學術資料の整理と保護

先般文化財保護條例が公布されて、その方面の委員會が設置されたことは喜ばしい。ただ、同委員會の構成や機能が主として古美術に關し、學術資料に關しては手薄な感じがするのは遺憾である。重要學術資料は必ずしも重要美術ではない。しかし日本民族の文化財としては、決して美術品に劣らない。最近にいたつて、多くの重要學術資料のコレクションが散佚したり、海外に流出したりして、心ある人々を憂慮させてゐたが、今囘日本學術會議において、この問題を正式にとりあげ、整理と保護のために適當な處置を講ずることになり、日本文學協會にも協力をもとめられたので、協會では進んでその要請に應ずることになつた。

戰後、社會状勢の激變に伴ひ、多くの文獻が盛んに散佚してゐることは周知の通りである。これまでは華族とか、實業家とか、寺社とかに蒐集保存されてゐた貴重文獻が、今日ではそれらの所藏者の力では管理しきれなくなつて、あるひは分賣され、あるひは海外に流れ出て、收拾できない情勢にある。望ましいことは、國家が、そのために相當額の豫算をあて、不幸な事態を未然に防止することである。しかしそのことは、現在の國情では、たうてい望むべくもないとすれば、どうしたらよいか。そのまま放置して、重要學術資料の壞滅を拱手傍觀するなどといふことは、一片の愛國心をもつもののできることではない。また、憲法によつて、戰爭放棄と文化國家建設とを世界に宣言した。その公約に對する責任においても、われわれはこの現状を、他人ごととして見逃すことはできない。

黒川文庫、斑山文庫、三井文庫、渡邊文庫、青谿書屋、紅梅文庫、阿波文庫などは、有數なコレクションとして、研究者に絶大な恩惠を與へてゐたが、今日ではことごとく散佚してしまつて、再びその偉容に接することはできない。これらのコレクションが、たとひ少々の分割はあつても、全國に續立した無數の大學圖書館にでもをさめられてゐたら、どんなに仕合はせであつたらう。藏書家は、種々の目的で蒐集してゐるから、一がいにはいへないが、中には生活費をきりつめ、多大の犧牲を拂つて命がけで蒐集した人もある。他人に見せるために、自己を犧牲にして集めるといふ慈善行爲は、有産者ででもないかぎりできることではない。世人は、藏書家から受ける恩義に對しては、十分感謝しなければならない。國家もまたその點を確認することが必要である。藏書(特に學術資料)に對して、税を課するが如きは、もつてのほかである。逆に國家は、維持費の一部を支辨すべきである。

學術資料を整理保護するためには、文化財保護法を強化するか、または學術資料保護法を立法化することが望ましい。今日のやうに美術骨董の尊重に偏してはならない。國家の機關として史料編纂所のやうなものが設立されるべきである。また學識經驗者を集めたブレーンとして學術資料保護委員會といつたやうなものが、一目も早く結成されることが必要である。その委員會が、藏書家や、蒐集家や、研究家などの公正な指導者となり、斡旋者となるやうでありたい。さうして、全國各地の國、私立大學圖書館や、各府縣立圖書館の當事者と緊密な連絡を保ち、學術資料の配置、保護などが、公明正大な良識によつて運營され、藏書家もまたその文化的有機體の一員たる權利と義務の保持者であることを名譽とするやうでありたい。

しかし、組織や施設を動かすものは人間であるから、この際民族の文化に對する熾烈な愛情、平和への獻身、世界文化の保護者たるの信念、それを妨げる一切のものに對する敢鬪の精神が、前提として要請されてゐることはいふまでもない。最後は倫理の問題である。

底本
池田亀鑑『花を折る』(中央公論社、1959年、pp.46—48.)