爲相本土左日記の一解釋

爲相本土左日記の性質について、さき比池田龜鑑・中村多麻兩氏の間に論爭があつた。爲相本と稱するのは、烏丸光廣の奧書ある本を近世後期に書寫した池田氏藏の一傳本であつて、今便宜池田氏の稱呼に從つたのであるが、その本文は他の土左日記の流布諸本に對して多くの相異を有ち、甚だ珍しい獨自異文をも含んでゐる。最初、池田氏が岩波文庫本土左日記〈昭和五年六月刊〉の解題に於て紹介し、これを貫之草稿本の系統かとする假説を述べられたのに對して、中村氏は「〈定本〉土左日記〈日本研究並に校註〉(昭和十年五月刊)に於て、寛永年間前後に何人かが爲相の名を冒し、恣に按排變改して詐り作つたものとしてそれを斥けられたのであるが、その後、池田氏は前の自説を改めると共にこの中村氏の説を駁して、「古典の批判的處置に關する研究〈第一部〉(昭和十六年二月刊)には、爲相筆と鑑せらる本に光廣が縱横に改竄を加へ、更に後に一二の本によつて改訂されたものであるといふ風に解釋を改められた。次いで、これに對して中村氏の再び自説を主張される論文「池田氏所藏爲相本の價値」(昭和十六年十一月「文學」所收)が發表され、又池田氏のそれに應へられた「爲相本土左日記の成立」(昭和十七年二月號「文學」所收)なる論文があり、夫々に相反駁して讓らず、爲相本土左日記の本文性質については未だ明確な解明を示されてゐない有樣である。兩氏の考説の詳細をここに紹介する事はもとより不可能であるから、委しくは前記の諸稿について御一讀を俟つ他はないが、要するに、この爲相本土左日記の本文をもつて、改竄改訂乃至は全くの僞作による所産とし、光廣乃至はそれ以後の時代に至つて制定又は成立したものとする點に兩説相近いものがあると思はれる。とすればこの特異な本文を有つ土左日記唯一の一異本も、本文批評上の價値は直接的にはさして高からずと評さねばならぬことになるのであるが、果してそのやうに、この本文を近世に於ける恣意的營爲になるものと解して誤ないのであらうか。自分はこの本の本文的性質について兩氏の見解とは全く異つた解釋を懷いて居り、寧ろ私かにそれがより素直にして妥當な解釋ではなからうかと思はれるので、敢へてここに私見を述べ、些か兩氏の所説についても蕪辭を加へる事を容していただきたいと思ふのである。

爲相本土左日記の解釋にあたつて最も重要な手がかりとなるのは、いふまでもなくその奧書の正當なる理解である。池田氏所藏本の卷末に存する奥書は、これを整理して

の三つの部分に分けられるのであるが、(二)の奧書は(一)の奧書を中にしてその前後に分置併記されてをり、爲に稍々雜然とした樣相を備へてゐる。從つて、この本の奧書の解釋に際しては、まづ第一に(一)・(二)の奧書混合の問題、第二に(三)の光廣の奥書自體の解釋、第三にこれら三種の奧書の相互關係といふ三つの問題に分析して考へる事が出來るやうに思はれるのである。

先づ便宜上烏丸光廣の奥書について考察する事にしよう。その全文は

〈本云〉這本爲相卿眞蹟也。然漏脆聊書㆓入之㆒畢。雖㆓鳳傍之鴎非㆒㆑無㆓其憚㆒、繼㆑絶補㆑闕者所㆓古人好㆒也。忽忘㆓冷笑㆒染㆓兎毫㆒者乎。
  寛永丁丑仲夏天                                     亞槐藤光廣

といふのであつて、爲相本に對する池田・中村兩氏の見解の相異も、又それらと私見の異る所以も、一にかかつてこの奥書の解釋如何に存してゐるものと考へられる。中村氏は、ここに「這本」とあるは(一)・(二)の奧書をもつ本であると解して、それら(一)・(二)の奧書には一として爲相の書いたと思はれるやうな又さう想像し得るやうなものがないから、從つてこの(一)・(二)の奧書ある這本を爲相卿の眞蹟であるなどと書きそへてゐるこの本の如きは、當然爲相の名をかたる僞作でなければならぬと述べて、この光廣の奧書の意味については別段説明をも與へてゐられない。しかし、この説は極めて輕卒な獨斷を犯してゐられるやうに思はれる。現在(一)・(二)の奧書が(三)の光廣の奧書よりも前に位置してゐるからといつて、それが必ずしも時間前な記載の前後を意味するものでない事は改めていふまでもない以上、同氏の僞作説の前提となつた「這本とあるは(一)・(二)の奧書をもつ本である」といふ想定は、未だ許されないといはねばならないであらう。池田氏が言はれたやうに、(一)・(二)が(三)より後に別本から移されたといふ場合も、多くの他の實例に徴して考へ得られるからである。のみならず寧ろ逆に、光廣が「這本爲相卿眞蹟也」と鑑してゐる所から見れば、その本は恐らく鎌倉時代の書寫になる古鈔本で、當然爲相より遙か後世にあたる實隆の奧書などは有しなかつたであらうと考へるのが妥當であり、假りに(三)の奧書が記された當時既に(一)・(二)の奧書も存してゐたとしても、それは底本の爲相筆と見られるのとは別筆になる後の加筆であつたとしか考へられぬ筈であらうと思はれる。從つて中村氏の如き理由で僞作を云々する事は未だ輕卒と評さねばならず「這本」とあるは單に光廣によつて爲相の筆と鑑定された一古鈔本をさすものとして解すべきであらう。延いて、これを僞作とする所からこの光廣の奧書をまで或は僞跋ではないかと疑ふ必要も、又その理由も存在しない事になるであらう。光廣は古筆の鑑裁に長じ、その極書を奧に付した古鈔本の類も世には多く存してゐて、中には京都某家所藏の和漢朗詠集一卷の如く、中世末期乃至は近世初頭の模本の奧に、それを法性寺殿忠通の筆とする光廣の奧書を僞筆した如き僞跋の類も絶無ではないが、管見、に及んだその信ずべきものだけでもかなりの數に及んでゐる。特に寛永の年紀を有するものが大部分をしめ、職業的な古筆家の單なる鑑裁の極書と異つて、文藻の見るべきものが多いのが特色であるが、この爲相本土左日記の奧書の如きも正にその適例といふべく、種々の點からこれを光廣の奥書と認めて毫も差支は存しないと信ずるのである。

光廣の奧書は、これをそのまま光廣の自記せるものと認め、(一)・(二)の奧書とは暫く別個に解すべきものであらう。次に池田龜鑑氏の御説を見ると、同氏はこの奧書を解して

光廣の識語は、これをすなほに解釋すれば、光廣が爲相自筆と稱せられる一本〈所謂這本〉を得て、その本直接か、又は臨寫本〈恐らく臨寫本であらう。〉かに「繼絶補闕」即ち意味を通じ易からしめる目的で、一方では「雖鳳傍之鴎非無其憚」と謙遜し、又一方では「繼絶補闕所古人好也」と自ら慰めつつ、つひに興にまかせ、「冷笑を忘れ兎毫を染め」た〈恐らく行間に書入れられたのであらう。〉ものと見るべきであつて、云々(「文學」第十卷第二號)

と述べ、以て、爲相自筆と稱せられる本の難解な箇所に光廣が朱を入れ、大部分を全く私意によつて文意の理解され易いやうに改めた事實を意味するもので、その補正は改竄に等しい程度の大々的加筆であつたと認めてゐられる。けれどもこれが果してこの奥書のすなほな解釋といへるであらうか。思ふに、繼絶補闕といふのは、決して「意味を通じ易からしめる目的」で難解な場所に施された加筆を意味するものではないであらう。それは「漏脱聊書入之」といふ語句と呼應する事からみても單に爲相筆と認めれる本に存する脱漏を補筆したにすぎないものであることは明白である。漏脱は小にしては脱字脱文を意味し、大にしては料紙の落丁散佚に基く場合が考へられるのであるが、この場合はその何れであつたらうか。元來、胡蝶裝又は大和綴になることの多い古鈔本にあつては、動もすれば蠹害や綴絲の切斷によつて料紙の若干が散佚する機會が多く、さうした場合にその漏脱の部分を他本によつて補ふは古人のこれを好みし處、中世から近世にかけてこのやうな補寫の實例は枚擧に堪へないほど數多く存してゐる。例へば、南北朝時代の書寫になる某家藏古今和歌集の如き、その奧に烏丸光廣が奧書して

這古今集之筆者、自㆑始至㆓第五秌哥之下壬生忠岑秋夜哥㆒、左中將爲道朝臣也。同部自㆓讀人不知秌露哥㆒至㆓素性法師紅葉ゝ歌㆒、法印定爲也。同部自㆓興風深山歌㆒至㆓第十六哀傷部之終㆒、左中將爲冬朝臣也。自㆓第十七雜部㆒至㆓黄門奧㆒、大納言實久卿也。紛失之後實久卿書續了。

といつてゐるやうに、その卷尾の部分は室町時代の補寫になるもので、正しく「卷々改㆑觀、部々点㆑氣、先賢後哲揆一而大成、恰相㆓似四聖善縁㆒、奇珍絶綸也」(寛永十一年光廣識語)ともいふべき風趣を備へてゐる。而してそれは光廣自身も好んで傚ひ行つた所であつて、竹柏園所藏傳豐原統秋筆千載集や北野克氏所藏の鎌倉中期の書寫になる拾遺和歌集には卷中の數葉を補寫せる例を見るし〈北野氏蔵本は卷末に稍々散佚ありしと思しくて、爲に光廣の識語は存しないが、この補寫の部分は筆蹟からみて光廣の筆になるものと思はれる。〉、又里見忠三郎氏所藏傳爲家筆時代不同歌合にあつても書中に光廣の補寫四葉を存してゐるのである。恐らくこの他にも管見の及ばざるものが多々あるであらう。しかもこの時代不同歌合の奧には、光廣が得意の才筆を弄して、

右寄合、爲家卿所㆑染㆓花翰㆒也。漏脆少々予補㆑之。雖㆑有㆘續㆓狗尾㆒之憚㆖、時代不同之儀、頗相類者乎。
  寛永十一年初秌上澣                             亞 槐 藤 (花押)

と述べてゐる。これはまさに文言に於ても、かの爲相本土左日記の奧にある光廣の奧書に類するものであつて、ここに「漏脱少々予補㆑之」とあるのが落丁箇所の補寫の事實を指すこと明白なのであるから、推してまた爲相本土左日記に「漏脱聊書㆓入之㆒畢」といふのも同じ事實を指すものと斷じて差支へはあるまい。勿論同時に若干の脱字脱文が行間などに補はれたかもしれないが、單にそれのみでは特に奧書して、斷る必要もなかつたであらうと思はれるのである。或は「續㆓狗尾㆒之憚」といひ、或は「鳳傍之鴎非㆑無㆓其憚㆒」といふのも、共に先人のすぐれたる芳翰に次ぐに自らが補寫の部分の陋筆を以てせるを謙遜した辭と解すべきで、「鳳傍之鴎」を以て必ずしも行間の書入であるとのみ限定する要はないであらう。「繼絶補闕」の語も以上の如き落丁補寫の事賓を指すものとして解するのが、最もすなほにして妥當な解釋であると信ずるし、その事實はまた既に述べたやうに、古人の好みし所でもあつたのである。

尚この光廣の奧書に關して、池田氏は「寛永十四年五月、光廣にこの本の原本を成立せしめ、その奧に「這本」以下の識語を書いたのである(「古典の批判的處置に關する研究」(第一部)一二二頁)と述べ、又、「光廣の云ふ「這本」は爲相筆と傳へられた本そのものを意味しその原本を光廣が模寫し、その模寫本に對して、自ら筆を加へ、その由を奧書に書いたものと解すべきである。中村氏の云はれるやうに、光廣の改竄本そのものを光廣自身が「這本」と稱してゐるのでは決してない」(同書一二三頁)とも述べて、この奥書が模寫本に於て付せられたもののやうに考へてゐられるのであるが、それは自分には首肯し難い處である。勿論光廣の奧書の文中には模寫云々の事は見えてゐないし、又模寫体の存在を中において考へなければならぬやうな理由も自分には見出す事を得ない。池田氏自らその説の根據を毫も述べてゐられない爲に分明でないが、或は若し、爲相筆と見られる本の如き貴重な古鈔本に封し、光廣が縱横に補正改竄の筆を直接に加へる筈がないといふ如き理由からであるとすれば、それは光廣の書入を全面的な本文の改竄とする既述の自らの説に婬せられた牽強と評さねばならないであらう。更には又、光廣の加筆が果して彼自らの寫した模寫本に對してなされたのであるならば、奧書の「鳳傍之鴎」の語は全くその意味をなさぬ事ともなるのであるから、〈鳳はいふ迄もなく古人の筆蹟を、鴎はそれに對して自己の筆蹟の拙なるを意味したものである。〉、以て氏の説の誤れる事は明白であらうと思ふ。更に又、同氏のやうに「這本」を爲相筆と傳へられる本そのものと解して、しかもその語を含むこの奧書は爲相筆本に存したのではないと考へるのも、決して自然な想像ではあるまい。光廣の奧書は、爲相筆といふ古鈔本の卷尾の餘白に記入されたものである事は常識的に見ても自然であり、當然であつて、從つて奧書の文中にいふ漏脱の書入もその古鈔本に對してなされたものであると見て考ふべく、この點に於ても、自分は池田氏の所説に賛する事が出來ないのである。

かくの如くして、光廣の奧書そのものには、彼が難解の箇所に私意を以て筆を加へ、改竄に等しい程度の大々的加筆をなしたと考へねばならぬやうな根據を、毫も見出す事が出來ない。のみならず、その性寛濶放澹、多藝にして趣味性は豊かであつたにしても、別に古典の考證學者でも研究家でもなかつた一古典愛好者にすぎない彼が、敢へて作品の全面にわたつてかかる面倒な校訂改竄の勞を加へたであらうとは、少くも光廣の場合に於ては他に例のない處からみても認め難い事であらう。更には又、爲相筆と稱せられる本が、それほどまでの甚しい改變を要する程に、難解な個所に富む本であつたかどうかも、恐らく實證の出來ない單なる空想にすぎないものであらう。要するにこの奧書に對する池田氏の解釋は、決して必然的なものではない。否、むしろかなりの誤解と牽強をさへ犯してゐるかに思はれるのであつて、到底これがすなほな解釋であるとはいひ得ないものと自分は思ふのである。

池田氏所藏のこの本は、光廣が奧書を加へた傳爲相筆本の轉寫本か又はその再轉寫本かの系統であつて、轉寫に際しては必ずしも原本の筆致までを忠實に模寫しようと努めないで、すべて一樣に自己の筆致に從つて書改めてしまつてゐる。爲にその本文のある部分には明かに光廣の補つた部分の存する事が奧書によつて知られるにも拘らず、それが實際にはどんな具合にどんな方法でどの程度にまでなされたかが分明でなく、そこに前述の問題の他にも種々の疑問が發生してくるのである。或は光廣以外の何人かの手も加はつてゐるのかも知れない。いふまでもない事ではあるが、前節の始に記した定家本・實隆本兩系統の奧書、並にそれらと光廣の奧書との關係といふ問題について考へるに當つても、先づその事を改めて想起してかからねばならないであらう。

定家本・實隆本兩系統の奧書の順序が錯亂してゐる事實については、既に池田氏が明快に説かれた所であつて、〈「古典の批判的處置に關する研究」(第一部)一二三頁参照〉、二種又はそれ以上の寫本がその成立に關與してゐゐ古寫本又はその轉寫本にあつては紙面のある制約下に於て屡々起る現象であり、その實例も乏しからず、よつてここに再説する要もないかと思はれる。而して今、ここにこの兩系統本の奧書が載せられてゐる事は、この兩系統本が光廣の奧書した傳爲相筆本と何らかの交捗を有ち、以て現存する池田氏藏本の成立に關與してゐるものである事を語つてゐるのである。ただそれにしても、定家本系統本と實隆本系統本の二つの本が直接に傳爲相筆本に交渉をもつたのか、或は兩者の何れか一方に他方を校訂して成つた一本〈從つて二系統の奧書の錯亂は既にそれに於てなされてゐたと考へられる〉が關與したのであつて、他方の一つは間接的に參與したにすぎぬのであるかは明白ではない。この兩系統本は中世末から近世にかけて特に廣く流布した本で、又互に影響して混合した一つの系統をも作つてゐるのであるから、右のいづれの場合ででもあり得るのであるが、奧書錯亂の事實からみると或はむしろ後者の場合の方が可能性が多いのではないかとも想像される。とまれ、それはいづれであるにしても、そのやうないはば流布本系統に屬する本が、何時いかにして又どの程度にまで、この特異な一異本である傳爲相筆本に對して影響してゐるのであらうか、それがこの池田氏藏本を通して傳爲相筆本の性質を考へようとする場合に、かなり重要な問題となつてくるのである。

まづそれが傳爲相筆本と交渉した時期について考へると、第一に光廣が手を加へる以前に既に傳爲相筆本に校合されてゐた場合、第二に光廣が補寫の書入に際して右の如き本を使用した場合、第三に光廣以後に何人かが傳爲相筆本又はその轉寫本に右の如き流布本を以て校合を施した場合の三つが考へられると思ふ。これについて池田氏は、「この本(私云池田氏蔵本をさす)に對する定家本實隆本の校合及び奧書は、光廣が改竄を加へた後の所爲である云々」〈「古典の批判的處置に關する研究」(第一部)一二三頁〉と述べ、「光廣加筆の本文はその轉寫本に、光廣か又は他の何人か(恐らく光廣自身と解すべきであらう)が」(同書同頁)行つたものと推定してゐられるのであるが、その根據は明確でなく、同じ章の後に附された註記(同書、一三五頁「註一」參照)に於ては、或は光廣以後の何人かの所爲であるかもしれないとも述べてゐられゐ。第一の光廣以前とする考は、次の二つの理由で恐らく否定されるであらう。傳爲相筆本は光廣の眼に入つた當時既に落丁に基づく漏脱部分を存してゐたのであるが、若し假りに光廣以前に何人かが〈近世初頭を遡る人ではあり得ない〉かかる奧書をもつ流布本と校訂してゐたとするならば、恐らくその際さういふ落丁の部分もその人によつて補はれてゐた筈で、敢へて光慶の補寫を、まつまでもないであらうし、又光廣も當然その由を奧書に斷るべき筈であると考へられる。〈その補寫された部分が再び落脱して光廣の當時そこが闕けてゐたとすればこの不審は除かれるが、さういふ偶然は殆ど考へ難い事である。〉更に又、池田氏藏本に於て、光廣の奧書にのみ「本云」と、記して、他の定家本・實隆本の奧書の方にはそれが無い事も一つの反證となるであらう。元來「本云」は光廣の奧書ある本を轉寫した人が、それが自己の記したものでなく、既にその祖本に於てさう書いてあるといふ意味で標したのであるから、若し定家本・實隆本の奧書が光廣以前に存してゐたのであるなら、これに於ても當然「本云」と標すべき筈であるからである。かくて光廣以前とする考は妥當でないと考へられるのであるが、同時に、次の光廣自らがこの兩本の奧書ある本で校訂補寫して、その奧書をここにうつしたと見る考も、同じくこの後者の理由によつて否定しなければならないであらう。尤も光廣の脱漏補入に際しては、當然定家本や實隆本の如き近世初期に廣く流布した本が用ひられたであらうとは容易に想像されるのであるが、それが必ずしもこの兩系統本の奧書が光廣によつて記入されたといふ證據とはなり得ない事はいふ迄もなく、現に前述の北野氏藏拾遺集や里見氏藏時代不同歌合にあつても、光廣は補寫に用ひた本の性質や奧書については毫も述べてゐないのである。寧ろ、光廣の脱漏補入が必ずしも學問的な意圖のもとに行はれたものでないらしい事や、光廣の奧書の中に些かも校合本の事にふれてゐないのを見ても、それらの定家本・實隆本の奧書は光廣自らの加へしものに非ず、恐らく光廣以外の後人によつて後にうつされたと考へるのが妥當であらうと思はれる。

かくて定家本・實隆本兩系統本の奧書は、光廣の奧書をもつ傳爲相筆本の轉寫本に對して、光廣以後の何人かが校訂を加へた際に、その本の奧書をここにうつし取つたものと解すべきであらう。さうして始めてすべてが自然に解決されるのである。定家本・實隆本の奧書が直接傳爲相筆本に記入されたと見る事は、先の「本云」の有無の問題から考へて許されないから、それは傳爲相筆本の轉寫本に於て記入されたと見るべきである。恐らく何人かがまづ傳爲相筆本を轉寫して、それに定家本系統・實隆本系統の二本又はその兩系統本の混合本を以て比校し、且つその奧書を光廣の奧書の前の餘白に記入したと見られるのであつて、その時底本たる傳爲相筆本に存した光廣の奧書に對しては、比校本の奧書と區別して「本云」の語が標されたのではないかと考へられるのである。池田氏藏本は、恐らくそれの轉寫本乃至はその系統本であるのであらう。現在、池田氏藏本に於ては、その本文の傍に「イ」と標した夥しい流布本との校合が存するのであるが、それは多分右の定家本や實隆本、又はその奧書ある本との比校の際のものかと思はれる。なぜかといへば、さうした流布本系統の「イ本」との校合が、光廣以前に行はれた筈もなく、光廣が行つたのでもない事は、先に定家本・實隆本の奥書記入の時期について考へたときに述べたのと全く同じやうな理由によつて考へられるのであるから、從つてその流布本系統なる「イ本」との校合も當然光廣以後の後人によつてなされたものと見るより他なく、とすれば勢ひそれを定家本・實隆本の奧書ある本との校合及びその奧書轉載の事實と結付けて解しても、差支ないのではないかと思はれるからである。かくて我々は、現存の池田氏藏本に於て、本文に傍記された異本との校合及び卷末の定家本・實隆本の奥書とを、光廣以後の何人かの營爲になるものと認めて、それらを池田氏藏本から除去して考へる事により、一歩古く光廣當時の本の姿にまで複原する事が出來るのではないかと思ふのである。

池田氏所藏爲相本の卷末に存する三種の奧書並にその成立については、ほぼ以上の如く考へるのが至當であらうと信ずる。かくて我々は上述の如くして光廣當時の姿をある程度まで複原して想察する事も可能であると考へたのであるが、更に一歩進んで、それから光廣の營爲になる脱漏補入の部分を芟除し、以て傳爲相筆本本源オリヂナルの姿にまで還元する事が出來はしまいか。光廣の奥書に繼絶補闕とあるのが、果して上に推定せる如く脱丁の補寫を指すものであるならば、次に能ふべくば、池田氏藏本の本文についてそれを指摘し、それによつて自分の推定の正しきを實證すると共に、更にその部分を除く事によつて、一層近く原典に復歸するに努めねばならないであらう。

池田氏藏本の本文から、光廣の脱漏補入の部分を推定するに當つて、自分は次の二つの假定のもとに吟味してみたいと思ふ。即ち、その一は、光廣が補入に際して使用した本は、必ずしも傳爲相筆本と同系統の本とは限らず、恐らくは手許にありあはせの、從つて當時の流布本たる定家本や實隆本・宗綱本などの系統のものであつたらう事、その二は、池田氏藏本には轉々書寫の間に於て或は若干の些少なる本文の轉訛變改があつたかも知れないといふ事の二つである。若しこの假定が果して許されるとすれば、池田氏藏本に於て流布本と異つた特異本文を示してゐる箇所は、ほぼ傳爲相筆本の本文を傳へるものといひ得べく、その流布本に同じき本文を示す箇所の中にこそ、光廣の補入になる本文が存してゐるに相違ないと考へる事が出來よう。從つて、光廣の補入が脱丁の補寫である事を本文について指摘し證明する爲には、結局少くも傳爲相筆本の一葉分――假りに青谿書屋本の如き桝型大和綴で十五字詰九行の字配であつたとしても、表裏で二百七十字以上を含む――に相當した長さを有つ流布本に同じき本文個所が、一箇所又は二個所以上、この池田氏藏本の本文中から指摘されなければならないと考へられるのである。

かやうにして、池田氏所藏爲相本の本文を、世に流布せる他の蓮華王院寶藏貫之自筆本の系統なる定家本・宗綱本・實隆本や青谿書屋本などの本文と比校して、その獨自異文の分布について嚴密に調査してみた結果は、〈これについて「古典の批判的處置に關する研究」第三部に據る所多し。〉、その夥しい量にのぼる數多くの異文は日記の全面にわたつて極めて密に分散して居り、異文と異文との間隔が二百數十字以上を算する如き例は遺憾ながらこれを見出し得なかつたのである。併しながら、一口に異文といつても、その質は樣々であつて、當然誤寫に基づくと思しきものもあり、或は書寫の際の無意識的な轉訛によるかと思しき一字二字の小異もあり、或は又、單なる轉訛や誤寫とは到底認められないやうな長きは數字乃至は十數字にわたる異文も存してゐる。もとより池田氏所藏爲相本の獨自異文總數の八・九割はこの最後に述べた類の異文ではあるが、尚前二者の如き必ずしも傳爲相筆本の本質的な獨自異文とは目されないものも若干は存してゐるらしく、若しそれらを嚴密な獨自異文から徐去して考へるとなれば、趣は些か異つてくるのではなからうか。而して寧ろ實際的にはさう考へる方が正しいのではないかと思はれる。現存の池田氏所藏爲相本は、既に注意した如く傳爲相筆本より一再ならず轉寫を重ねてゐるのであるから、そこに轉訛や誤寫による異文の生ずる可能性も多く、又光廣が漏脱補入に際してどの程度まで學問的嚴密さを以て補寫に當つたかも保證し難い――從つて、補入の文中にも或は非流布本的な要素が絶無でなかつたかをしれない――と思はれるからである。かやうにして今一度爲相本の本文を見直して見る時、異文の密度の極めて疎なる次の二個所が、我々の注意を惹付けるであらう。

而して(A)の部分にあつては纔かにその冒頭に近く「とまれり」(諸本「とまれり」)なる一個の異文があるのみにすぎず、(B)の部分にあつても、「たち」(諸本「たち」)、「この人ぞ」(實隆本「この人ぞ」、他諸本「この人ぞ」)・「ふねの人は」(諸本「ふねの人」)なる三個の異文が認められるのみにすぎない。共にいづれも書寫の際の獨自誤謬とも見做し得る程度の些少なものばかりであつて、必ずしも系統的必然性を示す本來の獨自異文とも考へ難きもの、これを池田氏藏爲相本の他の部分における異文の質及びその密度に比して考ふれば、この二個所のみが極めて流布本に近い特殊な部分をなしてゐる事實を、何人と雖も認めざるを得ないであらう。しかもその長さがいづれもほぼ草子の一葉分に相當した長さを有つてゐる事を注意すべきである。かかる長さを有つ流布本的本文の介在は、果して何を語るものとして解すべきであらうか。自分は、この現象こそ光廣の奧書によつて想像された脱丁補寫事實の存在を、最も如實に證明するものであり、補寫に際して流布本系統の本文が混入した事を語るものに他ならないと考へるのである。

(A)の部分が流布本からの移入であつて、爲相本本來の本文に非ざる事は、或は次の如き點からも裏書きされるであらう。爲相本正月二日の條に「かうし講師」とある所は、流布の諸本にあつてもすべて同じく「講師」と記されてゐるのでゐるが、ひとり池田氏藏爲相本と極めて密接な關係にあると思はれる所の人見卜幽が土左日記附註にいふ「藤爲相卿手筆之本」にあつては、それが「新司」と記されてゐる。元來「講師」といふ語は、土左日記にあつては今一つそれよりも前の十二月廿四日條にも見えてゐるのでゐるが、そこでは池田氏藏爲相本にも附註にいふ藤爲相卿手筆之本にも、共に「新司」となつてゐるのである。「新司」といふ語の當不當は暫くとはぬとしても、この兩本が或は同本かと目する人もある程にまで極めて密接な本文的關係を有するものなる事を考へ、又現に十二月廿四日條の場合には池田氏藏本にも「新司」と記されてゐる事實を思ふと、池田氏藏本のこの正月二日條にあつても當然「新司」となつてゐなければならないやうに思はれる。かう考へてみると、ここに池田氏藏本が「かうし」と記してゐるのは、必ずしも爲相本の正當な姿を傳へるものではないと知られるのであつて、かうした流布本的要素の存在も亦、この部分が前の想像の如く補寫による流布本的本文の混入せるものなる事を、裏書きするものといふべきではなからうか。

以上の諸事實は、いづれも、池田氏藏爲相本の祖本に必ずや光廣が筆になる脱丁の補寫が存したであらう事を――それは既に光廣の奧書そのものの正當なる理解からも豫想されたのであるが――本文的事實を以て如實に實證せるものと自分は考へるのである。その脱丁補寫の個所の明確な指定は、光廣が加筆せる傳爲相筆本そのもの又はその忠實な模本でも出現せぬ限り、嚴密には不可能であるが、ほぼ(A)・(B)の二箇所あたりに存するものと思しく、この想像にしで認められるとすれば、我々はこの二個所を除去する事によつて、更に一歩傳爲相筆本本來の姿に接近し得るといへるであらう。而して、この光廣によつて流布本からうつされたと考ふべき(A)の文中に於て、「と無イまれり」とか「かうし講師」とかいふやうに他本との校合が傍書して存する事實は、それら他本との校合が光廣以後のものなりとする前節に述べた自分の想像を、證明するものとも考へられよう。更に又想像を廻らせば、この(A)・(B)の二箇所がさほど相隔つてゐない事から、傳爲相筆本は大和綴の草子で、そのうちの一枚が佚脱したのだとも考へられる。それはとも角としても、少くも、池田氏藏爲相本が他の流布本に對して有つてゐる異文的要索は、その祖本たる傳爲相筆本に於て存したものを繼承したものである事だけは、動かせない事實として認めざるを得ないと信ずるのである。

池田氏藏爲相本の本文性質について、烏丸光廣が傳爲相筆本――池田氏は青谿書屋本の原本たる爲家自筆本を以てそれに擬してゐられる――を忠實に轉寫し、その本文に對して縱横に改竄を加へ、凡そ三百六箇所の獨自異文を生ぜしめた後、更に定家本の末流一本を以て所々任意光廣改竄の原本の本文を改め、又、實隆本系統なる大島本系統の一本を以て更に改訂を加へて、夫々の校合本の奧書を卷末に集成したものであるとする複雑な池田氏の所説は、他方精緻を極めた異文の統計的調査を以て立證せんと努め、爲に一見科學的正確さを有する如き觀を與へてゐるにも拘らず、しかもそれが奧書の不當なる解釋から發して、故なく光廣の全面的な恣意的改竄を豫想して立論されてゐる以上、我々は遺憾ながら氏の所説に從ふ事を得ないのである。既に上來説き來つた如く、池田氏藏爲相本の卷末に存する奧書中には、光廣の恣意的改竄を豫想せしめる如き何等の根據を見出し得ないのであるし、又轉載された定家本・實隆本兩系統本の奧書も必ずしもこの兩本が池田氏藏爲相本の本文成立に直接關與してゐる事を語るものと解すべきではなかつた。爲相本が有する三百數個の特異なる獨自異文こそ、我々がその由來する所を究めたいと試みる所以のものであつて、それをしも充分の理由なく光廣の恣意的營爲として簡單に片付けて了つて顧みられなかつた事は、尤も我々の諒解し難い所といふべきである。いふまでもないが、獨斷と附會とは眞の實證的研究に於て我々が最も排撃すべきものでなければならないのである。

更に傳爲相筆本を以て青谿書屋本の原本たる爲家自筆本なりとする推定の如きも、未だ充分なる決定的根據を認め難いといはねばならぬであらう。池田氏がその理由とする所は、

の六條であるが、このうち一・二・三の三條は、單に爲家と爲相とを不用意に誤認する可能性のある事を示すのみで、それが毫も誤認に基く兩書同一説の積極的な必然的理由たり得ぬことは、論理的に極めて明白であつて、敢へて多言を要しない所である。四に於て、同氏が示された十個の異文例の如きも、その質・量より見れば、未だ極めて瑣々たるものにすぎず、或は偶然の暗合によると考へられぬ事もなく、到底「これ等は爲家本以外からは決して入り來ることの出來ないもの」といひ得るほどの系統的必然性を示すものではあり得ないであらう。我々は寧ろ、爲家本の獨自異文にして爲相本に傳へられぬものも、多く存する事をも考へなければならない。次に、五にあげられた假名の諸例については、平安・鎌倉時代の書寫になるものには屡々普通に現はれるものも多く、又いつれも土左日記の他の諸本にあつても傳へられてゐるものであつて、同じく理由としての必然性を有つものではない。六にあげた使用假名の類似せる諸例の如きは、これを偶然と見るか必然と見るかは、古寫本に對する觀者の經驗に應じていづれとも言ひ得るであらうが、この程度の類似の如きは寧ろ偶合として解する事も可能と認むべきである。〈假りに四・五・六が必然的な理由となり得るにしても、これらの要素は必ずしも爲家本によらずとも、蓮華王院寶藏貫之自筆本からも傳はり得る事を考へねばならぬ。〉結局、池田氏が擧げられた理由の各々は未だ積極性を有するものに非ず、その全部を以てしても尚必然的な決定的根據と認める事には躊躇せざるを得ないのである。それは寧ろ未だ傍證として許さるべき底の消極的なものにしか過ぎない。のみならず、却つて我々は、傳爲相筆本を以て爲家自筆本そのものなりとする説に對しては、爲家本に存する嘉禎二年の年紀を有する權中納言の奧書がこれには存してゐないといふ事實を、及び本文的にもそれでは光廣の恣意的改竄を空想して彌縫せざるを得ない破目に立到るといふ事實を以て、有力な反證として擧げ得るのである。

以上の如くして、爲相本の本文性質についての池田氏の所説には、遺憾ながらかなりの獨断・矛盾・附會の事實の存するを認めざるを得ないであらう。自分は前章以前に於て、それとは別個の遙かにより自然と信ずる一解釋を試みて、以て傳爲相筆本の複原につとめ、一つの原形についての輪廓をもえがいて見たのであるが、それによると池田氏藏爲相本に存する特殊の獨自異文は、概ねその原本たる傳爲相筆本より繼承せしもの、從つてその由來は既に早く鎌倉時代以前に存すると考へざるを得なかつた。かくの如く解釋された傳爲相筆本は、勿論青谿書屋本の原本となつた爲家自筆本とは別個のものであり、蓮華王院寶藏貫之自筆本又はその書寫本に源を發する他の現存する凡ゆる諸本とも、全く系統を異にするものの如き趣を示してゐるのである。

併しながら、傳爲相筆本の本文性質が果していかなる系統を引くものであるかは、今日これを輕々に斷する事は不可能といはねばならぬ。池田氏がまだ光廣の改竄を云々せられなかつた以前、この系統本を或は貫之草稿本の系統をひくものかといはれた事があるが、それも未だ確證なき一個の想像といふに止まるべきかもしれない。この傳爲相筆本が書寫されたと考へられる鎌倉時代當時は、一方に於て古典の純學問的研究が漸くその緒につき、本文の傅寫にあたつても能ふ限り原典に忠實ならんとする傾向の存すると共に、尚他方に於ては、前代以來の趣味的態度を持して本文に恣意的改變を加へることも絶無ではなかつた。從つて、さういふ風潮の存せし事を思へば、或はこの傳爲相筆本も、その根源は蓮華王院寶藏貫之自筆本に歸一せらるべきものの、平安時代から鎌倉時代にかけての傳寫のある機會に於て、かかる恣意的改變の影響をうけて本文に變貌を來したものと解する事も可能であらう。そのいづれであるかは現状では決せられず、又恐らく永久に不明であるかもしれない。その獨自本文の著しき二三の例〈傍記括弧内は蓮華王院寶藏本系統の本文である。〉

についてみても、既に諸註に於て爲相本を可とするものと流布本の如くこれらの句なくてもありぬべしとする説との對立が見られる如く、その獨自異文の吟味からは一がいにこれを後人の改變と斷定し得べき明證も見出し難かつた。かくの如くして我々は、遺憾ながらも、かくの如き特異な本文を有つ一異本が、既に鎌倉時代に現存してゐたといふ一事實を確かめ得たのみで、今は滿足しなければならないのかもしれない。それにしても土左日記の本文批判に際してこの書の占むべき特殊な位置については、今一度改めて考へ直して見る必要のあることを、ここに自分は痛感せざるを得ないのである。

底本
堀部正二『中古日本文學の研究』(教育圖書、1943年、pp.275—300.)