源氏物語研究の思ひ出

この間東大の大講堂で陳列された僕の藏書と原稿とについて、色々人知れぬ苦心談があるだらうから書いてくれといふ註文をうけた。一通りお斷りしたが、ぜひ書けといふ。では、まあ馬鹿な男のたは言として聞き流していただきたい――といふことで書くことにした。

僕が藤村先生から、『源氏物語諸註集成』の大仕事をぜひやれと命ぜられたのは、今から七年前の春、大學を出る年の三月のことである。その時先生は「他にも候補者が二三無いではない。しかしこの大事業をやりとげるのは君だと信ずる。ぜひ私の信頼を裏切らないでやり通してくれ」と云はれた。あの時の慈愛にみちたそして力強い先生のお言葉は、七年後の今日もなほはつきりと耳の底に殘つてゐる。その時僕は感激して言葉もなかつたが、一週間ばかり熟慮してから御返事を申上げるやうに約束して引退つた。そして先づ第一に父に相談した。すると父は、『お前のやうな青二才が先生からそれほど信頼して戴くとは有難い事だ。ぜひやれ』と贊成してくれた。第二に吉川彌平先生に御相談した所、先生もまた同じやうな理由で喜んで贊成して、そして激勵して下さつた。そこで再び藤村先生をお訪ねして、『微力ながら全力をつくしてやります』ときつぱりお引受けした。

それから一ヶ月ばかりたつた或る日、新調の脊廣にレインコートといふ――今でも四月すぎになると本郷界隈にずゐ分見かける圖だが――新學士らしい瀟洒? な足どりで、新緑に包まれた正門前の街路樹の間をてくつてゐると、「君! 大變な仕事を引きうけたね」と通りすがりによびかけた老紳士がある。それが思ひがけず上田萬年先生だつたので、面喰つて頭をかいたものだ。

さて手をつけてみると、源氏の研究は、中々とても容易なことではない。元來源氏は學生の時三べん少くともくりかへし通讀した經驗があるから、まさか見當のつかないといふ譯でもない筈だつたが、たまたま阿佛尼の書いたといふ源氏の古寫本を見て、その本文が湖月抄の本文と全然ちがつてゐると分つて、こんなのが幾つあるかしらとびつくりした事だつた。又、林逸抄とか休聞抄とか、色々の註釋書が、それぞれ一山につみ上げられてゐるその實際を見てからは、これやとてもやりきれない、助からないと悲鳴をあげたが、その時ぴんと来たのが上田先生のお言葉だつた。成程大變な仕事を引受けたもんだなとつくづく考へた。或る日内閣文庫からかへりに、西下君と二人で喫茶店によつて、紅茶のさじをいぢりながら、「參つたなあ」と歎聲を洩らすと、「まあさう早くさじを投げるなよ」と慰めてくれた君のユーモラスなウヰットを思ひ出す。

とかうしてゐる内に一年の月日がたつた。茫々たる曠野をさまよふ心地だ。大海の水をくみ出すやうな氣持だ。本を探す、それを寫す。校合する。寫すにしても、一日平均三十枚となると中々の骨だ。一部五十四帖ざつと三千枚とすると、朝から夜中まで、食はず飮まずでかかつてゐて、それでやつと一部寫し上げるのに先づざつと百日かかるわけだ。それが本文だけではない。註釋書とその異本ときたら、恐らくその何十倍になるか計り知れない。今まで何も知らない癖に、何でも知つてゐるなんてうぬぼれてゐた自分にそろそろ愛想がつきてきた。その時の混亂した氣持は今でも忘れる事は出來ない。それが二年目の春の頃である。

近頃藤田徳太郎氏が『源氏物語研究書目要覽』といふ結構な本を出された。その頃はそんな便利な參考書は一册もなかつたので、僕は先づ青森から九州まで各地の文庫圖書館を歴訪して、源氏物語の現存書目を作製することに骨を折つた。それによると、見なければならない諸本、諸註は、册數にして先づざつと六萬册位、その中ぜひとも手もとにおかなければならない本が一萬册位ある。平凡な頭、強くない身體、それにかてて加へて貧乏人の子に生まれた僕は、この驚くべき事實の前に、茫然自失してしまつた。全く手のつけやうがない。やめつちまはう! とさへ思つた。しかし、さういふ時、いつでも僕を勇氣づけ、勵ましてくれた強い力があつた。その第一はかつて卒業の年の春、特に僕に向つて、「信頼してゐるぞ。しつかりやつてくれ」と云つて下さつた藤村先生の慈愛深いお言葉であつた。先生のお言葉は、七年の間、生きて行く力となつて、常に僕の頭の中を去らなかつた。

僕のひるみやすい心を實際の上で鞭撻してくれた恩人が、藤村先生の外にまだある。それは父と母と、そして前には西下經一君、今では松田武夫君の四人である。父は老後の思ひ出だから、借りてきた本を寫してやらうと、自分の方から進んで申出て、毎夜、一時の夜警のチョンチョンが聞えるまでは、必ずおきてゐて寫してくれた。みぞれの降る寒い夜中など、もう寢ただらうと思つて、そつと部屋をのそいて見ると、六十の坂を三つも四つも越してゐる父が、やはり電燈の前にしよんぼりと坐つて、眼鏡をかけて、せつせと寫してくれてをり、又その側では、眼を病み、指の關節をわづらつてゐる母が、脊中をえびのやうに曲げて、本の整理やら、假綴ぢやらをしてくれてゐた。あのいたいたしい二人の姿を忘れることがあつたら、僕は子でないのみならず、同時に人間でもないだらう。又寫した本を原本に比校してゐると、夜中の二時頃になつて、つい疲れきつて筆をもつたままうたたねをする事があつた。そんな時、よく母はそつとはひつてきて、僕の眠りをさまさないやうに、後ろからこつそりどてらをきせてくれた。僕の家は、夜の二時頃までは必ず電燈がついてゐたので、隣家の人たちは、金のかからない用心棒がゐて有難いと、大變喜んでゐたさうだ。

脊負ひきれない荷物を、どうかして脊負はうともがいてゐる中に、四年目、五年目、とたつて行つた。本を買ふ金も、旅費も、紙代も、全く消費しつくしてしまつた。その頃全然浪人のやうな立場にゐた僕の收入では、研究はおろか、その日の生活さへも出來ない悲慘な状態になつた。あちらから、こちらから、僕は恥かしい話だが借金をした。けれどもこの火の車のやうなやりくりは、父と母には少くとも絶對に祕密にしたつもりだつた。しかし何時の間に感づかれたか、ある夜、父は僕をよんで、しんみりと、田舍に殘したわづかの遺産を處分して、この非常時の研究費に充てようと云ひ出した。祖先の遺したものに手をつける不心得は、先づ第一に親戚の一部から非難されたが、それは當然の事として豫期した所であつた。

「わづかの金ならともかく、何萬圓といふ大金を湯水のやうに使はれては……後をどうするつもりだ」

と、可なり大きな債權者である所の親戚の一人が父に強談判をしにおしかけてきた。

「何時まで經つても何にもなりはしない。殘るものは病氣と貧乏とだけだ。第一、大學まで卒業してゐて、おまけにこんなに勉強してゐて、それできまつた職業も地位もないなんて、何といふ馬鹿な事だ。一體……」

といふ言葉をおさへて、父は、

「たしかに利巧な人のする事ぢやない。しかし馬鹿々々しくても、正しい道だ。まあ、默つてあれを一人の男の子にしてやつて下さい」

と、云つてくれた父の理解には、さすがに涙なしにはゐられなかつた。

或る時、非常にすばらしい源氏の古寫本が賣物に出たが、それは何百圓もするといふ。これがどうしても校本に必要だ。どうしてもほしいが金がない、と、僕はつい父と母とに愚痴をこぼした。その夜は一晩中、本の事が氣がかりで眠れなかつた。翌日母はどこからどうしてもつて來たか、その何百圓といふ紙幣をそろへて、「早くあの本を買ひなさい」と云つた。その紙幣がどうして出てきたか、ほぼ想像された僕は、悲しくてたまらなかつたが、涙ぐみながらそれで源氏を買ひに行つた。その夜母は、「この本が、この本がそんなにいい本なのか」と、なつかしさうに見入つて、枕もとにわざわざ高くつみかさねて、床の中から、さも滿足さうにしげしげと眺めながら、いつもより平和に眠りについた。

その中に、五年目がすみ、六年目になつた。研究はまだ中々完成しない。まだ書寫しなければならないものが、少くとも二十萬枚位はある。まだまだ前途遼遠だ。世間では池田の仕事はどうした。あいつは遊んでゐる。藤村先生は、だまされてをられる――などとやかましい評判が立つて、それが先生のお耳にもはひつた。先生はしかしそれに對して「君を絶對に信じてゐる」と力強くただ一言仰言つただけであつた。公平と聰明――私心といふものを微塵も持たれない先生は、昔と變らない短い男らしい言葉で激勵して下さつた。僕はこの頼もしい偉大な人格の前には、死んでもいいと思つた。

しかし、仕事を早く進行させることは絶對に必要だ。そのためには、僕は如何なる金錢上の犧牲を忍んでも、科學の力を借りるより外はないと思つた。青寫眞、理研の陽畫感光紙、コムマーシャルペーパー、寫眞など、凡そ利用の出來るものはみな利用した。そしてたうとう、活動寫眞のフィルムの撮影といふ所まで考へ及んだ。(今ではもつと進んだ方法を研究してゐるから、この方法が完成したら、本文校訂の上に非常な光明がもたらされるとは思ふけれど)

『源氏物語諸註集成』の事業は、前後もう七ヶ年の月日を費やした。今完成したのはやつとその一部にすぎない。思へばこの仕事のかげには、かくれた援助が多い。學士院からは二囘、ある無名の篤志家からは數囘、それぞれ研究補助金の交付を受けた。その他實際の仕事には、西下君、松田君が前後して熱心に援けてくれた。ことに松田君は、朝の九時から、夜の二時まで、僕と共に文字通り寢食を忘れて今なほ努力をつづけてくれてゐる。尊い犧牲でなくてそれが何だらう。展覽會がすんだ日、君は夕やみにつつまれた公孫樹の並木のかげで、「すみましたね! すみましたね!」と、僕の手を握つて、聲を立てて男泣きに泣かれた。展覽會で何よりも一番嬉しかつたことは、君のこの聲涙共に下つた一言と、會の後、岡山からわざわざ長い長い手紙をくれた西下君の友情と、會の準備中僕の健康を祈念して、毎日人知れず明治神宮に日參してくれたTさんの眞心である。就中、過勞のために卒倒した父が、會の當日全快して母と共に見に來てくれたこと、吉田先生が第一日の朝早くイの一番にお出で下さつて、「お目出度う」と心からお祝ひ下さつた時の嬉しさうなお顏と、藤村先生が「どんな批評があらうとも、自分としては十分滿足です。よくやつてくれた」との一言を特に力強く惠んで下さつたその御心中と、I氏が「よく信じた。よく信じられた」とほめて下さつたその意味深い批評とは、僕の終生忘れる事の出來ない深い印象として殘つた。

この研究はまだまだ永久に續く。否續かせねばならぬ。これまでこの研究のために誠意のあらんかぎりをつくして助けて下さつた人人には、徳本・大津・永積・永井・中村・清水・城戸・高橋・岸上・山根・木田その他の諸君がある。就中、松尾聰君と、鈴木知太郎君とは、大切な健康までも犧牲にして獻身的に努力して下さつた。僕はその友情を忘れる日の絶對にないことをここで誓ふ。

馬鹿者のひとり言――このたは言を、もし老いた父が後で見たら、何といふ餘計な恥さらしをする、と、氣持を惡くするかも知れない。ただそれのみを恐れつつ筆を擱く。

底本
池田亀鑑『花を折る』(中央公論社、1959年、pp.252—258.)