今年も櫻の季節になつた。花につけて思ひ出す恥話がある。
一昨年の春、ある外國人から「堤中納言物語」のことについて色々質問を受けたことがある。その人は、同物語の中の一篇「蟲めづる姫君」のArthur Waley氏の英譯The Lady Who Loved Insectsを見て感心したので、もつと研究して見たいといふ前置きをして、大小いくつともない質問を矢つぎばやに浴せかけたが、これには全く閉口させられた。
ことに卷頭にをさめてある「花櫻折る少將」の標題はどういふ意味か、これはどういふ風に英譯したものだらうかと問はれた時には、はづかしい話ながら、返事に窮してしまつた。
この「花櫻折る少将」といふ短篇は、主人公の少將なる人が、美しい姫君と間違へて、思ひがけもない年寄の尼さんをつれてきたといふ夜中のユーモラスな出來事を描いたもので、その主人公といふのは、本文の中に、
暮れ行くほどの空、いたう霞こめて、花のいと面白く散り亂るる夕ばえを、みす捲き上げて眺め出で給へる御かたち、いはむ方なく光みちて、花の匂ひも無下にけをさるる心地ぞする。
とあるやうに、容姿端麗なすばらしい美男である。
元來「堤中納言物語」の中にある十篇の小説中、九篇までは内容に則した標題がつけられてゐるのに、この「花櫻折る少將」の標題に限つて、全然内容との關係がない。記事の中に、花櫻を折つたといふやうな事實は全くない。
そこで私は苦しまぎれに、次のやうな二つの獨斷論を提出して一時をごま化したのである。
一つは、「花櫻」を美人にたとへ、「折る」を、源氏物語若紫の卷にある「手に摘みていつしかも見む紫の根に通ひける野邊の若草」の「摘む」と同じやうに、掌中のものとする、自分の所有とするといふ意味に解して、全體としては「立派な美人を手に入れた少將」位の意味だらう。實際は美人でなくて尼君であつたが、かへつてそこに皮肉や笑ひがあり、標題はそれを意識してつけられたものだらう……といふのであつた。
その二は、躬恆の歌に、「雨の中に散りもこそすれ花櫻折りてかざさむ袖はぬるとも」とあるなどから思ひついて、花櫻を折つて袂や袖をぬらした――美人を得ようとして飛んでもない目にあつたといふ意味でつけたか、或は定頼の歌のやうに、袖のぬれるのも構はず急いで花櫻を折つた――後の成行きも考へず盲目滅法にやつてしまつたといふ意味でつけたか、そのいづれかであるかも知れない――といふのであつた。
右の二つの思ひつきに對して、わが好學の質問者は可とも不可とも云はなかつた。たださういふ氣まぐれなごまかしには、容易に承服出來ないといふやうな嚴密?な顏色を見せただけであつた。
それから後、折にふれて讀みかへした古典の中に、三つ四つ注意をひかされたものがある。先づ宇津保物語藏開の上の卷に、
つきもし奉らば、うせもしつべき御顏つきにて、花を折りたるごとぞなりまきり給ふ。
又同じ物語國讓の下の卷に、
女御の御もとに宮達つどひて御かたちは花を折りたるごとして
とあるのをはじめとして、落窪物語には、越前守の言葉に、
四つの君の御方の何の君、かのおもと、まろやさへなん候ひつる花を折りてさうぞきて、いとよしとなん思へるや。
とあり、榮花物語の輝く藤壺の卷に、
殿上人などは、花折らぬ人なく今めかしう思ひたり。
同じ物語のつぼみ花の卷に、禎子内親王の御鏡餅(長和三年正月二目)の有樣を記して、
御乳母たち、我も我もと、花を折りて仕うまつる程もあらまほしげなり。
又同じ物語の衣珠の卷に、上東門院御落飾の日(萬壽三年正月十九日)の女房たちの樣子を記して、
その日の女房のなりども、花を折りたり。
とあり、大鏡の伊尹傳に、
男君たちは、代明の親王の御女のはらに、前少將、後少將とて花を折り給ひし君達の(後略)
又夫木抄所收の藤原兼宗の歌に、
あふひ草かざす今日とぞ思ひしに花を折りても見えわたるかな
とある。「花を折る」は又「櫻を折る」とも云はれたらしく、源氏物語東屋の卷に、匂宮が二條院に來た時のことをのべて、
いと清らに、櫻を折りたる樣し給ひて
とあるによつて明らかである。
以上の原典の本文に誤りがないとすれぱ――ないとは斷言出來ないけれど――「花を折る」又は「櫻を折る」といふ言葉は平安朝中期から末期にかけて、先づ大體、容貌の美しいこと、容姿を美しくすることなどの意味に使はれてゐたと解しても不都合ではない。
堤中納言物語の中の十篇の物語は、或は鎌倉時代(文永八年頃まで)に出來た作品か、又は少くとも標題だけはその頃に出來たものかも知れない。ではその時代に「花を折る」といふ用例があるかどうかと調べて見ると、やはりある。例へば、龜山殿御幸記(文永五年)に、
御隨身折㆑花
とあり、源平感衰記卷四十四の「平家虜都入」の條に、
公卿も殿上人も今日を晴と花を折りてきらめき遣り列ねてこそありしか。
とあり、太平記卷三の「主上笠置を御沒落の事」の條に、
供奉の諸卿、花を折つて行妝を引きつくろひ、隨兵の武士、甲胃を帶して非常を警しむ。
とある。これ等の諸例を見ても、鎌倉時代から室町時代にかけて「花を折る」といふ言葉は、古い時代と同じ意味に使はれてゐることが分る。
尤も「花を折る」の「折る」は「織る」ではないかとの疑ひもないではない。元徳舞御覽記に、
御隨身色々の染裝束興をつくして、花をおり錦をたちて立ち加はれる樣、いと珍かなり。
とある對句の文句によれば、さうも解せられる。しかし、守覺法親王の釋氏往來に、裝束借用の件を、
日來令着裝束不能晴儀之供養。御法服一具借給乎。非好折花之體爲免打梨之嘲也。
と漢文で書いてゐるのと、前記龜山殿御幸記に同じく漢文で「折花」と書いてゐるのを見れば、やはり花を折りかざすの意から來たもので「折る」が正しく、「織る」は誤りとしなければならぬ。
そこで「花櫻折る少將」も、右にあげたやうな例から見ると、「美男の少將」とか「美裝をこらす少将」とか、「伊達男の少將」とかの意と解すべきではなからうか。
この説が必ずしも正しいとは云へまいが、せめてこれだけでも調べてゐて話して聞かせたら、あの尊敬すべき好學の外國人はいくらか失望の度を少くしたかも知れない。
今櫻の花の咲くのを見て、あの時の外國人の深刻な顏色や眼なざしを思ひ出しては、今更ながら自分の學問の淺さや、それについてのおほけなさをつくづく思ふことである。