檢出されることを目標になされるべきであつて、決して新説の發表を目標になされるべきではない。新學説は編者自らも、また利用者も、いつでも索引をふまへ、そして索引を超えて樹立し、かつ別の機關においてすべきものであらうと思ふ。校本でも、索引でも、それを作成しようとする場合には克己といふ美徳が守られる必要がある。純粹に客觀的になりきるといふことは至難のことである。徹底した校本、解説、諸註集成索引、さういつた仕事が、どの作品にも完成したら日本文學研究は進歩しないだらうか、退歩すると誰がいひきるだらうか。

底本
池田亀鑑『花を折る』(中央公論社、1959年、pp.56—61.)