チエムバレン先生と琉球語

「チエムバレン先生と琉球語」は、佐々木信綱博士から与へられた題であるが、琉球語の研究者なる私も、間接にチエムバレン先生の感化を受けた一人である故に、この一篇を草して、謹んで之を先生の霊に捧げる。

近世に入つてから、社会制度の激変につれて、琉球語は二回ほど大なる変化を遂げた。内裏言葉の辞書『混効験集』の序に、島津氏の琉球入後一世紀にして、「みせゞるの言葉」(古代琉球語)が移しく減少したので、三代に歴仕した老女官に質して、同集を編纂した、といつたやうなことが見えてゐるが、廃藩置県後、明治文化の南漸によつて醸された半世紀間の変化には、更に一層甚しいものがあつて、恐らく過去三世紀間のそれにも匹敵すべきものがあらう。

明治十二年から同二十七八年の頃まで、琉球語がその旧態を維持してゐたことは、チエムバレン先生の名著『琉球語文典並に辞典に関する試論』(明治二十八年出版)の証する所で、詳しくは後で述べるが、その後に於ける琉球語の激変は、日本の戦捷の結果、親日の気運が激成された為だ、といつて差支なからう。この頃までは、日本語が話せるといふことは、一つの外国語が話せるといふ位、当時の親日派に取つての誇りであつたが、四十年後の今日では、琉球語を操るのが、むしろ恥辱と思はれる迄に世相が変り、どんな寒村僻地でも、標準日本語の通じない所がなく、琉球語の単語は国語のそれにすげかへられ、その音韻語法さては言廻しまで、国語的になつて了つた。かういふ雰囲気で育つた五十台以下の者が、その琉球梧を昔ながらのものだと思込んでゐるのは無理もないが、老人達が今の若い者どうしの沖縄口おきなはぐち(琉球語)は、自分達には能く聞取れない、と言つてゐるほど、実は変り果てゝみることを知らなければならない。これで見ても、日清戦争勃発の前年に於けるチエムバレン先生の採訪は、能くその時期を得たもので、琉球語に関するその業績は、実に貴い記念塔だといへる。

例の過渡期に人となつた私は、一語一句の歴史を語ることが出来ると信ずるが故に、自分が育まれた環境を思ひ浮べつゝ、旧時代の国語教育をかいま見、然る後にチエムバレン先生の琉球語研究の問題に触れようと思ふ。

私が生れたのは、もう三年経つと、沖縄県が置かれるといふ明治九年の二月で、その頃は熊本鎮台の一部隊が派遣されるやら、処分官の松田道之がやつて来るやらで、随分物騒であつたらしい。物心が付いた時分、私の頭に最初に打込まれた深い印象は、私を非常に可愛がつてくれた祖父の事であつた。祖父は若い時分六七回も福州に渡つた人で、漸く出世して伊波村の地頭に任ぜられたが、廃藩置県で前途の希望を失つたところへ、新設の県庁に出仕を命ぜられた、十五歳になつたばかりの私の叔父が、相談なしにおほやまと(東京)に連れて行かれたので、祖父は世間から裏切者と呼ばれたのをひどく気にして、心身共に俄に弱つた、といふことである。叔父は幼名を小樽金しよたるがねと云ひ、非常に利口なので、新教育を受けさせる為に、東京につれて行くといふことが、当時内務省で出版された『琉球処分』の中にも見えてゐるが、私は彼が盗まれた(当時は皆さういつてゐた)日、親戚縁者が本家に集まつて、葬式の時などのやうに、声を立てゝ泣いてゐたのを覚えてゐる。

この悲劇が原因となつて、祖父は間もなく、中風をわづらひ、歳の暮頃から全身不随になつた。そして時々涙を流して、私を見つめてゐたが、この恐ろしい世の中で、最愛の孫の行末がどうなるだらう、といふことを頻りに案じてゐたらしい。私の五歳の時の三月に、祖父は六十一を一期として、遂に不帰の客となつた。

私の七歳の時、即ち明治十五年に、東京で最初の博覧会が開かれて、沖縄の方からも見物に出かける者があつたので、本家の方ではこの機会に盗まれた子を取還したいといふ議が持上つて、伯父が観光かた〴〵上京することになつた。四月頃であつたか、叔父はいよ〳〵長兄につれられて帰つて来たが、彼の断髪姿が珍らしいので、之を見ようとして、遠近から大勢の人が押寄せて来た。その日彼は至つて快濶に話してはゐたが、二年間も母国語を使はなかつた為に、舌が能くまはらないといふ有様で、その語調にはきは立つて変な所があつた。私始め親類の子供達は、今までに見たことのない玩具を貰つて喜んだ。彼は断髪姿で外出しては危険だといふので、数ケ月経つて髪の毛が延びた時、又昔の様に髪を結ひ、それからは毎日親戚朋友の家を訪れて、東京の話などをしてゐたが、この新文明の紹介者なる彼は、翌年の正月頃、腸チブスに罹つて、空しく白玉楼中の人となつた。その間に時勢はだん〳〵変つて、始めて、数名の青年が東京に留学することになつた。本家の方では、こんな世の中になると思へば、あのまゝ東京に置いておくのであつたと、幾分後悔もしてゐたが、でも私の親戚のものは、新しい文明に対して、不相変恐怖心を抱き、なるべく日本人やまとんちゆには接近しないやうにしてゐた。そして子供達が言ふことを聞かない場合には、「アレ、日本人ヤマトンチユードー」といつて、威すのであつた。私は近所の子供達が新しい学校に通学してゐるのは見たが、余り外出などはさせられなかつたので、何処にその学校といふのがあるかは全く智ずにゐた。当時那覇には、さういふのが三四校位もあつたらしい。

学校所ガツコージ(チエムバレン先生の語彙にも、さう見えてゐる)は、とうに閉鎖されたので、私は已むを得ず漢学塾みたやうな所に送られたが、最初に教はつた教科書は大舜(『二十四孝』)であつた。四言体四句の韻文で書かれたもので、先生はまづ細長い色紙に、「一二三……十」と「拾廿卅……百」と書いた二枚のさんと云ふ札を、本の中に挾んでくれた。そして素読を覚えて了ふと、一人で之を復習させられたが、一回読み了る毎に、一位の算を一つ出しては、「算一さんていやびたん、さい」と唱へ、十が出ると、早速二位のものに換へるといつたやうに、つまり「算百さんひやく取やびたん、さい」で、その日の課業は終るのであつた。さうするを「算取さんとゆん」と云つた。その外にも風変りな教育法があつた。お隣りの子供は、大舜を三十字詩の琉歌に訳したものを読んでゐたが、琰子が鹿皮をかぶつて、鹿の群に入り、その乳を取つて瞽の両親を養う所が、「鹿のんて、鹿の乳よ求め、親よやしなたる人の……」と訳してあつたのを、うろ覚えに覚えてゐる。大学を出て帰省した時、この事を思出して、例の琉球訳を探したが、遂に見出せなかつた。大舜をあげるとすぐ、『小学』の素読に移つたが、その訓読は漢文直訳体の一斉点でもなく、又極端な和文体の道春点でもなく、両者の中間をいつた後藤点であつた。中には之を琉球語の音韻法則によつて、オ列エ列をウ列イ列にしたり、ウ列イ列を口蓋化したりして読む人もあつたが、それには島開合しまかいがうといつて、冷笑してゐた。兎に角この訛りのない訓読が、後日和文を学ぶ素地になつたことは言ふ迄もない。当時の人は十七八歳位になつて、四書の素読が一通り済むと、「講談とほしゆん」と称して、『小学』の講釈を聴いたものだが、同時に候文をも習ひ、独り手に『三国志」などを読んで、漸次和文に親しむのであつた。序に、明の洪永間に帰化した閩人の後裔なる久米村人は、不相変明倫堂でその子弟を教育して、四書五経を支那音で読ませたばかりでなく、官話まで教へてゐたことを附記して置く。

二三年経つて、『論語』の素読に移らうとしてゐた時、一日外出してゐた母が、帰つて来るや否や、「みせゞる」(神託)でも受けたかのやうに、これからの人間は、さういふ本ばかり読んでゐては間に合はないから、学校に這入るやうにしなければいけないといつた。当時男子は自暴自棄になつて、すべてのことに無関心であつたに拘らず、女子はかうして絶えず世の中の動きを見てゐたらしい。この問題に就いても、父は気乗りしなかつたらしいが、母の一存で、明治十九年の三月に、師範学校の附属小学校に入校願を出すことになつた。人員超過で後廻しにされて、失望してゐたところへ、附属の主事の戸川といふ人が家を借りに来たのを幸、母はいきなりこの子供を入学させて貰つたら、貸して上げる、といふ交換問題を持出して、無理に入学を許可して貰つた。この時私は十一歳で、初めて大和口やまとぐち(日本語)を習つて喜んだ。その教科書は、明治十三年に沖縄県庁の学務課で編纂した『沖縄対話』で、丁髷の教生が節を附けて、全級の生徒に謡はせるやうにして教へてゐたが、これが取りもなほさず後日チエムバレン先生の主なる資料となつた貴重な記念物なのである。

一二ケ月も経つと、師範学校が旧都の首里に移つたので、私も戸川先生について行つた。首里には、中学に入る時まで、足かけ六年もゐたので、朝夕先生の日本語と琉球の標準語とに親しむことが出来たのは、今になつて考へると、無意義ではなかつた。首里市は今でこそ寂しい都会になつてゐるものゝ、その当時は未だ旧態を改めず、道を歩く時、大名の行列に出会はさないことがなかつた位で、特に朔日と十五日とには、昔の百人御物参もゝそおものまゐりのやうに、各部落の士族達が神社仏閣に参詣するのを見たが、言ふ迄もなく、これは旧制度復活の祈願の為であつた。いつぞや首里小学校の生徒達がこの行列を見て嘲つたといふので、一行中の力自慢の若者達が、受持の訓導を袋叩きにして、半殺しにしたやうな事件も起つた。彼等の子弟は勿論学校には出てゐなかつた。

私は明治二十四年の四月、十六歳の時に中学に這入つた。この時二年生以上の生徒は大方断髪であつたが、私達はまだ丁髷であつた。私達は間もなく強制的に丁髷をきられたが、この日親戚の者が大勢集まつて来て悲しんだ。とりわけ伯父はしく〳〵泣いたが、多分一昔前の弟の事件を聯想した為であつたらう。断髪した同級生の中で、父兄の反対にあつて、退学して髪を延ばしたのも二三名ゐたが、世間では彼等の事をゲーイ(還俗者)といつてゐた。その為に煩悶して死んだのも一人居た。この頃までは、東京に留学したものゝ大多数、中学師範の生徒、官公吏の一部、官庁の小使、それから狂人が断髪してゐるのみであつたから、支那党の連中は、之を冷笑して、島断髪しまだんぱつといつてゐた。道で断髪したものに会ふと、いきなり「君は何処に奉職してゐるか」と聞いたものだが、何処にも奉職してゐないと答へると、トランクワンニンだな、と冷笑するのであつた。これには月給を取らない官人の義がある。当時は時勢が幾分変りかけてゐたので、この種の新語がかなり現れた。一杯飲みに行かう、といふ事をヤマトグチシーガ(日本語をしにの義)といつたのも、その一例で、日本語の必要を痛切に感じながら、それを習ふには年を取り過ぎた連中が、一杯加減で日本語の稽古をしたところから出来た言廻しだが、これは国語が普及すると間もなく廃れた。

今度は、それと趣きを異にした、私自身が初めて琉球語を教はつた十八歳(明治二十六年)の時の話に移らう。中学の三年生になつたばかりの私は、或日友達二三名と門の所で話合つてゐると、門向ひの安良城といふ老人が出て来て、君達が話してゐる沖縄口おきなはぐちは聞くに堪へないから、正しい沖縄口を教へてやらう、とすゝめたので、その翌日からこの人について琉球語を学ぶことになつた。この人は正しい沖縄口を話すといつて、有名だつたが、教授の方法は、『小学』を先づ琉球語に訳してから、講釈して聞かせるのであつた。一二の例を挙げると、「孔子曰」をクーシヌミシエーニと訳し、「子夏曰」をシカヌイーブンニと訳した。後者はベツテルハイムの『琉球訳聖書』に、「イエス答へて曰く」をエスクテーテイーブンニと訳したのと同じことで、ベツテルハイムが聖書を琉球語に飜訳する前に、四書の講釈を聴いた、といふ事実があるが、その用語中には、例の講談の口調がかなり見出されるやうだ。其他四書の琉球訓では、「則」を 'wemmisa nagara といつたが、恐縮ながらを意味する「おやぐめさながら」の転訛したもので、「すなはち」に適当な訳語がなかつた為に、無理に転用したものらしく、口語では勿論使用されなかつた。適訳がどうしても見つからない場合には、和訓をそのまゝ借用したが、その中には追々口語中に取入れられたのもある。この人の話によると、旧藩時代の学校所では、十七八歳になつて「講談を通す」頃から、自然のまゝに放任されてゐた母国語をかうして矯正したが、もうその後は集会の席上などで、間違つた発音や間違つた物の言ひ方をすると、長老達や学生がくせう(教生又は研究生の義)達から、遠慮なく矯正されたので、廿歳前後からは、大方正格な言葉を操ることが出来たといふことだ。これで、私はそこにもかつて一種の国語教育のあつたことを知つたと同時に、置県後はこの種の機関がなくなつたので、正しい琉球語を操る者の、漸次減少した理由をも知ることが出来た。私より三つ四つ年取つた先輩達で、発音の正しい者は、大方この人の門をくゞつた、といふことも聞かされた。後で知つたことだが、かうして琉球語が破産しかけてゐるのを見て、気をもんだ老人が、当時首里那覇の両市に、幾人かゐたらしい。私達が教はつてゐた時にも、時偶質問に来た先輩が二三人あつた。『沖縄語典』の著者故仲本政世氏もその一人で、氏の語典がチエムバレン先生の『琉球文典』と時を同じうして世に出たのは、偶然とはいへ、不思議と言はなければならない。仲本氏の語典には、安良城(政起)先生の序があり、先生の校閲を経たことになつてゐるが、かなり誤りがあつて、全部先生が目を通されたとは思はれない節がある。それは兎に角、この書の出版されたことなどに徴しても、その頃は琉球語の発音矯正の叫ばれた時代であることを看取することが出来る。

母国語に対する私の認識は、この時に始つたが、同じ年の、しかも同じ月に、後日私に「おもろ」の研究を慫慂された田島利三郎先生が、国語の先生として赴任され、早速琉球語の研究に着手されたことや、殆ど同じ頃に、チエムバレン先生が渡航されて、琉球語の科学的研究をされたのは、不思議な因縁と言はなければならない。その時私は、琉球語の研究に身を委ねようなどとは、夢想だもしなかつたが、子供心にも、他県人でさへ、否外国人でさへ、之を研究するからには、自分たちがそれを正しく話すのは当然だ、と感じたのは事実である。だが、さう感じて、正しく発音すると、老人臭いといつて、能くひやかされたので、之を押通す勇気がなく、明治二十九年の夏、東都に出る迄は、所謂宝の持ち腐れであつた。その後は時偶組踊集(戯曲集)を読んで、正しい発音を知ることに力めたが、これは琉球語に熟達する早道で、田島先生も着任早々から之を手にして放されなかつた。

少々自分を語り過ぎたが、チエムバレン先生が採訪される以前の琉球語の話された背景は、ざつとこんなものである。

さて、前に述べた如く、チエムバレン先生が、命を受けて琉球に渡航されたのは、明治二十六年の春であつた。先生はその年に、「琉球民俗考」(On the manners and customs of the Loochooans. TASJ, XXI, 1893, pp. 271-289)を発表され、翌年「琉球語考」(On the Loochooan language. Report of the 6th meeting of the British Association for the Advancement of Science, London, 1894, pp. 789-790)を発表され、翌明治二十八年には、英国の『地学雑誌』(“The Geographical Journal”, V. 1895, pp. 289-319, 441-451, 534-544)の四・五・六号に亘つて、「琉球諸島及び其住民」(The Luchu Islands and their inhabitants)といふ六十五頁の長篇を寄せて、学界の注意を喚起された。この年「日琉両国語の比較」(A comparison of the Japanese and Luchuan languages. TASJ, XXIII, 1895, pp.XXI-XII)と『琉球語文典並に辞典に関する試論』(Essay in aid of a grammar and dictionary of the Luchuan language. Yokohama, 1895, 8°, pp. 273; Published by the Asiatic Society of Japan as a Supplement to Vol. XXIII of its Transactions.)とを公にされたが、後者は六月十二日に、日本亜細亜協会で朗読されたもので、不朽の大著である。其他、琉球研究者の為に、その翌年「琉球書志」(Contribution to a bibliography of Luchu. A list of 53 Chinese, Japanese or native works dealing with Luchu. TASJ. XXIV, 1896, pp.1-11)をも物された。

左に『琉球語文典並に辞書に関する試論』の壁頭の一項を引用して、先生が琉球語の研究に指を染められた動機を窺ふことにしよう。

琉球語の見本が初めて外国に紹介されたのは、キャプテン・バジル・ホールの『朝鮮の西海岸及び大琉球島探険航海記』(Captain Basil Hall's “Voyage of Discovery to the West Coast of Corea and the Great Loo-choo Island”)附録の小語彙で、西暦一八一八年のことであつた。しかし折角蒔かれた種子は、磽地に落ちたので、それから七十七年間も、それ以外には、この問題に就いて、欧羅巴語で書かれた本は、一冊も刊行されなかつた。ほんの最近旧本の教師の言葉を琉球人に習得させる目的で、沖縄県庁で編纂した沖縄対話といふ書名の会話篇が一部、一八八〇年に、那覇で出版されてゐるが、これとても堅苦しくて、しかも不正確といふ謗りは免れない。琉球語の文典に至つては、今迄どの国語でも出版されてゐない。土地の人は――文化の程度はかなり高いが――文法と云ふ科学の存在さへ知つてない。だから、著者は東洋言語学の学徒の前に立つて、大分遠慮しながら、今発表せんとするこの成果に到達する迄に、相当艱難な研究の途を辿らなければならなかつた。

これで見ると、療養の為に遠洋航海の途に上られた先生が、遂に日本の地に辿りついて、其処に一身を打込むべき仕事を見出された動機の、幼にして外戚の祖父バジル・ホールの著書を耽読されたことにあるは言ふまでもなく、後日七島灘を渡り、日本語の姉妹語を南島に発見して、その科学的研究を遂げられた結果、日本語の研究に光を投ぜられた動機の、前掲書の附録クリツフオード(H. J. Cliffrod)の「琉球語彙」(Vocabulary of the language spoken at the Great Loo-choo Island, in the Japan sea)を一読されたことにあつた事も、想像するに難くない。その研究資料について、先生は次の項にかう書いて居られる。

この資料の幾分は、一八九三年に、親しく琉球で旧王都首里の教養ある人達から、余は一八九四――五年に、東京に居合せた一人の教育ある首里人から得たものである。試みに、後者の言葉を彼の郷里の人達のと比較して見ると、何でも完全に一致してゐるので、彼から得た材料は彼の地で採集したのと同価値だと考へていゝ。しかし首里の標準語と田舎特に北方の山原ヤンバルと云ふ山地の方言との間には、かなり開きがあつて、後者には教養ある上流社会では、とうの昔廃れて了つた純古琉球の単語・熟語及び語法などが、多く昔ながらの姿で生き残つてゐる。同様なことが久米島に就いてもいえる。其処では標準的琉球語の発音や単語が、一種の地方的訛りで話されてゐる。この種の調査は、より十分な時日と「苦闘ラツフイングイツト」(注、Mark Twainの作の名、“Roughing it”を借用したもの)に打勝つ元気のある採訪家に委ねなければならない。

前にも述べた如く、この採訪は琉球の運命を決定すベき日清戦争の一年前で、正確な琉球語の話されてゐた時代だから、先生の資料は比較的正確なものといつていゝ。「旧王都の教養ある人達」の一人には、『沖縄対話』を編纂した護得久ごえく朝常氏があつた。この人は旧按司で、教養のある王族であつた。当時五十台で、存命中に私も屡々会つたことがあるが、実に上品な琉球語を操つて居られた。チエムバレン先生も言はれてゐる如く、『沖縄対話』にはなるほど間違ひがいくつかある。それは安良城先生も指摘して居られた。だがそれは、一つには仮名では琉球語を完全に写すことが出来ないのと、二つには已むを得ず日本語を直訳した所とがあるだけで、さう非難すべきものでもない。一例を挙げると、スから転じたsiは、殆どスと書いて、シと区別してゐるが、ヤガ(であるが)等のスは悉くシになつてゐる。これをチエムバレン先生は、siと正しく書いて居られるが、しかし時偶tsiをchiと誤記された所がいくつかある。琉球語ではネから転じたniは欧羅巴流に発音し、在来のニは国語流に口蓋化して発音し、二者を区別するので、護得久氏もはつきり区別して居られたが、『沖縄対話』には両方共ニと書いて区別してゐない。チエムバレン先生も両方共niにして居られるが、これはその頃、今の琉球語のやうに、在来のニがなくなつて、ネから転じたものとの間に、区別がつかなくなつてゐた筈はないから、チエムバレン先生が注意して聞かれなかつた為と思はれる。若しその区別のあるといふことに気がつかれたら、それ丈でも原始日本語三母音説を考へ直されたに違ひない。序に、首里語には内裏言葉と「おやぐに言葉」(護得久氏などの大名の言葉)と士族の言葉と平民の言葉と四つの言語層のあつたことを附記して置く。「東京に居合せた教育ある首里人」とあるのは、その頃或る法律学校に学んでゐた、桃原良得氏といふ上流社会の青年で、この人も私は能く知つてゐるが、その頃二十四五歳位で、発音が正しかつた。実際先生が述べられた如く、彼の言葉は郷里の老人達のと完全に一致してゐた筈である。「日琉両語の比較」中に、「私は一八九三年の春に琉球を訪れたが、帰京後東京で教育ある琉球人を見当てゝ、最近二年間何日おきかに、かうしてその言語の研究を続けて来たのは何よりであつた」と見えてゐるやうに、桃原氏自身もその都度俥で迎へられて、先生のお手伝ひをした経緯を能く話してゐた。主として語法について、根掘り葉掘り質問を試みられ、それが済むと、沢山単語を採録されたとのことだが、其次にお伺する時には、前の時に教へて上げたのを応用して、間違の少ない琉球語で話して居られた、と桃原氏は語つてゐた。たゞ惜しむべきは、当時は今日と違つて、島嶼間の航海が至つて不便で且つ危険であつた為に、半生を旅行家として送られた流石の先生が、宮古八重山を採訪されなかつたことで、若しこの両方言をも加へて、比較研究を試みられたとしたら、先生の業績にはもつと見るべきものがあつたに違ひない。前掲書に次のやうなことも書いて居られる。

琉球滞在中に、漢字交りの仮名書きの古謡一冊と別に首里区長西(常央)氏の所蔵本の珍写本二冊を見たが、県知事の斡旋で、何れも滞在中に写して貰つた。後者は清の康煕五十年(一七一一年)、王府の命によつて編纂された特殊の廃語並に熟語の辞書で、前者はこれより一世紀も前のもので、西暦一六二三年の日附があるが、王家の祭祀の時に謡はれた古詩即ち神歌であるらしい。無論かうした校本の研究には、大なる困難が伴ふものだが、其の上借り物の不適当な文字で表記された為に、困難の度が倍加されてゐる。意義も発音も同様に不正確で、この自称探険家も、一歩毎に足下の土が崩れ去るやうな思ひをしなければならない。兎に角今のところ自分は、例の書に対して満足な論文など発表する柄でないやうな気がする。

「清の康煕五十年、王命によつて編纂された特殊の廃語並に熟語の辞書」とあるのは、この稿の壁頭で触れた琉球内裏言葉の辞書『混効験集』のことで、「西暦一六二三年(明の天啓三年)の日附がある、王家の祭祀の時に謡はれた古詩即ち神歌」は『おもろさうし』の巻二十二の「みおやだいりのおもろさうし」(公事の神歌双紙)の事である。といふのは『おもろさうし』の巻三以下の二十巻は明の天啓三年(一六二三年)に結集されたもので、終りの巻は、その名称の示す如く、王家の祭祀の時に謡はれたものであるからだ。この終りの巻はそう難解でもないのに、先生は兎角一瞥して匙を投げられた。之をもしゆつくり研究されたとしたら、琉球語の時代的考証が出来て、もつと立派な結論を得られたことはいふまでもない。因にいふ。沖縄県庁の蔵の中には、明治二十三年頃、時の知事丸岡莞爾氏(琉球文化を重じた人)の編纂に係る琉球史料六十余冊があつて、その中に『おもろさうし』二十二冊も這入つて居り、十六世紀の初葉から十七世紀の初葉に至る迄の琉球文の金石文を収めた『琉球国中碑文集』もあるのに、これが先生の目に触れなかつたのは、残念なことである。県庁の役人達が、先生をたゞの毛唐だと思ひ、見せても読める気遣はないと考へて、わざ〳〵蔵から持出してまでは見せなかつたのか、それともこの時代は琉球の旧事物を破壊するに急であつた為に、さういふ文献のあることを忘れてゐたのか、その辺は判然しないが、多分は後者が事実に近いらしい。といふのは、田島先生は明治廿四年に、学友で暫らく沖縄の師範学校に奉職してゐた清水といふ人から、彼の地には五十巻ばかりの琉球語で記された文書があると聞かされて、それを研究する目的で、二十六年に沖縄に赴任されたのに、漸く一年も過ぎてから、廿七年にやつと琉球史料六十巻の県庁の蔵の中にあることを嗅ぎ出して、『おもろさうし』の研究に着手されたのを見ても知れる。田島先生はもうその頃には首里語を首里人同様に操られたばかりでなく、オモロの姉妹詩のクヮイニャ・琉歌・戯曲等の研究を一通り完成し、そろ〳〵宮古八重山などの方言や民謡の研究に着手され、廿七年の秋頃には例の史料本中の『おもろさうし』を全部謄写して、安仁屋の原本との校合までして居られたが、もしチエムバレン先生が、一年おくれて、採訪されたとしたら、田島先生は喜んでその資料を提供されたに違ひない。

兎に角、チエムバレン先生の琉球語の研究が、四十年前の首里語といふ限られた範囲内で行はれて、言語の研究に最も必要な比較研究と時代的考証とが欠けてゐることについては、先生御自身もこぼされてゐるが、ではその研究の成果は誤つてゐるかといふに、決してさうではない。この三十年間、私は主として『おもろさうし』その他の南島の歌謡の研究に没頭し、傍々支那その他の文献に現れた琉球語学資料を渉猟して、琉球語の時代的考証に腐心し、近来幾人かの青年学徒も、宮古八重山及び奄美大島諸島の方言を蒐集して、比較研究上の効果を収めつゝあるが、これらの光に照らして、先生の説を再吟味する時、枝葉の点では訂正さるベきものが多く、主要の点でも、原始国語三母音説や原形動詞一元論の如きは、動揺を来たしつゝあるに拘らず、余は自分たちが集めた資料で、却て裏書きされるのを見て、私は今更のやうに先生の烱眼に服するものである。

左に前掲書中より琉球語の系統に関する項を引用して見よう。

一部の物好きな宣教師は別として、琉球語も亦アツシリヤ語が、本職のヒブライ語学者以外には、学習する者もゐないやうに、日本語に通じてゐない人達には、殆ど研究されてゐないらしい。それで、次に試みる琉球語の文法的説明も、両語よりも古い語の遺物又は共通祖語が見付からない時だけ、琉球語と日本語との両者を説明するのが目的だから、主として両語の比較研究の見地からしたものである。この小語族を図表で示すと、次の通りにならう。仮説的のものは、イタリック(こゝでは、括弧中に入れる)で印刷する。

    / 古代日本語 ――近代日本語
(祖語)
    \(古代琉球語)――近代琉球語

これに大琉球と台湾との間に碁布する宮古島及びその他の島嶼も加へられる筈だ。余り知られてゐないこの島々は、西暦十四世紀末葉まで、その独立を保つてゐたので、その言葉も琉球語が日本語と異なる程度に、琉球語と違つてゐる、といはれてゐる。

もう、オモロ及び金石文のあることがわかつてゐるからには、古代琉球語の括弧は取つてもよからう。宮古八重山の方言についていはれたのも当つてゐる。序に、宮古島には四百年前のアヤゴといふ史詩が語り伝へられたのを、今から二百年前に採録されたことを附記して置く。それから、先生は、この図表を説明して、

両国語の語法を具さに比較すると、語詞論アクシデンスに於ても、又措辞論シンタツクスに於ても、根本的一致の存することがわかる――しかも其の一致たるや、目に付き易い細目の差異と共に、イスパニヤ語とイタリヤ語との間に存立する関係そつくりである。単語の場合も亦同様である。もし両国語の祖語なるものがあつたとしたら、日本語はその或る部分を、琉球語はその他の部分を、忠実に保存してゐる。――但、二三の特殊の点では、近代日本語が上代日本語を代表するよりも、琉球語のそれを代表することが、より忠実であるとさへ言へる。それは特に動詞の語尾変化に於いて著しい。つまりは両国語の相互的関係を、イスパニヤ語とイタリヤ語とのそれに、否むしろイスパニヤ語とフランス語とのそれに比較しても、大過はなからう。

と言はれてゐる。二三の特殊の点で、琉球語が日本語よりも保守的だといはれたのは、主として琉球語が三母音しか有してゐないことや、その動詞の活用が単純で、奈変に似てゐることを指して居られると思ふが、よしこの二つが事実でないとしても、他の多くの点で、この説は十分維持される。わけても、両国語の相互的関係を、イスパニヤ語とフランス語とのそれに比較されたのは、傾聴すべき所であると思ふ。先生は八歳から十五歳まで、仏国ヴェルサイユの祖母の膝下で育てられ、其の間に各国語を学び、十三歳の時かに西班牙にも居られて、イスパニヤ語も操られたとのことだから、先生の比較はその研究と実感とから来たもので、琉球語を独立した国語と見るか、日本語の方言と見るかの問題は、暫らくおいて、この相互的関係については、先生の如き比較すべき二対の姉妹語を能く研究し、これを操る人にして初めて云々し得る、と私は考へてゐる。先生はまた琉球語の分岐した時期や事情などについて、次の如く憶測を逞しうして居られる。

吾々は、人皇第一代の神武天皇が、国の最西端から興つて東征された、といふ伝説を信じてゐる。地図を一瞥したら、日本の中で九州が亜細亜大陸に最接近した部分であることがわかるが、その九州には、対馬といふ小島が便利な飛石のやうに附いてゐる。この楽な路から、例の征服民族は、西暦三世紀前に、九州へ渡つたと見ていゝ、――この世紀に支那の史家に採録された地理上その他の名称等(注、邪馬台国、一支国、末盧国、卑狗、卑奴母離、卑弥古、狗古智卑狗等々を指す)には、まがひもなく日本的の響きがある。伝説の語る所によれば、侵入者達は恐らく九州を立つて、道を東北に取り、ゆく〳〵先住民族やさういつたやうな団体を征服しつゝ、進軍したであらう。西暦八世紀頃に、北緯四十度の辺まで進んでゐたこの植民の進行は、いまだに継続してゐる。蝦夷は今でこそ日本人で一杯に填まらうとしてゐるものゝ、彼の先住民族の人口も、今なほ相当の数字を示してゐる。思ふに例の大部隊が東北に移動しつゝある間に、迷ひ子になつた小数の落伍者や弱者たちは、南方で遣つてゐたに違ひない。――多分生存の競争に負けて、南部九州の鹿児島湾頭から、現今大琉球として知られてゐる所に、梯子のきざはしのやうになつて連なつてゐる島嶼へ、はる〴〵落延びて、その隠れ家を見出したのではあるまいか。歴史は中世紀頃にもこれに似通つた落ち人の群の到着したことを物語つてゐる。それより早い時代に、同様な事件が起らなかつたと、どうして言ひ得よう。人種や言語の近似については、これで簡単に説明がつくが、でもそれには、長い世代と遠隔な距離との為に、著しい差異が生じてゐる。

かうして、先生は琉球語を日本語の姉妹語であると断定された。従来相似又は相異の第二の言語が無いと考へられ、従つてその孤立といふ事実が、日本語の研究を不確実不結果のものたらしめたが、今や茲にその姉妹語の発見によつて、事情は一変せざるを得ない。この意味に於て、先生の業績は永久に記憶されるであらう。

前に触れて置いたやうに、琉球語には保守的な部分ばかゆでなく、進歩的な所もあるから、現在の諸相を無条件で採用して、祖語を再建することは、危険な業で、先生の霊を慰める道ではあるまい。先生も方言の比較と時代的考証とは、十分な時日と困難に打勝つ勇気のある他の採訪家に委ねなければならないと言はれたから、琉球語研究の学徒は結論を急がず、おもむろに先生が残された未開拓の部分を掘りかへすべきである。

回顧すると、私が初めて先生の不朽の著『琉球語文典並に辞典に関する試論』を見たのは、明治三十年頃、田島先生が、沖縄を引上げて上京された頃であつた。その頃まで先生は『おもろさうし』の研究を続けて居られたが、伊江男爵家から、例の著書(チエムバレン先生から贈られた)を借りて来て、頻りに読んで居られたのを、私も時偶拾ひ読みして、発音矯正に資する所があつた。もとより高等学校の受験準備中で、将来の方針もまだきまらない時であつた。ほんとに琉球語の研究をやる気になつたのは、三十六年に東大の文科に入つた時で、その頃まで田島先生は「おもろ」の研究を続けて居られたが、私が言語学を修めると聞いて、非常に喜ばれ、『おもろさうし』外の琉球語学材料を悉く私に譲つて、他日「おもろ」の研究を大成してくれと委ねられた。それ以来私は「おもろ」の研究に従事したが、その翌年鳥居竜蔵博士を案内旁々帰省した時、同博士からチエムバレン先生の著書を恵与されてから、それを土台として、両先島及奄美大島諸島の方言の比較研究を始めることになつた。学校を出るとすぐ帰郷して、研究に没頭しようとしたが、初めの十年程は道草を食ひ、後の二十年間は病苦と闘つたので、私の研究は余りはかどらない。そして田島先生は私の「おもろ」研究の成果を見ずして、数年前に物故された。未見の師チエムバレン教授も、二月二十五日に昇天されたが、先生はもとより私如き無名の学徒の存在さへも知られなかつた筈だから、生前折角蒔いた琉球語研究の種子は磽地に落ちたと嘆息されたこともあつたであらう。

私は一日も早く『おもろの研究』と『琉球語大辞典』とを完成し、若し健康が許したら、『おもろ文法』と『琉球語の比較文法』とを物して、責任を全うしようと思つてゐる。


初出
『国語と国文学』第十二巻第四号(昭和十年四月一日・至文堂)「チエンバレン氏記念特輯」号所載(未見)
底本
伊波普猷全集第八巻(昭和50年9月26日初版第一刷発行、平凡社、pp.567—583.)